年末の贅沢
2007/12/31 07:57 格納先:
音楽とか美術とか演劇
今年の年末は少しだけ贅沢をしましたよ。大物はないけれど、小物? をあれこれ購入。
まず音楽では先日書いた「WHEN I WAS MOST BEAUTIFUL」の他、吉岡しげ美さんが歌う「怒るときと許すとき」「わたしが一番きれいだったとき」。吉岡さんは芯の固い良い声をしていますね。ただしイントネーションに難があるし、ときどき甘ったるくなるのはいただけません。
とんでもなくオトクな買い物だったのが「Mozart: 46 Symphonies」で、これはないでしょう、普通。ベーム&ベルリンフィルによるモーツアルト交響曲全集。全47曲がたった1500円ですって! 迷うことなくiTSからダウンロードしました。確かに古い録音ですが、聞き苦しくはありません。よそで(CDを)買えば8000円くらいはするし、25年前にLPレコード25枚組を30000円で買った、なんて人もいましたよ。
ソフトウエアではiShdeとムービー素材集を買いました。どちらも特価だから買えたんですけど、もともと3Dに首を突っ込むつもりはなかったのです。面倒くさがりだから細かい作業には向かないと。ただ、ちょっと依頼されたことがあって、目標があればぼくも飽きずに向き合えるかもしれなぁと思って。とにかくやってみるのです。高等数学をやろうというんじゃない、今までぼくがやってきたことをさらに拡げるだけなんだ。
サラ・パレツキーの『ウィンディ・ストリート』もネット古書店にて入手。V・Iシリーズはもれなく読んできたつもりなのに、なぜ『ウィンディ・ストリート』に気づかなかったんだろう。去年の6月に出てたんじゃない。
その他、森有正関連の資料をサイトや国立国会図書館の複写サービスでいくつか手に入れ、食べるための仕事と合わせなかなか忙しい年の瀬。皆々様、来年もよろしくお願いします。
良いお年を!
まず音楽では先日書いた「WHEN I WAS MOST BEAUTIFUL」の他、吉岡しげ美さんが歌う「怒るときと許すとき」「わたしが一番きれいだったとき」。吉岡さんは芯の固い良い声をしていますね。ただしイントネーションに難があるし、ときどき甘ったるくなるのはいただけません。
とんでもなくオトクな買い物だったのが「Mozart: 46 Symphonies」で、これはないでしょう、普通。ベーム&ベルリンフィルによるモーツアルト交響曲全集。全47曲がたった1500円ですって! 迷うことなくiTSからダウンロードしました。確かに古い録音ですが、聞き苦しくはありません。よそで(CDを)買えば8000円くらいはするし、25年前にLPレコード25枚組を30000円で買った、なんて人もいましたよ。
ソフトウエアではiShdeとムービー素材集を買いました。どちらも特価だから買えたんですけど、もともと3Dに首を突っ込むつもりはなかったのです。面倒くさがりだから細かい作業には向かないと。ただ、ちょっと依頼されたことがあって、目標があればぼくも飽きずに向き合えるかもしれなぁと思って。とにかくやってみるのです。高等数学をやろうというんじゃない、今までぼくがやってきたことをさらに拡げるだけなんだ。
サラ・パレツキーの『ウィンディ・ストリート』もネット古書店にて入手。V・Iシリーズはもれなく読んできたつもりなのに、なぜ『ウィンディ・ストリート』に気づかなかったんだろう。去年の6月に出てたんじゃない。
その他、森有正関連の資料をサイトや国立国会図書館の複写サービスでいくつか手に入れ、食べるための仕事と合わせなかなか忙しい年の瀬。皆々様、来年もよろしくお願いします。
良いお年を!
WHEN I WAS MOST BEAUTIFUL
2007/12/29 07:01 格納先: 茨木のり子
ピート・シーガー(Pete
Seeger)作曲の「WHEN I WAS MOST
BEAUTIFUL(わたしが一番きれいだったとき)」については、話だけは聞いていました。でも一度も耳にしたことはなかったのですが、なんとこのたび、この曲を含んだアルバムがiTMSにあるのを発見、早速ダウンロードしました。といってiTMSを散策して見つけたのではなくて、たまたま辿り着いたういろー・ざ・わーるどというサイトでアルバムを教えられたのです。Amazonでも買えたのですが、検索するとiTMSにもあったので、ぼくは一曲買いしました。訳詞は片桐ユズルさん。
実際に歌っているのはピート・シーガーではなくて別の女性シンガーです。哀しげな寂しげな歌いぶりで、もう少し野太くと思わないでもないけれど、素直な歌い方なので聴きやすいですね。茨木さんの詩は既にファンの心にはしっかりとしみ込んでいる。だから、妙にツクって歌われるとどうしても違和感を感じてしまうのです。ストレートに歌ってください、シンガーの皆様。ストレートに読んでください、朗読者の皆様。
実際に歌っているのはピート・シーガーではなくて別の女性シンガーです。哀しげな寂しげな歌いぶりで、もう少し野太くと思わないでもないけれど、素直な歌い方なので聴きやすいですね。茨木さんの詩は既にファンの心にはしっかりとしみ込んでいる。だから、妙にツクって歌われるとどうしても違和感を感じてしまうのです。ストレートに歌ってください、シンガーの皆様。ストレートに読んでください、朗読者の皆様。
なんてことのないクリスマス・イブ
2007/12/24 20:01 格納先: 本
クリスマスイブ。なんということもなく2連休が過ぎていきます。家族でケーキを食べたことくらいかなァ。娘はカラオケとやらに出かけて(パパ、運転手)。
スザンナ・タマーロの『大地の息づかいがきこえる』を読み終えました。まるで創世記のような、あるいは「新」般若心経でもあるかのような書きだし。訳者あとがきには「ひじょうに宗教的な作品」とありましたが、確かに宗教的であり、哲学的、瞑想的です。重苦しい「自伝的」長編。徹頭徹尾重いけれどわずかに救いは見えるような。
雑踏を歩けばイヤでも聞えてきそうな軽いやり取りを今さら本で読もうとは思わないけれど、といってタマーロの語りかけは重すぎる。それなのに「イタリアで55万部突破」と言うのはすごい。アンドレアとヴァルターの父親の過去、すなわち欧州の負の歴史が、日本のそれのように易々と水に流されるような風土ではないのでしょう。人と人、文化と文化、歴史と歴史が常に入り交じり、せめぎ合い、時に火花を散らす欧州ですから。
夕方、娘を迎えに行き、そして市立図書館へ。『大地…』を返却し、『ガンバとカワウソの冒険』(斎藤惇夫)と『日本の農地改革』(R.P.ドーア)を借りる。前者はぶ厚く、後者は小さな活字で二段組。正月休みを挟むとはいえ、読めるかしら。
スザンナ・タマーロの『大地の息づかいがきこえる』を読み終えました。まるで創世記のような、あるいは「新」般若心経でもあるかのような書きだし。訳者あとがきには「ひじょうに宗教的な作品」とありましたが、確かに宗教的であり、哲学的、瞑想的です。重苦しい「自伝的」長編。徹頭徹尾重いけれどわずかに救いは見えるような。
雑踏を歩けばイヤでも聞えてきそうな軽いやり取りを今さら本で読もうとは思わないけれど、といってタマーロの語りかけは重すぎる。それなのに「イタリアで55万部突破」と言うのはすごい。アンドレアとヴァルターの父親の過去、すなわち欧州の負の歴史が、日本のそれのように易々と水に流されるような風土ではないのでしょう。人と人、文化と文化、歴史と歴史が常に入り交じり、せめぎ合い、時に火花を散らす欧州ですから。
夕方、娘を迎えに行き、そして市立図書館へ。『大地…』を返却し、『ガンバとカワウソの冒険』(斎藤惇夫)と『日本の農地改革』(R.P.ドーア)を借りる。前者はぶ厚く、後者は小さな活字で二段組。正月休みを挟むとはいえ、読めるかしら。
青の浄化
2007/12/23 10:22 格納先: 本
気に入ると、とりあえずその作家の作品を全部読みたくあるのがぼくの読書スタイル。最近では角田光代さんがそういう作家の一人だけれど、読み切れないんですよね、なかなか。
たとえば『愛がなんだ』(角川文庫)にしても、主人公をはじめ登場人物たちのバカっぷりについていけない。感情移入が難しい。こんなだらしなさでどうして生活していけるのか、あんなに飲み食いできるのか、想像がつかない。学生時代という、執行猶予期間中のことなら分かるけどね。
いちばん分からなくなるのは、たとえそういう生活があるとしても、それを小説にする意味が(少なくともぼくにとって)あるのかどうか、そんなヒマがあっていいのかどうか、ということ。テルコさんの思いが成就したところで彼女の人生に光が差すとも思えないし。
なんて、まともにテルコさんたちを受けとめようとするのが、そもそも間違いかもしれませんが。
……というわけで苦しい読書になったけれども、なんとか読み切ることができたのは149頁のおかげだな。ショーもない一夜が明ける頃合い、
青の浄化──上手く説明できないけれど、このわずか2行ばかりにぼくは救われ、ラストまで辿り着いたような気がしています。
たとえば『愛がなんだ』(角川文庫)にしても、主人公をはじめ登場人物たちのバカっぷりについていけない。感情移入が難しい。こんなだらしなさでどうして生活していけるのか、あんなに飲み食いできるのか、想像がつかない。学生時代という、執行猶予期間中のことなら分かるけどね。
いちばん分からなくなるのは、たとえそういう生活があるとしても、それを小説にする意味が(少なくともぼくにとって)あるのかどうか、そんなヒマがあっていいのかどうか、ということ。テルコさんの思いが成就したところで彼女の人生に光が差すとも思えないし。
なんて、まともにテルコさんたちを受けとめようとするのが、そもそも間違いかもしれませんが。
……というわけで苦しい読書になったけれども、なんとか読み切ることができたのは149頁のおかげだな。ショーもない一夜が明ける頃合い、
気がつくと部屋の青はずいぶん明るみを帯びている。薄いブルーが部屋じゅうを満たしている。本棚もステレオも、テレビも掛け布団も、床に脱ぎ散らかした私たちの下着も。
青の浄化──上手く説明できないけれど、このわずか2行ばかりにぼくは救われ、ラストまで辿り着いたような気がしています。
片づけたい女たち
2007/12/19 22:50 格納先:
音楽とか美術とか演劇
グループる・ぱる公演「片づけたい女たち」を観てきました。新聞の劇評でも高い評価を得、楽しみにしていた市民劇場の例会です。
出演者はわずかに三人だけ。受け身ではなく、自分たちのやりたい芝居を企画し、作り、演じていこうというアグレッシブな3人の女優たち。それは確かにおもしろく、テーマ性も明確です。リーフレットにある「時代と対話する舞台作品」は嘘じゃないね。
つまり彼女たちが片づけたかったのは何か。時間の経過、舞台の進行につれて、ステージ上のゴミが片づいていくにつれてあらわになっていったのは、それぞれが持つ心のゴミだったようです。こだわりすぎても、また無頓着でも、あるいは一見バランスよく保っているようでもじつは浄化しきれず、吹きだしてくる心のゴミ。幸いなのは、彼女たちには友がいるということだね。おのおののゴミを掃き出せる友がいるということ。
それにしても「傍観者」という言葉はぼくの心にイタかった。加害者よりも罪深い傍観者という言葉は。コミカルな演技とセリフの中にかくされたこの小さなハリの傷みを、どれだけの観客が感じ取っていたものか。あるいは誰かがどこかで書いていたように、時代がとうに追い越してしまった問題意識なのかどうか……。油断のならない三人組(松金よね子、岡本麗、田岡美也子)だナ。
出演者はわずかに三人だけ。受け身ではなく、自分たちのやりたい芝居を企画し、作り、演じていこうというアグレッシブな3人の女優たち。それは確かにおもしろく、テーマ性も明確です。リーフレットにある「時代と対話する舞台作品」は嘘じゃないね。
つまり彼女たちが片づけたかったのは何か。時間の経過、舞台の進行につれて、ステージ上のゴミが片づいていくにつれてあらわになっていったのは、それぞれが持つ心のゴミだったようです。こだわりすぎても、また無頓着でも、あるいは一見バランスよく保っているようでもじつは浄化しきれず、吹きだしてくる心のゴミ。幸いなのは、彼女たちには友がいるということだね。おのおののゴミを掃き出せる友がいるということ。
それにしても「傍観者」という言葉はぼくの心にイタかった。加害者よりも罪深い傍観者という言葉は。コミカルな演技とセリフの中にかくされたこの小さなハリの傷みを、どれだけの観客が感じ取っていたものか。あるいは誰かがどこかで書いていたように、時代がとうに追い越してしまった問題意識なのかどうか……。油断のならない三人組(松金よね子、岡本麗、田岡美也子)だナ。
観音様のおとしや
2007/12/17 20:26 格納先: Personal
今日17日は「観音様のおとしや(お歳夜)」。市内の旧七日町にある観音堂のお祭りの日です(http://www.tsuruokakanko.com/cate/p0498.html)。あるいは「だるま市」といったほうが通りが良いかもしれません。境内・参道に沢山のだるまを売る店が並びます。ぼくも子供の頃は、母か祖母かと一緒にこのだるま市に来て、小さなだるまを買ってもらったことがあります。
それも昔の話。もう何十年も出かけていないし、今は少し離れたところに住んでいるせいもあって、子供たちを連れて行くこともありません。せめて、由来は不明ながらやはりこの時期だけ出回る郷土のお菓子「切り山椒」(http://www.tsuruokakanko.com/cate/p0546.html)を買い求め、家族でとりわけて季節の味を口にします。好きなんですよねぇ、ぼくは。こういう餅系のお菓子が。
それも昔の話。もう何十年も出かけていないし、今は少し離れたところに住んでいるせいもあって、子供たちを連れて行くこともありません。せめて、由来は不明ながらやはりこの時期だけ出回る郷土のお菓子「切り山椒」(http://www.tsuruokakanko.com/cate/p0546.html)を買い求め、家族でとりわけて季節の味を口にします。好きなんですよねぇ、ぼくは。こういう餅系のお菓子が。
大黒様のおとしや
2007/12/09 14:11 格納先: Personal

学校に行くという娘のアッシー君をつとめ、帰りに生協に寄るとなんだか妙に込んでいる気配。ぼくが大きな郊外型のショッピングセンターを好まず、近所の小さなスーパー・生協でよく買い物をするのは、空いてるからなんだけどなぁ。
さて、店内に入って総菜売り場の方に廻ると、おお、「ハタハタの田楽」がいっぱい並んでいるではありませんか。そうだった、今日は大黒様のおとしや(お歳夜と書くらしい)だった! わが故郷の年中行事。おばあちゃんが生きていた頃は、みんな自宅で準備したものだったけどなぁ。豆ご飯とか、ハタハタの田楽、焼き豆腐の田楽、納豆汁、などなど。
無能な主夫はイカンなぁ、なにも作れない。といって、たまたま今夜は実家の年老いた親父を食事に招いていることだし、伝統行事の料理を出さないわけにもいくまい。
……ということで、二尾で596円もするハタハタの田楽と198円もした焼き豆腐の田楽を買い求め、帰宅。上の写真がそれです。あおりを食って今夜予定のすき焼きは牛肉から豚肉にダウングレードですが、仕方ないよね。
嘘でしょ
2007/12/07 07:40 格納先: Personal
よくよく見たら、今年の紅白には夏川りみさんが招かれていないんですって。嘘でしょ! 彼女の歌声は日本の歌謡界の誇りであり救いなのに。がっかりしました。
もう一つがっかりと言えば、ドラマ「風の果て」が最終回を迎えたこと。それまでは「過ぎる」くらいに早い展開でそれが青春の疾走を感じさせもしたのに、最終回はやや滞りました。登場人物たちのそれぞれの「その後」に、目配りする必要があったからでしょう。
それはそれとして、鈍重に見えた妻・満江と旧友・庄六が最後に光を放ちましたね。姑や「最後の敵」忠兵衛も面目をほどこして、誰もが納得するさわやかな the end。良いドラマでした。ストーリー、台詞、映像など語りかける要素が多い分、テレビドラマは余韻が文学作品にはどうしても及ばない気がするけれども、品よくバランスよくまとめあげ(あるいはまとまりすぎたか?)、見るものを泣かせてくれた秀作ドラマと思います。音楽もすてきでしたね。
もう一つがっかりと言えば、ドラマ「風の果て」が最終回を迎えたこと。それまでは「過ぎる」くらいに早い展開でそれが青春の疾走を感じさせもしたのに、最終回はやや滞りました。登場人物たちのそれぞれの「その後」に、目配りする必要があったからでしょう。
それはそれとして、鈍重に見えた妻・満江と旧友・庄六が最後に光を放ちましたね。姑や「最後の敵」忠兵衛も面目をほどこして、誰もが納得するさわやかな the end。良いドラマでした。ストーリー、台詞、映像など語りかける要素が多い分、テレビドラマは余韻が文学作品にはどうしても及ばない気がするけれども、品よくバランスよくまとめあげ(あるいはまとまりすぎたか?)、見るものを泣かせてくれた秀作ドラマと思います。音楽もすてきでしたね。
箴言
2007/12/05 21:34 格納先: 本
スザンナ・タマーロの『心のおもむくままに』を読み終えました。箴言集のおもむき。サン・テグジュペリを読むような。そういえば文中に何度か、星の王子様が登場しましたね。
人は苦しみでよりも、なにもないために死ぬものだ。苦しみなら立ち向かうこともできるが、なにもなければそれもできない。(133頁)
存在する唯一の教師は、唯一信頼できるほんものの教師は、自分の意識なのだ。(184頁)
およそ人間には二種類あるような気がするのです。『心のおもむくままに』に胸を熱くする人と、全く縁もゆかりもない人と。ぼくが心を寄せ信頼するのは、もちろん前者です。成長する過程で、まちがいを直したくなったら、いつでも思い出しておくれ。はじめに手をつけるべきは自分の内部で、それがなによりも大切なのだと。(207頁)
ベートーベンは苦手
2007/12/03 21:56 格納先:
音楽とか美術とか演劇
ショスタコ熱再燃か!?
今年の夏、ピアノ協奏曲第二番第二楽章を「発見」してから、ショスタコーヴィチをよく聴いています。学生時代にハマったのが最初でしたが、何しろあのころはムラヴィンスキーがいた。作曲家より指揮者にハマったのかも。
社会人になってからはあまりショスタコーヴィチを聴く機会がありませんでしたね。一種悲劇的な口調を持つ彼の作品は心がリラックスできるようなものではなく、音楽に癒されたいぼくには苦痛なものでした。諧謔はうるさいだけだし、革命讃歌は嘘っぽい……。それがねぇ。
Op.102に参りました。息苦しくなるほど切なく、美しいメロディ。感傷的といわば言え、こんなに心を優しく撫でさすられては、誰だって夢心地になってしまう。ショスタコーヴィチは交響曲第五番第三楽章の独創性を自慢にしていたと聞きましたが、Op.102の破格の美しさも、彼ならではの透徹した哀しさをたたえています。Dmitri Alexeevのピアノがまた、いいなぁ。
さて、先の日曜は市内のスタジオで大瀧実花先生の小さなコンサートがあり、夫婦で行ってきました。「先生」と呼ぶわけは、今は離れましたけど我が家の娘たちが幾度かレッスンを受けていたからです。
プログラムはベートーベンのピアノソナタ第21番「ワルトシュタイン」を中心とした苦手な作曲家の盛り籠。いえね、ぼくだって昔はベートーベンが好き──というか、人並みにベートーベンからクラシックに入ったのですよ。つまり交響曲全集を揃えるところから始まったのだけど、年を経るにつれ、積極的には向き合わなくなりました。巌のような彼の音楽に堪え難くなってきたんですね。
森有正がどこかで、夏目漱石を読んだときに感じる抵抗感のなさを、否定的に語っていたように思います。同質感の危うさ。それは確かに心地よいけれども、創造の源泉とはなり得ない。抵抗とか葛藤とか、とにかく、ぼくの前に立ちはだかるものこそがぼくを成長させてくれる。そういうことなのでしょう。
とすれば、ぼくがベートーベンに耐えられなくなってきたというのは堕落なのかもしれません。あるいは敗北であると。でもあえて言うならば、ぼくは毎日、違う世界で戦っている。家に帰ってまで戦い続けるわけにはいかない。いや、戦いはあるのだけれども、すべてに戦うわけにはいかないじゃないか。だから、突き刺さるのではなく旋律は歌ってほしいわけ。惻々と心にしみいってほしい。それがぼくにとっての音楽。
さすがにまだ「わび」「さび」までは浮世離れしませんが、それでもかなり弱ってきたぼくに、親しみを覚えさせてくれたのが「ワルトシュタイン」の第二楽章「Adajo molto」でしたね。さすがアダージョ。湿気のせいかあるいは傷んで手を入れたというピアノの不安定さのせいか、やや音が金属的に響いたように感じたのは残念でしたけれど。心に優しいのは丸くソフトな音です(Dmitri Alexeevのピアノタッチのまろやかさ!)、って、それじゃあベートーベンにならない!?
しかし全体として、聴きごたえは十分なものでした。前からほかのピアニストと比較して感じていましたが、大瀧実花先生のタッチは強靭でしかも音が粒だっています。ピアノを存分に鳴らしてくれ、小さなオーケストラを実感させてくれます。天井の低いサロンよりも、いま少し大きめのホールで聴きたいプログラムでしたね。
今年の夏、ピアノ協奏曲第二番第二楽章を「発見」してから、ショスタコーヴィチをよく聴いています。学生時代にハマったのが最初でしたが、何しろあのころはムラヴィンスキーがいた。作曲家より指揮者にハマったのかも。
社会人になってからはあまりショスタコーヴィチを聴く機会がありませんでしたね。一種悲劇的な口調を持つ彼の作品は心がリラックスできるようなものではなく、音楽に癒されたいぼくには苦痛なものでした。諧謔はうるさいだけだし、革命讃歌は嘘っぽい……。それがねぇ。
Op.102に参りました。息苦しくなるほど切なく、美しいメロディ。感傷的といわば言え、こんなに心を優しく撫でさすられては、誰だって夢心地になってしまう。ショスタコーヴィチは交響曲第五番第三楽章の独創性を自慢にしていたと聞きましたが、Op.102の破格の美しさも、彼ならではの透徹した哀しさをたたえています。Dmitri Alexeevのピアノがまた、いいなぁ。
さて、先の日曜は市内のスタジオで大瀧実花先生の小さなコンサートがあり、夫婦で行ってきました。「先生」と呼ぶわけは、今は離れましたけど我が家の娘たちが幾度かレッスンを受けていたからです。
プログラムはベートーベンのピアノソナタ第21番「ワルトシュタイン」を中心とした苦手な作曲家の盛り籠。いえね、ぼくだって昔はベートーベンが好き──というか、人並みにベートーベンからクラシックに入ったのですよ。つまり交響曲全集を揃えるところから始まったのだけど、年を経るにつれ、積極的には向き合わなくなりました。巌のような彼の音楽に堪え難くなってきたんですね。
森有正がどこかで、夏目漱石を読んだときに感じる抵抗感のなさを、否定的に語っていたように思います。同質感の危うさ。それは確かに心地よいけれども、創造の源泉とはなり得ない。抵抗とか葛藤とか、とにかく、ぼくの前に立ちはだかるものこそがぼくを成長させてくれる。そういうことなのでしょう。
とすれば、ぼくがベートーベンに耐えられなくなってきたというのは堕落なのかもしれません。あるいは敗北であると。でもあえて言うならば、ぼくは毎日、違う世界で戦っている。家に帰ってまで戦い続けるわけにはいかない。いや、戦いはあるのだけれども、すべてに戦うわけにはいかないじゃないか。だから、突き刺さるのではなく旋律は歌ってほしいわけ。惻々と心にしみいってほしい。それがぼくにとっての音楽。
さすがにまだ「わび」「さび」までは浮世離れしませんが、それでもかなり弱ってきたぼくに、親しみを覚えさせてくれたのが「ワルトシュタイン」の第二楽章「Adajo molto」でしたね。さすがアダージョ。湿気のせいかあるいは傷んで手を入れたというピアノの不安定さのせいか、やや音が金属的に響いたように感じたのは残念でしたけれど。心に優しいのは丸くソフトな音です(Dmitri Alexeevのピアノタッチのまろやかさ!)、って、それじゃあベートーベンにならない!?
しかし全体として、聴きごたえは十分なものでした。前からほかのピアニストと比較して感じていましたが、大瀧実花先生のタッチは強靭でしかも音が粒だっています。ピアノを存分に鳴らしてくれ、小さなオーケストラを実感させてくれます。天井の低いサロンよりも、いま少し大きめのホールで聴きたいプログラムでしたね。