82号(1998年5月号)

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目  次

やっと燃えた怒りの火
「感染症新法」について
「感染症新法」問題追補
妊婦が患者に変わるとき(3)
判決紹介-エホバの証人輸血拒否事件
イギリスにおける患者の権利の法制度化の現状と課題
病んだとき何かを決定することは?

やっと燃えた怒りの火―ハンセン病訴訟・告訴宣言―

星敬愛園  島 比呂志

は新憲法が公布された翌年(昭和二二年)六月、国立癩療養所大島青松園(香川)に入園、一年後の六月、国立癩療養所星敬愛園(鹿児島)へ転園、以来五〇年、強制隔離の中で一貫して執筆活動に明け暮れてきた。そしてそのテーマは、入園当初に経験した二、三の出来事に由来している。一つは、半強制的に優生手術(断種)を受けさせられたこと、二つ目は自作の短編小説が園長検閲によって発表禁止処分を受けたこと、三つ目は忘れもしない昭和二五年五月三日の憲法記念日に、園長が一人の病友を退園処分にした事件で、二年間抗議行動を続けた結果、五日間の監禁と一年間の公職停止処分を受けたことなどである。
 以上のような事件に出合って、私は国家権力の非人道性、非人権性を痛感した。ここは新憲法の及ばない異国なのか、癩患者は人間ではないのか、日本人ではないのか、と苦悩した。したがって私の文学は、人間回復を模索した道標のようなものであり、その旅は今も続いている。

ころが平成二年六月、エイズ裁判原告第一号の赤瀬範保(本名文男)氏からの第一信を受け取って以来、私の旅に迷いが起こった。私がショックを受けたのは、その便りに現れた、「癩患者はなぜ怒らないのか」という文言であった。赤瀬さんは翌年、自著『あたりまえに生きたい』の出版直前、脳卒中でこの世を去られたが、彼が私に残した文言は、折に触れて私の心によみがえり、「なぜ怒らないのか」と語りかけてくるのだった。
「法曹の責任」(平成七年七月「けんりほうニュース」四八号)を書き、これを資料として九州弁護士会連合会に申立書「らい予防法・優生保護法について」(平成七年九月一日)を提出したときも、赤瀬さんの文言は耳鳴りのように響いていた。そして九州弁護士会連合会が組織を挙げて動き出したとき、私はその成功を喜ぶよりも、とんでもないことになったという不安な思いの方が強かった。しかし九州弁護士会連合会の活躍は私の不安を吹き飛ばしてくれたし、また私には不安に浸っている時間がなかった。テレビ、新聞の取材、原稿の依頼、進行中の二冊の自著の校正、主宰文芸誌の編集と、この六カ月間は寝込まなかったのが不思議なほどの忙しさだった。「らい予防法の廃止に関する法律案」には不満だらけであったが、ハンセン病問題の一つの区切りとして、らい予防法の廃止だけは実現してほしいと祈っていた。そして法案は会期切れになる寸前国会を通過、「らい予防法の廃止に関する法律」(略して、廃止法)は、平成八年四月一日に施行されたのだった。

れから二年、入所者の人権は回復したであろうか。あれほど待望久しかった「保険証」は、手にすることができただろうか。廃止法附則第一〇条は、国民健康保険法第六条第八号中から「国立らい療養所の入所患者」を削除した。つまり私たちも加入が認められたわけである。ところが厚生省と全療協(全国ハンセン病療養所入所者協議会)は、省令(施行規則)をカラクリして加入できないようにしているのだ。国会で承認されたばかりの法律を軽視した、このような国民的差別、このような人権侵害が許されてよいものだろうか。 
 私は抗議の文章(「保険証おあずけ」平成八年九月「けんりほうニュース」六二号)を書き、これに応えて「ハンセン病の医療と人権を考える会・北九州」が全国的な署名運動を展開、すでに一万七千名の署名簿は昨年三月厚生大臣に提出、今年はさらに多数の署名簿が提出されるはずである。しかし厚生省は、「入所者の希望で仕方なかった」と弁解、またマスコミは入所者団体に遠慮しているのか、積極的に取り上げようとはしない。このまま何年署名活動を続けても、入所者が「保険証」を手にして、やっと人並みになれたと喜ぶ日は訪れないだろう。私はむなしい思いの中で、次第に読者や署名参加の市民に対して、責任を感じ始めたのである。私はどう責任を取ればよいのであろうか。

会復帰者に対する支援問題でも、私は多くの文章で訴えてきた。中でも平成八年二月六日の朝日新聞「論壇」に書いた「らい予防法廃止の落とし穴」は、国会審議の中で二度も菅直人厚生大臣によって引用され、「社会復帰の実現がなければらい予防法廃止の意義がなくなる」との文意を肯定、社会復帰に対する誠意を表明している。にもかかわらず、先日(三月四日付)厚生省が発表した支援策は、一人一五〇万円の一時金だけである。障害を持つ平均年齢七三歳の老人が、一時金一五〇万円で、どうして社会での生活ができるのであろうか。私は菅直人氏に直接お訊きしたい。国会で答弁された社会復帰者への支援というのは、今回厚生省が公表した涙金程度のものであったのだろうか。私は何とかして菅氏の真意をお訊きしたい。そのことが私に可能だろうか。

が抜けた話だが、優生保護法の一部改正で、優生手術と妊娠中絶に対する「らい条項」は削除されたが、その被害者に対する陳謝や補償については、一切質疑が記録されていないことに気付いたのは、ずいぶん後のことだった。すべてが時効ということだったのだろうか。しかし被害者は現に、子供も孫もいない孤独な老後を生きているのである。私は国に訊いてみたい。一片の癒しの思いやりもないのであろうか。

は悶々の日々の中で、赤瀬さんが揮毫してくれた「夢蝶」という書の作品を取り出しては眺めた。書家であった赤瀬さんは、中国の故事「邯鄲の夢」の「浮生蝶夢中」から二字を選んだ、と説明していた。
 赤瀬さんは幼い頃から血友病に苦しみ、その上に薬害エイズ感染者だったが、じつに明るかったという。私のように考え悩み、それを文章で訴えてみても、国も社会も変わりはしない。「夢蝶」の書が語り出したのである。「島さん、五〇年も苦しんだら、もう沢山でしょう。すべてを法の裁きにまかせて、楽になりなさいよ」
 私は友人に電話して、表装を依頼した。私が法廷に立つ日、赤瀬さんの書を応援旗にして、出かける決意である。

瀬さん、余りにも遅い決意を笑わないでほしい。牙を抜かれ、五〇年間檻の中で忍従の日々を送ってきた老残の身が、やっと示した小さな怒りの火を。

(一九九八・五・三 憲法記念日)

 

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妊婦が患者に変わるとき(その3)

常任世話人  佐々木 菜美

ったい、出産時の自分はどういう状態になっていたのかしら。ただもう大変だったという思いしかなくその後の育児になだれこんだ私でしたが、心の中にはずっとモヤモヤとしたものがありました。というのも、あの日の当直だった看護婦さんが、「個人医院や助産院だったらマジで危なかったわよ。小さい所じゃ手遅れってこともあるでしょ。でも、こんな大きな病院だって、産婦人科で輸血なんて年に数えるほどしかないのよ」と、四方山話の軽いノリで教えてくれたことが引っ掛かっていたからです。
 それほど危険な状態を救ってくれてありがとう、と単純に喜んではいられません。そもそも、そんな深刻な結果を招いたのは誰?なぜなの?もしかしたら、何らかの医療ミスを被ったあげく、大金をふんだくられたのではないかしら?‥‥‥。私の中の疑惑の霧は次第に大きくなっていきました。
 前にも書きましたが、肝心な時には「患者の権利」なぞ吹き飛んでしまうものです。ああすれば良かった、こうしておくべきだった、と言ったところで後の祭り。父をガンで、母を難病で亡くし、自分も延々と患っていながら同じことの繰り返し。毎回顔から火のでるような思いで原稿を書いている私ですが、読んでいる皆さんだって、いざとなれば同じかも。現実は厳しいものですね。
 でも、ただでさえ辛い病の身で権利権利と神経を張り詰めていたら、本当に疲れてしまいます。患者がしゃかりきにならずともシステムとして「患者の権利」が守られるような医療に、一日も早くしたいものです。

て、そうこうするうちに季節は移り夏のころ、神奈川では初めてのシンポジウムの企画が進められていました。かねて神奈川では、三ヶ月に一度のペースで会員の親睦会を続けていましたが、そろそろ何か形あるアピールをしようではないかという声が自然とあがり、シンポジウムの開催となったのです。
 テーマは「カルテ開示の現在とこれから」
 パネリストのお一人には、「医療情報の公開・開示を求める市民の会」の勝村久司さんをお迎えすることになりました。皆さんご承知の通り、勝村さんは長年レセプトやカルテの開示を求めて活動を続けてこられた方です。その運動の成果として昨年レセプトの開示が認められるに至ったわけですが、権利法の会としても是非その権利を行使し、間に合えばシンポジウムで報告しようという話になりました。
 そこで私の出番です。出産時の病院の対応に割り切れない気持ちでいた私は、とりあえず陣痛促進剤の名前は判るはず、と安易に構えてレセプトの開示請求に乗り出しました。
 とはいっても、どういうふうに請求をすれば良いのかが判りません。夫の勤務先の健康保険組合へ請求すればいいのですが、なにしろ書式がありませんから。そんな困った時の森田弁護士頼み。神奈川のアイドル森田明弁護士がサッと書式をつくってくれました。それに記入して送付、待つこと二週間で先方より電話連絡がありました。
 担当者の話では、もちろん私が初めての開示請求者で、いかに対処すべきか検討の時間がかかってしまったというのです。夫の勤める大学は都内に大規模な付属病院をかかえていて、大学の職員も多数利用しています。大学・健保組合・付属病院と三位一体の組織の中で、いずれは付属病院のレセプトも開示せざるをえない状況を考えれば、それなりに複雑なものがあるのかもしれません(ちょっと深読みしすぎかな)。加えていわく、「指定の書式に記入の上、確認のため本人が来られたし」、「病院側の意向で開示にならないこともある」とのこと。えーっ、困ったなぁ、子ども連れて東京なんてとてもまだムリだ。「本人が行けない場合はどうすればいいんですか」「法定代理人に来て頂くことになります」。これはまずい。めんどくさいぞ。しまったなぁ。委任状とかそういう世界の話よね。森田さんに聞いてみようかなぁ‥‥。それに開示にならないかもしれないなんて、医師の裁量権の濫用じゃないの?

れこれ悩んだ末、私は夫に仕事を休んでもらうことにしました。いくら暇な時期だったとはいえ、こんなことで欠勤させてごめんなさい。おかげさまで久しぶりに子育てから解放され、私はルンルンと気分転換ができました。ともあれ、わがままの言える身はともかく、こうした手続きはもう少し改善できないものでしょうか。法定代理人などと言われても一般市民にはピンときません。これに限らず、いわゆるお役所的な手続きたるや面倒なものばかりです。プライバシーを侵害することなくかつ簡便に、個人の情報を開示する方法はないものでしょうか。またまた悩んでしまいました。
 申請から二週間目の九月八日、ようやくレセプトが開示となり健保組合から郵送されてきました。作業にかかわる人件費や発送の費用などがかかると思うのですが、開示手数料は無料でした。皆がこぞって請求すれば(そんなまさか)、大変なことになりそうです。
 開示されたレセプトはB5用紙一枚で、意外に簡略なものでした。「何だ、これ?」、私はがっかりしてしまいました。結局のところ、保険が適用になったのは内服薬と輸血にかかわる部分のみ。期待していた陣痛促進剤の名前は判らずじまい。

 「入院料は産科自費にて算定済」

 この一文がすべてを物語っていました。なにもかも自費でまかなわれていたからです。

(次回につづく)

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病んだとき何かを決定することは? 

小林 尚子

い物は疲れます。特に品物が豊富だと、どれにして良いか決められず思わぬ時を無駄使いしてしまいます。迷うのは決断力がないからでしょうか?一人で決められなければ誰かに相談する。それが普通のパターンだと思います。
 八〇才台のIさんは長年教職にあった人です。退職後も自治会、老人会の世話役、自営農としての仕事など元気にこなしている男性です。性格がきちんとしていますから、仕事もやはりはじめたらその日のノルマはやりとげないと気がすみません。そのため時々膀胱炎をわずらいます。大抵、二日軽い抗生剤内服、水分摂取、休養で回復しますが、最近のそれは激しいもので血尿が出ました。驚いたIさん、農作業を中断して自転車で三〇分の救急指定病院へ行きました。
 検尿後、止血剤二日分の投与、そして三日目再来院して膀胱鏡をはじめとする諸検査の予定をもらいました。帰宅後も膀胱炎の症状は取れません。彼は考えました。血尿さえなければ今までの膀胱炎と同じだ。そこで前に受診した近医にもらった膀胱炎の薬が残っていたので、それを服んでみました。
 二日後、症状は取れ、Iさん検査は自分でパスすると決めました。この決断が正しかったかどうか?二ヶ月たってIさんは元気です。 
 念のための検査ならば、元気とはいえ八〇才を超えた人の体力を考え、まず目前の訴えに対する処置があってほしかったと思います。もちろん検査すべてを否定はしませんが。

〇才台の女性、腰痛で病院を訪れた時、すでに原発はどこから分からないような骨転移(腰痛の原因)を含めて全身癌の状態でした。確たる病名は医師と家族で相談の上本人に告げぬまま、腰痛に対して放射線照射をすることが決まりました。しかし、この治療を患者さんの身体が受けつけなかったのです。通院の予定が、二回目の照射後、すでに動けぬほどの負担となり、即入院、そしてそのまま生涯を終えました。
 病名は知らされないが何となく自分の病気は分かる。次々試みられる治療の苦しみの中で主治医に丸山ワクチンの使用を希望しました。おそらく入院後はじめての自己主張だったと思います。この願いは聞き入れられませんでした。医師の治療方針に合わないからでした。それでも使いたいなら転医ですが、患者さんはすでに移動できる状態ではありませんでした。確たる説明もない状況で彼女が自分の病気を判断して、自分の意見を主張したこれは最初で最後のものでした。彼女はそれをどう受け止めたのでしょう?
 拒否されたことで「自分は癌でなかった」と思えたのか‥‥。遺族は今、病気をきちんと知らせる方向で、効果はどうあれ最後の願いを聞いてやりたかったと話します。しかしその時は、「助からない癌」と告げることのデメリットの方が先行していたのです。

くる会に参加し、病む人の権利を考え続け、医療従事者のはしくれとして患者さんが主人公の医療をと願い続けてきました。権利は又自己決定権にもつながります。
 この頃私は迷っています。自己決定権はどこまで可能なのでしょうか?
 健康な時、もし病んで治療法がないとされたら、余計なことはしないで静かに終わりたいと私を含め多くの人がそう語ります。病んだ時、その気持ちは持続するでしょうか?症状が悪化した時、心のどこかで何か生きる道を求めることはないだろうか?医師から治療法の選択を提示された時、果たしてそれを判断する能力が残っているだろうか?
 きちんと死の覚悟ができて、最期の病に平静に立ち向かえる人の数はそう多くないと思うのです。分かっていても心のどこかに何か生きる方法を求める気持ちがあって当然でしょう。そして確たる判断力が持てなくなった時はどうなるのか?インフォームド・コンセントは医療者対患者から、患者の周囲の者の同意、決定権へ代わってゆくのが自然です。この時の決定は患者さん本人の意思というより周囲の者の(うまい表現がみつかりませんが)病む人への想いと共に自分たちがここまでやったという自己満足も含まれます。周囲の者の参加も又重要な要素であり、この辺のかね合いが今一つ私の中で消化されなくなりました。

頃、敬愛する友人の母上に対して、さらにその思いが強くなっています。自宅療養からホスピスへの段階で友人との話し合いの中、心のどこかで母上のことに加え、介護する人の心情を考え、むしろその方が比重を占めているような気持ちで、私自身の考えを述べていたように思えます。この間のことはもう少し整理してまとめたいと思っています。
 母上がホスピスに入れられた時、割合症状が落ち着いていたある日、腕をさすっている私に突然「この胸の影に放射線は効かないの?」という問いかけがありました。治療法がないから、痛みや苦しみを最低限にQOLを考えてのホスピス入りですが、それはある程度分かっていても心のどこかに生き抜くための積極的治療を求めておられる気持ちが伝わります。
「効きますよ」
「じゃあ、なぜ皆それをすすめないのかしら」
「それはね、お母さん、今食べられなくて体力がないからですよ。今の体力では私もすすめられないな」
 その夜、母上は一生懸命夕食を食べてくれたように見えました。とても空しい解答だったけれど、効かない、ダメとどう脚色してもそう伝えられませんでした。
 こうした状況下での主張、決定は何と困難なことか。そしてさらに少しの主張もできぬ状況の時の決定はどうなるのか。そうした時、身内の者同志の主張のぶつかり合いとか、本人が元気な時話したことに対して医療者の主張が納得できぬまま従うしかないことがある。カルテ情報開示につながる一つの問題点にもなってきます。

ルテに医師やナースが家族のことも含めて記載する。それも又患者さんの病歴に大事な役割を持つのです。特に一番多く病む人と接し、その心理を分かり得る看護記録は患者さんの主張を知る重大で大切な資料です。話がまとまらなくなりました。
 ワラと分かっていてもすがりたくなる病む人の心理につけ込むような誘導型情報によってまどわされることがないよう、せめて最低限現段階で言えること。それは医療情報は正確に、特にマイナス面を隠すことなく伝えてほしいということです。

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