好きなことには努力はいらないか? 


「息子は、もう小学校6年生になりました」で始まる、前に書いたものを見つけた。「何も手がかからなくなってつまらないこの頃ですが、古いファイルを見ていたら、次のようなのが出てきました。3年生の頃の話です」。息子は今、18歳なので、なんとも月日が経つのは早いように思う。以下、引用。 

 1月号(当時エッセイの発表の場だったニュースレター)に息子が「成績というものは上がるもんだ」と2学期の通知表を持って帰ってきた時にいったと書きました。担任の先生の所見は次のようでした。

「『50m走を測ります』といえば『練習してこよう』『小刀を使います』といえば『休み時間けずっていいですか」と本当に一つ一つの学習に意欲的に取り組めました

 後、まだ書いてあるのですが、この通知表の中に書いてある所見の他に、次のようなメッセージが挟んでありました。

「大好きな○○○君へ 勉強するって、やらされているのではなく、夢中になって楽しんでするものなんだなあと○○○君を見ていて思いました。自分の思うこと(おもしろいな、どうしてかな?)を大切にして4年生になってもがんばってください。 先生より 先生ね、○○君を見ていて先生になってよかったなって思ったんだよ」

 この先生とは家庭訪問に来られた時、話をしたことがあります。一番最後だったので2時間半も話し込んで帰られました。別の仕事についてられたのですが、あなたにはあわない、といわれて退職し、小学校の教諭の免許を取り、したがって、普通の人よりも回り道をして教師になった人です。自分の経歴が一般的でないので、やや自信をなくしてかけられていたのでした。

 以前、ピアニストをめざす高校生に英語を教えていたことがありました。彼女は3歳くらいからピアノを始めたのですが、ある時尋ねてみました。
「これまでピアノを止めようと思ったことない?」
「それは一度もありません」
「ピアノの練習をつらいと思ったことはない?」
「(きっぱりと)一度もありません」
彼女に音楽の才能が生まれつきあったとは僕は考えていません。強制されること なく、楽しくピアノを弾ける環境と、その中で自分がピアニストとしての道を歩 む決心をしたことが彼女を作り上げたのでしょう。

好きなことには努力はいらない。こういうと驚かれる人もあるかもしれませんが、教師や親は勉強(音楽のレッスンも)は、歯を食いしばってしなければならない、何か苦しいことであるように思い込んでいて、楽しいことであることを忘れていないでしょうか? 知らないことを学ぶ、ということは、楽しいでしょう?

 アドラーは「あらゆる人があらゆることを成し遂げることができる」といいました。当時、このアドラーの見解は批判され、ついには、これは文字どおりには解釈してはならない、と表明することを余儀なくされたようですが(エドワード・ホフマン『アドラーの生涯』)、アドラーによれば、遺伝や才能を問題にすること自体が既に劣等コンプレックスの表明であるわけで、教師や親に楽観的であることを教えようとしたのです。 アドラーも能力による限界は認めていたと思われます。よく知られているように、与えられたものが何であるかではなくて、与えられたものをどう使うかが問題である、としばしば指摘しているからです。

 ところで息子ですが、最近キャッチボールをしたい、といいだしました。そこで、グローブを買いに行きました。僕も小学生の頃はよく友だちと野球をしており、グローブは3つも持っていました。どこかにひょっとしたらしまい込んであるのかもしれませんが、今回僕の分も改めて買いました。30年ぶりかな、と思ったのですが、そういえば、教育実習に行った時に、高校生と野球をしたことがあったことを思い出しました。久しぶりにグローブとボールの感触を楽しみました。

 息子はグローブをはめるのは初めてだったようです。しばらくキャッチボールをした後、「ひとりで練習していい?」と尋ねます。河川敷きのグラウンドに行ったのですが、ネットが張ってあって、そこに向かって何度もボールを投げ始めました。研究熱心です。

「少し助言してもいい?」
「いいよ」
「どこにボールを投げようとしているか、目標を意識するといいと思う。今は、どこに投げるか意識してないから、早くボールを投げようとそればかり意識しているから思うところにボールが飛んでいかないのだと思う。目標が十分意識できれば、後は自然に手からボールが離れていくから」
「そうか、やってみよう」

 そして、また彼は何度もボールを投げて研究します。担任の先生の所見に書いてあったのとまさに同じことを、キャッチボールの時もする息子でした。 

Posted: 木 - 8月 25, 2005 at 05:35 午後          


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