森進一先生 


 喪中の葉書が届く季節になった。大学時代から長くお世話になった森進一先生が亡くなられた。 

 八十三歳だった。僕は知らなかった。あれだけよくしてもらっていたのに、義理を欠いてしまい胸が痛む。先生のことについては、『不幸の心理 幸福の哲学』(唯学書房)の142, 186, 223ページに書いたが、名前をあげていないところでも、先生のことを書いた(p.ix)。先生に出会うことがなければ、去年の三月に亡くなった藤澤令夫先生に会うことはなかっただろう。僕は森先生に会うまではまだ僕はギリシア哲学を専攻するかどうか迷っていた。ちょうど一週間前、僕は友人と話していたら、たまたま話の成り行きで、彼の父親がある大学の生物学の教授で、同じ大学の哲学の教授である森先生の友人であることを知った。森先生に会うことはできないだろうか、と僕は友人にいった。わかりました、父に話してみましょう、と彼は父親に話してくれ、その日の夜遅く、電話をいただいた。一週間後、僕は森先生の書斎にすわり、これからどうするつもりかと問われた。その時、先生に本に書いたように、哲学を学ぶのであれば、ギリシア哲学を学ぶように、と諭された。人生が変わった日。

「先生の言葉は今も忘れることはできない。私は先生との出会いを運命的なものと感じていたのだが、そのことに「これは君の方に縁があったのですね」と、そして「でも、これが君にとってよかったのか、そうでなかったのかはわからない。君の命がもつか、ギリシア語がものになるか」といわれたのである」(前掲書、p.223

 僕はこの先生の家で行われていた読書会に長く参加していた。別の機会に書いたものを次に載せたい。
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 それから13年経ったある日、僕は先生の家に行きました。この読書会も、その前の年に、とうとう終止符を打つことになり、解散してしまっていたのでした。決して誇張ではなく、青春の十年をギリシア語に捧げた僕は、もう二時間もかけて大阪まで通う必要がなくなったことを寂しく思う一方で、他方、正直なところ、ほっとしたという気持ちもなくはありませんでした。

 学生の頃は、帰りが遅くなるので、この読書会に出るためにだけ、大学の近くに部屋を借りていたこともありました。昼間は全然日が当たらないのですが、夜しか使わないというので、安い部屋を見つけたのです。

 今は京阪は出町柳まで通っていますが、当時は三条まででした。そこから近衛通りの下宿までは結構遠かったのですが、タクシーに乗るお金もなく、冬の寒い夜も歩いて、何もない寂しい部屋に帰って行きました。真面目な学生だったわけです。

 二十代の十年といえば、いろいろなことがありました。大学院に進み、親を亡くし、結婚し、子どももできました。実に、七年という歳月をかけて一冊の本を読んだこともありました。この本は、プラトンの最晩年に書いた未完の『法律』という対話篇で、育児や教育が一つの大きなテーマになっていて、アドラー心理学を学んでいる今読むと、また違った読み方ができたかもしれません。後に、この対話篇を使って、修士論文を書くことになりますが、最初の頃は、ギリシア語が読めなくて、毎週の読書会が地獄のような苦しみでした。結婚して子どもができたら、ここに書いてあるような仕方で自分の子どもを育てて見たい、といっていた熱心にギリシア語を読んでられた医師は今頃どうされているだろうと、思い出しました。

 他のメンバーは、時々は、先生のところをたずねていたようですが、僕は一年も電話をすることもなく、ほとんどこの会のことも忘れてしまいそうになっていました。そんなある日、先生から電話がかかってきました。引っ越すことになったので、ついては、少し蔵書を処分したい、ほしい本があれば譲る、とのことでした。そこで、久々に先生を訪ねたのでした。久しぶりの訪問で、いささか足取りが重かったのですが、「やあ」という一言で迎え入れてもらえ、うれしく思いました。

 先生の家は棟続きの木造の家で、相当に古く、廊下を歩けば、ぎしぎしと音がし、雨が降れば、雨漏りがし、嵐の日に、壁が崩れてしまったこともありました。大学の教授が住む家、と初めて行った日にイメージしていた家とは全然違っていて、さすがにソクラテスの流れを汲む、何も持たない(とはいえ、本だけは多い)哲学者の家だと感動しました。

 先生はこの家には愛着はないとのことだったのですが、ここに来ることも今度こそ本当になくなると思うと感慨がありました。家の前で段ボール箱に本を詰めていたところ、ふと、金木犀の匂いがしました。どこから、と思って見回すと、家の前にあったのです。十年以上も通ったのに、まったくその存在に気がつかなかったのでした。わきめもふらずに勉学に励んでいた、といえば聞こえはいいかもしれません。しかし、何か大切なものをひょっとして見失っていたのではなかろうか、としばらく手を休めて、来し方に思いを馳せていました。僕の人生にさらに大きな転機が訪れようとしていましたが、その時はまだ気がついていませんでした。
(引用終わり)

「僕の人生にさらに大きな転機が訪れようとしていましたが、その時はまだ気がついていませんでした」と書いたのは、後にアドラー心理学を学ぶことを念頭においていたのだが、読書会に参加することになった後、母がちょうど今の僕の歳で死んだこともたしかに大きな転機ではあった。母は僕がお世話になった森先生や藤澤先生に会うことはなかった。いつか会いたいという母の言葉を聞き、そうだ、母は
まだ先生たちに会えてないのだから、死ぬはずはない、と思ったりもしたが、現実がそんな甘くはないことも思い知らなければならなかった。

 転機に大小はあるかもしれないが、人生にたった一度しか転機が訪れないということはない。機会はたえずあっても、それを転機にするのか、好機にするのかは自分次第である。「でも、これが君にとってよかったのか、そうでなかったのかはわからない」という先生の言葉もこういう意味である。

 森先生は医科大学の教授だったので、この読書会の参加者は、大きく分けて、医学生と医師、そして、哲学を専攻する大学生と大学院生だった。後者にとってギリシア語を読むことは専門家として当然なのだが、前者にとっては、とりわけ国家試験を前にした医学生にとっては、プラトンのテキストを原文で読むことは、見ようによっては余分の勉強であり、そのような勉強をすることをやめるようにいってほしいと父兄が希望することがあったり、本人も親に気を遣うということがあるということだった。しかし、先生も参加していた者は当然、このような勉強を余分とは考えてはいなかった。「専門の分野をこえて、なにか人間的な成長を心がけることは、いつの世でも、なにがしかの勇気を必要としてきた」(森進一「ソクラテスの死の今日的意味
)。そのような目的に資することを僕は教えてきたし、これからもそうするだろう。 

Posted: 土 - 12月 3, 2005 at 06:01 午前          


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