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このコーナーではそんな歳でもないのに、管理人が所蔵する思い出の写真を披露させて頂きます。 |
| May 1986 | |||||||
![]() ■1986年5月8日、イギリスのチャールズ皇太子とダイアナ妃を乗せて来日したイギリス空軍の輸送機、No.10SqnのVC-10、"Authur Scarf VC"(シリアルXV109)。 1981年7月29日、当時世界中に大ブームを起こしたロイヤルウエディング、プリンス・オブ・ウェールズとダイアナ・スペンサー嬢の結婚式。まだ外人の女性に免疫がなかった頃の幼き日の私も(今はあるのか!?)、彼女の美貌に度肝を抜かれたのを鮮明に覚えています。当時皇太子32才、ダイアナ嬢20才。その後1982年にウィリアム王子、1984年にヘンリー王子が生まれ、王室外交に西へ東へと飛び回っていた2人が、結婚5年目にして来日しました。 当時(ほんのちょっとですが)旅客機に凝っていたこともあり、羽田に通っていたこともあったのですが、世紀のロイヤルカップルはともかく、イギリス空軍のVIP輸送機をぜひ見たいと思い、当日撮影に行くことにしました。この年は平日でも自由がきく身分だったので、当時愛用のOM-1にKRを詰めて、ひたすら羽田までペダルを漕いだのでした。 免許もない私の足といえばもちろんチャリ。今では信じられないことですが、電車だって金がないのでなかなか乗れたものではありません。とにかく他に方法がないのですからどこへ行くにもひたすら漕ぐしかない。東京というのは平らなようで意外に起伏があるので、ちょっと走ると急坂を登って下って、とにかくすさまじい運動量なのです。中学生ともなれば段々行動範囲も広がります。1984年には鉄道の方でゴハチブームがあって、家からよく東京貨物ターミナルまで走ったりしていたので、そこからちょっと足を伸ばして、当時大型旅客機のアプローチが目の前で見られて大迫力の京浜島、旧羽田のターミナル屋上の見学デッキに出没するようになりました。羽田は特にモノレールの運賃が高く、家からだと当然国電に乗らなければならないので往復1,000円近くになってしまい、とてもそんな贅沢はできるものではありませんでした。 羽田までは家から直線距離で約17km、アップダウンが連続するなかを行きも帰りもほぼ1時間で走破していました。あの頃、運動はからきしダメな私が、本当に脚力なら誰にも負ける気がしませんでした。あのまま精進していれば2流の競輪選手にはなれたのではないか・・・と思うほど、とにかく力行、力行、また力行・・・荷台もないサイクリングタイプなので、機材はカメラバッグに入れてたすき掛けに。これが、走っているとどんどん前にずれてきてしまい、なかなか走りにくいのです。
しばらくすると、767はスポットから動きだしどこかへ行ってしまいました。そして、デッキでカメラを構えている人間も(平日のこともあり、こんな大イベントにもかかわらず数人だけだったと記憶しています)さすがに移動させられました。このまま行けるかな〜と甘い考えを抱いていたのですが、どこまで下がらなければいけないのか、なにより飛行機を見通せる場所があるのか・・・?なんとかフィンガーの建物越しに、機体が見通せる位置を確保しました。 30分も待ったでしょうか、当時エアバンドも持っていないのでまったく動向はつかめず、いつ降りてくるのか気が気ではありませんが、ターミナル組は着陸を撮れるわけではないので、タキシングに的を絞って何度も露出とピントの確認。そうこうするうちに、はるか彼方の空に明らかに747やDC-10とは違う機影が見えてきました。スポットに停止し、エンジン音も聞こえなくなってしばらくしたら、プリンス・オブ・ウェールズが、そして続いてプリンセス・ダイアナがタラップを降りてきました。レンズが暗くて、ピントもよく合わせられないのですが、ファインダーの真ん中で映える濃紺と白のワンピースに大きな帽子は、まさに女性週刊誌で見る「ザ・ダイアナファッション」。地上整備員も皆仕事を忘れて見とれています。出迎えに来ていた皇太子(現天皇)と挨拶を交わすと、あっという間に走り去って行ってしまいました。 夫妻を乗せて飛来したVC-10はイギリス重工メーカーの名門、ヴィッカース社がボーイング707やダグラスDC-8に対抗して開発したジェット旅客機で、1962年に初飛行、当時まだ開発力のあった大英帝国の航空産業の未来を担い大陸間長距離路線の制覇を目論みましたが、若干就航路線の想定が特殊であったたため(高地で滑走路の短い空港での離着陸性能を重視し過ぎた)、経済性でアメリカ機に劣り、ベーシックタイプとストレッチ形のスーパーVC-10を合わせて総生産機数55機に留まりました。採用した会社も、イギリスのナショナル・フラッグ・キャリアであるBOAC(英国海外航空:現在のBA―英国航空の前身)が大部分を占め、性能はともかくセールス的には完全な失敗作。しかしその優美なスタイルにはファンも多く、また優れた設計はソビエトが開発した長距離旅客機、イリューシンIl-62としてほぼそのままコピーされるほどでした。 また、VC-10を採用したもう一つの大きなカスタマーがイギリス空軍で、タイプC1として14機が生産され、兵員輸送や医療輸送、またこのような要人輸送に1966年より使用されています。同機を運用しているのはロンドンの西、オックスフォード郊外にあるRAFブライズノートン(RAFはRoyal Air Force―イギリス空軍を表し、基地名の頭に冠する時は「英国空軍基地」を意味する)をホームベースとする第10飛行隊。第1次大戦中の1915年に創設されたイギリス空軍最古の飛行隊の一つで、その後1984年より空中給油型のK2/K3(引退した民間機型を改修したモデル)を受領した101飛行隊と、現在は人員・機材が共同で運用されています。 イギリス空軍シリアルXV109の同機はVC-10としてのシリアルは839、1968年製造の機体ですが今も現役で、昨今のキナ臭いご時世でグレーのモノトーン塗装に身を包み、1993年からは空中給油機としての任務を新たに追加されてC1(K)型として両翼端に給油プローブ(長く伸ばせる給油ホースの先端に漏斗がついたもの)を取付け、イラクでも活躍しました。現在、VC-10の現役機数は正確にはわかりませんが、引退した民間機型もかなりの機数がイギリス空軍に引き取られ、2000年代後半まで使用される予定です。 現代の無個性な大型旅客機に比べ、リア4発エンジン、T尾翼と柔らかい曲線で構成された優美なボディを持つVC-10は、まさに「空の貴婦人」の称号がふさわしいのではないでしょうか。現在ではこのような旅客機然とした美しい白とグレイの塗装を見ることはできず、王室・政府VIPもBAの機体を利用することが多いようですが、私のライブラリーの中ではこの記事の本当の主人公、麗しきプリンセス・ダイアナとともに、コダクロームの美しい色合いの中で生き続けているのです。 |
| June 1990 | ||
![]() ■1990年6月10日、三重県鈴鹿サーキットで行われた鈴鹿200kmロードレースのスポンサーブースでの撮影。さて、右側の女性、これ誰だかわかりますか? 日本のみならず世界有数のスポーツイベントとして1週間の期間中10万人以上の観客動員数を誇った「鈴鹿8時間耐久ロードレース」。バイクに全く関心のない方も名前は聞いたことがあるでしょう。近年は2輪人気の下降、ライダー数の減少に伴って昔日の盛り上がりはありませんが、80年代後半から90年代中期にかけては「現代のお伊勢参り」とも形容される位、バイクを愛する(老)若男女が集う真夏の祭典でした。 鈴鹿8時間は本来世界選手権として、有名なルマン24時間(4輪のとは当然別ですよ)やボルドール24時間などヨーロッパを主な舞台として戦われる耐久ロードレースシリーズの1戦でして、シーズンを通して参戦する日本人はほとんどいませんが(というか史上多分1人もいません)、このレースだけは世界最大のオートバイ生産国日本での開催ということで、「スポット参戦」という形を取って日本人選手、また世界グランプリを戦うスター選手が多数参加します。世界耐久選手権はグランプリとは全く関係ないレースで、日本ではマイナージャンルなのですが、8耐はこの出場選手の顔ぶれによってレギュラーの世界耐久とは全く違う、2輪界最大のレースと位置づけられているのです。 レースの詳しい説明はほどほどにして・・・8耐は毎年7月の最終日曜日に決勝が行われますが(2001年は初めて8月第1週に行われました。これからもこういったケースがあるでしょう)、7月末に向けてテストを重ねる各チームはこれも例年6月上旬に行われる実戦のレースでマシンの仕上がり状況最終確認、リザルトを見てのライダー選定などを行います。これが8耐の前哨戦として位置づけられる鈴鹿200kmロードレース。通常のレースが10周前後、すなわち50km強の走行距離なのに比べ200kmはその名の通り周回数も多く、「ミニ耐久」とも言われます。これが実際にレースを戦ってのデータ収集として大きな意味を持つため、8耐参戦を予定しているチームはかなりの意気込みでエントリーしてきます。レギュラー戦では閑散としている観客席側も、普段は出ないようなチームのテントに各種展示、イベント、そしてこれが一番大事なレースクイーンと、8耐に準じてのお祭りムードで盛り上げます。
「カップヌードル」は有名な青木三兄弟の長男、現在は世界グランプリ500ccクラス(2002年からはMOTO GP)にスズキから参戦している宣篤が全日本ロードレースホンダワークス(メーカー直営のチーム すなわち日清食品が金を出してホンダがマシンを走らせる)デビューに伴い結成されたチームで、8耐―200km(TT-F1クラス、現在のスーパーバイク)とは規格の違う250ccクラスにエントリーしていました。従って今日は出場しないのでこんな所でのんびりしていられるのですが、その隣にいるレースクイーンがなんだかとてもきれいで・・・・・・信じて下さい!普段はレースクイーンなんて写真撮らないんですよ。いやこれホント。だってバイク見に行ってるんですもの。実際、後で写真の整理に困るし本当にあんまり撮らないんです。 しかしこの時ばかりは、あまりにきれいなので何枚か撮ってしまいました。さてここまで引っぱってきましたが、この人は誰? そう、わかってらっしゃる方も多いとは思いますが、ZARDの坂井泉水なんですね。 当時もちろんZARDなぞ存在しませんので知りませんでしたが、カップヌードルはその初期に岡本夏生もいたことのある名門?チーム。各事務所との太いパイプもあったのでしょう。やっぱりくだけた業種のスポンサーは違いますね。左側の人は誰だかわからないのですが、今にして思えばこっちの人がハイレグ衣装なのに坂井さんパンツだし、格違いというか安売りしない素材だったことがうかがわれます。確かに今まで何人もレースクイーン見てきましたけど、やっぱ輝きが違いました。カップヌードルチームも今はなく、管理人も鈴鹿に足繁く通うことは少なくなりましたが、これを見ると当時のレース界華やかなりし頃、勝手に大垣夜行に飛び乗ってフラフラと三重くんだりまで行くことができた我が青春時代を懐かしく思い出します。 |
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June 1993
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■1993年6月、新宿NSビルで開かれたトークショウに招かれたノルウェーのアルペンスキー選手、チューティル・アンドレ・オーモット Kjetil Andre Aamodt(右)とアストリッド・レーデメル Astrid Loedemel(左)。スキーウェアメーカーの大手、フェニックスは当時毎年6月頃に恒例の新作展示会を開催しており(今でもやってるのかな?)、会期中目玉イベントとしてスキー選手や芸能人を招いてのトークショウがありました。
93年の同イベントに登場したオーモットは1992年のアルベールビルオリンピックでいきなりSG(スーパー大回転)金を獲った期待の新星。この年の2月に雫石で行われた世界選手権でもSL(スラローム・回転)金・GS(ジャイアントスラローム・大回転)金・コンビネーション(アルペン複合)銀と大活躍し、マーク・ジラルデリの座を継ぐオールラウンダーとして当時アルペン界大注目のスターです。 レーデメルはこれまた無名ながら雫石でDH(ダウンヒル・滑降)銀、SG銅を獲り、そのあまりのかわいらしさに大会随一のアイドルとなってしまい、スキー雑誌でも話題沸騰!このトークショウでも実際はレーデメル嬢目当てに来場したギャラリーも多かったはずです(もちろん?管理人もその一人。主催者側の計略にまんまとはまってしまったというわけです。雫石であれほど男共の目を射抜かなければこのようなイベントに呼ばれることはなかったでしょうから)。そういえば、この2人私が多分初めて見たノルウェー人だと思います。
インタビュー当日はいくら新人とはいえ金メダリストの来るイベントとは思えないほどギャラリーの目の前&カメラ持ち込み自由と、やっぱり日本ではスキー、ウィンタースポーツはまだまだこの程度の位置づけなのかな・・・とも改めて思い知らされるのですが、登場前に「ではこれからノルウェーからお越し下さった・・・」なんて説明してる後ろでステージ袖を2人で走って横切ったり、若造ならではの茶目っ気を見せてくれました。 そして、みんな待ち望んだ憧れのレーデメル様が(今回は「おまけ」の)オーモットと登場。次の瞬間、全員予想とあまりにかけ離れた(いや、予想通りだったのか?)筋骨隆々、180cmはあろうかと思われる鍛え抜かれたその体に唖然・・・デ、デカイ!重質量がモノを言う高速系選手だけあって体重も70〜80kg位ありそうです。う〜ん、これはいわゆる「北欧美人」とは違うのでは!?とこれまたその場の誰もが思ったはずです。いやまさにアスリートの体とはかくなるものだと、レーデメル嬢が我々をこの場に呼び寄せて思い知らせてくれたのでしょうか。しかし、後年北欧を何度となく訪れるようになって、よくわかりました。向こうではあれが普通なのだと・・・ 層の厚いノルウェーアルペンチームにあって、そうは呼びたくないのですがまるで仇花のように雫石に咲いた一輪の花、レーデメル嬢。今頃は旦那様と幸せに暮らしているでしょうか。今回この文を書くに当たってリザルトを調べたのですが、ワールドカップ1994-95シーズンのSLランキングが20位。高速系の印象が強かった彼女ですが、意外に回転系もこなせたんですね。 |