「おとし物」を求めて....『詩のこころを読む』を読む1

 茨木のり子さんの、『詩のこころを読む』を読み返しました。出版されてすぐに求めて読んだ本ですから、18年ぶりくらいになるでしょうか。読み終えてこれほど深く、透明でいて、何かしら温かい思いに満たされる書物というのは、それほどあるものではありません。

 改めて思ったのですが、『詩のこころを読む』は単なる詩の入門書ではありませんね。この本の中には、美しくそして明晰な言葉で、彼女の人生と愛に対する考え方、芸術論がちりばめられています。すばらしいと思うのは、その言葉はきわめて明晰なんだけれど、押しつけになっていないということ。

 それらはむき出しではなく、鉱脈の中で静かに光を放ちながら潜んでいて、読み手が成長してその宝石にたどり着き、自分で手に取り、自らの輝きとすることを待っているのです。

 初めてこの本を読んだときは、紹介されている一つ一つの詩に目を輝かせ、味わい、感動していたのですが、再読してみると全体の構成の見事さに気づかされます。

 「生まれて」、「恋唄」、「生きるじたばた」、「峠」、「別れ」という章立ては、「自然に浮かびあがってきたものを、どう並べようかと思ったら、偶然に『誕生から死』までになってしまったもので、最初からのプランではありません」(「はじめに」)ということですが、ふだん、テストのための教材という形でしか詩に触れることのない僕たちが詩の世界に遊ぶには、あらためて「生まれる」ことが必要なんですね。

 事実、生まれ変わるというか、ワープするんですよ。「生まれて」の章の冒頭に置かれた、谷川俊太郎さんの「かなしみ」の第一行を読んだとたんに僕たちは。

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに

 ほらね、何か全く違う世界に、大宇宙のような広大な広がりを持った世界に、いきなりポーンと放り出された気がするでしょう? 

何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

 この「おとし物」、この「何か」を求めて、僕たちはこれからどこが出口でどこが入り口かもわからない迷宮を、さまようことになるんです。苦悩に満ちてではなく、あくまでも愉しく、ネ。詩という世界を旅するのはこういうことです。

 なんだか訳がわからないって? だいじょうぶ。茨木のり子さんというすばらしいナビゲーターがいますから、僕たちは安心して(?)迷うことができますよ。

 「何かとんでもないおとし物をしてしまった」という自覚をどうしても持てない人は、ちょっと困った。

 でも、少なくとも青春という時代には、人はみな心のどこかにぽっかりと空いた穴のようなものを抱えているはず。そしてそれを埋めるものが何なのかはわからず、いらいらして歩き回り、探し求めるはず。

 僕のような中年になったって、自分を振り返る余裕すら与えられず迷うにしてもろくに選択肢も残されていない年になったって、それでもやっぱり、いや、だからなおさら、そう簡単には満たされないむなしさで、憂鬱に一日を過ごすことがあるんです。

 そんな日はあなたもこの本の扉を開き、愉しく迷宮のあちらこちらをさまよってみてください。読み終えたとき、あなたはきっと生まれ変わっていますよ。

茨木のり子の美意識....『詩のこころを読む』を読む2

 地上は今
 ひどく形而上学的な季節
 花も紅葉もぬぎすてた
 風景の枯淡をよしとする思想もありますが

は、むずかしい行ですが、『新古今和歌集』(巻第四、秋歌)の藤原定家の、

 み渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ

をふまえていて、白黒のモノトーンの世界、枯れ枯れの侘びしさを長くめでてきた日本の美学への批判を示しています。そしてもっと豊穣なもの、たわわな色彩、躍動的なものを準備し用意しているものへの期待をあらわにしています。

と、牟礼慶子さんの「見えない季節」という作品を紹介しながら、茨木のり子さんは書いています。おそらくこれは、茨木さん自身の考え、美意識の一端を吐露したものでもあるでしょう。

 確かに茨木さんの詩はいつも輪郭がくっきりしていて、曖昧なところがありません。からりとした明るさ、翳りのないくっきりとした言葉の輪郭。

 すっきり、くっきり、はっきり……何かの標語のようでちょっと品がありませんが、こんな言葉がぴったりします。硬質でありながらしなやかで、力強くていながら温かくて。伝統的とされてきた美学からはずいぶんと飛翔した、まさに戦後を象徴する地点にいるかのようです。

 例をあげましょうか。たとえば、詩集『対話』に収められた「もっと強く」。

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは明石の鯛がたべたいと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは幾種類ものジャムが
いつも食卓にあるようにと

(略)

女がほしければ奪うのもいいのだ
男がほしければ奪うのもいいのだ

ああ わたしたちが
もっともっと貪婪にならないかぎり
なにごとも始まりはしないのだ

 強い意志、ストレートなメッセージ。まるでキリキリとよく引き絞られた矢が、重くよどんだ大気を切り裂いてびゅんと彼方に向かって飛び去っていく、そんな感じがします。

 ここには、明らかに未来があります。それが希望というか明るさになっているんですね。茨木さんは、決して感傷や悟りには逃げないんです。あるいは詠嘆に流れることがない。

 冷笑もなければ、こう笑もありません。あるのは、僕たちみんなの未来に向けた意志なんです。それが言葉として、詩として結晶しているんです。その思想の深さ、そのダイナミズムが美しいのです。

 もうひとつ、しなやかな例をあげると、詩集『見えない配達夫』に収められたあの有名な作品、「わたしが一番きれいだったとき」。

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

(略)

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な街をのし歩いた

(略)

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのよう
             ね

 僕たちの父や母、そして祖父母の世代の人たちは戦中と戦後を必死に生き、僕たちに今日の豊かな社会を残してくれた。その労苦は決して疑うことはできないけれど、しかし一方、茨木さんのようにその体験を総轄できた人は、一体何人いたのでしょう。本当の意味で、戦後、新たな一歩を踏み出せた人は何人いたのでしょう。僕は去年、妹尾河童さんの『少年H』を読んだときもこのことを痛感したのでしたが……。

 腕まくりして廃虚からのしのしと未来へ向けて歩き出す若き日の彼女の姿。一見豊かになったかのような現代にあっても実はこころに廃虚を抱える僕たちにとって、彼女は限りなく美しく、眩しい存在です。

飛翔、あるいはカタルシス....『詩のこころを読む』を読む3

 僕も一時期、詩を書いていたことがあります。一生詩人であり続けるのは難しいけれど、ある瞬間ある時に限るなら、人はだれでも詩人を経験する……まあ、たいがいはヘボ詩人ですけれど。

 でも、ヘボかヘボでないかはどこで判断するの? 茨木のり子さんは、〈浄化作用(カタルシス)を与えてくれるか、くれないか、そこが芸術か否かの分かれ目〉だと教えてくれます。

 たとえば、濱口國雄の「便所掃除」。濱口は旧国鉄の職員でしたが、この超ユニークな詩の中で、彼は〈ケツの穴が曲がっている〉か、よっぽど慌てているかして便器を汚す客を呪います。はじめの七行。

扉をあけます
頭のしんまでくさくなります
まともに見ることが出来ません
神経までしびれる悲しいよごしかたです
澄んだ夜明の空気もくさくします
掃除がいっぺんにいやになります
むかつくようなババ糞がかけてあります

 おそらく濱口が呪っているのは、便所を汚す客だけではないでしょう。こんな汚れた仕事をしなければならない自分自身をも、呪っているに違いありません。

 それでも濱口は、「汚水が顔にかかり」、「くちびるにもつき」ながら、一生懸命に便器を磨きます。「美しくするのが僕らの務め」と心に決めて。

 すると、「心も糞になれて」来る。

もう一度水をかけます
雑巾で仕上げをいたします
クレゾール液をまきます
白い乳液から新鮮な一瞬が流れます
静かな うれしい気持ちですわっています
朝の光が便器に反射します
クレゾール液が 糞壺の中から七色の光で照らします

便所を美しくする娘は
美しい子供をうむ といった母を思い出します
僕は男です
美しい妻に会えるかも知れません

 どうやら、きれいになっていったのは便器だけではなかったようです。作者の心まできれいに磨かれ、朝の光に輝いています。そしてこの詩を読んだ僕たちの心まで、すがすがしいものになります。

 けれどこの詩が――

 社会悪をふきとる思いで力いっぱいふきます

あるいは、

 クレゾール液が、糞壺の中から七色の光で照らします

のところで終わっていたとしたら、読んでもまもなく忘れてしまい、今に至るまでこんなに強烈に覚えてはいないでしょう。詩ではないと思ったかもしれません。そうです、「便所掃除」を詩たらしめたものは終わりの四行なのです。ここへ来て飛躍的にパッと別の次元へ飛びたっています。飛行機にたとえていうと、一つ一つの労働描写のつみかさねは、じりじり滑走路をすべっている状態で、だんだん速度をはやめ、或るとき、ふわっと離陸した瞬間が終わりの四行なのです。

 茨木さんは、〈言葉が離陸の瞬間を持っていないものは詩とはいえない〉と言います。そうか、わかった。なぜ僕が本当の詩人になれなかったのかがわかったぞ。僕が昔書いていた詩は、最後までズルズル・ウジウジと滑走路を這いずりまわってばかりいたんだ。いっこうに離陸しなかった。たとえば、こんなふうに(「ぼくは泣いた」)。

ぼくは泣いた
一九八六年十月のある朝
仕事場へ向かうワゴン車の中で
ひとり
声もなく 泣いた

なぜ ぼくは
ろくに眠りもしないで
こんなにも朝早く
薄汚ないワゴン車のハンドルを
握っていなければならないのか

(略)

ぼくは泣いた
一九八六年十月のある朝
ひとり
声もなく

 ね、最初から最後まで泣いてるんだもの。愚痴ばっかりだもの。不本意な気持ちはそれとして、そこを突き抜けてこそ得られる「新鮮な一瞬」、「静かな うれしい気持ち」が、当時の僕にはまったく見えていなかったんです。

 涙だけでは詩にならない。怒りだけでもそうなのであって、そこから大きく飛翔して読み手を彼方へつれ去ってくれるものがなければ、本当の詩、いつまでも僕たちの心に残る詩にはなりません。

 おそらく同じ意味合いのことを、茨木さんは石垣りんさんの「くらし」という鮮烈な作品を引きながら、「浄化作用(カタルシス)」と表現しています。

 「くらし」という詩は、僕たちの「生」が多くのものの「死」、あるいは「犠牲」の上に成り立っているという事実を眼前に突きつける、恐ろしい詩です。石垣さんは台所(自らの「生」の場)に、鳥の骨はおろか「父のはらわた」さえ見つけてしまいます。ところが、そういう重いテーマの作品でありながら、僕たちは読み終えたあと一種の爽快さにひたされます。これがルポルタージュなどとは違う、詩という芸術に特有の、浄化作用なのです。

浄化作用(カタルシス)を与えてくれるか、くれないか、そこが芸術か否かの分かれ目なのです。だから音楽でも美術でも演劇でも、私のきめ手はそれしかありません。

 巷には類書があふれているけれど、『詩のこころを読む』が他の編者によるアンソロジーとおおいに異なるわけが、この一節を読んでもわかりますね。そしてこの書が、初版から18年以上を経て今なお広く読みつがれているわけも。

愉しく迷う....『詩のこころを読む』を読む4

 道に迷うのは、道が沢山あるから。人生という道も同様で、後になって振り返ってみるともったいないほどの豊かさに満ちていた青春という時期も、当の本人は五里霧中。先輩はいても先生がいるわけじゃなし、問題を見つけるのも自分なら、答を出すのも自分。深い霧に閉ざされて途方に暮れること、たびたびです。

 ここはひとつ心の持ちようを少し変えて、迷うこと自体を愉しんでみたらどうでしょう。

 無理に何かを見つけようとしたり、答を出そうと焦る必要はないんじゃない? 畳の縁に躓いたくらいで転んで骨にヒビが入る年じゃなし、何も怖がることはない。仮に転ぶんだったら、思い切って転んじゃえ。ちっちゃな子供の頃はあんなに飛び跳ね、転げ回るのが好きだった僕たちなのに、いつの間にか大人びちゃって。わからないのも転ぶのも、そして迷うのも、恐いことなんかじゃなくて愉しいことだった子供の心を、僕たちはいつのまに失ってしまったんだろう──。

 さて、『詩のこころを読む』の最後に置かれた、岸田衿子さんの「アランブラ宮の壁の」。

(略)

わたしは迷うことが好きだ
出口から入って入り口をさがすことも

 わたしは迷うことが好きだ……という一行。茨木さんは、「いいなあと思います。たいていは迷いをふっきろうとして無理するのに、『迷いも愉し』と言える心は強く、しかもこの一行を呼びだすための枕言葉のように、アランブラ宮のつるくさ模様がたちあらわれるのです」と読み解いています。

 ゲームじゃないから、迷宮パズルは解けなくてもかまわない。そもそもこの迷宮、出口は「死」というワカラナイ世界。放り出されるその時まで、ある時は一人でさまよい、またある時は連れだってさまよい、とにかく迷うことを愉しめたらそれが一番。

 岸田さんの詩を何度も読んでいると、「生まれて」、「恋唄」、「生きるじたばた」、「峠」、「別れ」と続く章立ての最後の最後にこの詩がさりげなく置かれている意味が、なんとなくわかるような気がしてきます。

茨木のり子さんと庄内

 〈天馬空を行くがごとく庄内弁をしゃべりまくった〉と、茨木さんは生前の勝さんを思い出しながら書いていらっしゃいます。ゆかりの人々を訪ねて歩かれた戸村雅子さん(鶴岡市在住)によれば、勝さんは三川町東沼のご出身とか。また茨木さんは、1949年、23才で鶴岡市出身の医師故三浦安信さんと結婚。埼玉県所沢市に住まいされました。

 このようにわが郷里と因縁浅からぬ茨木さん、山形県は庄内地方にかかわる記述も多いのですが、特に僕が興味を惹かれるのは、彼女がお母さんの想い出を通して東北を語るときです。

 『言の葉さやげ』に収められた「東北弁」と題するエッセイの中で、彼女は形容詞に優れたものを持ち、美しい音の響きさえ持つ方言の魅力をたたえ、東北の言葉を擁護しています。〈もっと平気で豊穣な語彙をたのしんだらいいのに……〉と。

 いかにも彼女らしいと思ったのは、こんな古代の痛快な事例(!)を紹介してくれていることです。

 更にさかのぼれば、安部宗任が捕虜として京へ連れてこられ庭前に引きすえられたとき、公家たちがからかった。梅を指し「なんの花だ」と。宗任は和歌で即答する。

 わが国の梅の花とは見たれども
     大宮びとは何というらむ

 方言をからかい、反撃をくらったという、これがわが国の方言問題における文献上の初見なのではないだろうか。それが東北弁であったことが、またこたえるが、宗任の歌はおっとりしたなかに負けてはいないしたたかさを隠していて、見事! と言ってあげたい気がする。(14頁)

 うーん、詩的だし素敵ですよね。こんなしなやかな反撃をくらって、大宮びとはさぞかし目を白黒させたことでしょうね。さらに言えば、しなやかな例を彼女があげるのは、彼女自身しなやかにして痛快な反撃を得手としているからなんですよ。

 ところで、茨木さんは1937年、11才のときに実の母を失っています。母の死。今に至るまで両親が健在な僕などには想像もつかない痛切な出来事。

 まだ幼い時分の母との死別が、彼女の人間形成にどのような影響を与えたかは迂闊に云々出来ることではありません。ただ、雪に眠る庄内平野を一人歩む「寒雀」などの詩や、亡くなったお母さんには直接触れないまでも彼女が庄内地方に関連して書いたエッセイのなかには、母への思いが深々と埋め込まれているかのような印象を受けます。彼女にとっての庄内地方は、お母さんの思い出というフィルターによって浄化された、特別な地ではなかったでしょうか。

 聖地と言ってしまっては大げさすぎるでしょうが、少なくとも原風景ではあったと思うのです。例えば、詩集には収められていない作品の一つに「母の家」という詩があります。すべては引用できませんけれど....

雪ふれば憶う
母の家
 (中略)
母はみの着て小学校へ通った
母はわらじをはいて二里の道を女学校へ通った
それがたった一つ前の世代であったとは!
ふぶけば 憶う ほのあかりのごとく
母を生んだ古い家 かつての暮らしのひだひだを
 (後略)

 省略させていただきましたが、最後の二行を書かずにおかないのがいかにも茨木さんらしい。けれどこの詩編が読者の心を揺さぶるのは、そこに人肌の温もりがあるから、そこに何ともいえずなつかしく、「聖なる」ものがあるからです。またそれらを象徴するのが母であり、そしてそれは永遠に失われたものであるがゆえに、作者の痛いような孤独が、僕をうつのです。

『韓国現代詩選』を傍らに

 「外国語を学ぼう」という情熱だけは、年齢に関わりなく湧いてくるもののようです。いや、むしろ、なんの動機付けも必然性もなく、かといって疑問をもつヒマもないまま強制的に詰め込まれる受験英語よりも、社会的な経験を積み重ねたその過程で興味や関心を抱いて取り組む語学学習の方が、はるかに身に付くものなのかもしれません。時間はかかるとしても、「若い時はまだ日本語の文脈がしっかりしてはいない。五十歳を過ぎれば日本語はほぼマスターしたと言っていいだろう。それからゆっくり〈外国語への旅〉に出かけても遅くはない」(『一本の茎の上に』、90頁)、というわけで。

 それにしても茨木さん、なぜに韓国語?

「韓国語を習っています」
  と、ひとたび口にすると、ひとびとの間にたちどころに現れる反応は、判で押したように決まっている。
「また、どうしたわけで?」
「動機は何ですか?」
  同じことをいやというほど経験し、そして私自身、一緒に勉強している友人に何度同じ問いを発したことか。
  隣の国の言葉を習っているだけというのに、われひとともに現れるこの質問のなんという不思議。(『ハングルへの旅』、12頁)

 いかにも不思議。英語やフランス語を習うのは自然で、韓国語に興味を持つのは? ……だなんて。

 僕自身はと言えば、大学で習ったのはフランス語です。当時はフランスの近代美術に興味を持っていたし(ゴッホの手紙を原書で読めたらなあ、なんて)、講義の中には原書講読もありましたから。

 語学は文化を学ぶための手がかりであって、学びたい文化があれば、まずはそこで使われている言語を学ぶことになります。そしておそらく、誰の目から見てもフランスの文化は学ぶに足ると思われているので、フランス語を勉強しています! と言っても誰も疑問など差し挟まずに励ましてくれるわけです。

 ところが韓国語となるとそうはいきません。歴史を紐解いてみれば、日本は朝鮮半島の人々から本当にたくさんのことを学んできたし、人材を受け入れてもきました。貴族などの政治的、文化的指導者階級、あるいはまた先端技術者として。

 つまりは先生であり先達だったわけだけれど、明治以降の日本は、近代化(欧米化)の達成度という物差し以外はすべて葬り去ってしまいました。欧米に対する劣等感をアジア諸国に対する優越感で癒してきた結果が、無関心や軽視ということなのかもしれません。僕自身あまり興味を持ってこなくって、知識もロクにないのだから、これは自己批判として。

 さて、五十の手習い、茨木さんの「晩学の泥棒」の結実であり精華が『韓国現代詩選』です。作品自体が素晴らしいのか、あるいは茨木さんの翻訳が素晴らしいのか。双方ともに、であるに決まっているけれど、詩人によって精選された韓国の現代詩が、磨き抜かれ選り抜かれた日本語で僕たちの前に立ち現れるこの快感、この至福。

 茨木さんによると、(十年前の記述ながら)韓国では詩は熱い時代にあるようです。日本の書店で店員さんに、「シシュウはどこにありますか」なんて聞くと、刺繍や編み物のコーナーを教えられそうですが、韓国では詩集のコーナーはかなり大きく、若者が群がっているのだとか。ノートに好きな詩を書き写して自前のアンソロジーを作る若者も多いといいます。僕はこういう熱気に、若さというかエネルギーを感じます。

 政治や経済がダイナミックに変貌しようとしている時って、人々の魂を鼓舞するような詩がもてはやされたりしませんか? あるいは抑圧された時代には、それに耐え未来に希望をつなぐような詩が、ひそかに読み継がれたりしませんか? 詩というのはいつも、ひとの裸の心から直接放射する何かをもっていて、それが時代の孕むエネルギーと共振するような気がします。詩の熱さは時代の熱さ。違っているでしょうか。

 茨木のり子さんの訳編による『韓国現代詩選』には、いかにも個性的な詩人たちが多く登場します。ただ、ひとり、茨木さんも特に一文(「尹東柱について」、『一本の茎の上で』所収)を草しておられた尹東柱(ユンドンヂュ)の紹介はありません。これは、伊吹郷さんのお仕事に敬意を表してのことかもしれませんが、ちょっと残念でした。日本に関わりの深い詩人であっただけに、とりわけ。

 この詩選で紹介された一二人の詩人の中で、ことに印象深かったのは姜恩喬(カンウンギョ)の作品で、「林」「眼」など四編の詩が訳されています。印象としては、高良留美子さんにも似た造形世界、でしょうか。茨木さんは解説で、「わかりやすい言葉、具体的なイメージ、抽象化の能力」と手際よく説明されていますが、まさしくその通りで、深く澄んだ世界がなんのこだわりも紛れもなくストレートに読者の心を吹き抜けてゆきます。この爽快さこそ、詩を読む楽しさじゃないのかな。心を浄化しつつ、彼方に連れ去ってくれる爽快さ。

 ほかにもすてきな詩人、すてきな詩がたくさんたくさん。日本の現代詩はどうもなじみにくいと日頃詩から遠ざかっている人たちにこそ(じつは僕もそう)ぜひ一度手にして欲しい。それがこの『韓国現代詩選』です。きっとお気に入りの詩に出会えると思うんですけどね。日本の詩のアンソロジーである『詩のこころを読む』とともに、この一冊をぜひ傍らに。

はじめての町

 合唱組曲「はじめての町」の初演に立ち合ってきました(一九九九年十二月十二日、鶴岡市文化会館)。茨木のり子さん作詩、佐藤敏直さん作曲によるこの作品は、鶴岡市が市制施行七十五周年を記念して制作を委嘱したもの。期待を裏切らない、すばらしい仕上がりです。

 「はじめての町」は、茨木さんの書かれた八編の詩で構成されています。「作詞」ではありません。自らのリズムを持って息づく、「詩」という形式の、言葉による造型世界を提供されたのです。そして作曲を担当された佐藤敏直さんは、よくそのメッセージを、奥深い優しさを、知的なユーモアを、しなやかにして強い硬性感を咀嚼して、音に置き換えられたと思います。

 佐藤さんの書かれた文章を読み、指揮台に立たれる佐藤さんのお姿を拝見していると、彼がいかに茨木さんを敬愛し、詩人の世界に誠実であろうとしているかに、あらためて気づかされます。幸福な出合い、というべきでしょうか。

 「はじめての町」を聴きながら、ぼくたちは四季に彩られた日本の小さな町々をそぞろ歩きます。そこはもちろん桃源郷ではないのだから、デニムのズボンがぶら下がってもいれば、砂ぼこりにまみれてもいる。ちゃちな町だね。変わりばえしない町だ。

 「それでもわたしは十分ときめく」のは、そこにもやはり、人びとの日々の暮らしがあり、出会いがあり、別れがあるからでしょう。

 その積み重なり、あるいはそのねじれが、この組曲全体を統べる堂々たる風格の第一曲(はじめての町)にも歌われた、その町の「ほくろ」、その町の「秘密」、その町の「悲鳴」なのかもしれません。

 そして精妙なオーケストレーションが会場をわかせたのが、第三曲(夏の星に)。日本風の調べを持った静かな第二曲(さくら)の後だけに、軽快にして優美な旋律は実に効果的でした。御法度だけど、ブラボーの声もあがったりして。実は僕もひそかにアンコールを期待した曲だったのです。

 しかし、佐藤さんがアンコールの拍手に応えて選ばれたのは、第六曲(秋)でした。「秋」と題する詩は、茨木さんが佐藤さんの懇請に応えて新たに書き下ろされた、合唱組曲「はじめての町」のためのオリジナル。その意味では、茨木さんがぼくたち鶴岡市民にプレゼントして下さった詩でもあるのです。短いけれど、鶴と白鳥と里の人々が共生する、ふるさとのうた。ぼくたちの宝物になりそうです。

 さらには素晴らしいハーモニーを聴かせてくれた鶴岡土曜会混声合唱団と県立鶴岡南高等学校音楽部のみなさんにも、深い感謝を捧げなければ。さすがに国内トップレベルの実力ですね。下手ながら、ぼくも一緒に歌いたかったなァ、なんて思ったりして(ぼくが在学中の時は、音楽部はそんなに有名じゃなかったゾ)。

 また、素人が生意気なことを言うようですけれど、山形交響楽団のアンサンブルも見事なものでした。音に厚みがあるし、第一部に披露されたモーツアルトの序曲や交響曲だって、久々にナマのオーケストラの音を聞いた、という感じで、楽しかったですよ。

 この組曲に取り上げられた茨木さんの詩については、過日の地元紙(荘内日報)で戸村雅子さんが丁寧に紹介されています。この一文は全体が良質の「茨木のり子入門」にもなっていますから、ぜひご一読をお勧めしたいですね。

慈母観音にも似て

 いつもよりいくらか日数がかかってインターネット書店から届いた、茨木のり子さんの最新詩集『倚りかからず』(筑摩書房)。その奥付を見ると、第二刷とあります。

 最近すっかり新刊情報に疎くなってしまっているぼくが、この本の発刊を知ったのはある新聞のコラムを読んでのこと(河北新報だったと思うのだけれど、あるいは朝日の天声人語だったかもしれない)。それにしても、一刷から何日も経っていないのに、もう二刷。びっくりしました。こんなに売れてるなんて。

 書評や新刊紹介のページに取り上げられることも多くて、とりわけ茨木さんらしさを感じさせる「倚りかからず」「時代おくれ」などが、よく例に引かれます。

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない

の二行ではじまり、

倚りかかるとすれば
それは

椅子の背もたれだけ

で終わる「倚りかからず」。しゃんと伸びた背筋の美しさ。叙情ではなく知性で紡いだ言葉の爽快さ、そして堅固さ。そのすぐ隣り合わせに、じつは深い孤独が覗かれるのだとしても、むしろそれがゆえの深さを蔵しつつ、彼女の言葉は枯れ果てることのない心の源泉からどくどくと湧き出でて読者の胸に届く……そんな感じがします。ナントカ教やナントカ・セミナーがらみのワケノワカラナイ(本当にわからない! それが怖い)事件にかきまわされる昨今、なおさら身にしみますよね。

 もっとも、茨木さんのシャキっと伸びた背筋に感嘆するあまり、彼女を人生の闘士扱いしてしまったのでは、正しい受け取りかたとはいえないのかもしれません。いや、闘士然とした作品も、もちろんあったのですがね。

 たとえば、「自分の感受性くらい」(『自分の感受性くらい』所収)。ここでは、彼女は自分で自分を守ることもできない不甲斐ないぼくらを、ドンとどやしつけてくれます。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

(略)

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

(略)

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

 この作品は、彼女自身への応援歌でもあるのかもしれません。でもハッとしますよね。「ばかものよ」と決めつけられては。といって反論も難しく、弁明するもまた恥とあっては、敬して遠ざける結果になりかねません。事実、とりわけ男たちによる茨木評には、おおむねこの辺りに起因するかと思われるよそよそしさが、少なからず見受けられるのです。

 しかし、茨木さんの詩を本当に愛する人たちは知っています。彼女の作品世界はけっして硬直してなんかいない。それは意外なほどにしなやかで、また滋味に溢れ、鮮やかで品のよいユーモアが私たちをおおいに愉しませ、心を潤してくれるということを。

 『倚りかからず』でも健在でしたよ。シャンとしたユーモアは。たとえば、「鄙ぶりの唄」……じつのところ、この詩もかなり強烈な主張を持った作品ではあるのですが。

と、腹黒の過去を隠しもつ「国歌」に疑問を呈し、

私は立たない 坐っています

と、自らの姿勢を宣言する。決してナマることのない、キリッとした精神の形。ぼくのような軟弱な男には眩しすぎるほどの茨木さんの姿勢が、ここにもあります。しかし、それ以上に印象的なのが、

それぞれの土から
陽炎のように
ふっと匂い立った旋律がある

と、それこそ薫り高く匂い立って心を揺らす初めの三行であり、

演奏なくてはさみしい時は
民謡こそがふさわしい
さくらさくら
草競馬
アビニョンの橋で
 ……

と続く、いかにも楽し気にだれもが知る日本の歌、世界の歌を並べたてるくだりなのです。こんな書き方をしていいのかな。国体護持を金科玉条とするカタい人たちなら、青筋たてて怒りだしかねませんよね。茨木さん、嫌がらせの電話など、ありませんか? 街宣車が走り回ったりしません?

 ところが茨木さんは、そんな心配などどこ吹く風。最後は踊り出しちゃいましたよ。

八木節もいいな
やけのやんぱち 鄙ぶりの唄
われらのリズムにぴったしで

 お見事! としか言いようがないではありませんか。この自在さは。

 ぼくはこれを決して「茶化し」だとは思わないのです。もっと自然で、もっと自由な心のありようだと思うのです。また、ここにあるものは「四海波静」(『自分の感受性くらい』所収)に張りつめる憤怒とも違うのです。もっと深くゆったりしたものなのです。

 自らの姿勢は凛として保ちながらも、「ばかものよ」という叱責よりさきに、またどす黒い吐血よりもさきに、やさしさの極北を示すマザー・テレサの瞳が、アネハヅルの無垢ないのちの無数のきらめきが、まっとうとも思わずにまっとうに生きているシッキムやブータンの子らの襟足の匂いがまず、感じられてならないのです。

 茨木さんには叱られるに違いないけれど、詩集『倚りかからず』の頁を行きつ戻りつしながらぼくがそこに見い出すのは、慈母観音にも似た彼女の優しい眼差しです。もしそうでなかったら──もちろんぼくもその中の一人にすぎないのだけれど──日々の生活に追われこれほどにも疲れ切っている凡百の現代人が、競ってこの詩集を手にするはずがないではありませんか。

 茨木さんの意図が何処にあるにせよ、この一冊の詩集は、難しい時代を生きるぼくたちに、いささか手垢にまみれてしまった感のある言葉ではあるけれど、ある種の「癒し」を与えてくれます。

 あるいはそれは励ましであるのかもしれず、さらには、遥かに遠くかつ深いものへの憧憬と飛翔の夢、なのかもしれません。

木は
いつも
憶っている
旅立つ日のことを
    (「木は旅が好き」)

 「放浪へのあこがれ」「漂泊へのおもい」に身を捩っている木は、たぶんぼくだな。……そして、あなたもまた?

訃報を聞く

 そう遠くない日に訃報を聞く事になるだろうと、覚悟はしていたのです。朝、新聞を開くと、かすかに不吉な予感を抱きながら社会面に目をやる朝が続いてもいたのです。


 しかし不覚でした。それは突然やってきました。まだエアポケットから完全には抜け出せずにいたぼくの前に、茨木のり子さん逝去の記事が。


 角田光代さんは、「歳月を経る」とは出会うこと、と教えてくれました。然り──されどまた、歳月を経るとは、失うことでもあったのです。

 当然のことなのでした。人生の半ばを過ぎた今、失うことの多い、失う人の多い朝は、止むことがないのです。

 昨夜から『茨木のり子集 言の葉』(筑摩書房)を読み返しています。失ってしまった茨木さんと出会うために。そうして、失った歳月を少しでも、出会う歳月とするために。(06/02/22)

茨木のり子さんを失って

このたび私……この世におさらばすることになりました。これは生前に書き置くものです。……「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬思い出してくださればそれで十分でございます。(朝日新聞、3月21日付)


 こんなふうに、茨木のり子さんはこの3月の初め、親しい友人・知人に手紙を書き送ったといいます。いかにも茨木さんらしいなぁ。彼女の死は孤独死と伝えられ、なるほどカタチとしてはその通りなのだけれど、その作品に親しみ、またこのお別れの手紙を読むならば、その死が潔い運命の受容であったことを、誰しも理解するはずです。


 それにしても今年、2006年は、ぼくにとって悲しい別れから始まる1年になってしまいました。1月の末に母を亡くし、2月には茨木さんが亡くなりました。またつい先日は、20年を共に働いた同僚の弔辞を読んだばかりです。共通項をあげさせていただいていいですか? それは、3人とも、命つきるまでよく生きた、ということ。


 茨木さんは言わずもがな。身内のことながら、母もまた茨木さんのように身辺の整理を着々とすすめてい、また自作のパッチワークが印刷されたお別れの葉書を友人たちに書き送り、弔辞の人選まで終えていたのです。針を置く時期にも狂いはありませんでした。……そして同僚は、青春時代の夢を最後まで持ち続け、余技の範疇とはいえ現役のミュージシャンとして、いまだ夢の途中にあったのです。彼のシンセサイザーは、つましい暮らしの中に光る宝石です。


 さて。寄り道しましたね。


 茨木さんの訃報に接してからぼくが始めたことのひとつ──『茨木のり子集 言の葉』(筑摩書房)を読み返すこと。再読には再発見がつきもの。ぼくは結局、人々によく知られた作品、代表作だけを記憶にとどめていたのではないか。そんなことに思い至りました。けれども茨木さんの作品に愚作はないし、なによりすべての作品には、生涯を貫く強固な背骨がある。たとえば。



それはみずから立って
無慙な蛙そっくり
大地にたたきつけられることだ
そしてふたたび立つことだ
あるいは立てぬままかもしれない
     (「劇」)

 「倚りかからず」の作者はすでに、第一詩集『対話』に屹立しています。


 ぼくが始めたことのふたつ目。旋律に乗った茨木のり子を聴いてみる。合唱組曲「はじめての町」(佐藤敏直作曲)は鶴岡市の委嘱作品であり、ぼくも初演に立ち会いました。堂々たる作品。沢知恵さんの「わたしが一番きれいだったとき」も最近聴いたアルバムです。


 「詞」と「詩」は明らかに違うので、そして茨木さんの詩は谷川俊太郎さんのような「軽やかさ」「リズム」を持ち味とはしないので、正直なところ、楽曲になった茨木さんには違和感が伴います。しかしこのあたりの感想は、もう少しいろいろな作品を聴いてからにしましょう。


 ともあれ、茨木のり子と出逢う旅がぼくの中で新たに始まっています。ぼくが守るべきものを守り、見るべきものを見、対峙すべき時は対峙することをやめないかぎり、旅は続くことでしょう。倦まず弛まず、歩み続けなければなりません。(06/03/24)
 
 ● 茨木のり子(本名三浦のり子)。2006年2月17日、くも膜下出血にて死去。79歳。

 

茨木さんの散文

 ぼくの一番好きな、詩人・茨木のり子さんのお仕事(作品)が、じつは『詩のこころを読む』(岩波書店)だったりします。ご自身の詩は一編も収められていないけれど、さまざまな詩人の作品を紡ぎ、紛う方ない茨木さんの詩の世界を織り上げる、その手際の鮮やかさ。


 この本は全体が人生を謳い上げる詩になっています。だから、ぼくは今までにも何冊か、卒業あるいは進学・就職のお祝いとして、子供たち、甥っ子たちにプレゼントしてきました。視界がはるばると拓けていく本ですから。

 面妖な大人社会の入口に立つ青少年にとって、またそのころの「感受性」を失うまいと願う大人たちにとって、『詩のこころを読む』は生涯の羅針盤、あるいは清水を組み上げる井戸となるに違いありません。

 茨木さんの散文は素晴らしい。毎日『茨木のり子集/言の葉』(筑摩書房)を読み返していて、つくづくそう思います。

 深澤忠孝さんも「現代詩手帖」(思潮社)の「茨木のり子追悼特集」で触れておられますが、「はたちが敗戦」の中の、「二十五年間を共にして、彼が癌で先年逝ったとき、戦後を共有した一番親しい同志を失った感が痛切にきて虎のように泣いた」という一節。「虎のように」とは、なんと激しい、傷みに満ちた表現であることか。後を追いたいと綴り、生きていたくないと話していた彼女の生身の悲しみが、簡潔であるがゆえの痛切さで迫ってきます。詩人ならではのエッセイ。

 ところで、深澤さんは〈茨木さんも鶴岡にある夫のお墓に入られるはず〉と書いておられました。たとえお骨になったとしても、彼女が近くにいてくれるのは、ぼくにはとてもうれしいこと。倚りかかるつもりはないけれど、見守ってくれるということは。

 それにしても茨木さん。「寂寥だけが道づれ」の日々がようやく終わりましたね。あなたのたたかい、あなたの浴びた返り血が無駄にならないよう、ぼくは生きたい。(060402)

未収録初期詩篇

 茨木さん初期の詩集未収作品掲載がうれしい「現代詩手帖」(茨木のり子追悼特集号)。

 「いさましい歌」は粗削りなダイナミズムがミケランジェロを思わせ──実物は見たことないけど(‥;)──、「焦燥」に生まれ出でんとする意思の力は、これなくしては茨木のり子とは言えないものだ。

 辻井喬さんが特集号の中で指摘されているように、「彼女の作品が現代詩にもたらす肯定的要素、つまり思想的深さとスケールの大きさを僕たちは茨木のり子の遺したものとして受取るべきではないか」。

 ぼくたちはあわあわとした夢、そこはかとない嘆息を「日本の美」であるかのように思い、思わされてきたけれども、茨木のり子の流儀、その勁さと深さこそが、ほんの一握りの貴族や武士ではない、一般の市井の人々のもつ美意識と繋がるものではなかったか。なればこそ、ファッショナブルな左官屋の「奥さんの詩は俺にもわかるよ」の言に、「うれしいことを言い給うかな」と(「二人の左官屋」)、茨木さんは繋がることのうれしさを籠めて応じたのではなかったか。

 「茨木のり子という詩人は生涯屹立した存在であった」とも辻井さんは書き、孤高を思わせもするが、それはあくまでも詩壇での話。茨木のり子ほど、日々わずかな糧を得て暮らすぼくたち生活者の喜びと悲しみ、その癒しがたい傷・汗に寄り添い、勇気づけてくれた詩人は他にいない──ぼくはそのことを、ささやかなホームページの管理人の元へ時に寄せられるメールを通して、実感しているのです。(06/04/04)

埴輪

 ラジオドラマ「埴輪」は、1958年、茨木さん32歳の年にTBSラジオ芸術祭参加ドラマとして放送された作品。名優の誉れ高い滝沢修さんや山本安英さんらが参加されたこの詩劇もまた、茨木さんの面目躍如といった感があります。

 たとえば、埴輪造りをさせられている奴隷の一人が語り部の翁に言うセリフ。

 語り部の長の口ウツしに、ありきたりのでっちあげの物語をしゃべるんじゃなくさ、おばばの眼が本当に見たもの、おばばの耳が本当に聴いたものを語れよ。

 して怖いのはそのあと。唆された? おばばが、「下積みの者たちのざれ歌」「いま生まれたばかりの話」を口にしたとたん、それを耳にした倭の役人・野見宿禰に消されてしまう。

 
 はみ出すことは許さぬ。もはや倭は……

 
 加えて紹介するなら、やはりラストでしょうか。

 
 自由、自由という日本語、なんてゴロが悪いんだ、なんて坐りごこちが悪いんだ。
 「自由」には僕たちの血がまだ流れていない。
 「自由」には
僕たちの肉がまだくっついていない。


 「埴輪」が書かれてから半世紀が過ぎたのに、まだ「自由」には、ぼくたちの血が流れていない。まだ「自由」には、ぼくたちの肉が、流れていない。ぼくたちが許し、許されているのは、いわば他律的な自由にすぎない。(06/04/10)

 

マイホーム主義

 いつものように『茨木のり子集 言の葉(2)』を読み返していると、160頁の7行目に蛍光ペンが引かれています。すっかり忘れていたのでしたが。

 マイホーム主義が思想の原点ともなる──ということを日本人は知らなかったし、今も知らないと言える。

 日本の男たちが「男らしさ」を強調するのはその本質が「女々しい」せいだし、やたら天下国家を語りプチ・アドベンチャーに出かけたがるのは母なる港に舫う安心感あってこそ。いっそむき出しの自分を露出して見せなよ。それに徹底的にこだわってみなよ。

 
 金子光晴の抵抗は何かの特殊で偉大な思想に依ったのではなく、拠点はマイホーム主義であり、生きのびる思想であったのだ。

 
 家庭を守ると言うのは決して保守的な行為ではありません。その究極は「さよならにっぽん」をも覚悟することでなのでしょう。(06/06/10)

 

「追悼のつどい」のこと

 17日の「茨木のり子追悼のつどい」。菩提寺・浄禅寺住職は「近くは隣りのおばさん、遠くは韓国」からも墓参にいらっしゃるファンの方の様子を紹介されました。人生の辛い時期に茨木さんの詩に出会い、励まされてきたというある女性は、お墓の前に立つなり「会いたかった」と号泣されたとか。わかります……。

 また、亡くなる数カ月前にご自宅に伺ったという実行委員の一人は、その日に茨木さんが腰掛けておられた椅子について、「倚りかからずの椅子ですか?」と尋ねたときのことを語ってくれました。茨木さんのお返事は、なんと、命日に刊行されたばかりの詩集『歳月』に収められた、「椅子」と題する作品とまったく同じ内容だったそうです。

 会場では最新詩集『歳月』をはじめ、現在入手できるかぎりの茨木さん関連の本が販売され、大勢の方が求めておいででした。これも嬉しかったことのひとつです。(07/02/19)

詩集『歳月』を読む

 詩集『歳月』を読み、「てれくさい」として生前には出版されなかったその理由に思いを巡らせました。


 一種のラブレターのようなもの──たしかに、赤裸々な告白、ナマな表現を得手としない彼女にしてはめずらしく、ずいぶんストレートに、失われた愛の生活を書き綴っています。たとえば「獣めく」。照れ臭かったのは確かでしょう。

 しかし、それだけではないようです。

 つまり、ぼくは率直に言って、収められた三十九編の詩のほとんどに、作品としては何か足りないと感じたのです。何かが違うと感じたのです。まず内容的には、「救いがない」。

 たとえば冒頭に置かれた「五月」。絶望にふさがれ、立ち上がることすらままならぬ彼女の姿。エッセーに書く「虎のように泣いた」日々があられもなくぼくたちの前にさらけ出される。ナマの絶望が悪いわけではない。悪くはないのだけれど、それに最後までひきずられるのはやはり違う。

 かつて彼女が書いた「飛翔」ということ。〈言葉が離陸の瞬間を持っていないものは詩とはいえない〉ということ。あるいは〈浄化作用(カタルシス)を与えてくれるか、くれないか、そこが芸術か否かの分かれ目〉ということ。

 ぼくには『歳月』の作品の多くは「離陸の瞬間」を持たず、いや持てず、したがって読み手に「カタルシス」を与えてくれないように感じられます。それだけ絶望が深かったということでしょうか。その深さが、ダイアローグをこそという気概に溢れていたはずの彼女をすら、モノローグの世界に押し込めてしまったのでしょうか。


 作品としての弱さ。しかしそれもこれも、第一級の詩人たる彼女には知れ切ったことであったに違いありません(同じように愛の詩でも、立派に離陸の瞬間を持つ「大男のための子守唄」などは詩集に収められ、出版されている)。……それでも捨て置き忘れ去るわけにはいかなかったのです。

 これらの詩篇を世に出すことは照れ臭い。三浦のり子としても、茨木のり子としても。

 にもかかわらず彼女はその存在をほのめかし、編集者とは出版の約束まで交わしていました。なぜならそこには、彼女にとって何者にもかえがたい、詩のミューズの入りこむ余地さえない、夫との愛の世界があったから、そこに素の彼女がいたから──に違いありません。そう思い至るなら、茨木のり子の人生は『歳月』を得たことによって見事に円環を閉じた、と納得できるのです。


 そろそろぼくも彼女の眠る浄禅寺に足を運び、墓前に手を合わせる頃合いのようです。(07/02/22)