2008年06月08日 20:04

通り魔事件

秋葉原で複数人を殺傷する事件が白昼堂々起こってしまった。昨今この手の事件が多い。で、犯人が口にするのが「誰でも良かった」「殺したかった」etc...現実・非現実や生・死の境界線が曖昧になっているんじゃなかろうかと思う。仮想空間でいろんな事象を体験できる。それが現実と混戦しているんじゃないだろうか。殺人とまで行かなくとも、他人の心うちを傷つける行為は“もし自分だったら”という想像ができない。もしくは、直接自分の行う行為が自分に返ってこない(だろう)という思いこみがあるためかと思う。

全て仮想現実のせいにしたいわけではないけど、小さな子供がゲーム画面で何人もの仮想社会の住人(つまりゲームキャラクターね)を撃ち殺しているのを見て、ゲームだからと納得させられない。キャラクター1人が何ポイントか知らないけど、切ったり・撃ったりして相手が倒れる。いかに仮想社会とはいえ、あまりに命は軽くないだろうか。戦国時代、事実刃を交わし斬り合った戦闘があったが、日本刀というヤツはいかに切れる名刀であっても百人を一度に斬り殺すような力は備わっていなかった。骨にあたれば多少なりとも刃こぼれする。刃を打ち合えば折れる刀もあっただろうし、人の血油は切れ味を落とす。現実社会で数百人相手に切り結ぶなど、とうてい無理なこと。無理であるが故に仮想社会で可能なのだろうけど、戦国時代には切られながらも素直に命を落とすことができず苦しむ人を見ながら戦闘は続いたことだろう。人を殺めると言うことは酷いことだということは戦国武将はきっとみんな知っていたはず。


先日祖母が亡くなった折、久しぶりにあった従妹の娘が初めて死体(祖母の遺体)と対面し、怖がって眠れなかったという話を聞きました。従妹の娘は、祖母の死を通して“人の死”というものの冷たさを知ったのだろうと思います。別にそれが宗教に結びつく必要はない(結びついても良いけど)、死というのは後戻りのできないもの。死んだあと、魂がどうなるかなんて私は知らないし、知らなくてもいい。ある人から痴呆というのは死へ向かう恐怖から逃れられるだけ本人にとって不幸ではないのではないかという話を聞き、そんなものかもしれないなぁと思った。今自分が思っていること、感じていること、自分が大切にしているもの、そういった諸々のことが自分の前から霧消する。それは想像できないだけに怖い。震えが来るぐらいに怖い。かつて偉人が「我思う故に我あり」などと仰ったが、自分の存在証明を外部に求めるのではなく、自身が思うことそれが自分自身なのだということ。そして死は自分自身が考えることができなくなるということで存在がなくなること。そういうことですよね。

体と、魂(そんなものがあるのかどうかは別にして)を別に考えたり、復活を期待したり。それはもう宗教のレベルになります。私にはわかりません。ただ、死に対する恐怖は持っています。そして、それが他人にふりかかったとしたら。という想像もできるつもりです。被害者には家族も、知人・友人もいたはずです。もうそういった人たちと被害者は語り合うことができない。可愛い子供を抱きしめることも、愛する恋人を慈しむこともできない。「自分だったら」そういう想像は決して難しいことではないと思うのですけどねぇ。

人生に絶望して死を選ぶ。気持ちがわからないわけではありませんが、絶望したからといって他人を巻き込んだりすることに対して理解できるほど會澤は許容心を持っていません。死を仮想現実の中で(だけ)体験し、そんなもんだと理解してしまうと、現実社会の死もとっても軽くなる。だいたい、自分自身の命が軽いものだと感じていれば、その軽い命は他人に対しても同じ事になってしまう。自分自身の命が重いものだということをちゃんと理解できていないと同じように軽い他人の命を奪ってもたいしたことがない。そうなってしまうんだろうな。じゃどうしたらいいのだろうと考えてみる。考えてみても、こうして文章にしてみてもなかなか思いつかない。


なんといっても被害者の冥福と、家族の悲しみが少しでも薄れてくれることを祈りたい。合掌。


Posted by kaizawa | TrackBacks