曖昧な日本の私と護憲
閲覧するブローグでは臓器売買について議論があるが、その人間性を否定するような議論にまっとうに入るほど私自身は鈍感ではないので、閲覧するだけだが、医療サービスはものを買うサービスではなく、国民に保証された権利である..クリアに物事を考える、あるいはクリアにすることが大切だということだろうか...議論をすればロジカルに筋が通るようにクリアすることが好まれる。...
大江健三郎の言う『曖昧な日本の私』であるが、西欧的な論理とロジカルな発想の究極に戦争があるのかもしれない...ロジカルにクリアな死なんて見た事はない 実際の世のすべての物事は理屈、理論、ロジカルではない。
今日は護憲の日。憲法9条と憲法25条は守らねばならない。憲法9条は戦争否定であり、25条は生存権の保障。生存権はあのワイマール共和国で初めて出てきた概念。保健、医療、福祉を受ける権利が国民にはある。憲法25条は国が国民に保証するものである。医療サービスを受ける権利が国民にはある。健康になる権利が国民にはある。金持ちだけが医療サービスを受けて健康になれるわけではない。万人に保証された権利。私が良く閲覧するブローグでは臓器売買について議論があるが、その人間性を否定するような議論にまっとうに入るほど私自身は鈍感ではないので、閲覧するだけだが、医療サービスはものを買うサービスではなく、国民に保証された権利である。万人に共通する平等な権利であって、一部の富裕層のものではない。その論点が無い以上は議論する気もしない。第二十五条【生存権、国の生存権保障義務】1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。 第9条は言わずと知れた平和憲法。中南米のコスタリカも平和憲法と言えるようで、非常時には軍隊を組織できるが常備軍はない。平和憲法を持つことで日本も一応戦後は戦争せずにここまで来た。イラク派遣は出兵と言えるのかなんなのか。一応、戦争に行っているのではないという立場か。第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 憲法はいつ読んでもロンマンである。若い人の中には改憲を支持する立場が多いとか。クリアに物事を考える、あるいはクリアにすることが大切だということだろうか。日本もそのプレゼンスを示すために軍事力の行使を認めてはどうだろうという向きもあるだろう。自衛隊という軍隊を持ちながら憲法9条で曖昧にするのはおかしいという意見もある。とくに若いひとの中には曖昧さを嫌う向きが多い。 すべてを論理的にクリアに考える。議論をすればロジカルに筋が通るようにクリアすることが好まれる。しかし、物事は曖昧な方が良いことも多い。大江健三郎の言う『曖昧な日本の私』であるが、西欧的な論理とロジカルな発想の究極に戦争があるのかもしれない。日本の曖昧な中にホットするのは東洋的すぎるのだろうか。 学生のゼミの議論で、安楽死や尊厳死について色々と意見が出ていて興味深かった。ロジカルに頭で考える死はどんな死だったろうか。もう私にはそんな死の概念はない。実際の死を何例、何十例も経験し、家族の泣き悲しむ姿、怒り狂う姿、壮絶な死、穏やかな死、無念の死、むごい死に方の死、、、それが私の死の概念で、実に曖昧な混沌とした死の概念しかない。ロジカルにクリアな死なんて見た事はない。 実際の世のすべての物事は理屈、理論、ロジカルではない。そんな見方が出来る面もあれば、全くそんな見方が出来ない面もある。やがて学生もそんな曖昧さを学ぶだろう。クリアな議論で戦争を選ぶのと、ヴェイギュ(曖昧な)な態度で平和を守るのとどちらが良いのだろうか。ベトナム戦争世代の私は迷わず後者だ。人間の理知的な思考にどうしても懐疑的にならざるを得ない。
Posted: 水 - 5月 3, 2006 at 03:23 午後
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