ひとまず安心宣言?
神戸市がブタフル「ひとまず安心宣言」をしました。参議院では政府系研究者が水際作戦で「一定の評価」をしました。まあなんというか、大江健三郎は凄いなあと改めて思いました。つまり、「曖昧な日本の私」そのものです。
神戸市がブタフル「ひとまず安心宣言」をしました。参議院では政府系研究者が水際作戦で「一定の評価」をしました。まあなんというか、大江健三郎は凄いなあと改めて思いました。つまり、「曖昧な日本の私」そのものです。 むかし、看護学部で教鞭をとっていたとき、「病気は敵ではない場合があるし、共存する場合も多い」とゼミで述べましたが、どうも若い学生諸君には意味が通じなかった。病気=悪いもの 病人は不健康 というロジックに取り憑かれているわけです。市町村保健センターで住民相手の研修会などをしたこともありましたが、集まった住民に「病気の方はいますか?」と聞くとなんの反応もなく、「いま定期的に薬飲んでいる方は?」と聞くとほぼ全員が、降圧薬や高脂血症の薬、糖尿病の薬を服用していました。つまり、病気持ちでも「健康」なんです。 水際作戦は一定の評価で、神戸はひとまず安心ってのはなんだろうか?ブタフルが国内でこんなに確認されても水際は成功だし、神戸は今後感染者が出てもひとまず安心宣言というわけ。なんだかよくわからない。もともとの誤りは、水際作戦、厳格な検疫体制でブタフルの国内感染が防げるという発想が間違いだし、感染者がゼロになることが最終的な安全宣言というゴールそのものが間違いということでしょう。日本はブタフルと共存しなくてはならない時代に突入したわけです。共存とは、いつブタフルがどこに出てもおかしくない日本になったと思うべきで、ブタフル根絶は不可能でしょうから、それであれば常に発症を前提とした社会の仕組みが必要ということ。安全宣言の裏には根絶という概念が見え隠れしますし、安全宣言をすればあとは大丈夫という安易な発想が見え隠れします。 今後のブタフル対策は、感染が確認されたらさらなる感染拡大を適時防ぎ、感染者が重症化したら適切に医療機関に入院させることでしょう。つまり、社会生活の混乱を防げるようなコントロールができているか?重症化した個人の生命を守る体制が整っているか?でしょう。神戸市に限りませんが、サーベイランスシステムが機能して感染拡大状況が早期にディテクトできて、かつ的確に(地域の学校の一斉休校ではなく)感染拡大対応ができるのか、ただの?感染者を無闇と隔離入院させるのではなく、本当に必要な重症化患者の対応ができるか?住民が感染した場合に(軽症なら)自宅で安静にしているほうが感染拡大予防に繋がると啓発されているか?などなどが安全宣言に含まれるべきで、感染者ゼロが安全宣言の最終ゴールとは言えないでしょう。 ブタフルは敵かもしれませんが、共存する時代に入り、コントロールする対象となったわけです。今の高齢社会は「毎日さ 薬飲んでも おら元気」でしょうし、「ブタフルは そこにいるけど おら元気」という社会づくりが肝腎で、政治家の好む根絶や行政が好きなゼロ作戦は幻想でしょう。
Posted: 金 - 5 月 29, 2009 at 03:58 午後
|