横手にて
2009/02/25 07:42 格納先: Personal
巷は「おくりびと」の米アカデミー賞外国語映画賞受賞のニュースに湧いていますね。確かに良い映画でした。それにぼくは映画の舞台となった地に住んでいて、知人がチラッと出演したりもしているのですから、その点でもうれしい。
もっともこの作品、映画として冷静に見た場合、完成度の高さではあまり他の作品と競えないような気もしています。明らかなミスキャストもあったし、? と感じる部分はけっこうありました。ここまでやる(言う、見せる)かという、極端な表現がね。
それでもこれほどまでに広く支持されたのは、やはりテーマ故でしょうか。そして完璧に見事だったのが音楽。久石譲さんはさすがです。あのチェロの音色がなければ、この映画の魅力は半減したでしょう。
さて昨日は一仕事終えてから、横手市内にある石坂洋次郎記念館に立ち寄りました。彼はここで13年間教師を務め、「若い人」などを書き上げたとか。ささやかな展示ですが、吉永小百合さん直筆の弔辞なども収められ、美しい筆跡に見ほれた次第。
もっともこの作品、映画として冷静に見た場合、完成度の高さではあまり他の作品と競えないような気もしています。明らかなミスキャストもあったし、? と感じる部分はけっこうありました。ここまでやる(言う、見せる)かという、極端な表現がね。
それでもこれほどまでに広く支持されたのは、やはりテーマ故でしょうか。そして完璧に見事だったのが音楽。久石譲さんはさすがです。あのチェロの音色がなければ、この映画の魅力は半減したでしょう。
さて昨日は一仕事終えてから、横手市内にある石坂洋次郎記念館に立ち寄りました。彼はここで13年間教師を務め、「若い人」などを書き上げたとか。ささやかな展示ですが、吉永小百合さん直筆の弔辞なども収められ、美しい筆跡に見ほれた次第。
北帰行?
2009/02/15 09:06 格納先: Personal
朝いつにもまして上池・下池の辺りが水鳥たちの鳴き声で騒がしく、飛び立つ白鳥の群れも大きく感じられます。もう北帰行の季節かなぁと思いながら、愛犬を連れての散歩から戻りました。
ようやく順番が回ってきた米原万里さんの『心臓に毛が生えている理由』をとうとう読み切れず、今日図書館に返却するはめになっています。待ち人がまだいるせいで延長願いも却下されました。残念、また借りなきゃ。様々な事情が重なったとはいえ、本を読めなくなってきていますね、ぼくは。
ようやく順番が回ってきた米原万里さんの『心臓に毛が生えている理由』をとうとう読み切れず、今日図書館に返却するはめになっています。待ち人がまだいるせいで延長願いも却下されました。残念、また借りなきゃ。様々な事情が重なったとはいえ、本を読めなくなってきていますね、ぼくは。
追想 加藤周一
2009/02/14 07:05 格納先: Personal
朝日新聞連載の「追想 加藤周一」を楽しみにしています。昨日は池澤夏樹さんで、彼の父福永武彦との関わりもあって、若い時からその著書に親しみ、傾倒されていたとか。
ぼくの記憶にはなかったのだけれども、加藤周一の自伝「羊の歌」にある一節、「おそらく熱烈な愛国者の多くは、隣人を愛さないから、その代わりに国を愛するのである」は、なるほど至言ですね。言い回しもまたいかにも加藤さんらしい。
和漢洋にわたる豊富な知識を土台とする、科学者という出自にふさわしい緻密で論理的な言説。ぼくにとって森有正がバイブルであったとすれば、加藤さんは揺るぎない指針でした。
ぼくの記憶にはなかったのだけれども、加藤周一の自伝「羊の歌」にある一節、「おそらく熱烈な愛国者の多くは、隣人を愛さないから、その代わりに国を愛するのである」は、なるほど至言ですね。言い回しもまたいかにも加藤さんらしい。
和漢洋にわたる豊富な知識を土台とする、科学者という出自にふさわしい緻密で論理的な言説。ぼくにとって森有正がバイブルであったとすれば、加藤さんは揺るぎない指針でした。
卒展を観る
2009/02/13 12:26 格納先:
音楽とか美術とか演劇
近年高い評価を耳にすることの多くなった、東北芸術工科大学の卒業制作展を観ました。主目的は、同校のAO入試に合格した娘の課題提出付き添いでしたが。
あえて辛口の評価をすれば、卒展は「アマい」「ヌルい」作品が多い印象。むしろ各学生のポートフォリオに収められた2〜3年時あたりの作品に興味深いものがあったようです。造形なのだから、もっとエッジの効いた線が欲しい。堅固なカタチが欲しい。あの、ぼんやりとだらしなく広がる色彩で、いったい何を表現しようとしているのか。
社会との関わり、人間世界への眼差しが希薄なように思えます。芸工大の提唱する「東北ルネッサンス」が、当の学生の作品に反映されていないように感じられるのは歯がゆいところですね。とりわけ院生の作品に独りよがりが目立ちます。もちろん芸術は少なからず独りよがりなものだけれど、他者との接点の有無は、なぜ絵を描くのか、なぜ生きるのか、という根源的な問いへの回答になるはずのもの。執行猶予期間の戯れで終わってしまってはイカンのです。
新入生には丁寧で真摯な作業、確かな描写力、社会性のあるテーマの追求を期待したいものだ。昨日の講評会は担当教授による講評もしっかり時間を取り、熱のこもったものでした。入学前だけれども今日は第一回目の講義のつもり、とのお話もお聞きしました。せっかく就職に直結しない学部に入ったのだから、この際開き直って、創作活動に取り組んでほしいものだね。
あえて辛口の評価をすれば、卒展は「アマい」「ヌルい」作品が多い印象。むしろ各学生のポートフォリオに収められた2〜3年時あたりの作品に興味深いものがあったようです。造形なのだから、もっとエッジの効いた線が欲しい。堅固なカタチが欲しい。あの、ぼんやりとだらしなく広がる色彩で、いったい何を表現しようとしているのか。
社会との関わり、人間世界への眼差しが希薄なように思えます。芸工大の提唱する「東北ルネッサンス」が、当の学生の作品に反映されていないように感じられるのは歯がゆいところですね。とりわけ院生の作品に独りよがりが目立ちます。もちろん芸術は少なからず独りよがりなものだけれど、他者との接点の有無は、なぜ絵を描くのか、なぜ生きるのか、という根源的な問いへの回答になるはずのもの。執行猶予期間の戯れで終わってしまってはイカンのです。
新入生には丁寧で真摯な作業、確かな描写力、社会性のあるテーマの追求を期待したいものだ。昨日の講評会は担当教授による講評もしっかり時間を取り、熱のこもったものでした。入学前だけれども今日は第一回目の講義のつもり、とのお話もお聞きしました。せっかく就職に直結しない学部に入ったのだから、この際開き直って、創作活動に取り組んでほしいものだね。
羽黒山は?
2009/02/12 19:59 格納先: Personal
レストランガイドで話題を呼んだ「ミシュラン」から3月16日、日本の観光地を格付けした旅行ガイド『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』が発行される。(「日経WagaMama」)
とのニュース。フランス国内向けで、日本語版はないようです。
そういえば以前、ミシュランの記者(取材スタッフ)が羽黒山を訪れたという話を聞いたことがありました。このための取材だったのでは。残念ながら東北では松島近辺だけの紹介にとどまったようで、羽黒山は落選(?)したのかもしれません。
思うに、日本の観光地はうるさすぎます。パチンコ店の繁栄とあわせ、喧噪は日本のひとつの伝統なのでしょう。羽黒も随神門をくぐって石段を上がるあの雰囲気は良いけれど、その手前と頂上がねぇ。今ひとつ、感興を削ぐものがあるんだな。
七人の侍
2009/02/09 12:47 格納先:
音楽とか美術とか演劇
先週末、「七人の侍」をBSで再見。
百姓の出でありながら武士になろうとした菊千代。にもかかわらず武士を憎んでいた菊千代。その秘密はストーリーが進むにつれて明らかになってくるのだけれど、なんにせよダイナミックな映像で魅せる映画だね。そのダイナミズムは明らかに──末梢神経に訴える──貴族文化的なものではなく、庶民的土俗的なもの。もうひとつの、いやさ真に日本的な美意識ですよ。茨木さんの詩の本質にも通じるだろう。
野武士の放った火に焼けだされた子供を抱いた菊千代が叫ぶ「これは俺だ!」に象徴される彼の戦いは、菊千代が野武士との戦いを通して、自身の人生を生き直した軌跡と感じました。エンターテイメントにして芸術、芸術にして骨太の思想。やはり黒澤明監督は素晴らしい。
百姓の出でありながら武士になろうとした菊千代。にもかかわらず武士を憎んでいた菊千代。その秘密はストーリーが進むにつれて明らかになってくるのだけれど、なんにせよダイナミックな映像で魅せる映画だね。そのダイナミズムは明らかに──末梢神経に訴える──貴族文化的なものではなく、庶民的土俗的なもの。もうひとつの、いやさ真に日本的な美意識ですよ。茨木さんの詩の本質にも通じるだろう。
野武士の放った火に焼けだされた子供を抱いた菊千代が叫ぶ「これは俺だ!」に象徴される彼の戦いは、菊千代が野武士との戦いを通して、自身の人生を生き直した軌跡と感じました。エンターテイメントにして芸術、芸術にして骨太の思想。やはり黒澤明監督は素晴らしい。
大学パソコン
2009/02/04 12:25 格納先: Personal
昨日娘の進学する大学から(正確には、大学と提携している販売&サポートの業者から)、推奨パソコンの案内が送付されてきました。「キャンパスモバイルネットワークシステム」を利用するためにはこんなパソコンとソフトが必要ですよ、ということらしい。
ネットに「(業者がひらくパソコン購入の)相談会では×××の人からしきりにウインドウズをすすめられる」と書いてあったけど、なるほど、同封された(美大入学者に対して失礼なほどに)センスのないパンフには、MacBookのほかWindowsノートも3台エントリーされていて、しかもデザインや映像を除くほとんどの学科がWindows推奨となっています。○○○ならまだわかるけど、△△△△△△△△だものねぇ。あれはビジネスマシンでしょう。美大なのに!?
パソコンは創造のためのツール。靴や帽子ですら、履ければ良い、頭に載っかれば良いなんて思わないよ。もチっと考えてほしいなぁ。わが家はもちろんMacだから、惑わされはしないけれど。
ネットに「(業者がひらくパソコン購入の)相談会では×××の人からしきりにウインドウズをすすめられる」と書いてあったけど、なるほど、同封された(美大入学者に対して失礼なほどに)センスのないパンフには、MacBookのほかWindowsノートも3台エントリーされていて、しかもデザインや映像を除くほとんどの学科がWindows推奨となっています。○○○ならまだわかるけど、△△△△△△△△だものねぇ。あれはビジネスマシンでしょう。美大なのに!?
パソコンは創造のためのツール。靴や帽子ですら、履ければ良い、頭に載っかれば良いなんて思わないよ。もチっと考えてほしいなぁ。わが家はもちろんMacだから、惑わされはしないけれど。
それぞれの「私」との対話
2009/02/01 16:45 格納先: 茨木のり子
何十年、何百年、いや何千年・何万年を経た造形であっても、すぐれた芸術は現代のぼくたちを深い感動に誘ってくれる。芸術の不思議と言うより他ないのだけれど、しかしぼくたちが過去の芸術作品を目の前にして、その作品の同時代人たちと同じ種類の感動を味わっていると考えるのは早計でしょう。例えばラスコーの洞窟壁画なら、先史の人々は描かれた動物の写実性や躍動感・色彩感覚にではなく、イコンとしての宗教性、その呪術的な意味合いに価値を見出していたに違いないのです。
ラスコーの壁画は一万五千年前に描かれたというのだから、理解しきれずともまぁ諦めはつきますね。けれども近・現代の人間の歴史はその流れがあまりにも早すぎます。わずか数十年前に発表された詩作品の語感を正確に受け止めることができない──と、そんなこともあるのです。
「茨木のり子 六月の会」初めての勉強会で取り上げた茨木さんの初期の詩「魂」は、その意味で大変解釈の難しい作品でした。「魂という語は、戦後まだ七年目という当時にあっては、そのニュアンスを今読者に伝えるのは難しいが、例えば軍人魂といった表現にすわりの良い言葉だった」とは、盟友だった川崎洋さんの解説。
しかし一方、一編の詩は時代のなかで生きていると同時に、まとめられた詩集の中で生きる存在でもあります。今のぼくたちの咀嚼の手がかりはそこにある。そう念じて詩集『対話』の全体を見やれば、「全ての詩作品が、書いている現在に視点を置き、そこから過去を振り返ることで、対話を行っている」(齋藤恵)ことに気づかされます。
対話の相手は「あなた」であり、そのように自分自身に向かって(あるいは外に向かって)呼びかけることで、過去の、その存在を実感できなかったものをも確かにあったものとして確認する。つまり、〈それぞれの時代の『私』を認識することで『私』の歴史を紡ぐ〉作業、〈自己との対話からそれぞれの時代の「私」を生き直そうとする〉作業こそが、茨木さんにとっての詩を書く意味だったのではないか。齋藤恵さんの的確な読みに、一票を投じましょう。
「凍って」「切り離された魂」との対話は、容易いはずのものではありません。けれども同世代の川崎さんや吉野弘さんは、「いまなお」の忸怩たる現状より、「火をはら」ませて「魂」と向き合おうとするひとりの女性の姿に、強い衝撃を受けたようです。「わたしはこの詩を読んで、魂をがんじがらめにしていた見えない鎖のようなものが解かれた思いを味わった」(川崎洋)。
戦争に負けない──ということは奪われた自分の「いちばんきれいだった時」を取り戻す、生き直すことに他ならないのですが、「魂」はその予兆を暗示しています。まことに茨木さんの第一詩集冒頭にふさわしい、詩人としての旅立ちのうたと言えそうです。
〈参考文献〉
川崎洋「鑑賞」(『現代の詩人7 茨木のり子』、中央公論社、1983年)
齋藤恵「茨木のり子研究──初期詩集について──」(「言文」(通号55)、福島大学国語教育文化学会、2007年)
和合亮一「春の気圧のなかで輝く言の葉と樹木」(「現代詩手帖4」、思潮社、2006年)
ラスコーの壁画は一万五千年前に描かれたというのだから、理解しきれずともまぁ諦めはつきますね。けれども近・現代の人間の歴史はその流れがあまりにも早すぎます。わずか数十年前に発表された詩作品の語感を正確に受け止めることができない──と、そんなこともあるのです。
「茨木のり子 六月の会」初めての勉強会で取り上げた茨木さんの初期の詩「魂」は、その意味で大変解釈の難しい作品でした。「魂という語は、戦後まだ七年目という当時にあっては、そのニュアンスを今読者に伝えるのは難しいが、例えば軍人魂といった表現にすわりの良い言葉だった」とは、盟友だった川崎洋さんの解説。
しかし一方、一編の詩は時代のなかで生きていると同時に、まとめられた詩集の中で生きる存在でもあります。今のぼくたちの咀嚼の手がかりはそこにある。そう念じて詩集『対話』の全体を見やれば、「全ての詩作品が、書いている現在に視点を置き、そこから過去を振り返ることで、対話を行っている」(齋藤恵)ことに気づかされます。
対話の相手は「あなた」であり、そのように自分自身に向かって(あるいは外に向かって)呼びかけることで、過去の、その存在を実感できなかったものをも確かにあったものとして確認する。つまり、〈それぞれの時代の『私』を認識することで『私』の歴史を紡ぐ〉作業、〈自己との対話からそれぞれの時代の「私」を生き直そうとする〉作業こそが、茨木さんにとっての詩を書く意味だったのではないか。齋藤恵さんの的確な読みに、一票を投じましょう。
「凍って」「切り離された魂」との対話は、容易いはずのものではありません。けれども同世代の川崎さんや吉野弘さんは、「いまなお」の忸怩たる現状より、「火をはら」ませて「魂」と向き合おうとするひとりの女性の姿に、強い衝撃を受けたようです。「わたしはこの詩を読んで、魂をがんじがらめにしていた見えない鎖のようなものが解かれた思いを味わった」(川崎洋)。
戦争に負けない──ということは奪われた自分の「いちばんきれいだった時」を取り戻す、生き直すことに他ならないのですが、「魂」はその予兆を暗示しています。まことに茨木さんの第一詩集冒頭にふさわしい、詩人としての旅立ちのうたと言えそうです。
〈参考文献〉
川崎洋「鑑賞」(『現代の詩人7 茨木のり子』、中央公論社、1983年)
齋藤恵「茨木のり子研究──初期詩集について──」(「言文」(通号55)、福島大学国語教育文化学会、2007年)
和合亮一「春の気圧のなかで輝く言の葉と樹木」(「現代詩手帖4」、思潮社、2006年)