ありがとう

 祭日の今日も山形で仕事。お昼は20年以上一緒に仕事をした同僚の送別会に出席しました。──ありがとう。

 夜は平原綾香さんがメインゲストだった音楽番組「THE M」を見ましたが、やっぱりいいです。思わず、まだ持っていなかった「Jupitar」をダウンロードしました。「星つむぎの歌」も紹介されていて、これをきっかけに、この曲がもっと多くの人に聴いていただけるようになるとうれしいですね。番組の後半はパスしましたが。

引き続き

 引き続き『渥美清 浅草・話芸・寅さん』(堀切直人)を読了。今日借りてきて今日読み終えるなんてことは、ぼくには珍しいこと。読みやすい本ではあるのですが。つくづく、惜しい人をなくした、惜しい時代をなくしたと思いましたね。
 夕方からは孟宗(もうそう)汁に初挑戦。今までは食べるだけで作ったことはなかったからね。結果は──まぁまぁでしょうか。ちょっと思い切りが足りなくて、味噌も酒粕も少なめ、従って薄味にはなりましたが、まぁまぁでしょう。明日の朝はもっとおいしくなっているはずです。

『ウィンディ・ストリート』を読了

 サラ・パレツキーの『ウィンディ・ストリート』を読了。やっと、という感じです。本が読めなくなりましたねぇ。まず字が見えない。あまりぼんやりするので眼鏡を取ると、裸眼の方が見える。でもこの状態で長時間の読書は辛すぎます。そろそろ読書用の眼鏡が必要なのでしょう、きっと。
 出だしはいつになくゆったりしていた『ウィンディ・ストリート』ですが、半ばあたりからは例によって息もつかせぬ筆致、怒濤の展開。面白く、時に怖かったです。
 終章、盟友ロティが主人公V.I.ウォーショースキーに語った慰めはとても印象的なものでしたね。

 人は希望のなかで生きていかなくてはならない。自分の仕事で世の中を変えることができるんだ、という希望のなかで。……救世主が到来するとすれば、それはひとえに、あなたのような人たちがこういう小さいけど困難な仕事をこなし、この過酷な世界に小さな変化をもたらしているおかげなのよ。(446頁)


 希望という灯火を見失わないことが、ぼくたちの希望だね。
 
 さて翻訳には注文を少々。「iブック」はやめて下さい。iBookでしょう。「マック」も「Mac」の方がいいなぁ。ハンバーガーと勘違いされないように。

新潟の朝

 新潟泊まりの朝。
 昨夜、居酒屋で「栃尾の油揚」を食べました。「油揚」を「あぶらげ」と呼ぶのは庄内地方と同じ。でもその実体は違ってましたね。栃尾の油揚は、ぼくたちの言うところの薄揚げ、他所では油揚と言われているものを2〜3倍に大きく、また厚くしたものでした。厚くても中身はスカスカなので、やはり庄内の油揚、他所では厚揚げと言ってるものとは違うのです。残念。
 鶴岡の油揚はおいしいですよ。値段は倍だけれど、ネット販売もしているようですね。一度お試しあれ。
 ところで、先日新聞を見ていて、俵万智さんが仙台に住まいを移されていると知りました。ファンなので何となくうれしい。今でもときどき仙台に行きますから、どこかですれ違ったことがあったのかもしれません。

バランス

 23日朝刊。天声人語氏の語るところはいつものように冷静で、バランスのとれたものでした。これはこのコラムに限らない「朝日」の美点で、煽ることの多い他紙や映像メディアとはおおいに異なるところです。
 氏はまず、山口県光市で9年前に起きた母子殺害事件被害者の夫に触れて、「煮えたぎるものを、これほど静かに、強く語れる人を知らない」と綴ります。続けて、NHKと民放の放送倫理・番組向上機構(BPO)の指摘を引くのです。 

 〈奇異な被告・弁護団〉対〈遺族〉の図式をつくり、その映像を見て感情的な言葉を口にする

 
 そして最後に、国民の大多数が満足するであろうところの極刑という判決を得た今、問題はぼくたち自身に帰ってくるのだということを伝えます。「1年ほどで裁判員制度が始まる。一審のみとはいえ、恐らくは証拠と感情が折り重なった部屋で、他人の人生や、時には生命までを処断することになる」。
 煽り屋に満ちたエセジャーナリズムは、メディアコントロールに長けている。しかし、だからこそ、今のぼくたちに必要なのはなによりもまず冷静さであり、バランス感覚であるように思われます。

更新

 「過去のWeb日記」を更新。ようやく2003年まで来ました。

 お天気もまずまず良好。昨日一昨日と雨風にさらされながらも花びらはけなげに持ちこたえてくれましたね。良いお花見日和となりそうです。
 注文していた『吉良の人物史』(吉良町発行)が届き、さっそく茨木のり子さんの項を読みましたが、実に良くまとまっています。およそ三頁分でしょうか。質量共に充実した解説は、だれにでも安心して勧められます。

貧しい社会

 藤沢周平の市井ものが愛される理由の一つは、そこに共に生きる社会、相互扶助の社会があるからでしょう。子に去られた老婆も、親とはぐれた子供も、男やもめも一人暮らしの夜鷹も、見捨てられることがありません。
 宮本常一を読めば、これが小説世界のことではなく、現実の日本社会(特に庶民)の話だったことがしられます。日本は文字通り「親がなくとも子は育つ」社会でした。ところが、今は。
 入場料金を払わなければディズニーランドに入れないのだから、入学金を支払わないと学校に入れないのは当然。入学式への出席差し止めは仕方ない!?
 教育者ですらこのように公言する。商売やビジネスの世界に生きる人ならともかく、教育の専門家の口から出るのだから恐れ入ります。学校は商業施設ではないでしょう。先生はその従業員ではないし、校長は利潤を求める企業経営者ではない。
 現場にいる人たち、あるいは専門家からも、教育者としての基本的な認識、倫理観、義務感が失われている現実です。あるいは隣人としての、あるいは人間としての、と言ってもいいのかもしれない。ハレの日に教室で待機せざるを得なかった二人の新入生の心中に、その表情に、彼らは一瞬も思いを馳せることがなかったのだろうか。人生に関わるという、人を育てるという重い職にある者として、自らを恥じることはないのだろうか。
 長く忘れていた貧困がぼくたちのすぐ目の前にある。すぐ隣にあるのです。そしてそれによって、公教育の枠組みの中に置いてすら人が差別され、区別され、隔離される社会が現実にあるのです。それは個人の貧しさである以上に、社会の貧しさです。

鶴岡公園の周辺

 会社からの帰り道、今日は19時半ころでしたが、鶴岡公園の周辺は夜桜見物の市民で大賑わいでした。ぼくも時間と懐に余裕があれば車をちょっと止めて園内に入り、花見団子とか、鶴岡のお祭りには欠かせない名物「あん玉」を求めてお土産としたかったものの、それも叶わず帰宅一直線。
 いやー、それにしても、鶴岡の人もいざとなれば夜出歩くのね。田舎の夜は寂しいのが常態。それなのに春ともなれば、花見頃ともなれば電気は煌煌と点いているし、老若男女もそぞろ歩いている。夜店を道路から覗くと(よそ見運転!?)、長い行列のできているお店もある。活気のある街はいいなぁ。
 ところで、昨夜放送の「3か月トピック英会話/『赤毛のアン』への旅」。見ていたのですが、睡魔に負けて戦線離脱でした。情けない。でもテキストはちゃんと読みますよ。それに、「literature.org」という、まあ日本で言えば青空文庫のようなサイトを見つけて「Anne of Green Gables」の掲載頁をプリント。鞄にも忍ばせて少しずつ眺めて(「読む」というレベルじゃない)もいるのです。想像を逞しくすると、五分の一くらいはわかるもの。

春の賑わい

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 桜は咲いたしお天気も良し。大山公園の真下、いつもは朝夕をのぞいて静かな我が家の前の道路も、昨日ばかりはメインロードでしたね。老若男女がしきりに行き来しています。
 桜の名所ですが、露店などはないのです。酒盛りをしている人たちも見かけません。ついでに言えば、ゴミも落ちていない。そういうスポットです。
 もっとも今年は、もう少し賑やかになりそうなイベントが来週(4月20日)に予定されているようです。題して「大山公園さくらまつり」。この日ばかりは売店も開き、広場では黒川能も上演されるとか。桜もその日までなんとか持ってくれるでしょう。

咲きました

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 我が家のそばにある桜並木も春色です。
 そういえば、「読売旅行」5月号の表紙。田舎道を寅さんが独り、残雪を抱いた山を背景に歩くカッコいい写真ですが、これも季節は春のようですね。蒼い空と山並み、緑の葉と小さな黄色い花々が、美しい。

ウィンディ・ストリート

 サラ・パレツキーの『ウィンディ・ストリート』を読んでいると、貧困大国アメリカの現実をまざまざと見せつけられます。そしてそれが日本の未来、いや現実と重なってくるのですね。今の日本を描いた小説ではないかと。 

 いい働き口があったもの。そう、あのころは仕事があった。いまじゃ、未来があるなんてだれも思っていない。USスチールで一時間に三十ドル稼いでいた男たちが、いまでは〈バイ=スマート〉でその四分の一の賃金がもらえれば御の字なのよ。(79頁)


 みんなが気にしてるのは株価のことだけで、会社を支えてくれてる人たちのことではない。(114〜115頁)


 この国じゃ金持ちしか病気になれないの?(176頁)


 まったく、彼女の小説はミステリの世界を越えています。

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 桜の蕾も色づいてきましたね。

落椿

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触れしごと枝離れけり落椿(高橋零)

ちりとて後遺症

 NHKの連続テレビ小説「ちりとてちん」の平均視聴率が、統計のある1964年以降、関東地区では最低を記録した、とか。驚きました。
 驚いたのはぼくだけではなかったようで、朝日新聞編集委員の四ノ原恒憲さんも、コラムのなかで「自らのドラマを見る目を一瞬疑」ったそうです(「月並みに/『ちりとて』熱中後遺症」、朝日新聞朝刊、2008.4.6)。しかし自分の眼力を固く信ずる高慢なぼくは、自分の目ではなく他の視聴者の目を疑いましたよ。どうも朝の連続テレビ小説(って、今は言わないのか?)は、シリアスで主人公に同情したくなる話の方がウケるようです。
 ま、視聴率の話はさておき、「ちりとてちん」のテーマが「ふるさと」だったという指摘には思わず納得。盛りだくさんな内容だったけど、結局は「単純な故郷も含むが、家族、友人、伝統芸など人が安心して帰ることができる根拠地こそが、大事」なのだということ。中央から上からのナショナリズムに対抗する、地方から家族からのナショナリズム、かなぁ。