懐かしい『鳥かごの詩』
個性的な面々が顔を揃えた店にやくざのタケシが康夫を探して現れた時、仲間たちはそれぞれに康夫をかばい、タケシに相対する。社会の吹きだまりにおし込められているような彼らが、てんでバラバラの人間の集まりのような彼らが結束する美しい場面です。あるいは哀れかもしれないけれど──だって、相手のタケシと彼らの距離だってさほどないし、結果は惨憺たるものだから。でも同じような境涯の人々と寝起きし、一緒に働いてきたぼくには、その心意気がよくわかるのです。好き嫌いとかではなく仲間、また仲間を守ることが自分を守ることなんだ。
印象的といえば、やはり元やくざの(タケシの父親でもある)配達先のおじいちゃんの家に招かれて食事をする場面も心にのこります。いっとき彼の心に棲みつきそうして離れざるを得なかったサキちゃん、それからトシもテーブルの前に座り、老人は母親と妻を殺された東京大空襲の体験談を語るのです。
新聞屋とその周辺には本当にいろいろな人がいる。褒められた人ではなく、褒められた人生ではないのかもしれない。けれどそれもまた人生。自らが体験した空襲や当時のベトナム戦争を引き合いに出して、老やくざは語るのです。
やくざには、ときに命のやりとりがある。しかしな、関わりのない者には、絶対に手は出さねえや。それが、どうだ。かまわずに殺す。人ひとりの命には、父や母、連れ合いや恋人、子に兄弟、もろもろの心が纏い付いているんだ。それをあっという間に奪いやがる。あれは、人のすることじゃねえ。
小説の後半、サキちゃんをめぐる争いは少しエンターテイメント小説的にすぎ、まあ文字通り小説だから仕方ないのだけれど、そこまでのことは滅多にないよ、と言いたくなります。でも気になるなあ、五十歩百歩の世界ではあったもの。康夫に天国と地獄を見せつけたサキちゃんは、幸せになれたのだろうか。トシ、キミは愚かだが立派だ。表の世界で生きてくれ。新聞販売店の仲間はその後どうなったのだろう。羽ばたいていった人も、澱のように沈んで行った人も。
昭和四十九年春。A新聞T専売所でぼくが出会った人たちは、あれからどうしているだろう。ぼくをかわいがりいつもおすし屋さんに連れて行ってくれたAさん、お元気ですか? オヤジさん、そしてみんなのお母さん代わりでもあった奥さん、お世話になりました。何のお礼も出来ずにいるけれど、ぼくは感謝の気持ちを忘れたことはありません。
『吹雪く野づらに』を借りる
斎藤秀一(さいとうひでかつ)は知らない名前でした。教えてくれたのは、山根基世講演会実行委員仲間の小田さんです。治安維持法違反で検挙、投獄され、1940年に病死した、鶴岡市櫛引生まれの人。知っていなければいけない人でした。
著者の治助先生は2年前に亡くなられましたが、文字通りの「先生」。ぼくが鶴岡第一中学校に在学中、直接教えていただいたことはなかったものの、先生として勤務しておられました。先生が並の先生ではないことを知ったのは何年か後のことで、三省堂から出版された『ワッパ一揆』が(ぼくの記憶に誤りがなければ)朝日の書評で取り上げられ、評判になってからのこと。にもかかわらずぼくは『ワッパ一揆』はおろか他の著書もついぞ手にすることはなく、今日まで来てしまいました。
ぼくのような小さな人間にもやるべきこと、やりたいことはたくさんあります。もうすでに手一杯なのだけれど、だからといって郷土の人間の業績に無知であって良いということにはならないでしょう。怠惰な自分にむち打って、わずかでもその志を受け継ぎたいものだ。
森と人間
予定の入っていない日曜日
萩原俊治さんの「森有正の『経験』」、細谷昌志さんの「森有正論」。そして二宮正之さんの「グローバライゼイションに対する森有正の思想」。それぞれのフォーカスに感心しながら、待てよ、森の芸術論を真正面から取り上げたものは?……と気づく。宗教・哲学・思想・文学・言語等々、様々な切り口から、またそれぞれの研究者から彼は語られるけれども、音楽や美術の分野でその専門家から論及されたことは、なかったような気がします。
家にいるばかりではもったいないので、午前中お隣酒田市の酒田市総合文化センターをたずね、「山根基世講演会」ポスターの掲示をお願いしました。そして夕方は、思いついて動物病院へ。狂犬病の予防接種の為だけど、早朝の散歩で気づいた愛犬の「できもの」をついでに見てもらったら、「ダニ」とのこと。すぐに取ってもらいましたが、油断できませんね。自然が豊かなところを日頃散歩していると、いらないものまで貰ってしまうようです。ところで。
アルヴォ ペルト(Arvo Part)って、凄い。エストニア生まれの作曲家というのですが、「Cantus in memoriam Benjamin Britten for String Orchestra and Bell」には驚きました。「100 Best 20th Century Classics」には他にも、ペルトの「Spiegel im Spiegel for Violin and Piano」「Beatus Petronius」が収録されていて、先のhilip Glassとあわせ、プロデューサーの嗜好が伺えるような気がします。いや20世紀音楽の特徴なのかな。ミニマル・ミュージック、すなわち音の動きを最小限に抑えパターン化された音型を反復させる音楽、とか。反復してたなびく感じが、ケルトっぽくない? ペルトやグラスの発見は自分自身の発見でもあったようです。21世紀になってようやく20世紀を発見するのだから、シロウトは怖い。
ミシュランガイド
鶴岡に関する情報は416頁から421頁にかけて記載。見出しは「Tsuruoka et ses environs/鶴岡」で、「鶴岡とその周辺」ということでしょう。417頁は写真になっています。
残念なことに鶴岡の写真はありません。松島や白神山地の写真になっています。そもそも日本の観光ガイドとは違って、ミシュランのそれはテキスト中心なのですね。ミシュランで有名になった東京の高尾山だって記載はわずか本文16行、写真無しです。
ぼくの語学力では辞書をひき引き、結構な時間と根気を費やして取り組むしかありませんが、「修験道と山伏」というコラムがあったりして、記述はなかなか充実している印象。楽しみですね。お、ぼくも昔泊まったことのある羽黒山斎館や、近頃有名なイタリアンレストラン「アル・ケッチャーノ」も紹介されているぞ。
瘋癲とは
志村さんの調査によると、「ふうてん(瘋癲)」という言葉は、『広辞苑』第一版(1955年)・同第二版(1969年)では「後天的精神病の中で、言行錯乱・意識溷濁(混濁)・感情激発の著しいものの俗称。きちがい。癲狂」と説明されているそうです。これではフーテンの寅さんはきちがい寅さんになっちゃう。それが第四版(1991年)では「精神的状態が正常でないこと。また、そういう人。癲狂」と多少まともな寅さんになり、もっとまともになるのは1998年発行の「第五版」から。今までの語義説明に加えて「定まった仕事も持たず、ぶらぶらしている人」という説明が、項を分けて記載される。これって寅さんそのものですね。
そして注目すべきは最新版、2008年発行の「第六版」で、なんと旧版の説明にさらに加筆され「(フーテンとも書く)定まった仕事も持たず、ぶらぶらしている人」となっているのだとか(実はぼくはまだ「第六版」を買っていない)。面白いなぁ。まさしく「『広辞苑』に影響を与えた寅さん」ですね。
松浦弥太郎さんの編集後記
それは彼が子供のころのお話で、ある晩父とけんかをして家を裸足で飛び出したことがあったそうです。「だいぶ走ったころ、後ろを振り向くと、おそらく当時40歳の父ですが、裸足で走って追いかけてくるのです」。
これはまずいとさらに走り出す弥太郎少年。一時間くらい走って、疲れてしまって隣町の公園のブランコに腰を下ろし真っ暗な夜を過ごしていると、「遠くから人の走る音がひたひたとしました」。足音の主はお父さんでした。「ランニングにトランクス一枚の下着姿」、肩で息をしてすぐにでも倒れそうなお父さんでした。
決して諦めないのが、決して子を見放さないのが親というものでしょう。弥太郎少年はもちろん、一晩中でも走り回って自分を探してくれるに違いないお父さんと一緒に家路についたわけですが、「親が子を思う、うそのない愛情を、父のその姿から強く感じ取った」そうですよ。
親業って本当に大変。だけどこれくらいまっすぐな仕事って他にないんじゃないかな。ウラオモテのない、計算のない、うそのない愛情です。
米原万里の毒
希代の毒舌家として知られた米原万里。友人知人の誰もがその毒を浴びたというけれど、それでも開催された米原万里展のために、山形のような田舎くんだりまで多士済々50人もの面々が列車に乗り合わせる。米原万里とはそういう人だ。
掲載されたテキストのどれもが面白く、興味深いものだけれど、ロシア文学者沼野充儀さんとの対談(2005年9月10日)で放った皮肉はいかにも彼女らしく、お見事でしたね。
沼野さんが紹介する現代ロシアの詩人ロシフ・ブロツキーの講演の下り(「もしわれわれが支配者を選ぶ時に、候補者の政治マニフェストではなく、読書体験を選択の基準にしたならば、この地上の不幸はもっと少なくなる云々」)を受けて、
そういえばサダム・フセインが洞窟で捕まったときに読んでいた本が『罪と罰』でしたね。それで小泉首相の愛読書は『あゝ同期の桜』だっていうじゃないですか?(笑)
痛烈だねぇ。で、麻生現首相の愛読書は漫画ですって? ──嗤ってられない。
日本で最も美しい村
いずれも美しい、そして里の伝統が根付いている、生き生きとした村里です。都会へと逃げる人よりも、都会から導かれるようにして人が集まる里のような気がします。
山形県では大蔵村が加盟していて(近く飯豊町も加わるらしい)、美しい棚田や肘折温泉、東北最古の蔵元・本陣跡のある小屋酒造などが紹介されていました。ぼくも仕事の関係で本陣跡のあたりには時々行くのですが、確かに門からして風格あるたたずまい。前々から豊かさを感じさせる街道筋とみてきました。往時の繁栄を思わせる町並みは県内にはけっこうあって、ぼくがよく通る所では狩川とか左沢などもそうですね。いずれも最上川沿いで、やはり紅花が決め手だったのでしょうか。
寅さん映画のロケ地に加え、子育てが一段落したら「日本で最も美しい村」々を、のんびりと予定も立てずに尋ね歩きたいものだ、と思い思い著者のプロフィールに眼を通すと、なんと母校(和光大学)の先輩ではありませぬか。小さな無流大学の卒業生の名を見ることは少ないので、フム、これはうれしい。応援しますよ、佐伯さん。
青春は終わる
「終わる日が来るんですよね」。その日の夕方、再び研究室にやってきた学生は言いました。私は大きくうなずきました。「ああ、うれしい。なら、わたし、生きられます、ぜったい」。学生はきっぱりと言って、帰っていきました。うれしくなったのは私のほうでした。(清水眞砂子『青春の終わった日』、「あとがき」)
胸詰まる小さな挿話。……このような人とこそぼくは出会いたい。
オジさんは如何にアン・シャーリーを愛してきたか
自身をギルバートに擬していた小学校時代、アン・シャーリーが誰であったかは(この世にあっては)諸事情もあって思い出せないけれど、ギルバード・ブライスになりきってアンに憧れることができるのは男の子の特権でしょう。どこが好きと言って、アンの向日的な明るさがたまりません。ぼくはといえば三人兄弟の長男。いわゆるおばあちゃんっ子で、親への甘え方、その質量が、そもそも少し不足していたかもしれず、ネクラなのはそのためかも。
あたしがクィーンを出てくるときには、自分の未来はまっすぐにのびた道のように思えたのよ。いつもさきまで、ずっと見とおせる気がしたの。ところがいま曲がり角にきたのよ。曲がり角をまがったさきになにがあるのかは、わからないの。でも、きっといちばんよいものにちがいないと思うの。(三八〇頁)
あまりにも有名な終章「道の曲がり角」の一節。ここには、いつも希望を見失わないアンの魅力が凝縮しているかのようです。それは彼女の生きのびていくための知恵でもあるのでしょう。今がどうあれ、その先にあるのはきっといちばんよいものに違いないという、自己暗示にも似た確信。
幼い時分、家の祖父母、隣近所のおじいちゃん・おばあちゃんとの付き合いの中で、人生の長い道のりと誰も避けることができないらしい悲しみや苦しみをうっすら感じ取っていたぼくには、明日を今日よりも良いと信じることのできるアンの明るさは憧れでしたね。彼女の想像力は魔法の杖です。これ以上に心強い人生の友はないはずです。
受験生時代はなかなか読書の時間が持てません。心の余裕が、と言い換えても良いかもしれない。でも『赤毛のアン』は、その喪われた心の余裕を取り戻してくれる本でもあるのです。だからぼくは、手探りでいた中学生、高校生の時もアンの世界を求めました。
でもねえ、マリラ。こんなおもしろい世界でそう、いつまでも悲しんじゃいられないわ、ね、そうでしょう?(一八二頁)
アンは苦しみも悲しみも楽しんでしまう術を知っています。これはおしんのような「辛抱」ではないのです。落ち込んでいるぼくを「辛抱して頑張れ」と励ますのではなく、「こうすれば今を楽しめるよ」と教えてくれるのです。アンにかかれば野宿に選んだ桜の木の上も大理石の広間に変貌します。挫折も困難も何のその。どうかすると単なる妄想、現実逃避と決めつけられかねないけれど、やはりこれは、どこにでも希望を見つけてしまうアンの魔法。魔法使い・アンを時に必要とするほど、ぼくの歩みもまた曲がりくねったものだったのですね。──さて。
五三歳になる今年、NHK教育テレビの語学番組で『赤毛のアン』が教材になることを知りました。その番組はわずか三か月で終わってしまったけれど、視聴をきっかけにネット上のライブラリから『Anne of Green Gables』を一章ずつダウンロードしてバッグに忍ばせています。わずかな時間を見つけて、出先で少しずつ「たどる」のです。原文はけっこう難しいので──なにせ中学生レベルの語学力だから──読み慣れた村岡花子訳『赤毛のアン』との併読になります。原書は想像力で読むのサ。
成長すれば誰だって、大人社会は子供社会の何倍も非情で、残酷で、苛烈であることがわかります。そのなかで成功する大人の判断基準というものは、「自分の役にたつか、たたないか」だけのようです。学校教育の目指すところとは大いに違うでしょう?
この誰にでもわかる落差を、容易に飛び超えることのできる人のほうが、むしろぼくには信じられない。けれど容易くはないとしても、多くの大人は少しずつなじんでいくのです。そしてその代償を払うかのように傷つき、時に返り血を浴びて薄汚れていくものなのです。
わしらのほうであの子になにか役にたつかもしれんよ(四三頁)
彼なくしてはアンの世界は成り立たないと確信させる寡黙なマシュウの、マリラを仰天させた一言。この言葉は汚れちまったぼくたちの心をも穿ちます。自分の役に立つかどうかじゃない、自分が誰かの役に立てるかどうか、それこそがまっとうな人間の判断基準であり行動規範だったんだ、と。
けだし『赤毛のアン』は癒しの書であるのみならず、人生の書でもあったのです。オジさんの愛はまだまだ終わりません。
嗚呼、ドストエフスキー
ドストエフスキーを読むなんて大学生以来のこと。今のぼくに読めるのか。気力が持つのか。体力は、根気は、知力は、お目めの具合、懐の具合は。……ガンバリマス。
著者(もちろんドストエフスキーのことだが)曰く、「今のご時世、人々に明快さを求めるほうが、かえっておかしいというべきなのだろう」。闇なのだ、人のこころは、行動は。なぜ? どうして? そんな分析、そんな解析の試みがいかほどの意味を持つのか。なぜ人は明快な理由づけを求めたがるのか
「それがどんな悪党でも、わたしたちが一概にこうと決めつけるよりはるかに素朴で純真である」。そうして素朴で純真なものほど始末に負えないものはないのだ。悪党はあくまでも悪賢く、狡獪かつ残忍でなければならないのだから。高貴なる混沌。この、ひとのもつ魂の謎を、今の時代だからこそもう一度覗いてみたいと思ったわけだ。疲弊したぼくではあるけれど、亀山さんの訳なら否応無く引っ張っていってくれそうな気がして。
借りた本二冊
一冊は山崎ナオコーラさんの『長い終わりが始まる』。ぼくには似つかわしくない作者であり作品と思わないでも無いけれど、じつは彼女は朝日新聞のたしか日曜版(あれ? 土曜版?)にコラムを持っていた時があって、ぼくはけっこう共感を持って読んでいたのです。だから、本を購入することまではしなくとも、図書館から借りるなら良いかなと思って。
もう一冊は、藤沢周平の『帰省』。彼の本なら是非にも揃えたいが、まあ蔵書は、そのうち出るはずの文庫本としましょう。
さっそく読み始めた『帰省』はいかにも親しさに満ちたもので、炉辺談話風。読みやすく、楽しく、そして作者の人柄やものの見方、生きる姿勢が良く伺えます。神々は細部に宿る。掌編にこそ、そしてささやかなエピソードにこそ。気楽に、しかし心して読みたい一冊です。
ドストエーフスキー覚書
渡欧前の森の、火傷しそうなほど熱い筆致でドストエフスキーの世界に触れていると、無性に彼の小説を再読したくなってきました。本好きなら誰でも、一度はドストエフスキー病に罹病するものでしょう? ぼくも学生時代にすっかりハマってしまい、主に電車の中で、だったけれども、文庫本を次々に買い求めて読みふけったものでした。
最近は亀山郁夫さんによる新訳が評判のようです。今読むならこちら? でもまだ『悪霊』は出ていない。さて、どうしよう。
影響
西江先生はまったくもって破格の人。彼の講義を受けた人、彼の本を読んだ人と、彼と無縁であった人とでは、根本・人間の土台が違うのではないか、そんな気さえします。こちらのサイトで、その辺りを感じ取っていただけるかどうか。
西江先生と森有正に影響を受けた人生という点では、江村さんとぼくは似ていますね。親近感を覚えるけれど、そのあとがまったく違っちまったからなぁ。ぼくはうだつが上がりません。それからずっと。おそらくこれからもずっと。
最近の本屋さんは
ただぼくは喧噪が嫌い。このテの書店は流れる音楽もうるさいし、すぐに退散。昔の本屋さんは古書店ならずとも静けさが支配していて、あえて言えば知的な雰囲気でしたがね。今はあまりにポップです。
次に立ち寄ったのが、最近よく見かけるようになった古書(リサイクル本)チェーン店。ひょっとしたらひょっとして、岡本忠成のビデオが隠れているんじゃないかと思って。イヤー、ここもうるさいんです。それも新刊書点とはひと味違う、うるささ。ときどき店員のアナウンスが入るのですが、なにを言ってるか分からんのです。よほど注意して、耳をそばだてていてようやく八割がた分かるかな、という程度。ミミズが這うようなしゃべり方で理解不能です(ちなみにぼくの字はミミズが這うような書き方で判読不能です)。どういう事なんだろう、これは。ディスカウントの雰囲気に、やはりなじめず退散。105円以上の本はすべて半額! とあったけどなぁ。
本を読む時間だけはたっぷりあった週末です。自宅から持ってきた『森有正集成4』と『藤沢周平未刊行初期短篇』は、栞を挟んでいた頁から残りを読み終えました。森の本はいつ読んでも新しい発見があります。いえいえ、ようやく出会いつつある、という事でしょうか。発見というのは、じつは自分の中に発見するのです。
ともあれ、明日も半日時間があるし、どうしようかな。パソコン相手に過ごすことになるか。バッテリーが持てば良いけれど。
三冊も
一冊目は池澤夏樹さんの『星に降る雪/修道院』(角川書店)。彼の新作は見逃せません。他に、米沢市立図書館の蔵書をお借りした『岡本忠成作品集』(角川書店)と、天童市立図書館からお借りした『詩画集/汲む』(北泉社)。岡本さんのものは、本当はビデオになったアニメ作品集を見たかったのですが、なかなか見つからないのです。とりあえず本をお借りして、短編アニメ「12月のうた」の雰囲気を探ることにしました。
暑かった今日、午前中は『赤毛のアン』についての文章を書き、お昼は会社に行って少し仕事。それから松山にある和光園(知的障害者更生施設)の夏祭りに参加しました。いつもの様に地域の人たちも大勢集まった爽やかな集まり。フラダンスサークルの優雅な舞いにすこぶる感心。
サザエさんの東京物語
読後感は複雑です。何しろ著者の洋子さんは、ゴッドマザーと超個性的な二人の姉に組みしかれ(?)、長谷川家の框の中で長く暮らしてこられた方。葛藤もあって当然。『サザエさんうちあけ話』とエピソードの多くは重なりながらもその印象はかなり異なります。それはそれとして……。
終章の「国税局」はどうなんでしょうね。下世話な週刊誌に書かれるならともかく、当事者から遺産相続にまつわる話を聞かされるのはあまり気持ちのいいものではありませんね。町子さんの死に関しても〈洋子には絶対、知らせてはならない〉というまり子姉の厳命があり、第三者から密かに伝えられたという記述がありました。こうなると確執話になってしまいます。
長谷川家の真実を末娘の視点から覗くには興味深い本だけれど、しかしそれなら『サザエさんの東京物語』という書名はふさわしくないでしょう。長谷川洋子さんの自叙伝とも言うべき本です。
図書カード
さて先日、市立図書館から森有正の『思想の自由と人間の責任』(日本評論社)を借りてきましたが、まさしく古書の趣。全体が変色してシミだらけ、開くと書き込みまであります。それに、最近では見かけることもなくなった図書カードが、未だにポケットに差し込んであって。全体がデジタル管理になっても、古い蔵書のカードは処分されていないようです。
昭和25年刊行のこの書籍は、すぐに市立図書館の蔵書になっています。読者層が20歳前後だとすると、『思想の自由と人間の責任』の図書カードに名前が残っている方たちの多くは、既に鬼籍に入っているのかもしれません。ぼくの名前をこっそり書き加えたりして……は、いけませんよね。でも何となく、仲間に加わりたいような。
アノ時代を振り返る
どうも最近、この手の本、つまりある人物・あるキャラクターを通して時代を振り返る内容の本に手が伸びるのです。単なるノスタルジーか? そうかもしれないが、ある種閉塞感の立ちこめる中、自己実現の時代を読み直すことで、癒しとともに、トンネルを駆け抜けるエネルギーをもらいたいという願いもあるのかもしれません。
ところで、藤村有弘さんの評伝を誰か書いてくれないかしら。あのハチャメチャな才能はYouTubeで偲ぶことはできるけれど、評伝をもじっくり読んでみたい気がします。取り組むに値する人なんだが。
「世界一の……」
昔、亡くなった母から、休みの日にはグリーンハウスで洋画を観たという話を聞いたことがあります。佐藤久一が支配人だった頃のことでしょう。母の実家は酒田にあり、女学校を卒業してすぐ、地元の銀行に勤めたのでした。
「世界一の映画館と……」を読みながら、ぼくは若かりし頃の母とその時代を偲ぶことになりそうです。
『ウィンディ・ストリート』を読了
出だしはいつになくゆったりしていた『ウィンディ・ストリート』ですが、半ばあたりからは例によって息もつかせぬ筆致、怒濤の展開。面白く、時に怖かったです。
終章、盟友ロティが主人公V.I.ウォーショースキーに語った慰めはとても印象的なものでしたね。
人は希望のなかで生きていかなくてはならない。自分の仕事で世の中を変えることができるんだ、という希望のなかで。……救世主が到来するとすれば、それはひとえに、あなたのような人たちがこういう小さいけど困難な仕事をこなし、この過酷な世界に小さな変化をもたらしているおかげなのよ。(446頁)
希望という灯火を見失わないことが、ぼくたちの希望だね。
さて翻訳には注文を少々。「iブック」はやめて下さい。iBookでしょう。「マック」も「Mac」の方がいいなぁ。ハンバーガーと勘違いされないように。
更新
お天気もまずまず良好。昨日一昨日と雨風にさらされながらも花びらはけなげに持ちこたえてくれましたね。良いお花見日和となりそうです。
注文していた『吉良の人物史』(吉良町発行)が届き、さっそく茨木のり子さんの項を読みましたが、実に良くまとまっています。およそ三頁分でしょうか。質量共に充実した解説は、だれにでも安心して勧められます。
ウィンディ・ストリート
いい働き口があったもの。そう、あのころは仕事があった。いまじゃ、未来があるなんてだれも思っていない。USスチールで一時間に三十ドル稼いでいた男たちが、いまでは〈バイ=スマート〉でその四分の一の賃金がもらえれば御の字なのよ。(79頁)
みんなが気にしてるのは株価のことだけで、会社を支えてくれてる人たちのことではない。(114〜115頁)
この国じゃ金持ちしか病気になれないの?(176頁)
まったく、彼女の小説はミステリの世界を越えています。
桜の蕾も色づいてきましたね。
浮世絵師
解説で阿部達二さんも取り上げているけれど、第三章で北斎が最初の妻との日々を回想する下りは印象的です。想像でつくった文章ではない、藤沢周平その人の傷口から流れ出る血で書いたような一節なのです。
ところでこの短編は、最後、「長い孤独な戦いが終わったことには気づかなかった」で終わるのです。しかし〈終章の(嫁の千絵との)和解は安易のそしりをまぬがれない〉。若書きゆえ、でしょうか。阿部さんの、「文壇に打って出ようとする藤沢が、新鋭の目で見た大家の老残をではなく、追い上げられる大家の焦慮、不安を描いているのは奇妙」という指摘と合わせ、じっくりと検討してみたいところです。
ドリームガールズ
市立図書館から、スペンサーシリーズの新刊『ドリームガール』を借りてきました。これは、先月の新着情報にあったのを見つけてすぐに貸し出し予約をしておいたもの。その時点で既に三番目の予約者になっており、先週末にメールでは(貸し出しの準備ができると、図書館ではメールで知らせてくれます)さらに続く予約者が4人とあります。人気があるんですね、このシリーズはやはり。
昔は本は買うものと心得、すぐに読めるかどうかは別にして気になる本を見つけると衝動買い、そして読むときはラインマーカーを引きあるいは頁を折るなど、自分のモノでなければ出来ないような乱暴な所行だったが、借りた本ではそうもいきません。今は付箋を活用しています。そしてもちろん、返す前に必要な箇所をパソコンに入力しておくわけです。
シリーズも長くなり、『初秋』の頃のような感動はもう望むべくもありません。それでも新刊を手に取りたくなるのは、やはり主人公たちの人間味溢れる、知性あふれる会話の故でしょうか。
ようやく読了
さて今日は、米原万里の『パンツの面目ふんどしの沽券』をようやく読了。このところ公私に忙しく、図書館から借りていたこの本を、なかなか読み進めることが出来ずにいました。昨日の日曜は仕事だったものの、今日は休みなので午前の時間をあててようやく、です。
米原万里、面目躍如の「禁断のエッセイ」。博覧剛毅、つきぬ探求心、目を見張る演繹力。惜しい人をなくしましたね、本当に。
三が日
NHK教育で「特集赤毛のアン」を見ました。長年のファンとしてはうれしい限り。茂木健一郎さんも筋金入りのファンだったなんてね。
4月からは原書で読む赤毛のアンという趣向の番組も始まるようで、それも楽しみです。ぼくも一度読みたいと思って、ペーパーバックスだけは買ってあったのだけど、語学力が伴わず今ではその本すら行方不明。それでも懲りずにiTSでオーディオブック版をダウンロードして、ハードディスクの肥やしにしていますよ。
番組を見ていて、好きなセリフのアンケート結果第一位が紹介されたところで思わず涙しました。死の直前にマシューがアンに伝える愛の言葉。「……でもわしは、1ダースの男の子よりも、アンのほうが良いよ」。そうなんだよね、ぼくもこのくだりを読むといつも胸がアツくなってしまう。
個人的に好きで勇気づけられてきたのは、「……今、その道は、曲がり角に来たのよ。曲がったむこうに、何があるか分からないけれど、きっとすばらしい世界があるって信じているわ」だけれど。いつでも希望を見つめ続けるアン・シャーリーです。
『ガンバとカワウソの冒険』(斎藤惇夫)を読み終えました。いまさらですが、これは傑作です。すべての登場人物(?)たちがメッセージを伝えてくれる。あの幼いカモクさえもが、最後に、「か、な、し、み、を、し、れ」「き、ぼ、う、を、す、て、る、な」と。ちっとも甘くはなく幼くもない物語『ガンバとカワウソの冒険』。付せんがいっぱい貼られたこの物語を、返却期限までに整理しなければいけません。
さらには3DソフトのiShadeもチュートリアルをある程度辿り、なんとかなるかナーというところ。覚えたつもりで忘れてることも多いので、まだまだ先は長いのですが。
頑張ります。
なんてことのないクリスマス・イブ
スザンナ・タマーロの『大地の息づかいがきこえる』を読み終えました。まるで創世記のような、あるいは「新」般若心経でもあるかのような書きだし。訳者あとがきには「ひじょうに宗教的な作品」とありましたが、確かに宗教的であり、哲学的、瞑想的です。重苦しい「自伝的」長編。徹頭徹尾重いけれどわずかに救いは見えるような。
雑踏を歩けばイヤでも聞えてきそうな軽いやり取りを今さら本で読もうとは思わないけれど、といってタマーロの語りかけは重すぎる。それなのに「イタリアで55万部突破」と言うのはすごい。アンドレアとヴァルターの父親の過去、すなわち欧州の負の歴史が、日本のそれのように易々と水に流されるような風土ではないのでしょう。人と人、文化と文化、歴史と歴史が常に入り交じり、せめぎ合い、時に火花を散らす欧州ですから。
夕方、娘を迎えに行き、そして市立図書館へ。『大地…』を返却し、『ガンバとカワウソの冒険』(斎藤惇夫)と『日本の農地改革』(R.P.ドーア)を借りる。前者はぶ厚く、後者は小さな活字で二段組。正月休みを挟むとはいえ、読めるかしら。
青の浄化
たとえば『愛がなんだ』(角川文庫)にしても、主人公をはじめ登場人物たちのバカっぷりについていけない。感情移入が難しい。こんなだらしなさでどうして生活していけるのか、あんなに飲み食いできるのか、想像がつかない。学生時代という、執行猶予期間中のことなら分かるけどね。
いちばん分からなくなるのは、たとえそういう生活があるとしても、それを小説にする意味が(少なくともぼくにとって)あるのかどうか、そんなヒマがあっていいのかどうか、ということ。テルコさんの思いが成就したところで彼女の人生に光が差すとも思えないし。
なんて、まともにテルコさんたちを受けとめようとするのが、そもそも間違いかもしれませんが。
……というわけで苦しい読書になったけれども、なんとか読み切ることができたのは149頁のおかげだな。ショーもない一夜が明ける頃合い、
気がつくと部屋の青はずいぶん明るみを帯びている。薄いブルーが部屋じゅうを満たしている。本棚もステレオも、テレビも掛け布団も、床に脱ぎ散らかした私たちの下着も。
青の浄化──上手く説明できないけれど、このわずか2行ばかりにぼくは救われ、ラストまで辿り着いたような気がしています。
箴言
人は苦しみでよりも、なにもないために死ぬものだ。苦しみなら立ち向かうこともできるが、なにもなければそれもできない。(133頁)
存在する唯一の教師は、唯一信頼できるほんものの教師は、自分の意識なのだ。(184頁)
およそ人間には二種類あるような気がするのです。『心のおもむくままに』に胸を熱くする人と、全く縁もゆかりもない人と。ぼくが心を寄せ信頼するのは、もちろん前者です。成長する過程で、まちがいを直したくなったら、いつでも思い出しておくれ。はじめに手をつけるべきは自分の内部で、それがなによりも大切なのだと。(207頁)
心のおもむくままに
もう冬のような天気なのに、のんきにこんな写真をアップするとは……。でも、その日はいい天気だったんですよ。晩秋そのものでね。
また別の日。庄内平野のど真ん中。交通量の少ないスーパー農道をひた走っていると、左から数羽の白鳥が離陸の体勢。あまりにも道路の近くから飛び立っているので、このままぼくが車を走らせていては危険のような気がして、ブレーキを踏む。すると一羽はそのままかまわずまっすぐに飛び立っていったものの、他の白鳥たちは左に旋回するではないですか。わずか数秒、ぼくは白鳥たちとの並走を楽しみました。その後彼らはさらに身を捩り、ぼくから離れていきましたが、こんな経験は都会に住んでいてはできませんよね。白鳥たちは単純にカッコいい。まるで飛行機のようにスマートに、飛び立っていきますよ。
さて、今日から『心のおもむくままに』(スザンナ・タマーロ)を読み始めました。ぼくはいつも「あとがき」を真っ先に読んでしまうのだけど、そのあとがきの冒頭での引用──「逝ったものがわたしたちの胸にのしかかるのは、おたがいに言わなかったことがあるためなのだ」。これだけで、この小説がぼくの人生の書になるだろうことが知れるような。
そういえばぼくは、よく母の夢を、去年亡くなった母の夢を見ます。長男の宿命としておばあちゃん子で、二階の両親の部屋にあがるのにためらいを感じていたぼくには、言いたかったこと、言わなかったこと、言えなかったことがたくさんある。だから、逝った母がぼくの胸にのしかかるのかも。
みぞるるや兄のねむれる忠霊塔(高橋零)
新祖国論

激しかった雷雨も過ぎ去り、爽やかに晴れ上がった朝。いつものように散歩をしていると、ハクチョウたちが頭の上を飛び去っていきます。日の光を浴びて純白に輝きながら飛ぶハクチョウたち。連れていってほしいなぁ、このぼくを──。
さて、忘れた頃になってAmazonから届いた辻井喬さんの『新祖国論』を少しずつ読みながら眠りに就く毎日です。書き下ろしではなく新聞に連載されたもののようで、ごく読みやすいエッセイの趣。紙幅もあって論証は十分とは言えないけれど、しかしその内容は示唆に富んでいますね。北欧によく見られるという、幼稚園と老人施設を併設するという事例も興味深いものでした。
結局、生活様式が変わってしまって、かつてはいろんな人たちが混在して成り立っていた社会が、今は効率良くかつ小奇麗に区分けされ、○○施設と名のつくものは郊外、甚だしくは山中にあって他の社会とのコミュニケーションを断たれていたりするのです。いまの社会はちょうどパソコンの中のように画然とフォルダに分けられている。管理しやすいように。かつての村落、地域社会にあった公共空間はもはや失われています。
人間たちをその本来のありように戻すのは難しいことかもしれない。けれども、より自然に近いコミュニケーション社会を英知によって保つことは不可能ではないのでしょう。
辻井さんが指摘されるように、〈子どもたちの問題と老人問題は背中合わせの問題〉なのです。
秋の一夜を吹浦で
土日の連休を遊佐町吹浦の隠れ家で過ごしました。里にも秋は降り、家の周りの木々はすっかり色づいています。ふだん人が住まない家はやはり寒々している。それに、独りだし。

持参したのは『ジャパンクールと江戸文化』(奥野卓司)という本で、今回はこの本を読みきるのと、頼まれ仕事にめどを付けるのがノルマ(?)。そして楽しみは、iTunesに仕込んだ音楽をたっぷり周りに遠慮なく聴きながら眠ること。いずれも見事達成、加えてポッドキャストのニフティ寄席も二つほど聞き終えて満足しました。DVDで「武士の一分」も見直し、美しいカットを堪能。
さて、『ジャパンクールと江戸文化』はアカデミックな論文ではなくなかなか読みやすいのがマルで、ややごった煮風で重複が多いのがバツでしたね。「江戸文化の再発見」や「伝統の発明」自体は別に新しい試みでもなく指摘でもありません。ただ著者はそれらをポップカルチャーに結びつけて積極的に評価しているのです。世界の潮流をも睨んで。
とはいえ、結論がどこにあるのかはイマイチ不明。「ジャパンクール」ブームの解説書としてならわかるけど、まさか終章の、
日本はIT革命ではアメリカに大きく水をあけられ……だが、デジタル・コンテンツにおいては、まだアメリカと対等に競い合っていく可能性が十分に残っている。……そして、ジャパンクールとして欧米で高い評価を受けているアニメやマンガ、ゲーム、Jポップとともに、江戸文化の流れを受け継ぐ歌舞伎、文楽、落語、浮世絵こそ、世界のどこにもない、日本の文化コンテンツであり、それらをデジタル化して発信すれば、世界中の人々をもっと楽しませることができ、私たちの文化をもっと知ってもらえるようになるに違いない。
が著者の結論ではあるまい? 開かれた江戸時代を語り、海外との交流、京劇やシェークスピア劇と歌舞伎・浄瑠璃との類似性にまでワールドワイドに風呂敷を広げておきながら、最後にアメリカとの競争や「世界のどこにもない」「日本の文化」を持ち出されると、ちょっと鼻白むんだなぁ。
読み終える
なに気ない一つの石であるように
昼の陽ざしのぬくもりが
夕べもほのかに残っているような
なつかしい小さな石くれであるように
(日塔貞子「私の墓は」第一連)
28歳で夭折した詩人・日塔貞子の評伝『雪に燃える花─詩人日塔貞子の生涯─』(安達徹著、桜桃花会発行)を、昨日ようやく読み終えました。
ぼくは夜、眠りに就く前の少しの時間を読書に当てていて、ここしばらくはこの評伝を読み続けていました。始めは他の本と交互に読んだりしていたのですが、日塔聡が現れたあたりからがぜん面白くなりましたね。最近ではベッドに入るのが楽しみで、読む時間が長くなり寝不足の日もあったくらいです。
生後十ヶ月で生母と別れ生家はほどなく没落、そして女学校を卒業した頃から結核性関節炎を発病して床につく日々だったという日塔貞子。彼女の残した詩はその中に社会性を求めることはできないものの、気高く美しく結晶しています。その聖性はリルケの詩にも匹敵するものではないかな……というのが、ぼくの第一印象。
初版が1972年という『雪に燃える花』は、日塔貞子を広く知ってもらいたいと願う桜桃花会の4人の仲間(奥平玲子さん・植松美智子さん・佐藤ひろ子さん・小松あや子さん)が昨年復刊したもので、彼女たちは詩集『私の墓は』の復刊も果たしています。その熱意、そのバイタリティーに拍手を送りたい。ありがとうございました。そこかしこで高い評価を得て、詩集も評伝も幻ではなくなりましたね。
もう後がない
あらすじの紹介や情景をよく醸し出す写真もさることながら、とりわけ良いと思うのが優れた読み手によるエッセー(「○○が読む」)。ぼくは、藤沢さんの作品はとにかく実際に(できれば)繰り返し読むのが一番で、下手な解説は不要と思っているけれど、このシリーズについては未読・熟読していますよ。
たとえば「09」号ではあさのあつこさん。ぼくは知らないけれど、そういえば娘が読んでいたな、という作家。彼女の文章はアツかった。
藤沢作品が好きで、好きで、読み続け、読み直し、読み漁り、いつの間にかその大半を読み尽くしていることに気がついたとき、私は少なからず慌てた。……すべての作品を読んでしまったら、もう後がないじゃないの……。
『風の果て』はそんな貴重な読み残しの一冊。読み終えてのち、あさのさんは「幸福」を実感します。
それにしても……と、わたしは目を開け、考える。とうとう『風の果て』を読んでしまったんだ。満たされながら切ない。また涙が出そうになる。そのくせ、心身に力が宿っている。読む前よりずっと強く宿っている。
これは批評や分析の類いではありません。彼女のこころの共鳴であり、それはまたぼくたち自身のそれでもあり、だからうれしいのです。
あ、あああ〜。今日はBSの寅さんまでもが終わってしまった。もう後がない。切ない……。
おいで下さい
ぼくたちは彼女の眠る鶴岡市で「追悼のつどい」を催します。あわせて『歳月』が世に出るなら、これ以上はない追悼になることでしょう。きっと成功させなければ。ささやかな集まりですが、茨木ファンの皆様、ぜひおいで下さい。もちろん「茨木のり子なんて知らないよ」という方も、話のタネにおいで下さい。目が覚めること請け合いですから。
ところで、スペンサーシリーズ(ロバート・B・パーカー)の最新刊『スクール・デイズ』を読了。久々の快作ですね、これは。舞台や事件が最近のぼくたちにも身近なものになっていますから。銃の乱射は別としてね。しかしその結末は、彼らしく苦いもの。
依頼者の願いを越えて隠された真実を追うスペンサー。
最終的にジェレドが学校で発砲した理由を知ったとき、私には何が残っているのか。真実だ。それはふたりの死ほど価値のあるものだろうか。世界はおそらく、より些細なことのためにより多くを失ってきた。が、彼らは生きていたのに、今はそうでない。たぶん真実は、死んでまで手に入れる価値のないものだ。あるいは、人を殺してまで。(204頁)
藤沢周平の世界

「藤沢周平の世界」創刊。全三十巻とのこと。こういう企画が成立すること自体が嬉しいですね。郷土の作家、大好きな作家が大きく取り上げられることが。
映画やテレビドラマの影響もあって、ここ数年藤沢周平がさまざまな雑誌で特集され、あるいはムックなどが出版されています。すると当然、海坂藩のモデルと目される鶴岡が取り上げられることにもなる。このシリーズでもさっそく、「海坂藩のモデル・鶴岡の歴史」と題した郷土史家による一文が掲載されています。
定番の企画は「鶴岡探訪」でしょうか。山本一力さんが6月の初め、鶴岡を取材に訪れたようです。「大山で犬まつりに遭遇」とありますから、6月5日にはぼくの住む大山にも足を運ばれたらしい。素朴な田舎の祭りですけど、広く知っていただけるのはやはり、その地に住むものにとっては心躍ることに違いありません。