“鈴張プチ高原”はどこにあるの?(工事中)


“鈴張プチ高原”はどこにあるの? 
お尋ねはごもっともです。ちょっと長くなりますが、“鈴張プチ高原”について説明させていただきます。
鈴張小学校の創立百周年記念誌すずはり(1975)によると「鈴張は四方山にかこまれており、土地は極めて急峻で、859mの堂床山を最高峰に、片廻山、鷹巣山等の山々のふもとに、広い平地もなく、僅かな耕地を求めて、棚田・段々畑が谷深く開かれている。」と記述されております。
Sr.ボスケの田舎暮らし基地は、片廻山(かたもうしやま)西麓の棚田最上段標高400mにあり、同じ「鈴張」でも国道沿いの「郷」の集落とは高度差で200mもあります。そのため、この辺りは夏は涼しく、冬は積雪量が多い等、気候条件に大きな違いがあります。このように「郷」とは異なる気候条件にあり、片廻山西麓の、鈴張では珍しく緩やかな丘陵地(標高400m前後)を、Sr.ボスケが特に他の「鈴張」と区別して“鈴張プチ高原”と呼んでいるものです。
したがって、もちろん現在の地図には“鈴張プチ高原”という地名はありません。安佐北区ハイキングガイド「あさきた里山いちばん」(非売品)では、片廻山について「千代田町の海見山(870m)から南に延びる尾根の南端にあたる。花崗岩からなる標高400mの高原の上に流紋岩の山頂部が乗った格好。・・」と記述され、「標高400mの高原」という言葉が使われておりますが、「高原」の厳密な定義に従えば、ここは「高原」の範疇には入らないと思います。いずれにしても、この地は「高原」と呼ぶには「標高が低過ぎるし小規模過ぎる」ということで敢えて「鈴張高原」と呼ばず、フランス語の「小さい」を意味する「プチ(petit)」を付け「鈴張プチ高原」とした次第です。

“鈴張プチ高原”へは中国自動車道千代田インターチェンジから車で約20分、広島自動車道(中国・山陽両自動車道間連絡道)広島北インターチェンジから車で約15分の、いずれも近距離にあります。

Sr.ボスケの田舎暮らし基地は“鈴張プチ高原”の鈩(たたら)部落にあります。以下は余談ですが、下記の国土地理院地形図で「鈩」を探してみて下さい。この付近で昔「たたら製鉄」(土製の炉に木炭と砂鉄を装入して鉄を作り出す)が行われていたようです。「鈩」の南方に「砂子田」という地名もあります。この辺りが、おそらく原料のマサ土から砂鉄を採った残りかすの砂の堆積場であったと、Sr.ボスケはその地名から想像しています。製鉄に必要な木炭は当然周辺の山林を伐採することによって得ていたはずです。1トンの玉鋼(たまはがね、刀を作るような良質な鋼)を生産するためには原料として最低13トンの砂鉄と同量の木炭が必要、この13トンの木炭を確保するためには約1町歩(1ha)の山林が必要だったようです(日立金属のホームページ「たたら」参照)。そのようなわけで、この付近一帯には巨樹・巨木がないのでしょうか。

ついでに下記の国土交通省国土情報ウェブマッピングシステム(試作版)の空中写真をご覧下さい(注意!ダウンロードに時間がかかります!)。この空中写真によって、1974年当時、麓の山林は伐採されて住宅団地に造成されているものの、東−西ないし北東−南西方向の谷間は依然として水田として利用されていることが判ります。これらの水田はその後2000年の圃場整備事業によって機械化耕作を可能にするための田圃の統合化が図られましたが、棚田の定義「山地や丘陵地などの斜面に階段状にひらかれている水田で、傾斜1/20以上の斜面にある水田」に従うと、この整備事業後も「棚田」と呼んでよさそうです。

最近、Sr. ボスケは「鈴張」という地名の由来について調べ始めました。
鈴張小学校創立百周年記念誌すずはり(前出)の第3章第1節「鈴張の地名」 によると『浅野藩時代には既に村名の由来は明確でなくなっているが、鈴をよく張る鍛冶屋がいたのでこの地が「鈴張」と呼ばれるようになったと推測されているが、慶長年間に安芸の城主福島正則に領地を没収された際に幕府に提出した寺領返還の嘆願書の文中に「錫張之里」という文字が出ていて、もっと古い地名は「錫張」ではないかと考えられている』ということです。
空洞の器をつくることを「張る」というので、鈴が空洞の器とすれば、「鈴張」とは「鈴を作る」と言い換えても良さそうですね。それでは「錫張」とはどういうことでしょうね。全くの想像ですが、この場合、「張る」とは「空洞の器をつくること」ではなさそうで、もしかしたら「金箔を張る」と同じ意味で「錫を張る」ということではないでしょうか。錫はすなわち金属の錫でしょうから、




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国土地理院地形図 日立金属「たたら」 空中写真1974年