2007年07月26日 (木)市場の言葉、国家の言葉2004年公開研究会、日本語科の研究テーマ。
「市場の言葉、国家の言葉」 公開研究会には参加できなかったけど、 このテーマの意味がずっと気になっていた。 2004年公開研究会、日本語科の研究テーマ。
「市場の言葉、国家の言葉」 中高生には難しすぎるんじゃないか。 というのもこの「市場の言葉、国家の言葉」の意味が 私自身全く想像すらできなかったから。 時間が経つにつれて、あるいは様々なメディアを通して、 だんだんわかってきた「言葉が失われる」ということ。 もっとわかりやすくいうと、 「自分の言葉を持つことが難しくなってきている」ということ。 公開研究会には参加できなかった私の独善的な理解はこんな感じ。 「市場の言葉」 これはいわゆる「ムカつく」とか「かわいい」とか、 会話を終わらせてしまうような市場の経済用語のような即物的なもの。 自分の言葉じゃなくて、メディアの言葉を借りている。 自分の言葉を手探りで探して、なんとかして相手に自分の気持ちを伝えよう、 そういうことばとはほど遠いもの。 2006年08月24日 (木)少年犯罪を報道する価値はあるの?少し前に、子どもが放火をして弟が焼死の事件があった。
その子は「親からひどく扱われた」という。 その子の表情にはほとんど変化がないともいう。 そんなニュースをみて、ふと両親と話した。 両親は教育関係のエクスパートナー。
私「ねえ、母上。ADHD(多動)の子って、 親の暴力がADHDの子どもをつくり出してるの? それともADHDの子どもが親の暴力を誘発してるの?」 母「どっちもどっちよ。」 父「え、そんなに簡単に言っちゃていいの? どっちも原因だということを、そんなに簡単に言えるのかな。 ほんとにどっちも原因なの?」 母「・・・。」 私「・・・。」 父「わからない、ってことじゃないのかな。」 終わり。 ***** 親子問題の本を読んでると、少なからず、 実は虐待によって子どもが傷つくというより、 子どもの多動などの状態が親の暴力を誘発する ってことが結構浮かび上がってくる。 ただし、どちらが先かの話ではない。 親と子の関係はかなり複雑で多様性がある。内田樹さんは、 「わからないことに答えをすぐに出さず未知のままにしておくことに耐える能力が知性」という(母に知性がないといってるのではない)。そういう文化を持っているのがユダヤの人々だという。 ユダヤ教の聖典はうずまき状の広がりをもつ。いまもいろんな解釈について議論され200年くらいしてみんなの共通の認識が出来上がるとそれも解釈として書き足されていく。例えばそういう未知のものを大切にしている文化に対してナチスが仕掛けた戦争のネーミングが「最終解決」という皮肉。 白黒すぐにはっきりさせたがる文化はとても弱い。 負け組・勝ち組って言葉がなぜ好んで使われるのか。 ひいては、 「子どもがキレやすくなった」なんて言いのける知性って・・・ 太田光総理が「アジア共通の歴史教科書をつくる」って法案を出してた。 「大変だろうけどその作業をしようとしていくこと自体が大切」 理由はやっぱりそこに知的な営みがあるから。 今週の爆笑問題のポッドキャスト、 「恋愛・家庭のどろどろした話特集」(8月22日編)。 かなりのどろどろを期待してたけど、 けっこう甘酸っぱいかわいい話が多かった。 中学でモテモテのA君。 体が目的でA子さんと付き合うが、 実はB子さんのことが好きだった。 B子さんに乗り換えようとするが振られる。 卒業してだいぶ経ってからB子と再会。 実はB子もA君が好きだったけど、 A子と付き合ってたから応援しようって決めたの、 と言われる。 どろどろじゃなくて甘酸っぱい話じゃん!!! (って田中の突っ込み) 後半、太田が「家庭編はどろどろですよー」と家庭編を紹介。確かにどろどろ。 面白かったのは、家庭がとてもどろどろしたリスナー。 「太田さん、田中さんこんばんは。僕の家庭はこんな感じで大変どろどろしているんですが、このテーマにしてくれたおかげでこうやって投稿することができました。このテーマにして頂いてお二人には本当に感謝しております。どうもありがとうございました。」 ニュースをみて私が安易に思ったのは、表情がない子は、 親によって表情を奪われたのか、もともと出さない子なのか。 それはあたり前だけど両方あって、そのどっちかはきちんと読み取っていっても、親密圏の問題がそう簡単にわかるわけではない。 強調したいのは、子どもにそういう傾向があったり、親にまずい傾向があっても、家族というダイナミズムの中でいろんなやりとりがあって、子どもに表情が出てきたり、親のストレスが緩和されたりする。 そういう営みを通して夫婦・家族の絆が強くなったり、親がゆとりを取り戻せたり、安心して自分に自信をもって成長する子になれたり。そういうことができる場所に、家族や学校や職場を「定義し直す」ことはいつだってできる。 それから今回の放火もひと月前にあった、医者の家に火をつけて父と子だけ残った事件の影響を間違いなく受けている。しかもあの事件では医師の父がそんなにバカではなかったので自身の子への暴力を認め、放火を出発点として家族の再生が始まった。 太田光総理は「子どもの犯罪は一切報道しない」という法案を出したことも覚えておくべき。 子どもに「放火したら家庭はリセットできる」という心理操作が、 一見ポジティブな形でメディアから伝わらなかっただろうか。 ここからは妄想。 トム・クルーズをあそこまでのスターに育てた人物が複数、必ずどこかに居るはず。いろんな障害をみんながもっているのだから、そのひとたちと一緒に生きているのだって覚悟の哲学、複雑系の哲学は本当に大事。でなければ、トムだけでなく私たちの誰もが突然、歴史で習ったようなひどい差別を受け、虐殺されるまではあと一歩。かみひとえ。 障害をかかえた人間が、まるでそうではないかのように生きられる、生き生きと生きられる、そういう「きっかけ」を与えてくれるような「教育者」は必ずいる。 そしてそれは「スーパー教師」みたいなものではなくて、もっともっと大勢の、複数の人間との営みの中にあると思う。 原因はよくわからねど、 いまある目の前の問題と向き合っていくしかないなぁ(みつを風) 2006年07月05日 (水)PTSDのある国、ない国。草稿その1PTSDは国によってあったり、なかったりするようだ。
アメリカがPTSD先進国なのは国家が事実上、 暴力を肯定しているからわかる気もするけど、日本はなぜなのか? 直感的には差別の問題ではないか、と思う。 乞食を「かわいそう」と思う、そういうたぐいの差別。 差別によりつくられる「絶望」と「甘えの構造」とのからみ。 天災で家を失って避難所にいる人が「こんなとこじゃ寝られない」と BDP(境界性パーソナリティー障害)みたいに暴れ出すのも、 一種の「絶望感」と日本独特の「依存」とのからみではないか。 仏教ではPTSDは一種の「執着」の状態である。 日本は「ねたきり」もつくりだした。 ねたきりはそれ以前には社会現象としてはあり得なかった。 日本の医療は慢性病、心身症(高血圧、糖尿病など)を減らせず、 高度技術医療でねたきりを増やした。 進む方向が違う気がしてならない。 他の国々の医療はそういう方向には進んでいない。 インドの価格安い医療は欧米諸国、要人の難病を吸引している。 欧米セレブはインドに治療に行く。 この国でPTSDを最小限にしていくようになるには、 傷が「キズモノ」というイメージで語られるのではなくて、 人間としての「深さ」や「渋さ」につながる、 そのような価値観を取り戻していくこと。 「そのあたりで日本人の品性が問われることになりそうですね。」 『健康な肉体に狂気は宿る』新潮社新書、春日さん。 柄谷の漱石論、「死」か「狂気」かの二択じゃないよ、ということ。 韓国は徴兵制で、若い男子のほぼ全員が20代後半には大きな(心と体の)傷を負っている。 でもそのことを通し、とても人間的に深みをもったヤツがいるのも事実。 それを聞いた高橋源一郎さんは「じゃあ、日本でも徴兵制を・・」と言いそうになる。 よど号ハイジャックの飛行機に乗り合わせていて、 テロの恐怖を体験している日野原重明さん(96)はもっと露骨に 「健康面からいっても日本は徴兵制にすべきだ」と言う(笑)。 確かに日野原さんはすごいが、誰もが90代まで生きたいのかは疑問。 災害救助のような部隊のみであるなら「よき傷」を負うためのいいきっかけとも思えなくもない。 「もう医者やって欲しくない」 http://www.asahi.com/national/update/0615/TKY200606150292.html ミスを犯した医者を裁くのは誰か。 日野原重明さんは研修医のときに大失敗をして、 それが「良きPTSD」となりホスピス医療を発展させた。 「日本の宝」と言われる上野の町医者、精神科医の浜田晋さんは 医学生時代に船上で赤子を取り上げ、胎盤をガーゼで巻いた。 船が満州に着いたとき、赤子はそれが原因で敗血症で亡くなった。 「傷つくことで魅力が増幅される」 そういうダイヤモンドの原石みたいな部分が、人間にはある。 そして「自分のことをわかってくれる人などいなくてもひとは生きていける」 そのことこそ、いま人間が学ぶべき大切なことではないか。 (『子どものための哲学対話』永井均) 加害者と被害者が硬直化することこそ、 その後の人生を双方が困難なものにしていく。 上記の二人の医者は「失敗」から初めて「医者」になったと言えないだろうか。 「事件」「事故」を通して、ヒトがひとになる。 0か1かのデジタルな思考は「別解」を受け入れ難くし、 思考が固着化、パターン化するのを増幅する。 「怒り」や「憎しみ」、被害者意識を増幅する。 怒りは仏教でも欲望のなかでもっとも取り除く(限りなく0に近づける)のが難しいとされる。 相当な時間をかけながら僧たちは修行をしている。 もっとも困難だが、克服していくと実りも大きいことを奨励する国と、 もっとも困難なことをより困難にしていく国。 草稿1おわり もちろんアメリカにもこういう偉大な人物は居ます。 芹沢俊介さんの『子ども暴力論』芹沢俊介
http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_serizawa.html >2005年9月14日死刑執行。国家は宅間守の挑発に乗った。 >私は麻原彰晃に負けたくないと思った。彼を絶対に許せないという立場を崩さないためには、彼のやったのと同じことを、それがどんな形であれやってはいけない。私は彼を殺害することを承認するどんな意思にも加担しないと決意した。 受動的に生じる「暴力」。 この世に生まれ(させられ)たこと自体が実は暴力的な現実。 そのイノセンス(暴力)は、大人(主に親)に受け止められることによって解体される。 大人(主に親など)が権力で巧妙に抑えられ続けると、 宅間守のようにイノセンス(暴力)は解体されないまま肥大化。 「体罰」の章 体罰が直接の暴力じゃなくて「巧妙な権力」に すり替えられてる今の時代にはもっとガツンとくるお話。 日本の知性。 面白くて寝不足。 宅間や麻原の狂気にそまらない理性をもってる芹沢俊介。 ヒステリーに動じない態度はやっぱり先がみえてるから。 やるなあという感じ。 哲学者と言うより、子育て人。 子どもに「どうして夫婦関係もクソなくせにオレを生んだんだ! ぶっ殺してやる!」って言われたとき、 それが言葉どおりの「本当」ではないことを見抜ける。 ヒステリーだと、普通は暴力(権力)で子どもを抑えつける 「親に向かって何様だ!」と。 それじゃだめなんだけど。 フジテレビ「32歳ニート、母への暴力からの出発」ドキュメント見てたら、 母への暴力より母の暴力にびっくり(笑。 話し合いの最中にバケツで水かける姉。 ニートじゃなくて典型的な共依存じゃん!! 泣 フジテレビ・ザ・ノンフィクションの「不倫を繰り返す32歳女」て痛いドキュメント。 (「不倫を繰り返す32歳女」で検索したら11万件ヒット!満員御礼!) MusicOnTVドキュメント・ハナレグミなんかと併せてDVD化してほしい。 なぜか? 「三十路シリーズ」が旬なことに気づいてるのはエロ本、AV業界だけじゃないはず。 32歳といえば統計的にいうとベビーブームの頂点の人たち。 ホリエモン、キムタク、人数も多いのでいろいろ居て面白い。 バブル経済をぎりぎり知ってるひとも。 写真家・橋口譲二さん、どうか「17歳の地図」の続編「32歳の地図」出版して下さい。 http://www.koshoshi-noir.com/jituzon/01.html と思ったら近いものが出版されていた。 『17歳の軌跡』。12年後、29歳になった人たちを取材したもの。 私はどこかに狂気に魅了されてくとこがあるので、 芹沢俊介と禅やってる友人と3人で麻原に会ったら、 最初に麻原に傾倒するのはあたしだろーなーと。 私は「ヒステリー感染」しやすい。 あの(間違った)高揚感に(間違って)惹かれるのか。 それともレクター博士のようにヒステリーを増幅させて楽しみたい私の無意識の「悪意」か。 ハンニバル・レクターは正気じゃないから捕まったけど、 彼くらいの冷静さそのものは大事。 Mr.Rogersの名演説。 涙が止まらない。 2006年06月19日 (月)性犯罪 排除しないで再犯なし 先進カナダ『抑制ホルモンの投与も
先進地カナダ
(子どもを守る
性犯罪から)』
http://www.asahi.com/special/children/TKY200603130230.html 2006年03月13日14時57分 asahi.com どう考えてもタイトルつけ間違い。 記者は日本の性犯罪者にも、ホルモンを投与してみたいのか。
『排除しない取り組み 再犯者ゼロ 先進地カナダ』 と、書くべき。五七五にして、 『性犯罪 排除しないで 再犯なし』だともっといい響き。 性犯罪はもっとも再犯率が高い。 ハミルトン市の実践にはびっくり。12年間、再犯なし!! マイケル・ムーアの『ボーリングフォー...』でもカナダでは家にカギをかけないのに泥棒がいないことを報道していたけど、カナダやオランダのホリスティックな実践は要チェック。 けさ通勤電車で芹沢俊介の『酒鬼薔薇聖斗論』を読んだ。 時事ネタは時差で読むと冷静に読めて面白い。 が、芹沢の聖斗論は事件からわずか3日後から論じ始めている。 彼の犯罪心理への共感力にびっくり。 フタを開けてみると映画『レッドドラゴン』並みのやり場のなさ。 大切なのは今後。 この発想に気づく人、気づかない人(PHP新書風) 彼を監視・排除して、第2、第3の「酒鬼薔薇聖斗」を生み続けるか、 「強姦という概念は、まず家族が心的に解体していない限り、生じない」(芹沢)。 性犯罪者は孤独で絶望している。 性犯罪者を排除でしか迎えられない人もまた孤独なのだと思う。 異例の速さで死刑にされた宅間守と獄中結婚した人の気持ちは計り知れない。 一方、被害者は? 被害を受けた子どもは、学校へ行けなくなったりする。 過激な表現であえて言いたいのは、学校権力の存在がレイプを助長しているのではないか、ということ。 「いじめの根源は文部省だ」と言った友人がいたけどまったく一理ある。 「強姦の根源は学校だ」は、そんなに過激でもあるまい。 傷が癒されていくような知的な営みの場であったら学校へこそ通う。 執拗にセカンドレイプ、サードレイプをするような場には行くわけがない。 「いや、学校はレイプはしてない」と否定できたとしても、 「深い傷を負い、勉学を続けるのが著しく困難だと判断した」 という理由を否定できる学校は少ない。 傷ついた子どもを排除する学びってどんな学びだ。 喰ってくために歌う歌ってどんな歌だ。 人助けがしたい気持ちを満たすための人助けってどんな助けだ。 傷ついた子どもを排除して学ぶ知性ってどんな知性だ。 その場合、排除されずに学校に残っている子どもたちも、 実際には深い傷を負ってしまう。そのこを明確に言葉にしたのは、 『希望としての不登校・登校拒否』の高1のK.M.さんの手記。 考えてみると当たり前のことでもあるが、 被害者、加害者の生活圏、親密圏にいる人間も同じように傷つく。 酒鬼薔薇聖斗は駅でも自宅でもなく、学校の校門に首を置いた。 学校が第2第3の酒鬼薔薇聖斗を生み出す場所になり続けては困る。 学校が本当に被害者が救われる場になり、 加害者を生み出さない場に本気で取り組もうとしているか。 自身の持つシステムの「おかしさ」と向き合おうとしているか。 教育権力を使わないで学びの場を実現しようとしているのかどうか。 この問いに「いやあ、うちは監視カメラ設置しましたから」、 「いやあ、うちにはとても厳しいベテラン生活指導の教員が居ますから」 「いやあ、うちにはそんな生徒はいませんから」 以外の回答で、以て受けて立つ学校がいくつ出てくるか楽しみ。 じゃあ、親は? 親も「先生」化して権力者になってしまったら、 子どもはもう家出、暴力団(男子)、 風俗(女子)くらいしか居場所がなくなってしまう。 「勉強をしない我が子に『大学はどうするの』と軽い調子で言った母親の言葉に、『それが悪い』といって怒り出し、それから殴る蹴るの家庭内暴力がはじまったという報告はいくらでもある。」(『両親殺害論・遺棄論』芹沢) 『<奈良民家全焼>放火・殺人で捜査 油のにおい、遺体に傷』 『東京湾に乳児の遺体 ごみ回収船にかかる』 家庭が学校化した両親と、教育権力そのものの学校(神戸大学附属中学)によって 追い詰められた12歳の少年は父を殺した(93年11月23日、森安九段殺人事件)。 (『登校拒否論』芹沢) 13年経った今の神戸大附属中は相互監視の教育権力システムはもう廃止されたのか。 大人が暴力のシステムを巧妙に繰り返す限り、子どもに暴力は丁寧に伝達される。 私が小学校の頃には、 まだ「体罰を受けたら、ありがとうございます!って言え!」て 後ろ回し蹴りの恐ろしく上手な教員が居た。(私の担任) その頃、あるいは今もかもしれないが、 履歴書の得意科目の欄に「体罰、回し蹴り」って書くと、 引く手あまたの採用があるんじゃないかしら。 皮肉を言ってみたヽ(´ー`)ノ。 皮肉が言えるのは傷があるからこそだろうか。 彼は今どんなふうに子ども達をサポートしているのだろうか。 カポエイラの選手にでもなっているのだろうか。 「システムのなかの自分を疑わない人は恐い」(『体罰論』芹沢) 80年代の校内暴力は収まったのではなく、 より学校、子どもの心理の内部に取り込まれ、 より「よい子」が鬱血した暴力を生み出すようになってきた。 酒鬼薔薇聖斗が捕まった当時、 14歳の子ども達には「かっこいい」と共感する立場が少なくなかった。 私の暴力予測。「かっこいい」と言えたひとたちは大丈夫。 「かっこいい」と言えなかった「よい子」たちの鬱血が、 これからの酒鬼薔薇聖斗になっていく可能性の方が高い。 自分の行く学校には、リストカットする人は居て欲しくない、 頭が悪い生徒もいて欲しくない、家庭に問題がある人もいては困る、 自分より頭が良すぎる人も居て欲しくない、 自分みたいなそこそこなひとたちで満たされていて欲しい、 学校での問題は(もみ消してしまって)ない方がいい、 体罰はあっても、ごまをすってさえいれば自分は免れることができる。 そういう学校であって欲しい。 そう思って入学するとき、その子どもは酒鬼薔薇聖斗なのだと思う。 理想への固着は破滅への固着。 あるいは、そうやって排除の思想をどこかに持って入学試験、 定期テストを行っている学校。 そうした学校権力が酒鬼薔薇聖斗なのだと思う。 そう考えると、酒鬼薔薇聖斗は「始めのひとり」ではない。 我々みんなが年月をかけてつくった申し子ということになる。 教育権力システムが生み出した怪物。怪物は語弊かもしれない。 みんなで作り出した超エリート、模範生徒。時代の寵児。 金儲けさえ考えなければ、カナダのように安心・安全な街に、 気持ちよく暮らせたり、 金儲けさえ考えなければ助け合ったりできるし、 ただ(金儲けのためにではなく)学びさえすれば、 知恵も知性も、学ぶ喜びだって、ただただつくばかりなのに。 知性って、傷ついた人と一緒に学んでいく場のなかでこそ豊かになっていくものじゃんヽ(´ー`)ノ みんながいるから面白い(おかあさんといっしょ♪あんな子、どんな子〜さよならマーチ) 冒頭の二者択一問題、 前者、「監視・排除」はお金が儲かる論理、 後者、「排除せずに地域が安全に」は、お金で買えない安心、安全、心が豊かになる喜びの論理である。 みんなちがって みんないい (『私と小鳥と鈴と』金子みすず) 2006年06月11日 (日)「ジモリがいっぱい」卒業生の進路、著作ほか-自由の森ついでに自由の森関係の教員の著作など調べてみた。 ・『生物のすみかをみんなでつくる』 現在の中学校校長がんばってるモルゲン(塩瀬治)の著作。 ・『授業がおもしろくなる21中学授業のネタ- 理科第一分野・物理』 理科の後藤富治さんの著作。 ・『理論・実践 中学校化学の授業』 私が在籍してた頃、理科の教員だった松井吉之助さんの著作。 教員の実力と経験はすごい人だった。 ・『ぼくらが鳥人間になる日まで - 飛べ!プテラノドン』 どの学校の図書室にも置いてある名著。 自由の森学園、人力飛行機部15年間の記録。 国内外に大きな影響を与えている(中国版鳥人間)。 ・『住環境リテラシーを育む - 家庭科から広がる持続可能な未来』 私がいた頃、人間生活科(家庭科)の教員だった妹尾さんの著作。 ・『数学バンザイ』 言わずと知れた、数学科、マッシーの著作。 生徒がどこで「つまずいている」かがわかっちゃうスーパー教師。 今はスーパー非常勤の一人。 ・『骨の学校 - ぼくらの骨格標本のつくり方』 ゲッチョ(盛口さん)と安田さん(安田守)の共著で名著。 授業や日常などを元にして書かれているので、 ともだちが沢山登場。確か私も登場してたか。 ゲッチョの手書きの子どもたちの臨場感が好き。 でも自由の森じゃなかったら、 ゲッチョはゲッチョでなかったかもしれない。 学校(自由の森学園)では、学生時代の友人がつけてくれた館山の方言「カマゲッチョ」(トカゲやカマキリ)からとった「ゲッチョ」のあだ名で呼ばれる。授業づくりや先生というものに悩みを抱く僕に、生徒の「何一人ではりきってんだ」と言う言葉にショックを受ける。先生になる前に「自分らしく」なることが大事だということを忘れていた。生徒と向き合うにはもっと生き物について勉強しなければと、・・・(後略) 月刊『子どもの本棚』03年2月号より
教員も生徒とともに考え、悩み、工夫して変わっていける「場」ってやっぱりいい。
・『小さな骨の動物園』 2006年夏、大阪と東京で大成功を収めた INAX「骨の動物園」という展覧会。 自由の森学園理科科、卒業生の真樹子、 (大学のゼミ合宿で偶然出会った↑)をはじめ多数の方の企画。 ・『冬虫夏草の謎』 ゲッチョ、2006年6月の著作。 と羅列してみたら、改めて考えると自由の森の理科教育すごいかも。 だいたい、ゲッチョのやっていることなんて、 日常のできごとすべてが学びの場のようなもの。 授業の枠を完全に越えているからこそ、高度な理数教育が可能なのだと思う。 ちなみにあまり知られていないけど、自由の森の自由選択講座で、 昔からずっと一番人気な講座は、松本さんの「モノづくり化学」なのだ。 もちろん文系もがんばっています。 ・『ブッダ - 大人になる道』 アルボムッレ・スマナサーラさんの著作。 上野さんの哲学講座で長老のお話を聴きに行ったあと、なんと 今度は進路部などの後援で自由の森の音楽ホールで講演。 それを元に編集してできた著作だけに、 読者は自由の森の生の雰囲気を感じられるかもしれない。 ほんとに羨ましい学校だ。生で聞けなかったのが残念。 長老はELAN VITALにも出演しててびっくり。 ・『学力を変える総合学習』 高校長がんばってる鬼沢さんと大学教授の佐藤さんの共著。 ゆとり教育の主幹であるような総合の授業は、 多くの学校で失敗した。教員の教育が足りていなかったからだ。 自由の森の総合学習の時間はいまも活発である。 ・『自由の森学園の自然給食』 食生活部の創立メンバーのひとり、小林節子さん(編)の名著。 小室等さん、岡庭昇さんほか、の笑いと涙の全記録。 読み物として読める。日本の学校食の再生はここにあり。 まだまだ他の学校に広がらないのが残念だけど、それは 保護者らの「がっこう」への関わりたくなさに関係するのか。 かつては「薬膳」さえも赤字提供した自由の森の食生活部。 今も「伝統食」というメニューに引き継がれている。 ・『ピカソの手 - 美術教育論集』 鈴木瑞穂さんの著作。哲学的。 自由の森から芸大生「続出」の理由は美術科の哲学的「深さ」か。 卒業生の著作も面白い。 ・『Quiet Storm - 静かなる嵐』 ~HIV陽性者のたたかいの勝利のために~ 国連職員(国連開発計画)である宇治和幸さん(2期生)が手がけてきたプロジェクト。
購買部で少し安く売っていて、生徒たちによく売れているらしい。写真集のような本。 ・『やまけんの出張食い倒れ日記』 いわずと知れた2期生、やまけんのブログが本に。 最初の著作は以下の専門書だった。 『実践 農産物トレーサビリティ流通システムの「安心」の作り方』 専門書としては異例の売れ行きで有名になった人。 農業革命の担い手のひとり。 ・『te to te』 ハナレグミ、永積タカシ作の絵本。イラストは北村範史さん。 ・『無名校からでも1年で東大生・6ヶ月で医学部生になれる』 この無名校というのは自由の森か(笑)。石原さんの著作。 「勉強法」「勉強のやり方」の本です。 ・『着物のいろは』 前野 未悠さん著。これで私も着物好きになった♪ *** 他にもいろいろあると思うけど、なんとなく羅列してみた。 以下、2期生の吉岡秀隆さん出演の映画、ドラマなど。。 2006年04月18日 (火)『暴力から逃れるための15章』(下編)もし暴力の側に居る状況の人がいたら、早めにこの本に出会ってほしいと思う。
暴力をいつ自分のもとに引き寄せているか、そのことに気がづく必要があるから。 起こっていることが本当に「わかる」と「以前よりも出歩くのが怖くない」のだ。 <『暴力から逃れるための15章』(上編)
下記のリンクはとてもわかりやすい暴力に至る3つのステップ。 >家庭内暴力4・暴力の3つのステップ 本田美和子 (ほぼ日刊糸井重里新聞「お医者さんと患者さん。」のコーナーより) 著者は10歳のときに母親が夫に銃を突きつけてる現場に居合わせ、 その場で起こることの判断、予測をせねばならなかった。 薬物中毒の母親が引き金を引くのか、引くなら何時か。 2歳の妹は寝室にいる、自分はどう行動するか。 やがて著者は危機予測・暴力予測の権威となった。 母を殴る継父を止めるのに失敗した著者は、 のちに何百人もの刑事にDV(家庭内暴力)の現場を押さえる方法を教える。 数度の自殺未遂の後、入院した母を見舞った著者は、 やがてカリフォルニア州知事の顧問として精神病院を巡回する。 恐怖と隣合わせで生きた少年時代をもつ著者は、恐怖に対処する専門家となった。 極端にその「判断力」が発達したおかげである。 レイプされたが命は助かった女性は、自分の「恐怖」に耳を傾け、 そのおかげで死なずにすんだとわかり自信がよみがえったという。 そしていろいろなことがわかったおかげで、事件前より出歩くのが怖くなくなったという。 「できればたくさんの人が、わたしと同じ目にあってからではなく、 その前にいろいろな情報を知って、危険を避けられたらと思うんです」という。 私は強烈な事件を経験した後はもう恐怖の虜になって引きこもるか、 逆に精神が壊れてしまってむしろ恐怖の連鎖の世界に迷い込んでしまうか、 2つの選択肢に陥ってしまうのではないかと思い込んでいた。 各章のはじめに、引用がある。 第4章 「危険を察知する能力を培い、危険から身を遠ざけるべし。 賢者が狂った犬に近づかないように、邪悪な人とは交わってはいけない。」仏陀 (ブッダ) 他人のどんなところを信じてはダメなのか、どんなことは信頼できる情報なのか。 細かい判断のもととなる情報の宝庫である。 ****************** 虐待を経験している人たち(ここでいう加害者)は「戦略的に」生きている。 それこそ必死で過剰に社会環境に適応を試みている。彼らなりの方法で。 「仲間意識の押しつけ」「余計なことをしゃべる」「ノーの無視」などは、テクニックというよりは、必死で生きてきた状況の病的な現れだ。 この著者は誰でも起こりうる暴力を予測できるという。 著者の何気ない一言はとても悲しい重みを帯びる。 「アメリカ人であるかぎり、暴力と無縁ではいられない。」 「わたしの会社は一風変わった会社で、アメリカでしか成り立たず、またアメリカでしか必要とされない会社かもしれない。」 安全保障もアメリカに前ならえした日本。 いまや「アメリカ」という部分は「日本」にも置き換えられる。 とにかく犠牲者にならないこと。そのために「暴力」に近寄らないこと。 危険信号に耳を傾けること。近寄らなければ、起こらずに済むことがあるのを学ぶべきだ。 「接近」するから「暴力」なのだ。避ければ、起こらないのだ。ずるずる荷担すること。 だらだら加担すること。うじうじ側に居ること。依存は暴力の一種(精神的暴力)、あるいは幇助。 相手を自分がコントロールできるところにとどめておくからだ。 共依存は虐待や暴力を発生させる(共依存の定義は、友人に貸してる『童貞としての宮沢賢治』が手に戻り次第また考えてみたい)。なぜなら依存も(精神的な)暴力、相手をコントロールしようとする欲望のひとつだから。そうやってどこかで暴力を助長、肯定してしまうのです。 とにかく犠牲者にならないこと。避ければ起こらない。 例えば、戦争でさえ、みんなで避ければ、起こりようがない。 みんなで避ける意志があるのならね。 you may say i'm a dreamer, but i am not THE only one. ・デートレイプ・・・CAPワークショップ体験記 ・『暴力から逃れるための15章』(上編) ・「精神的な暴力」も暴力と同じ ・子どもの性的行動・きょうだい間の性虐待
2006年01月15日 (日)マイブームは法学・・・『著作権法入門』(文化庁編集)を読む著作権。庶民には敷居が高すぎだと思う。
何がって、著作権を乗り越えて新しい文化を生むことが。 頭に来たことからマイブームは法学になってしもた。
だいっきらいだった法学。 だって「おやくそくごと」なんだもの。 ・・・だったんだけど、最近法学が楽しくなってきちゃた♪ 法学って「きまりごと」をつくったりってことだと思ってた。 とっても退屈な学問で、いろんなひとのために、 なんてことを考えて、極力「例外」がないようにつくらなくちゃ、 とかいろいろ面倒くさいことだと思ってた。 ところが最近『著作権法入門』(文化庁著)というちょっと マニアックな本をチラ見したら、—–タモさんの江戸研究じゃないけど–—、 法学が趣味としてとても面白くなってきた。 というのも、最初のきっかけは『著作権法入門』て本のある一節。 「日本の著作権の法整備は世界に誇れるほど整っています」 ってことば。 なんと、こんなしっくりこない言葉が1ページに2度も登場。 きっとこの本を書いた人はとっても自慢したいことなんだろうと。 でも、私には全然そう思えない(むしろとっても遅れていやしないか?) とってもひっかかるこの高慢な言葉。 ***** 普通、音楽や詩をつくったりしたときって、 それを聞いたり、読んだりしたひとからの反応があるってことは うれしいことじゃないでしょうか。 音楽や詩をつくったら、恥ずかしいから絶対イヤ! ていう場合を除いて、やはりみんなに知られたり、 「あなたの音楽って素敵。もっと聞きたい」 「あなたの詩ってステキ。もっと読みたい」 「あなたの詩に音楽をつけたい」 そう言われたら、やっぱりうれしいんじゃないでしょうか。 音楽や詩、文章などの著作者は 「知られたくない」「演奏してほしくない」 そういう特異な意図があってつくられている場合をのぞいて、 もっともっと知られたいものではないでしょうか。 あるいは、もっともっと楽曲が売れてほしい、など。 てことはだよ。 「著作権を守る」って言葉のなかに、 iTunesで手軽に楽曲を購入できる、ってことも含まれているはず。 iTunes Music Storeの方が著作権を守っている、とも言える。 (もちろん久石譲さんの指摘するようにCDでは、アーチストは実験的な曲も入れることが出来たけど、1曲買いが出来ると、実験的な楽曲作りが難しくなってくるのではないか、など今後発生して来るであろう「著作権」の問題もあるけど。私の意見では、iTunesではその恐れはないと思うけど。だって「一曲買い」できない曲もちゃんと用意してあって、そういう配慮があると「B面」のような曲提供だって可能だから。) いまの制度では、 「ある素敵な曲に自作の歌詞をつけて歌ったCD売ってみたい」 「有名になってきた友人の歌を自分のホームページでも流して紹介したい」 全然簡単にできない。 「有名になってきた友人」っていうのがミソ。 事務所に所属しているということ。 JASRACに楽曲が登録されているということ。 登録するとなんと自分で作詞作曲した楽曲も使用料が必要に。あはっ♪ そうなると、例えば作曲者本人の友人に 「ネットで紹介したいのでHPで曲使ってもいい?」 って聞いたときに、本人が 「ぜんぜんおっけーだよー♪ぜひぜひ☆あんがとさん!」 って言っても掲載すると著作権法違反。 現在商用の場合、ネットでは自分のHPに1曲掲載しただけで月に5千円! 5千円払えばいいのではなくて、毎月5千円です。 じゃあ、期間限定で5日間だけ載せれば安いかな?ってこれも5千円(涙)。 1日1000円計算なんだって。あは♪ 誰がどのように著作権を守ってるのかが、かえって不透明。 <06年4月追記> いつ更新されたのか、非商用の利用料金が改訂。 1曲アップしてると月150円だって。iTunesちっくな料金だなぁ。。 教育機関は1曲アップ月300円・・・なんで料金倍なの!? ってなんで教育機関に教育的配慮がないんだよー!!! いまどき「高等教育の無償化」に批准してないのは、 国連では日本とルワンダとマダガスカルだけじゃん!!! <現代思想2006年4月号[青土社]参照> アメリカでも批准してるのに、 日本はGDPで教育費は世界的に0.5%けちってる。 ナニにケチってるのかなー2兆5億円・・・。 著作権も、政治も、医療も、教育も、 儲かっているときってろくなことしない。 だいたいどれも儲けるのが仕事じゃないじゃん。 だったらほかの職業つくべき。 どれも気持ちの良い世界をつくりだせてなんぼの職業じゃん。 おみごと!リンク ・Music Watchdogs 音楽の見張り番 このサイトは、アーティスト・音楽産業・リスナーの三者が共にハッピーになる状況を目標に、音楽を愛する人達の力で健全な音楽シーンを活性化させ、良い音楽を楽しみたいと願って集まった有志によって運営されています。 ・鎌津間ブログ〜知財情報+疲れ気味な著作権問題を蒸し返すBlog〜 ブログのサブタイトルが好き。リンクは週刊ダイヤモンド 「日本音楽著作権協会(ジャスラック)使用料1000億円の巨大利権 音楽を食い物にする呆れた実態」に関するエントリ。 ・作詞家小室みつ子さん(JASRACの正会員です)のサイトの日記より、 日付 : 2005年08月12日 (金) 件名 : 音楽の楽しみ 2005年12月27日 (火)自分を中傷する人に会い、話を聞く - 今井紀明さん今井紀明さんの話を聞いて
私にはまず余計な基礎知識が何もなかったことがとても良かった。 知っていたのはイラクに行き、国外では賞賛、 国内からは自己責任だとバッシングを受けたことだけ。 イラクへ行ったことの意味
一番に挙げられるのは、 日本には「誹謗中傷」しか意見として持てないような 国民が大多数だという事実を明かにしたこと。 国民はマスメディアをうのみにすること。 メディアに支配され、その他の視点を持てないこと。 「自分の考えをもつ」ということが困難な状況にあるということ。 皮肉なことにイラクに行ったことは、 本人の意図とは別のところで意味があった。 私はもっと重要な肯定的意味を考える。 彼は「管理の行き届かない場所」を求めて行った。 日本の民主主義を守るために。全体主義的傾向に疑問を投げかけるために。 彼ほどの役目を果たしたひとはいない。 もしそれでも彼に「裁断」を強要するならばそれは「戦前の思考」だといえる。 管理主義は目に見えないかたちで、よりいっそうひどい状況になっている。 つまるところ、国の軍国主義化は十分に整った状態である、といえる。 「自分を中傷する人に会う」というパラドックス 会場にこう発言した人がいた。 「どの世界にも誹謗中傷をする人はいて私はそのことはよくわかる。 でもそういう人たちは変わらない。 だからもう違う、新しいことを始めていきませんか。」 会場に拍手が起こったが、私は賛同はできなかった。 今井さんは、 自分に送られてきた非難(人格の否定を含む)の手紙を読み、 返事を書き、 やりとりの3通目には 「お互い考え方は違うかもしれないが、あなたもがんばって下さい」 という応援のメッセージが来たという話をした。 本人もここまで変わるとは思っておらず、驚いたという。 率直に聞いた限り、今井さんは 「変わらない」 という絶望感ではなく 「変わる」 という話をした。 私もその変化にとても驚き、新しさを感じた。 ひとたび考え方が違うと心を閉ざし合い、ネットという匿名社会に逃げ込むのが昨今。 熟年離婚や集団自殺を考えている人たちにとっても、彼は希望を語ったのではないか。 ましてやテロ時代にあっては、考え方が違う人々を排除する思想こそテロリズムに近い。 どんなに小さい声であったとしても、少数の声に耳を傾け続けること、 ――話を聞いていなくてよく注意される私にとっては耳の痛い話だが―― そこから本人さえ想像していなかったような「希望」が生まれる。 ここでいう希望とは 「互いに考え方の違う人間たちでこの世界を営み、楽しみ、生きること」。 最後に、今井さんと、 今井さんが講演会をできる場をつくってくれたひとたちに感謝。 彼がそういう気持ちになれたのも、 事件後のハーバード大学での8ヶ月の生活があってのことだと思う。 日本にいては人間性そのものがつぶされる。 教育現場が国家の監視下に置かれてはこうした「場」も不可能。 日本にまだ魅力があるとすれば、 「管理のゆき届かない場所」がまだまだあるのだということによる。 「見えない管理」に関する参考文献 1,『悩む力』斉藤道雄著, みすず書房 2002.04 『とても普通の人たち~浦河べてるの家から~』四宮鉄男, 北海道新聞社 02.11 管理の行き届かない場, 安心してさぼれる会社, 患者を治さない医者, etc... >mujinamo's --- 読売新聞「べてるの家」特集 2,『仕事のくだらなさとの戦い』佐藤和夫著, 大月書店 2005.12. アウシュヴィッツ強制収容所には「働けば自由になれる」とある。 2005年12月11日 (日)過労死、風邪死、プロゲーマーネットゲーム死風邪引き初めてから10日目くらい(涙)。
どんどん悪化してきたけど、今日がピークかしら。 韓国でもネットゲームやり続けて過労死の人が出てきた。
http://plaza.rakuten.co.jp/LoveElectric/diary/20050830/ 今年の韓国では2人目くらいか。 中国は5年くらい前からけっこうゲーム過労死の学生が出ていた。 http://www.itmedia.co.jp/news/bursts/0204/23/05.html マレーシアではお母さん、じゃなかった、政府が「ゲーム禁止」。 http://www.gpara.com/news/05/11/news200511160320.htm 佐藤さんから頂いた『仕事のくだらなさとの戦い』読んでたら、 雑誌「カーセンサー」の編集者、入社51日目に過労死の事件の話が出てきた。 1日15時間労働を十日も続けるとほとんど人間て死ぬんじゃないかな。 15時間労働ってだいたい午前3時頃まで働くこと。 ネットゲームでは2日間徹夜で死ぬ人もけっこういる。 ネットって睡眠時間の用意されていない非人間的な世界。 「 ー略ー、内戦勃発前のユーゴスラヴィアでは、実際に労働者の平均労働時間は3時間程度といわれていた。労働者の大半は、午後3時頃までには帰宅し、ゆったりと遅い昼食を食べシャワーを浴びて、その後は、のんびりと昼寝をし、夕方には街の大通りに出かけて、友人たちとおしゃべりや散歩を楽しむというのが日課だった。3時間の労働などというと、よほど貧しい生活をしているように思うだろうが、実際にはまるで違う。最新のコンピュータや自動車などは日本人より手に入れにくいことは明らかだが、日常の食品や医療は、貧しいなどという概念とはほど遠いものだった。」 『仕事のくだらなさとの戦い』佐藤和夫著、大月書店、2005.12 風邪のとき、ネットはよくないね。 体力消耗してぜんぜん回復しないぞ!! 知らない間に過労死してもおかしくないね。 資本主義とは一線を置こっと、 なんて1日の労働時間3時間にして、 あと15時間ゲームしてたらなんの意味もないっす(笑)。 やっぱり生身の人間同士のコミュニケーションは、 とっても価値の高い営みなんです。 おとなが子どもにそういう機会を与えない社会を形成して。 それで、こどもたちは五体で感じる「リアル」を生きることができない。 大人たちのつくった仮想世界で一生懸命生きてる。 むしろ五体不満足の乙武さんの方が「リアル」を生きる希望に満ちてる皮肉。 このBlogに間違ってたどり着いてここまで読んじゃったひと。 生身のコミュニケーションはもっと楽しいよ!(ハートマーク) ・韓国では軍がプロゲーマーを雇用 [2007年6月1日]
2005年12月04日 (日)2005年11月13日 (日)2005年のまとまりない走り書き部屋の片づけをしていたら出るわ出るわ、
走り書きメモ紙(一見ゴミ)の山。 とりあえず、メモをメモっておきました。 ◆ビートたけしの詩集(文庫版)『僕は馬鹿になった』
に挟んであったメモ(おそらく2001年頃のメモ)。 「自分のアイデンティティが壊されそうになると攻撃するしかない」 説得の論理→戦争 →納得の論理 ◇ 若い人←伝える 老人 ←ムッとするだけで変わらない ◆平和はあいまいなスローガンであってはならない トゲトゲした部分をおいておいて ちょっとやさしく相手を 思いやってみたら、相手からも、やさしさが返ってきて、 どっちもどっちだ → 相対化はあぶない。 ひとりの時間. → すてきだ。 軸(愛)がない → <05年11月20日追記> バッシングを受けた今井さんの講演からのインスピレーション 「自分のアイデンティティが壊されそうになると攻撃するしかない」 説得の論理→戦争 →納得の論理 の先が見えてきた。「納得の論理」の先は没。 →納得の論理→× 改め → 自分の批判者の言葉にじっと耳を傾けること。 これが「新しいこと」、 テロ時代(たったひとりの絶望がテロリズムに利用され絶望が増幅されること) での新しい可能性かも。 以下の言葉は以前のエントリ『摂氏41.11』からの引用。 合気道の達人、塩田剛三氏の言葉。 「最強の技とは、自分を殺しに来た者と友達になることだ」 にっこり笑ってこう言った世界最強の武道家。 >どもり(吃音)→人より人と話すことに大きな喜びを感じた。 『結婚の条件』小 加 子 2005年08月16日 (火)『結婚と愛情』by Emma Goldman 1917Emma Goldman : Marriage and
Love
From the 1917 edition of Emma Goldman's Anarchism and Other Essays こんなに大事な論文が日本語で入手困難とは! 正確に言うと『定本
伊藤野枝全集<第4集>翻訳』に翻訳はあるけど高くて手軽に入手はできない感じ。なので少しずつ時間をとって訳していってみたい。
大学の講義でも使っている方がいらっしゃるようね。 学生にコピペされては訳も役立たないので、誤訳は誤訳のまま掲載してみます♪そしたら大学生がコピペしても教授に指摘されたりして議論も深まる。訳を盗用した学生はぜひ堂々と間違うこと。堂々と間違って誤訳を発表した方が本当に訳したっぽいし、教授もその方が「熱心な学生だな」と思ってくれることですし。自分訳と私の誤訳とを比較検討してくれたらベストなんですが。 『結婚と愛』by
Emma Goldman 1917
The popular notion about marriage and love is that they are synonymous, that they spring from the same motives, and cover the same human needs. Like most popular notions this also rests not on actual facts, but on superstition. Marriage and love have nothing in common; they are as far apart as the poles; are, in fact, antagonistic to each other. No doubt some marriages have been the result of love. Not, however, because love could assert itself only in marriage; much rather is it because few people can completely outgrow a convention. There are today large numbers of men and women to whom marriage is naught but a farce, but who submit to it for the sake of public opinion. At any rate, while it is true that some marriages are based on love, and while it is equally true that in some cases love continues in married life, I maintain that it does so regardless of marriage, and not because of it. On the other hand, it is utterly false that love results from marriage. On rare occasions one does hear of a miraculous case of a married couple falling in love after marriage, but on close examination it will be found that it is a mere adjustment to the inevitable. Certainly the growing-used to each other is far away from the spontaneity, the intensity, and beauty of love, without which the intimacy of marriage must prove degrading to both the woman and the man. Marriage is primarily an economic arrangement, an insurance pact. It differs from the ordinary life insurance agreement only in that it is more binding, more exacting. Its returns are insignificantly small compared with the investments. In taking out an insurance policy one pays for it in dollars and cents, always at liberty to discontinue payments. If, however, woman's premium is her husband, she pays for it with her name, her privacy, her self-respect, her very life, "until death doth part." Moreover, the marriage insurance condemns her to life-long dependency, to parasitism, to complete uselessness, individual as well as social. Man, too, pays his toll, but as his sphere is wider, marriage does not limit him as much as woman. He feels his chains more in an economic sense. Thus Dante's motto over Inferno applies with equal force to marriage. "Ye who enter here leave all hope behind." That marriage is a failure none but the very stupid will deny. One has but to glance over the statistics of divorce to realize how bitter a failure marriage really is. Nor will the stereotyped Philistine argument that the laxity of divorce laws and the growing looseness of woman account for the fact that: first, every twelfth marriage ends in divorce; second, that since 1870 divorces have increased from 28 to 73 for every hundred thousand population; third, that adultery, since 1867, as ground for divorce, has increased 270.8 per cent.; fourth, that desertion increased 369.8 per cent. Added to these startling figures is a vast amount of material, dramatic and literary, further elucidating this subject. Robert Herrick, in TOGETHER; Pinero, in MID-CHANNEL; Eugene Walter, in PAID IN FULL, and scores of other writers are discussing the barrenness, the monotony, the sordidness, the inadequacy of marriage as a factor for harmony and understanding. The thoughtful social student will not content himself with the popular superficial excuse for this phenomenon. He will have to dig deeper into the very life of the sexes to know why marriage proves so disastrous. Edward Carpenter says that behind every marriage stands the life-long environment of the two sexes; an environment so different from each other that man and woman must remain strangers. Separated by an insurmountable wall of superstition, custom, and habit, marriage has not the potentiality of developing knowledge of, and respect for, each other, without which every union is doomed to failure. Henrik Ibsen, the hater of all social shams, was probably the first to realize this great truth. Nora leaves her husband, not--as the stupid critic would have it--because she is tired of her responsibilities or feels the need of woman's rights, but because she has come to know that for eight years she had lived with a stranger and borne him children. Can there be anything more humiliating, more degrading than a life-long proximity between two strangers? No need for the woman to know anything of the man, save his income. As to the knowledge of the woman--what is there to know except that she has a pleasing appearance? We have not yet outgrown the theologic myth that woman has no soul, that she is a mere appendix to man, made out of his rib just for the convenience of the gentleman who was so strong that he was afraid of his own shadow. Perchance the poor quality of the material whence woman comes is responsible for her inferiority. At any rate, woman has no soul--what is there to know about her? Besides, the less soul a woman has the greater her asset as a wife, the more readily will she absorb herself in her husband. It is this slavish acquiescence to man's superiority that has kept the marriage institution seemingly intact for so long a period. Now that woman is coming into her own, now that she is actually growing aware of herself as being outside of the master's grace, the sacred institution of marriage is gradually being undermined, and no amount of sentimental lamentation can stay it. From infancy, almost, the average girl is told that marriage is her ultimate goal; therefore her training and education must be directed towards that end. Like the mute beast fattened for slaughter, she is prepared for that. Yet, strange to say, she is allowed to know much less about her function as wife and mother than the ordinary artisan of his trade. It is indecent and filthy for a respectable girl to know anything of the marital relation. Oh, for the inconsistency of respectability, that needs the marriage vow to turn something which is filthy into the purest and most sacred arrangement that none dare question or criticize. Yet that is exactly the attitude of the average upholder of marriage. The prospective wife and mother is kept in complete ignorance of her only asset in the competitive field--sex. Thus she enters into life-long relations with a man only to find herself shocked, repelled, outraged beyond measure by the most natural and healthy instinct, sex. It is safe to say that a large percentage of the unhappiness, misery, distress, and physical suffering of matrimony is due to the criminal ignorance in sex matters that is being extolled as a great virtue. Nor is it at all an exaggeration when I say that more than one home has been broken up because of this deplorable fact. If, however, woman is free and big enough to learn the mystery of sex without the sanction of State or Church, she will stand condemned as utterly unfit to become the wife of a "good" man, his goodness consisting of an empty brain and plenty of money. Can there be anything more outrageous than the idea that a healthy, grown woman, full of life and passion, must deny nature's demand, must subdue her most intense craving, undermine her health and break her spirit, must stunt her vision, abstain from the depth and glory of sex experience until a "good" man comes along to take her unto himself as a wife? That is precisely what marriage means. How can such an arrangement end except in failure? This is one, though not the least important, factor of marriage, which differentiates it from love. Ours is a practical age. The time when Romeo and Juliet risked the wrath of their fathers for love, when Gretchen exposed herself to the gossip of her neighbors for love, is no more. If, on rare occasions, young people allow themselves the luxury of romance, they are taken in care by the elders, drilled and pounded until they become "sensible." The moral lesson instilled in the girl is not whether the man has aroused her love, but rather is it, "How much?" The important and only God of practical American life: Can the man make a living? can he support a wife? That is the only thing that justifies marriage. Gradually this saturates every thought of the girl; her dreams are not of moonlight and kisses, of laughter and tears; she dreams of shopping tours and bargain counters. This soul poverty and sordidness are the elements inherent in the marriage institution. The State and Church approve of no other ideal, simply because it is the one that necessitates the State and Church control of men and women. Doubtless there are people who continue to consider love above dollars and cents. Particularly this is true of that class whom economic necessity has forced to become self-supporting. The tremendous change in woman's position, wrought by that mighty factor, is indeed phenomenal when we reflect that it is but a short time since she has entered the industrial arena. Six million women wage workers; six million women, who have equal right with men to be exploited, to be robbed, to go on strike; aye, to starve even. Anything more, my lord? Yes, six million wage workers in every walk of life, from the highest brain work to the mines and railroad tracks; yes, even detectives and policemen. Surely the emancipation is complete. Yet with all that, but a very small number of the vast army of women wage workers look upon work as a permanent issue, in the same light as does man. No matter how decrepit the latter, he has been taught to be independent, self-supporting. Oh, I know that no one is really independent in our economic treadmill; still, the poorest specimen of a man hates to be a parasite; to be known as such, at any rate. The woman considers her position as worker transitory, to be thrown aside for the first bidder. That is why it is infinitely harder to organize women than men. "Why should I join a union? I am going to get married, to have a home." Has she not been taught from infancy to look upon that as her ultimate calling? She learns soon enough that the home, though not so large a prison as the factory, has more solid doors and bars. It has a keeper so faithful that naught can escape him. The most tragic part, however, is that the home no longer frees her from wage slavery; it only increases her task. According to the latest statistics submitted before a Committee "on labor and wages, and congestion of population," ten per cent. of the wage workers in New York City alone are married, yet they must continue to work at the most poorly paid labor in the world. Add to this horrible aspect the drudgery of housework, and what remains of the protection and glory of the home? As a matter of fact, even the middle-class girl in marriage can not speak of her home, since it is the man who creates her sphere. It is not important whether the husband is a brute or a darling. What I wish to prove is that marriage guarantees woman a home only by the grace of her husband. There she moves about in HIS home, year after year, until her aspect of life and human affairs becomes as flat, narrow, and drab as her surroundings. Small wonder if she becomes a nag, petty, quarrelsome, gossipy, unbearable, thus driving the man from the house. She could not go, if she wanted to; there is no place to go. Besides, a short period of married life, of complete surrender of all faculties, absolutely incapacitates the average woman for the outside world. She becomes reckless in appearance, clumsy in her movements, dependent in her decisions, cowardly in her judgment, a weight and a bore, which most men grow to hate and despise. Wonderfully inspiring atmosphere for the bearing of life, is it not? But the child, how is it to be protected, if not for marriage? After all, is not that the most important consideration? The sham, the hypocrisy of it! Marriage protecting the child, yet thousands of children destitute and homeless. Marriage protecting the child, yet orphan asylums and reformatories overcrowded, the Society for the Prevention of Cruelty to Children keeping busy in rescuing the little victims from "loving" parents, to place them under more loving care, the Gerry Society. Oh, the mockery of it! Marriage may have the power to bring the horse to water, but has it ever made him drink? The law will place the father under arrest, and put him in convict's clothes; but has that ever stilled the hunger of the child? If the parent has no work, or if he hides his identity, what does marriage do then? It invokes the law to bring the man to "justice," to put him safely behind closed doors; his labor, however, goes not to the child, but to the State. The child receives but a blighted memory of his father's stripes. As to the protection of the woman,--therein lies the curse of marriage. Not that it really protects her, but the very idea is so revolting, such an outrage and insult on life, so degrading to human dignity, as to forever condemn this parasitic institution. It is like that other paternal arrangement--capitalism. It robs man of his birthright, stunts his growth, poisons his body, keeps him in ignorance, in poverty, and dependence, and then institutes charities that thrive on the last vestige of man's self-respect. The institution of marriage makes a parasite of woman, an absolute dependent. It incapacitates her for life's struggle, annihilates her social consciousness, paralyzes her imagination, and then imposes its gracious protection, which is in reality a snare, a travesty on human character. If motherhood is the highest fulfillment of woman's nature, what other protection does it need, save love and freedom? Marriage but defiles, outrages, and corrupts her fulfillment. Does it not say to woman, Only when you follow me shall you bring forth life? Does it not condemn her to the block, does it not degrade and shame her if she refuses to buy her right to motherhood by selling herself? Does not marriage only sanction motherhood, even though conceived in hatred, in compulsion? Yet, if motherhood be of free choice, of love, of ecstasy, of defiant passion, does it not place a crown of thorns upon an innocent head and carve in letters of blood the hideous epithet, Bastard? Were marriage to contain all the virtues claimed for it, its crimes against motherhood would exclude it forever from the realm of love. Love, the strongest and deepest element in all life, the harbinger of hope, of joy, of ecstasy; love, the defier of all laws, of all conventions; love, the freest, the most powerful moulder of human destiny; how can such an all-compelling force be synonymous with that poor little State and Church-begotten weed, marriage? Free love? As if love is anything but free! Man has bought brains, but all the millions in the world have failed to buy love. Man has subdued bodies, but all the power on earth has been unable to subdue love. Man has conquered whole nations, but all his armies could not conquer love. Man has chained and fettered the spirit, but he has been utterly helpless before love. High on a throne, with all the splendor and pomp his gold can command, man is yet poor and desolate, if love passes him by. And if it stays, the poorest hovel is radiant with warmth, with life and color. Thus love has the magic power to make of a beggar a king. Yes, love is free; it can dwell in no other atmosphere. In freedom it gives itself unreservedly, abundantly, completely. All the laws on the statutes, all the courts in the universe, cannot tear it from the soil, once love has taken root. If, however, the soil is sterile, how can marriage make it bear fruit? It is like the last desperate struggle of fleeting life against death. Love needs no protection; it is its own protection. So long as love begets life no child is deserted, or hungry, or famished for the want of affection. I know this to be true. I know women who became mothers in freedom by the men they loved. Few children in wedlock enjoy the care, the protection, the devotion free motherhood is capable of bestowing. The defenders of authority dread the advent of a free motherhood, lest it will rob them of their prey. Who would fight wars? Who would create wealth? Who would make the policeman, the jailer, if woman were to refuse the indiscriminate breeding of children? The race, the race! shouts the king, the president, the capitalist, the priest. The race must be preserved, though woman be degraded to a mere machine,--and the marriage institution is our only safety valve against the pernicious sex awakening of woman. But in vain these frantic efforts to maintain a state of bondage. In vain, too, the edicts of the Church, the mad attacks of rulers, in vain even the arm of the law. Woman no longer wants to be a party to the production of a race of sickly, feeble, decrepit, wretched human beings, who have neither the strength nor moral courage to throw off the yoke of poverty and slavery. Instead she desires fewer and better children, begotten and reared in love and through free choice; not by compulsion, as marriage imposes. Our pseudo-moralists have yet to learn the deep sense of responsibility toward the child, that love in freedom has awakened in the breast of woman. Rather would she forego forever the glory of motherhood than bring forth life in an atmosphere that breathes only destruction and death. And if she does become a mother, it is to give to the child the deepest and best her being can yield. To grow with the child is her motto; she knows that in that manner alone can she help build true manhood and womanhood. Ibsen must have had a vision of a free mother, when, with a master stroke, he portrayed Mrs. Alving. She was the ideal mother because she had outgrown marriage and all its horrors, because she had broken her chains, and set her spirit free to soar until it returned a personality, regenerated and strong. Alas, it was too late to rescue her life's joy, her Oswald; but not too late to realize that love in freedom is the only condition of a beautiful life. Those who, like Mrs. Alving, have paid with blood and tears for their spiritual awakening, repudiate marriage as an imposition, a shallow, empty mockery. They know, whether love last but one brief span of time or for eternity, it is the only creative, inspiring, elevating basis for a new race, a new world. In our present pygmy state love is indeed a stranger to most people. Misunderstood and shunned, it rarely takes root; or if it does, it soon withers and dies. Its delicate fiber can not endure the stress and strain of the daily grind. Its soul is too complex to adjust itself to the slimy woof of our social fabric. It weeps and moans and suffers with those who have need of it, yet lack the capacity to rise to love's summit. Some day, some day men and women will rise, they will reach the mountain peak, they will meet big and strong and free, ready to receive, to partake, and to bask in the golden rays of love. What fancy, what imagination, what poetic genius can foresee even approximately the potentialities of such a force in the life of men and women. If the world is ever to give birth to true companionship and oneness, not marriage, but love will be the parent. 2005年07月11日 (月)見せびらかしてもいいこと・悪いこと in miximixi日記で「何を書く」のか。
これでだいたい本人の人格ってバレてしまう。 場合によっては人格だけじゃなくてあらゆる個人情報をまきちらしてしまうことも。。 見せびらかしてもいいこと・悪いこと
今回は面倒くさいのでリンク集のみ。。 [200510] まだmixiやってるの?と言える日本人 http://webdog.be/archives/051002_013841.php 何ゆえmixiから逃亡するのか http://www.future-planning.net/x/modules/news/article.php?storyid=823 [2006] mixiの安全神話崩壊 まとめサイト http://www.geocities.jp/wanyan061/ [200606] mixiやってる若い女性はなぜ、弾けているの? http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2200252 [200612] mixiの持つ数学構造の強み-批判に対して何故強靭なのか- http://news.livedoor.com/article/detail/2850341/ [2007] mixiの情報管理 http://mixi-tips.jp/tool/mymixi.html [200702] ミクシィもSecond Lifeに進出-新卒採用活動 http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000056023,20344197,00.htm [200704] 元オウム真理教の上祐氏、ミクシーで布教(和訳) http://cn.j-cast.com/2007/04/04006616.html [20070522] 強姦も...ミクシィ巡る男女トラブル 巻き込まれない方法 http://news.livedoor.com/article/detail/3171624/ [20070523] ミクシィ、会員1,000万人を突破-サービス開始から3年余り http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=217942&media_id=5 カニチィ [華日] http://webdog.be/archives/051002_013841.php [200510] 何ゆえmixiから逃亡するのか http://www.future-planning.net/x/modules/news/article.php?storyid=823 [2006] mixiの安全神話崩壊 まとめサイト http://www.geocities.jp/wanyan061/ [200606] mixiやってる若い女性はなぜ、弾けているの? http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2200252 [200612] Mixiの持つ数学構造の強み-批判に対して何故強靭なのか- http://news.livedoor.com/article/detail/2850341/ [2007] mixiの情報管理 http://mixi-tips.jp/tool/mymixi.html [200702] ミクシィもSecond Lifeに進出-新卒採用活動 http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000056023,20344197,00.htm [200704] 元オウム真理教の上祐氏、ミクシーで布教(和訳) http://cn.j-cast.com/2007/04/04006616.html [20070522] 強姦も...ミクシィ巡る男女トラブル 巻き込まれない方法 http://news.livedoor.com/article/detail/3171624/ [20070523] ミクシィ、会員1,000万人を突破-サービス開始から3年余り http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=217942&media_id=5 カニチィ [華日] http://kanichi.jp/" target="NewWindow">http://kanichi.jp/ 2005年06月19日 (日)「教員」の子ども「こそ」不登校今回のエントリはアフォリズムで。 「『教員』の子育て」の草稿 ◇「教員」の子どもが「学校」という場で表現することは不可能である。 ◇楽になれる場、自分らしくなれる場の可能性。 ◇演劇の場は同性愛を表現できる。 ◇「教員」という呪縛の逃げ場のなさ。 ◇「教員」の子どもの感じとる他者(複数形)性。→参考リンク『摂氏41.11』 ◇ウチが「学校」ならソトは「学校」以外の世界へ。 ◇教員の子どもは「学校」へ行かなくて良い。 ◇教員の子どもは頭が良いほど学校へ行けなくなる。 *ここでいう「教員」は職業としての教員以外も含も。 <05年11月追記> 卒論のテーマでも考えてみたことだけど、 どうも教員や医者など「先生」って呼ばれる職業には パターナリズムが働いてしまうと思う。 子どもにパターナリズムが働くと、 いわゆる元気な子どもはそれにも関係なくたくましく育っていく。 一方、大人の空気を読んで気を遣ってしまうような (アダルト・チルドレンのもともとの定義のような)子ども、 そういう子どもの場合、大人に萎縮して育つ。 萎縮がひどくなると自分を見失う。 パターナリズムはもっとじっくり考えていきたいテーマなので続きはまた。
2005年05月17日 (火)嫉妬は愛情ではありません韓国へ旅行したとき、
韓国人の大学生と合コンをしたことがあった。 合コンはあれが初めてであれが最後だった気がする。 ある韓国人は修士課程の学生で、
結婚しているのでお先に失礼します、 と足早に返ろうとした。 「あんまり遅いと、相方がヤキモチ焼いちゃうんで(笑)」 私は何でか知らないが、思わず 「嫉妬は愛情ではないですけどね(笑)」 とやや失礼なことを言った。 相手は日本語科の学生で日本語が達者だった。 そんなことを言われたのは初めてみたいで、 びっくりししたような顔をして、、でも 「あなた面白い方ですね。 もっとゆっくりお話がしたかったです!笑」 と言って帰った。 そう、やっぱり嫉妬は愛情ではないのです。 え?でも嫉妬されたら嬉しいって? それはそう。 だって、相手を自分の方に関心が向くように 「コントロール」しているからです。 でも、仮に「嫉妬させる」させるような関係、 嫉妬を利用して自分の方に関心や興味を惹くように コントロールしつづけると、 相手はへとへとに疲れてしまうでしょう。 そういう「駆け引き」は愛情からはほど遠い。 ずっと駆け引きをやっている夫婦を見たことがあるかもしれない。 でもそれはおそらくとても不安定な関係、 たとえばモノを投げ合ったり、ののしりあったり、 ときに暴力的になったり、暴力的な言葉を使ったりして (関心を引きつけようとしている)維持している 関係である可能性が高い。 もちろんそうした常に不安定の渦の中に生きている 夫婦はゴマンといる。 「不安定の中の安定」と言えばよいか。 でもこれは、かなり自分自身の精神や、人生そのものに 焦燥感や消耗感があるのが否めない。 多くの殺人事件はそうした不安定な日常のなかに ぽつりと起こるものだが、 年齢と共に多くのひとが心が荒んでしまう というこの国の現状からして、 なにも心を荒む方向に育てることはない。 心が荒む方向というのが「嫉妬」を「愛情」の代わりに 利用する方法。 けっきょくこれをやって、 一時的な快楽を得ては、こころを荒ませていく。 愛情を失っていく。 そういうのは、愛情に飢えている人ほど辛いものだと思う。 ん? いえでも嫉妬は上手に使ってます。 自分の中のヤキモチ心も楽しんでます?? もちろんそういう心理学を無意識のうちに学んだ、 あるいは辛い経験から学んだプロフェッショナルな方も いらっしゃると思う。 でも、ここまでこの記事を読み進めてしまった人は、 たぶん心理のプロフェッショナルでもなんでもないと思う。 むしろ悩んでいるひとだと思う。 やっぱり自分の方に関心を向けるために、 相手をコントロールする方法っていうのは、 おしなべてあまり良い結末にはならない。 じゃあ、どうやって相手の関心を自分の方に向けるのか。 そんなことに無関心になれたときこそ、相手の関心が 自分に向いて居るものだけど、そう簡単に悟れない。 じゃあ、やっぱり、自分が自分らしくある、 相手に依存しないで自分が自分自身を楽しんでいられる。 そういう自分になることがとってもとても 大切なんじゃないだろうか。 と、ありがちな結論を出してみる。 これは、とても時間のかかることだけど、 でも、こんなふうに自分を成長させたり、自身を楽しんだり、 時間をかけてそういう自分になっていくのはとってもとっても 楽しいものなのです。 参照リンク ・学校は「いじめ」という言葉狩り ・性犯罪 排除しないで再犯なし 先進カナダ ・芹沢俊介さんの『子ども暴力論』 ・PTSDのある国、ない国。草稿その1 ・少年犯罪を報道する価値はあるの?
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