「チェルノブイリ再訪」邦訳その2
時間があいてしまいましたが、前回の続き。
災厄の日となった4月26日の別の映像も放映される。住民達が危機を知る前のものだ。家庭用のビデオカメラが普通の結婚式の、白いドレスを着た花嫁と笑う花婿のぼんやりと青みがかった映像を捉えている。私の心には恐怖と衝撃だけが残った。皆はどのように何が起きたかを知ったの?と私はドミトリに訪ねる。
チェルノブイリのRBMK-1000リアクターが放射能雲を解き放ってから36時間、ソビエト政府は何も発表しなかった。4月27日の午後になって政府は各住居棟に指示書とヨウ素薬剤を配布した。その薬は効果を現すには投与が遅すぎ役に立たないものだったが、住人達はそのことを知らなかった。指示書には、あるアクシデントのため翌朝に三日分の必需品のみを携行し避難するよう書かれていた。15400人の子供を含む、49000人のプリピャチ住人達は、住居に他のすべてを残して避難した。彼らの家や財産、そしてその町の姿を二度と見ることができ無いとは知らずに。
チェルノブイリ事故の後、周囲の76の村も同じように避難し、それぞれが核難民のコミュニティを作った。事故によりまき散らされた放射性物質は、スカンジナビアの一部、ポーランド、バルト諸国、南ドイツ、スイス、北フランス、イギリスでも検出された。事故の4日後には放射性微粒子は既にアフリカ、そして中国にまで達していた。しかしプリピャチはその最前線だった。科学者たちは、最も危険な放射性元素が減衰し、街が充分安全になったと判断されるまでに600年を要すると試算した。その時がすぎるまでその町での長時間の滞在は、自信のDNAでルーレットをしているも同然なのだ。
プリピャチではリアクターが家々の屋根の上やテラスから良く見えた。電力と進歩と近代化の象徴として。しかし生存者に二度とそのようには考えられないようになった。「10人もの親戚が癌で死んだ。彼らは私にこれは放射線とは関係ないと言ったよ。」とかつての住人の一人が言った。「そんなことが信じられるかい?もちろん放射線が原因だよ。私も同じように死ぬだろう。全ては電力供給のためさ。」
バスは北へ一時間以上も走りつづけている。巨大な住居の複合体のようなキエフは視界から消え、緑と茶色の田園的風景の中の木造の家に変っていた。一見全てが平和な光景に見える。しかし立ち入り禁止区域は死に絶えた国だ。木や鳥や動物達は残っているが、人間は風景の中から消え去っている。政府の禁止令を無視してさまようように戻り、彼らの小さな村で暮らしそして死んでいく僅かな人々を除いては。
検問につく。立ち入り禁止区域に入るには特別な許可が必要だが、プリピャチの避難民であれば取得は簡単だ。ジャーナリスト、科学者、旅行者でさえも立ち入りは許可されるが、すべてのビジターには、チェルノブイリインターインフォームのガイドの同行が必要になる。私たち全員が若いウクライナ人の検問管にパスポートを見せる。彼らはリスト上の私たちの名前をチェックし招き寄せた。非常に素早い対応だった。彼らは我々の到着にうんざりしているように見え、ほどなく私たちを中に入ること許可するゲートがあがった。
つづく
Posted: (火) - 5 6, 2008 at 10:57
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