あの頃のまま
作詞 : 呉田軽穂
作曲 : 呉田軽穂
6時のターミナルで ふりむいたきみは
板に付いた 紺色のスーツ
今でも気まぐれに 街をゆくぼくは
変らないよ ああ あの頃のままさ
去りゆく若い時間を ひとり止めているようで
うらやましいやつだよと はじめて笑ってくれた
For Yourself For Yourself
そらさないでおくれ その瞳を
人は自分を生きてゆくのだから
ネクタイ少しゆるめ 寂しげなきみが
馴染みの店に 腰すえる夜は
陽焼けした両足を 投げだしてぼくも
"SIMON & GARFUNKEL" 久しぶりにきく
人生のひとふしまだ 卒業したくないぼくと
たあいない夢なんか とっくに切り捨てたきみ
For Myself For Myself
幸せの形に こだわらずに
人は自分を生きてゆくのだから
For Yourself For Yourself
そらさないでおくれ その瞳を
人は自分を生きてゆくのだから
For Myself For Myself
幸せの形に こだわらずに
人は自分を生きてゆくのだから
大学の四年の卒業間際の時期、こんな歌を聴いていました。今でも大切な曲の一つです。
当時の私は採用試験に落ち、卒業論文がなっとくいかずに留年も決め、翌年の学費を稼ぐために塾で春の講習会の講師をしていました。一方、仲間たちは四月から教壇に立つための準備をしていて、(ほんとうに、俺、この先どうなってしまうのだろうか?)と思っていました。
人生のひとふしまだ 卒業したくないぼくと
たあいない夢なんか とっくに切り捨てたきみ
仲間たちは、夢を切り捨てたのではなく夢を実現しに大学を巣立っていくのに、卒業したくないのか卒業できないのか分からないままで過ごしていた私。そんな私には、
For Myself For Myself
幸せの形に こだわらずに
人は自分を生きてゆくのだから
という言葉が響きました。幸せってのは、人類共通の「平和」などもあるけど、もう一つには、自分にとっての幸せというものがあるわけで、人と比較したりして手に入れるものではないということを思っていました。そのときは、負け惜しみも半分は言っていたかもしれないけれど、今は本当にそうだなあと思っています。
同じく、ムツゴロウさんの『ムツゴロウの放浪記』にも助けられました。
私は、『ムツゴロウの青春期』『ムツゴロウの結婚期』『ムツゴロウの少年期』と読み進めてきてこの本に出会ったのですが、東大の大学院に進学し、修士論文を書き上げたムツゴロウさんが、その修士論文を提出することなく、自殺をするために山に入っていくという話です。
その後、いろいろとあって彼は山を下り生きていくことを決意するのですが、大学五年生を生きていこうと決意する私には大きな支えとなりました。
さて、明日君たちは卒業です。卒業おめでとう。
生きていくことは、学び続けることであって、そういう意味では一生進路学習を続けることになります。この一年間、50号にわたり君たちに進路決定を促すための通信を発行してきましたが、少しでも役に立っていれば嬉しいです。
これからは新しい環境で君の伴奏者となってくれる人との出会いがあると思います。しかし、もし、見つかりにくい時は、歌や本や映画なんかに探してみてください。けっこう良いものがあるはずです。
君たちが仲間たちと一緒に明るい人生、豊かな社会を作り出していくことを期待して、この通信をお開きにしたいと思います。
昨日は都立高校入試の発表があった。
希望の進路を得た人、そうではなかった人に一人一人声を掛け続けた。
(喜べ。だけど、気を抜くなよ)
(辛いだろう。だけど、良く学校まで自分で報告に来た。これで君はその分、一回り成長したぞ。辛くたってやらなければならないことがやれたんだから。大丈夫。人生はこれから。まだまだ)
そんなことを思っていた。
今までに受験勉強に使った問題集を見てみると良い。その量は多く、この中学三年間に学んだ範囲から出題されるというのは、結構辛いと思う。
だけど、こんなことを思い出すよ。
それは、私が中学2年生ぐらいのことだったか。夜、試験勉強をしていると父親が仕事から帰ってきて様子を覗きに来た。
「修、定期考査か?」
「そう。結構試験範囲が沢山あって大変なんだ」
私は「大変だなあ」という言葉が返ってくるのを期待していた。すると、父親は
「いいなあ。試験範囲があって」
と、当時の私には良く訳の分からない言葉を返してきた。
今なら、この言葉の意味は良く分かる。そうなんだ、君たちが出ていく社会は、試験範囲はないのだよ。そして、それにも関わらず毎日が試験になるのだ。それは言葉遣いであり、服装であり、時間通りに動くことであり、仕事内容であったりするのだよ。
応接室で君たちを待っていると、マフラーをしたまま、コートを着たまま、鞄を持ったまま部屋に突入してくる諸君がいた。合格の嬉しい気持ちでそれをそのまま伝えたいというのは、分からないではないが、それでもその姿では、おめでとうは言いにくい。おめでとうを言ってあげたいのだから、君たちはおめでとうを言われる格好になっておく必要があるのだよ。分かるかなあ。
放課後は卒業生がやってきて、「今日、高校の卒業式が終わりました」と報告してくれた。早いものだ。君たちに出会う前に卒業させた彼らが、君たちに出会うこともなく高校を卒業していくのだから。こうして、順繰りに、一見単純のようではあるが様々な学びと経験を載せて、時間は過ぎていく。
一日の仕事を終えて、家に帰ると留守番電話に伝言がある。何だろうと思って聞くと、
「今日は卒業式ではないか?」
と私の親からの電話。なんのこっちゃと思いながら電話をかけ直すと、
「修、大学院の卒業式は今日じゃなかったか?」
とのこと。
「あのー、去年一年間で終わらせたけど」
「そうだけど、一緒に入学した人たちともう一度やるのかと思ってな」
さすが、私の親だけはある。なんだかとんちんかんな発想だ。が、息子におめでとうを言ってやりたかったのだろう。親ってのは、いつまでたっても親なんだなあ。
「そうか、おまえの卒業式ではなく、おまえの教え子たちの合格発表の日か。それじゃあ、二重におめでたいな」
なんで二重なのかは、やっぱり分からなかったが、春が近づいたことだけは感じた一日だった。
期末考査を終え、さて、いよいよ明日は発表である。
良い結果が出ることを楢原中学校全職員で願っている。
結果発表を受けてからの君たちの動きを確認しておく。
持ち物
・ 受検票
・ 印鑑
この二つは絶対に持っていこう。
発表
学校によっては、一人一人手渡しのところもある。時間がかかるかもしれない。すぐに結果を親に伝えたい気持ちは分かるが、学校の近くの電話は混んでいる。駅まで戻ってきてから電話する方が空いているだろう。
この、自分だけで合格の喜びをかみしめる時間というのは、結構良いものである。
(一刻も早く伝えたい)
という思いと、
(まあまあ、待て)
という思いが心の中で交差するのを確認しながら、今までの受験勉強の日々を振り返るのだ。一番苦しかったことは何だったか。一番嬉しかったことは何だったか。これからの新しい生活をどうしようか。残り少ない中学校時代をどう過ごそうかなどと考えて、交通事故に遭わないように駅まで歩けばよい。家に帰れば結果は伝わるのであるから。
念のため、「携帯電話は持っていかないよう」にと書く。
なんで携帯電話は駄目なのであろうか。それは、非常に簡単である。ルールがあるからである。携帯電話の利便性は分かる。だから使わせてくれと言うのも分かる。だけど、それよりも使ってはいけないというルールがその利便性よりも中学校では上回っているのである。
君たちには、ルールの側面を二つ教えてきた。そのうちの一つは、
・ ルールは守るためにある。
である。今あるルールは守らなければならないのである。だが、もう一つも教えてきた。
・ ルールは変えるためにある。
である。国会は毎年たくさんの法律を作ったり改正したりしている。これは、世の中の変化に応じて必要になった法律を作り、変えなければならない部分を変えているのである。だから、校則でも変える必要がある場合は変えるのがよいのである。
しかし、大事なのは「手続き」である。好き勝手に変えてはいけないのである。
(私はそう思うんだから良いよね)
というののは、あなたの個人の生活のルールでは構わない。たとえば、お風呂に浸かったら10数えるのを20にするとか、靴を履くときに右足から履いていたのを左足からにするとか。そういうのは全く持って個人の問題であるから、君がしたいようにルールの変更をすればよい。
だが、ここで問題にしているのは集団のルールである。集団のルールを自分の勝手で(私はそう思うんだから良いよね)と変えるのは、おかしい。それは単なるルール違反である。集団のルールには手続きが必要である。もし、携帯電話が必要であり、君も君の保護者も学校も問題ないと判断すれば、ルール変更の手続きを取ればよいのである。
携帯電話だけでなく、(もう、試験が終わったんだからピアスを開けても良いでしょ。私、いままで我慢していたんだから)とか、(もう、卒業が近いから授業は適当に受けても良いでしょ)とか、勝手に理由をくっつけて自分で良しとする人がでて来ているやに聞くが、それは以上のような理由でおかしいのが分かるであろう。
報告
一階の応接室で受け付けます。その後、帰宅です。
なお、発表のない人は、一時間だけ登校します。
吉報を待つ。
返事をするときに、「うん」と返事をする人がいる。これは、やめた方がよい。以前にも書いたが、「うん」という返事は、自分が納得するための言葉であり、理解した内容を相手に伝える言葉ではない。
相手に自分が理解したと伝える言葉は「はい」である。子どもが「うん」という言葉を言うとき、大人はその子どもの発する言葉を聞いて、大人の方から一歩踏み込んで(ああ、分かったんだな)と理解する。
大人になる以上は、相手が理解してくれるのを待つのではなく、自分から相手に伝える努力をしなければならない。だから、「うん」ではなく、「はい」である。
「無言」というのもおかしい。教員に提出するプリントがあるとき、「無言」で目の前に差し出す生徒がいる。そりゃあ状況から判断すれば、「受け取って欲しい」ということを表しているのは分かる。しかし、これは失礼である。
だいたいからして、君たちが先生に渡すプリントは君たちのために何かをするためのプリントである場合が多い。そうであるならば、きちんと「○○のプリントです。よろしくお願い致します」ぐらいは言うべきである。無言で渡されると、命令されているように感じるし、不愉快になることがある。一言添えるべきである。
付け足しで言えば、プリントを受け取る人は、沢山のプリントを受け取ることが多い。渡しておいてそのプリントがなくなったとき、「私は渡しました!」と言っても、まあ意味はない。それを言ったところでプリントは出てこない。だから、プリントを渡すとき、自分が渡したことを印象づけるように一言を添えると言うことも、プリントがなくなったときに思い出しやすいようにするためにも大事である。
まあ正直なところ、言葉というのは学べば学ぶほど難しいなぁとは思う。時代と共に変化するし、変化しないところもあるし。自分では正しいと思っていても、全く違うこともある。ま、だから学ぶのだが。
ではあるが、私が今まで教えてきた生徒たちを見ていて、(を、これはひょっとすると真実かもしれないなあ)と思うことがある。それは、
・他人を誉めることのできる人の周りには、他人を誉める人が集まり、お互いに誉め合うことができる。
・他人の悪口を言う人の周りには、他人の悪口を言う人が集まり、その仲間から一人がいなくなると、いなくなった仲間の悪口を言い合う。
ということなのだ。
そういう点では、授業中に話したことがあるかもしれないが、老人ホームに職業体験に出かけていった中学生の経験の話は意味深いものがある。「お母さん、老人ホームにはいつも笑っている人と、いつも怒っている人しかいなかったよ」というものだ。
人間はなかなか変わらない。なぜなら、人間の行動を作り出す「脳」がなかなか変わらないからだ。脳は、環境に適応するために一気に自分を変化させる「反応」の部分に対応することはあるが、基本的には少しずつしか変化しないのだ。急に変化して、昨日の君と今日の君で別の人間になってしまっては、色々な面で、困るだろう。だから少しずつしか変化しないようにできているのだ。(参考『進化しすぎた脳』池谷裕二 朝日出版社)
しかし、この少しずつというのは恐ろしい。なぜなら、少しずつだけに自分ではその変化に気づきにくい。それでいて、確実に変わってしまうからなのだ。微笑みを絶やさなかった人は、人生の実りの時期に微笑みで過ごすことができ、怒って過ごした人は、怒ったままだったというのだ。
言葉は力を持っている。私のこんな駄文であってもそれなりの力があるし、君たちがこそっと話した他人のうわさ話にも力がある。
誰かが誉めた言葉を人づてに聞くとき、とても嬉しい。しかし、誰かがバカにしている言葉を人づてに聞くと直接言われるよりも頭に来る。
できれば、自分の仲間を誉め、自分も誉めてもらって、笑って、または、辛いことを笑い飛ばして人生を過ごしたいものだと思うし、君たちもそうであってほしいなと思う。
気になる言葉遣いを卒業一ヶ月前に書いておこうと思う。何回も注意してきたと思って入るが、中々直らないものもあれば、今まで言わなかったかもしれないものもある。すべての先生たちが思っているとは限らないが、少なくとも私は思っているものだ。ちょっと時間の取れた今、餞(はなむけ)の一つと思って書いておく。
その1 「大声で叫ぶ」
休み時間の会話によくある。「え”〜〜〜〜〜〜〜!」とか「ぎゃ〜〜〜〜〜〜〜〜」とか「うぉおおおおおおおおおお〜」とか、よくわからんが叫んでいる諸君がいる。まあ、体育館で叫ぶのは分かるし、まさか『世界の中心で愛を叫ぶ』の影響があるとも思えないが、とにかく男女関係なくよく叫んでいる諸君がいる。中には走り回りながら叫んでいる諸君がいる。
大体からして、大人と子どもの違いに「むやみに走り回らなくなったらお子ちゃまでなくなる」という定義があるぐらいであるから、その点では中学三年生も終わろうとしているこの頃であっても、お子ちゃまがいるのは味わい深いものがある。
日本の文化では、大きな声ははしたないものであるという認識がある。今あるかどうかと言われると、かすかにあると言うのが良いかもしれない。ではあるが、内容のない叫び声を公共の場(あなたの友達以外の人がいる場所)で発するのは、人格を疑われても仕方がないのである。慎みたまえ。
その2 「○○ね」
以前にも書いた。自分で自分の名前を呼ぶ言い方である。まあ、これは直らないなあ。小学生が使うならまだ分かるが、君たちはもう中学校を卒業するのである。ここまで使ってしまったであるから、今いきなり「私ね」なんて言い方にすることは難しいかもしれないし、周りの仲間も「どうしたの?」となってしまうであろう。だから、直せというのも厳しいかもしれない。
だが、この言葉遣いは「かわいい」と思われるのではなく、「かわいそうに」と思われる言葉遣いだと気がつかなければならない。中学校を卒業し、新しい環境で生活する時が変えるチャンスである。自分のことは「私」と言えるようになろう。
その3 「馬鹿自慢」
「○○って馬鹿だからさ、良く分かんねー」という言葉である。○○の中には、発言本人の名前が入る。中学生は思春期を迎えた諸君が生活する場であり、何の行動をするにも恥ずかしさが付いて回る。だから、「よくわからない」という状態はできれば避けたい。そのため、自分で自分を守ろうとして予(あらかじ)め、小さな声で「俺、馬鹿だから分からなくてごめんね」と謙虚に自分を守ろうとする場合には、その姿勢は奥ゆかしく感じることができる。
しかし、そうではなく、大声で「○○って馬鹿だからさ、良く分かんないや」と言われると、なんか違う感じになる。これでは「俺馬鹿だからできないや。だから、やんなくていいでしょ」と言っているように感じる。これは、甘えである。
学校は馬鹿であることは許される場所である。分からないから勉強するのだし、分かっていれば勉強しなで他のことをするか、もっと難しいことを勉強すれば良いのである。にも関わらず「○○って馬鹿だから」と自分で自分のことを言うのは「許してくれるでしょ?」と相手に自分が勉強不足であることを無理矢理認めさせ、自分で勉強することから逃げているだけである。馬鹿を自慢してどうする。他人に自分の理解を求めておきながら、自分が努力をしないでいることを続けることは許されないのだ。
中学校を卒業してまで、「○○って馬鹿だからさ、良く分かんないや」なんて事を言ってはならない。そんなこと言ってたら、(ほー、あいつは馬鹿なんだ)と思われる。因に「○○は天才だ!」と言っていれば、嘘つきだと思われるが(笑)。
その4 「うそ!」
失礼千万な言葉遣いである。私は冗談で嘘をつくことがあるので、そういうときに「え〜、嘘でしょう?」と言われるのは全く問題ない。それはそれで良いとすら思っている。しかし、まじめな話をして、明らかに本当と分かるときに、「うそ!」と言われるとカチンとくる。
本人は「うそ!」を「嘘付いているんでしょ?」という意味で使っているのではなく「すごーい!」「かっこいー!」「すてき!」「すげー!」のつもりで使っているのだろうが、それを「うそ!」と言われると、カチンとくる人がいることを中学校を卒業する諸君は知らなければならない。
「うそ!」を「すごーい!」「かっこいー!」「すてき!」「すげー!」と言い換えるだけで、君の発する言葉に新たな力が加わることだろう。
とりあえず、4つの気になる言葉を書いてみた。心当たりのある諸君は注意すべし。
昨年は、今日あたりに春一番が吹いたという。今年は明後日あたりに吹きそうだという。「暦の上では春」という言い方があるが、本当に春が近づいてきている。そういえば、もうそろそろ国語の教科書も残っている単元は後少しである。
三連休には入試と発表があり、悲喜こもごもであろう。一週間を過ごしてきての三連休での試験なので、今日あたり疲れが貯まってきているかもしれない。運動する、寝る、食べるなど自分にあった方法で解消して欲しい。
都立の受検までは残り10日となった。この時期に何をしたらいいのだろうか。
二つ考えられる。一つは徹底的に分からないところ、覚えていないところを頑張ってできるようにするという方法である。このギリギリの時期にやったところが試験に出ると言うことは珍しくない。何気なく試験当日の朝に見た新聞に載っていた漢字が入試に出るなんて事もあるのだから。だから徹底して頑張るというのはある。
だが、授業中に内職をして、家に帰ってまでやるというのはどうであろうか。少しの時間でも欲しいのは分かる。しかし、やるべきことをやるべき時にやらないで別のことを隠れてやるというのは、君の成長を長い目で見たときに良いことではない。
中学校の授業というのは、いろいろとあるが、君の成長を考えてやっている部分が多い。ただ、それが今すぐに役立つものもあれば、後から役立つものもある。受検を控えた君たちからすれば、今すぐ受検に役立つものだけをと考えるであろうが、それは中学校の教育の目標とずれる部分がある。
ちょっと難しいが、法律を見ておこう。『教育基本法』という法律がある。
第一条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身とともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
人格の完成を目指すのが目的と言っている。
また、『学校教育法』という法律では、
第35条〔目的〕 中学校は、小学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、中等普通教育を施すことを目的とする。
第36条〔教育の目標〕 中学校における教育については、前条の目的を実現するために、次の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。
一 小学校における教育の目標をなお充分に達成して、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと。
二 社会に必要な職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。
三 学校内外における社会的活動を促進し、その感情を正しく導き、公正な判断力を養うこと。
とある。高校に合格させることが目標とはなっていないのだな。
今受験勉強を頑張りたいという気持ちも分からないではないが、ばさっと言ってしまえば、高校に合格したいということは、君の私事である。自分が好んでやることである。そのための準備を授業中にすると言うことは、授業中に自分の好きな漫画を読んでいることと実は根本のところでは変わらないのだよ。高校を受けようとする諸君であれば、ここのところを理解しなければならない。
もう一つのやる事と言えば、今まで自分が勉強してきた内容で「分かっていること」を確認するということだ。入試では100点を取る必要はない。合格点を取ればよい。合格点は、他の受験生が合っているところを自分も得点し、プラス他の受験生ができないところを少しできれば合格する。
だから、自分がいつもならできる部分が、試験でもできるようにしておくことが大事である。テストの見直しの時にも良く言っているだろ。「自分ができたと思っている部分を十分に見直すこと」。これで確実性が上がるんだな。
期待している。
いよいよ私立の一般入試が始まる。三連休の間に行われるので、一週間の疲れが取れないまま試験に臨むことになるかもしれない。今晩は十分に睡眠を取って体を休めて欲しい。
とはいうものの、体は疲れているのに緊張しているときには寝ることができないということがある。そういう場合はどうしたらいいのだろうか?
寝るということをちょっと考えてみる。
起きているとき(覚醒時)は、人間は交感神経という神経が行動を司っている。そして、寝ているとき(睡眠時)は、副交感神経というものが司っている。ここをまず理解しよう。
君たちが布団に入り、寝ようとして駄目なとき、
(あー、寝たいのに寝られない。寝たいよー。寝たい寝たい寝たい・・・)
と思うだろう。
そうすると、寝るときに必要な副交感神経ではなく、起きているときに必要な交感神経が活発に活動してしまうのだ。だから、ますます寝られなくなってしまうのだ。
そんなとき、どうしたらいいのだろうか。
ちなみに「羊が一匹、羊が二匹・・・」というのは意味がない。なぜかと言えば、「羊が一匹」というのは、「sheep one」である。これは、何かと言えば「sleep one」ということに音が似ていることに気がつくだろう。羊を数えるのは、英語だから有効なのである。日本語で「羊が一匹」というのであれば、意味がないであろう。自己催眠が掛けられないのは、言うまでもない。
私がお勧めするのは、寝たいのに寝られないときは、体を布団に入れて休めて、寝ようとしないことである。君たちは中学生であり、体力も十分にある。一晩ぐらい寝なくても大丈夫である。それだけでも十分に体を休めることはできる。
そう開き直れば、だいたい寝てしまうものだ。
そこに、多少秘策を伝授する。まず、「頭の中を空っぽにする」ことだ。しかし、これは難しい。頭の中を空っぽにできるのは、武術の達人とか、芸術の大家などであろう。一般民間人は難しい。ということで、逆の発想をする。何かで頭を満たすのである。
だいたいの場合、こういうときは「不安」で満たされているものだが、不安の代わりに違うもので満たすのである。くだらないものがよい。私のお薦めは「自分の足の裏の表情」である。指の一本一本、皺(しわ)の一筋一筋を丁寧に想像するのである。
自分の足の裏の表情など、考えたこと無いだろう。これを考える。
ところが、考えると顔の筋肉が堅くなってしまう。リラックスとは別の方向になってしまう。そこで、つぎに「顔を柔らかくする」のである。
どうやるかというと、顔をつまんでマッサージして暖めた後、「世の中で一番間抜けであろう顔」をするのである。この間抜けな顔を作ろうとすると、顔の筋肉はゆるむ。
まとめる。
1 寝られないときは、寝ようとしない。
2 寝なくて良いから、体を横にして休める。
3 頭の中を「自分の足の裏の表情」で満たす。
4 顔を「世の中で一番間抜けであろう顔」にする。
これで大丈夫である。寝られるはずだ。
うまくいかなかった先輩たちは、いままで聞いたことがない。
今まで自分がやってきたことをやりきれば、良い結果は後からついてくる。
君たちはそういう努力をしてきたはずだ。
自信を持って受験してきてください。
月曜日に良い結果の報告を期待している。
NHKスペシャル「フリーター漂流 〜ものづくりの現場で〜」は、衝撃的な番組であった。話には聞いていたが、映像でこのように見せられるとインパクトがあった。フリーターを企業に派遣する会社の記録である。
番組の中には、中学校を卒業してから定職に就かないまま21歳になってやってきたAさん。26歳になるまで20以上の仕事を渡り歩き、結婚したばかりの奥さんを連れてきたBさん。35歳でこの仕事しかないと腹をくくって出てきたCさんの三人が主に描かれていた。
仕事は携帯電話の基盤に関する単純労働である。携帯電話は精密機器でありながら人気による生産量の調整が必要な商品なため、すぐに増産や減産ができる製造ラインが必要になる。だが、社員や派遣社員ではこの変化に対応できない。そこで、フリーターなのである。
ある朝、突然仕事場が変わることを告げられる。そして、バスに乗せられて職場に移動。それも契約期間の6ヶ月の間にかなりの回数が行われる。Cさんは「仕事場を固定してくださいよ」と訴えるが、それも無理。そういう契約ではないのだ。
三人は六ヶ月の契約をしているのだが、全員が途中でやめる。番組によると契約した人間の半数がやめるそうだ。
三人の中のBさんは、工場のリーダーを任せられるが、「リーダー手当がない」と嘆く。さらに彼は「自分のやりたい仕事が見つからない」と言っていた。20回もアルバイトをしているのだから、仕事を見つけようと努力していることはわかる。しかし、違うんじゃないかとも思った。
実は、このあたりは進路指導主任としては、非常に難しい説明になる。
というのは、君たちには「自分にあった仕事」や「将来の目標」を考えるようにこの三年間指導してきた。これはこれで間違いではない。しかし、人生では「自分のやりたい仕事に就ける人」というのは、ごく僅(わず)かなのだ。
ごく僅かにもかかわらず、なぜこれを勧めるのか。それは、自分がなりたいものになろうと努力をしている最中に、さまざまに大事なものに出会うからなのである。懸命に自分を高めようとしている中で(へ〜、こんな人もいるんだ)とか、(いや、私にはこっちの方が向いているかもしれない)とか思うことがある。そして、進路を変更していくこともあるのである。君たちが学生時代に行っている努力は、いろいろな将来の為の基礎学力なので、懸命にやっていれば変化に対応できるのだ。
ただ、この進路の変更を行うためには、ある程度の時間がかかる。それは、その仕事の良いところや悪いところを理解し、成功も失敗も体験した上でないとうまくいかないことが多い。同じようなことを転職を紹介する会社の社長さんがラジオで話していたのを聞いたことがある。20の職種を変えるというのは、経験(キャリア)を積む前に仕事を投げ出している可能性が高い。
もう一つ。自分のやりたい仕事に就いている人はごく僅かなのだという事を書いたが、にも関わらず自分の仕事が嫌で嫌でしょうがないという人は、長く働いている人にはそんなに多くないのではないかとも思っている。もちろん、色々な人がいると思うがそんな気がしている。
遠藤周作さんのエッセイに、彼が昔読んだ話が載っていた。たしかこんな話だ。「あるとき、旅人が歩いていたら、乞食に出会った。乞食が『寒いから抱きしめてくれ』という。旅人は嫌ではあったが抱きしめた。すると『もっと強くだ』と言い、旅人は強く抱きしめた。すると乞食は神に変わった」というものである。
乞食を嫌な仕事、自分に向いていない仕事とすれば、神は天職でないだろうかとも思う。
再放送は今晩の深夜に放送されるとのこと。今の世の中を理解するためにも、録画して見ると良いのではないかと思う。
とても早い一週間が過ぎた。
気がついたらもう週末であった。
出願、都立の推薦試験といろいろとあったからだろう。
合格を手に入れた諸君もいるが、残念な結果が出てきている諸君もいる。だけどこれからである。まだまだ始まったばかりである。
村上春樹の小説(『1973年のピンボール』だったか、『中国行きのスローボート』だったか)に、「ボクはいつも、大事なことは後になって気がつく」という台詞があったことを思い出す。そりゃあ、人間はだんだん成長するのだから、今はその価値が分からないものも、あとになると大事だったとわかるようになることは、十分ありうる。それを
(悲しい)
と思うのか、
(お、おれも成長したな)
と思うかは、その人の生きることへの哲学によって違うのであろうが、元来脳天気な私は、当然後者である。
夕焼けの美しさなんて、じぇんじぇん美しいと思っていなかった。だって、毎日当たり前のように日は昇り日は沈むわけで、多くの場合朝日と夕陽に出会うことができる。当たり前のことなのであるから、感動なんてないわけである。
だが、さすがの私も、その何でもない一日がいろいろな意味を持って流れていることを感じ、理解するようになると、こうして荘厳に美しく終わっていく夕陽が愛しく感じる。一日の本の少しの時間だが、仕事の手をとめて、見とれるのはそんなことからなのだろう。
写真は、楢原中学校の4階から見た景色である。
気がつけば、楢原中学校で生活する時間は休日を含めてもあと二ヶ月もない。一日一日を大事に過ごして欲しいと思うばかりである。卒業文集の下書きを書き、義務教育最後の避難訓練を終え、こうして一日が過ぎていくのである。
そして、うまくいかなかったりしたことがあったとき、
(あ、あそこではああすれば良かったんだな)
と大事なことは後で気がつく。
だけど、後で気がついたことであっても、それは君が人間的に成長したから気がついたのであるから喜ぶべきである。そして、その成長した部分を残りの日々に生かして生活していって欲しい。
今からでも、これからでも積み重ねで君の中学校生活を充実させて、三年生の全体の生活を実り多いものにしていって欲しい。
期待している。
願書の出願が始まり、自己PRカードの最終版を仕上げるようになると、本当に受験なのだという感じがしてくるだろう。来月の今日は、私立高校の受験はすべて終わり、結果が出ているのであるから、この一ヶ月はまさに山場である。
受験勉強をしていると、中にはこんなことを思う人がいるかもしれない。
(わ、わからない。私にはこの問題がわからない。わたしはバカなのか)
と。そして、不安と自己嫌悪に陥るようになる。
自慢じゃないが、私とて大学受験まで、いや、教員採用試験まで、この不安と自己嫌悪の繰り返しであった。私に言わせればこの思いは、君の人生の最初の関門であり、これからズーッッと続くのである。
だから、この不安、自己嫌悪とのつきあい方を学んでおく必要がある。
そもそも「わからない」ということは、どうして発生するのであろうか?
一般的に思いつくことは、
勉強していない → 理解できない → わからない
という流れである。
つまり簡単に言えば、勉強していない私が悪いから、駄目なのだということである。これは、多くの場合当てはまる。中学生ぐらいの勉強は、わかるわからないではない。やったかやらなかったかである。だから、「わからない」は、即(すなわ)ち「やっていない」ということが多いのである。
しかし、こんなこともあった。
私が受験勉強をしているとき、国語の長文問題を何回読んでも頭に入らなく、自分の頭の悪さを嘆いていたとき、先生がこういった。
「この文章は、悪文ですね。これじゃあ、何を言っているか分からないですね」
と。つまり、私の頭が悪いのではなく、頭の悪い人が書いた、悪い文章であったのだ。当時、ワープロなどなく、文字が活字になると言うことは、それだけですごい文章だと思っていた私は、ショックを受けた。
(え? 悪い文章も入試問題になるの? なんだ、俺がバカだったんじゃないの?)
今から思えば、わかりにくい文章だからこそ入試問題になっているとも言える。分かりやすい良い文章であれば、みんな点数を取ってしまう。だから、「悪文」を使っていることもあるのかと思う。
さて、もう一度、君たちの分からないである。「わからない」は、即ち「やっていない」であることが殆(ほとん)どであると思うが、そうではない場合もあることを述べておく。それは、「今は解けない」ということである。
君が抱えている問題は、解こうとしている問題は、今の君の学力では解けない問題であるということである。今の君には、やってもやっても解けないのである。また、君の経験が足りなくて解けないということもあるだろう。懸命にやればなんとかなる、というのは、そうでもあるし、そうでもない。懸命にやったところでできないものもある。
しかし、ここが大事である。やってもできないからと言って、「やらないでいる」、または、分かってもいないのにもかかわらず、「分かった振りをする」ことはしてはいけないということだ。
やらないで、分かった振りをしていると、君は成長を止めることになる。
人間の成長は、あるとき突然起きる。貯まっていたものが突然爆発するようにわかる。これは「湯船の法則」で話したことだ。分からないでいる状態は、辛い。だだから、分かった振りをする。ギャグで逃げようとする。だけど、この辛い状態を耐えて、学び続けると、あるときキチンとわかるようになる。この感動を味わって欲しい。
話をまとめる。
分からないとき、殆どの場合が「やっていないから、わからない」である。
しかし、時に、問題が大きすぎて今の学力、経験では解けない問題と格闘していることがある。
そのときには、分からない辛さを抱えて学ぶしかない。中途半端に分かった振りをしない。
そうすると、感動的に分かるときが来る。
これが、学ぶことの喜びである。
新聞記事に以下のことが載っていた。
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家での勉強「0分」、中学生の3割以上 ベネッセ調査
首都圏の中学生の3割以上が家での勉強時間が「0分」で、4人のうち3人が「勉強だけで人生が決まるわけではない」と考えていることが、ベネッセ未来教育センターの調査でわかった。同センターは「子どもたちが勉強する意味を持てずにいる」と分析している。
調査は03年11〜12月、首都圏の中学生約1500人にアンケートした。
家で1人で勉強する時間は、「0分」が32.8%で最も多く、「1〜2時間」21.9%、「1時間未満」18.9%の順。一方で「2〜3時間」「3〜4時間」「4時間以上」の合計も26.5%で、生徒の勉強時間は二極化していた。
「勉強する生徒」と「勉強しない生徒」を1時間を境に分けた。「難しい大学に進学する意味」を尋ねたところ、「仕事を選べる幅が広がる」と答えた生徒の割合は「する」61.3%で、「しない」は50.8%だった。
児童・生徒の学力低下を指摘する調査結果が相次ぐなか、センターは「勉強がどう役立ち、なぜ必要なのかイメージを描くための支援が必要だ」としている。
(01/10) http://www.asahi.com/edu/news/TKY200501100124.html
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さすがにこの時期の三年生はこんなことはないだろうが、こういう記事を見ると
(あ〜、きみたちチャンスだなあ)
と思う。
だって、勉強していない人がたくさんいるのだから、ちょっと勉強すればいい結果を残すことができるのだから。みんなが勉強している中で勉強して結果を出すのは、難しい。だけど、周りが勉強していないのならば、楽だ。
しかし、こうとも言える。
周りが勉強しているとき、ライバルと競い合うことで自分の持っている力以上のものを出せることもある。周りが勉強していないときは、(ま、いっか)と思って勉強しなくなることもある。
きみたちが、(ま、いっか)の方にならないことを願うよ。
1月18日から、願書提出が始まる。(場合によっては始まっている)
いくつか、確認する。
1)出願日は特別な事情*1がない限り、朝、学校に登校し、そこで「調査書」などの必要な書類を受け取る。なお、「調査書」などは、封筒に入っているが、これを開封してしまうと無効になる。つまり意味がなくなる。開けてはいけない。
2)出願が終わったら、必ず学校に戻ってきて三年の先生に報告をして、授業に戻る。途中寄り道などをしない。なお、寄り道しても、先生たちはその学校迄のだいたいの所要時間はわかるので、していないと言い訳はできない。*2
3)出願時に事故*3が発生したときは、楢原中学校に連絡し、その後の行動の指示を受ける。また、出願に関して分からないことがあった場合も、電話をする。
*1 例えば、1月18日以前に出願の日にちが設定されている場合など。
*2 たくさんの学校の出願で、学校に戻る時間が4時を過ぎる場合は学校に電話をして確認すること。連絡のない場合は、早退扱いとなる。
*3 電車、バスの交通事故。必要書類の不備。忘れ物。喧嘩など。
ということです。
ちゃんとできますように。
あけましておめでとう。今年の正月はたっぷりと勉強できましたか。
勉強漬けの正月も、一生のうちに何回かはあって良いと思っていますが、体調を壊さない程度にやってくれていればなあと思っております。
さて、いよいよ中学校生活をまとめる三学期となったわけです。
二学期の最後に、
「二学期は早かったと思う人?」
と訊いたところ、殆どの人が手を挙げていましたが、三学期はそれにも増してすごいスピードで過ぎていきます。
そんな三学期を過ごす君たちに、いくつかの話をしておこうと思います。
自分のスケジュールをしっかりと確認すること
これからの進路のスケジュールは、一人一人違ってきます。願書の提出日、受験日、手続き日、高校からの呼び出し日など、それぞれの学校ごとに違います。また、同じ学校を受験していても受験日が違ったり、呼び出し日が違ったりすることも珍しいことではありません。
各自スケジュールを作るように二学期の末に指示しました。面接対策本の資料に書き込むことになっていましたよね。家庭でしっかり確認しておきましょう。
失敗したときこそ学校に連絡すること
多くの人たちがはじめて入試に立ち向かうと思います。人間、一回目というのは緊張しますし、失敗しやすいものです。失敗したとき、
(あ〜、どうしよう。もう駄目だ)
と思うでしょう。ですが、その時です。その時こそ、学校に電話連絡をしてください。保護者からの連絡でなく、学校からの連絡で乗り越えられる入試のトラブルもあります。
これは受験前もそうですが、入試で不合格になったときも大事です。二次募集などはその時の高校の都合で発生します。ですから、駄目になったときこそ、早めに連絡があると良いわけです。
支えになるために何かをすること
人によっては、推薦入試を受けることで一月中に進路が決定する人がでてきます。君にとってはおめでとうですが、中には都立の一般入試だけで進路を決定しようとしている人もいます。学校で勉強する魅力の一つは、みんなで学ぶ雰囲気を作って学べることです。
書写の時間、君たちは咳一つすることなく、一つの文字に集中して向かっていましたよね。あの雰囲気が美しい文字を生み出しているのです。早く決まった人は、教室の空気を勉強に向かうように保ち続けてください。そして、卒業に向けてアルバム委員、文集委員、校内美化などいろいろな仕事があります。これらの仕事を積極的に引き受けて、進路の決定に取り組んでいる人たちの支えになる何かをしてください。
感謝の気持ちを伝えること
多くの人が迎える合格。それは実におめでたいことです。必死に努力をした君が手に入れた輝かしい進路ですから、喜ばしいこと限りありません。しかし、君の努力を支えてくれた人を、徒(あだ)や疎かにしてはなりません。
君が勉強だけすればいい環境を作ってくれた親御さん。何かと心配してくれたクラブの顧問の先生。面接指導で細かいアドバイスを下さった校長先生、教頭先生。君に応じた細かい指導をしてくれた塾の先生。まだまだ他にもいらっしゃると思います。話し言葉でも、手紙でも良いです。「おかげさまで合格できました」と感謝の気持ちを伝えることが大事です。中学校を卒業するということは、こういう社会人として当然のことができるようになるということでもあります。
次の準備をすること
中学校はあと三ヶ月で卒業ですが、卒業は次へのスタートです。その次のスタートを気持ちよく切れるようにするために、君が何をしなければならないのかを考えて、実行に移しましょう。学力なのか、体力なのか、精神力なのか。
君が次のステップで成長できるために何が必要なのか考えて、その準備を始めることも、この三学期には必要になります。
いよいよです。
12月 24日 NO. 37
77日間の二学期が終わる。
この二学期はなんと言っても最大の行事を乗り越えながら、自分の進路の方向性を定めるという非常に大きな学びがあった。この学びは、その場だけでなんとかやってしまうことはできない。三年間の少しずつの学びが積み重なってできるというものである。
提出物一つにとっても、期日に何事もなく出せる人もいれば、一週間も十日もほったらかしにして怒られてやっと提出する人もいれば、提出したと思ったら鉛筆書きであったり、判子がなくて再提出しなければならない人もいた。おかしな所を注意されたらきちんと直してきた人と、適当に誤魔化してきたととでは、この時期の乗り越え方が全然違ったであろう。
当たり前のことだが、努力を重ねてきた人とそうでない人の結果が同じ訳がない。心しなければならない。
冬休みはとにかくやる気を出して、努力を重ねなければならない。
しかし、この時期になっても「やる気」がでてこない人もいるようである。保護者会などでも「先生、うちの子どもやる気がないんですけど、どうしたらやる気が出るでしょうか?」などと相談されることがあるのだが、「やる気は本人の問題ですからねえ」と答えにならない答えしか言えなかったのだが、最近の脳科学の発達は、やる気も解明しつつあるらしい。
やる気を出させる魔法の言葉は、
「とにかくまずやってみよう」
である。
科学的にはこれしかないらしい。なぜだろうか。やる気を司っているのは大脳の中にある直径2ミリ、0,7gの「側座核」という部分である。この「側座核」は、刺激を受けることで「やる気」というホルモンを分泌するという。つまり、ある程度の刺激を与えないと、やる気は生まれてこないのだ。ただ、ぼーっと過ごしていてもやる気は生まれてこないのだ。
たとえば、親にさんざん言われて仕方なしに机の周りの片づけをはじめるとする。はじめたときには嫌々だったのに、事が進んでくると熱中して思っていた以上に片づけてしまったという経験はないだろうか。これが、やる気の構造なのである。
そうだとすれば、「とにかくまずやってみよう」という言葉を受け入れることである。この言葉を親や先生に言われて受け入れることが第一段階。最終的には自分でこの言葉を自分に向けてつぶやき、スタートを切るのである。
「好きこそ物の上手なれ」ということわざも、このやる気に関連している。脳科学では、扁桃核という部分が関連している。この部分は自分の目的を「好きか嫌いか」で判断して行動に移そうとする部分である。好きなことは楽しくやり、嫌いなことはやらない。この扁桃核を活発にするには、ちょっと生理的な危機状態に置くと良いらしい。ちょっとでいい。頭寒足熱のように頭を冷やすとか、空腹状態を作るとかである。
で、好き嫌いだけで動かないように記憶に則って動くことも脳は考えている。それが海馬という部分である。自分の経験で良かった部分に従って動くのである。だから、今までの学習で成果のあったところから、その先を行うと効率がよいのである。
当たり前のことだが、努力を重ねてきた人とそうでない人の結果が同じ訳がない。だから、やる気を自分で作り出して、この冬休みを充実した学びで満たして欲しい。
君たちの努力が学力の向上と人間的な成長に結びつくことを、願っている。
良い年をお迎え下さい。
三者面談が終わり、進路の具体的な方向が見えてきたことだろう。この間、教室では面接試験の練習を行われ、校長先生教頭先生に模擬面接をしてもらうということが進んでいる。
また、君たちが三者面談をしているときに職員室では、佐々木先生、田所先生、奥村先生が教育委員会に提出しなければならない、作るのがとても大変で重要な書類を正確に作ってくれていて、十二月十五日から始まる高校が主催する入試相談の基礎資料を作ってくれていたりしていたのだ。
もちろん、職員室では他の学年の先生たちからも、まだまだ「○○さんはどうしている?」「ああ、良かったねえ」という声も未だにたくさんかかる。
先週の金曜日には、体育館に集まり「調査書作成願い」の書き方も丁寧に説明した。締め切りは変更して、12/20日(月)になったことを確認しよう。
こうして君たちの進路がうまくいくように学校全体で応援しているわけである。現在行っている高校への進学相談の結果は、特別な事情がない限り、12/17(金)の学活で一斉に伝えるので、そのつもりでいるように。
しかし、君たちの生活を見ているとまだ、ぴっしっとしていない生徒が多く見られる。
中学校一年生の時に君たちに示したルールが、中学一年生の時には守られているのに、中学三年生の今、成長したはずの今、守られていない。例えば、勝手に人の教室に入らないということだ。
学校は多くの人間が生活する場所である。多くの人が個人の荷物を持ってきている。現在、中学校のロッカーはオープンロッカーで鍵はかからない。だから、雑然と置くのではなくきちんと揃えて荷物を置くことで、荒らされることを防いでいる。
そんなところに、勝手に教室に入った人がいて、何かものがなくなった場合、その人が疑われることになる。学校では加害者も被害者も作りたくはない。そんなこともあって、「勝手に自分のではない教室に入らないこと」と言っている。
ところが、「勝手に他のクラスの教室に入らないこと」だけでなく、それ以上の事をしている人が出ている。それは、「勝手に人の荷物を使う」ということである。教科書、資料集、辞書、体育着、プリントなどなど。
人間は忘れ物をする動物で、忘れないように心がけていても忘れるときは忘れる。そういうときに、ものを貸してくれる友人がいるというのは、とてもありがたいものだ。しかし、それはものを貸してくれる人に許可を取り、汚さないよう、壊れないように使い、感謝の気持ちを込めて返却するときに、人に借りるという行為は許されるのだぞ。(大人になればそれにお礼を加えるのだぞ)
そうでないとき、君たちが軽い気持ちで行っている行為は、社会の常識では「窃盗」ということになる。君が「冗談、冗談」とか「わざとじゃない」とか「いつもやってるよ」とか「いいって言われていた」と言い張ったところで、中学校では「逃げ切れる」かもしれないが、世の中では通用しない。そんな適当ではいかんのだ。そんなに甘くないのだ。適当なことをやっていると、君の人生の大事なところで(あいつは、ちょっとねえ)と相手にされなくなってしまうのだ。これが恐い。
人間は自分を甘やかすようにできている。だから、だんだん(このぐらいいいじゃん)となる。そして、注意を受けると「えー、いいじゃん。なー」と仲間に声を掛けて、仲間も「いーじゃん」となる。もしそう言ってくれたとしても、世の中のルールに反していれば、このぐらいであっても悪いわけで、その「いーじゃん」と言っている仲間ごと罰せられるのである。最近の学生の起こした事件はほとんどこのパターンではないかと思う。
自分で勝手にルールを作らない。(このぐらいいいじゃん)という思いでルールを破らないことだ。
こんな話は、君たちは説教だと思い、嫌な思いをするかもしれない。しかし、中学校を卒業した君たちには、説教ではなくいきなりの罰と言うことの方が多くなると思う。だから、ルールを破っている人は、今のうちに、自分で自分を律する(自分の行動を自分で管理する)ように軌道修正する必要があるのだぞ。
エンティエンド?
12月 3日 NO. 35
告げられた二学期の成績予測の結果に、喜びを受けている人もいれば、衝撃を受けている人もいるだろう。普通に考えれば、成績が上がった人は良かった、下がった人は悪かったということになる。しかし、人生というか人間というか、これらは、そう簡単にいかないのである。
私は教員生活半分ぐらいは中学三年生を見てきている。いろいろな中学三年生を見てきた。二学期の成績が分かって、その後の生徒の様子を見ていると次の4つのタイプがあることに気がつく。
表にしてみた。

1は、成績が上がったので、もっと頑張ろうというタイプ。
2は、成績が上がったので、気が抜けて遊んでしまうタイプ。
3は、成績が下がったので、気合いを入れ直して頑張るタイプ。
4は、成績が下がったので、もう駄目だあと投げ出してしまうタイプ。
である。
あなたが1と3のタイプであれば、成績が上がっても下がっても大丈夫である。2と4のタイプだと上がっても下がってもきつい。
私は、受験に関しては3のタイプだったことが多い。
中学三年生ではじめて受けた偏差値の出るテスト。学校の数学は、分からないけど定期考査の分だけは何とか乗り越えてきたので、点数は取れていたのだが、業者の入試のような問題では、偏差値は30点台に届かなかった。
浪人時代、合格可能性80%以上で受験した早稲田大学。結果は補欠にも引っかからなかった。その時の私の思いは、
(ふ、ふざけるな。俺様をこれだけ勉強させておいて、それでも不合格にするか、早稲田! 10年後を覚えていろ。俺を合格させなかったことを後悔させてやる!)
と大隈さんの銅像の前でアッカンベーをしてきた。
大学4年の時、ゼミの仲間30人のうち、27人は一発で教員採用試験に合格。私は不合格の上に、卒業論文に納得がいかず、指導教授にお願いしてもう一年卒業論文を書き直させてもらっていた。
(ちくしょう。なんで、俺が落ちるのだ。なんで論文が書けないんだ。来年は絶対に受かってやる)
そして、受験する学校を高校から、倍率の高い中学校に変更して合格する。
確かに、成績が出なかったとき、結果が出なかったときは、落ち込んだ。世界中の人が
(ばーか、ばーか)
と言っているようにも感じた。
だけど、事実は事実。あとは、やるしかないのだ。自分で選んだのだから誰にも文句は言えないと思っていた。
そして、今は、
(ああ、あの経験が良かったんだよなあ)
と思える。簡単にうまくいっていたら、だらしがなく、今以上に生意気な人間になっていただろうと思う。今以上に人の痛みなんか全く理解できない人間になっていたと思う。
君たちが、1と3のどちらかであって欲しいと願う。
都立高校の受検日まであと、2ヶ月。
短いか? いや、考え方によっては、夏休みよりも長い時間があるとも言える。
ここからである。
君の人間性が鍛えられる時間は。君の学力が伸び始める勉強のはじまりは。
楢原中学校の先生達は、みんなで君の成長を期待している。
本日の学活などを通して、二学期の成績がどのようなものかが伝えられたと思う。
この成績は、暫定的(ざんていてき・とりあえず)の成績である。二学期の成績が確定するのは、二学期の終業式である。だが、そこまで待つと進路指導ができないので、ここで暫定的に出すのである。このままの様子で学び続ければこれで安定するだろうということであるから、
(もういいや)
として手を抜くと、変更する可能性もあることを、まず、伝えておく。
これを理解した上で、伝えられた結果を基に、今週末十分親子で話し合ってほしい。
そして来週の三者面談では、推薦関係の確定を行う。まず、推薦受験と併願で受験する諸君の学校を確定する。都立高校の一般受験は来年、願書を提出するまで考えても大丈夫だが、私立の方は、12月15日に高校に書類を持っていって相談するため、ここで決めなければならないのだ。
で、受験校が決まったら、学校としては君のためだけの書類を作ることになる。学校によっていろいろと違うので、その情報を君がまとめて、一覧にして「調査書を書いてください」ということになる。
表にはいくつかの項目があるので、この説明をしておく。項目の内容を理解し、各自高校の募集要項を良く確認して書くように。

学校ごとに、これらの項目を黒または青のボールペンできちんと記入し、提出して下さい。学校ごとに書類をクリップでとめること。ただし、一般受験の私立、都立高校は学校名が決まっていないこともあります。そこは、暫定的に学校名を書いて提出して下さい。そして、学校名の横に「書類無し」と鉛筆で書いておいて下さい。
提出の締め切りは、12月17日(金)です。
提出締め切りに間に合いそうもない正当な理由がある場合は、事前に申し出て下さい。
このところ、職員室ではみんなで数字とのにらめっこが続いている。
採点、計算、評定、確認、確認、確認。
私立高校の推薦基準、併願基準、確認、確認、確認。
そして、時々
「えっ? そういう希望があるの? うーん。じゃあ念のため、高校に電話して確認してみよう。えーっと、電話番号、電話番号、どこだ?」
という会話が飛び交う。
め、目が痛い。
こ、腰が痛い。
そして、君たちの希望を元に面談の準備を学年の先生全員でしている。また、他の学年の先生からも、
「○○くんは、どんな感じ?」
「○○さんは、○○高校だって?」
と心配の声を頂いている。
確かに、仕事と言えば仕事であるが、自分たちで言うのもなんだが、先生たちはかなりやっていると思っている。
ただ、私たちができるのは、当たり前だが進路の事務的な作業である。学力を高めるのは君たち自身でしかない。
お願いというのも何だが、とにかくこの時期、君たちは授業や家庭での勉強に集中してくれ。もし、交通事故とか入院とか、大きなことがあっても、先生たちは君に何かをしてあげることは殆どできない。ましていわんや、生活指導的な面をや。
君たちが授業や家庭での勉強に集中すれば、私たちは進路事務に集中できる。その結果は、君たちの進路に反映することになる。
進路事務に関わって、君たちが調べておいた方が良いこともある。
・奨学金を必要とする場合の所得証明
・併願受験の場合にあなたの希望する学校は、入学金をどこまで待って貰えるか
・あなたの希望する学校独自で必要とする書類などはないか
これらを確認しておくことである。
下の表は、入学金を待ってもらえる場合のパターンである。

後になって、
(あ! これがない!!)
となっても高校は待ってくれないのだからね。
アンダスタン?
11月 29日 NO. 32
先日、受験写真を撮り今日は卒業アルバムに載せる学年の集合写真を撮った。夕焼けは美しく輝いている時間帯であった。被服室の上から君たちを見ていると、何とも言えない良い笑顔であった。
瞬間的に思いついた。
(そうだ、ジャンプした写真を撮ろう!)
二学期の期末考査も終わり、返却が始まり、いろいろな思いが胸中を飛び交っているだろう。
いい結果やそうでない結果も出ているだろう。だけど、結果に浮かれても、流されても意味はない。ここからが本番である。
内申点を元にした受験に関する基準点はここでほぼ確定するが、当日の試験の得点力は、これからが伸びる時期なのである。
夏の講習会、二学期のテストなどで頑張って机に向かって努力した結果を基に成績が伸びるのは、ここからなのである。ここで手を抜いてしまっては、夏の講習会が無駄になると言っても良い。
進路に関わって、私の好きな言葉を二つ載せておく。
「好きな道を選ぶ、なるほど。それじゃ苦労しなきゃな、好きな道なんだから。」
『大語録』永六輔編著
「ゆっくり行くものがもっとも遠くまでいく。」
『学校で出来ること出来ないこと』外山滋比古著
進路決定まで、学年のみんな全員で乗り越えていこう。
このジャンプがそんな記念になると良いなあと思う。
ホームページを検索していたら、以下の情報に辿りつりきました。参考にして下さい。
http://www.adachi.ne.jp/users/sinden3/bosyu5.htmから、引用開始ーーーーーーーーーー
受検生のみなさんへ
東京都立足立新田高等学校
自己PRカードの書き方についてのお願い
【1】『1 入学を希望する理由』については、下記の「本校の期待する生徒の姿」に照らして、志望動機、目的意識、興味・関心等を具体的に書いて下さい。
本校の期待する生徒の姿
本校は、生徒の適性や興味・関心を引き出す学系列選択科目制を取り入れ、個々の生徒にきめ細かく対応する教育を行っています。そこで、次の諸点に該当する生徒を期待します。
1.本校の特色である2学年からの3つの学系列選択制「スポーツ健康」「福祉教養」「情報ビジネス」をよく理解するなど、志望動機が明確である生徒
2.生徒会活動や部活動、ボランティア活動、総合的な学習の時間や選択教科等に積極的に取り組み、入学後もそれらの継続が期待できる生徒
3.中学校3年間の出席状況が良好で、まじめに学校生活に取り組み、入学後も継続が期待できる生徒。
・推薦選抜においては、部活動・生徒会活動への取り組みに優れた実績がある生徒が望ましい。
・文化・スポーツ等特別推薦においては、相撲・陸上の部門で、意欲的に取り組み、優秀な実績を残していること。さらに、入学後も本校の部活動で活躍できることが期待できる生徒を希望する。
【2】『2 選択教科や総合的な学習の時間』については、第3学年の選択教科や総合的な学習の時間で学んだこと、努力したことなどの中から、特に伝えたいことをできるだけ多く書いて下さい。
【3】『3 諸活動の状況及び実績』については、以下の要領で具体的に書いて下さい。
@部活動経験者(運動系・文化系)については、部活動名、活動年数を必ず書いて下さい。 また、部長経験者はそれも明記して下さい。さらに、活動実績として次に該当するものがあれば書いて下さい。ただし、活動実績が複数ある場合には、最大3つまで書いて下さい。
●運動部経験者……校外における大会への本人の参加実績とその成績(大会名も明記)
●文化部経験者……文化祭や校外における発表会等への出品(出場)実績とその成績 (大会、コンクール名も明記)
A 委員会活動経験者については、委員会名、学年、あなたの具体的な活動内容を必ず書いて下さい。また、委員長経験者はそれも明記して下さい。
B ボランティア活動経験者については、主催団体・参加回数・活動内容を書いて下さい。
C 生徒会活動経験者については、役職名、活動年数を書いて下さい。
D 皆勤賞については、学年を書いて下さい。
例 1・2学年皆勤 1・3学年皆勤 全学年皆勤 等
http://www.adachi.ne.jp/users/sinden3/bosyu5.htmから引用終了ーーーーーーーーーー
これは足立新田高等学校が期待する生徒の姿をもとに書かれていますが、都立高校の自己PRカードを書く上で、いろいろな面で参考になると思います。
あなたの具体的な事実をもとに、数字を使って書いていきましょう。
11月 12日 NO. 30
久しぶりの雨である。
朝家の玄関を開けると、雨と雨に濡れた土の匂いを感じた。
旧暦で言うと今日は、十月一日。そう、今日から冬である。日本は三ヶ月ごとに季節を変えて動いている。こんなにはっきりとした季節の移り変わりのある国は世界の中では珍しいのだ。次の春を迎えるとき、君たちは楢原中を巣立つ。そんなことを思わせる、冬の始まりの今日である。
先日、体育の授業の補教に行った。指導は山崎先生がするのだが、私は監督として見ていた。体育館ではオールコートを使ってバスケットボールをするのだが、見ていて面白いことに気がついた。
二人の生徒である。仮にAくん、Bくんにしておこう。Aくんは、コートの中央でボールを受け取ると、シュートを打つまでに三回ゴールリングを見ていた。Bくんは、コートの中央でボールを受け取ると、一回も見ずにゴールリングの真下までドリブルしてきて、シュートを打つ瞬間に一度だけ見ていた。何回も見ていたのだが、何回も同じ事をしていた。シュートの決定率はどちらも変わらず、あまり良いものではなかった。
私は面白いなあと思いながら見ていた。
どちらが中学生のバスケットボールとして良いのか、専門家ではない私には良くは分からないが、一つ言えることは、Aくん、Bくんとも自分のシュートの癖には気がついていないと言うことである。
おそらく、Aくんのように、良くゴールリングを見てシュートを打つのが、初心者としては大事なのだろうが、Aくんは見過ぎていて動きが止まりがちになり、相手の防御がしやすい状態になっていた。また、逆にBくんは、スピードはあるものの見なさすぎていて最終のタイミングがずれていた。
全米のプロバスケットボールに日本人で初めてプロとして登録されている田臥選手は、どんなであったかというと、彼は、ボールもゴールリングも仲間も見ていない。いや、正確に言うと見ているようには見えない。私には、それを感じているように見える。体の中に、ボールもゴールリングも仲間も入っていて、そこにボールを届けている感じである。
これは田臥選手だけではない。
サッカーの中村選手は、ワールドカップの前回の予選の時に、フリーキックからのパスを受けて左サイドをドリブルで駆け上がるとき、右サイドを上ってくるフォアーどの鈴木選手を見ることもなく感じ、鈴木選手が自分の駆け上がるスピードよりも少しタイミングが遅いと判断した瞬間、ドリブルを一瞬止めて、振り返りざまにゴール前にパスを放った。すると、鈴木選手がドンピシャのタイミングでヘッディングのゴールを決めるということがあった。中村選手も、仲間の動きとフィールドの大きさと敵の動きを感じることができるのだろう。
しかし、当然であるが、この感じるという領域は、基礎的なトレーニングを積み重ね、数々の経験を積み、失敗を乗り越えてでなければ達することはできない。私で言えば、真っ白い紙に決められた語句や文章を筆で書くとき、多くの場合、字数を計算することはない。それは三十年も筆を持って書いてきた経験が、私にも感じさせるのだと思う。
この「感じること」ができるようになると、仕事は効率的になり、時に楽しくなる。感じあえる人たちとプロジェクトを組むことができると、とても気持ちが良くなる。
後三ヶ月。
君たちは受験勉強をしつつ、問題を見た瞬間に、
(を、これは・・・!)
と自分が解けそうだという感覚を持てるようなる勉強を進めてほしい。
冗談ではなく、そういう感覚を手に入れることが、受験勉強でもできるんだよ。この感覚を手に入れるのも楽しみに、勉学に励んで下さい。
11月 10日 NO. 29
三者面談が始まった。
面談を行う人以外は、午後の授業がない。5日間のうち1日は面談に使うとしても、4日間は自宅にいる。この時間を有効に使ってほしい。合計で10時間ぐらいは自分で勉強することができる。
他にも、進路に関わって時間を使うことができる。たとえば、早めにインフルエンザの予防接種を行う、花粉症対策を行うとして通院するなども良いことである。もちろん、期末考査の勉強をしても良い。
「自己PRカード」は、練習をかねて実際に書いてみたところである。さて、どうであろうか。書けているだろうか。ざっと見たところでは、書こうという思いは伝わってきているが、残念ながら書けていないのではないかという実感がある。
ここでは、本人の承諾を得たいくつかの「自己PRカード」に書かれていた記述を元に、具体的に見ていきたいと思う。
1 入学を希望する理由
成功例1
〜。大学や専門学校への進学が卒業生の74.6%(平成15年度)と高めだというのも貴校を選んだ理由の一つです。
この叙述が良いのは、対象の高校に関して具体的な数字が入っていることです。この数字は、学校の資料を読んでいなければ書けないものです。調べていなければ書けません。こういうところから、「この学校で学びたい」という気持ちが伝わるのではないかと考えます。他にも、パンフレットや学校説明会でもらった資料、『本校の期待する生徒の姿』からの引用をすると良いでしょう。その際、引用した言葉には「 」をつけておくと、引用が目立ちます。
成功例2
1,入学したい理由
@ 都立高校の中でも○○高校の野球部は盛んで魅力を感じています。だから、○○高校の野球部に入りたいです。
A 多様な進路希望に対応した授業と充実した施設がとても気に入りました。
2,入学してから自分がしたいと思うこと
@ 野球部に入って、一生懸命野球をやりたい。
A 地域の人たちのために、災害が起きたとき少しでも役に立ちたい。
この叙述がよいのは、自分の言いたいことに小見出しを付けて、ナンバリングをして、階層化してあるところです。自分の言いたいことが、ぱっと見た人に伝わります。ただ、内容が野球に偏りすぎているかもしれません。限られた文字数ですので、重複は考えて行いましょう。ただ、重複するほど重要だという認識を持っていれば、重複しても構わないと思いますが。
2 選択教科や総合的な学習の時間について
直すと良くなる例 1
〜。総合的な学習においては二条城の門という題で、なぜ門は必要だったのかや、どうしてこのような門にしたのか、などの考えを調べ、さらに深く調べました。
扱っているテーマはとても面白いので、前半部分は採点官も興味を持って読み始めるでしょう。採点官の気持ちは、
(で、どうして必要? どんな結論が出たの)
となっていると思います。しかし、後半部分は調査の結果分かった内容ではなく、「さらに深く調べました。」という新たな調査方法が書かれているだけです。これでは、採点官は点数を付けたくても付けにくいのではないでしょうか。
「なぜ必要だったのか」「どうしてこのような門にしたのか」と自分で問いを立てたのならば、その問いに対する答えも必ず書きましょう。
3 諸活動の状況及び実績について
直すと良くなる例 2
二学年には体育大会実行委員をやり、クラスを引っ張り、共に戦いました。後期には学級委員をやり、クラスをまとめ、良いクラスをつくりました。
「クラスをまとめ」とありますが、クラスにどのような問題があって、それをどんな方法で解決し、まとめたのでしょうか。もっと言えば、「まとめる」ってどんな事なのでしょうか? 「良いクラス」ってどんなクラスなのでしょうか?
クラスにあった問題に対して、あなたは取り組んだ具体的な事実について、書きましょう。大きな成功を書く必要はありません。小さくても良いから、(ああ、こういうことがあったんだな)と採点官が思える事実を書き、取り組んだ結果を書きましょう。それは、実際に取り組んだあなたにしか書けない文になるはずです。
君の「自己PRカード」作成の参考にしてください。
11月 08日 NO. 28
今週からいよいよ、第一回目の三者面談が始まります。君たちの進路を具体的に検討していくための面談です。
この面談で話される内容は、次のことです。
以上のことを話すために用意されている時間は、一人十五分です。短いですので、事前の準備が大事です。
面談で学校側が用意できるデータは、定期考査の得点、一学期の内申点、換算内申点、自己PRカード、私立高校の推薦基準、楢原中学校の過去のデータ、昨年度の高校入試の推定合格ラインなどです。
もし、進路を考える上で君たちが持っている重要なデータがあれば、持参してきてください。その方が多様な選択肢を考えることができるかと思います。
君たちはすでに、第三回の進路希望調査を終えています。夏休みを終え、学習の成果を上げようと懸命に取り組んできている諸君もいるでしょう。また、希望はなんとなくありながら、具体的にならない諸君もいるでしょう。しかしそれぞれに、自分の将来を考えてはいることでしょう。
進路の学習というのは、実に難しいなあと思っています。なぜならば、矛盾したことを行わなければならないことがあるからです。
矛盾したこととは何でしょうか。
一方で君の可能性を伸ばすための学習を行いつつ、一方ではその可能性を限定する学習も行わなければならないと言うことなのです。これは、今の君だけでなくこれからずっと将来にわたって続けることではないかと思っています。
自分の進路を手に入れるためには、それこそさまざまな力を君が獲得する必要があります。現在は、主に学力であり、英検などの資格であったりするかもしれません。それらの力を身につけて、自分の進路の可能性を伸ばそうとするわけです。
しかし、君たちがこれから挑む試験は、全員の進路を希望通りにはかなえてくれません。試験というのはそういうものです。だから、今の自分にとって、何が一番良いのかを考えるわけです。たとえ十五歳であっても君は君の人生を生きています。いろいろな人に支えられて生きています。そして人生には、決断を下さなければならない場面があります。
そんなときは、こんなことを思い出してくれればと思います。それは、
「自分の進路の大事な判断は、自分一人で出す」
ということです。誤解しないでください。保護者、親戚、近所の人たち、中学校までの先生、塾の先生、本の中の人物、テレビのタレント・・・君はたくさんの人に見守られ、影響を受けてここまで育ってきています。その人たちのアドヴァイスは十分に耳を傾けてください。いろいろな人の意見を聞いてください。その上で、「自分の進路の大事な判断は、自分一人で出す」と言うことをしてください。
人生の決断を誰かしてもらうというのもなくはありませんが、私はお勧めしません。というのは、たとえば、高校に合格しても「決めてもらったから」ということが頭にひっかかります。また、残念だったときには「決められたから」となって、相手を憎んだり恨んだりすることもあります。これが自分で決めたのなら、良い結果であれば全面的に喜べるし、悪い結果であれば、その責任を自分で全部背負うことができます。自分の人生を生きている実感があります。
私は君たちの先輩を多く見てきて、中学校を卒業した後大きく成長している先輩たちは、この「良い結果であれば全面的に喜び、悪い結果であれば、その責任を自分で全部背負うことができ」ている先輩であると感じています。
今回の面談では、(自分の理想や希望の進路を手に入れるにはほど遠い)と実感する人も出てくるでしょう。ですが、そのときです。そこから進路の学習が深まっていくのだと思います。あなたが今までの自分をきちんと見直し、これからのことをいろいろな人のアドヴァイスを受けつつ、自分で背負っていこうと決意したとき、あなたの進路は矛盾を乗り越えて、新たな可能性に向かって広がっていくのだと思います。
一人一人の三者面談が充実したものとなりますように。
本日、第三回進路希望調査の提出締め切りであった。提出の様子を見て、愕然としている。
3年1組では、今朝提出を受け付けたが、38人(1人遅刻のため未提出)のうち、きちんと提出できたのは、たった4人である。
慌てて職員室で他のクラスの様子を聞いてみたが、どこも同じような提出状況であった。どこのクラスも同じということで良かったとも言えるが、実際は悲しむことだ。いや、悲しむではなく、がっかりしつつ、驚いている。
第三回進路希望調査には、次の文言がある。
「第一回目、第二回目の希望と違っていても構いません。尚、この結果を基に、三者面談を進めていきます。締切りは、10/26(火)です。」
提出まで週末を二回またぎ、親子で話し合う時間を確保し、調べる時間も用意しておいたつもりである。にもかかわらず、提出されなかった書類は21人。提出された17人の書類も悲惨なものであった。何が悲惨かと言えば、
(おい、本当に自分の進路を考えているのか? 誰かにやってもらおうと思っているんじゃないか?)
と思わせるものばかりであった。
具体的には、
・ 空欄が多すぎる。(特に上の表で色をつけた部分)
・ 内申計算ができていない。
・ 文字が汚い。細く、小さく、薄い。
・ 漢字間違い。
・ 学校名が省略されている。
これらの書類からは、
(なんとしてもこの進路を手に入れたいんです)
という思いが全然伝わってこない。
信じられない。
11月の三者面談は、進路の方向を決める面談である。もちろん、この後成績が伸びたり伸びなかったりするから、これで決定ではない。しかし、方向を決めるのだ。その方向の案を示すのは、君たちであり、それはこの書類に書き込むことが基本になるのだ。
正確に言うと3人ほど、
(この生徒はなんとかして合格してほしいなあ。力になってあげたいなあ)
と思わせる書類があった。文字から気持ちが伝わってくるのだ。
君たちが、進路選択において自分の気持ちを伝えることができるのは、面接だけではない。願書などの書類も重要なアイテムである。親が書くのでも教師が書くのでもない。君が書くのだ。
相手は入試のプロである。小手先の技術なんて通用しない。君たちが真剣に進路を考えているか、学ぼうという熱意があるか、すぐに見抜く。
仮に
(進路希望調査なんて学校の書類だから)
と適当に書いたのならば、その段階でアウトである。人間は論理だけで動くのではない。相手の熱意を感じても動くのだ。いや、そちらの方が大きいかもしれない。
君が書いた進路希望調査は、今の君の進路に対する姿勢だと考える。その程度であるなら、こちらもその程度で対応しようという気持ちになる。そして、熱意が伝わってくる生徒のためにもう少し動こうと考えるのが自然である。
今日、書き直しを言われた諸君は、未提出の諸君は十分に反省し、明日の朝、きちんとしたものを再提出するように。
昨日の朝礼で、何気なく君たちの後ろに回ったときに、愕然とした。
女子で、体育館履きを履いている諸君が、学年で二人しかいなかったのだ。見間違いかと思い何度も見たが、二組の女子の二人だけであった。その他は、全員裸足である。
なんだこりゃ?
体育館履きを忘れてきているのかと思って、坂先生に確認してみたら、授業のときはちゃんと体育館履きを履いているという。ということは、持っているのに朝礼の時は持ってきていないということだ。
しかし、それが女子の二人をのぞいて全員裸足というのは、異常である。こんなの見たことない。
なんでこんなことになっているのであろうか? 簡単に想像できるのは、教室から体育館履きを持ってくるのが面倒くさいということだろう。もし、そうだとすれば、困ったことである。
たかだが体育館履きを、朝教室から持ってくるぐらいのことが面倒くさいのであれば、君の「面倒くさがり指数」はかなり高いと言わざるを得ない。
進路通信で君たちに書き続けている共通のテーマがある。
それは、
「日頃を大事にしている生徒は、本番は安心である」
ということである。逆に言えば、日頃を疎かにしている人は、本番が心配なのである。
人間は、急激に悪くなることと少しずつ悪くなることはできるが、急激に良くなることはできない。少しずつしか良くなることはできないのである。
上履きの踵(かかと)を踏む、シャツを出す、上履きの落書き、スカートの丈、ズボンを下げて履く。実に小さな事だ。その小さな事が直らないってのは、何かのこだわりがあるんだろう。その拘(こだわ)りも気持ちとしてはわからんでもない。
だが、その拘りと君が天秤に掛けているのは、君の人生の方向を決める進路だ。なりふり構わず必死になって取り組んで、手に入れることができるかどうかというのが進路だと思うのだが、それでいいのかなあと思う。
注意をさんざんされていて直さないでいて、十一月に三者面談で
(「推薦でお願いします」とか、まさか言わないだろうなあ)と思うわけである。
そんなに甘くないと思うぞ。
社会が厳しいということを君たちが実感するのは、いつになるのだろうか。できれば、学校にいるうちに気がついてほしいと思うよ。社会に出てから厳しさに気がついてその厳しさに打ちのめされると、辛いからなあ。
1980年代の高校卒業した生徒にあった仕事の募集人数は146万人だったという。しかし、去年は、45万人になっているのだ。これは不景気が原因かと思われていたが、実はそうではなく、100万人の仕事は、安く仕上がる海外に出ていってしまったのだよ。
今の日本には、高校生がやっていた工場のラインの仕事などがなくなってきているのだということだ。
面倒くさいことをきちんとやって仕上げていた100万人の仕事は、日本にはない。これからも戻ってくることはないだろう。もし、戻ってくるときは、日本が海外の仕事を下請けするとき、そう、貧しい生活をするときであろう。
体育館履きを履く手間すら面倒くさいと思う君たちを見ていて、いろいんな意味で心配になる私であった。
とまあ、ここまでが心配の部分。以下、嬉しい部分。
進路のことを個人的に相談してくる諸君が増えてきた。個別のケースについては、個別に対応するしかないので、そうしている。授業の合間を縫って高校などに電話をし、確認を取ったりしている。授業とその準備だけでめいっぱいの毎日にだが、その上に電話での確認となると、かなり忙しく厳しいのが現実である。
ところが、「電話しておいたよ」というと、間髪入れずに「ありがとうございます」という返事が返ってくる生徒がいる。とても気持ちよい。
しかし、一方で同じ事をしても、あたりまのことと思っているのか「うん」とも言わず、ホゲーッと聞いている生徒もいる。中学校ではそんな生徒を叱るが、世の中に出れば、(なんだこいつ)と思われて、その後相手にされないだけだ。
人は、当たり前だが、気持ちの良い人間関係を好む。何かをしてもらったら「ありがとうございます」が間髪入れずに当たり前のようにでる諸君に育つのだぞ。
ああ、やっぱり心配ばかりだ。
上級学校受験では、面接試験も重視されている。面接試験は何のために行われるのだろうか。学力テストがあなたの学力を判断するのだとすれば、面接試験はあなたという人間を理解するために行うのである。
そうだとすれば、あなたは面接試験を通して、あなたという「自分を知ってもらうこと」が目的となるはずである。
面接官の質問は、大きくは二つしかない。一つは、今までのあなたを知るための質問。もう一つは、これからのあなたを知るための質問である。
「今までのあなたを知るための質問」は、さらに二つになる。「今まであなたは何をしてきたのか」と「何ができるようになったのか」である。あなたが実際に行ってきたことは何なのか。もちろん、ここには今あなたが取り組んでいることも入る。その経験を通して、あなたは何ができるようになってきたのか。ここを面接官は訊く。
たとえば、「小学校の1年生の時から、お習字を習っています。昨年は、都のコンクールで入賞することができました。中学校の文化祭の看板などを書くことができるようになりました」と答えるわけだ。
「これからのあなたを知るための質問」は、「入学したら何をしたいのか」である。どこの学校でもない、この学校で入学したら何をしたいのかである。これには、学校を卒業した後の夢と一緒に語ると語りやすい。
たとえば、「高校を卒業したら、世界を旅してみたいと思います。そのときに必要な語学を身につけたいと思います。この高校では三年生になると選択科目でドイツ語やフランス語を学べる講座があります。そこで身につけたいと思います」ということだ。
今までのあなたを知るための質問と、これからのあなたを知るための質問には、それぞれ15〜20秒程度で答えられるように、あなた自身をあなた自身で研究しておく必要がある。
しかし、面接試験にはもう一つの側面がある。それは、(この生徒は、本校に入学させて本当に大丈夫なのだろうか?)と判断する部分である。上級学校は、一度入学させたらその生徒に対しては責任を持つ。明らかに事件を起こすであろうと考えられる生徒は、入学させないわけである。
上級学校だって競争している。わざわざ事件を起こしそうな生徒を入学させるわけにはいかないのだ。そして、そういう雰囲気を醸し出す生徒というのは、大人のベテランの面接官には、簡単に見抜かれてしまうのだ。
自分を甘やかして「いーじゃん」でやってきた生徒は、ここで初めて「いーじゃん」では通用しない世界にぶつかることになるはずだ。慌てて直そうとしても、なかなか直らない。人間は崩れるのは簡単だが、元に戻すのは難しいのである。
ただ、きちんとした生き方をしている人が、それをきちんと相手に伝える方法を知らないでいるのは悲しい。ちょっと知らせておく。
1)身だしなみ
ポイントは、「清潔感と流行を追っていないこと」である。新しいシャツを買うなんてことはしなくても良いが、きちんと洗濯をしてアイロンを掛けてあるシャツが良い。そして、流行の部分をなくした格好にするのが良い。流行というのは、一番最初にみっともなくなるものである。女子のはいている紺のソックスだが、都内では殆ど見かけることはない。いまは、白のハイソックスだぞ。
2)身のこなし
ポイントは、「動作から動作に移るときに、一瞬止まる」ということである。たとえば、面接官のいる部屋にはいるときに、ドアを開けて一礼する。ドアを開けると一礼するの間に、きちんと「止まるという動作」を入れると美しく見える。
3)言葉遣い
ポイントは、「はっきりと口を開け、一文にして答える」である。正確な敬語は、やらないよりはやった方が良いが、今から細かくやっても間に合わないと思う。それよりも、「はっきりと口を開け」ることを意識し、「一文にして答える」ことに挑戦する方がよい。
一文にして答えるというのは、「はい。○○です。なぜなら、○○だからです」ということだ。「はい」で終わらせない。また、「えー、○○でー、○○がー、○○のー、○○」でないことである。老婆心ながら、質問者の顔を見るのは当たり前のことだ。
ちなみに、国語の授業、英語の授業で身振りをきちんとトレーニングできている人は、面接の時に明らかに、他の受験者と差を付けることができる。実際、私は去年ある学会に参加したとき、ある高校の先生から、
「面接試験官をやったのですが、たまたま担当した池田先生の教え子さん、面接の時ぬきんでていましたよ」
と声を掛けられた。どんな様子だったのかと訊くと
「きちんと前を見て、熱っぽく身振りで語るんですよ」
とのことだった。あの生徒ならそうだろうなあと思った。
上記の三つがきちんとできる人は、かなり好印象を面接官に与えることができるだろう。ただ、残念ながら、これらが今からできる人は、今までの日常生活がきちんとしている人だと思う。慌ててやっても、大事なところでボロがでるだろう。
だから、面接を何とかしようと思う人は、遠回りのようではあるが、今からでも日常生活をきちんとすることなのである。
都立高校を受検する諸君は、「自己PRカード」というものを書かなければならない。この「自己PRカード」は、受検書類の中で唯一学校長の判子がいらないものである。つまり、あなたとあなたの保護者が、書類を書くことに最大の責任があるのだ。これは、(注意)にも書いてあるように、「志願者が黒のボールペンで記入する。」のである。
「自己PRカード」に書かなければならない内容は、以下の文言である。
|
私が貴校の(全日制課程、定時制課程、通信制課程)を受検するにあたり、入学を希望する理由と中学校での活動で特にPRしたいことは、次のとおりです。
1 入学を希望する理由(この学校に入学したい理由と入学してから自分がしたいと思うことなどについて記入しましょう) 2 選択教科や総合的な学習の時間について(第3学年の学習活動の中で、自分が特にPRしたいことを具体的に記入しましょう) 3 諸活動の状況及び実績について(3年間の中学校生活の中で、学級活動、生徒会活動、学校行事、部活動、ボランティア活動、資格・検定等の取得、その他の活動のうちから、自分が特にPRしたいことを具体的に記入しましょう)
|
さて、何を書けばいいのだろうか?
私たちが口を酸っぱくして言ってきたことは、「きちんとやって結果を残していきましょう」ということであった。「自己PRカード」を書くために言っていたわけではないが、ほとんどの諸君が都立高校の進学を考えることになるだろうし、せっかくなら書くことのネタも作っておいた方がいいと思ったからである。
ということは、何もやってこれなかった人には厳しいカードだということが分かる。しかし、この「きちんとやって結果を残していきましょう」ということが実感としてわかるのは、
(ああ、私は今まで何もやっていなかった)
と分かる頃なのだから始末が悪い。
果たして、もう駄目なのか。いや、違う。
あきらめるな。方法は、二つある。
一つ目。今から「きちんとやって結果を残す」である。大丈夫、まだ時間はある。必死になったときの人間は強い。一つで良い。小さくても良いので、いや小さい方が良い。君にしかできない何かを、きちんとやって結果を残すのだ。書くに値する事実を残すのだ。
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やってきた→ この高校に行く → もっとやれる
|
という流れを作るのだ。
二つ目。やれなかったことを分析するである。あなたはやれなかったのだ。何がやれなかったのか分析するべきである。そして、やりきれなかったことが分かれば、次に生かせるのだ。
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やれなかった。→ この高校なら → 今度はやれる
|
という流れを作るのだ。
ま、念のために言っておくと、二つ目の方が文章を書くとすれば難しい。だから、一つ目を目指すのだぞ。二つ目は、あく間でも保険だぞ。
二つの方法を行う場合、どちらにも必要なことがある。それは、「なぜあなたは、この高校なのか」という点である。そこで重要なのが東京都教育委員会が出していて、各教室においてある「本校の期待する生徒の姿」である。ここには、高校側が来てもらいたい生徒の姿が描かれている。たとえば、八王子北高校では、
「本校は、『地域に根ざし、地域を切り拓き、地域から信頼される学校』を目指し、日々努力しています。本校の一員となり、学習や部活動等をとおして自分を高めながら豊かな学校生活が送れる、次の項目の1つ以上に当てはまる生徒を望みます。 1 学習成績が良好で評定の高い教科を持つ生徒 ・・・」として6つ書かれている。
この中の何か一つが、あなたの「やってきたこと」または「やれなかったこと」とつながるとき、あなたはその学校に必要な人物となるだろうし、自分を発揮できる学校を見つけることができるのではないかと考えている。つまり、「自分と高校のリンク」を探すことが大事なのだ。
念のため、一つだけ禁句を紹介しておこう。禁句、つまり書いてはいけない言葉は「がんばりました」である。自己PRカードに「がんばりました」「一生懸命やりました」という言葉があると、その言葉を読む採点官は、(はは〜ん、この生徒はがんばらなかったな)と思うものだ。
がんばったのなら、がんばった内容を具体的に書くのだ。あなたがしたことを具体的に書くのだ。そうすれば、その具体的に書かれた内容を採点官が読んだときに、(ああ、この子は頑張ったんだな)と感想を漏らすのだ。がんばったは、あなたが書く言葉ではなく、採点官が思う言葉であり、あなたは行動で事実を残すのだ。
一昨年流行った曲に、スマップの「世界で一つの花」がある。一番の歌詞を引用してみる。
NO.1 にならなくてもいい
もともと特別な Only one
花屋の店先に並んだ
いろんな花を見ていた
ひとそれぞれ好みはあるけど
どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて
争う事もしないで
バケツの中誇らしげに
しゃんと胸を張っている
この歌詞は比較的好意的に受け入れられている。
「そうなんだ。誰とも競争しなくてもいいんだ。そのままで良いんだ」
と。しかし、私は違和感を感じていた。
(本当かな?そんなきれい事なのかな。花は美しさを競っているじゃないか)
と。
去年大学院に行ったときにお世話になった学芸大学の山田雅彦先生も、同じように違和感を感じている一人だった。山田先生が言うには、
「花屋に並んでいる花は、花屋に並ぶ前に競争があって、花屋に並ぶことができる花だけが並んでいるんだ」
というものである。
歌詞には「花屋の店先に並んだ」と極自然に書かれているが、実際のところ、並んでいる花は競争に勝った花なのである。
そう思ってこの歌詞を読み直すと、自ら努力することをせずに、このままでいいのだと屁理屈を言い放っている人の応援歌のようにも思えてしまう。(この歌が好きな人ごめんね)
現在、国語の授業では入試問題を解いているが、次のような問題がある。
「次の問題に当てはまる答えを、アイウエの記号から一つ選びましょう」
いろいろと考えて、そのアイウエの記号の中から一つ選ぶことになるのだが、私は自分が中学生の時に常に考えてしまうことがあった。
(これ、本当にアイウエの記号の中に答えがあるのだろうか? 本当は、オという正解があるんじゃないかな)
と。
そんなことを考えていると、入試問題では正解に辿り着けないのだが、常にそんなことを考えてた。
今やらなければならない出来事を、がむしゃらにやり抜くことが大事な時期がある。中間試験を控えた今の君たちだ。
遊びたいとか、楽したいとか、テレビを見たいとか、インターネットにはまりたいとか、ゲームをしたいとか、実に遊ぶ誘惑の多い君たちの中学校時代だから、それを断ち切るのは大変だろう。だが、このぐらいの誘惑を乗り越えられないと、君たちが自由に使える時間とお金が増える数年後には、その欲望の波に君が乗り込まれてしまうことになるだろう。我慢、我慢である。
で、我慢しつつ勉強をするのであるが、そういうときに限っていろいろなことを思いつく。枠から離れた発想が浮かんでくるのもそういうときだ。矛盾することをいうようだが、この発想は大事にしてほしい。
価値観が一定で、社会が安定して成長を重ねている時代には、社会の枠を守りつつその社会の進む方向に乗っかっていくことが、多くの人間にとっては幸せを生み出す生き方だったのではないかと思う。
しかし、何が正しいのかと改めて考えなければならず、社会の枠が不透明になりつつある時代では、正しさについて議論を重ね、一定の方向を仮に決め、社会の枠を意識しつつ、その枠から踏み出して考えてみる発想力を持つことが大事ではないかと、このごろ思うのだ。
あなたが自分の頭で考えることがますます大事になってきているのではないか、と私は考えている。
前回、「はい!」について考えた。
(なるほど、そういう意味があったのか。では、〜〜〜はどういう意味があるんだろうか?)
という質問は全くなかったのだが、私の方でこれを機会に述べておこうというものを思いついたので、書いておく。
それは、自分の呼び方である。
自分を呼ぶときの呼び方は、『大辞林』によると日本語の場合250種類以上ある。たとえば、「わたし、わたくし、俺、おいら、ボク、拙者、小生、それがし、我が輩・・・」これらは、一人称代名詞と言い、この一人称代名詞の多さは日本語の大きな特徴である。英語で言えば、「I」しかない。(あ、シェイクスピアの時代には、「T」から始まるものがあったかもしれない)なんで、こんなに多いのかと言えば、日本人が人間関係を大事にする民族であるからなんてのも言えるかもしれないが、私が問題にしているのは、この一人称代名詞にならない「自分の呼び方」である。
それは、自分のことを、自分の名前で呼ぶ呼び方である。
たとえば、
「私ね、リンゴが好きなの」
と言う場面で、
「幸子ね、リンゴが好きなの」
という言い方をすることを指す。
このような自分の名前で自分を呼ぶ言い方をしていると、私の時代は
「いつまでそんな赤ちゃんみたいな言い方をしているの」
と親に注意されたものだ。
男の私はどうだったか? 実は、はっきりと覚えている。
小学校の5年生の時の担任の先生が、作文の授業で
「君たちは、もう5年生なのだから、作文のときにボクや俺を使わないで、私を使いなさい」
と指示があったのだ。
大人になりたかった子どもは、「私」という言い方をすることに恥ずかしさを感じつつも「私」という言い方をした。
ところが、いつの頃からか特に女子に自分のことを自分の名前で呼ぶ言い方が、中学生にも多く見られるようになってきた。女の子が自分のことを名前で呼んでいる姿がかわいいと思われるのであろうか、かわいいことは良いことだなんて思いがあるのかどうかが分からないが、(え〜、中3にもなって、まだ使うの?)と私なんかは思っている。
で、なんでこの自分で自分の名前を呼ぶ言い方が良くないのかである。先日の新聞で「太陽が地球の周りを回っていると思っている小学生が4割いる」なんて記事があったが、これと同じなのである。
自分のことを自分の名前で呼んでいる諸君は、世界の中心が自分であると「無意識に」思っている可能性が高い。「幸子」というものが中心にいて、その周りにその他大勢の人がいる。(図@)だが、自己中というのとはちょっと違う。ここの部分の理解は少し難しいが、説明に挑戦してみたいと思う。
世の中は、いろいろな「私」で溢れている。その「私」は、「私」であったり、「あなた」「彼/彼女」「誰」に変わったりしながら世の中に存在している。「幸子」から「私」に変わることで、「私」は「あなた」「彼/彼女」「誰」にもなれる。(図B)しかし、「幸子」のままでは、いつまでも「あなた」になることはない。ということは、「幸子」は、世の中に関わることができないのである。
世の中に関わることができないということは、つまり、大人になれないのである。「いつまでそんな赤ちゃんみたいな言い方をしているの」というのは、この状態を言っているのだ。
世の中で生きていくときに、あなたが一人とその他大勢の関係は厳しいものがある。あなたは、あなたを中心に世の中があると「無意識に」思っているが、世の中は逆で、あなたは世の中の外側に置かれている何かとしか思われないからだ。(図A)
「大人になんかなりたくない」
そう思うのは自由だ。だけど、誰も大人にならざるを得ないのも事実だ。だったら、かっちょいい大人になりたいではないか。
「私は、・・・」という言い方を身につけよう。
ちなみに幸子は、私の母親の名前であり、他意はない。

9月 30日 NO. 21
二学期後半には進路決定に向けて面接の練習が始まる。面接会場への入り方、座り方、答え方など一通り学活で学び、その後、校長先生、教頭先生にお願いして実際に面接を行うことになる。
模擬の面接をしておくことは、本番に向けてとても意味がある。なぜなら、自分の姿はなかなか客観的には見ることはできないし、自分が答えた内容が相手にどのように伝わっているのかを確認する上で分かりやすいからである。
その面接を受ける上で、私が基本と考えているものがある。それは、「はい!」である。
何を今更と言われそうだが、これがなかなかできていないのが現実である。また、たかが「はい!」という言葉だと思うだろうが、徒(あだ)や疎かにするべきではないのである。
私たち教師は、君たちに頼み事をすることがある。
『ちょっと○○さん、掲示物が剥がれているから、直しておいてくれないか?』
と言うことがある。掲示物が剥がれている程度のことであるが、その程度のことをほったらかしにしておくと、多くの人が生活している教室は、あっという間に汚れる。だから、こまめに直すのである。
そんなとき、君たちの返事のパターンにはいくつかある。
頼んだ側が気持ちよいのは、どの返事だろうか。
君がしている返事はどれであろうか。
頼む側の私としては、
(この仕事は、この生徒ならきちんとやってくれるだろうな)
と思って頼んでいる。できもしないことを頼んだりはしないものだ。ところが、そんな小さな事に対して、嫌々やる姿があると、残念ながら(ありがとう)という気持ちは起きない。(なんだ?)という、逆に不愉快な気持ちが湧く。
君たちはやがて社会に出て、仕事をしていくだろう。新人のうちはつまらない仕事しか回ってこない。そして、(ああ、大きな仕事がしたいなあ)なんて思うのだよ。しばらくすると、ある人には大きな仕事がやってきて、君には仕事がやってこないことなんてもの経験する。君は考える。(なんで、あいつなの? 私の方が仕事はできるのに)
実は、仕事を頼む方は(この人とだったら気持ちよく仕事ができるな)という判断で行っていることが多いのだ。もちろん、最低限、頼まれた仕事ができなければ困る。が、人間ってのは不思議なもので、(こいつの失敗なら俺は被れる)という人と、(こいつの尻ぬぐいだけはしたくない)という人がいるもんなのだ。
小さな依頼に「はい!」と答えることのできない人には、大きな依頼は来ないと思って良い。誰だって気持ちよい人間関係でいたい。せっぱ詰まった大きな仕事が動いているとき、小さな依頼をしたのに返事がない、嫌がるなんてのがあると、大きな仕事の勢いが止まってしまう。だから、小さい仕事を気持ちよく行えない人には、声がかからなくなっていくのだよ。
だから、「はい!」なんだな。
ちなみに、「うん」でも良いという声があるが、これは違うと私は考えている。
「うん」という答えは、自分に言い聞かせている答えであり、相手に伝えている答えではない。小さな子どもが親に
「これは危ないからさわっちゃ駄目だよ」
と言われて
「うん」
と答えているのは、親の言いつけを守るために、必死に自分の体の中に親の言葉を入れている時である。「うん」が子供の返事であるというのは、こういう意味がある。一方「はい!」というのは、自分の体の中に入れた内容を、相手に「分かりました」と表現している言葉である。だから、公の場で使うことができる返事なのである。
そうであるならば、君たちは仕事を頼まれたとき、または、面接のときには「はい!」と答えるべきなのだ。できれば、小さなほほえみを持ってできれば最高である。
これらができるとき、君に依頼をした人、質問をした人は
(ああ、この子は良い教育を受けているんだな。同じ時間を一緒に過ごしたいなあ)
と思うようになるのである。
時間はかかるが、変えようという意志を持って取り組めば、口癖は三ヶ月ぐらいで直るものである。「はい!」が言えない人、挑戦してみよう。
「はい!」が、君の人生の可能性を広げてくれるはずだ。

9月 21日 NO. 20
修学旅行から帰ってきた。
大きな怪我もなく、美しい風景との出会い、シルバーガイドのみなさんとの心温まる交流と、それぞれの学びの深まりが得られた旅行であったと言えるだろう。
しかし、一方で、あれだけ念を押しておいた「携帯電話を持っていかない」というルールだけでも、無視して破っている人たちが少なからずいた。非常に残念である。このことは、今後の君たちの進路を考える上でも少なからず大きな問題になると考えている。
一つには、ルールを破ってしまった生徒は、
(あ、この生徒には、もう指導しても意味がないのかなあ)
と思わせる行動をしてしまっていると言うことである。君たちが成長していくときに、まだまだいろいろな人たちから指導を受けたりアドヴァイスを受けなければならないことはたくさんある。
しかし、ばれなければ良い、大したことないと勝手に判断してルールを破ってしまっている諸君には、(うーん、ま、ここまでだろうな)となってしまう可能性があるということだ。そこに指導のエネルーギーを注ぐなら、自分で賢明に良くなろうと努力をしていて、あともう少し教師が力を貸してあげれば伸びるという生徒の方に力を貸して上げようと考えるのは、別に変なことではないだろう。良く言われる「素直な生徒が伸びる」というのは、そういう事なのである。つまり、この問題は実はそんなに小さな問題ではないのである。
確かに、間違いや失敗をしながら成長していくのが中学生である。しかし、二泊三日程度の期間に小さな我慢を求めた結果、それをいとも簡単に破る姿勢は、(そうか、そういう君なのね)と思われても仕方がないわけである。
ルール破りの責任を取るということは、中学生ではなかなか難しく、反省文を書いてお仕舞いになってしまうこともあるのだが、本当の責任を取るというのは、その先にあるのだ。「自分は間違いをきっかけにきちんと成長したのだ」と示すことが、問題の本当の責任を取るということなのである。
簡単に言えば、君たちは問題を起こしたとき、先生に怒られたらそれでお仕舞いと考えているだろう。確かに、その問題についてはお仕舞いである。しかし、私たち教師は、叱ったところから始まっていると考えている。問題について反省を求めて叱った後、諸君がどのように成長していくのかを心配しながら見守っているのだ。
だいたいからして、悪いことをした後は、かなり良いことをしても(ふーん、まあまあだな)と思われるものである。普通のことをしている程度では、(あの子は本当に反省しているの?)と思われるものである。一度失った信頼は簡単には戻らないのだ。
今回、中には翌日にもう一度「昨日は済みませんでした」と自分から謝りに来る生徒もいた。そういう生徒には、『次からはしっかりね』と励ました。改めて言ってくるなんてのは、なかなかできるものではないからだ。
が、一方で携帯電話を取り上げられて叱られて、その翌日に何事もなかったように明るく「先生!」なんて声を掛けてくる生徒や、楢原で解散した後、「携帯かえせよ」と陰に誰だか分からないように隠れて小声で文句を投げつけてくる生徒を見ると、(この子は社会に出てから大丈夫か?)なんて思ってしまうのだ。
一つ目を、まとめる。君の問題は終わったと言って良い。しかし、君が責任を取る行為が始まったことを理解するべきである。責任を取る姿を見せてほしい。
もう一つは、判断についてである。
携帯電話を持ってきた理由を聞いてみると、意外と多いのが「親が持って行けと言ったから」というものであった。これは二つの面でおかしい。
まず、保護者に携帯電話を持っていってはいけないことを伝えなかったのだろうかということである。親が持っていけと言っても「修学旅行のルールで持っていってはいけないことに決めたから、持っていかない」と言えば良いのである。
また、親が持っていってはいけないことを知っていて、その上で、君が持ってきたのだとすれば、それは「親が持って行けと言ったから」という理由は成り立たない。
君は親が「勉強しろ!」と言ったら君は勉強しているのか?「この服を着ろ!」と言ったら君はその服を着ているのか? そんなはずはないだろう。君が自分の判断で勉強をしたりしなかったり、着たり着なかったりしているはずだ。君が判断しているはずだ。「親が持って行けと言ったから」というのは、君の言い訳に過ぎない。
「だって親が・・・」というのは、確かに一つの理由ではある。というか、小学校までの君たちならば、ほとんどこの理由で認められていたであろう。しかし、君たちはこれから自分の進路選択を考えなければならない。親との衝突があることも十分に考えられる。その「だって親が・・・」という理由が、理由にならない場面が出てくることもあるのだ。
一面では非常に悲しいことではある。が、子どもが成長して大人になるときには、これは避けては通れないことでもあるのだ。「親が言ったから」というのは、多くの場合正しい。しかし、時には、自分でじっくりと考えて「母さん、駄目だよ」「パパ、それは間違っていると思うよ」と言える君に育つ必要もあるのだよ。
それが、大人になるときの痛みであり、その痛みを抱えつつ成長するから、やがて(親孝行をしなければ)と思うようになるんだよ。
親のせいにしない。自分の判断が間違っていたと、その判断間違いの責任をしっかりと引き受けなさい。
9月 10日 NO. 18
本日突然の発表ですので、詳細は分かりませんが、都立高校の入試で、いわゆる「一芸入試」が拡大されました。*が今年から実施する学校です。
詳しくは新聞、HPなどで確認して下さい。
ちなみに、上記資料は、東京都のHPから引用です。



進路の方針は、11月の三者面談(1)で
充実した夏休みを過ごせましたでしょうか。ホゲーッと過ごしても勉強しまくっても過ごした時間は同じなのですが、その達成感と達成感からわき出してくる自信は後者にだけ作り出せるものだと思います。
始業式からの二三日の君たちの顔を、それとなしに見ていました。嬉しいことに
(うむ。充実していたな)
と思える顔が多くあり、
(その勢いで二学期をスタートしてほしいぞ)
と思って、ウヒウヒしていました。
しかし、一方で、宿題や夏休みのしおりを見ていると
(おい、大丈夫か?)
と思ってしまう諸君もいるわけで、自分の進路を大事にしてほしいと思うのです。
左には、四月に配った進路の計画表を、君たちに主に関係するところを中心にまとめなおしました。大事なところは、11月の三者面談(1)と12月の三者面談(2)です。この予定を見ると、
(12月の三者面談までに決めればいいんだな)
と思うかも知れませんが、それは違います。
進路の方針は、11月の三者面談(1)までに決めます。
つまり、上級学校に進学するのか、しないのか。都立にするのか、私立にするのか。推薦で受験するのか、一般で受験するのかなど方針をここで決定します。
実際は12月末の通信簿が出ないと最終決定はできませんが、11月の三者面談(1)でも、1)成績があがった場合、2)成績が変わらない場合、3)成績が下がった場合の三つのパターンで方針を立てます。ということは、12月の三者面談(2)は、11月の三者面談(1)の確認ということになります。
修学旅行、合唱コンクールと大きな行事があり、授業でも実力養成テストなど盛り沢山の二学期であります。また、自分の考えで良いのかと家族のみなさんに確認する時間も必要ですし、上級学校側からの締めきりもあったりすると、君たちが思っている残り時間よりも、2割ぐらいは少ないというのが実際ではないかと思います。
慌てる必要はありませんが、今月中に、第二回進路希望調査も行います。
君の進路を家族で話し合う日程ぐらいは、君が計画として立てておくと良いのかも知れません。
君の進路です。

忘却曲線というものがる。19世紀の心理学者フリードリッヒ・エビングハウスが発見した脳の記憶の働きついての研究である。
表を見てもらえば分かると思うが、その日のうちに、100%覚えたと思ったことも、一日すぎると覚えている内容は40%にも満たなくなるというのだ。一週間もすると20%ぐらいになるというのだ。
人間の脳は、忘れるようにできている。それは、嫌なこと、辛いこと、悲しいことなどをずっと覚えていたら、生きていくのに耐えられなくなってしまうからだろう。しかし、大事だと思ったことも忘れてしまうのが、脳みそである。
近年の脳科学の進歩はすごいものがあるなあと思う。記憶の仕組みという領域を説明できるようになってきているのだから。養老孟司さんの『バカの壁』や池谷裕二さんの『記憶力を強くする』を読むと、脳みそは、シナプス間に電気信号を伝えながら、脳の側頭葉から、海馬を通り、大脳皮質に反応を伝えて記憶を成立させていると言う。その電気信号は音速程度であり、秒速300メートルぐらいだという。
どうだ、なんだかすごいだろう。
なんだかすごいことが分かったと思うが、じゃあ、どうやれば記憶力を上げることができるのかということについても少し書いておく。
エビングハウスの忘却曲線をもう一度見てほしい。記憶した内容は、急激に忘れられてしまう。しかし、ある一定の時間からは変化が少ない。これは何を意味しているかと言うと、
急激に忘れる部分と、残る部分が脳みそにはある。ということは、急激に忘れる部分を、急激に忘れる前にもう一度覚えれば、急激に忘れないのではないか。
ということになる。これが復習である。繰り返しのドリル学習である。
では、脳科学の方からはどのように説明できるのであろうか? 脳科学では、記憶されるということは、脳のシナプス間に流れる電流の量の多さで説明されるようだ。印象強さや、繰り返し行う記憶は、電流の量を多くするのだ。
国語の授業では、期末考査の前に「ポン!」で四字熟語を繰り返し学習した。また、期末考査の復習として「ポン!」をした。もちろんこれは、君たちが折角覚えた四字熟語を忘れさせない為だ。
だが、本来はこれは授業でやることではないのかも知れない。君たちが自分で行い、自分で自分の脳みそに定着させることなのだと思う。
夏休みの学習では、一、二年のときの復習を行うことになるだろう。100%覚えたはずのものが、20%になっている。その20%を手掛かりにして、また復活させれば良いのだ。
え? 元々、20%がないって? うーむ。うーむ。うーむ。
をを、そうだ。じゃあ、最初からやる訳だから100%覚えて、それが20%にならないように復習をすれば良いんじゃないか。なーんだ、エビングハウスの言う通りじゃないか。
40日間の夏を、悔いを、なるべく少なくなるように、復習を主に学ほう。
新学期には、元気にお互いに成長して会おう。
期末考査が終わり、答案の返却が始まりました。一喜一憂が教室にあります。七夕には何を願うのでしょうか
努力したのに結果が出なかった。それで悔しがっている人は、いつかは良い結果が出ますから大丈夫です。努力をすることもなく良い結果が出た人は、うーむ、運をここで使ってしまったかも知れませんね。
やってもいないのに、いい結果が出ると言うことは、運が良かったとしか言いようがありません。運はそんなに続きません。キチンと努力を続けましょうね。
さらに、合唱コンクールの自由曲が決まり、第一回進路希望調査があり、夏休みの宿題が提示されと一学期が終わっていきます。
諸君はどれだけ学び、どれだけ力を付けたのでしょうか。進路に向かって学びを続けていかなければならないと言うことは分かっていると主ます。しかし、君たちに、「自分を鍛え上げ続けているか?」と問えば、『はい!』と心から答えることの出来る諸君は少ないのではないかな。
自分の望むだけの能力がないとかいって絶望してしまっては、自分の持っているわずかな能力さえ活かすことができなくなってしまう。テストの結果の出てきた諸君に元気を与える言葉を探してみた。
劣等感に傷つき、どこかほかの場所を求めてあがき醜態をさらしているうちに、青年は徐々に成長して行く。 亀井勝一郎 『人生論』
松下電器産業の社長を務めたこともある山下俊彦さんは、「失敗を合理化することのうまい人は、伸びませんね」と語っている。失敗の原因は自分にはないことを説明する理屈をひねり出すのが上手な人は成長しない、というのだ。二見道夫 『強運の条件』
人間は順調にいっているときは絶対に成長しない。何か課題とか困難を乗り越えたときにこそ成長するのだ。 松下電器 谷井昭雄
劣等感におちいる一番大きな原因とは、努力を放棄して、ただ空想している点にある。 亀井勝一郎 『人生論』
自分は駄目だ、などと思い込んでしまうのは禁物である。だれでも努力すれば、ある程度のところまでは行ける。才能がないと自分に見切りをつけた人は努力してもしかたがないと言って、努力もしない。それではものにならないのは分かりきっている。足りないのは才能ではなく、精進と努力である。 外山滋比古 『文章を書くこころ』
よく聞きなさい! 本当にだめな人間は素質があっても努力せず、愛されることだけを要求し、自分では人を愛そうとしない人間よ! そんな冷酷な人間にだけはならないでほしいの…。 平井和正 『幻魔対戦』
運というのは、運だけを求めるヤツには微笑まないで、ただ一心に何かを求めているヤツに微笑むものなのかもしれないと思う。結局、運というのは、努力すれば自分に引き込めるものだということになる。 吉野敬介 『やっぱりおまえはバカじゃない』
勉強をすれば何とかなるかと言えば、何とかならん場合もある。しかし、しないのとしたのでは、明らかに後者の方が成長することは確かである。
いくつかの言葉が君にエネルギーを与えることを期待する。
7月 2日 NO. 14
二日間に亘る一学期期末考査が終わりました。今年から授業時数の確保と言うことで二日間での実施。事前に3の1で「夏休みが減っても良いから三日間が良い人?」と来てみたら、圧倒的な数で手が挙がった。流石三年生と見るべきか。
上級学校説明会のお礼状にあった、思わず笑ってしまった間違い。
その1
「私たちのために、ありがとうございました」と書こうとして、「私のために、ありがとうございました」と書いてあった。本人は、「私たちと書いたよ」と言っているが、書いてあったんだから仕方がない。
その2
「先生の授業を心の底から感謝しています」と書こうとして、「先生の授業を心の庭から感謝しています」と書いてあった。職員室では、「おー、この生徒は心でガーデニングしているんだなあ」と話題になっていた。
その3
「もし、高校に行くことがあり、先生の授業を受けるご縁がありましたら」と書こうとして、「もし、高校に行くことがあり、先生の授業を受けるご緑がありましたら」と書いてあった。うーむ。三年生は、心の庭で緑を育てているらしい(笑)。
単純な間違いがリンクしあって笑いを生み出している。ここまでのはなかなかないが、テストにも間違いはあったなあ。
ただ、国語のテストに限ってみると、その間違いは努力した跡がわかる間違いであった。「勉強していなければこうは書けないな」というような間違いが多くなってきた。とても良いことである。ただし、間違いは間違いであり、点数には届かない。
「え〜、このぐらい、い〜じゃん」
という君たちの声が今から聞こえてきそうだが、進路決定に関わるテストで、間違いになる可能性が高い答え方をしていたら、×にするのが愛情ってものだ。定期考査で「あ〜いいよ。○」ってやっていれば、私は作業は楽だし、君たちとぶつかることもないので精神的にも落ち着いていられる。
しかし、それで慣れてしまっていて、君たちは○をもらえたはずだと思っているテストで、×になり進路を得ることが出来なくなるのであれば、今は厳しく採点したいと思っている。
特に今回気になったのは、女子の「くせ字」だ。「ん」「が」の字が書けない。日常のノートテイキングなどでは、自分の好きな字を書いて結構だが、君たちが昨日今日と受けていたのは、正式なテストである。
言っておくが、合格させるためのテストなんて、この世の中にはないからね。怪しいものは、正解ではなくて、怪しいものは×になるのだよ。学校のテストであれば「どうしてここが間違いなのですか?」質問する機会もあるが、進路を決めるテストでは、解答用紙は戻ってこない。確認することも出来ないのだよ。
誰がどう見たって正しいという文字で書くしかないじゃありませんか。
念のため。
第一回進路希望調査は、7月5日(月)に提出です。二者面談の資料として使いますので、きちんと書いて、この日に提出してください。後からでは、君にあった資料を提示することが出来なくなることがあります。
また、推薦を考えている人は、どんな種類の推薦であっても、「推薦受験を考えている」と5番に書いてください。
上級学校説明会のお礼状書きもほぼ終わりました。これと感想文を読む限りでは、非常に充実した会であったのではないかと思いました。本当なら、中学校の選択の授業もこのぐらいゆとりがある中で実施できればいいなあと思ったのは、私だけではないと思いますが。
さて、この上級学校説明会を受けて、君たちは夏休みに体験入学、文化祭訪問と自分たちで直接足を運ぶことになります。上級学校説明会に参加してくださった学校に行くのであれば、
(あ、あの先生いらっしゃるかな?)
とちょっとした再会を楽しみに行うことが出来るかも知れませんね。
なんで、わざわざ出かけていくのかというと、それはあなたが進路先に選ぼうとしている学校・職場の匂いというか雰囲気というか、そういうものを感じて貰いたいからです。
仮に、あなたの学力に応じた学校が見つかったとしても、それが一校であることは東京に住んでいる以上あり得ないと思います。同じような学力で入れる学校は複数有ります。それでは、この複数ある学校にいくつも通えるかと言えば、当たり前ですが無理です。たった一つしか通えません。
そのたった一つの学校を決めるために、あなたは実際に足を運んで、
(あ、ここは私を待っている学校だ)
と感じられるところを捜して欲しいと思います。
同じ学力程度でも、授業料が違い、通学の条件が違い、授業のカリキュラムが違い、クラブ活動が違い、卒業後の進路が違いとさまざまものがあるでしょう。その違いを分析し、自分にとっては何が重要なのかを考えて、進路を選びます。
ここまでは、本やインターネットでも確かめることが出来ます。しかし、人間の備えている直観は、この本やインターネットからの情報だけでは働きにくいのです。
実際に、現場に足を運び、空気を感じ、そこで学んでる先輩の姿を見て、得ることの出来る情報は非常に大きいものなのです。
進路の掲示板には、佐々木先生が毎日君たちが見やすいように情報を更新してくれています。6/27の朝の段階で、45校の体験入学の案内が来ています。きみたちは、これを見て、掲示板の後ろの学校後とのフォルダーを見て、申し込みを考えてください。
申し込みが決まったら、右頁にある申込用紙に必要項目を書き込み、奥村先生に実施の10日前までに提出してください。(用紙は各クラスにあります)

体験入学は、ほとんどの学校で、一回目の面接と考えているようです。当たり前ですが、きちんとした身なりで出かけることを勧めます。
念のため、もう一度。(ま、大丈夫だろう)は、大丈夫ではありません。社会は、高校はそんなに甘くありません。
6月 29 日 NO. 12
一日の仕事を終えて、スーパーで今晩の晩酌のおつまみを買って、駐車場に戻った。
「ごごっごご・・」
なんだか分からないが重いものを引きずるような音がした。
音のする方向に目をやると、小学校三年生ぐらいの男の子が、車止めのブロックを引きずっている。10キロぐらいはあるであろうコンクリートの固まりを引きずり、ウンウン言いながら立てていた。
(あれま。いったいどうするんだろうか?)
と眺めていたら、その男の子至って満足な顔。
(どうだい、やったぜ俺は)
というような顔をしていた。
私は、
(うーむ。さてさてどうしたらいいものか)
と思って見ていたのだが、次の瞬間
「あなた、何をしているの!」
と、母親の厳しいお言葉があった。
男の子はたぶん、以前に大きな何かを持ち上げることがあって、母親に誉められた事があったのだろう。そして、
(を? ここに大きな石がある。これを持ち上げたら、お母さんにまた誉められるんじゃないかな? よーし、いっちょうやってみっか)
と思って引きずってきて立てたのではないかと思う。
にもかかわらず母親から怒られたので、びっくりしているという顔をしていた。
私はその少年を非常に愛おしく思った。
(なんで、あの時はお母さんは誉めてくれてたのに、今は怒るの?)
という顔をしていたのだ。
大人になれば、同じような事をしても、その時の状況や文脈で、実際は違うことが分かる。
この男の子の例で言えば、力持ちの姿を母親に認められたのを嬉しく思って、また誉めて貰おうと思ったのであろうが、人のものを勝手に使って力持ちを示そうとしたことが間違っているということに、この男の子はまだ理解ができなかったのだと思う。
ところが問題はこの小学生だけではない。君たちにも私にもある問題なのだ。ふり返ってみれば、何であんなことをしたのだろうと思うことで、しかもその時は良いことをやっていると思っていることがあるのだ。
若いうちにしか分かりにくいものがあるように、年齢を重ねないと分からないことがある。それは今の君が懸命に考えても分からないことなんだな。
(をを、やっているな)
と思いながらも、
「こら! 違うぞ」
と言うこともある。だけど、君たちにはわかりにくいんだろうなあとも思う。
違うものは違うんだ。成長の違いが人によって違う中学生だとなんとも説明しにくいものがあるが、成長しながらその事実を受け入れて、大きくなって欲しいなあと思う。
「少年よ、大きく育てよ」
と思い車のエンジンをかけたのであった。
第一回進路希望調査の用紙が配られます。7月5日(月)の回収です。期末考査が終わってからの土日があります。保護者の方とじっくりと話し合って、用紙に記入してください。
もちろん、第一回ですので夏休みを過ぎて希望が代わっても構いません。現状での希望を書いてみてください。これをもとに二者面談をしましょう。
さて、この第一回進路希望調査の5番目の項目に、「進路について、あなたが現在悩んだり困ったりしている事があれば書いてください」というものがあります。同じ質問を数年前のこの時期の先輩達にもしました。
どこの誰かは分からないでしょうが、同じ学校の先輩達はこのように悩んでいました。ひょっとしたら君と同じ不安を持っているかもしれないし、君以上に悩んでいるかもしれません。まあ、読んでみてください。
◆
いかがでしたか?
ここからスタートです。
6月 28 日 NO. 10
16校、計17時間の模擬授業と体育館での学校説明会を実施することが出来ました。君たちの感想を一部を載せたいと思います。
「今日の授業を受けて、私は高校は凄いと思いました。なぜ凄かったかというと、とにかく早い。でも言っていることをしっかり聞いていればなんとか分かる。そうやって、短時間で中学生にでも分かるように教える先生方は凄いと思いました」
「あまり好きじゃない教科の授業を受けると決まったときは、ものすごくテンションが下がった。でも、受けてみたら分かりやすくってスゴク面白い授業で、最後まで授業を受けた。この時間希望の学校の授業は受けられなかったけど、スゴク楽しかった」
「今日貰ったパンフレットと色々な高校から来て貰った先生方の話を参考に少しずつ自分の行きたい高校を決めていきたいと思います。でも、その前にまず自分の学力をつけないと行きたい高校があっても行けないから、とにかく勉強もして話などを参考にしてやろうと思った」
「この『上級学校説明会』をもとに、自分の進路を決めていきたい。忙しい一日だったけど、良い経験ができた。高校の授業って楽しいとおもった。ありがとうございました」
「高校の授業の内容などで、興味がある一方で、不安なところもあったのですが、この上級学校説明会で、高校ではこんなことをするんですよ、と説明して貰い、授業にさらに興味を持つことが出来ました」
「なんか、全部自分のためになった気がした」
「まだ高校を決めていなくても、こういう授業をうければ少しは目標ができると思います。本当によい機会があって参考になりました。」
君たちの声が全てを語っているかと思います。これも参加してくださった先生方の授業のお陰だなあと私は感謝しています。
君たちは、これを受けて進路に向けての自分の取り組みを本格的に始めて欲しいと思います。推薦受験を考える人達には、きちんとした生活の姿勢を整えて学校生活を送ることを6月23日付けで求めました。模擬授業では
「その茶色い髪の毛では高校ではダメだね」
と言われた人もいたようですが、中学校よりも厳しいのが今の高校です。だから、一般受験であってもだらしのない生徒が受け入れられないのは基本的には同じです。
君たちが
(ま、このぐらい大丈夫だろ?)
と自分で勝手に判断しても、君たちを受け入れようとしている高校側は、当然ですが「ダメ」と言う答えを出します。なぜって、高校はきちんとやる生徒に来て欲しいからです。それは必死です。学校の存続問題なのですから。
人間は自分には甘いもので、自分で(ま、大丈夫だろう)というレベルでは大概(たいがい)がダメです。
自分に厳しく、仲間に優しく進路を見つめてください。
いよいよ上級学校説明会の日になりました。計16校の先生方に授業をしていただけるわけです。君たちにとっては学校行事として当たり前の企画ですが、ところがどっこい、これは今まで聞いたことのない内容です。
この上級学校の先生に模擬授業をしてもらい、学校の説明を受けるという企画は3年ほど前に思いつきました。その時は4校の先生に20分ずつお願いしました。今回は、規模を大きくして君たちが触れることの出来る学校を増やしました。一日中、高校というのは考えてみれば凄い企画です。是非、いろいろな体験をしてください。
今回の模擬授業では、授業開始後20分は希望を元に定められた授業を受け、その後、授業している先生に迷惑の掛からないように、同じ時間帯で見てみたい学校に移動して見ることも可能にしてあります。これは授業をする側からすると、とてもやりにくいことです。これを快く引き受けてくださった上級学校の先生に達には、君たちも感謝して欲しいと思います。
そのうえ、授業当日だけでなく、事前に授業のために実施する場所を確認にいらっしゃったり、朝早くから授業の準備をされたり、本当に頭の下がる思いです。君たちは幸せだなあと思います。
どの授業を受けるかは君たちの希望をベースに、学習係と私とでくじ引きを行って決めました。その結果、君の希望通りではない授業を受講する諸君もいることでしょう。だけど、発表の掲示の内容を見ながら、
「えー、俺はこんなの希望してねーよ」
「いやだ! こんなの」
と言う声が聞こえたのは、私は悲しかったな。
確かに、希望通りにならないのが残念なのはわかります。ですが、あなたの周りに、昼休みを削ってあなたのために懸命にくじ引きをして、ノリで手を汚しながら発表の結果を張り、洩れている人がいないかどうかを名表でチェックしてくれた学習係りがいるかもしれないわけです。
君たちのために懸命にやってくれたのに、そんな言い方をされたら、やっぱり頭に来るのではないかなと思うわけです。
もうそろそろ、人を傷つけるかも知れない自分の気持ちを表す言葉を、直接すぐに口にするというのは、やめるようにならなければと思うよ。
それから、第一希望ではないと言うことは、実は君の可能性を広げるチャンスなのかも知れないということも話しておこうと思います。希望は抱くだけで叶ってしまうかのような幻想を持ちがちですが、希望は努力なしでは叶えられません。さらに、偶然希望と違うものを選ぶことになることも、人生では珍しくありません。
かなりガッカリすることは事実です。ですが、どんなにガッカリしたって現実を変えることは出来ません。それならば、その現実の中で自分を活かすことを考えた方が遙かに建設的です。自分を成長させることが出来ます。
とくに今回のような偶然で決まるものであれば、悔やんでも仕方がありません。そんなところで足踏みをしているのではなく、次に進めばよい。なんなら、自分でその上級学校に出向いていって授業を受けてくればよいのです。
進路の選択ってのは、結局は自分で行うのですから。
NO8 6/23
6月25日(金)に上級学校説明会があります。午前中は高校の先生にご来校頂いて模擬授業をしていただけることになりました。模擬授業を受けるのは、中学三年生と、楢原中学校全学年の保護者ということになります。普段配布している三年生の進路通信を特別号にして、全校に配布します。
上記に授業を実施する学校名と実施教室をご案内いたします。模擬授業が午前中で、学校後との説明会が午後に体育館で行うということになります。授業と説明会のセットの上級学校説明会は、進路を考える上で意味のある企画ではないかと考えております。
この機会から、各御家庭で進路を考えるきっかけを作っていただければと思います。
進路指導主任 池田 修

NO7 6/9
佐世保で悲しい事件が、また発生した。被害者の女の子には哀悼の気持ちを表したい。しかし、気持ちだけでなく、何がどうなっているのかということも、国語の教師であり、コンピュータ教育に関わる教師である私は、君たちと一緒に考える責任もあると思っている。
報道が正しいとすれば、加害の児童は自分のホームページに書き換えが行われたこと、下品な罵倒(ばとう)の言葉を書き込まれたことをきっかけとして殺意を抱いたと言う。
諸君の中にもホームページを開設している人もいれば、メールアドレスを持っている人もいるだろう。確か国語の時間に確認したら、携帯電話のメールアドレスを持っている人は半数以上いたと思う。さらに、冗談半分であっても汚い言葉を使っている人もいる。だから、私にとってはこの問題は取り上げないでいられない話題なのだ。
私の人生で一番英語ができたのは十九歳の浪人時代である。予備校で使う英語のテキストの本文をノートに書き写して勉強していた。そのときに、折角(せっかく)だからと家にあった手動の英文タイプライターを使った。使って勉強しているうちに、英語もわかるようになり、タイプライターの腕前もあがっていった。
すると、自分の考えるスピードで文章を書ける快感にはまっていったのだ。手書きでは日本語であろうが、英語であろうが考えるスピードでは文章は書けない。それこそ疲れてしまう。ところが、タイプライターだとこれが可能なのである。
(ちくしょう。英語圏の人間はこんな快感を得ながら文章を書いているのか)
と思った。日本語では全く不可能であると思っていた。私がワープロを手に入れる五年ほど前のことである。
ただ、同時に非常に危険だということも感じた。考えるスピードで文字にすることができるということは、同時に感情のスピードで文章を書くことができるということでもあるのだろうな、とそのとき直感的に思った。
本来文章を書くと言う行為は、自分の頭の中にある、まとまりきらない感情や考えを、文字にすることでまとめ、表現する働きを促すものである。もちろん、文字だけでなく音楽で表現したり、絵で表現したり、ダンスで表現したりする人もいる。が、思考をまとめるには文字が優れていると考えられている。
ワープロがなかった時代、文豪と呼ばれる人たちの作品を綴った原稿用紙は、何が書かれているのかわからないぐらいに、グチャグチャに書き込まれ、推敲しているのか混乱させているのか判読が難しいものがある。それは、作家の思考との格闘の跡である。
ワープロになったって、それは同じ。文章を書くということは一種の格闘である。ただ、ワープロでは推敲をする手続きが非常に楽になったというだけである。さらに、格闘の跡はワープロになると非常にわかりずらい。きれいな文字になってしまっていて、格闘があったのか、推敲があったのかがわかりにくいのだ。
さらに言えば、思考を表している言葉なのか、感情を表している言葉なのかの違いもわかりにくいことがある。
国語の授業でこんなことを話したことがあるだろう。
「心から言葉はできる。しかし、言葉からも心は作られるものでもある」
と。不思議なのだが、実にそうなのだ。汚い言葉を使っている人は、心もそのようになり、丁寧な言葉を使っている人は、心もそのようになる可能性が高いのだ。少しずつ時間をかけてそのように育っていくのだ。言葉という鏡があなたを映し出しているのだ。
話をまとめていこう。
二十世紀後半、私たちは、今までの日本人が経験したことのない生活環境に突入した。思考のスピード、感情のスピードで文章を書くことができる時代である。
さらに、二十一世紀初頭の今はそこにインターネットがある。あなたの書いた何気ない文章を世界中の誰もが簡単に読むことができる時代がきているのだ。
その中には、あなたの文章に感動してくれる人もいるだろう。しかし、中には
(どうしたらそんな風に読めるの?)
という誤解をして読む人もいる。いや、後者の方が多いとも言える。それはその人の読解力のなさが関係している場合もあれば、悪意を持って曲解(きょっかい)して読む人もいる。そして、誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)や誤解に基づく判断を示してくることがある。
が、これはある意味しかたがないのかもしれない。情報は主に発信する側に責任があるわけで、受信する側に責任はないとも言えるからだ。そうだとすれば、発信する側は大変ではあるが、誤解が少なくなるように発信しなければならない。面倒くさくてもやってみることだ。ここに挑むときに、その人の思考力表現力は鍛えられるのだから。
繰り返す。文章を書くということは、思考をまとめるために有効な手段である。文字にすることで、文字を鏡として自分の思考を確かめることができるのである。
しかし今、君たち私たちが直面しているものは、ひょっとしたら、思考ではないのかもしれないとも思っている。それは日本人がかつて経験したことのない、感情の発露(はつろ)のスピードを超える文章作成であり、もっと言えば感情を増幅させる文章作成装置としてのワープロであり、感情を誰彼(だれかれ)かまわず飛び散らかすことのできるインターネットなのかもしれない。
そうだとすれば、この特性を十分に理解して使わなければならない。とても便利なワープロとインターネットだ。が、包丁のように、便利な道具というものは、その便利さ故に危険な道具になることが多いのだ1 。諸君は、感情に流されることなく、汚い言葉を使うことなく、冷静に立ち止まってキーボードに向かう必要があるだろう。
週末、山形にいてこんなことを考えていた。
勉強は湯船にお湯を貯めることに似ているということを授業の導入で話したところ、保護者会でも話題になり、親も知りたいという声を保護者の皆さんからも頂いた。反応があると嬉しいので、文章にしておこうと思う。
まず、勉強についての誤解がある。これを指摘したい。それは「勉強は勉強したら、したぶんだけ力が付く」という誤解である。もっといえば、「ちょっと勉強すれば、すぐに結果が出る」という誤解である。そんなことは、全くない。
では、実際はどうなっているかというと、「勉強しても、勉強しても、勉強しても、力は伸びず、ある瞬間突然、わかった〜〜〜〜〜〜〜〜!と分かる。または、できた〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!とできる」というのが勉強というものである。
これをグラフにすると、次のようになる。
これが勉強の実態だと言うことが分からなければならない。この勉強時間と実力の関係は、私は湯船に水をためるときの関係に似ていると常々思っている。これを私は「湯船の法則」と呼んでいる。
私が中学生の頃は、湯船を洗い、水を張り湧かすというのが一般的な風呂だった。親に言われて、湯船を洗い、栓をして水を貯める。ところが、じっと見ているときはなかなか貯まらないくせに、テレビなんか見ているとあっという間に貯まってしまい、溢れて親に怒られるということがあった。
これと勉強のどこが似ているのかと言うことだが、実に似ている。流している水は勉強の量だと思えばよい。流していることを意識しているときには、なかなかな貯まらないように、勉強していると思い続けているときは、力は付かない。ところが、勉強しているという意識がないくらいに自然に勉強を続けていると、突然分かるのである。できるのである。溢れる瞬間を感じることが出来るのである(1 )。
では、いったい何時その溢れる瞬間を感じることができるのであろうか。君たちが興味を持つのは、この部分(グラフではX)であろう。私の答えは、「分からない」というものである。そんな無責任なと言われても、これははっきりと「分からない」という以外に言えない。
なぜであろうか。主な理由を3つあげる。
1. 流す水の量が分からない。
2. 元々湯船にどのくらい水が貯まっているか分からない。
3. 湯船の大きさが分からない。
1.に関して言えば、あなたがどのぐらいの時間と質で勉強をするのかが分からないということである。多くの質の高い勉強をすれば、早く溢れる。
2.に関して言えば、私立中学受験を目指して頑張ってきていた人、定期考査の前だけ頑張っている人、クラブが引退してから頑張ろうと思っている人といろいろいるわけで、今までどのぐらいの学力が貯まっているか分からない。予め多く貯まっていれば、早く溢れる。
3.に関して言えば、あなたの器の大きさが分からないということである。入れ物が大きければ、入れても入れても溢れないのである。入れ続ける時間がかかる大きな器のことを、「大器晩成」というのである。しかし、誤解しないで欲しい。入れ続けることをしないでいて、「時間がかかるな。オレは大器晩成だ」ということにはならないように。
で、さらに問題がある。勢い良く水を流しているのに、全く貯まらないと言う場合だ。これは何か? そうだ、栓を閉め忘れているのだ。勉強で言えば、復習である。入れる作業だけではなく、身につける作業もしなければならないのである。
また、湯船にひびが入っていて、そこから洩れるということもある。虫歯が痛くて勉強に集中できない、テスト前になると便秘をする、勉強しているつもりだが、実はただなんとなく夜遅くまで起きているだけなどが該当する。簡単に言えば、生活のリズムが崩れている、健康管理が出来ていないということだ。
どーだ、溢れる瞬間が分からない理由が、分かるだろう。
ただ、分かることもある。流し続ければいつか溢れる。私の経験からは、早い生徒でやりはじめて三ヶ月後、遅い生徒で高校に入ってからということである。高校に入ってからでは遅い? そんなことはない。その後の成長は急上昇なのだから。
それから、もう一つ。溢れる瞬間が分からない理由だが、実は、殆(ほとん)どの理由は、他人には分からなくても、あなた自身には分かっていると言うことだ。
以上、風呂好きの私が発見した学習とその効果における「湯船の法則」でした。
注(1) この境目を、専門用語では、閾値(いきち)というのだ。
挨拶について、前号で書いたが、その続きを3の1の学級通信に書いてしまったので、こちらにも転載しておくことにします。
引用開始ーーーー
金曜日に君たちの授業の様子を見にお客さんがやってきました。授業の後に話をしていたら、職員室前で君たちに「こんにちは!」と挨拶されたと言って喜んでいましたよ。
ね、たった一つの挨拶だけど、印象が全然違うんだよ。私の母親がよく言っていたな、
「若いうちは、知らない人に会ったら兎に角頭を下げて挨拶することだよ。挨拶されて嫌な気持ちになる人はいないから」
と。そもそも、挨拶とはどういうことかといえば、「挨」は、相手に迫るという意味で、「拶」は心を開くと言う意味だ。
だから、そもそも挨拶とは自分からするものであり、言われてするものではない。早い者勝ち、遅い者負けが挨拶なのだ。
文学作品に出てくる挨拶で、印象に残っているのは、向田邦子さんの『父の詫び状』に出てくる「最敬礼」である。
入院した母親を兄弟で見舞いに行くと、嬉しそうにあれこれと子どもに文句を言う母親が、見舞いを終えて帰ろうとする子どもたちが乗り込むエレベーターに向かって、「最敬礼」をするというのだ。そして、その姿を見て子どもたちは「堪らないな」と呟くのである。
親からは「挨拶しなさい」と怒られることはあるが、親から挨拶されるなんてのは、正月の「あけましておめでとう」と「おはよう」ぐらいしかない生活が、子どもの時である。それが、大人になると丁寧に親から挨拶されるときがくる。これは結構複雑な思いだが、自分も大人として親に認められたのだと分かる。
私が忘れられない挨拶と言えば、最初の学校で警備をしていた渡邉さんの挨拶だ。
その学校は坂の上にあり、当時七十歳に届こうとしていた渡邉さんは、毎日放課後になると、その坂を自転車を押しながら登ってきた。
帰宅しようと坂を下りていく私は、渡邉さんを見付けると
「こんにちは。さようなら」
と声を掛けるのだが、渡邉さんは、必ず、自転車を止め、汗を拭き、頭を下げてから
「先生、お勤めご苦労様です。失礼いたします」
と五十歳近く年下の私に挨拶をするのであった。
その美しさに私は見とれた。
たった一つの挨拶を蔑(ないがし)ろにせず、それまでしていた動きを止め、きちんと汗を拭いて挨拶用の顔になり、挨拶をされるのであった。もう二十年も前になる挨拶だけど、私は忘れることは出来ない。
相手が誰であっても、自分から挨拶する習慣を自分に身につけておくことは、あなたの人生の可能性を広げます。そして、挨拶はあなたの人間性を、確実に表してしまうのです。
引用終了ーーーー
なかなか出来ないんだけどね。でも、やろうと努力する人にならんと、なんにも進歩しないんだよな、人類は。
4/13 NO4
美しいものを見た。
学校の帰り道のことであった。
川口川沿いを車で家向かっているときのことであった。
私の前に二人の人影が見えた。
よく見ると小学校五年生ぐらいの男の子と、七十を悠に過ぎたであろうおばあさんの二人連れであった。
二人は手を繋ぎ歩いていた。
最初私は、おばあさんが孫の手を引き、散歩しているのかと思った。しかし、違った。私の車が二人の近くに迫ったとき、足を止め手を引き、車から安全な場所に導いていたのは孫である男の子であった。
私は車のスピードを落とし、ソーッとその横を通った。男の子は、おばあさんを守るように体を寄せ、おばあさんは孫に体を任せ、道ばたに咲いている花を愛で、その説明を孫にしているようであった。
時間にしてほんの数秒の光景であろう。だけど、一週間経っても私の心から消えることがない。そればかりか、その光景が心に残り、
(今日も出会えないかな?)
と川沿いを行くときの密かな楽しみになっている。
力のあるものが力を貸し、知恵のあるものが知恵を貸す。世代を越えて、豊かに生きている美しい姿を見た。
瞬間であっても、美しいものが美しく見えるように、その逆もある。
瞬間で判断されることもあるのだ。教室に入った瞬間、机が乱れている。髪の毛が茶色い。靴の踵を踏んでいる。タオルを持ち歩いている。大声で叫びながら走り回っている。チャイムが鳴ったときに廊下にいる。
君たちの毎日を見ている私たち学校の人間は、突然髪の毛を茶色にしてきた君を見て、
(何かあったか?)
と思うことが出来る。
しかし、世の中の人は他人に対して、そんなことは思わない。人は外見で判断し、瞬間で評価を決める。そして、この決められた評価は間違っていたとしても、なかなか変えられることはない。そして、君たちに弁解する機会はない。それが社会である。
三年のある二階の廊下は、学校で多くのお客さんがやってくる場所である。三年生が学校の顔になっているのである。
君たちが気持ち良く挨拶し、シャキッとした姿をお客さんの「瞬間に」残せることができれば、楢原中学校に、美しい光景としての印象が残るのだ。
話の筋が通らないことが発生している。何で助けに行っている人を人質にして、自分たちの主張を押し通そうとするのであろうか。許されることではない。
ここまで酷いと多くの人が変だと思うだろう。だが、ここまで酷くなくても、話のレベルも全然違うけど、君たちを見ていて、話の筋が通らないなと思うことがいくつかある。
今年度初めての朝礼があった。体育館に向かって行くと、昇降口にカバンが三つ放り投げてあった。あれこれ考えるに、朝礼に遅刻しそうになった生徒が、昇降口に置きっぱなしにして、体育館に向かったと思われる。
しばらく昇降口で待っていたら、遅れてきた生徒が次々に、昇降口に荷物を投げ出して体育館に向かおうとしている。私は呼び止めて『教室に置いてくるように』と告げた。すると、「えー、遅れちゃう」という返事があった。おかしくないか?
本来、荷物は教室に置く物である。荷物の盗難があり、身の回りをキチンとしようと呼び掛け合っているときに、昇降口に投げ出していくことは、先ずもっておかしい。しかし、百歩譲って、置くことを良いとしよう。
そうであっても、遅刻したメンバーが置きっぱなしにするというのは変である。早く学校に来て、仲間のために働いている生徒が、教室に置きに行くのが大変で、「先生、ここに置いといて良い?」というのは分かる。昇降口から教室に一回行く分楽になるからだ。
だけど、自分で遅刻して学校にきて朝礼に遅れないようにと、一回分楽して朝礼に向かうというのは、話の筋が通らないことだ。頑張っている人が楽になるのではなく、手を抜いている人が楽になると言う生活は、おかしい。話の筋が通らない。
他にもある。今までに経験したものを一部挙げる。
まあ、学校であればひょっとしたら通ってしまうこともあるかもしれないが、それは成長過程の君たちに考える時間を与え、直す機会を作り出すためである。
社会に出たら、こんなのは「お前の我が儘につき合っている暇はない。会社辞めてくれ」となることだ。
今の内に直そう。
学年集会では、先生からの三年生を迎えた君たちに一言があった。今回は進路の話しが多かったと思う。全ては載せられないが、記録しておこう。
「体の成熟に併せて、こころも成熟。完熟してほしい」
「この一年は、やらなければならないこと、やったほうがいいこと、やってはいけないことのなかから、それぞれ重点を絞って、自分の目標に向かって進む」
「勉強は、やればすぐに成績が伸びるとは限らない。むしろ、すぐには伸びないものだ。やってもやってもやっても伸びないで、あるとき突然伸びるものだ」
「言葉は、心から発せられる。だから心が大事。だけど、言葉が心を作ることも事実。だから、丁寧な言葉遣いをする人は、丁寧な心が育ちます」
「人は、表面に現れるようにしか判断されません。やる気があるなら、やる気を見せてください。つまらないという態度は、相手にそれを伝えてしまいます」
「『がんばっています』だけではだめで、結果を出さないと意味がない社会に君たちは出ていくのです」
「一生でもうこれから先に授業を受けることのない教科も三年の授業にはあります。大事に授業を受けて下さい」
「絶対評価の授業では、全員にAを付けてあげることができます。ですが、授業中に一人が話し、もう一人がそれに乗ってしまうと、二人ともCを付けなければならなくなります。仲間のことを大切にするのなら、全員がAを取れるように協力しあって下さい」
「仲間に自分の進路を公開して、支え合って乗り越えていける進路を学年で作り出そう」
集中して聞いていたと思う。進路はその進路を選ぶ一人の問題であるようにも思えるが、これを支え得てくれる仲間がいると居ないとでは不安が全然違う。一人一人が仲間を支え合える学年に育って欲しい。
そのために先生たちが協力できることは何かと考えた。君たちが繋がり会うためには君たちが何を考えているのか、何を思っているのかを交流するための情報ではないかと考えた。
君たちが、その時々に考えていることを書いた「今、ここで」というプリントを編集して配ろうと思う。
私たちは、過去の経験から学び、未来を見据えて、今、ここに生きるのである。
三年の生活が動き出した。
君たちの進路・学習のガイドとして一年間、進路・学習通信を発行しようと思う。タイトルは、THE SEVEN SEASだ。
諸君は、川口川から浅川へ、浅川から多摩川へ、多摩川から東京湾へと流れ込んでいくその流れのようにこの楢原中学校を卒業していく。東京湾へたどり着いた諸君は、その後七つの海へと漕ぎ出していくことになるだろう。
ここまでは、この地域に生まれ育った諸君は、手をつなぐように同じ小学校、中学校と歩んできた。しかし、これから先はそれぞれの進路に向かって進み出す。たまたま、同じ進路先を手に入れる諸君もいるだろうが、自分で立ち向かうしかない。
私の母親の名言に、
「どんなに親は子供のことを思っていても、トイレと歯医者と勉強は代わって上げることは出来ないのよ」
というものがある。
(なにをつまらないことを言っているのだ)
と子どもの頃の私は思っていたが、今では
(確かにその通りだなあ)
と思っている。自分でやるしかないのだ。
こんなこともあった。中学時代、テスト勉強をしていたところに、父親が珍しく酔っぱらって帰ってきた。
「おう、修。テスト勉強か?」
『そうだよ。試験範囲が長くて大変なんだなあ』
「んー、いいなあ。試験範囲があって。そしてきちんと結果が出て、きちんと評価されるのだから」
『えー、試験なんかない方がいいよ』
「まあ、今に分かるさ。試験勉強の簡単さが」
『‥‥?』
そして、今になってみるとやっぱり父親の言っていたことが、よくわかる。学校のテストほど、努力と評価がはっきり関係しているものはない。簡単に言えば、やれば結果が出るのだ。
しかし、矛盾したことを言おう。「自分で立ち向かうしかない」のだが、自分だけで行うものでもない。君達の保護者、中学校の先生、小学校の先生、高校の先生、クラスの仲間、学年の仲間、クラブの仲間、近所のおじさんおばさん、親戚のおじさんおばさん。教育委員会のみなさんなどなど。相談相手、教えてくれる人はたくさんいる。
それぞれの進路は違っていても、一年後(正確には10ヶ月後)の不安は誰もが同じである。だからこそこの不安を共有し、教え合い、助け合う集団の力で乗り切っていきたいと思う。
ここ数年進路の選択に関しては毎年大きな変化があるが、毎日の学習を目的を持って行っている人には心配することはないと言えるだろう。
「私は、こういう人生を作りたい。だから、自分の選んだ道は、これだ」
卒業にはみんながこう言えるように一年間を作っていきたいなあ。
じっくり、
かつ
確実にいこう。