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氈@CMC研究の問題点
本章では、まずマス・コミュニケーション研究における、受け手の能動性概念の多次元的位相をつくりだしている要因をみていく。その過程において、受け手像を「振り子」的にとらえることの危険性が提示される。次いで、CMCの先行研究をまとめながら、その問題点が「テクノロジーの有効活用」という態度にあることを指摘。そこでは、社会決定論を志向しながらも、技術決定論に陥ってしまった池田らの矛盾した態度が明らかになる。結果として、受け手像を「振り子」的なものに単純化してしまう態度を問題とし、そこから生まれた「テクノロジーの有効活用」という言説がCMC研究に対して与えた影響を検証する。
1.「能動性」概念の多次元性とその要因
マス・コミュニケーション受容理論、特に効果研究の展開において「受け手の能動性」は常に大きな関心を集めてきた。にもかかわらず、明確な一つの定義を与えることは依然として困難な状況にある。「受け手の能動性」概念が用いられる文脈や研究者によってまちまちの定義がなされているのである(高橋、1998)。以下では、高橋の議論を基調としながら、受け手の能動性概念の多次元的位相をつくりだしている2つの要因を明らかにしていきたい。
第一の要因は、能動性の指標の多次元性である。高橋は、受け手のエネルギーが向けられている対象に注目することで、能動性の指標を次のように分類している。
@物理的エネルギー
一般的に「活動的な」アウトドアスポーツに対して、テレビ視聴は「受動的」な活動であるとされる。このような余暇研究の文脈では、受け手が費やすエネルギーが能動性の指標とみなされている。
A情報処理過程のエネルギー
「情報環境の拡大が受け手の能動性を拡大する」という情報行動論の文脈においては、受け手の情報処理過程に費やすエネルギーが能動性の指標とされる。つまり、レディメイドの情報のカスタマイズが能動的な行為とされるのである。
B一方向性メディアのインパクトに対するエネルギー
効果研究の文脈では、マスメディアの強力なインパクトに対し、「効果を受けない」ことが能動性の指標とされている。
C支配的なコードに対する対抗的エネルギー
カルチュラル・スタディーズの文脈では、「受け手の社会的な要因によって引き起こされる支配的なコードに対する対抗性」が能動性の指標とされている。
このように能動性の指標は多次元的なものなので、一口に「能動的な受け手」といっても、その文脈によって意味は異なったものとなってしまう。
第二の要因は、能動性概念の歴史的・社会的・文化的動態性と受け手の「実態」の多次元性である。しかし、今までのマス・コミュニケーション研究では、この点は見過ごされることが多かったといえるだろう。その原因は「受け手像振り子説」にある。一般にコミュニケーション研究の歴史は「期に分類され、効果に対する認識の変化には「受け手像」の変化があると考えられている。受け手像振り子説とは、アクティブ−パッシブ間を揺れ動く振り子として受け手像をとらえる見方を意味する。つまり、限定効果論(第期)の「能動的」な受け手像が、弾丸理論(第汪)に対するアンチテーゼとして提示されたように、それに続く第。期の強力効果論、第「期のニューメディアに関する研究の「受け手像」がそれまでの「受け手像」を否定することで生まれてきたととらえる立場である。
その結果、わが国のマス・コミュニケーション研究は、さまざまな弊害をおこしてきた。第一の弊害は、歴史的・社会的・文化的文脈における多次元性を一元化してしまった点である。汪と。期(または期と「期)の受け手像を同一視し、また同一期内における受け手像の多次元性を単純化して論じるという傾向にその影響はあらわれている。第一の弊害が理論の多様性の一元化であったのに対し、第二の弊害は受け手の実態に関する多様性の単純化といえる。すなわち、この振り子運動にあわせて、時期区分ごとに受け手の情報行動が変容するととらえるというのである。このような単純化は技術決定論に陥る危険を含んでいる。
以上、本節では高橋(1998)を基調としながら、「受け手の能動性」概念の多次元的位相をつくりあげている要因をみてきた。そこでは能動性の指標の多次元性、また能動性概念の歴史的・社会的・文化的動態性と受け手の「実態」の多次元性が観察された。さらにこの過程において、われわれはいままでのマス・コミュニケーション研究の問題点を指摘することにもなった。すなわち、受け手像を「振り子」的にとらえ、それにあわせた規範的な受け手像をアプリオリに設定した上で、それを証明するための手段として能動性概念を利用するという逆転状況である。高橋(1998)は、これは第「期のニューメディアに関する研究にもみられると述べているが、この点についてはで詳しく述べることとしたい。次節ではCMC研究の先行研究をまとめながら、批判的に検討していく。
2.CMC研究と「テクノロジーの有効活用」という言説
これまでの国内でのCMC研究は次のような期待と不安に彩られたものであった。それはインターネットに代表される双方向性をもったメディアを有効利用することで、個人の情報発信、さらに電子民主主義やヴァーチャル・コミュニティが実現するという期待であり、情報の信憑性やコミュニケーションの匿名性がもたらす新たな問題に対する不安であった。日本のCMC研究の代表的な論者とされる、池田ら(1997)はパソコン通信やインターネットによる、地縁、血縁などの属性によるつながりが重要な用件とはされない情報世界の縁、すなわち情報縁の出現を指摘し、そこでの交流を通じてわたしたちの集団認識や現実感覚が変容すると主張した。これは初期のCMC研究
にみられる技術決定論的立場(キースラーらの「手がかりの喪失」議論など)を否定し、利用者の社会的実践を重視した点で評価できるものである。
しかし、彼らを含め日本のCMCの先行研究は「テクノロジーの有効活用」(土橋、1998)という言説を前提として議論が進められている点で問題含みのものといえる。確かにインターネットの登場は、従来のマス・コミュニケーションの一方向的な伝達に代わる双方向的なコミュニケーションを可能にし、個人による情報発信の可能性を切り開いた。しかし、たとえインターネットという技術がそのような特性をもったものであっても、社会のなかでそれが充分に機能するとは限らない。メディア技術が社会を決定するのではなく、利用者の日常的実践のなかでメディアの機能は規定されていくからである。にもかかわらず、先行研究は双方向的なコミュニケーションが行われることをアプリオリに規定した上で議論を進めてしまっている。
また日本におけるCMC研究の特徴として、パソコン通信またはインターネットを対象にしたものに議論が偏っている点があげられる(三浦・篠原、1997)が、これも「テクノロジーの有効活用」という態度によるものといえる。CMCとはComputer-Mediated
Communicationの略で、コンピュータを介したコミュニケーション全般を意味する。周りを見回してみれば、コンピュータが搭載されているコミュニケーション・メディアはパソコンだけではないことに気づくだろう。電話は留守番機能やコードレス化、さらにファックス機能と多機能化するなかでコンピュータ化を進めていった。ポケットベル(以下、ポケベル)や携帯電話(以下、ケータイ)の出現はこの延長線上に位置づけられるだろう。つまり、CMCの研究対象はパソコン通信やインターネットだけでなく、ポケベルやケータイなども含まれてもよいはずなのである。しかし、先行研究においては前者がその大半を占めているのである。これは、「テクノロジーの有効活用」という言説の影響に他ならない。というのも、CMC研究ではポケベル・ケータイがコンサマトリーな利用が中心なのに対して、パソコン通信・インターネットでは情報発信・情報交換など、目的的な利用が中心とみなされるからである。「テクノロジーの有効活用」を目的とする、CMCにおいて、後者が研究対象となるのは当然の結果といえるだろう。テクノロジーを有効活用するには、利用自体を楽しむのではなく、それを目的達成のための道具として積極的に利用する方が望ましいからである。つまり、両者の志向するコミュニケーション形態の違いが、CMC研究からポケベル・ケータイを除外し、パソコン通信・インターネットをその中心的な研究対象としたと考えられる。
3.池田らの態度の矛盾
前節ではCMCの先行研究の問題点として「テクノロジーの有効活用」が前提とされてきたことを指摘したわけだが、これは1節でみた受け手像を「振り子」的にとらえることと関係があるのではないだろうか。つまり、「テクノロジーの有効活用」という言説の根底には、振り子的に受け手像をとらえる論理の存在を指摘できるのである。というのは、受け手像「振り子」説によると、第「期(ニューメディアに関する研究)における受け手は「能動的」とされているからである。以上をまとめると次のようになるだろう。CMC研究はまず受け手像振り子説にあわせて、受け手を能動的なものとしてアプリオリに設定する。次にそれを(無理矢理にでも)証明するために、さまざまな能動性の指標の中から都合のよいものを取り出してきたと考えられるのである。そして、その選択の恣意性は「テクノロジーの有効活用」の名の下に許容され、覆い隠されてきたと考えられよう。
日本におけるCMC研究の中心的存在である池田らの議論(1997)も同様に、「テクノロジーの有効活用」という言説に基づく、技術決定論的立場を脱却し切れていない。確かに、彼らは電子空間上においても利用者同士が交流を重ねることで独自の規範やリアリティが形成されることを指摘し、初期のCMC研究にみられる技術決定論的立場(=メディアの技術的特性がコミュニケーションのあり方を決定する)を退けることに成功した。しかし、メディアが社会において果たす機能については、彼ら自身が否定したはずの技術決定論(=メディアの技術特性がメディアの社会的機能を決定する)をとってしまったのである。これは利用者の日常的実践を無視したものである。このような矛盾が生じたのは、彼らが「テクノロジーの有効活用
」という言説を、認識論のレベルでは否定できても、存在論のレベルでは肯定してしまい、それを立論の前提としてしまったことにある。
本章では、CMCの先行研究を概観しながら、その根底に「テクノロジーの有効活用」という技術決定論的立場の存在を指摘してきた。また、その結果としてCMC研究で発生している弊害についてもふれた。次章ではこの論点を深化させるために、80年代若者論から知見を引き出していく。
→ CMC研究の原型としての80年代若者論
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