老年になって歴史を学び直し、知らない事ばかりなので、いちいち感激している。そうだったのか!と。
知る者は言わず、言う者は知らず。
研究者の方々には常識でも、私には新鮮な驚きばかりだ。
JR鎌倉駅から鶴岡八幡宮へ向かう若宮大路の東側に、日蓮辻説法の通りがある。その旧跡の北に、日蓮宗妙隆寺があって、ここに鍋かむり日親のお堂がある。
金色の星月紋が甍に輝く妙隆寺は千葉屋敷(跡)に建ち、鎌倉幕府ご家人の千葉常胤の縁を現している。開山は下総の中山法華経寺の日英上人。比叡山久遠寺との宗旨論争に勝って、鎌倉ではここ妙隆寺を中心に中山門流を広めた。と、「鎌倉の寺 小事典」かまくら春秋社 に書いてあった。
二代目の日親上人は立正治国論を書いて室町幕府6代将軍足利義教に出そうとするが、その為に逮捕され拷問を受ける。熱した鍋を頭に被せられたので、「鍋かむり日親」と呼ばれるのだそうだ。1430年代のこと。
参照:鎌倉シニア通信 鎌倉のお寺さん(6) 法華宗がすべて弾圧されたのではない。中山門流も加わる不受不施という教義が弾圧されたのだそうだ。それは1378年の日実の教えから始まるのだそうだ。江戸時代から見ると、ずいぶんと古い。
その後1595年(文禄4)、豊臣秀吉が母の法要の為に招集した千僧供養に、京都妙覚寺の日奥上人が不参加を表明する。彼は4年後に徳川家康によって対馬に流された。この辺りから江戸時代。
徳川幕府を後ろ盾にした身延山久遠寺(受不施派)は池上本門寺(不受不施派)に勝利して不受不施派の僧侶6人が流罪になったのだそうだ。日奥上人も遺骨になっていたけれど再び対馬に流罪になったそうだ。
それはキリシタンの視線で言えば、江戸大殉教の7年後である。そして1665年には不受不施派は宗派を禁止される。改宗するか、キリシタンの様に潜伏するか、厳しい選択を迫られたのだ。
不受不施派は、日蓮さんのお膝元の下総と相模、鎌倉にその勢力を持っていたのだそうだ。68%が相模にあり、その数は26寺、鎌倉市大町の比企ヶ谷の妙本寺を中心にして、鎌倉に7寺あるとウィキペディアに書いてあった。鎌倉市史の引用だから、ここは孫引きだ。大町の夷堂橋を間において、東身延の本覚寺と妙本寺が向かい合ってあったのだ。江戸時代に、それは不思議な風景だっただろう。
キリシタンの殉教の100年前に日親上人の受難があった。それは鎌倉のキリシタンにどう見えたのだろう。妙隆寺には1427年(応永34)日親上人が21才の時に修行したと言う池が残っている。今も修行に使うのだろうか、池というよりプ−ルの様に整備されて、池の中央に向けて階段がしつらえてあった。
小西アウグスティノ行長は熊本南部の領地を持っていたが、関ヶ原の合戦で敗れ斬首された。熊本北部を所領していた加藤清正が領地を広げて、初代肥後熊本藩主となった。清正は熱心な法華宗信者で、キリシタンだった領民を改宗させたそうだ。
日蓮宗の寺院は鬼子母神を祀っている。鬼子母神はザビエル来日のずっと前から信仰されている。でも、たくさんの人達が鬼子母神にお参りするのは、江戸時代からなのではないだろうか。末の子供を一人胸に抱いた鬼子母神は限りなくマリア聖母子像に近い。鎌倉の大町の大宝寺の子育て鬼子母神像は、右手に風車を持っている。それは十字架に似ている、と思う。鬼子母神のあるお寺がキリシタンのお寺だと言っているのではない。改宗した人達は鬼子母神の像を見て、マリア観音を思い出すだろうと思うのだ。法華宗、日蓮宗は改宗したキリシタンにも門戸を開いていたのだろうと思う。
笛田の三十番神宮と三島神社には、お正月に日蓮宗の佛行寺のお坊さんがお経をあげる習慣があるそうだ。地域の人達が守って来た神社に、佛行寺のお坊さんが呼ばれたのだ。お寺と神社はいっしょにお祀りしたのが江戸時代だ。比企が谷の妙本寺では鐘楼にしめ縄がはってあるのを今でも見る事ができる。でも、佛行寺の場合は、キリシタンだった人達の願いもあったのではないかと思っている。
不受不施派だった佛行寺に三島神社は近くて、以前はお寺の敷地中にあったのではないかと想像する。でも三十番神宮はちょっと遠い。
三十番神宮は初めは天台宗が、後に法華宗が祀ったのだそうだ。鎌倉時代にたくさん出来たのだそうだ。だけど明治政府によって神仏分離のため祀ることを禁じられた。一方不受不施派は明治6年になって信教の自由が認められてから解禁になった。
笛田の人達は、祖先が祀った神社を明治期を乗り越えて、大切に守り伝えたのだ。
そのように、改宗したキリシタンだった人達は、キリスト教を信仰する人達の他に、祖先が祀ったように祖先を祀りたいというキリスト教ではないキリシタンもいたのだそうだ。
親がやっていた方式で親の死後を弔いたいという気持ちだ。そこにキリシタンという文化ができて、宗教を越えて時代に影響を与え続けていたのだと思う。
キリシタンだった人達は歴史の表に出てこないから、居たに違いないと思って、お寺や神社を見直している。そうすると不思議だったことが、妙に腑に落ちる、そんな場合がある。鎌倉にはそういう例がある、と思う。
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