亡父の戦争 その2
前年の11月、ビスマルク群島のキャビエンの沖で被爆した能代は、横須賀ドックで修理中であった。...
途中マニラで砲弾を陸揚げし、シンガポール(昭南といっていた)に無事入港した。
その後当方はサンタクロースのように、スラバヤ、バリックパパン、マカッサルで無事弾薬資材を陸揚げし、各基地で大いに喜ばれてシンガポールに帰港した。...「これを貰って行く」これが彼と分かれた時の最後のことばだった。...同島南東200マイルにさしかかったのは真夜中である。...船団は支離滅裂、雲を霞と海南島は楡林(ユリン
Yulin)に17ノットで逃げこんだ。
しかし我が浅香丸は、その後台湾に向かったが、澎湖島(現在のポンフー列島)の南東約20マイルで、陸上機の爆撃を受けた。
幸いにも舵の損傷のみであったので、生まれて初めて応急舵を、ハッチボードで製作し、悪戦苦闘の末、ともかく馬公(バコウ、澎湖島)に辿り着いた。
これも前にブローグした亡父の手記である。舵を損傷してハッチ(戸)で舵代わりにしたが大変だったと述べていた。さらに、米軍の兵器は初めは欠陥ポンコツ兵器だがどんどん良くなるが(たとえば戦争初期の米軍の魚雷はまるで飛び魚のように水面を跳ねて来るので、遠方からでも来るのがわかりよけるの簡単だったが、段々まともになって、太刀打ちできなくなったと)、日本軍は初めが一番良くて、後から来る部品や補充品は粗悪になって行き(最後は明治時代の小銃?まで配給されたと)、これでは勝てないと思ったとのこと。
海軍大尉佐野泰造君一学期生時代の同分隊員で初代学期長。商業学校出身の秀才である。右も左も判らない、我々新入生の代表として、何かと心労されたことと、いまもって感謝している、と冒頭に記しておきたい。
ヘッド(11分隊)の時も、砲術学校時代も同じ分隊で、公私ともに迷惑をかけたり、かけられたりの間柄であった。練習船・進徳丸では、天測の計算(七桁)に、そろばんの実力を発揮し、その速さには舌をまいたものである。流石商業出身だ。
昭和19年2月、転勤命令がきた。前年の11月、ビスマルク群島のキャビエンの沖で被爆した能代は、横須賀ドックで修理中であった。私の赴任先は、特設巡洋艦を改造した、もと郵船の優秀船、浅香丸で北方作戦の終了後、輸送任務に復元したものであった。4月に砲弾、燃料、機雷など全ハッチに満載した。船体のどこに被弾しても瞬時にして万事終了、楽になる状態だった。途中マニラで砲弾を陸揚げし、シンガポール(昭南といっていた)に無事入港した。その後当方はサンタクロースのように、スラバヤ、バリックパパン、マカッサルで無事弾薬資材を陸揚げし、各基地で大いに喜ばれてシンガポールに帰港した。
数日間の待機、補給後、ある日内地向けの船団会議の席上で、偶然佐野にあった。一日でも早く知っておれば、痛飲できたものに、昨日もジョーホール・バルでいもを掘ってきたばかりだった。小型の護衛艦は気の毒な位コキ使われるが環境給与は最低だった。会議が終わって彼はすぐ出るという。一緒にお茶を飲む暇もない。「これを貰って行く」これが彼と分かれた時の最後のことばだった。
私のテーブルからバナナや他の果物を抱えて立ち去った。永遠の別離になろうとは。
当時では珍しい12ノット船団だった。海防艦はまだしも、駆潜艇は大いにスピード保持に苦労したようであった。海南島の沖に西砂群島がある。同島南東200マイルにさしかかったのは真夜中である。浅香丸は海軍でも珍しい船で、召集された指揮官という名の海軍大佐、副長は特進の、老齢少佐、他に京大出の軍医大尉、東大出の主計中尉、航海士の中尉、特務少尉の甲板士官、同掌砲長が士官として乗っていた。兵員は機関科以外の航海、通信、砲員約40名。召集された老兵が半分、若いのが半分でその構成は実に興味津々であった。商船側は船長始め全スタッフがいるというダブル。ワッチも可能だ。そのかわり時々『船頭』が二人になる。前代未聞の特種艦であり小生は海軍側。なんとも奇妙きてれつだが、とにかく住みよい船だった。
その夜は哨戒長。無線室からの伝声管で、敵潜が「Two,
Three, Two,
Three」と盛んに連呼しているとのこと。来るぞ!しっかり見張れ!!と思わず絶叫する。ひょいと左前方を見る七倍のメガネの中に浮上潜水艦が暗夜にくっきりみえた。距離は約2千メートル、左にどんどん進んでいる。『浮上潜水艦、左30度、フタマル、打ち方始め、急げ!』と命じた。闇夜に慣れていた眼は閃光一閃アキメクラになった。射撃の時片眼をうっかり瞑るのを忘れた。と間もなくである、一番船南海丸に火柱、殆ど同時に佐野の乗った護衛指揮艦、海防艦平戸が火柱とともに轟沈するのを目撃した。南海前方600メートルに占位し護衛指揮をとっていたものである。本船は南海丸右横400メートルであった。
佐野との永別の一瞬である。合掌。昭和19年(1944年)9月12日のことである。
六隻中三隻被雷、内二隻沈没一隻大破、護衛艦一隻沈没。船団は支離滅裂、雲を霞と海南島は楡林(ユリン
Yulin)に17ノットで逃げこんだ。しかし我が浅香丸は、その後台湾に向かったが、澎湖島(現在のポンフー列島)の南東約20マイルで、陸上機の爆撃を受けた。幸いにも舵の損傷のみであったので、生まれて初めて応急舵を、ハッチボードで製作し、悪戦苦闘の末、ともかく馬公(バコウ、澎湖島)に辿り着いた。しかしほどなくハルゼー摩下の58機動部隊の艦載機の攻撃をうけ、奮戦の甲斐もなく港内で沈没した。この戦闘により、海軍、商船側併せて十数名の戦死者をだした。後部二番砲への直撃弾命中と機銃掃射によるものであった。合掌。11月には早くも転勤となり「朝顔」に乗艦した。日本最古だが、栄光の駆逐艦であった。
「いもを掘る」旧海軍の隠語で、酒を飲んで暴れること。
Posted: 金 - 8月 11, 2006 at 11:06 午後
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