月曜日の六限に、「現代教育実践の課題 氈vという授業がある。これが面白い。
テレビで取り上げられた教育に関するドキュメンタリーを元に、そこで行われている教育の営為を解説し、受講生に実践の是非を問うという授業である。
今までに行ったのは、
『青い目、茶色い目』
『ブタを食べる』
の授業である。
『青い目、茶色い目』は、キング牧師が暗殺された時に行われた米国の小学校の授業である。突然、先生が
「青い目の子はいい子で、茶色い女の子は悪い子です」
と言い始め、翌日は、
「本当は茶色い目の子がいい子で、青い目の子は悪い子です」
として、人種差別を擬似的に作り出して、人種差別とは何かを問いかける授業である。
『ブタを食べる』は、小学校四年生の時からペットとして飼っていたブタを卒業の時に、どうするのかとクラスで討論するなかで、生きること死ぬことを問う授業であった。
どちらも、簡単に何がよいといえる授業ではない。そして、場合によっては、授業として成立しないことも含まれている実践である。
このようなテーマを通して、現代教育実践の課題を問うという授業である。
授業の最後に、その日の感想文を書くのだが、受講生は懸命に書いている。私も書いている。ただ、その内容に触れる機会は、先生にかない。それは非常にもったいない。私も見てみたいと思って、担当の山名先生にお願いしてみた。
「感想文が見られるようになりませんか?」
「模造紙にスプレー糊を撒いて、そこに感想用紙を貼り付ければさほど大変ではないのですけど」
と話したところ、これを採用してくれた。フットワークが軽い。感謝感謝である。
授業は、先生が作るものではなく、先生と生徒が作るものであると日頃生徒に言い続けてきた。そうであるなら、私も生徒である以上そうしなければならないはずだ。子どもたちに言ってきたことを、実際に自分でやるのは結構大変だ。だけど、そうすることで見えるものもあるかなと思って、しばらくは意識してやってみよう。
030429 ホームに戻る
大学院の授業が始まって二週間目に突入した。そろそろどの授業を履修するか決めなければならない。
先週は、自分が興味を持っているもの、持ちそうなもの、時間が空いていたから受けてみようと思うものと、朝から晩までみっちり受けまくった。
受けた瞬間に
(これは、受講だ)
と決まるものと、
(もう一週間考えよう)
となるものがある。
大学や大学院は授業料を払っていて、しかも自分が学びたいものがあるのだから、こうして自分で選ぶことができる。
だが、翻って中学校ではと考えると、子どもたちは自分が学びたいことを学んでいるわけではない。
もちろん、大人になるための基礎基本を学ぶことに、選り好みはできないという言い方もあるが、いずれにせよここが中学校の面白さというか大変さなわけで、授業のカリキュラムとその内容には十分考えられなければと思う。
大学院の授業では、インスピレーションというか、アイディアというか論文の方向性が見えてくるような刺激を貰える授業もあれば、興味はあるのだがその専門性の高さで付いていけないなあ思う授業もある。
その中で今日は、研究の方向を見つめるきっかけのような会話ができた。授業が終わった後の質問の時間であったが、あの一言が授業後の質問から得られただけで、今日の授業は大満足であった。
大学院で学ぶ目的は研究である。が、もう一つ、色々な人に出会うということもある。ところが、実際は授業と授業の合間に話すことなどできず、同じ研究室ならいざしらず、交流を深めることは難しい。
そこで、現職大学院生のための交流掲示板を作ってしまった。
http://bbs.rakusagashi.com/free/ohkuma/login.php3?db=ohkuma&returl=bbs.php
現職で大学院に通っている方がいらっしゃったら、メール下さい。パスワードをお知らせいたします。
五月半ばには交流の為の飲み会だあ。
030421 ホームに戻る
ソメイヨシノはほとんど葉桜になってしまった。我が家の隣の公園に植えられている山桜も、花びらが風に吹かれて舞い落ちるようになってきた。
久方の
光のどけき
春の日に
しづ心なく
花の散るらむ
紀 友則
まさに、この和歌のような一日を過ごしている。
家の出窓からはちょうど桜が見えるので、一日見ていたら妙なことに気が付いた。
紀友則の和歌のイメージだと、一日中桜の花びらが散っている感じがするのだが、桜葉の花びらは、どうも午前中に集中して散るのではないかということである。本当にそうなら、私にとっては大発見である。
「美しい日本語を三つ挙げよ」
と言われたら、先ず必ず入れるのが、私の場合「桜吹雪」である。
何とも言えずに、只美しいと思っていたのだが、それでは国語を専門とする者としてはいかんだろうと思い、今日一日考えていた。そこで思い至ったのは、「桜吹雪」という言葉は、その言葉一つが、そのまま俳句の表現方法である「二物衝突」なのだということだ。
簡単に言うと、
「関係のない世界に存在する二つのものが、一つの世界に描かれることで、ぶつかり合いながら新しい世界観を提示する」
というものだと私は理解している。
つまり、
桜
1 春
2 温かい
3 薄いピンク
4 はかない
5 季節の移ろい
6 無音
吹雪
1 冬
2 寒い
3 白
4 厳しい
5 季節の重なり
6 轟音
という反するイメージを持った言葉が一つの熟語として提出されたため、心地よいミスマッチ起こり、ぶつかり合って一つの新しい世界観を提出する言葉になったのではないかということだ。
そして、この二つの言葉は、
・降る
・積もる
・乱れる
などの概念で統合される。
この、「反しつつ一つに統合される言葉」のイメージの豊かさが、「桜吹雪」を美しい日本語として感じさせるのではないだろうか。
次の日曜日には、全くの葉桜になっているのであろうなあ。
030413
今日から大学院の授業が始まる。四月の十日から始まるのであるから、授業をする側と受ける側では随分と違う。
授業をする側は、授業の準備も必要だが、授業以外の会議やらなんやらで忙しいのであるが、授業を受ける側だと、授業の準備だけで良いので、その点非常に気が楽である。
気が楽であるが、今までの仕事の習慣が抜けないのか、多少気持ちが空回りしている感じもある。
新しい場所なので、そこの仕組みを理解するのだけで一苦労である。研究室の使い方、図書館の使い方、学内ランの設定と分からないことだらけである。
学びのための環境設定がまだできていないのがイライラの原因かも知れない。
中学校の学習は、授業者が時間割に沿って被授業者に授業を行う。つまり、被授業者は自分で時間割を作ることはない。
当たり前であるが大学院は自分で受講する授業を考える。自分で時間割を作ることになる。
ところが、この自分で時間割を作るに当たって、資料が足りないのである。一応シラバスがあるのだが、それだけでは分からないところが多いような気がする。
例えば、デパートなら
「紳士服のワイシャツを買いたいのだけど、どこにありますか?」
と総合案内で聞けば、すぐに
「四階にございます」
などと答えてくれる。
そのような機能を備えた部署が大学にも欲しい。
「教員のリスクマネッジメントを学びたいのですが、それは誰のどの授業を受講すればいいのでしょうか?」
と質問すれば、候補を二三絞って出してくれる部署が欲しい。
それを捜すのが学問のはじめなのだというのだろうか?
授業の難しさなどは、サークルの先輩などから代々伝わってくると思う。これはこれで良い。裏情報として大事なものだ。
しかし、私が欲しいのは看板商品の内容に関しての情報である。それがきちんと消費者に提示されないようなシステムはおかしいと思う。
それとも、私がおかしいのかなあ?
030410
我が家のサクラが咲き始めた。と言ってもマンション暮らしのこと、庭があるわけではない。
隣の公園に植えられている山桜が咲き始めたのだ。ソメイヨシノが咲いてから一週間遅れぐらいで咲く山桜。たっぷりと味わえていいものだ。
昨日、鉄腕アトムが生まれた日を迎えた。高田馬場は、いつの間にかアトムが生まれた街ということになり、山手線の発車のベルもアトムのテーマソングに変わっていた。
手塚治虫さんが描いていた未来とは随分違うようだが、その日がやってきたということだ。
ここで私は思う。
私たちは未来に追いついてしまったのだということを。
大学生時代に、高校野球を見ていて、ふと
(あ、こいつらオレよりも年下か!)
と気が付いたとき、何とも言えない焦りのようなものを感じたことを覚えている。
それは過去に戻ることはできないと言うことを具体的な形で提出されたと理解したのだと思う。
これは、横綱が年下で、しかも引退したときとか、プロ野球で同世代がほとんどいなくなってきたときにも感じたものだ。
そして、いま、未来に追いついたと感じている。
アメリカの究極のマッチポンプであるイラク攻撃は、最終局面に入ったという。
首都にイラクの兵士が残っていないというのは、アメリカ兵を集めて置いて、一気に何かを始めるのかとも思ってしまう。
アメリカが唯一攻撃できないモスクになにかを隠しているような気がする。
そして、私たちは新しい未来をこの地球ごと作っていく地点に足を置いたのだと自覚しなければならないのだと思う。
030408
こんなにもいっぺんに咲かなくても良いのではないかと毎年思う。少しずつ開花の時期をずらして咲いてくれればじっくりと楽しめるのにと少し恨めしく思う。
車で街を通りすぎる。すると、ここにもあそこにも桜の花。
(あれ、ここにも桜があったのか)
と思いながら運転する。
桜を見ていて事故なんてのは、風流なのだかバカなのだか分からない。
世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
古今集53、在原業平
確かにその通りである。業平の言いたいことは、時代を超えて全くその通りである。
今宵は、近くの地麦酒やさん「多摩麦酒」に食事をしに行った。なんといってもここのヴァイツェンは美味い。
そして、この時期は窓ガラス越しに満開の桜がライトアップされているのが見事である。美しい景色に美味しい麦酒。幸せである。
数年前までならそれで終わっていたと思う。ところが、最近はこう思うようになってきた。
(今こうして見事な桜を見ることができるが、この桜を植えた人は、この素晴らしい桜を予測することはできても、実際に見ることはできない。それでも、桜を植えていたのだ)
と。
自分の行為が、自分の命のある内には大きな意味を為すことはない。ただ、未来の誰かの喜びのために木を植えたのだ。
未来を信じ、自分の目の前にある「やるべきことを確実にやる」ってのは、できそうでいてなかなかできない。
だけど、町中に溢れているたくさんの満開の桜の花を見ていると、どの時代にも未来を信じて桜を植えていた人がいたことが分かる。
私も未来を信じて人を育てようと思う。
030403