医者は医療でしか輝かない
療養病床が(医学的)社会入院の温床だということで、医療保険型の療養病床から老健施設へ転換と厚労省は青写真を描いていた(る?)が、これは単なる医療から福祉への区分変更ではなく、(医療と福祉との)発想の違いが大きくでる。そのため、医療者(医師)からすれば、容易にはその転換に乗れない。医療とは病気を発見し治療する発想であり、福祉では病気を受容する発想である。
療養病床が社会入院の温床だというので、医療保険型の療養病床から老健施設へ転換と厚労省は青写真を描いていた(る?)が、これは単なる医療から福祉への区分変更ではなく、(医療と福祉との)発想の違いが大きくでる。そのため、医療者(医師)からすれば、容易にはその転換に乗れない。医療とは病気を発見し治療する発想であり、福祉では病気を受容する発想である。 医療とは本質的にどんな局面でも治す事を第一義に考える。私も研修医時代に指導医から、(患者の治療を)諦めてはダメだと言われたが、もう(治療は)これで終わりだと判断することに今でも迷うことが多い。諦めては終わりだろう。福祉とは病気を(不治として)受容する発想が根本に流れているような気がする。たしかに加齢現象は避けられないし、そして死は誰にでもいつかはやってくる。しかし、それを安易に認めないところに医療の発想がある。医療者が東洋の宗教者のような(生に対するある種の)諦観をもってしまえば、医療は始まらない。 地域医療の瓦解が言われるなかで、都市部のブランド病院への研修医人気が高いのはなぜか?それは治療者(医師)として真っ当な研修が受けられるという希望からだろう。地方病院では都市部の基幹病院で一旦急性期治療が行われて、その後退院するほど元気のない慢性期になった患者が多くなる。それは血気盛んなやる気の満ち溢れる若いドクターにとっては魅力ない領域となる。多くの地方病院では高度な先進的医療は望むべくも無く、急性期に対応した体制でもない。研修医がよりつくはずもない。 厚労省官僚出身の大学教授が「総合医、家庭医は、縦割りの専門性と違って、横割りの幅の広い知識、技術が必要であり、その専門性は高い。今こそ、「Dr.コトー」などをもっとヒーローにして、「『町医者』がかっこいい」というイメージが広まってほしい。」と述べたようだが、この教授は勿論医学部出身ではなく法学部出身。マンガ的なDr.コトーが現実のヒーローになるなんてことはないし、横割り(こんな概念があるのか不明だが、横断的な?という意味か)の幅の広い知識とは、つまるところ幅の広い浅い知識でしかない。「総合医、家庭医」が往診して、「これは基幹病院で診るべきだ」となれば、基幹病院で治療するだけのことになる。「だけのこと」と書いたが、これが難しい。基幹病院に送るべきを見逃せば誤診だろうし、基幹病院に送れば助かる症例を「看取り」として送らなければ殺人だろう。 いま必要なのは、在宅や地方で病状が悪化したらいつでも対応してくれる都市部の基幹病院機能の充実でしかない。往診していて私自身が困るのは、この病気を診てくれる基幹病院はどこだろう?どこに紹介すればいいのか?というものである。往診医に専門性があっても、機器も設備もないのだから何もできない。病院もない離島で心臓手術ができるわけはない(ところで、かのDr.コトーは医師としては天才的な腕を持ち、手術道具もろくに無い離島で、数々の難手術をこなすとあるが、先の官僚出身大学教授はマンガの読み過ぎだろう?)。若き血気盛んな研修医はどんどん都市部のブランド病院で腕磨き、どんどん往診や在宅、あるいは地方病院からの搬送患者に腕を奮って欲しい。地方田舎病院なんぞに来る必要はない。地域医療なんぞはたかが知れている。 都市部大病院のERでバリバリやる格好の良い医師像を憧れとして研修医は頑張って欲しい。医者は医療でしか輝かない。病気を受容する福祉の分野では医師は輝かない。地味な地域医療なんぞを若いうちから担う必要はない。幅広い専門性などという概念などない。知識は幅広くなれば浅くなるものである。幅広く何でもできる何でも屋というのは、ちょっと病態が複雑になれば結局は何も出来ないに等しい。
Posted: 水 - 6 月 24, 2009 at 01:26 午後
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