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板門店へ― |
2日目は7時前起床。8時出発で、7時からゆうべの日本レストランで朝食というので時間通りに行ってみたら誰もおらず、用意もされていなかった。時間間違えたか? しかし同行の連中が三々四五集まりだし、パンも運ばれてきた。パンはトーストされており、1人一斤の半分が2枚。ゆうべも出された水キムチのほか、4品位のおかずがある。あらかた食べ終わった後、お粥が出てきた。先に出してくれればいいのに! この後も同じタイミングで出てくるので、おかずを最初からパクつくのは命取りだと悟った。お粥は最初小ぶりのとり皿に一杯だけだったが、その後ボウルにいっぱい出てきて面食らわされた。こんなもの朝から誰も手を付けはしない。私は2杯ほどおかわりしたが。いずれにしても、結構な量の残飯である。数百万人が餓死の危機にさらされているこの国で・・・
| ホテル前にて朝出発の風景。中国をはじめマレーシア、シンガポールなどからの観光客が多数。日本人は非常に少数派でした。 | |||
駅の西側の繁華街と思われる所で、出勤途中かたくさんの人が歩いている。大人も多いが子供もたくさん。バス停などはものすごい行列ができており、1台ではどうやっても乗れないように見える。2〜3台見送らなければ乗れないのだろうか。また、店のようなものが見えない。どこで買い物をするのだろう・・・と、よく見ると各建物の1階が結構店のようである。看板もディスプレイもないからわからないのだ。しかし、本当に売り物があるのかどうかは外からではうかがい知れないが・・・。
バスは市内でも快調に100km/h近くの速度でとばす。もっとじっくり観察させていただきたいのだが、渋滞も信号もないのをいいことにものすごいスピードだ。左側に鉄道のヤードのようなものが見えた。機関車も何両か停まっている。と、すぐに大きな橋で大同江を渡る。この橋は忠誠橋という名で、途中に羊角島よりもだいぶ小さい中州のスク島を渡る。右側の河畔には1968年に領海侵犯で拿捕され、戦争一歩手前まで行く緊張状態の元となったアメリカの情報収集船、プエブロ号が係留されているのが見えた。
| 千里馬通りを100km/h近い速度で飛ばす。この辺だと車もまばらに走っています。 | ||||
| 金大中大統領の訪問を記念して建設されたモニュメント、統一祖国三大憲章記念塔。アリランの人文字にも出てくる。そろそろ平壌市街も終わりです。この道がそのまま開城までの高速道路につながっています。 | ||||
この高速道路は平壌―開城間を結ぶ、日本でいえば東名高速のようなもの。本来軍事境界線を越えてソウルまで通じるはずの重要幹線である。中央分離帯を挟んでおおよそ片側3車線位、というのもこちらでは路面にペイントを施さないので特に区分があるわけではないのだが、すれ違う車は10分に1台位、こちらの車線には前後にまったく車は見えない。それでも、行く前に読んだ各種旅行記には30分に1台位というのが標準的な記述だったから、予想よりは多いかも知れない。そのかわり、路肩には驚くほど大勢の人々が歩いている。たまに屯している人々もいる。人々は路肩からあぜ道、遠くの丘の頂を縦横無尽に歩いている。1人で、2人、家族4人で、10人で・・・居住区域の境界を越えて移動が禁じられている共和国の人々だが、毎日の出勤や通学、田畑へ向かうのにも自家用車がなく、公共交通機関もないので徒歩となるのだ。こちらの人は5〜6kmであれば苦もなく、日常生活の範囲だという。車窓は荒涼とした丘陵が続く。道はその中を真っ直ぐ貫いているため起伏が激しい。しかし、歩く人は徐々に少なくなりながらどこまで進んでも途絶えることはなかった。
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| 貨物ヤードとおぼしき施設。 | |||
ここから5kmほど進むと次は線路をほぼ直行する形でオーバーパス、右側には貨物ヤードのようなものが見えた。線路は単線。ここから1km 程進むと、トンネルが現れた。今まで丘陵をアップダウンで越えてきたが、いよいよそれでは処理できない位山深くなってきたのだ。最初のは300m程度だったが、続いて500m位の長さのが続き、以降何個か連続する。いずれも片車線だけのいわゆるメガネ型トンネルで、内部は照明もなく真っ暗。直線で距離も短いので特に不都合はないのだろうが、東海岸の元山へ行く道は途中険しい山越えがある。トンネルの照明に割ける電力はないだろうから、そちらも真っ暗と思うが長いトンネルでは大丈夫なのだろうか。
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| 沙里院市街近くで見た兵舎らしき建物。ほとんど120km/hで走行中ですのでブレてるのは勘弁してください。 | |||
この都市が沙里院(Sariwon)、平壌から約70kmの衛星都市で、ガイドブックには「現代的な工業、農業が盛んである」と書かれているが、う〜ん、本当のところは・・・確かに工場らしき建物もいくつか見え、高い煙突からは煙も吹き出てはいた。日本だったら首都に通うリーマンのベッドタウンとなっているだろう距離だが、「職住接近」となっている(何にでも疑うのは失礼ながら、これは本当のことらしい)この国では70kmを通う人間などだれもいない。そもそも、この町から自由に平壌に行けるかどうかもわからないのだ。コンクリート打ちっ放しの建物ばかりで構成された街並みはどこまでもモノトーンで、グレイの空と相まってますます陰鬱な光景となっている。街中とおぼしき街路にも牛車がちらほらと見える。
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| 学校だと思いますが・・・ | |||
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| 水穀休憩所。平壌―開城間にあるサービスエリアはこれだけです。車は10分に一度来るかどうかなので、本線上に出て写真を撮るのも思いのまま。 | ||||
下り線の駐車場は時ならぬ観光バスの群れで大にぎわい。10分間の休憩で建物内を探検してみるが、4フロア分位階段を折り返すとずっと廊下が続いており、土産物屋や食堂が営業しているのか閉まっているのかわからないようなたたずまいである。土産物屋は朝鮮画とか日本でもよくあるような置物などが主体で、ここで買うのはちょっと厳しいかも知れない。出発時間が迫ってきたので下に降りる。この嵐のような一行が過ぎ去ったら、またここは恐ろしいほどの静寂に包まれることになるのだろうか。店員はみなチマチョゴリを着ているが、日本のサービスエリアと違いどこから出勤してきていつまで働くのだろうか想像もつかない。10km位を歩いてきてここで着替えるのだろうか。一日中客が来ないときは何をしているのだろう。
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| 休憩所の内部はこのように食堂と土産物屋になっていますが、時折訪れる観光バス以外は人気もなく、重厚なインテリアと薄暗い室内もあいまって不気味な空間という印象。右は建物3階から開城方向を望む。ご覧の通り車はまったく走っていません。 | ||||
再び走り出すが、引き続き少しづつ山深くなって行く。旧道なのだろうか、未舗装の道がまとわりついており、こちらがトンネルで抜ける所は下をくぐって川に沿って直角に交わっている。ちょうど鳥皮の焼き鳥のように。何となく国道106号の盛岡―宮古間に似ている感じである。あの景色の縦方向の寸法を半分に、横方向の寸法を3倍位にするとこんな感じになるのだろう。旧道にはてくてく歩く人民と牛車、時々トラクターを見ることができる。東南アジアの景色といえば誰もが納得するだろうが、一応ここはそれよりも進んでいることになっている朝鮮半島なのだ。
また、車窓で気がつくのはちょっとした高低差を利用して小規模な水力発電があちこちで行われていることである。田の畦を流れる水路の2〜3m位のものから、丘の上にある溜め池を利用した10m位のものまで各種ある。田舎の電力需要はこれでまかなっているのだろうか。
| 開城の手前、小さな町の川に見える鉄道線路のものと思われる橋脚。 | |||
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| 開城市街を過ぎたところで線路がアンダーパス。交差直前で線路は分岐し、左側に分岐した線路は再び離れていきますが、ここで線路上に操重車が多数出ているのを発見。 | ||||
| 交差した方の線路は道路の西側に抜けていくが、小規模な倉庫と留置線があり貨車がいるのを発見。この貨車は写真で見る限り生きているようで、開城駅から先も使用されている様子がうかがえます。 | |||
ここで人民軍兵士を乗せて再び走り出すが、3分位で再びゲートのようなものがあり、また停車。車一台やっと通れるコンクリートの門に、バスが何台もねじ込むように停まっている。広い両車線の高速道路はここで唐突に終わっており、有名な「ソウルまで70km」の距離表示がある。どうも数多くの観光客が押し寄せたために捌ききれないようだ。中国でも最近「黄金週間」(そのままやんけ!)という名前で5月上旬に連休ができたらしい。ということで、とにかく中国人観光客が多い。ここがいわゆる民間人統制線といわれるもののようで、「板門店総合講義室」と呼ばれる土産物屋や周辺の地形を模型化した資料館などがあり、許可を待つ間観光客が一服できるようになっている。しかし、添乗員が「ここでこんなに人を見たのは初めてです!」というほどで、もう何がなんだがわからない混雑ぶり。最前線の緊張感などあったものではない。そのためか、手続きが遅れているようだ。
| 板門店総合講義室のゲートを見る。一応ここは撮影禁止とのことですが、デジカメのコンパクトを生かしてウエストレベルで撮影。売店では開城名産の高麗人参酒とかお菓子類(日本製のもの。誰が買うのかわからないが共和国の店には必ず少数が取り揃えられている)、パンフレットを売っていました。観光客が殺到し、1人でやっているおばちゃんは何がなんだかわからなくなっていました。 | |||||||
| 2棟ある建物のうち1棟は周辺の地形を説明するジオラマが設置されています。たどたどしい日本語で説明するガイドのK嬢。 | |||||||
| ゲートを徒歩で通らされ、その先に停まっているバスまで歩く。両側には戦車止めのブロックが。 | |||
ゲートの先は両側がコンクリートの壁となっている狭い道で、通過した団体の観光バスが数十台縦列をなしている。両側に戦車止めのコンクリートブロックが積んである所で再びバスに乗り出発。壁が途切れると、両側には田畑が広がっているのが見える。すでに民間人統制区域に入っているのに、どうも牧歌的な風景・・・これが北側の宣伝村か? 遠くには農作業をする人も見える。2分ほどでまた停車。左側に建物が数軒あるここが停戦談判会議場と停戦協定調印場である。1951年6月、最初に朝鮮戦争の停戦会議が行われたのは同じ開城市にある高麗洞の来鳳荘だが、その半年後に停戦交渉が再開されたのがこの談判会議場で、大体10×6m位のガラス張りの明るい建物である。ここも中国人で満員。人民軍の係官が説明してくれるのだが、中国側のガイドのよく通る声に比べこちらのガイドであるK嬢は声量もかなわず、そもそも日本語がたどたどしいのでしばらくすると係官も日本語へ通訳する時間も取らなくなってしまった。K嬢のすねた顔を見て日本人・中国人ともニヤニヤしながら朝鮮語と中国語の説明だけが朗々と響く。
| 停戦協定調印場。奥には資料館のようなものがありましたが見学させてもらえませんでした。 | |||||||||||
| 停戦談判会議場。調印場よりもずっと小ぶりの建物で、すぐ人でいっぱいになってしまいます。 | |||||||||||
| 停戦談判会議場の中で人民軍将校より説明を聞く。やはりここも中国人でいっぱい。 | |||||||||||
| 停戦協定調印場の、当時実際に使用された国連軍旗と停戦協定文書(これはレプリカ)。机も当時のままということです。 | |||||||||||
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| 停戦協定調印場の横は畑になっていました。 | 石碑の前で解説する人民軍将校。 | |||||