2007年11月 鎌倉 谷戸の池


11月、もう太陽は日中でもそれほど角度を高く保つことはできない。午後遅くなると深く切れ込んだ倉久保谷戸の底に光は届かず、頭上の木々に反射した光がまだ粉っぽく散乱しているのとは対照的に暗く沈んだ風景となる。




久しぶりに訪れた谷戸の池には、鎌倉市が立ち入り禁止の看板を立てていた。行政が意味も無くこんなことをするとは思えないので、何か事故でもあったのかもしれない。それを見た娘は池に近づくのをためらったようだったが、私がかまわず進むとあきらめてついて来た。

池畔は雑木と笹に覆われ、水際に接することができる部分とその方法は限られている。私と娘は釣り人が作ったと思われる、笹が刈りはらわれた小さな空間のある岸辺から、木々を映す水面やその上を飛び回る無数の羽虫をしばらく眺めていた。その場所以外から池に接しようと思ったら、長靴を履いて谷戸の土が堆積したぬかるみに踏み込むか、池に斜めに張り出したミズキの幹にでも取り付くしか方法が無い。そうしてまで池に近づこうとする人々に、こんな看板は無意味だ。だいたい水のたまるところに近づくのには、多かれ少なかれ危険が伴う。それは風呂であろうと背が立たない程深い池でも同様だ。言っておけば、表示してさえおけば、いろいろな責任から逃れられる。そんな風潮をこの看板は反映しているだけなのだろう。

風はほとんど無く鏡面状の水面を乱すのは、アメンボが移動する時にたてる小さな波紋だけだった。その写真を撮ろうとして気付いたのだが、水面を走るアメンボと水面に映る木々の葉を同時に鮮明に写真に撮ることはできない。池に映る光景は、実は少し水の中に入ったところで像を結んでいるらしい。水面に写っている光景とその上を走るアメンボとの両方を鮮明に捉えることのできる目の機能は素晴らしいと言えるだろう。だがそれは眼球の構造が持つ光学的機能と、人の脳による補正機能が同時に働いてこそ成り立つものだ、自分の目は何を見ているのか。見たいものだけを、あるいは見たいと思っているものだけを見ているのでは無いか。そんな疑問がまた心に湧く。全てのものを冷徹に見つめる目を持つこと。それは、それに耐えられるだけの強い心の力を持つということなのだろう。

Posted: (日) - 11 11, 2007 at 01:33           |


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