鎌倉市山ノ内上町にある第六天社は建長寺の四方を守る神社だそうだ。ここに鎌倉市教育委員会の建てた説明板があって、それは読む人を鎌倉の謎に誘い込む。初めてこの説明を読んだ時に、これは鎌倉市教育委員会が仕掛けたなぞなぞかと思った。だからいつかはこの謎に挑戦しようと思っていた。謎はいつも魅力的だ。
「建長寺の四方鎮守には、中央五大尊と八幡(東)、熊野(北)、子神(西)、第六天(南)があり第六天は上町に鎮座する。」
参照引用:安倍晴明陰陽師ツアーいざ!鎌倉1

1万分の1地形図「鎌倉」国土地理院 を開いて、第六天社をマークする。
ほら、第六天は建長寺の南ではない。真西にある。始めっから疑問だらけだ。
八幡宮と言ったら鶴岡八幡宮だろう。熊野神社は大船にあって、子之神社(ねのじんじゃ)なら今泉だ。線を引くまでもない。ばらばらな方位で距離も違う。陰陽師はこんな仕事をしない。精密な測量をするのだ。それが彼らの仕事なのだから、精緻を極めた仕事をする。
そこで仮説を立ててみる。「第六天社が南にある」というキーで謎を開くとどうなるだろう。
西が南だとすると、南は東、東は北、北は西。90度づつずれていると仮定しよう。
東(本当は南)に鶴岡八幡宮の三ノ鳥居がある。建長寺仏殿から8.5cmの所だった。同じ8.5cmを建長寺から東に引く。地形図が「逗子」に変わって、鎌倉市二階堂にある覚園寺境内の愛染堂に当る。ここが北、かつては熊野神社があった所だろうか。
同じく建長寺の北は六国見山の隣り、稚児塚の麓になった。ここが西。子之神社があったとしても不思議ではない。子とは北を表す方位だ。ここから見れば、稚児塚の山のてっぺんに北斗七星が沈んでいっただろう。
これが建長寺を守っていた四神なのだろうか。これが答えだろうか。
そうではない。第六天だけが8.5cmの位置にいない。この仮説は間違いだ。
始めからやり直そう。
四方鎮守は陰陽師が仕掛けた呪術だ。第六天社には安部清明と書いた石碑が建っている。安倍晴明は平安時代の陰陽師だ。その時代の仕掛けだとしたら、建長寺はまだ出来ていない。建長寺の場所が伽羅陀山心平寺だったのはいつからだろう。
とにかく、第六天は建長寺の四方鎮守ではない、としよう。
建長寺のあった場所が南の四方鎮守なのだ。「南に第六天がある」というのは、平安時代の大きな邸宅の南に、後に建長寺の境内になる第六天が据えられた。ということだ。
建長寺の三門の前にはかつて鎌倉五名水と言われた金龍水が流れていたそうだ。それはそこに寺院か神社か邸宅があったという事なのだろう。そういう古い伝承を第六天社が引き受けて在り続けている、様な気がする。
さて、建長寺の北には横浜市栄区のJR本郷台駅前広場がある。このHPで何度も出て来ている秦氏の寺、光明寺跡地だ。
参照:さかえの歴史 5
参照:102.秦河勝の鎌倉
ここが古墳時代から奈良、平安時代と続く「鎌倉」の中心だとしよう。
その四方鎮守を安部清明が仕掛けた。
南は山ノ内上町第六天社。
東は横浜市磯子区の峰白山神社。
北は横浜市営地下鉄舞岡駅の北側。
西は横浜市戸塚区の小雀浄水場だ。
浄水場の前には桜の老木があって、その下に長尾道路之碑が立つ。土地の古老が言葉を選んで、絞るように石碑に刻んだ歴史が今もある。長尾とはここなのだという声だ。破壊し尽くされてもまだ山城の姿が見える浄水場を眼前にして、碑は建っている。
これが私の考えた第六天社の姿だ。鎌倉幕府ができる前に仕掛けられた四方鎮守だ。鎌倉の支配者が変わって捨てられた仕掛けは、住民の人達の手で守られてきた。今まで守って来たものをそう簡単に捨てる事など出来ない。たとえ頼朝さんや家康さんでも、人々が集まる場所を壊したりは出来ないのだ。
大切にされた第六天社は建長寺の守り神になった。でもその由来は、建長寺よりもずっと古いのだ。と、思う。
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