|
* 鬼ノ城 2 *
古代国家吉備の謎に迫る
鬼ノ城から眺めた吉備路の朝
まえがき1(おことわり) このページはかもかもの「私的歴史観」です。ご了承下さい。 かもかもの母は、古くから吉備中心部(鬼ノ城の南西)に暮らす家系の出身です。母の里は今でものどかな田舎で、近くの丘には無数の古墳があり、夏休みなど長期滞在した時にはいくつもの石室が見え隠れする松林を走り回って遊んだものです。 古代山城「鬼ノ城」が山火事の後偶然発見されたのは昭和46年、民間の熱心な研究家によって次第に世に知られるようになり、本格的な調査が行われるようになったのは昭和53年からと、新たな発見のように報道されていますが、母の出身地周辺では「山の上に大きな城があった」と昔から言い伝えられていました。母から聞いたこの話は、かもかもが2000年7月に「鬼ノ城1」をアップロードするきっかけとなりました。
![]() 楯築遺跡、頂上部
「鬼ノ城」の伝説にも登場し、高台の上に大小の不思議な岩が円形に並ぶユニークな弥生時代最大級の墳丘墓(古墳時代のモノではないので古墳ではなく墳丘墓というそうです)「楯築遺跡」は宅地造成で破壊され、ストーンサークル(写真)のすぐ下まで住宅が迫っています。住宅地から直接、屏風のようにそそり立つ岩を見上げることが出来るほどです。このあたりは「楯築遺跡」を中心に沢山の古墳が発見されています。早い話、住宅地は「貴重な遺跡群」の中に造成されたようです。
![]()
鬼ノ城も放っておかれたら今頃は哀れモトクロス場になっていたところでした。実際、モトクロス場を建設するための道路や資材置き場が鬼ノ城内に設けられています。鬼城山は急峻な斜面の割に山頂部は比較的平坦です。そこに目を付けられたのでしょう。
平坦な頂上は昔、城の建設のため人の手が加えられたためかもしれません。
まえがき2
歴史を考える上で、考慮しなければならない事に「当時の海岸線」があります。 原因の一つは気候変動です。
極端な例ですが、今から1万2千年前まで繰り返し訪れた「氷河期」には海面は今より百数十メートル低いところにありました。現在、大陸周辺の水深200メートル付近に広がっている「大陸棚」と呼ばれる平らな地形は、長く続いた氷河期時代に形成された当時の「平野」および、波が洗う「海食台」の跡です。氷河期は氷に覆われた陸地も多い一方、海岸近くには平地も大きく広がっていました。
参考ですが、100メートル高度が低くなると約0.6度気温が高くなります。寒冷な氷河期に人類はどうやって生き延びることができたのだろうと考えてしまいますが、現在より高度が160メートル程も低かった当時の海岸付近は赤道を跨ぐマレー・スマトラ・ジャワをつなぐ地域に出現していたスンダランドばかりではなく、住みやすい環境も案外多かったかもしれません。自然の大貯水池・氷河からの雪解け水で、水に不自由する事も無かったでしょう。 さて一方、今から8000年前(紀元前6000年)には、一転して非常に温暖な「海進期」(縄文海進)となりました。8000年前にノルウェー沖でメタンハイドレート層の崩壊によるメタン大量噴出があったことが知られていますが、この頃起こった異常とも言える温暖化の原因のひとつかもしれません。メタンの温室効果は二酸化炭素の20倍ですから。海面は現在よりかなり高くなり海は内陸部まで入り込みました。
氷河期から温暖な海進期に至る気候の激変は海面の急上昇という現象を伴いました。
今ではすっかり内陸になってしまった縄文遺跡「三内丸山」(5500年前〜4000年前)ですが、海面の上昇した縄文海進当時は海岸に近い集落でした。
その後、気候の寒冷化および海面低下に伴って海岸線は遠のき植生も変化して、生きてゆくための食物を確保するのが難しくなりました。 その後、集落はとうとう放棄され、海岸線から遠く寒冷なその地に暮らすものも無く、集落跡は自然に埋没し保存されました。もし寒冷化もなく生活しやすい土地であれば人はずっとそこに住み続け、今では住宅地や工場、田畑の下になっているはずです。 その後も、海岸線は一進一退「海進期(温暖期)」「海退期(寒冷期)」を数百年ごとに繰り返し、現在に至っています。(今は海進一直線かも?)
余談ですが、海岸線の後退は「寒冷化」だけが原因ではありません。
また、引き込まれた海水は、地下150km付近で変化を起こし、火山活動の原因となります。プレートがおよそ地下150kmに沈み込んだ所に、火山が並び、火山帯を形成しています。
「アリューシャン海溝」-「アリューシャン列島」、「千島海溝」-「千島列島」、「日本海溝」-「日本列島」、「小笠原海溝」-「小笠原諸島」、「マリアナ海溝」-「北マリアナ連邦」、「フィリピン海溝」-「フィリピン」等々・・・。
地球って、面白いですね。
おっと、すっかり話が横道にそれてしまいました。
![]()
さて、そこで5世紀頃の「古代吉備国中心部」の海岸線を推測してみました。 こちらをクリックしてください。 別ウインドウで地図が開きます。 当時は児島が沖合に横たわる吉備穴海と呼ばれる内海があり、波静かな絶好の航路となっていました。港は「津」と呼ばれていたことを考えると、海はかなり内陸まで入り込んでいたようです。現在鬼ノ城の眼下に広がる平坦な水田は後年の干拓によるものですから、当時はもう少し起伏があったでしょう。尚、とりあえず国土地理院25000分の1の地図、標高10メートルの等高線を参考にしましたが、標高10メートルでは山際まで海が入り込み到底農耕が営めるとは考えられませんので、適当に海岸線を引き直しました。ご了承下さい。
鬼城山から入り江を隔てた対岸の丘には、造山古墳をはじめ、大小無数の古墳が確認されています。当時この一帯は墓所だったと推測されます。その最も東のはずれに、住宅開発によって荒廃が進む「楯築遺跡」があります。楯築遺跡から浅瀬を隔てるようにして当時の港「吉備津」があり、向かいの「吉備中山」に「吉備津神社」があります。当時この入り江には右手から高梁川の分流が蛇行しながら流れ込んでいました。現在では流れを変えています。 大変、た〜いへん長い前置きとなりましたが、この写真を眺めながら「吉備の国」に伝わる昔話に、耳を傾けていただければ幸いです。
2002年6月7日、かもかもは花菖蒲の撮影に「吉備津彦神社」に出かけました。
あれれれ?鳴釜神事の「吉備津神社」のまちがいでは?
![]() 吉備津神社
![]() 吉備津彦神社 有名なのは、長い松並木の参道、曲線の美しい回廊、壮麗な比翼入母屋造りの本殿(国宝)を持つ「吉備津神社」ですが、「吉備津彦神社」も「備前一宮」という地名の由来ともなっている格式の高い立派な神社です。
どちらも主な祭神は「吉備津彦命(キビツヒコノミコト)」です。しかし同じ人を祭った神社が、なぜこんなに近くにあるのでしょう? 吉備津神社に伝わる「吉備津神社縁起(温羅伝説)」を、かもかもの「Geographic Gallery」の「鬼ノ城」で紹介しました。しかしその時にはうかつにも、これら二つの神社の謎には思いを巡らせることが出来ませんでした。 「吉備津彦神社」で花菖蒲を撮影した後、かもかもは思い立って、「矢喰宮」に向かいました。 ![]() 手前は「作山古墳」遠くに「鬼ノ城」が見えます。
吉備国の歴史は何も残されていません。吉備国絶頂期の王墓であったはずの巨大古墳、「造山古墳」「作山古墳」の由来など、今となっては探るすべもありません。
「吉備津神社縁起(温羅伝説)」をご紹介しましょう。 地図を参照しながら縁起をご覧下さい。なかなか面白い物語です。 架空の物語と言われている「吉備津神社縁起(温羅伝説)」ですが、「吉備津神社」「吉備津彦神社」をはじめ、「鯉喰神社」「血吸川」「首部」「楯築遺跡」それより何より「鬼ノ城」など、物語ゆかりの史跡や地名が今も残っています。作り話にしては規模が大きいようです。 「矢喰宮」もその一つです。
![]()
物語では、「吉備津彦命」が射た矢と鬼ノ城の「温羅」が迎え撃った矢が、不思議なことに何度も噛み合って落ちたと言われる場所に祀られているのが「矢喰宮」(写真上)です。神社本殿の後方が鬼ノ城です。(資料1) 実際、命が戦いのために楯(攻撃の拠点)を構えたと言われる「楯築遺跡」と温羅の居城「鬼ノ城」を結んだ線上のほぼ中央に「矢喰宮」があります。その3地点は、見事に一直線上に並び、「矢喰宮」はそのほぼ中点にあたります。(資料2)(資料3)
上の写真は手前柵の中が吉備津神社入り口にある「矢置岩」です。この場所からは手前の山に遮られて、直接鬼ノ城を見ることは出来ません。というより、吉備津神社の現在の敷地内から鬼ノ城を見る事はほとんど出来ません。南に伸びた回廊の一番南あたりから、ほんのわずかに見え始める程度です。同時に鬼ノ城からも吉備津神社は見えないわけですが、神社裏の中山を少し登ったところからは鬼ノ城を窺うことができます。つまり鬼ノ城からも直接こちらの陣地を見る事が出来ないけれど、こちらからは少し登ったところから鬼ノ城が見える訳ですので、命が陣を構えるには案外良い場所だったかもしれません。 温羅の放った矢を空中でダイレクトキャッチしたミコトの家来もいたそうで、「縁起」は現実離れしたSFスペクタクル戦争時代劇の様相を呈しています。
かもかもは、「楯築遺跡」に向かいました。
冒頭の写真で紹介しましたが、「楯築遺跡」は、小高い丘の平らな山頂にストーンサークルがある不思議な遺跡です。
楯築遺跡から見た鬼ノ城
この貴重な弥生墳丘墓は、つい近年まで前方後円墳の前方部の原型とも考えられる先に高まりのある突出部を備えていました。しかし北の突出部は宅地造成のため、また南の突出部は宅地に水を供給する給水塔建設のため、いずれも1972年発掘調査が一段落したスキに突然破壊されてしまいました(ったく…)。突出部を含めた墳丘墓の周囲は大きな列石によって二重に縁取られ、突出部前面は深さ3〜4メートル幅数メートルの大溝が掘削されていたそうです。その損失は計り知れず、返す返すも残念で胸が痛みます。 想像を遥かに超えた豪奢な日本最大の弥生墳丘墓「楯築遺跡」、今では給水塔の傍にある不思議なストーンサークルのみが往事を物語るばかりです。
またまた余談ですが、特殊器台・特殊壷は、楯築遺跡で初めて用いられた祭祀に特化した吉備特有の大型土器で、その出土範囲が「吉備」とも言われてきました。しかし2001年、卑弥呼の墓かもと言われた大和の箸中山(箸墓)古墳の後円部最上段から大量の特殊器台、特殊壷の破片(約3000点)が見つかり騒ぎとなりました。箸墓はそれまでの古墳とは明らかに一線を画している、突然大和に出現したとも言える最古の巨大前方後円墳(280m)です。裾野に残された在地の土器群から地元大和民に崇められた痕跡も残っており、その神聖性や宗教的求心力において揺るぎない大王(女王?)級の前方後円墳とみられています。しかし日本書紀の例の強烈な伝承から被葬者は吉備津彦命の姉ということになっちゃって(お気の毒な大王…。それにしても記紀による吉備関係の記述はこんなんばっかりで嫌になってしまうわね、何か恨みでもあるのかしら?)、配下に置いた吉備の民が労働力として建設に動員されたのだろうと考えられています。しかし箸墓が造営された時代、吉備ではすでに特殊器台や特殊壷はすっかり下火になっていたため、ひょっとすると吉備の勢力が大和に進出したのではないかとヒソヒソ呟かれています。箸墓から吉備特有の土器が大量出土したことに関して「吉備が大和に隷属したあかし」と唱える学者さんは今でも多いですが、当時の大和のシンボルともいうべき建造物で、大和の大王のための神聖な祭祀を「隷属させた他国の流儀や作法に則っておこなう」というのは……どう考えても変ですよね。
ちなみに大和初期の大型前方後円墳「箸中山」「西殿塚」「中山大塚」「弁天山遺跡」から出土した吉備の特殊器台・特殊壷は最終にあたる第3期の派手だけど雑な「宮山型」ずん胴で職人のこだわりがあまり感じられない「矢藤治山型」と呼ばれる、いずれも製造行程が簡略化された形式色の強いもので、吉備ではそれまで弥生墳丘墓と見られていた極めて小型の前方後円墳「宮山古墳」「矢藤治山古墳」からしか見つかっていません。これらはさらにデフォルメされ特殊器台形土器、特殊器台形埴輪(模様が宮山型に似ている)となった後に簡素な円筒埴輪となり、前方後円墳と共に大和政権の力が及ぶ全土に普及しました。
「血吸川」
伝説では、温羅の目から流れた血で赤く染まったと伝えられる川です。 鬼城山に源流を発し、矢喰宮方向へと流れ、現在は西から流れる砂川と合流した後、足守川笹が瀬川を経て瀬戸内海まで流れてゆきます。しかし当時は砂川と合流もしくは直接「吉備穴海」に流れ込んでいました。入り江を隔てた「赤浜」も、そのとき血で赤く染まったことに由来する地名と伝えられています。ちなみに赤浜は「雪舟」誕生の地です。
温羅が命に捕らえられた場所です。「鯉に化けた温羅が鵜に化けた命に捕らえられた」ところから、この名がついたと言われています。(資料4) 神社の祭神が夜目山主命や狭田安是彦(岡山神社庁による)など命の側に寝返った温羅の家来、また神社の御神体が包丁と俎板とも言われており、温羅を捕えた後に夜目山主命が鯉を料理して命をもてなしたという地元の伝承もあります。
「血吸川」「矢喰宮」「鯉喰神社」「首部(温羅の首が晒された場所)」という奇妙な名前や地名は、かもかもには「吉備津神社縁起」は荒唐無稽だけれど全くの作り話ではないという事を強調しているように思われました。
吉備中山頂上付近にある吉備津彦命の御陵と言われています。 荒廃している全国屈指の「造山古墳」と「作山古墳」、謎のストーンサークルが残る「楯築遺跡」なども、これと同じように保護・管理して欲しかったです。(大和朝廷下では無理か・・)
さて、話を元に戻しましょう。
表向きはもちろん「吉備津彦命」です。
![]()
再建された西門より
写真をクリックするとパノラマ写真が開きます。 注)ここから先は、かもかもの憶測による物語です。 渡来人が人口の半分近くを占めていた古代吉備は、彼等が持ってやって来た当時最先端の鉄生産技術を誇っていました。鬼城山中腹から裾野にかけて広がる鬼ノ城ゴルフクラブが造成されたとき、大きな古代製鉄跡が発掘されました。しかし残念ながらそれらは保存されませんでした。歴代領主の古墳も多数作られ、吉備は近畿地方の大和と肩を並べる豊かな国でした。 「吉備冠者」と呼ばれていた当時の吉備国首領・温羅は、頭脳明晰・戦術に優れ、吉備の民が寄せる信頼は絶大なものがありました。縁起による温羅の風貌は碧眼・金髪・長身ということで百済からやって来たにしてはいささか西洋人風ですが、中国で発掘された「桜蘭の美女」も金髪に長い睫を持つそうですから陸続きならどんな人種がそこにいても不思議ではないと思います。それとも南西諸島づたいにはるばると船旅でやって来たのかな。今風に言うなら日産ゴーン社長のような「カリスマ的外人指揮官」という事になるでしょう。 大和朝廷は何度も軍勢を吉備に派遣しましたが、いつも温羅にコテンパにやられ、軍勢はしっぽを巻いて逃げ帰っていました。度重なる敗北に、朝廷は最後の切り札として皇子(後の吉備津彦命)率いる大軍団を吉備に送り込みました。大和も命運をかけて皇子を派遣したからには、負けてすごすごと引き下がるわけにはゆきません。勝利するまで兵を湯水のごとく注ぎ込んだはずです。 それまで大和の同盟国だったはずの吉備に突然執拗に軍隊を派遣する理由の選択肢はあまりありませんが、吉備で改良を重ねられた製鉄技術がどうしても欲しかったためでしょうか。製鉄に伴う森林伐採と有毒ガスで鬼城山周辺は禿げ山となり、温羅の居城は「鬼ノ城」の名に相応しい奇怪な様相を呈していたことでしょう。かもかもが子供時代に見た玉野製錬所付近の禿げ山の恐ろしい様子は今でも頭にこびり付いています。禿げ山に立てこもる一団を攻め立てるなど、傍から見れば鬼退治そのものかもしれません。 後から後から沸いて出る吉備津彦命率いる大軍との長期に渡る戦いで、さすがの温羅も消耗し力尽き、吉備国陥落はもはや時間の問題となりました。しかし敗戦国の行く末には、暗澹たるものがありました。 そこで首領・温羅は一計を案じました。
![]() まもなく温羅一派は捕らえられました。
温羅が逃げ回った範囲は、地図からも分かるように、鬼ノ城からほんの数キロメートルに過ぎません。広い吉備国ですから、戦術の達人なら逃げようと思えば裏山伝いにいくらでも逃げ延びられそうなものですが、「お〜〜い俺はここだよ」とばかりにどこからでも見える川や浅瀬を逃げ回り、ほどなく捕まったわけです。温羅が敵を一身に引き付けている間に、妻や他の民たちは城から脱出出来たはずです。 吉備国民は「いや〜、暴君・温羅の悪行にはほとほと困っていたんです」と訴えて「吉備津彦命」を歓迎し、大和朝廷による支配をすんなりと受け入れました。「新しい支配者に迎合すること」これが「戦術の達人・温羅」が吉備の人々に授けた「生き残る知恵」でした。温羅は自分が「国民を苦しめた鬼」となることで、吉備の民を守ったのです。 その代償として、吉備の人々は表だって温羅を弔ったり良き時代の吉備を偲ぶことは決して許されませんでした。これが吉備国民にとって大きなストレスとなりました。(この時代、通常ならたとえ敵でも祟りを恐れて結構立派な神社を造って丁重に祭るものですが、物語の主人公吉備津彦命が祭神になっている神社は多数あっても、もうひとりの主役・討ち滅ぼされた温羅が祭神になっている神社は神社庁HPで検索してみても伝承を紐解いてみても全くありません。何とも不可解なことです) そこで、事件を記録しておくため「吉備勧進帳(吉備津宮縁起)」が創作されました。これは「英雄・吉備津彦命、鬼をやっつけて吉備国平定」という話として記述されたため、大和朝廷に有害図書の烙印を押されることもなく検閲の目を免れています。また縁起の内容を印象づけるために、ゆかりの場所に一度聞いたら忘れられない地名を付けたり怪しげな名前の神社を次々と祀ったりしました。もちろん、表向きには吉備津彦命の功績をたたえるためです。 縁起の中では温羅はもちろん極悪人かつ大罪人です。「矢喰宮」の案内板では、温羅は「残忍、非道」で「日本を窺わんとした逆賊」となっています。(つまり、日本の覇権を大和と争っていたのかな? 縁起に「西国から都へ送る貢物を乗せた船 を略奪した」とありますから、大和と覇権争いをしていたならば、物流の大動脈・瀬戸内海航路を封鎖して畿内への物資を断つことくらいは当然やったでしょうねぇ)しかし一方では、温羅処刑のシーンは「串に刺した」「犬に喰わせた」などと具体的で生々しく、まるで残忍な行為を告発するかのようで処刑を行った「吉備津彦命」に嫌悪感を抱くほどですが、極悪非道であるはずの温羅については「非常に頭が良く、戦術に長け、どんな敵もうち負かし」となかなかの賛辞が与えられています。
また縁起には、命が「夜な夜な大声で続く温羅のうなり声」に悩まされ、夢のお告げによって鳴釜神事が行われるようになってようやく「十数年続いたうなり声が止んだ」とありますが、実際は温羅の首の傍で夜な夜な大音響を発する鳴釜を炊き続ける人々に根負けした命が渋々神事に同意したのだろう、と推測することが出来ます。鳴釜の音を実際に聞いたことのある方なら、この部分は「温羅のうなり声=鳴釜の音」と直観的にピンとくるはずです。しかも最初に鳴釜神事を行ったのは、温羅の妻「阿曾媛(阿曽郷の神官の娘)」です。温羅が本当に残忍な暴君だったなら、その妻は20年近くもこの地で無事でいられたわけがありません。一緒に処刑されるか晒し者にされた後石持て追われたでしょう。 時の権力におもねる形で歴史を記録し、ゆかりの場所に次々と神社を祭って記憶にとどめ、神事を継承し、その解釈を後世の人にゆだねたとしたら吉備の民もあっぱれなものです。温羅から伝授された「生き延び、語り伝える知恵」を忠実に守り抜いたに違いありません。
(1)鳴釜神事と阿曽郷
![]()
神社裏鬼門にある御竃殿 「阿曽」は鬼城山山麓にある日本最古級の製鉄跡が多数発掘された血吸川流域一帯の地名です(現在でも)。温羅ゆかりの鉄の里「阿曽」と「吉備津神社」は鳴釜神事を通して、この特別な関係を現在まで保ち続けています。 討ち滅ぼした賊と深い関係を持つにもかかわらずまるで一目おいているかのような、阿曽の民に対する神社側の千数百年にもわたる厚い待遇は何を意味するのでしょうか?並外れた技術に対する敬意に過ぎないのでしょうか?それとも…。 (2)温羅の別名「艮(うしとら)みさき」の名を持つ多数の御崎神社(艮御崎【うしとらみさき】宮) 旧吉備国領土内には「御崎神社(または艮御崎宮・艮神社・御前神社・御前大明神)」という神社が数多くあり、地域の鎮守となっています。中には「御崎神社、通称:艮御崎(うしとらみさき)宮」というただし書きを掲げている神社も見られます。吉備津神社縁起の最後の一節によると「艮(丑寅)みさき」は間違いなく温羅の精霊、「御崎神社=艮御崎神社」と考えられていますから、吉備国に多数ある「御崎神社」に祭られているのは「温羅の霊」ということになります。(「うしとら」で温羅【うら】の隠語になっているのかなぁ、それとも「艮=鬼門」ということで何か鬼神と関連づけているのかしらん。 岡山県神社庁で検索し、住所から(艮)御崎神社の分布を調べてみました。こちらをクリックすると、別ウィンドウで開きます。住所が分かったのは備前・備中で合計40社でした。「艮」の付く神社名は備中の西に多いです。広島県備後地方の分布は残念ながら詳しくは分かりませんでしたが、やはり「艮神社」は多いようです。「御前」は内陸部の成羽(高梁市西方で備中神楽発祥の地といわれている)に多く分布していることが分かります。備中神楽では、通常の宮神楽では上演されない、神代神楽以前からあった「吉備津」(温羅と吉備津彦命の戦い)が上演されます。岡山大学所蔵の資料によると、吉備津・おんざき・うしとら等の吉備津系の神社は全国300社にものぼるそうです。 ![]()
倉敷市大内の御崎宮 平安時代に編纂された「梁塵秘抄」の中に「一品精霊吉備津宮…、丑寅みさきは恐ろしや」という一節がありますが、非業の死を遂げた温羅の都まで轟いた霊験と、首長の凄惨な死を目の当たりにした吉備の民によって吉備国の各所に「(艮)御崎神社」が祭られたこととは決して無関係ではないでしょう。しかしその中に計画的に意図されたような「何か」(え〜っと、ハッキリ言って良いですか? 「温羅の祟り」という名のもとに行われた組織的報復)をそれとなく感じるのは私だけでしょうか。「縁起」にも「命の死後、われは一の使者となって四民(なんか江戸時代っぽい?)に賞罰を加えん 」とあるではありませんか。 (3)本殿(正宮)内に祭られている「艮御崎」と鬼門を向く本殿 ![]() 北東方向からアプローチする階段とやや斜め北を向く北随神門 ところが「艮御崎」は驚いたことに、あの壮麗な本殿(正宮)内の外陣北東(艮)隅の厨子に祭られています。本殿の中…、これは想像以上でした。 しかも神社本殿へ向かう長い階段と北随神門は何故か丑寅の方角からアプローチしていますし、本殿はそのまま北随神門と同じ方角を向いています(鬼門の範囲は結構広く、北や東が30度に対して、北東は60度の範囲となる)。神社の本殿拝殿が
表鬼門(うしとら)を向くということは極めて異例であると言われています。 吉備津神社は、知れば知る程謎の深まる神社です。これからも、少しずつ加筆してゆこうと思っています。
古墳時代、日本に製鉄技術が伝えられました。それまで鉄は半島南東部・伽耶からの鉄インゴットの輸入に頼っており、その流通は北九州の豪族に握られていました。三世紀初頭、大和と吉備は同盟を結んで北九州の豪族を滅ぼし鉄の流通支配権を奪いました。これが魏志倭人伝の「倭国の乱」ではないかと考えられていますが、これについては鉄器先進国を後進国が滅ぼすという矛盾が指摘されています。時代はやや下りますが吉備の古墳に九州の面影が色濃く残っており(造山古墳の前方部に放置された阿蘇凝灰岩の石棺等)、また前出の鉄の里「阿曽」は「阿蘇」とも表記されていましたので、恐らく九州から吉備への人の移動は確かにあったのでしょう。
その後、大和と吉備のどちらにも殆ど同じ大きさの当時日本一を競った巨大前方後円墳が出現することが、両国の同盟関係と繁栄ぶりと拮抗した力を表しています。吉備の造山古墳と河内の石津ケ丘古墳(伝履中陵)は大きさと形と時期がほぼ等しく(どちらも五世紀初頭だが造山の方がやや早いらしい)、同じ設計図による双子の古墳と言われています。造営に多大な富と労働力を必要とする、日本一を競う瓜二つの巨大前方後円墳が吉備と大阪にほぼ同時に造られたって……はっきり言ってこのこと自体が異常だわ。どんな事情があったのか、当時の人にインタビューしてみたいわね。 しかし製鉄技術そのものが伝わるや否や、吉備と大和は日本の覇権をかけて対峙する事となりました。敗れた吉備は鉄を大和に納めることを余儀なくされ、吉備の鉄という大きな力を得た大和は間もなく日本統一を果たしました。5世紀後半になると大和ではより巨大な前方後円墳が畿内に造られる一方、「大和」以外の地域では巨大前方後円墳が全く造営されなくなったことが、その力関係の変化を語っています。吉備では造山古墳に次いで築かれた作山古墳(286m:全国第9位)があとわずかで完成というところで放棄されています。このような巨大な古墳が製作途上で打ち捨てられること自体、異例の事だそうです。形はまだ十分整えられていなかったにもかかわらず円筒埴輪は並べられていたそうですから、未完成のまま被葬者に対する祭祀は行われたのかもしれません。このとき吉備にどんな異変が起こったのでしょうか。
吉備の「造山」は第五期「作山」は第六期、「造山」より大きい全国一位二位の近畿の2古墳「誉田山(伝応神陵)」「大仙 (伝仁徳陵)」はそれぞれ第六期・第七期ですから、あたかも配下に置いた地方で巨大前方後円墳の造営を禁止した上で、より巨大な前方後円墳を大和の威信をかけて造ったようにも見えます。(配下においた諸国の富や労働力を注ぎ込んだのでしょう。)
![]()
備中国分寺周辺
また大和の快進撃の原動力は、他の地方に先駆けて騎馬を駆使したものだったのかもしれません。古墳の副葬品を比較すると、大和では馬具は5世紀初め(4世紀終わりという説も)の古墳から出土します。(2001年に箸墓から木製の輪鐙が出土しました)馬は他に先駆けてまず大和に現れたようです。それからしばらくは他地域に普及した形跡はありません。世界史的にもいち早く戦術に馬を取り入れた騎馬民族は周辺の文明国を次々と滅ぼし世界を席巻しています。大和以外の国でも、馬の導入を急がなければならなかったでしょう。吉備では5世紀前半の古墳からようやく馬具が出土します。 ************************** 慢性的に鉄が欠乏していた大和 このように、弥生時代から大和はいつも慢性的鉄不足を解消する必然性に迫られていました。鉄製武器のみならず鉄製農耕具等による生産性を考えると、弥生時代のこのような鉄不足の状況で日本を統一した王権が本当にこの地に自然発生したのかと疑問に思います。畿内では前方後円墳に先立つ弥生時代後期の埋葬に、その先駆けとなるような際立った独自性は無いそうです。また大和王権成立に関しても畿内勢力の役割は「土地を提供した」こと以外は不明だそうです。もし大和がその名のとおり各地王権の集合体ならば、それらの王権が弥生時代の終わりに、瀬戸内海のどん詰まりにある鉄の乏しい畿内の奥地に結集して知恵や力を絞らなければならなかった非常事態(倭国大乱?)とは、一体どんなものだったのでしょうか?
![]()
鬼ノ城の麓にある随庵古墳から出土した鉄製甲胄 残念ながら古墳そのものは浄水場の貯水池となってしまい跡形も無く消失してしまいました。出土品は現在「鍛造具」は「倉敷考古館」に、見事な鎧や胄などは「総社市埋蔵文化財学習の館」に保管されています。上の写真は掲載の許可をいただいていませんので、あえてピントを外したものを載せています。是非一度実際に御覧下さい。 たった40m×30m、高さ5mの古墳でさえこの副葬品ですから、同時期に作られた造山古墳(360m)作山古墳(286m)には一体どのような人物がどのような副葬品と共に葬られていたのでしょうか。 その後、吉備には監視を強め支配を強化するためのミヤケが置かれたことから、朝廷の直轄地となったことがわかります。ミヤケによって生産物(鉄)や技術者を強力に吸い上げられ、さらに国を4分割された上に朝廷が行う戦争では多数の兵を出さざるを得なくなった吉備は急速に力を失い、凋落の一途を辿りました。 鉄資源と生産技術を持っていた吉備と海の向こうの伽耶(かや)が、他国の侵略を受けて同じような運命を辿ったことは、あながち偶然ではないかもしれません。そういえば吉備にも鉄の故郷の名「賀夜」という地名がありました。現在の表記は賀陽(かよう)となっています。吉備津神社や鬼ノ城のある総社市周辺一帯も近年まで賀陽(かや)郡と呼ばれていました。また、一説に吉備津神社を造営したのは加夜氏、最も古代に遡れる吉備津神社の神官も賀陽氏と伝えられています。
やがて吉備だけでなく日本の歴史も、否応無く大和朝廷の色に塗り替えられてゆきました。歴史は勝者によって書き換えられることは(今でも)世の常ですから仕方ないことです。しかしその中にあって吉備の民は、一見よくある鬼退治の話の中にさまざまなメッセージを込めて後世に発信しました。それは国の名「吉備」の文字を与えられ「吉備津彦命」と改名した大和朝廷の王子を祭った神社(何故か「吉備津彦神社」ではなく「吉備津神社」だが、大きな修理費や再建費は朝廷が喜んで出してくれるので絶える事は無い)の「縁起」として継承されました。さらに現存する数多くの奇妙な名を持つゆかりの神社や地名、神事など大掛かりな舞台装置も用意されています。(縁起最後の一文にある「丑寅みさき」は謎解きのキーワードかもかも) メッセージをこっそり後世に伝える方法としては、実に大胆で奇想天外ではありませんか。
![]()
古代吉備の技術集団がその粋を結集したかのように見える 日本最大の弥生墳丘墓「楯築遺跡」、建設当時日本一を誇った巨大前方後円墳「造山古墳」、最も秀でた古代山城にもかかわらず何故か正史に登場しない「鬼ノ城」。それらを懐に抱きながら、吉備は歴史の表舞台から早々と退場せざるを得ませんでした。「鬼の城」という名にも『この卓越した城は「鬼(=吉備)」が築いたもので、決して大和朝廷によるものではない』という古代吉備の先達が発信したメッセージが秘められているのかもしれません。
![]() 写真をクリックするとパノラマ写真が開きます。 遠くに瀬戸内海・児島湾の輝く海面が見える。今ではすっかり遠ざかってしまった海岸線だが、温羅の時代、海はこの城の近くまで入り込んでいた。一面銀色に輝く内海を見下ろすその眺望は、素晴らしいものだったに違いない。 温羅ゆかりの「鳴釜神事」の行われる「御竈殿」は、長々と続く回廊の中程から直角に分岐した回廊の突き当たりにあります。 神社鬼門にある飾り気のない建物ですが、煙に燻されて黒光りする柱や壁や梁、天井など簡素で清々しく、心を尽くして大切にされている様子が伝わってきます。 八尺下に温羅の首が葬られていると伝えられている竈の火は、神事が始まって以来千数百年間、一度も絶やされたことはありません。(残念ながら、撮影を許されていません)
温羅の視線の先に「御竈」があります。
吉備津神社にお越しの時には、必ず「御竈殿」にもお立ち寄りください。 竈から立ち上る煙の漂う神秘的な空間の中で、吉備の民が絶えることなく抱き続けてきた知将温羅と失われた国家への静かな慟哭を感じていただけるかもしれません。
長時間お付き合いいただき、ありがとうございました。
注)
余談)
参考文献:
「吉備津神社」 藤井 駿 「鬼ノ城と大廻り小廻り」 乗岡 実 「岡山県の考古学」 近藤 義郎 「古代日本の歴史」 佐藤 信 「考古学と歴史」 白石 太一郎 「古代地中海の歴史」 木村 凌二 「楯築弥生墳丘墓」 近藤 義郎 「ヤマト王権と渡来人」 大橋信弥 花田勝広 「前方後円墳に学ぶ」 近藤 義郎 「古墳時代像を見なおす・成立過程と社会変革」 北条芳隆 他 「荒神とミサキ--岡山県の民間信仰」 三浦 秀宥 「たたら製鉄」 光永 真一 岡山大学付属図書館所蔵の発掘調査資料 同:郷土資料
![]()
2002年9月2日記 撮影 Nikon D1x OLYMPUS C-3040Z 2004年11月30日 「(艮)御崎神社・分布図」を製作し掲載 2004年12月10日 写真の一部を差し替えおよび、後半の一部を加筆により改訂 2005年11月19日 安孫子写真道場・有段者部門で優秀賞を頂いた5枚の写真を追加掲載しました。他よりひと回り大きい物が該当する写真です。 他の写真もときどき更新しています。(追加分はD2X or D80)
|