育児については何も知らなかった
僕の専門は哲学で、何事もなければ研究職につくつもりでいたのに、三十歳の時に子どもが生まれたことがきっかけとなってその後の人生が大きく変わってしまった。思いがけず、育児について学び、後にそれがきっかけになって心理学を学ぶことになった。
子どもの保育園への送り迎えをしていた時期は研究から離れてしまい、仲間から送れていることをいつも気にしていた。しかし、その後、子どもたちの手が離れても、哲学の研究だけに専心しようと思いながら、そうすることができなかったのは、哲学の研究者として高名な人が育児については、平凡なことしかいっていないことを知ったからである。平凡なだけならいいのだが、少年犯罪の根本的原因が乳幼児期の子育てに求めるというような、その発言の意味を考えたら看過できないような発言である。経験がなければ書いてはいけないとは思わないが(そういうことをいいだしたら誰も何も書けないことになってしまう)、失礼ながら育児にかかわった経験がないのではないか、と思った。
「肘掛け椅子にすわり観念だけを追い求めるインテリ」(『アドラーの生涯』vページ)であってはいけないと思う。アドラーがそうではなかったように僕もそんなふうにはならないでおこう、と思った。
紀元前五世紀の哲学者であるプラトンが書いたものを読むと、教育熱心な父親が、どうすれば子どもを優秀な子どもに育てることができるか、とソクラテスに助言を求めている。こんな話を読むと、今も昔も変らないものだと思わずにはいられない。
昔から人間は、現代人と同様、教育の問題に関心があって、これまでにもう何千年と人類は子どもを育ててきたわけだから、その意味では、ことさら肩に力を入れなくても、子どもを育てることができると考えることもできる。しかし、それにしては人間はあまりに変っていない。自然の歩みは緩慢だが、あまりに緩慢であり、同じ誤りを人は繰り返してきたように思う。
知識を伝えることはできても、人の「よさ」(それをプラトンは「徳」<アレテー>という言葉で呼んでいる)は教えられないのではないか、というのが、ギリシア人をとらえた疑問であり、この問をめぐって議論がなされてきた。立派な(多分に皮肉がこめられている)政治家の子どもが親の徳を受け継かず凡庸であるという現実に困惑するということがあったのだろう。
哲学の研究者でも育児、教育については発言できると思ってしまう。ことはそんなに簡単ではない。むしろ、このようなことについては、自分は何も知らないのではないかという自覚が必要である。
そういう僕自身、子どもを育てることは親がしていたやり方を真似ればできると思っていた。そのような知識(これはプラトンにいわせれば知識ではないだろう)が無力であることにはすぐに気がついた。もはやもとに戻れなかった。1989年のことである。
Posted: 土
- 8月 27, 2005 at 09:21 午前