『田辺元・野上弥生子往復書簡』岩波書店
田辺元、野上弥生子の「高度に知的な愛情関係」
哲学者の田辺元は昭和二十年三月に京都帝大を退官後、七月に北軽井沢に転住した。田辺が住む目と鼻の先に野上弥生子がいた。妻の千代との間で交際があったが、田辺と弥生子の関係に激変をもたらしたのは、千代の病死だった。野上の全集には収録されていない二人の往復書簡が『田辺元・野上弥生子往復書簡』として出版されている。「ともに文化勲章の受賞者でもある哲学者と作家、しかも同年の男性と女性が、齢七十歳を超えて、高度に知的な愛情関係をもち、親しく書簡の往復を行なったことは、日本はもちろん、おそらく西欧にも類を見ない」(竹田篤司『物語「京都学派』中央公論新社、p.225) 二人の書く日本語は美しい。二人の「高度に知的な愛情関係」(竹田篤司による)が育まれる過程がわかり興味深い。「その後はご無沙汰申あげてをりますが」と平気で一ヶ月、二ヶ月手紙が途絶える。今の世の中だとこのペースではついていけないのかもしれない。辻仁成が『冷静と情熱のあいだ』の中で登場人物に語らせている。僕は全力で彼女を愛し、そのせいで力加減がわからなくなって愛しすぎた、と。「急がないで、とつねにクールなその人は言ったのに、ぼくはその人の全てを愛した」。Festina
lente
ゆっくり急げ、と田辺元が書簡の中で書いていたような気がするが勘違いかもしれない。「私には相談なしに作中のものが勝手に行動いたすので、私は苦しみながらその後を追ふほかはないのでございます」(p.20)という野上の言葉、創造の秘密に触れていて興味深い。鶴見俊輔が激賞している野上の『迷路』は上巻だけでも600ページを超えのだが、「「迷路」はまた書き直しをはじめました」(p.341)と書いてあって驚く。コンピュータを使っていないのに、と思ってしまう。 野上が、イタリアから送られてきたミケランジェロとボッティチェリの映写の中に、ミケランジェロが一つの大理石の山をそのまま彫ろうとした彫りかけの山が出てきて(このミケランジェロのことは『アドラー心理学入門』の中で書いた、p.102)、思わず叫び声が出そうだったと田辺元宛の書簡の中で書いている。「こんなものを見ると、先生にも見せてあげ度く存じます」(p.26)。こんなふうに野上は自分が見たこと、読んだことを田辺に次々と書き送る。こんな気持ちはよくわかる。もちろん一緒にその場にいあわせられることほど幸せなことはないのだが。 この二人の書簡集を読んでいた頃、毎日、朝まで根を詰めて仕事をしていた。読む度に、二人が実に勤勉に仕事をしているのがわかり怠惰に流れてしまう自分が恥ずかしかった。二人は共に軽井沢にいる時は五日目毎に会って、田辺は野上に浅間山を眺めながら差し向かいの哲学の講義をする。野上が帰ると、田辺は厳しい北軽井沢の自然の中、弥生子のことを想い、その想念をエラン・ヴィタル(l'elan
vital、生の飛躍)にしている。 日本では古稀を過ぎては過ぎては小説は書けないという評論を読み、そんなふうに決めてかかることを野上は情けないことだと思ったという。「少なくとも私はそんな仲間にはなり度はございません。生きてゐるという事は、自分の道を歩りく事でございますもの。その道を捨てたとすれば、死んでゐると等しいのですから、生きてもそれは屍でございます」(p.387)「命を賭しての覚悟」とはこのようなことをいうのだろう。 書簡集は、1961年1月3日の野上の手紙で終わっている。元旦に田辺が脳梗塞で倒れたのである。意識はあって軽い言語障害が認められたくらいだが、経過はよくなく、翌年4月29日に亡くなっている。77歳だった。二人は同い年で、その後、野上は99歳で亡くなった。田辺が亡くなってから23年、長生きをするわけである。毎年欠かさず田辺との最後の歳月を過ごした北軽井沢に滞在し、執筆を続けた野上はどんな思いで過ごしたのだろう、と想像した。若い人たちのように心変わりして離れていくことなど決してないような安定感が二人の関係にはあるが、死別の可能性が若い人よりも高かったのは本当である。考えてみれば本当は年齢は関係のないことなのだが。二人がどんな状況でいつ邂逅するかは誰にもわからない。その日から始めて愛すればいいので、歳は関係がない。田辺元・野上弥生子往復書簡田辺 元 野上 弥生子
Posted: 木 - 8月 18, 2005 at 11:19 午前