亡父の戦争


 mugen さんが 特攻隊のことをブローグしていた。そして映画で戦艦大和 をやるらしい。私は反戦主義者で、憲法9条擁護派である。亡父は死ぬ直前に今で言う自分史を書いた。その動機は、戦時中に亡くなった友の想い出を書くことだったらしい。以前のブローグでも載せたが、また載せてみる。亡父も戦争反対であった。戦争反対どころか暴力絶対反対であった。おかげで私も躾けと称して殴られたことも叩かれたこともない。以下は亡父の文章である。戦争ではあっけなく若者に死が来る。

  海軍中尉 谷口 質君  病気のため、本来は37期であるが、われわれと一緒になった。身体がゴツク、人相が一見恐そうにみえるが、肉体に似合わず極めて優しい人柄。ヘッドでボンクを隣合わせていたから、よくわかっている。 広島県は山の中、冬には雪も降る所の出身である。田舎の話をよく聞かされた。ついでにいえば、ヘッドの同分隊員は佐野、谷口、関根、中田の諸兄である。みな戦死した。生き残りの確率は20%であった。  

 谷口は第二艦隊の旗艦、愛宕の航海士、当方は同艦隊第二水雷戦隊旗艦、能代の航海士であった。 GF(連合艦隊)に所属していると、作戦書類の授受が猛烈に多い。誰が配達するかといえば、ほかならぬ航海士である。それも先任の士官の乗艦しているところは、頭から「受け取りに来い」だ。トラック島の泊地にいること約半年、お蔭で酷似している艦型識別に、異常に慣熟し為に夜間の艇指揮は順番に関わらず殆どやらされた。リーフ乗揚げ事故も多発していたから。 

 昭和18年(1943年)も暮れ近くラバウルに進出することになった。例によって二艦隊旗艦に書類を届け、その時谷口とかなり長いこと肩をふってきた。近況やら犬猿ただならぬ、わが航海長の話が大部分であった。 今回は珍しくも、陸軍部隊の輸送作戦であり、ガンルームの連中は、航海中使用したことがない寝室を、陸軍に饒別がわりに提供した。トラック島は北緯7度近辺、ラバウルは南緯4度である。ラバウルの手前300マイル付近にビスマルク群島のアドミラルティ諸島(南緯2度)がある。

 艦隊がその付近まで来たところで敵B-17の接触を受けた。真昼間我が方空の哨戒なし、むなしく艦砲射撃で応戦。敵は十分に偵察して約30分後に南西に悠々飛び去った。 翌早朝艦隊はラバウルに全艦無事入港した。そこまではよかった。すぐさまトロキナ岬(ラバウル南西200マイル、ヴーゲンビル島)の見張所から「戦爆大編隊、約200機北上中」ときた。  航海士に休息などはない。「この付近に満州丸は、島ありという」といったような海図を頼りに、いまでは懐かしいソロモン諸島の島名地名にある見張所からの情報処理に24時間当たる必要がある。 

 北の方からブカ、トロキナ、モッピナ、ブイン、ショートアイランド、チョイセル、舌を噛みそうなベララベラにコロンバンガラ、ニュージョージヤのムンダ、レンドバそれに南緯10度まで下がればグアダルカナルとなる。 各見張所から、ひっきりなしにくる情報を、件のチャートにいれては、その都度敵機のラバウル到着予想時刻を報告するのが航海士の役目である。交代するものはいない。  

 ラバウル港内は水深が深過ぎて、投錨不適、各艦は競馬の馬のように、何時でも発動できる態勢になっていた。 飛行場は眼の前にある。空襲警報の花火とともに戦闘状態に突入した。音に聞こえた搭乗員が、脱兎のごとく駆けだし、次々に跳びのってゆくのが見える。なかには飛行服を抱えながら走っているものもいる。驚いたことに、ここでは一方向からの離陸ではなく、滑走路の両端から互いに、反対方向に飛び上がっていく。  もうもうたる砂塵のなか戦闘機パイロットのファイトを見た。 

 よし!わが方もやるぞ!若さに勝る力はない。当時はなんの怖さも、行動に蹟躇もなかった時代。とは言うものの、対空戦闘は場数を踏む度に怖くなる。次に何が始まるかが、次第にわかってくるからだ。  しかし港内一杯の艦艇だ、脱出もままならない。〇七〇〇のラバウル入港から2時間経過。 〇九〇〇を待っていたかのごとく、三方向から夥しい数の敵機が殺到してきた。全艦ここをせんどと対空砲火で応戦した。敵もさるもの、目標は大型艦艇のようだ、専ら重巡洋艦、あたご、たかお、まや、ちょうかい等に攻撃が集中している。

 軽巡のわれわれや駆逐艦には見向きもしない。やっとのこと運動の自由な港外にでた。  上空ではP-38とわが零戦が格闘中だ。突然「航海士何時まで見てるんだ!乗り揚げるぞ」余裕のある先任参謀の声、直ちにベアリングをとり、艦位を確認する。 コースレコーダーは初弾発砲から故障した、合戦行動図の作成が思い遣られる。航海士の重要業務だ。爆撃回避運動の適否の判定資料ともなる。 

 ほどなく敵機は南に去り、各艦艇の戦闘報告が通報されてきた。谷口の戦死を知ったのはその時である。会敵当初の爆撃の至近弾の破片によるものであった。合掌。  昭和18年(1943年)11月5日のことである。 ラバウルの北西200マイル、ニューアイルランド島のキャビエン沖で能代が前甲板に爆撃をうけたのは、その1週間後であった。

*「肩をふる」船乗りの慣用語で、お互いにお喋りをすること。

Posted: 月 - 5月 16, 2005 at 08:51 午後         |


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