板門店へ


 2日目は7時前起床。8時出発で、7時からゆうべの日本レストランで朝食というので時間通りに行ってみたら誰もおらず、用意もされていなかった。時間間違えたか? しかし同行の連中が三々四五集まりだし、パンも運ばれてきた。パンはトーストされており、1人一斤の半分が2枚。ゆうべも出された水キムチのほか、4品位のおかずがある。あらかた食べ終わった後、お粥が出てきた。先に出してくれればいいのに! この後も同じタイミングで出てくるので、おかずを最初からパクつくのは命取りだと悟った。お粥は最初小ぶりのとり皿に一杯だけだったが、その後ボウルにいっぱい出てきて面食らわされた。こんなもの朝から誰も手を付けはしない。私は2杯ほどおかわりしたが。いずれにしても、結構な量の残飯である。数百万人が餓死の危機にさらされているこの国で・・・

ホテル前にて朝出発の風景。中国をはじめマレーシア、シンガポールなどからの観光客が多数。日本人は非常に少数派でした。
 8時を若干過ぎたところでホテルを出発。前の駐車場には観光バスが15台位並んでおり、日本をはじめ中国、シンガポール、マレーシアなどアジア各国から大勢の観光客が宿泊しているようだ。欧米人は団体では見かけないが数名みかけた。少人数の場合は乗用車(多くはワンボックス)で回るようだ。大同江を渡ると平壌駅前を通る。駅の南側にはトロリーバスの車庫があるのが見えた。しかし。今日の目的地は開城のはずである。南へ向かわなければいけないのに北に向かって走っているのはなぜ・・・と、駅を過ぎたところで左折。左側には機関区らしく扇形庫が見える。駅の北側で線路をまたぐとしばらくしてまた左折し、千里馬通りに入った。これで南下のコースに入ったことになる。

 駅の西側の繁華街と思われる所で、出勤途中かたくさんの人が歩いている。大人も多いが子供もたくさん。バス停などはものすごい行列ができており、1台ではどうやっても乗れないように見える。2〜3台見送らなければ乗れないのだろうか。また、店のようなものが見えない。どこで買い物をするのだろう・・・と、よく見ると各建物の1階が結構店のようである。看板もディスプレイもないからわからないのだ。しかし、本当に売り物があるのかどうかは外からではうかがい知れないが・・・。

 バスは市内でも快調に100km/h近くの速度でとばす。もっとじっくり観察させていただきたいのだが、渋滞も信号もないのをいいことにものすごいスピードだ。左側に鉄道のヤードのようなものが見えた。機関車も何両か停まっている。と、すぐに大きな橋で大同江を渡る。この橋は忠誠橋という名で、途中に羊角島よりもだいぶ小さい中州のスク島を渡る。右側の河畔には1968年に領海侵犯で拿捕され、戦争一歩手前まで行く緊張状態の元となったアメリカの情報収集船、プエブロ号が係留されているのが見えた。

千里馬通りを100km/h近い速度で飛ばす。この辺だと車もまばらに走っています。
金大中大統領の訪問を記念して建設されたモニュメント、統一祖国三大憲章記念塔。アリランの人文字にも出てくる。そろそろ平壌市街も終わりです。この道がそのまま開城までの高速道路につながっています。
 しばらくはトロリーバスも併走し、市街地風の光景が展開していたが徐々に建物も少なくなり、気がつくと完全な郊外に入っていた。すでにピョンヤンと開城を結ぶ高速道路に入ったと思われるが、千里馬通りと境界がなくそのまま高速につながっているようである。速度はさらに上がりまさに疾走というペースだが、路面状態があまり良くなく揺れること揺れること。一応手記のようなものをとっているのだが、ほとんど字にならない。バスは固定窓のためガラス越しの撮影となり、若干色がついているため鮮明な写真は難しい。さらに加えてゆうべから天気が悪く、今にも泣き出しそうな空模様なのである。いくらレンズを窓にピタッとつけても60分の1秒などではブレずに撮影するのは至難の業である。しばらくはおとなしく席に座っていよう。

 この高速道路は平壌―開城間を結ぶ、日本でいえば東名高速のようなもの。本来軍事境界線を越えてソウルまで通じるはずの重要幹線である。中央分離帯を挟んでおおよそ片側3車線位、というのもこちらでは路面にペイントを施さないので特に区分があるわけではないのだが、すれ違う車は10分に1台位、こちらの車線には前後にまったく車は見えない。それでも、行く前に読んだ各種旅行記には30分に1台位というのが標準的な記述だったから、予想よりは多いかも知れない。そのかわり、路肩には驚くほど大勢の人々が歩いている。たまに屯している人々もいる。人々は路肩からあぜ道、遠くの丘の頂を縦横無尽に歩いている。1人で、2人、家族4人で、10人で・・・居住区域の境界を越えて移動が禁じられている共和国の人々だが、毎日の出勤や通学、田畑へ向かうのにも自家用車がなく、公共交通機関もないので徒歩となるのだ。こちらの人は5〜6kmであれば苦もなく、日常生活の範囲だという。車窓は荒涼とした丘陵が続く。道はその中を真っ直ぐ貫いているため起伏が激しい。しかし、歩く人は徐々に少なくなりながらどこまで進んでも途絶えることはなかった。

貨物ヤードとおぼしき施設。
 道には大体10kmおき位だと思うが、日本と同じく主要都市への距離が緑地に白抜き文字で書かれている。突然、中央分離帯が途切れ両車線がつながった道となった。いうまでもないがこれが非常時滑走路となる部分である。しかし、両端には特に支援設備があるわけではなく、燃料切れなどの際に着陸するだけの所のようだ。それともそんな人目につくところに置くほど間抜けではないということか。南端で反対車線を見ると「平壌まで30km」とあった。

 ここから5kmほど進むと次は線路をほぼ直行する形でオーバーパス、右側には貨物ヤードのようなものが見えた。線路は単線。ここから1km 程進むと、トンネルが現れた。今まで丘陵をアップダウンで越えてきたが、いよいよそれでは処理できない位山深くなってきたのだ。最初のは300m程度だったが、続いて500m位の長さのが続き、以降何個か連続する。いずれも片車線だけのいわゆるメガネ型トンネルで、内部は照明もなく真っ暗。直線で距離も短いので特に不都合はないのだろうが、東海岸の元山へ行く道は途中険しい山越えがある。トンネルの照明に割ける電力はないだろうから、そちらも真っ暗と思うが長いトンネルでは大丈夫なのだろうか。

沙里院市街近くで見た兵舎らしき建物。ほとんど120km/hで走行中ですのでブレてるのは勘弁してください。
 開城まで112km表示の2km程手前のところでまた線路をオーバーパス。これは路線図を見ても今ひとつどの路線だかわからんな・・・と、108km地点付近で左側に兵舎のような建物が点在する大きな敷地が出現。駐屯地だろうか。このあたりから再び人家も多くなってきて、町に入ったようである。しかし、なぜかバスはさらにスピードアップ。今までも100km/h近い速度だったのに、ほとんど120km/hになろうかという勢いである。なにものも見せてやらんぞ、という強い意志が感じられる増速だが、何かボンボン跳ねてるし危ないのでは・・・ウワッイテッ!

 この都市が沙里院(Sariwon)、平壌から約70kmの衛星都市で、ガイドブックには「現代的な工業、農業が盛んである」と書かれているが、う〜ん、本当のところは・・・確かに工場らしき建物もいくつか見え、高い煙突からは煙も吹き出てはいた。日本だったら首都に通うリーマンのベッドタウンとなっているだろう距離だが、「職住接近」となっている(何にでも疑うのは失礼ながら、これは本当のことらしい)この国では70kmを通う人間などだれもいない。そもそも、この町から自由に平壌に行けるかどうかもわからないのだ。コンクリート打ちっ放しの建物ばかりで構成された街並みはどこまでもモノトーンで、グレイの空と相まってますます陰鬱な光景となっている。街中とおぼしき街路にも牛車がちらほらと見える。

学校だと思いますが・・・
 2分ほどで街が後ろに遠ざかると、再び車窓は農村の風景に戻った。多くは畑だが、時々田圃のような区画を見ることがある。こちらの人々は米は食べないというが・・・しかしそれが本当ならば、日本政府が行っているコメ支援というのはいったい何なのだろうか。また、非常に気になるのが田畑の畦に座っている農民が全然仕事をしていないことだ。とても「速度戦」(ソクトチョン 農業、工業、日常生活すべてに適用されるスローガン)には見えないのだが・・・とりあえず今日の作業について打ち合わせをしているのだろうか。しかしもう9時を過ぎて見る人見る人が座り込んでいるのは・・・食うもん食ってないから腹減って動けないのか。そもそも畑には何も植わってないように見える。農業のこと何も分かっていない党中央が、将軍様が今日がいいとおっしゃったからとかで一斉種まき、一斉刈り取りと個々の実情を無視した指導をするおかげで共和国の農業はめちゃくちゃ、不作も飢餓も人災だと言われるが、我々素人には真実はまったくわからない。誰か農業の専門家が見たら、車窓からでも判断できるのだろうか。
水穀休憩所。平壌―開城間にあるサービスエリアはこれだけです。車は10分に一度来るかどうかなので、本線上に出て写真を撮るのも思いのまま。
 次は平壌まで76kmの表示の2kmほど北を南端に、再び滑走路。この先、平壌と開城のほぼ中間地点で唯一の水穀休憩所に立ち寄る。平壌を出発したのが0815、ここに到着したのが0920なので約1時間である。ここは以前所在地の名を冠して瑞興休憩所と呼ばれていたのだが、近隣の畑への水利設備が完成し作物の収穫量が著しく向上したのを記念して「水穀」と改名されたとのことである。道路上下線の上に門のように建物を建てるというのは非凡な発想なのでは。日本ではとても人を捌ききれないと思うが・・・

 下り線の駐車場は時ならぬ観光バスの群れで大にぎわい。10分間の休憩で建物内を探検してみるが、4フロア分位階段を折り返すとずっと廊下が続いており、土産物屋や食堂が営業しているのか閉まっているのかわからないようなたたずまいである。土産物屋は朝鮮画とか日本でもよくあるような置物などが主体で、ここで買うのはちょっと厳しいかも知れない。出発時間が迫ってきたので下に降りる。この嵐のような一行が過ぎ去ったら、またここは恐ろしいほどの静寂に包まれることになるのだろうか。店員はみなチマチョゴリを着ているが、日本のサービスエリアと違いどこから出勤してきていつまで働くのだろうか想像もつかない。10km位を歩いてきてここで着替えるのだろうか。一日中客が来ないときは何をしているのだろう。

休憩所の内部はこのように食堂と土産物屋になっていますが、時折訪れる観光バス以外は人気もなく、重厚なインテリアと薄暗い室内もあいまって不気味な空間という印象。右は建物3階から開城方向を望む。ご覧の通り車はまったく走っていません。

 再び走り出すが、引き続き少しづつ山深くなって行く。旧道なのだろうか、未舗装の道がまとわりついており、こちらがトンネルで抜ける所は下をくぐって川に沿って直角に交わっている。ちょうど鳥皮の焼き鳥のように。何となく国道106号の盛岡―宮古間に似ている感じである。あの景色の縦方向の寸法を半分に、横方向の寸法を3倍位にするとこんな感じになるのだろう。旧道にはてくてく歩く人民と牛車、時々トラクターを見ることができる。東南アジアの景色といえば誰もが納得するだろうが、一応ここはそれよりも進んでいることになっている朝鮮半島なのだ。
 また、車窓で気がつくのはちょっとした高低差を利用して小規模な水力発電があちこちで行われていることである。田の畦を流れる水路の2〜3m位のものから、丘の上にある溜め池を利用した10m位のものまで各種ある。田舎の電力需要はこれでまかなっているのだろうか。

開城の手前、小さな町の川に見える鉄道線路のものと思われる橋脚。
 平壌まで132kmの表示の2km位南で、左側に大きな川が寄り添い、その向こうにちょっとした街が見えた。そして、その川に鉄道の廃線跡らしき橋脚が残っている。そこからしばらく行くと左側に市街地が見えてきた。開城である。帰りはこちらに寄ることになっているが、行きはそのまま通過。線路が左から寄ってきて右の方に離れて行く。これがソウルと中国国境の新義州を結ぶ京義線と思われる。ここはすでに開城市街以南なので、朝鮮戦争以来分断されて列車が走っていない区間だが、現在南北で京義線の線路再締結と列車運行再開決定に従って復旧工事が進められている。南側が決定に従って長い間の仮の終点であったムンサン(Munsan 「ムン」はさんずいに文と書く)から2001年9月に臨津閣まで、また2002年4月には軍事境界線の直南である都羅山(Dorasan)まで復旧が完成したのに対し、北側はまったく工事を進めていないと批判されているが、見たところ線路には操重車(クレーンを装備した鉄道車両)が出ていて復旧を進める意志はあるように見えた。

開城市街を過ぎたところで線路がアンダーパス。交差直前で線路は分岐し、左側に分岐した線路は再び離れていきますが、ここで線路上に操重車が多数出ているのを発見。
交差した方の線路は道路の西側に抜けていくが、小規模な倉庫と留置線があり貨車がいるのを発見。この貨車は写真で見る限り生きているようで、開城駅から先も使用されている様子がうかがえます。
 市街地が見えなくなってしばらく、道路上にゲート(というほどのものではなく、工事現場に置かれている持ち運びのできる仕切りのようなもの)が置かれており、検問所のような所で人民軍兵士によるチェックを受ける。添乗員から今一度の注意。ここから先は軍人などには絶対にカメラを向けてはいけない。その他不用意な行動は慎むようにと、緊張した面もちでアナウンスがある。ここでエンジンを止めてしばし小休止。バスは停車したとたんエンジンを停めるが、これは非常に好ましい措置だ。

 ここで人民軍兵士を乗せて再び走り出すが、3分位で再びゲートのようなものがあり、また停車。車一台やっと通れるコンクリートの門に、バスが何台もねじ込むように停まっている。広い両車線の高速道路はここで唐突に終わっており、有名な「ソウルまで70km」の距離表示がある。どうも数多くの観光客が押し寄せたために捌ききれないようだ。中国でも最近「黄金週間」(そのままやんけ!)という名前で5月上旬に連休ができたらしい。ということで、とにかく中国人観光客が多い。ここがいわゆる民間人統制線といわれるもののようで、「板門店総合講義室」と呼ばれる土産物屋や周辺の地形を模型化した資料館などがあり、許可を待つ間観光客が一服できるようになっている。しかし、添乗員が「ここでこんなに人を見たのは初めてです!」というほどで、もう何がなんだがわからない混雑ぶり。最前線の緊張感などあったものではない。そのためか、手続きが遅れているようだ。

板門店総合講義室のゲートを見る。一応ここは撮影禁止とのことですが、デジカメのコンパクトを生かしてウエストレベルで撮影。売店では開城名産の高麗人参酒とかお菓子類(日本製のもの。誰が買うのかわからないが共和国の店には必ず少数が取り揃えられている)、パンフレットを売っていました。観光客が殺到し、1人でやっているおばちゃんは何がなんだかわからなくなっていました。
2棟ある建物のうち1棟は周辺の地形を説明するジオラマが設置されています。たどたどしい日本語で説明するガイドのK嬢。
ゲートを徒歩で通らされ、その先に停まっているバスまで歩く。両側には戦車止めのブロックが。
 トイレ行って土産買って模型見て・・・まだ集合の声がかからない。こんなんで夕方までに平壌戻れるのかな? 待ちくたびれた頃、2列縦隊に並んでゲートを通過。このゲートは行きは車に乗ったままでは通れないらしい(帰りはOK)。

 ゲートの先は両側がコンクリートの壁となっている狭い道で、通過した団体の観光バスが数十台縦列をなしている。両側に戦車止めのコンクリートブロックが積んである所で再びバスに乗り出発。壁が途切れると、両側には田畑が広がっているのが見える。すでに民間人統制区域に入っているのに、どうも牧歌的な風景・・・これが北側の宣伝村か? 遠くには農作業をする人も見える。2分ほどでまた停車。左側に建物が数軒あるここが停戦談判会議場と停戦協定調印場である。1951年6月、最初に朝鮮戦争の停戦会議が行われたのは同じ開城市にある高麗洞の来鳳荘だが、その半年後に停戦交渉が再開されたのがこの談判会議場で、大体10×6m位のガラス張りの明るい建物である。ここも中国人で満員。人民軍の係官が説明してくれるのだが、中国側のガイドのよく通る声に比べこちらのガイドであるK嬢は声量もかなわず、そもそも日本語がたどたどしいのでしばらくすると係官も日本語へ通訳する時間も取らなくなってしまった。K嬢のすねた顔を見て日本人・中国人ともニヤニヤしながら朝鮮語と中国語の説明だけが朗々と響く。

停戦協定調印場。奥には資料館のようなものがありましたが見学させてもらえませんでした。
停戦談判会議場。調印場よりもずっと小ぶりの建物で、すぐ人でいっぱいになってしまいます。
停戦談判会議場の中で人民軍将校より説明を聞く。やはりここも中国人でいっぱい。
停戦協定調印場の、当時実際に使用された国連軍旗と停戦協定文書(これはレプリカ)。机も当時のままということです。
 さて、実際の見学の順序はこちらが先だったが停戦協定調印場。こちらは会議場の3倍位の大きさで、ガランとした内部は照明がないこともあり薄暗い。部屋の真ん中には卓球の台のような緑色のテーブルがあり、アクリルケースがかぶさった小さな旗と赤白の表紙の文書のようなものが。旗はすっかり変色しきった国連軍旗で、文書は停戦協定調印文書だが、文書以外は国連軍旗、机、椅子ともに当時の実物とのことである。机は皆でバンバン手をついてるし、椅子は座り放題。重要な歴史遺産がこんな風に無防備でいいのだろうか?隣には資料館らしきものが併設されていたが、こちらは見せてもらえなかった。
停戦協定調印場の横は畑になっていました。 石碑の前で解説する人民軍将校。
 再びバスに乗って1分ほど、道は鉄製の橋を渡るが、そこからすぐ、バスは大きな建物前の駐車場に停まり、ここで新義州からの道は突然終わる。ここは板門閣、共和国側の人民軍や訪問客の休憩所である。反対側の奥には部隊詰所のような建物と車が見える。まず板門閣には入らず、来た道を歩いて50m位戻り、金日成氏が死の前日に書いたという絶筆の石碑を見る。ここから右側にはお馴染みの光景が広がっており、本来大変緊張しなければおかしい所なのだが、なにせ人の数が多すぎる。みんなでワイワイガヤガヤ、どうにも観光気分が抜けないのである。

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