『語られざる哲学』(三木清、講談社) 


 非凡な才もいらないし、天才でなくてもいい。「魂の秀れたる哲学者」でありたい。 

 僕が三木清に関心を持ったのは、後に二十巻にもなる全集を残すほどの多作の三木が構築しようとしていた体系としての哲学ではなくて、二十三歳の時に書かれた『語られざる哲学』を読んだからである。若い三木の人生に対する姿勢に共感した。

 三木清はこんなふうにいっている。この世界をこんなものだと決めてかかっている人がいる。そんな人は自分の生活が当たり前だと思っているから、それ以外の生き方をしようとする者があれば、不思議に思いながら嘲笑する。

「彼等が本当に自分自身に生きようとする人、生命の源に立ち返って人生を味おうとする人が悩み、悲しみ、夢みつつあるのを見るとき、彼等は合点が出来ないと云わぬばかりの顔をして大人振った口の利き方をしながら云う、「君達はまだ人生を知らないのだ。現実がどんなものだか分かっていないのだ」

 僕は自分がこんなことをいって恥じない人間にはなっていないことを誇りに思いたい。三木の次の言葉に当時深く納得したものだ。

「しかしながら何故に彼等が、自分の心の奥で味うこともなく単に便宜的に観念してかかったもののみが、人生や現実やの如実の姿としてひとり妥当する権利をもち得るかは私には分からないことだ。寧ろ本当に生きようとする人が体験するところのものが人生であり現実であるのではなかろうか」

 非凡な才もいらないし、天才でなくてもいい。三木清の言葉を借りるならば、「魂の秀れたる哲学者」でありたい。

 三木の読んだ歌(二百五十首ほど残している)
疲れたる心の奥に生(あ)れ出でて何が動くか寂しみの湧く

語られざる哲学
三木 清
4061581449

 

Posted: 水 - 8月 17, 2005 at 05:34 午前          


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