本光寺 108の 謎  
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第50の謎

「威厳が重過ぎた?大扉」

 本光寺会館正面入口に幅二・二五m 高さ三mのガラスのはまった格子戸が 入っていました。

 ある年の報恩講の日です。戸を開け るたびに、寒い風が舞い込み、閉める のが重くて年寄りの手に負えないと苦 労しました。

 そのうえ、入口のホールで受付係を していた人が、戸が開くたびに寒い風 が入って、とても耐えられないと悲鳴 をあげました。それ以来、報恩講の受 付場所は御影之間に変更されました。



それは、言開のアルミ製の大扉で、 会館の顔とも見られる威厳を持った扉 でした。

 平成五年の秋、この大扉の内側の二 枚がはずされました。男二人では手に おえない重さがありました。

 そして、取り替えたのが現在の扉で す。

 扉は、プッシュ式の由動ドアになっ ています。開閉の時にはドアに軽く触 れていただくとドアが開き、通り過ぎ ますと自然にドアが締まります。

 このドアは事務所が開いている時だ け使用できます。

第49の謎

「お寺が引っ越したら・・・」

 平成12年6月、本光寺は永念寺の 寺跡地を譲り受けました。 永念寺は小多宗純住職の寺で、亨保 14年尊蓮が開いた、真宗大谷派の寺 です。

 初めは妙光寺と云いましたが、安政 3年に永念寺に改め、本光寺の一部が 永念寺の敷地になっていました。

 小多住職が小松市沖町へ引越した後、 本光寺の敷地は返還されましたが、空 き地になっていた部分を本光寺が譲り 受けました。本光寺としては、当分の 間、駐車場用地として使うことにして います。

 本光寺の近くにあり、本光寺に属し ていた真宗大谷派の宗円寺は松任市へ 移りました。天和2年(1682)大文字町で創設、天保年間に火事にあって 天明3年(1783)本折町で再興し、 100年して松任小川へ引越しました。

 本光寺の近くにあって、余所へ引越 した寺は長円寺や竜昌庵があります。

長円寺は承応元年(1652)大領中か ら本折に移り、橋南の大火で上本折へ 移りました。

 竜昌庵は曹洞宗の寺で、明治22年 釈迦誕生を祝う官茶火の不始末で失火 し再建されたものの廃寺となりました。

第48の謎

「お経のカセットテープ無料配付」

 蓮如上人五〇〇回御遠忌お待ち受け 法要を前に、正信偈と仏説阿弥陀経の 録音をしたテープを作りました。

平成六年の春のことです。

 多田住職が正信偈の声明講習を開く と喜ばれることから、この際講習会場 に出掛けられない人用に練習用テープ を作ったものです。

 正信偈は多田住職一人の声。阿弥陀 経は住職と小多宗純師の二人の声が入 っていて全門徒に無料で配られました。

 このテープの配布から一年して、正 信偈と阿弥陀経の解説付屏風折本が発 行の運びになりました。

こちらでお経を聞く事が出来ます。

第47の謎

「きみょうの会」

 「きみょうの会」と名付けられた、 奇妙な名前の会がありました。

 お気付きになられたでしょうが、正 信偈に云う「帰命」でもありました。

 発会は、昭和63年。毎月第一又 は第二月曜日の夕方、小松駅前通りの 喫茶店「待合室」を貸切って会場にし ました。

 寺を離れて喫茶店で法話を聞こうと 云うのですから、名前もさることなが ら珍しい試みだとして、日刊新聞の話 題にもなりました。

 お世話役は本光寺の源智善総代。講 師は小松市今江町願勝寺の故今川透住 職が担当しました。
毎回30人位が集まり、講師の話の 後は、コーヒーを飲み討論の機会を持 ちました。 会員の数が増え、喫茶店形式を続け ながら、本光寺会館礼拝堂に会場を移 しました。
このため、本光寺には200組のコ ーヒー茶わんが用意されました。 全国には、このような喫茶法話をし ている所があり、相互訪問して交流を はかりました。

 きみょうの会は3年あまり続きまし たが、今川住職の逝去で途絶えました。

第46の謎

「おみたきさん」とは?


回答者 荒田慶一

 「おみたきさん」のアイディアが生まれたのは、ある日の住職との雑談の中からでした。
 葬式で使う白木の位牌は、あたかも霊魂が宿っているかのように扱われていますが、真宗では不要のはずです。

 位牌の起こりは中国で、儒教が個人に与えた序列や席次、等級、待遇を決めた位階を記した位版(いはん)と名付けた木の板が、鎌倉時代に禅宗によって「位牌」になって伝えられたと考えられています。

 もちろん、位牌は佛教発祥のインドにも無いのに、日本の葬式に飾るのか、よくわかりません。
 そこで考えたのが、位牌不用論でした。
 長年伝えられてきた伝統を、すぐ止めることには、葬式の白装束が今も続いているように、無理だろうから、位牌は葬式が終わったら、棺の上に乗せて焼くようすすめ、焼くのを忘れたら寺で日を決めて焼却しようと決めたのが、おみたきさんでした。

 漢字の表現として「焚込会=たきこみえ」と決めました。焚込は、煙りにして封じ込めること。それに法要の意味の会を付けました。おみたきさんの「お」と「み」は両方とも敬語で「御」です。

 平成六年以来、本光寺だけの仏事として位牌の他、片手に乗る程度の古い経本、名号軸等を処分しています。

 本光寺がこうした他事を営んでいるのは、因習の打破が目的で、遺体に晴れ着を着せるのは人情として結構かと思いますが、経帷子をわざわざ作り、頭巾、づだ袋、手甲、脚絆、足袋草履、六文銭は無用です。

 葬式で一膳飯、逆さ屏風、コップに水、遺体に刃物の類の俗習は何の意味もありません。
第45の謎

本光寺の財政事情は?収入20年で6倍に!

 
本光寺の経常会計の歳入歳出の20年間の金額は次の通りです。

 昭和55年 収入  19、073
        支出  15、189


 昭和60年 収入  46、968
        支出  34、972


 平成 1年 収入  94、948
        支出  85、832


 平成 9年 収入 151、251
        支出 113、488
 
 平成13年 収入 124、298
        支出 116、048
            (単位千円)

 本光寺のお布施は全額を事務所が寺の収入として扱い、住職以下僧侶、職員の完全月給制を実施していること。平成9年には門徒会費を1000円増額したこと。新門徒数が増え1年間に100軒も増えた年があったことの好条件から収入は年毎に大幅に伸びました。

 平成13年はデフレ傾向から収入が減少していますが、それでも率にして6倍になっています。
第44の謎

門徒総代 3人から11人に


 昭和60年に評議員の数を15人から66人に増やしました。これに伴って翌年、これまで3人だった総代を一挙に2人に増やすことにしました。

 これは、増員することで、総代の仕事を分かち合い、開かれた寺として御門徒とのつながりを深めようとの願いから人数を増やしたものです。

 このため、本光寺の寺院規則の手続きが、規則にしたがって進められ、本山宗務総長の承認。石川県知事の認証。法務局への登記の手続きを終え、新総代が地区別に候補者には堆薦人をたてて選出されました。

 本光寺の現在の組織は、代表役員が1名。責任役員が2名。総代一11名。監事三名。評議員68名。世話役84名。それに職員は総務部に2名。法務部に6名。教務に1名。墓苑管理1名。その他1名が勤めています。
第43の謎

円満踊りの先駆け?

                          
 昭和38年夏、本光寺で輪踊りが催されました。
 
門前の本折町が、町民の親睦と融和を図り、商店の振興に役立たせようと計画しました。

 町内会、婦人会、商店会、それに毎月11日に例会を開いていた本折町の壱々会のメンバーが中心になって、納涼輪踊り大会を開いたものです。

 翌々年の踊りの日には、近くの喫茶店を焼く火事があり、踊りは1週間の日延へをする騒ぎがありました。
 本光寺境内での納涼輪踊り大会は、10年間続きました。
        
平成2年7月24日、本光寺は河内音頭社中を迎え、境内で盆おどり大会を開きました。本光寺が受継いだ円満寺開基の兄、源頼信が今の大阪府、河内の国に住んでいた奇縁をたよりに、元門徒総代の崎田三朗さんのお骨折りで開催となりました。

 開備にあたっては、新聞折り込みを匿名で引受けて下さつた方があり、本建設の本好高さんが、ドラム缶と建築資財の型板を運んで鐘楼堂前に舞台を作り、日下仏壇店からは五〇個の明かり取りの提灯が寄付され、境内が踊り場になりました。

 当日は午後六時すぎから河内音頭の踊りの練習がありました。講師は初音家康博社中の皆さんで女性三人が「ひとつ、ふたつ・・・」と掛け声を掛けて手足の運びを指導しました。

 本番では、全おおさか民謡協会理事、『本民謡大康連合会会長で河内音頭保存伝承者の初音家康博さんが、ご当地安宅の勧進帳を河内音頭の歌詞に歌い込んでの熱演で、踊り手も聞き手の観客も一結に楽しみました。この場では木田貰松栄社中の小松音頭、おしょべ節、小原節、炭鉱節があって楽しみました。これが円満おどりに発展したのでは・・・。
第42の謎

お寺のおばさん.
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この19年間に、全国から駆け出し僧侶がこれまでに26人も本光寺に訪れ、そして、その内21人がこの寺を去って行きました。よく勤めてくれたな、と特に印象に残っている人は、2人位でしょうか。

女房は今日まで、毎日6、7人分の朝食の支度を年中無休でしてくれています。また、若い人ばかりなので、衣がほころびると縫い直してやり、時には自分の子供のように叱ることもあるようです。「怪我をさせちゃいけない」「病気にならないように」などと、いつも気遣っています。それでも、病気になれば、家まで様子を見に行き、入院をする者があれば、付き添っています。

このように女房はふだん、主に賄いをやってくれているんですが、何故か初めて女房と会う人は寺の奥さんだと気付く人は少ないのです。

以前にこのようなことがありました。寺で通夜があった日に、ある中年の男の人が台所に来て話し掛けてきました。「ねえさん、あんた何処から通って来てるがかいね」すると女房は「このお寺に住まわしてもらっておるがや」「そうか、子供は何人いるがかいね」「2人や」「3人暮らしか。あんたもまだまだ若いのに、これからたいへんやね」「いや、うちの人と4人でお寺に住まわしてもらっているがや」「あっ、すまん、すまん、てっきりわしは‥・。それで、あんたの旦那の仕事何しとっましゃるんや」「ごぼさんや」「―――」その後、この男の人は突然押し黙ってしまい、無言のまま踵を返して台所を出て行ったそうです。

私の女房は一般的な寺の奥さんとイメージが違うらしく、それは、たぶん容姿から判断されるのでしょうが、大半の人からは「寺のおばさん」に見られるようです。しかし、女房は有難いことに多くの人たちから慕われておるようで、元気な間は頑張りたいと言ってます。

お寺のおばさんこと女房が25年前の懐かしい一枚の写真を見つけ出しました。私はその写真を見た時、
「あぁ、そうだったな」と、一瞬にして
25年前のこの日の事の記憶が蘇りました。その写真には、真ん中に真言宗の袈裟を掛けた中年の住職が座っていて、両脇には一張羅の背広を着た私と、着物姿の女房が写っています。場所は寺の本堂内のお内陣を背景に撮られています。

実は、何故にこのような写真があるのかというと、少々訳があるのです。当時、私は旭川別院という寺に勤めて丸1年が経ち、結婚して9ヶ月、最初の子が授かって丁度5ヶ月目といった頃でした。

女房が「安定期に入ったので、戌の日を選んで、腹帯を持って、何処かの寺で安産を願い、お参りがしたい」と、言い出したのです。しかし、私は直ぐに同意をしたものの、真宗の別院や寺では私たちの素性や結婚について、根掘り葉掘り聞かれることが嫌でしたから、結局他宗の寺にお願いすることにしました。

そして9月の戌の日の晩、半ば飛び入りのようにして市内の或る寺を訪ねました。すると夜分にもかかわらず、その寺のご住職が私たちを暖かく迎え入れて下さったのです。恐らくその寺に滞在したのは僅かの時間だっただろうと思いますが、終始親切にして頂いたことを今でも忘れられません。

私はこの一枚の写真に出合って、急に25年前のこの時のことが懐かしく思い出され、無性にあの寺の名前が知りたい、そして、一言ご住職にお礼が言いたい、という思いが募りだしました。

そこで、私の知人で小松の真言宗那谷寺の木崎馨山住職にその思いを打ち明けましたところ、その数日後には、この写真を手掛かりに寺を探し出して下さったのです。嬉しかったです。

その寺は金毘羅教会と云い、早速、私はそこにお電話をして確かめたところ、ご住職は十数年前に脳溢血で倒れられ、その三日後に亡くなったこと、写真を撮って下さったのは当時大学生だった娘さんで、その時のことをよく覚えておられていたこと、などを知りました。

残念ながら、ご住職には直にお礼は言えませんでしたが、私の52年の人生の中でたった1時間程の短い思い出を、今になって突如として出てきた一枚のこの写真のお陰で、私たち夫婦のこれまでの道のりの大切な一齣を呼び起こしてくれました。

第41の謎

「円満奨励券」はどのように誕生したか?


回答 編集者

 ボランティア活動に参加した労働を何らかの価値で認めようとする運動は、ヨーロッパのオランダなどですでに「ボランティア銀行」としてスタ−トしています。このような運動を本光寺でも取入れたらいいのではないかと提案したのは、NHK金沢放送局でディレクターとして活躍し、本光寺の1000年祭では「100年後の家族に宛てる手紙」や「総墓」を全国に紹介していただいた木村珠美さんです。

 お祭りの後、「お寺活用で円満ライフ」と題した講演をしていただきました。その中でニューヨークで始まり、滋賀県近江町でも行われている地域のボランティア活動をした時に報酬として受け取り、援助してもらった時に支払う貨幣、例えば「円満」を発行して、本光寺の福祉事業とするのは如何でしょうかと提案されました。

 本光寺はボランティア委員会で、すでにボランティア活動をしていますので、2002年7月より「円満奨励券」を朝市やイベントなど本光寺内の行事に利用できるものとして発行されることになりました。今後の活用方法が注目されます。