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2003年―本光寺住職のメールマガジン・だらメル
2000年度版 2001年度版 2002年度版
1.後継者問題 7.ノータリンでいっしょ 13.門徒意識が変わる 19.頭が拝まれていた 25.子供の葬式 31.お参りの仕方も様々
2.名を呼ぶことが大事 8.父の死 14.葬式こぼれ話 20.ミニ公園秘話 26.間に合わないようで、間に合う 32.母からのプレゼント
3.年に一度の家庭訪問 9.いやはや、友引信仰 15.教師よ、大志を抱け 21.婚式の憂 27.祖母の仕付け 33.お座なり説法
4.帰敬式は所を嫌わず 10.一杯の小豆粥 16.大切な一枚の写真 22.住職は24時間勤務 28.買って徳をする 34.お参りでの戯れ
5.変なお寺 11.踊り出した報恩講 17.ホトケほっとけさん 23.“だら”を教えてくれた恩師 29.だら’との再会 35.気遣い
6.オリジナル経本の効果 12.おじいちゃんと呼ばれて 18.ヘソクリは仏壇の中が最適 24.ご愁傷さま 30.神社と寺の使い分け 36.本音が言えない

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル91号―12/25

本音が言えない

この‘だらメル’も始めて丸2年半が経ち、今回で91篇になりました。最近私の親しい友人が「まだ、メルマガ書いているんやて。寺のことで、よくもそんなに書くことがあるもんやな。」と、呆れていました。

 さて、今年も後僅かとなりましたが、昨今の国民の関心事は、何といっても小泉首相が閣議決定したイラク復興支援活動に自衛隊が派遣されることについてでしょう。国民の大多数が反対する中、毎日のようにテレビや新聞などで首相の冴えない苦渋に満ちた表情に、私の目には国民の前で本音が言えない、首相自身のもどかしさを感じ取れます。この派遣が本当にイラクの為なのか、それともアメリカの為なのか、国民にこの点を一向に釈然とさせないまま、何れ近いうちに首相は派遣命令を下そうとしています。

そして、これからのテロの恐怖に怯えつつも、イラクの戦後復興のお手伝いにと日本も国際協力をするのは人道上当然だという建前の下、今後の日本の国益のためにはアメリカに逆らえないという辛い本音を感じさせます。ともあれ、この首相の決断が日本の将来に禍根を残さねばよいのですが。

ところで、私たちには本音と建前という意識があります。ここで、この意識の変化を表す面白い例を紹介しましょう。これは、朝日新聞が成年男女を対象に行なった国民意識調査の回答結果です。○あなたは、これからのエネルギー源として原子力発電を推進することに賛成ですか。賛成47 反対32% では今、あなたが住んでいる近くに原子力発電所がつくられることには? 賛成21% 反対64 ○色々な職場で管理職や指導的立場の女性が増えています。あなたはこの傾向を好ましいと思うか。 思う69 思わない23% では、あなた自身は女性のもとで働きたいか。 働きたい30% 働きたくない54% このように、私たちは他人事と自分の事では全く違う意識を持つということでしょうか。

我々坊主でも、門徒から「今度の法事でどれ程お布施を包んだらよいでしょうか」と、訊ねられたら、「そりゃ、あなたのお心で結構ですよ」と言うのは建前であって、内心は沢山欲しいと思っているのが本音だと云えるでしょう。

そういえば、寺の中の掲示板に うそ聞いて 喜んで 本当聞いて 腹立てた というのがありましたな。これを門徒でクラブのママをしている人がいまして、この言葉を紹介しましたら、そのママさんが「私はいつも殿方に、うそを言って商売させてもらっています。ホホホ」ですって。

住職の口癖  (不幸な出来事を聞くにつけ)他人事(ひとごと)でないな。

            ―本光寺住職のメールマガジン・だらメル 90 号― 12/15

 

気遣い

 

4日前、この日は今年一番の寒さで、白山の頂には雪が積もり、辺りの山々もうっすらと雪化粧をしていて、もうじき里のほうも雪がちらつきそうな気配が感じられる日でした。

 

私はこの日の朝、お参りに行った家で、寒々とした火の気の無い仏間のお内仏でローソクに火をつけ、線香をたき、準備をしていると、「ご免なさいね、寒い部屋で」と言いながら、ごぼさん布団 ( 相撲の力士が座るような分厚い大きめの坊さん用の座布団 ) をその家の婆さんが小さな体で抱きかかえるような格好で足早に部屋に入って来ました。そして、お内仏の前にその座布団を敷くと、婆さんが「ご院さんにストーブもない寒い部屋じゃ面目なくて、一時間前から、おこたに入れて暖めておいたがや」と優しく言って呉れました。私は早速その座布団に座ると「ほんとや、暖かい、こんな暖かな布団に座るのは初めてや」と言うと、「ほうけね、うれっしゃ。そんなにご院さんに喜んでもらえて、よかったわね」と満足そうです。でも、このようなことは中々気付かないことだし、また、出来ないことですよね。

 

次に、これも 10 日程前のことですが、勤めも終えて座敷でお茶を頂いていると、そこの奥さんが「さっきね、自転車で買い物に行った帰り道、私がちょっとよそ見をしたその瞬間、自転車に乗った大谷高校の女子生徒と危うくぶつかりそうになったんです。そうしたら、その女子生徒が『すみません。大丈夫ですか』と、心配そうに声を掛けて、私の体を気遣ってくれるじゃないですか。そもそも、悪いのは私なのに。私は ( あのような生徒に出会えて ) とても良い気分でした。今日、この事をご院さんがみえたらお話しようと思って」と。これも些細なことですが、このような場合、咄嗟に文句は出ても、人を気遣うなんて出来ないことです。

 

また、それと反対のケースもありました。以前、寺の事務所に憤慨止み止まぬ体で入って来た 60 代の男性、その腹立ちの理由を興奮しながら話して呉れました。丁度、寺の前の歩道を歩いていたら、一人の男子の高校生が自転車を車道に止めてしゃがんで、何か困っている様子。それでその人が「ボク、どうした?」と声を掛けたら、いきなりその子が「ダラ、見りゃ分かるやろ!」と、突っ掛かるように応えたというのです。そこで、その人はその言い草に腹が立ち「おい、こら、お前、口のきき方も知らんのか!」と、言い返したそうです。もし、この子に気遣う心があったならば、これほどこの人に腹立てさせることも無かっただろうにね。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル 89 号― 12/5

 

お参りでの戯れ

 

この頃、お参りに行くと、皆が私の身を案じてくれているのか、いやに気遣いされているように感じてなりません。例えば、よく門徒の人から「ご院さん、体に気を付けて長生きして下さいね」などと事改めて言う人が殊に多くなったような気がします。何か、私が余程年寄りに見えるのか、それともひ弱に見えるのでしょうか。

 

また、私が門徒宅で帰りの挨拶をして外に出ると、わざわざ家族総出で見送って下さる家が多くなったような気もします。以前はそのようなことが無かったのに、この頃私はこのようなことまでがとても気になるのです。

 

先達て、ある門徒の家にお参りに行った時のこと。その家には一人暮らしの女性が居て、その日の早朝訪ねると、「ご免ください、本光寺です」と玄関から声を掛けると、中から「はーい」と元気のよい声で出て来られました。そして、私の姿を見るや否や「あら〜、ご院さん、会いたかったわ」と言いながら、その女性は私に駆け寄り、何と抱きついて来たのです。これは女房にもされたことのないことでしたから、突然のことで大変驚きました。顔が私の胸ぐらいしかない小柄なその女性は、私の胸元で「おととい電話があってから、きっとご院さんじゃないかと思って、さっきまで今か今かと待っていたのよ。さぁ、さぁ、入って頂だい」。

 

そして、居間に通されて、炬燵に入って座ると「私、一週間前に退院したばかりなの」「あらっ、そう。どこか悪かったんですか?」と訊ねると、「ほんとに、命拾いしたわ。三ヶ月ほど前に家で急に胸が苦しくなってね、そのまま意識を失い、気が付いたら病院だった。あの日、たまたま息子が家に居てね、運良く私を見つけてくれたお陰で助かったのよ」「そりゃ、よかった。息子さんは命の恩人だね」「そう。でも、病院に居た時に、どうしてかね、ご院さんの顔が見たくてたまらない時があったのよ」などと、突飛で嘘のような話をし出したのです。実をいうと、この女性、 80 過ぎのお婆ちゃんなのですが、この場合、普通であれば「危ないところで、ご院さんのお世話になるところだったわ」と、こうくるところですよね。それが何故、病室で私の顔が浮かぶのか、これも分かりません。私の顔って、所謂、‘癒し'系の顔なのでしょうか。

 

それにしても、この婆さんに突然抱きつかれた時は、流石に驚きました。でも、これは私にはとてもうれしい出来事でした。

 

住職の口癖   坊主の仕事に慣れると怖いな。手抜き、誤魔化し、横柄な態度、気をつけなければ。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル88号―11/25

お座なり説法

毎年、本光寺では今頃の時期になると、出張して町単位での報恩講が勤まります。その期間は12月中旬までの約80日間、ほぼ毎日のように出掛けて行って公民館や当番の門徒宅などの場所で、その町の人たちと報恩講を勤めるのです。この寄合のことを私たちの地方では?お座?と云います。この?お座?では、最初に皆と一緒に声を合わせて、節の付いた正信偈や念仏・和讃などを唱和します。その後、私は一時間程のお話をしてその?お座?が終わります。

そこで、正直に打ち明けますと、私には50歳を過ぎても相変わらず不得意なものが3つあります。それは毛筆と作文と説教なのです。言うまでもなく、これらは坊主の素養として必修事項で、出来ないことは坊主として大変恥ずかしいことです。満足な字も文章も書けず、人前で話せないとは、今でも私は内心忸怩たるものがあるのです。

これまでにも私が話をすると、苦虫をつぶしたような表情の人や、いびきをかきながら、寝てしまう人が多くて、中には私の話の最中にドテーンと仰向けにひっくり返った人までがいた位です。日頃の不勉強がたたり、聞いている人は私の支離滅裂な纏まりのない話に退屈して、きっと眠くなるのでしょう。

そのような話を女房にしたら「そりゃ、あんたの下手な話を門徒の皆さんは我慢して聞いて下っているのじゃないの。これからはお座の度ごとに、お礼を言ったら」と言われ、私はそれも成程と思い、それ以来、話をする機会がある度に、「皆さん、私のつたない話を我慢して聞いて下さって、今日は有難うございます」と、お礼を言って終わることにしています。すると、皆は尤もだと思うのか、気遣ってくれたことが嬉しかったのか、一様に苦笑いをしているのです。

私の話といったら、事前に何の準備もせず、言いたいことも纏めないままに、その場に臨むのですから、全く無責任な、まさしくお座なりの説法になってしまうのです。時には笑いを誘い、涙を誘うような、聴衆を引き付け退屈させないで、尚且つ仏法の要の話をちゃんとする、なんて芸当は私には到底出来そうにはありませんが、ただ、とつ弁ながらも、いつも受け売りの話ではなく、私は成るべく自分の言葉で話すよう心掛けています。

では、下手なりに、今年はどんな話をしてるのかって?それが「他力の信心とは」のつもりなのですが、人はこれを私が話すと聞いただけで、あぁ〜、もう眠くなりそうです。

住職の口癖  だらメルも書いてしまえば、ただのゴミ。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル87号―11/15

母からのプレゼント

先月、私の母が亡くなり、今日で37日が経ちました。下の娘がオーストラリアから帰って来て4日目の9日の早朝、4時5分に息を引き取りました。その前日の夕方、母の容体が変だと気付き、早速、馴染みの医者に往診に来て頂き、診てもらっていると、突然口から黒いタールのような物を多量に吐き出しました。すると、先生は「今晩は病院の方がよいでしょう。ご本人もその方が安心でしょうから」と言われ、急遽入院することになりました。

 私は救急車を待つ間、母のおとなしく、小さくなったその姿を見つめながら、矢鱈泣けてきて、とても辛かった。その時、私は<もう、最後かもしれない>という予感がして、無性に悲しくて仕方がなかったのです。そう言えば、亡くなる数日前に母はポツリと「報恩講まで、おれんかもしれん
(寺の報恩講は、亡くなった日の一週間後でした)」と、つぶやいておりましたから、その頃既に母は自分の死期を察していたのでしょうか。

ところで、私はこの度の母の葬儀に際して、多くの人たちの温かい心に触れることができました。訃報を聞きお悔やみに駈け付けて来て下さった門徒の人や、そうでない人たちまでもが申し合わせたように、口々に「何でもお手伝いするから、遠慮しないで言ってくれ」と言われるのです。そして、本当に数え切れない程の人たちが、受付係、式場係、台所係、駐車場係、会計係、食事係、誘導係、広報係などの係に付いて、裏方のお手伝いをして下さいました。中には葬儀までの6日間、毎日顔を出して下さった人が何人もおられたくらいです。

寺の葬儀というのは、葬儀社の祭壇具等は一切使わず、全く手作りの式壇をしつらえるのですが、その為何から何まで手がかかり、人手も要ります。そこで、その葬儀式一切を取り仕切る人を式事と云うのですが、予てより見込んでいた人にこの式事を任せることにしました。その結果、ただ単に人に見せる為の華美な、形だけの葬儀とは違い、質素ながら実に真宗らしい式壇が仕上がりました。そして、集まった満堂の人たちが正信偈を式場が割れんばかりに大合唱したことや、身に染みる法話や門徒代表者の感動的な弔辞には胸を打たれました。ここでは、その時の状況を言葉で巧く表現ができませんが、斎場で親戚の寺の人が「通夜、葬儀と出てみて、本光寺は生きているね」と、言ってくれたことが何よりも嬉しく、そのことが私の誇りに感じました。

母の死によって初めて知らされた、一つになった人の心の温かさは、母からの何よりのプレゼントでした。

※葬儀の式次第と、その様子はこちらで見ることができます。

住職の口癖  あと、10分早く起きれないとは、情けない。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル86号―11/5

お参りの仕方も様々

私は門徒の家にお参りに行くと、意外なお参りの仕方をしている人がいて、その都度驚かされることがあります。私はどの家でもお話していることに、「毎朝、お参りすることが大事なことなんですよ。先ず、仏壇の扉を開けて、お仏供(一般にお仏飯と云いますが)を備えて、合掌をしながら、ナムアミダブツと唱えます。それだけでいいんです」それに、「お仏供を備えるということは、一日に一度は必ず私たちに仏壇を開かせるため、その中の汚れを気付かせるため、手を合わさせるためでもあるんですよ」と。

お仏供と云えば、いつか或る門徒宅での読経中、お内仏を眺めているとお仏供の白いご飯の上に何か赤い物が載っているように見えるのです。読経が終わりその家の婆さんに「お仏供の上に載っている赤い物は何ですか?」と訊ねてみると、「あれ、梅干です」「えっ、何故梅干を載せるんです?」聞き返すと、「おかずです」と。それを聞いて、思わず私は吹き出して仕舞いました。

 そこで、よい機会だと思ったので次のような話をしました。「仏供はご飯で盛ってあるので、仏さまの食物だと思われるのも無理はありませんが、実はあれはご飯で蓮の実を形取った物なのです。ほら、この仏器(真鍮製の器)の形がそれと似ているでしょう。ですから、白い蓮の花を仏さまの足元の蓮台のもとに蓮の花を添える心持で備えるのです。決してご飯を差し上げるという意味ではないんです。だから、これからは梅干は要りませんよ」と説明しました。すると、婆さんは「あらぁ、そんなんやったんかいね。初めて聞いたワイね。それぞれ謂れがあるがやね」と素直に納得してもらいました。

また、ある家の若い奥さんは「本光寺から頂いた、お経のテープを毎朝仏壇の前でかけて流しています。台所の流しに居る時も、掃除をしている時も、洗濯をしている時も唄を聴くようにかけています。このテープはご院さんの声で有難いし、第一お布施が要らないじゃないですか。こんなでも、いいんでしょ」だって。そこで私は「構いません。そりゃ、仏壇の引き出しの奥に仕舞われているより、ずっと私にとっては有難いですよ。お勤めは独りでできなくてもいいから、聴いて耳慣れることが大事なんです。でも、奥さん、たまにはお内仏の前にも座ってみて下さいね」と言ったら、笑って「はい!」と誠に素直でした。

住職の口癖  早よう、だらメルの日がくるな。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル85号―10/25

神社と寺の使い分け

近く衆議院の総選挙がありますが、選挙がある度に選挙運動の解禁日の朝、必ず本光寺には沢山の鉢巻をした人たちがやって来ます。その時、決まって広い境内が車で一杯になる程人が押し掛けて来るのです。私は初めてこの様子を見た時は、この人たちは何だろう、寺に参りに来たのかな、と思ったら、とんでもない、この人たちは誰一人本堂には見向きもせず、川の流れのように寺の斜め向かいの神社に歩いて行くのです。そう、その神社には揃って当選祈願に行くためで、寺に来たのはただ車を停めるだけの目的でした。

何故にこの神社なのか、と云うと立候補者がこの神社の氏子だからだそうです。でも、もし、対立候補が同じ神社の氏子だったら、どちらの肩をも持てず神様もさぞかしお困りになるだろうと、つい余計なことを心配してしまいました。兎角私たちは神様に、ついつい自分たちの都合のよい要求を押し付けてしまい勝ちですが、人それぞれが身勝手な私たちを神様は内心どのようにお感じになっておいでなのでしょうかね。

もう一つの話は、昭和63年に本光寺に会館を新築しましたが、その一年前の起工式でのこと。古い木造の庫裡が取り壊され、きれいに整地されたその場所にテントが張られ、正装した多くの門徒の人たちや、業者の人たちが集まり開式の時間を待っていました。私は初めてのことで緊張しながらも出席者一人一人にお礼の挨拶を交わしたり、式次第の確認をしたり、と落ち着かない時間を過ごしておりました。

やがて開式の時間も間近になった頃、一人の人が突然「宮司、遅いな」と言い出したのです。その声を聞いて周りがざわめき出しました。「おいや、どうしたんやろ」「わし、向かいの神社に行ってくるわ」などと言い出す人が出てくる始末です。私もそのような会話を聞いて慌てて「あの、僕がするんです。今日は仏式なんです」と言うと、皆は揃って意外な様子です。すると、また一人の人が「なんや、ご院さんか。そりゃ、価(値打ち)ないわ」と大層不満気な様子です。そこで、また別の人が「あんた、ここは寺じゃろうが。宮司がいたら、かえっておかしがねんか」と切り返すと、やっと皆が笑顔になって、漸くその場が収まりました。

起工式というと、通常地鎮祭と云うのでしょうか、神官が天地にお祓いをして工事中の無事を祈る神事を連想する訳ですが、たとえこのように神事が仏事に変わったとしても、どうも人の神様に対する畏敬の念はそのまま変わらないようです。

住職の口癖  葬式に行って聞き耳立てるは、我が名の確認。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル84号―10/15

‘だら’との再会

先月の連休に、突然大学時代の友人が訪ねて来ました。それはもう27年振りの再会でした。この日、彼はドライブに行こうと、ただ何となく大垣市の家を出て、北に向いて車を走らせていたら、ふと、私を訪ねてみようかと思い立ったそうです。私も、今までに時折彼のことは思い出すことがあっても、これから先会うことは無いだろうと、半ば諦めていましたので、彼の突然の来訪には大変驚きました。

彼と私との最初の出会いは、京都市内の或る牛乳販売店でした。彼は京都大学を目指す浪人生で、私は大学一回生でした。彼は家の事情から、浪人中も大学に入ってからも家からの援助は一切無く、そのことは親からそれが条件ということで京都に出たそうです。朝は牛乳配達で、晩は京都の中心街でアルバイトをしていました。下宿は一部屋が3畳の広さで、隣とはベニヤ仕切りの鳩小屋のような狭い部屋が幾つもあり、そこには浪人生が沢山住んでいました。このように彼は、所謂、立派な苦学生だったのです。

私はそんな彼と付き合う内に、まさしくダラな行動に出てしまったのです。まず、数ヶ月居た結構な下宿を出て、老女一人暮らしの家に直談判して間借りをして、その上、折角の仕送りを断ち切ってしまったのです。当時の仕送り額の平均は3万円位でしたが、私の牛乳配達のアルバイト料は当初、月1万円ありませんでした。一日に110軒程を自転車で2回積み直して配達をします。牛乳といっても幾種類もありますし、家によって、また日によって本数も様々なのです。寝坊は絶対できませんでした。このアルバイトを私は3年8ヶ月しました。このような私に彼から「お前の家だったら、10万円送れと言っても、送ってくれるだろうに…」と呆れ顔で言われた記憶があります。

そんな私のことは兎も角、彼は今年から定時制高校の教頭をしているのだそうです。「ここへ来て初めて教師の原点に立ち返ったような気持でいる」と、話をしてくれました。また「今までの高校は進学校だったので、ここはそれとは違い、大変生徒には手が掛かるが、反面やりがいがある」とも。定時制に来る生徒は以前、不登校だった者や退学になった者や学力が極端に低い者が多くて骨が折れるが、初歩から手取り足取り教えられることに、改めて教師の初心の喜びを感じているようでした。私は彼を見て、昔と変わらずいつまでも苦労は厭わない男だな、と、感心しながらも清々しい気持になりました。

後日、彼から礼状が送られてきました。そこには「ダラに会い 我またダラに 成り行かん 浜風すがし 秋の本光寺」と一句が書かれてありました。

住職の口癖  マメになれ、そして、ずるくなるな!

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル83号―10/5

買って得をする

円満朝市も今日で今年の最終回になりました。出店した人も、買い物に来た人も、主催をした円満の会の人たちも、長い期間有難うございました。毎回、広い境内が埋めつくした多くの老若男女の笑顔でいっぱいでした。?お寺は、楽しむ所?と呼びかけて早5年、売り手も、買い手も、主催する側の者も、誰もが損得にかかわらずいつでも「楽しましてもろとるんや」と、さりげなく言ってくれます。

円満の会のメンバーの宮誠而さんが、そんな朝市の様子を見ながら、「客が買って得をしている」と、つぶやいていましたが、私は宮さんのこのような鋭いとらえ方には感心しながらも、これは商売の本質を巧く表現されているように思いました。だから、その証拠にこの朝市の買い物客は好い物が安く手に入ったと、皆が笑顔でうれしそうです。

さて、この手作りの円満朝市も2年が経って多くの人たちから受け入れられて、可成り定着してきたように思います。元々、この企画は小松中心街の賑わいを取り戻すために寺もお手伝いをと、始めたものです。これは門前市と云う名が示す通り、全国的に見ても寺の山門前で朝市などが行なわれていることはあっても、寺の境内を寺が無償で開放している例が無いというデーターの下、これは意味があることだと思い実施に踏み切りました。

ところが、昨年までは肝心の商店街の人たちが中々動いてくれなかったのです。彼らは朝市の様子を遠目に眺めているだけなのです。一度、若い商店街の人達6人と呑みながら話し合ったのですが、私が「いっしょにやろうよ」と誘っても、「寺がやっていることだから、門徒でない僕らは関係ない」とか、「本光寺だから、あんなに人が集まるので、商店街では無理だ」と他人事のようでした。

そこで、私は「新聞チラシなどの広告費用を寺が出している訳だし、その分、君らは人を集める手間も金も省けたようなものじゃないか。朝市であの沢山の人たちを自分の店に引き込むために、せめて各店の広告チラシを配るとか、パフォーマンスをするとか、それ位の工夫をしてみたらどうだね」と、言ってもその時は誰もなびいてくれませんでした。

しかし、今年になると漸く商店街の人たちも加わり、店が境内から前の歩道まで溢れ出し、40店舗以上の店が立ち並び、丸で通りが歩行者天国ような賑わいにまでになりました。さて、来年は彼らがこの朝市をどう活かすか、楽しみです。

住職の口癖  改革はオセロのように、二人おれば出来る。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル82号―9/25

祖母の仕付け

今ふと、私の幼い時分のことを思い出しています。それは私の何歳の時か、多分5歳位の頃だろうと思います。私の目に浮かぶその光景とは、朝、祖母(昭和34年没)が私に朝食の前に仏間に行ってお参りにするよう促がしています。当時、家族一人一人に箸箱が持たされていて、朝には必ずその箸箱がお内仏に置かれてありました。祖母はいつの頃からか朝食の前に孫たちにお内仏で手を合わせることを習慣付けようと、このような仕掛けを考えたのでした。このような子供の仕付けが我が家ではいつ頃まで続いたのか、私にその覚えがありませんが、ただ、今になってみれば祖母のこの仕掛けは妙案だったと、感じ入ってます。

ところで、私の家には結婚以来、手作りの小さなお内仏があります。木の切れ端に自分で「南無阿弥陀仏」と書いたものと、捨ててあった燭台と香炉と華瓶を拝借して部屋の一部に場を作り、そこに並べ置き、我が家のお内仏としています。それは仏壇のような箱物の体裁ではないので、それらしくはありませんが、それでも今まで一度も華瓶に挿した花を枯らしたままにしておくことはありませんでした。

女房は毎日このお内仏に仏飯を備え、いつも何かしら「ムニャ、ムニャ」と、唱えています。感心なことに人から物を頂戴すると直ぐにそこにお供えし、近頃は図々しいことに宝くじ券までがそこに置かれてあります。子供たちは仕事に出掛ける前に、手を合わせて「行ってきます!」と声を掛けて行きます。一銭もかけないで作ったこのお内仏、見掛けは悪いがこの25年間、4回の引越しにも私たちと共にしてきましたから、私たち家族にはとても愛着があるのです。

人はよく仏壇を持たない理由に「我が家では、まだ死んだ者がいないから」と言います。何れ、そのような不幸な事態になってからと、それを理由に仏壇を備えない人が案外と多いので、日常の家庭生活の中に手を合わせる場があることが如何に大切なことだと気付いている人は、まだまだ少ないように思います。

日本の何処かの学校で、生徒たちに食前の合掌をさせないで、先生の「始め!」の号令で食べさせるという話を聞いたことがありますが、このようなことを聞くと、私は?あぁ〜、どうして?と、ため息が出てしまいます。

住職の口癖  

読経の前に、その儀式の軽重・場所の大小・人数の多少を心得ておくこと。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル81号―9/15

間に合わないようで、間に合う

今年、春に私の住職在任20周年を記念して、『本光寺108の謎』と題した本を出版していただきました。この本は288?からなり、厚い表紙がつけられた立派な装丁の本に仕上がりました。私が住職になってこれまで辿ってきた20年間の歩みを「謎解き」と形で著し、字体も大きく読者に読み易く配慮されていています。

そして、一つ一つの謎に関係した写真がふんだんに載せてあり、写真を見る楽しみもあり、読み出すと大概一気に読み切ってしまう人も多いようです。

先だって、ある門徒の方が「うちでは、あの本をトイレに置いてあって、毎日しゃがむ度に一つずつの謎を読むことにしています。このやり方だと家族の間で回し読みするのと違い、家族の者皆に読んでもらえると思ったんですよ」と、笑いながら私に話して下さいました。よく考えたものです。恐れ入りました。

この本は本光寺全門徒と、他にこの寺に多少なりとも関わりのある人たちにもすべて無料で頒布したのですが、それでも中には「この本は幾らだ」と、懸念がって問い合わせてくる人がありました。そこで、「無料です」と言うと、決まって‘意外だ’という反応なのです。このような反応もこれまで寺というと、兎角‘取りがち(おねだり癖)’だと反感を持たれているように、矢張り寺と云えば寄付、というイメージが根強くあるからなのでしょう。

イメージといえば、この本のお陰で寺の印象も少し変わったようです。「寺では日常何をしているのか」「住職をはじめ僧侶はどのような人物なのか、また、どのような考えをしているのか」などの謎にこの本が十分答えてくれたと思います。

さて、今年7月26日に市内の某ホテルで“円満パーティー”と称して、この本の出版祝いをしました。このパーティーには、319名もの人たちが集まり、誠に賑やかな、そして、色々なアイディアを凝らした型破りの楽しいパーティーでした。その一つを紹介すると、この本の中から11のテーマを選び出し、パネルディスカッションがあって、多くの方々が次から次と証言台に立って楽しい話をして下さいました。

丁度「ミニ公園とは」というテーマの話の時、突然ある人から「謎掛けが出来ましたので披露させて下さい」と発言があり、「ミニ公園と掛けて、住職と解く」「その心は、間に合わないようで、間に合う」。私は何と上手く言い当てたものだと感心しながら、このような人間関係ができたことを嬉しく思いました。

住職の口癖  親の辛抱で、子が育つ。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル80号―9/5

子供の葬式

今から18年前、その年の9月中旬、小学6年生の男の子が学校のプールの排水口に吸い込まれて溺死をするという誠に痛ましい事故がありました。この事故を聞いて葬儀に集まった人たちは誰もが驚きの様子を隠せず、周りの人とそのことを語り合い、涙して悲しみ、当然のことながら重苦しい空気が式場全体を包んでおりました。

そうした中、葬儀が始まり、同級生で一番仲良しの友だちの弔辞によって、堰を切るようにそこに居た全ての人たちの涙を誘ってしまったのです。それは子供の飾らない素直な表現の数々が全ての人たちに共感をもたらし、感動を与えました。ところが、弔辞も終わり読経が始まるところで、‘始め’の合図に打つキンの音が鳴らないのです。そのキンを打つ筈の伴僧が、どうも貰い泣きをしている様子なのです。

私は困りました。それでも、どうにかキンが鳴って、私が調声(ちょうしょう)を執りましたが、その後に続いて唱えてくれる筈の伴僧二人が年甲斐も無く鼻をすすりながら、押し黙ったままで後に続いてこないのです。

そう言う私も、その場に居ながら居たたまれない程の辛い想いをしていましたが、心を鬼にしようと自分に言い聞かせて、努めてご両親の顔を見ないよう、弔辞の文言を思い出さないようにと、一人正面の一点を見つめて読経を止めぬよう頑張っておりました。

さて、今日、子供が死亡する場合、生来不治の重い病気に罹っていた者や、不慮の事故に遭った者以外、その死亡の原因は大半が親の不注意によるものだ、と云われるくらい子供の死亡数は減少しました。そこで、私は今年100回忌に当たる明治37年の過去帳(本光寺門徒の死亡記録台帳)で、当時のその辺の状況を調べてみることにしました。

その年の死亡数は269人で、その内10歳未満で死亡した子供は124人にも上りました。この数は何と全体の46%にもなるのです。更にこの年の平均年齢はと計算してみると27歳になります。今日の日本は世界で最も平均年齢が高いとされていて、恰も誰でも長生きできるような錯覚を持ちがちですが、これは言うまでもなく子供の死亡率が低いことに他なりません。

我が子が亡くなるということは、親が亡くなること以上に辛いことです。特にその時の母親の心中を察した時、身を分けた我が子が死ぬという耐え難い苦難を生き抜いてきたこれまでの母親の逞しさに、只々女性の偉大さを思います。

住職の口癖  何事も、やる前からダメだと決めつけないこと。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル79号―8/25

ご愁傷さま

私は、これまでにどれほどの数の葬式に出たでしょうか。30年間として、ざっと単純に計算しても5000回位になるでしょうか。以前にもこのだらメルで、張り詰めた儀式では、紙一重で喜劇になる、と書きましたが、これがまた逆に悲劇を生み出すこともあります。

それは、ある町の公民館で葬式があった時のこと。葬式の次第も先に進み、一般焼香になり、呼び出された人たちが順に祭壇前の香炉の前に立ち、焼香をしていました。祭壇に向って右手の直ぐ脇には遺族の方々が座って揃って内側に向き、次々と焼香を済ました人たち一人一人に、会葬の礼にと一々頭を下げて丁重に応えています。そこへ30歳代位の女性が焼香を終え、踵を返して右に向き、そのまま座り、喪主に向って深々と頭を下げて何か言葉を掛けていました。

ところが、この女性の後に焼香をしていた男性が一歩足を下げ、此方に振り向こうとしたその時、一歩下げたその足が女性の長いふわふわとしたレースのスカートの裾を踏み、そこへ立とうとした女性と同時になり、ジャーと音がして腰の辺りからスカートが縦に裂けてしまいました。それを運良く見ていた私は、その光景を見て思わず息を呑み、読経の声が一瞬止まり、目を覆うのも忘れ、そのまま見ていいものか、悪いのかの判断も付かず、その成り行きを見守っておりましたら、この女性は大層憤慨してその場を足早に立ち去って行きました。

この話の序に申し添えておきますと、葬儀の時の遺族への挨拶は式中にはせず、式の前後にした方がよいでしょう。

次は、これまた嘘のような本当の話なのですが、ある門徒宅での葬式で、その家の手次寺の住職が、温泉で遊び明かし、一睡もせずに葬式に出て来たのでした。葬式が始まり一番最初の調声「帰命無量寿如来」と発声した途端、一気に寝てしまい、次の調声の箇所で何も言わないものですから、後に居た伴僧がその気配を察知して起こそうとキンの撥で住職の背中を突付いてみました。

すると、夢心地で居たその住職は前日の宴会で唄った得意の民謡『関の五本松』を唄い出したのでした。これは何ということでしょう。大事な葬式はブチ壊しになり、その場にいた遺族は大いに怒り、「この坊主、表に放り出せ!」と叫び、遂に取り返しのつかない、悲惨な葬式になってしまいました。

住職の口癖  夢は大きく、行動は大胆に。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル78号―8/15

“だら”を教えてくれた恩師

私の高校2年生の新学期に、風変わりな男の先生が赴任してきました。普段の風采は短髪で白いワイシャツにノーネクタイ、下駄履きといういでたちでした。私はこの先生に、いつの日からか部活が終わってから晩に友だちと押し掛けて、英語と国語を習っていました。場所はいつも不特定で先生の都合に合わせ、学校の時もあれば、小松の先生の下宿ですることもありました。

私は学校まで8kmの距離を自転車で通っていましたが、その都度学校で、今日は何処でするのか訊ねるのですが、これが全く当てにならないのです。「今日は下宿でする」と先生が言っても、大概居ないことが多かった。そんな時、私は学校に電話をしてみると「今日は学校に変更だ」と言われ、また8kmの道のりを自転車で学校へ行くのです。すると、いつものように数人の先生と酒盛りの真っ最中です。そこに来た私を見て「おぉ、よく来たな。今日から暫く古語で日記を書いてみろ。書いたら見せろ」と言いつけて、また楽しそうに呑んでいます。時には「マコ!酒、買ってきてくれ。おい、このことはおとっちゃんに言うなよ」(当時私の父はこの学校の理事長でした)と口止めをされたこともありました。

こんな時私は先生と共通の秘密が持てたことがうれしかったのですから、私もやっぱり変です。破天荒で、だらしなく、自由奔放で、乱暴な人でしたが、なぜか私はこの呑んべぇの先生が好きでした。こんな具合だから、もし、先生が「今日は京都でする」とでも言ったとしたら、あの時の私はきっと自転車で京都まで行っただろうと思います。

こんな先生が私に卒業する頃に言ってくれた言葉に、「マコよ、だらであれ。このだらと云うのは、謙虚であれ、と云う意味だ」と。先生は小松に来て、短い間にこの“だら”という方言をこのように解釈したのです。恐らく、この言葉に込められた私に対する願いは、<お前は、何れ否応なく、座れば上座に、喋れば高座に立つ身分になることだろうが、決してその身分に甘んじるなよ>ということだろうと受け取って、今でもこの言葉を肝に銘じています。

この先生が、25年ぶりに鈴鹿高校から2年前に北陸大谷高校の校長として招聘されました。私にとって何と35年ぶりの再会でした。こんな長い年月を経ても忘れられない昔の自分を、一途と云うか、目出度いと云うか、だらと云うか、これが今とちっとも変わっていません。

住職の口癖  

呑みに誘われても、断る勇気を持ちなさい。(実はこれ女房の口癖)

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル77号―8/5

住職は24時間勤務

住職という字は、寺に住む職業とも読めるので、門徒にとっていざと云う時に住職が寺に居ないのでは様になりません。それで、住職は寺の管理人のようなものだと、私は思っております。これは性分なのですかね、この春にも、北陸大谷高校の空手部の生徒が東京武道館で全日本選手権大会に出場するというので、居ても立ってもおれず深夜に車で応援に出掛け、その日の晩遅くに帰って来るといった始末です。どうしても、私は何日も寺を空けることができないのです。寺での24時間は、仕事とも云えるし、また生活そのものとも云えます。

ところで、私が寺にいて一番心配なことは火事です。この20年間に近所で火事騒ぎが再三あって、その度に火事の恐ろしさを経験しました。その中で、私が最も肝をつぶしたものに、平成248日午前1時過ぎに、寺に隣接する民家4軒が焼失する火事がありました。出火時、寺の隣の病院から聞こえる火災報知機のけたたましい音に目が覚め、障子の外が異状に明るいことに気が付き、障子を開けて外を見ると、その病院の隣の家から火の手が上がっているではないですか。強い南風(後の報道では風速20mだったそうですが)に煽られて、赤い火の粉が暗い空に、それも本堂の屋根の上まで届く程に高く舞って、寺全体に降り注いでいるのです。

私は直ぐに外に飛び出し、女房は私の両親の居る寝室に走りました。しかし、その時には、まだ消防車のサイレンの音が聞こえていませんでしたので、境内に車が入れるようにと、先ず、寺の裏門の扉を開けようと南京錠に鍵を挿そうとするのですが、慌てていて中々入らないのです。でも、何とか開けて、その後出火した家の一番近くの寺の消火栓ボックスから口径20ミリのホースを引っ張り出し、筒先が跳ね回らないよう、ツツジの木に挟み、起動ボタンを押し放水を始めました。私はその時の異様な明るさを今でも忘れられません。

まるで火の粉がぼた雪のように降り注いで、丸でライトを浴びているような明るさでした。放水しながら「もう駄目だ。寺が焼ける。これじゃ、きっと焼けて仕舞う。わしの代でこの寺が無くなる。ああ、早く、助けてくれ!」と、私は心中叫んでいました。その時でした。幾筋もの放水が見えたのは。それを見て「あっ、助かった!」と、思ったと同時に、一瞬にして回り一面が霧のように真っ白になりました。今、思い出しても、何台も来たであろう消防車のサイレンの音さえ記憶に全くない位ですから、余程動転していたのでしょう。

でも、もしこの日の晩に私が寺に居なかったなら、と思うとゾッとしてしまいます。

住職の口癖  説教ができても、自分の言葉で話す人は、案外と少ない。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル76号―7/25

仏前結婚式の憂い

先月22日に、寺で仏前結婚式が行なわれました。この日に結婚式を寺で挙げたいと、申し込まれた新婦の父親は「チャペルは嫌だ。バージンロードを娘と腕を組み歩くなんて、まっぴらだ。日本人は仏式だ」という今時珍しいこだわりを持った人でした。でも、娘にとっては駄々をこねた、ただの我儘な父親でしかなかったようですが…。
ところが、流石にこの若い二人は言いたい放題のそんな親の意見にも逆らわず、とてもしっかりしていて、これが案外と「仏式の方が新鮮な感じがするかも」と言って、素直に聞き入れたそうです。

ところで、この20年間で私が結婚式の司婚を勤めたのは、これで14組目でしょうか。うちの寺でさえ年に一回も無いほどの割合ですから、今や一般には仏前結婚式は馴染みの薄いものになってしまいました。

今日、日本では結婚式と云えば神式の方が定着していますが、これも戦後、皇族や社家の者に限っていた神前結婚式を意図的に大衆化させたもののように思われます。そのことで、誰もが言うように、「結婚式は神社で、葬式は寺で」という誤った一般常識を多くの人に植え付けてしまいました。それで、中には結婚式を寺で挙げることは相応しくない、と執拗にこだわる人もいますし、更に甚だしいものには、寺は結婚式ができないものと思っている人さえいるのです。

私は以前大阪の難波別院に勤めていた頃、この別院では月に平均4組から5組の結婚式がありました。私にとってここでの経験が今大変役に立っていて、滅多に無い仏前結婚式の要望であるにしろ、その度に難なく応えていけます。

しかし、その反面私が心配していることがあります。それはこれほど仏前結婚式が少なくなると、将来その結婚式を引き受けられる寺がなくなるのではないかということなのです。

式次第があっても未経験ではできません。どのような小道具が必要なのか、式場をどのように作るのか、一人一人の立ち振る舞いはどうするのか等、未経験では想像もつきません。

何故なら、儀式の伝承は身で習わなければ、覚えられないからです。

住職の口癖  親切も度が過ぎれば、おせっかいだ。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル75号―7/15

ミニ公園秘話

 この頃よく本光寺に塀が取り払われたことについて、その理由やその経緯などを聞かれることがあるのですが、これにはちょっとした秘話があったのです。

ここで、平成11331日付の総代会(総代11名から成る決議機関)の議事録を読み返してみますと、その時議案に出した「塀の取り壊しについて」諮られているのですが、実はこの件については3年越しの懸案事項で、この時が最終審議の機会でした。ここには「反対意見が続出」と書かれてあり、一旦はこの議案が採決されるも1対10で否決されているのです。その会議では、加納實責任役員が議長を務めておられたのですが、その採決の結果が出た後、議長が「住職、何かおっしゃりたいことは?」と、私に意見を求めて下さいました。そこで最後に私が発言した内容がこの議事録に残っているのです。

「塀の取り壊しについて住職は『否決されたということは私が非常識ということなのでしょう。それは私も十分承知しているつもりだ。ただこれも本光寺開闢1000年目の節目に寺院の在り方を変えたいと思ったからだ。塀を取り壊すか、壊さないかの議論ではなく、新たな空間、即ちミニ公園をそこに造るために塀をなくしたい。もし、できることなら、出来上がってからでも、もう一度判断してもらえないだろうか。そこで復元が必要となれば、私の責任で復元させて頂く。快く皆さんが賛成できないことは知っている。笑いものになるかも知れないが理解してほしい』と述べた」と書かれてあります。

そこで、議長は唯一賛成した源総代にも意見を求めると、源総代は「私は四国巡りをしたが、半分以上の寺には塀がない。塀を無くすることは、小松市の景観では初めてのことで影響は大きく、新しい試みだ」と、応援して頂いた。その後、議長は「どうですか皆さん。住職は不評ならご自分の責任において塀を元通り復元するとまで言われているのですから、我々に反対する理由はないのではないでしょうか」と、再度諮り、結局皆は渋々同意したのでした。

しかし、工事が始まってからも現場で声高に非難する者や、電話でも「だら住職」と叱責罵倒されましたが、ミニ公園が完成近くなるにつれ評価も高まり、荒々しい声々も自然と治まっていきました。

これは、言うまでもなく、このミニ公園を設計した森秀一というデザイナーとの出会いがあったればこそ、私に粘りと勇気を持たせてくれたのでしょう。

住職の口癖  型を覚えて、型にとらわれない。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル74号―7/5

頭が拝まれていた

昨年の12月、山代温泉のあるご門徒宅へ報恩講勤め伺った時のこと。私が仏壇の前に座ると、そこですぐに私の目に入ってきた物が、平成11年に「本光寺ホコ天まつり」に使ったポスターの縮小版と云いますか、そのポスターをA4サイズに写したチラシが打敷のように正面に下がっているではないですか。それを見て、私は腰を抜かさないまでも、相当びっくりしました。まさか、このような所で私の頭が仏様のように拝まれているとは予期をもしておりませんでしたから。

このポスターの中央には私の後頭部の写真が使われていて、その頭には「千」という字を剃り込みした髪の毛できれいに描かれています。そもそもこのような大胆なポスターを作ろうとしたきっかけは、泉原君の「住職の頭を使ってみては」の一言からでした。この提案には誰もが賛同し、また本人()もその気になり、到頭やってみることになりました。でも、今思い出してもこの作業は大変なことでした。

先ず、近くのタチバナさんの店で、宮誠而さんが用意をしてきた型紙を私の頭に当てて白粉で型取りをしました。そして、少しずつ剃り落として出来上がるまで、何と1時間30分も掛かりました。私はこの頭で往来に出ることが恥ずかしくて、店から寺まで凡そ300m程を自転車で一目散に、それも帽子をかぶると毛が寝るというので、毛に触らぬよう帽子でかざして帰りました。それから撮影、そしてまた店まで同じように戻り、剃り込みを落としてもらい、やっと終了しました。

当時、このポスターが小松の所々に貼られてあって、「この頭は一体誰か」と話題になっていました。ところが、この婆さんはチラシの写真を見て、すぐに私の頭だと判ったそうです。私は仏壇の前に座りながら「婆ちゃん、あれからもう4年以上も経っているのに、ずっとこんなにして下げていたの?」と訊ねると、「そう、ご院さんだと判ったら、クチャクチャにできなくて、捨てられなくて、ずっとこのままながや」ですと。

ちなみに、これまで5回本光寺の夏まつり用のポスターを作っていますが、私がモデルになったものは、このポスターを含めて2回あります。これが何故か2回共後向きなのです。

住職の口癖  前例は作るもの。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル73号―6/25

ヘソクリは仏壇の中が最適

一般にどの家庭でも、仏壇の所謂?おもり役?は、主にその家の年寄りに任せられていて、普段のお内仏の給仕(朝夕のお参り)は年寄りの役目になっているようです。このように、家の若い人が仏壇に寄り付かないことをよいことに、<仏様はきっと守って下さる>と思って、自分の大切な物を仏壇に隠している人もいます。

いつだったか、私はある門徒宅で勤行前の準備中、黒塗りの和讃箱の蓋を開けたら中に現金が入っているではないですか。私は後ろに一人居た婆さんに「あれ、こんな所にお金が…」と言うと「あらっ、むせえ(あらっ、いやだ)、家のもん()には内緒ながいね。わても、今まで忘れとったがいね」と言いながら笑っています。「これ、婆ちゃんのヘソクリやね。うまい所に隠したもんやね。ここじゃ、子たちにも、ちょっと分からんかも知れんね」と、私は婆さんの知恵に感心しておりました。

ところで、本光寺には「おみたきさん」というこの寺独自の法要があります。これは位牌や古い絵像、打敷、経本等の処置法要なのです。これは一体どんな法要かというと、仏壇の中には我々の目から見て不必要な物が随分と入れられています。例えば旅行の土産に持ち帰って来たような置物の人形、葬儀に使った白木の位牌、故人のスナップ写真などです。その他、甚だしいものに釈迦の涅槃像を写した写真を堂々と奥に立て掛けた厚かましい宿借り本尊や、故人の死に顔を写真に撮った生々しい写真を置いたりと、私はこれらの物を見付ける度に、気が重くなってしまいます。

たとえ排除を促がしても、一旦入れて仕舞ったこれらの物を出すには、実はとても勇気がいることなのです。「もしも、このことで悪い事が起るのでは」と、恐怖心にかられていて容易に仏壇から出すことに中々同意をしてくれません。喩えば、ここに半紙や木片などに墨で「南無阿弥陀仏」書いた物があるとすると、誰もが容易に屑篭に捨てられないというのと同じで、これは人間の共通した心の弱さを示していて、これが邪教に心が向く温床になっています。

そこで考えついたものが「おみたきさん」という法要だったのです。これを年に一度の本光寺の重要な仏事として多くの人たちに知ってもらうために、平成6年から大衆的な夏まつりを催し、その時に執り行なうことにしました。そして、この法要を恒例化させて、門徒の仏壇の中からこれら不必要な物を一掃させることが、この法要の狙いなのですが…。

 今年のおみたき法要は727日(日)です。

住職の口癖  自分がダラだと気付くと、人がよく見えるね。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル72号―6/15

ホトケほっとけさん

今回でこのだらメルを始めて丸2年になりました。毎回私は原稿を書き上げる度に「もうこれで止めよう、最終回にしよう」と心に決めるのですが、何故か深夜になるとノコノコと布団から起き出して何やら書いてしまうのです。いつもそこへ女房がトイレに起きてきて、こうこうと明かりのついた私の居る部屋に入るや否や、眩しそうに眉をひそめて「また、無駄な電気を使って勿体無い!」とパジャマの上から腹を手でかきながら小言を一言。

私はこの冷たい言葉にじっと耐えながら72回、よく書いたものです。何が楽しいのか、実は自分でもよく分からず、止める勇気が持てないままダラダラと続けてきました。兎にも角にも、今までお付き合い下さった読者の皆さまに一先ずお礼を申し上げておきます。

さて、一般に、いや門徒の人たちにも、寺が早朝一番せわしいことを知る人は少ないようです。寺は年中無休で、特に朝の掃除と朝の参りは、食事と同様欠かすことがありません。

以前、私が旭川別院にいた頃、本谷義雄という輪番は皆に朝5時半出勤を強制していました。当時この別院に勤めていた12人の僧侶には、たとい公休日であっても朝の参りと掃除に出なければならず、そのことに中堅僧侶4人が反発して輪番に直訴したところ、この本谷輪番曰く「君たちも自坊に帰って住職になれば、一日とて休みはない筈だ。朝の参りと掃除は労働ではなく、この行為は真宗僧侶・門徒の当然な信仰の顕れだ。甘えるな!」と一喝され、ついに完全休日の要望は認められず、遂には4人揃ってクビになってしまいました。

また、いつか講師に来て下った和田稠師が「私も全国の寺々に寄せてもらうが、晨朝(朝の参り)を勤めている寺が極めて少ない。それは寺に本堂が必要でなくなったようなものだ」と嘆いておられましたが、これには私も全く同感です。例えば、公務員や学校教師などの所謂兼職住職は、朝は時間の余裕もなく、ともすると何日も本堂に入らずじまいの住職もいることでしょう。

昭和56年、本山の報恩講に私は大阪難波別院から内番加勢に派遣された折、早朝、御影堂の須弥壇上を一人で掃除をしていると、上司に「止めろ、そこはお前がする所じゃない」と、ひどく叱られことがありました。でも、そこは誰もがこの親鸞聖人の御影に向って手を合わせる一番大切な所なのに、そこが広い御堂の中で長年の埃がかさぶたになる程に一番汚かったのです。?ホトケほっとけさん?とは、門徒に対して言う言葉ではありませんでした。

住職の口癖  寺に生まれて、すんなり住職になった人は、線が細いな。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル71号―6/5

大切な一枚の写真

今年の1月末の或る日、女房が25年前の懐かしい一枚の写真を見つけ出しました。私はその写真を見た時、
「あぁ、そうだったな」と、一瞬にして
25年前のこの日の事の記憶が蘇りました。その写真には、真ん中に真言宗の袈裟を掛けた中年の住職が座っていて、両脇には一張羅の背広を着た私と、着物姿の女房が写っています。場所は寺の本堂内のお内陣を背景に撮られています。

実は、何故にこのような写真があるのかというと、少々訳があるのです。当時、私は旭川別院という寺に勤めて丸1年が経ち、結婚して9ヶ月、最初の子が授かって丁度5ヶ月目といった頃でした。

女房が「安定期に入ったので、戌の日を選んで、腹帯を持って、何処かの寺で安産を願い、お参りがしたい」と、言い出したのです。しかし、私は直ぐに同意をしたものの、真宗の別院や寺では私たちの素性や結婚について、根掘り葉掘り聞かれることが嫌でしたから、結局他宗の寺にお願いすることにしました。

そして9月の戌の日の晩、半ば飛び入りのようにして市内の或る寺を訪ねました。すると夜分にもかかわらず、その寺のご住職が私たちを暖かく迎え入れて下さったのです。恐らくその寺に滞在したのは僅かの時間だっただろうと思いますが、終始親切にして頂いたことを今でも忘れられません。

私はこの一枚の写真に出合って、急に25年前のこの時のことが懐かしく思い出され、無性にあの寺の名前が知りたい、そして、一言ご住職にお礼が言いたい、という思いが募りだしました。

そこで、私の知人で小松の真言宗那谷寺の木崎馨山住職にその思いを打ち明けましたところ、その数日後には、この写真を手掛かりに寺を探し出して下さったのです。嬉しかったです。

その寺は金毘羅教会と云い、早速、私はそこにお電話をして確かめたところ、ご住職は十数年前に脳溢血で倒れられ、その三日後に亡くなったこと、写真を撮って下さったのは当時大学生だった娘さんで、その時のことをよく覚えておられていたこと、などを知りました。

残念ながら、ご住職には直にお礼は言えませんでしたが、私の52年の人生の中でたった1時間程の短い思い出を、今になって突如として出てきた一枚のこの写真のお陰で、私たち夫婦のこれまでの道のりの大切な一齣を呼び起こしてくれました。

住職の口癖  怠け心に、癖がつく。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル70号―5/25

教師よ、大志を抱け

石川県の高校進学率は、ここ数年96%前後で全国の中でも1位乃至2位の高い水準になっています。これを私の高校入学当時、即ち昭和41年頃と比べてみると、進学率が60%位でしたから、今や高校は義務教育化していて、このことが基礎学力のない者までが高校に進むために、その弊害として総体的な学力低下が問題視されています。

つまり、それは授業についていけず不登校になったり、ともすると、学級崩壊などの要因にもなっているようです。

今日、県内には高校は公立が47校1分校、私立が8校あり、近年少子化がどんどん加速して、10年後には中卒者が1300人減少するとみられ、近い将来学校の統廃合は避けられない事態になっています。

このような事態を踏まえ、県教委では公立高校に総合学科を開設して個々の学校に特色を促がしたり、また、推薦枠を広げ、或は新設するなどして、推薦入試を奨励し、さらに複数のモデル校を使い、中高一貫教育に向けての新しい取り組みをするなどして準備を進めています。

こうした中、各私立高校もその流れに遅れをとらじと、あれやこれやと夫々に工夫を凝らし、生き残りを掛けて生徒獲得に躍起になっています。少子化現象により公立高校の入試が極端に広き門になったことで、私立高校は以前のような公立の滑り止めといった対象では最早なくなった嫌いがあります。

そこで、このような厳しい状況の中で、私立高校が生き残るための大切な条件とは何か、と考えた場合、それは教師一人一人の魅力にかかっています。要するに「あの先生がいる学校に行きたい」と、中学生を引き付けるような魅力的な教師が学校の中にどれ程いるかにかかっています。

それは、結局学校の特色を教師が自ら作り出していくことにもつながるのです。唯でさえ私学では経済的な負担が強いられる訳ですから、それに見合う程の魅力ある教師が私立高校にいなくては、いつも公立高校より不利な立場に置かれていることになります。

公立には人は学校の名に付き、私立には人は学校の人に付く、これが公私についての私の見解です。私立高校では、教師は個々の個性をフルに活かして、思う存分実力を発揮する場でありたいものです。

住職の口癖  与えられた仕事しか出来ない、あぁ、もどかしい。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル69号―5/15

葬式こぼれ話

葬式は厳粛な場です。そこでは、笑い声や大きな声で話をすることすら、慎まなければなりません。中に笑顔の人が一人いてもその場には馴染みません。ところが、この大勢の人が一斉に緊張している時に、誰かの突拍子も無い言動でその緊張の糸が切れて、一瞬にして堰を切ったように笑い出して仕舞うという場面があります。

このような場面では誰かが吹き出すと、それこそ我慢をしようとすればするほど、どれだけ抑えようとしても、もう体は言うことを聞いてはくれません。思い切り笑い声が出せないことで、おなかが痛くなり、涙が出て、その場から逃げ出したくなるほど、とても辛い気分になります。

実は、私にはそのようなことで苦い思い出があります。それは昭和59年4月の下旬、小松の、と或る葬式での出来事。この日は47歳で亡くなったお父さんのお葬式で、式場には溢れんばかりの会葬者で一杯でした。式が始まる前から、重苦しい雰囲気が漂っていました。

遺族席には奥さんが深い悲しみに放心状態で、そこにいた誰もが気安く声を掛けるのも、はばかれるほどの気の毒な姿で祭壇の直ぐ脇に小さく座っておられました。皆はその気持を察してか物音も立てず式場全体がシーンと静まり返っていました。

開式の定刻になり、私共僧侶三人が式場に入り、先ず、出棺勤行が始まりました。すると、遺族席の方から何人もの人たちのすすり泣く声が聞こえてきます。その勤行も終わって、次に葬儀式に移り、私は式場の中央に曲録(きょくろく)と云って導師が座る朱塗りの椅子が置かれている前に立ち、静かにその曲録に腰を掛けようと体を落としたその瞬間、何とその曲録がばらばらに壊れ、ドスーンと雷のように落ちて、私が気が付いた時は大胆にも仰向けに大の字になっておりました。

ところが、その時、全ての人が息を呑み、目線が私に集中するや否や、突然、子供の声で「ハハハ・・」と甲高い声が静寂の中に響くと、到る処で「クックックッ・・」「フフフ・・」などと笑い声が聞こえてきます。皆の肩が上下に動いています。けしからんことに、二人の伴僧までが下を向いて笑ってやがる。私は何ともばつが悪くて、その後の所作に惑い、はにかむばかりでした。

儀式というのは、紙一重で喜劇になって仕舞うんですよ。

住職の口癖  呑んだ明くる朝は、遅刻はするな。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル68号―5/5

門徒意識が変わる

昭和58年4月28日、私は本山御影堂にて本光寺の住職の任命を受けて以来、先月28日で丸20年が経ちました。その時、私は32歳でしたが、それまでの経緯を思い返してみると、何か感慨深いものがあるのです。というのは、私は26歳頃から訳あって本光寺の寺籍簿から一方的に削除され、一時、別の候補者が確定していたことがありました。

ところが、そのことに一部の門徒の方々が猛反発したことで寺が二分してしまいました。結局、当時の責任役員だった石野伊之作という方が中心になって、この事態を収拾されて、私が復籍できたという経緯がありました。

ところで、この私が住職になった一年目に、びっくりさせられた事が三度ありました。先ず、寺に初めて来たという年配の人から、「この寺は何宗か」と訊ねられたこと。次に、小松市内に住むこれも年配の人から「小松には沢山の寺があって、今まで本光寺が何処にあるのか知らなかった」と言われたこと。更に、これまた年配の人から「本光寺の年寄りご院さんの顔を今まで一度も見たことが無い」と言われたこと。

私はその度ごとに唖然としたものでしたが、しかし、これらはその当時のごく一般的な門徒意識ではないかと考え直し、それからはこの門徒意識を変えることが私の重要な課題になりました。「よし、将来誰からもこのようなことを言わせまい」と私は心に誓いました。

そこで、それからの取り組みをここで幾つか挙げてみますと、正確な門徒名簿の作成、多目的な用途に可能な会館の建設、給料制の実施、本格的なギャラリーの新設、塀を取り壊した跡に小公園の造成、葬儀用祭壇・ミニ仏壇・医療用ベッド・遺体搬送車等の無料貸出し、寺内のバリアフリー化、地味ながらも伝道広報活動、そして、次世代の人たちから成る円満の会の結成等々、これまで多額の借金の返済を為しつつも行なってきました。「なに?このだらメルもその取り組みかって。うむ、それはどうかな?」

ここへ来て、漸く寺に背を向けていた門徒の人たちが、寺に目を向けてくれているような感触を私にも持てるようになりました。確かに、この20年の歳月で、門徒意識が随分と変わったように思います。さて、21年目からは‥‥。

住職の口癖  ?人一盛(ひとひとざか)り?と云うが、ワシもあとわずかの間だな。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル67号―4/25

おじいちゃんと呼ばれて

昨年の秋、大谷幼稚園の運動会に行った時、ここの幼稚園に通っている子供の父親と木陰で話をしていたら、そこに、父母会の役員らしき女性が駆け寄って来て、「これから、おじいちゃんの競技が始まりますから、どうぞ、参加して下さい」と言うのです。どうも、おじいちゃんとは私のことらしい。<まさか、私の外見はおじいちゃんに見られるような、風貌なのだろうか>と、それは正直いって受け難い言葉でした。自分では、私もまだまだ新たに子供の一人や二人は持てると思っていましたので、何とも寂しい気持でした。

私の身体は知らず知らずのうちに、今も着々と老化が進んでいるのでしょうね。老化と云えば、この頃めっきり物忘れが甚だしくなって、今思い付いたことが数秒後には忘れているのです。いつか、電話中にメモを取ったその紙を何処に置いたのかを忘れ、女房に「何処へやった!」と女房の所為にして、こんな些細なことで口喧嘩をする始末です。

ところで、先達て、今更ながら子供の記憶力の優れていることに驚かされたことがありました。それは室山さんという家にお参りに行った時のこと。玄関に入ると、子供が元気な声ではしゃいでいる様子。この家には保育園に通っている女の子が三人いて、私が座敷に居ても駆け回ったり、転げまわったりしてはしゃいでいます。おばあちゃんが「ほれ、ほれ、静かになさい」と言っても収まりません。それでも、私はこの騒がしい中、勤め始めることにしました。「帰命無量寿如来」と称えると、なんと、この子供たちが大きな声を上げて「ナムプカチギコ…」と私に合わせてついてくるではありませんか。それも座ってではなく、相変わらず走り回りながら、然も、本も見ている気配もありません。到頭、この正信偈の1句7字、120句を最後まで、丸で歌を歌うように称えるのです。私はびっくりしました。

勤めが終わって「皆、すごいね。誰に教わったの?」と聞くと、三人が口を揃えて「おばあちゃん!」と答えました。これを脇で聞いていたおばあちゃんが得意気に「私は毎日この子たちと一緒に正信偈さまを上げとるもんやから、いつの間にか覚えてしまって」と嬉しそうです。

私は物忘れが甚だしくなり、頭の中が鮮明で無くなってみて、私も子供の頃はあの子たちと同様の脳みそが備わって活発に働いていたであろうと思うと、その恩恵の不思議さを痛感します。

住職の口癖  声明のことを、どんなに講釈できても、声が出なきゃ話にならん。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル66号―4/15

踊り出した報恩講

♪丸い頭のごぼさんが 夢を語り合う 円満音頭 円満満月 月夜の晩に 

 踊れ 踊れ踊れや 小松本光寺

これは本光寺のオリジナル曲「円満音頭」の1題目の歌詞です。昨年暮れに、漸く目標にしていた108題の歌詞が完成しました。この108題には元唄10番をはじめに、門徒から募集した作詩版、小松弁版、数え唄版、小松名所の紹介版、阿弥陀経版、正信偈版等々盛り沢山な内容になっています。

そもそもこの音頭ができた切っ掛けは、平成12年に寺で行われた夏まつりに、お馴染みの炭鉱節や花笠音頭や越中小原節などを境内に流して輪踊りをしたのですが、私はこれでは何処にでもある夏まつりと変わらないことなので不満でした。

そこで、写真家の宮誠而さんにこのことを酒の席で洩らしたところ、数日経って宮さんからテープが送られてきて、「聴いてみろ」と言うのです。早速聴いてみると、どうも風呂場のような所で録音されたような音響になっていて、宮さん本人の肉声ですが、ほろ酔い気分で歌っているように聞こえるのです。それはお世辞にも上手いなと、うならせるような声ではないのですが、中々曲も親しみ易く、詩も良いのです。それが好評だと知ると、それからというもの宮さんは馬車馬の如く、次から次と準備に取り掛かり出しました。

まず、詩を創り、曲はプロの方に伴奏用の譜面を作ってもらい、序にその人を伴奏者にさせてしまい、歌い手が必要だといって?ひよこ会?なるものを結成させて、何度か練習会を開いてメンバーを揃え、遂にCDの録音までしてしまったのです。このCDを門徒に広く紹介しようと、全門徒に無料で頒布をしました。

そういう流れの中で、次に「円満音頭」の踊りの創作でした。幸い宮さんと同じように円満の会員の中山誠(インテリア業)さんが踊りの先生だということで、中山さんが踊りの振り付けを担当して下さり、誰でも踊れる易しい振り付けが見事完成したのでした。

1年後の夏まつりには、この「円満音頭」が初にお披露目されて、多くの愛好者を生み出しました。この広まりが、何と今年1月の長谷町という町全体の報恩講に、勤めと法話が終わった後、懇親会の席上数人の人がこの「円満音頭」を歌い出したことで、それにつられて別の人たちが歌に合わせて踊り出したのです。「えっ、私ですか?勿論、踊りましたよ!」 

住職の口癖  朝の梵鐘の音も、たまに打てば周辺の家に住む人には騒音だ。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル65号―4/5

一杯の小豆粥

明日から、また朝市が始まります。

この朝市は、昨年から毎月第一日曜日の朝6時から凡そ1時間程、寺の境内を開放して開かれました。名付けて“円満市”と云います。

昨年は7月から始めて、計4回開催し、当初16店舗から始まった店も回を重ねる毎に増え、4ヶ月経って倍以上の38店舗までになりました。早朝にも拘わらず約1000人もの買い物客が寺に押し寄せて、各店から聞こえる客寄せの「安いよ!早い者勝ちだよ!」という掛け声が境内一杯に響く中、開始10数分で完売する店を始め、殆んどの店が完売するなど大変な盛況ぶりでした。

こうした中、私は意外なことに気付きました。それは私の女房の提案で、この朝市で中宮温泉の湯を使い、小豆粥を300杯振舞ったところ、なんとこれが人気があって長蛇の列ができて、皆おとなしくその列に付き順番を待っているではないですか。

浮浪者の人たちが、食べ物の配給の折に順番待ちで並んでいるのなら兎も角、今日の飽食の時代に、たった一杯のお粥を食べるために、朝の早くから行儀よく列を次いて並んでいる人たちを見て、私の目には意外な、また不思議な光景に写りました。

お粥に使った米でも、寺では普段から古米か古々米などしか無く、小豆にしても左程珍しい物でない筈です。それなのに、この小豆粥は朝市の度毎に振舞いましたが、230分程度ですべて無くなって仕舞うのでした。

これは、空き腹にまずい物なし、ということなのか、それとも、寺という特殊の場所だからなのか、私には分かりませんが、少なくとも普通の食堂で粥を出しても人はわざわざ早朝からその度に出かけて来て、店の前に列が出来ることはないことでしょう。

それから、この円満市には津軽三味線演奏もあって、地元奏者の泉原幸治さんが「皆が物を売るのなら、私は音を売りたい」と、小学生のお弟子二人を連れて参加して下さいました。

これも、ユニークな発想で、この円満市には誠に相応しく、寺に訪れた人たちの耳を楽しましてくれました。立派なプロ奏者の方なのに、このようなことを思い付く泉原さんも、円満粥を思い付いた女房のようにダラな方のように思います。

住職の口癖  宗教団体が人を勧誘したり、訪問販売をし出すと、怪しいな。

朝市の様子はこちらで見る事が出来ます。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル64号―3/25

いやはや、友引信仰

私は年間に30回近く、枕勤めに門徒宅に出向きます。それらの殆んどが夜10時頃から朝6時頃まで間なのです。当然夜中に電話のベルで起こされる訳ですから、就寝中には枕元に電話を置き、直ぐ取れるようにしています。こうした夜間の電話は案外と多くて、今までにもその時間帯に一晩で3人ものご不幸の連絡を受けたことがあり、その対応に一睡もできず翌朝を迎えたことがあったくらいです。

夜中のことですから、恐縮がって話す人、不幸の直後ということで、興奮の余り高飛車で話す人、と様々ですが、依頼を受ければ何はともあれ、枕勤めや遺体搬送に出向き、その場で葬儀までの日取りを決めてくるのです。

そこで、その日取りの際にいつも問題になることが、カレンダーに小さく書かれてある‘友引’という厄介な言葉なのです。真宗門徒は「門徒は物知らず(物忌むこと知らず)」といって、このような良時吉日には案外と無頓着なものですが、仮に亡くなった人がそうであったとしても、家族や親族の誰かがそれを気にすれば、この‘友引’という言葉が大問題になってしまうのです。

この‘友引’は、六輝の中の一種で、勝負占いに中国で使われ、元々この言葉は‘共引’(共に引分け)だったということを、ある講師から聞いたことがありますが、その真偽の程はさておき、私はこの話が出てくる度に、大の大人が口を揃えて「不吉なことだ」とこだわり、怯えている人たちの姿につくづく人間の弱さを感じてしまいます。

いつかテレビで東京都では友引の日には斎場が休みだと聞いて驚きました。これは都会だけのことかと思ったら、今年の1月に私の叔母の葬儀に富山県朝日町へ行った時のこと。その日はこの小さな町営斎場で8人火葬されました。これも前日の友引の影響でこの日に集中したということでしたが、矢張りこの町も友引の日は斎場が休みだったのです。

小松市でも以前友引の日に斎場が休みだったことがあって、そのことに抗議をするために、当時日野賢憬師(西照寺)を始め有志の僧侶・門徒たちが市役所まで行進し、それを改めさせたそうです。以来、今日では小松市営斎場は年間に元旦と旧盆の15日の2日のみ休みになっています。小松の人たちは、まだまだ‘友引’という魔物に取り付かれている人は多いのですが、それでも、何とか陰で行政が真宗の基盤を維持してくれているようです。

住職の口癖  人から傷つかされないと、分からないことがある。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル63号―3/15

父の死

今年は私の父の13回忌に当たります。7月26日に法事を勤める予定です。父は平成3年1月27日朝方6時頃に、小雪が降りしきる中、自宅で静かに亡くなりました。享年83才でした。

その前日の午後、同級生だった友人の医者に診てもらったら、「多田君、どうする?」と聞くものですから、私は「何が?」と聞き返すと、「入院させるかい?」と言うので「いや、病気でないんだから、最後は家でと思っている」と応えると、「そう、最近はそういうの珍しいんだよね。分かったよ。じゃ、親戚の人を呼んだ方がいい。たぶん今晩中か、遅くても明日の朝までもつかどうかだから」

この時、父は苦しそうに黄色い胆汁を口から吐き散らし、血圧も極端に低く、体は骨と皮だけになり、誰が見ても人間の終末を迎えた姿でした。その日、家には知らせを聞いた親戚の者が続々と訪れて来て、口々に「見ちゃおれないわ、早く入院させなきゃ」と催促するものですから、私は「入院はさせません。私たち家族で決めたことですから」と、言い切っておりました。

その日の晩になって、私は当時小学生だった二人の娘に「おじいちゃんと、最後のお別れをしてこよう」と連れて父の部屋に入りました。すると、恰もローソクの火が燃え尽きる寸前に、一際明るく光を放つように、子供を見た途端、なんと、父は正気の表情に返っているではないですか。驚きました。

娘たちは恐る恐る父に近づき、父が差し出した手を握り握手をしておりました。後に、その時の事を上の娘が作文に書いていまして、そこには「おじいちゃんに会って怖かったけれど、もっとあの時、おじいちゃんに優しくしてあげればよかった」と、感想が書かれてありました。

私も初めて人の死ぬ直前の姿をまの当たりにして、胸がつまる思いでした。ただ心の中で《これでよかったんだ、これでいいんだ》と、延命処置をとらなかったことを悔やまないよう自分に言い聞かせておりました。

誰もが、このような時はその場から逃げ出したくなるものです。その場合、兎角、病院や老人ホーム等に任せたくなりますが、それでは何か、後悔と空しさだけが残って仕舞いそうです。

住職の口癖  変化は創り出すもの。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル62号―3/5

ノータリンでいっしょ

ある門徒の家にお参りに行った時のこと。玄関で呼び鈴を押して待っていると、上品な感じの奥さんが出て来られて、私を見るなり「あら!ご院さんや。どうしましょう」と、私が来たことが意外だったらしく、何だか困惑気味な様子です。「お久し振りです。どうしました?」と尋ねると、「ご院さんに、うちのような家にまで来て頂いて、気張る(恐縮する)わ。うちは所帯出(分家)なので、仏壇が小さくて恥ずかしい」と、おっしゃる。

小松では幅が一間近い仏壇はざらに有って、どうも、この奥さんはこの家の母屋(本家)に当る家がそのような大きな仏壇なので、それと比較して気兼ねをしているようなのです。私が座敷でお茶を頂いていると、旦那さんが来られ、また奥さんが「あなた、ご院さんに恥ずかしいわ」と、相変わらずこだわっています。

そこで、私は「奥さん、仏壇の大きさは、人間の体の大きさといっしょなんですよ。私はこんなに大きな体をしていますけど、頭はノータリンです。奥さんは私に比べて小さいですけど、とても知的な感じがしますよね」と言うと、奥さんがすかさず「いいえ、ご院さんがノータリンなら私などは、もっとノータリンですわ」「ほらね、私も奥さんもいっしょじゃないですか。仏壇もこれと同じで、大切なことは大きさじゃなんですよ」と、私は冗談を言おうと思って、思わず訳の分からない変な譬えを持ち出してしまったのですが、側に居た旦那さんが意外にも「成程」と納得したような顔で頷いているじゃないですか。仏壇は人間の見栄のためにある訳じゃないのに、この奥さんのこだわりが残念です。

そもそも、仏壇の起源はと云うと、そんなに遠い昔のことではないように思います。親鸞聖人の時代には、恐らく今日のようなきらびやかな仏壇などは無く、座敷の床の間に「帰命尽十方無碍光如来」などと名号が書かれた軸を正面に釣るし、床の中央には香炉、両脇には燭台と花瓶といったの三具足を置いたものだったようです。今日でも、床の間に掛け軸を下げたり香炉や花器を飾るのも、その名残と思われます。

後に、寺の本堂を縮小したような箱物が考案され、その中に床の間にあった先に挙げた名号と三具足がそのまま引き上げられて、ここに仏壇の体裁が整ったのでないかと、私は考えています。

住職の口癖 

 街に人が集まっても寺は栄えないが、寺に人が集まると街が栄える

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル61号―2/25

オリジナル経本の効果

本光寺にはオリジナル経本があります。平成6年に「正信偈・阿弥陀経」のテープを発行し、翌年にそのテープに合わせてお経の練習ができるようにと経本を発行しました。この経本は縦20?×8?の縦型の折本で、この本には他に類のない幾つかの工夫がなされています。

先ず、構成は門徒が平生使うお勤めを最小限に載せました。そして、内容がよく理解できるようにと現代語訳を付け、漢字は全て新字に直しました。この経本は創刊以来、大変人気があり、この7年で1万1千部を発行し、当寺の出版物の中ではベストセラーになっています。

ところが、7年前、初版本とテープを本山にも届けたところ、当時の参務(国でいえば閣僚)の方から電話で「出過ぎたことをしてもらっては困る」との注意を受けました。そこで、私は「この経本とテープはうちの寺の全門徒に無料で頒布するものであって、目的はお勤めの普及にある。本山がこの手の本を中々作ってくれないから、やむを得ず作った。それより内容に間違いがあれば指摘してほしい」と、弁明をしました。この時、私は地方の一寺院がこれほど積極的に教化活動をしているのだから、文句をつけるより、礼の一言も言ってくれてもよいのではないかと思いました。

兎角、これまでの法要などでは僧侶の独壇場で終始し、門徒はただ黙って、静かに、僧侶の読経が終わるまで待つしかありませんでしたが、この経本とテープが普及したお陰で、多くの人たちがお勤めに参加できるようになりました。しかし、ここまで普及するまでには、我々僧侶の気苦労もありました。

それは、門徒には共通の変な癖があって、寺から新聞とか本などが配られると、例えば家の若い人がそれを受け取ると、「ほら、寺からやぞ」と言って年寄りの手に渡り、年寄りは中身をちっとも見ずに、有難がって仏壇にそのまま収めて仕舞うのです。もう、こうなると仏壇の中からは出てきません。折角作っても、こちらが期待する程は、見ても、読んでもくれないのです。そこで、我々はお参りに行く度に、仏壇にしまってあるのを、一々外に出して「今日はこの経本を使いますよ」と言って手渡すのです。

ただこれを根気よく、地道に繰り返えすのです。特に、その家に若い人がいたら直接手渡し、この経本のことを説明しておくと効果があります。これが大事なことなのです。すると大概、誰もがこの経本の価値を認めてくれて、必ずその人の必携本なるのです。

住職の口癖  みんな、ダラになろぉさ。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル60号―2/15

変なお寺

もう2年程前の春頃でしたか、夕刻、私は出かけようと表に出ると、丁度そこへ三人の青年がやって来て、「失礼ですが、ここのお寺の方ですか」と、声を掛けられました。彼らは共に金沢市内の大学生で、指導教授から本光寺の納骨堂の話を聞き、わざわざ見学に来たと云うのです。「これからお出かけですか。じゃ、せめて納骨堂の外観だけで結構ですから、見せて頂けませんか」と、丁寧な言葉遣いで言うものですから、私もこの時は別に急いだ用事でもなかったので、彼らを案内することにしました。

すると、その内の一人が「住職さん、小松駅からここへ来る途中、人にこの寺を尋ねたらですね、『あぁ、あの変なお寺ね。この通りを……』と、教えてもらったんです。小松では?変なお寺?で通用するんですね」と、笑いながら話をしてくれました。私も一緒に笑って仕舞いましたが、この話を聞いて小馬鹿にされているな、というより、何故か小気味がよかったことを思い出します。ということは、矢張り私も少し変なのですかね。

この寺がいつ頃から?変なお寺?という印象を世間に与えてしまったのだろうか。私には、そもそも境内の塀を取り払った時から始まったように思えます。もう、あれから4年も経ってみて、寺には塀が無くてもよかったんだ、と思うと同時に、真宗の寺には塀は似合わない、返って余分な物だったと確信を持つことができました。塀が無くなってみて、随分と見通しのよい寺になったので、人からよく「入り易い寺になりましたね」と言われます。私は塀が無いことが、これ程気持が晴れ晴れと、すっきりするものだとは思っていませんでした。

また、本光寺を人が?変なお寺?と称するのには、従来の寺のイメージとは違い、変わったことをしている寺という見方もあるのではないでしょうか。例えば、毎年夏まつりがあり、そして、これまで寺の前の県道をホコ天にしたり、本堂を布で被う大掛かりなイベントや本光寺オリジナル曲『円満音頭』の創作、そして、ユニークなHP「スカッと念仏」の開設など、数え上げれば切りの無いほどの行事・活動を行いました。

そうそう、変わったことと云えば、昨年7月から始めた?円満朝市?も予想を上回る多くの人出でした。この朝市には30数店舗の様々な店が境内各所に陣取り、約1時間の間に殆んどの店の品が完売になるという盛況ぶりで、本光寺が塀の無い開かれた寺として小松の人たちに身近な存在になりつつあるようです。

住職の口癖  

良い仕事の結果は部下の手柄、悪い結果は上司の責任。(これが中々できない)

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル59号―2/5

帰敬式は所を嫌わず

真宗では帰敬式と云って、真宗門徒となる門出に受ける儀式があります。この帰敬式は我々真宗門徒にとって報恩講と同様大切な重い仏事です。今日では全国の何処でも何時でも受式できるようになりましたが、つい7年程前までは、本山の占有特許のようなイメージを持たれていましたので、本山の門首、或はそれに準ずる立場の人しか執行できないという偏狭なものでした。私はこのことに反発して、定期的に毎月28(親鸞聖人の御命日)にこの帰敬式を行っておりましたが、全国でも同様のケースが見られるという事で本山でも問題視され、やむを得ず条例を改正して、一般寺院の住職でもその寺の門徒に限り帰敬式の執行が公認されるようになりました。

お陰で、それ以来、門徒の様々な要望にも対応できるようになりました。例えば、今までに、門徒の自宅はもとより、病院でも行っています。

ここで、丁度2年前に、越田さんという方の自宅でそこのご夫婦が帰敬式を受けられたのですが、この時のことを紹介しましょう。この家のご主人は、20年前に脳出血で倒れられて以来、ずっと寝たきりでした。このご夫婦はかねてから機会があれば、帰敬式を受けたいと思いつつも、容易に本光寺まで行けないものですから、歯がゆい思いをなさっておられたそうです。そこで、町内の人に相談したところ、家に来て貰えることを知り、早速寺に申し出られました。

そして、念願叶い夫婦揃って受けられることになりました。当日、ご主人はベッドの上で仰向けに、奥さんはそのベッドの横に座り、二人は20分程の式の間、終始真剣な面持ちで、時には、余程胸が一杯になったのか、涙を流しておられました。

式が終わって、奥さんが「有難うございました。うちの人はこのような体ですが、私には大切な人なんです。本光寺さんで何度も帰敬式があることは知っていましたが、これまでその度に悔しい思いをしました。しかし、この人を家に置いて私一人だけが寺に行く訳にいかなかったんです」と、涙ながらにおっしゃって、私もその言葉を聞いていて胸がつまる思いでした。ご主人は不自由な体なりに、私に顔や手を上下左右に動かして体全体で表現され、言葉はただ「オー、オー」としか聞こえない言葉でしたが、私には十分に喜んでおられるように見て取れました。

しかし、帰敬式は大切なものなのに、まだまだ門徒の人たちには馴染みが薄いことが残念です。

住職の口癖  自分の足らんところは、人と引き算をすれば、すぐ分かる。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル58号―1/25

年に一度の家庭訪問

本光寺では毎年9月から年末にかけて、報恩講を門徒宅に出向き勤める慣わしがあります。この報恩講勤めは真宗独自の大切な仏事ですが、これは言わば、年に一度の家庭訪問のようなものだとも云えます。ここでは「正信偈」や「和讃」で構成された勤行を、我々僧侶と門徒が共に唱和をして勤めます。それは誠に睦ましい光景です。勤めが終わると、暫く四方山話やお内仏のお飾りのことや真宗の教えの一端などをお話して互いの親交を深めます。

所で、私が自坊に戻った頃は、当然のことながら門徒の人たちは私を知らないので、直に会って居てもよく不審がられたものです。ある家に行った時のこと、「ご免下さい、本光寺から参りました」「は〜い」と元気よく玄関に出て来た婆さんが私の顔を見て不審そうに「あら、村上さんじゃないんけ」と言って、慌てた様子で奥に引っ込んでしまいました。この村上さんはこの家担当の役僧だったのです。

奥からかすかに会話の声が聞こえてきました。「爺ちゃん、知らんごぼさん(坊主)が来とるわ。あんた、出てま。まぁ、でっけ(大きい)ごぼさんやわ」と化け物扱いです。ちなみに私は身長が180?あり、村上さんは150?ありませんでした。出て来た爺さん「あっ、ほんに…。どうぞ、入って」と案内されて、仏間に通されました。すると、爺さんが「村上さんは、どうしたがや」「私、代わりに来ました」と言うと「あんた、息子さんか」「いえ、村上さんにはいつもお世話になっています、多田と云います」「あぁ、そう。あんた、小松の人け」「はい」また、爺さんが「多田さんの住まいは何処け」「本折町です」それを聞いた婆さん、爺さんに小声で「多田っていう家、本折にあったけ」と言って互いに首を傾げています。恐らく二人の頭の中は「▽◎◇?!★☆*」という具合だったのでしょう。

そして、勤めも終わって、お別れのご挨拶をしたら、また爺さんが「あんた、ほんとに本光寺のごぼさんやろね」と念を押されてしまいました。なぜに、私は正体を明かさなかったかというと、当時は住職と役僧とは長年勤める家がきちっと区分けされてありました。それで、この家の人は私を役僧と思い込んでいたに違いありませんから、正体を明かすと、たぶん布施の中身を入れ替えたり、いたずらに緊張がらせるだろうから、私はそれをさせたくなかったのです。

今日では、私が行かない家がないくらいになり、私の顔も覚えられ、どの家でも私を温かく迎えて下さいます。私にとってこの報恩講勤めが大切な門徒との交流の場になっています。

住職の口癖 真宗の寺でしかできないことを、本光寺だからこそできることを、積極的に試みてみよう。  

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル57号―1/15

名を呼ぶことが大事

本光寺の組織には、現在173名の地区世話役がいて、小松市を始め、加賀市、能美郡、石川郡等の範囲に亙って在住する門徒のお取り持ちをしてもらっています。

主に、年2回の寺報紙やその他出版物の配布と年会費の徴収などをお願いしています。この世話役が広い地域に網の目のようにおられますので、くまなく各門徒への情報伝達の周知を図る上でも、これは合理的且つ機能的な組織であり、その上、このことが寺の多大な経費の節減にもなっています。この地区世話役の選出方法は、あくまで地区の人たちの互選によります。住職はこのことの結果について一切口を挟みません。ただ、選出された人を快く受け入れ任命するだけです。

ところで、女房の父親(90才)も以前小松市内のある寺の世話役をしておりました。寡黙で物静かなこの父は何事も几帳面な人で、寺のお世話も誰から指図されなくとも善かれと思うことは進んでしていたようです。いつか、この父が私と酒を交しつつ、こんな話をしてくれたことがありました。毎年手次の寺の報恩講の時期がくると、決まって始まる4日前から寺に行き、自分が予定を立てた通りの準備をするのだそうです。前の年に仕舞っておいた鍬や小豆汁用の茶碗や道具などを蔵から出し、庭や溝の掃除、犬の糞の始末、茶碗洗いという具合に日によってやる仕事が予め決めてあったそうです。

「眞さん、こんなこと言うては、いかんのかも知れんが、この4日間寺にいても寺の人は誰一人ワシに声掛けてくれんがや。別に声掛けてもらうためにしておるんやないんやけど、何か寂しいもんやね」と言うものですから、「?ご世話さま?とか?ご苦労さま?って言ってもらえんがかね」「そうなんや」と、ちょっと寂しそうです。私はこの話を聞いて、後日この寺の若い副住職にこの話をしておきました。

それから1年が経ち、その寺の報恩講が終わった時分に父が「眞さん、この前、若さんがわざわざワシの名前を呼んで下さって、『○さん、いつも有難うございます』と言われるがや、恥ずかしいやら、嬉しいやらで気張った(恐縮した)。今の若さんは年は若いけど、よぉ、気の付く、大したお方や」と、いたく感心して、上機嫌でした。

人には目立つ人と、目立たぬ人がありますが、寺でもお世話をしている人の中には目立たぬ所で黙々と仕事をしている人がいるもので、それを女房や幾人かの目を借りてでも決して見逃さないことが大事です。そして、そのことを知ったら、必ずその人の名前を呼んで、労うことを忘れてはなりません。

住職の口癖  言いつけられたことは、後で必ず報告すること。

―本光寺住職のメールマガジン・だらメル56号―1/5

後継者問題

新年、明けましてお目出度うございます。新年早々、堅い話で恐縮なのですが、私は寺の後継者の問題をどのように考えたらよいか、今、悩んでいます。

通常、これまで本光寺では世襲制が慣例になっていましたので、寺族の嫡男が住職を継ぐことになっていました。私の場合は、兄が先立っていましたので、幸いスペアだった私が父の後を継ぐことになりました。

ところが、私の子供は娘ばかりなので、息子がいません。本光寺規則には「住職は宗憲(いわば、我々の団体では、国の憲法に当たるもので、全国の同派の寺々の規則もこの宗憲に基づいて定められています)により、多田姓を名乗る男子たる教師(住職資格を持つ者)……」とあります。となれば、何れかの娘に婿養子を取る道しかないことになります。但し、この場合、婿は坊主でなければなりませんので、娘がこれを拒めば成り立ちません。

そこで、私はこの本光寺規則を一部変更してはと思っています。先の条文はそのままに残し、その後に次のような一項を付け加えたらどうかと思うのです。それは「もしくは、門徒の衆望に帰する教師資格を有する者を選定する」とすれば、後継者の枠が広がります。これは世襲制も大事にしつつ、尚且つ後継者の候補を広く、自由に選べることになります。

元来、寺は住職の私物ではないのですから、住職は寺に対して執拗に執着するものではなく、つまり、いたずらに多田姓を残すことに固執するのではなく、寺の将来のためにこの寺に最も相応しい人物を第一義に求めた方が良いのでないかと考えたりもします。

これまで、私は子供に対して、自分の目指した学校に入れればよいのに、と願い、次に自分の志望する職業に就ければよいが、と願ってきました。今は年頃の女の子だから最愛の伴侶と出会えることを願っています。親として娘の将来を寺の後継者問題の犠牲にはしたくはない、とこのようなことを門徒の人に話すと「それでは、寺はどうなるんだ。あんたは、無責任だ」と叱られます。

しかし、私の本音は娘が継いでくれれば一番よいのだがと願うも、その一方ではそれを押し付けては可哀想だとも思うのです。今の私の心境は複雑です。

住職の口癖  自分より優れた弟子を育てた人を、師という。