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2005/04/29
Column A-08
インターナショナル
とりあえず、今住んでいる修道院はインターナショナル、国際修道院というタイトルがついていて、世界中から修道会の会員が集まっているわけだが、このインターナショナルという言葉に時々戸惑いを感じる。
八十年代に青春をすごした私にとってインターナショナルとか国際とかいう言い方は魅惑的な表現であった。大学に入った時その前年にできた国際関係法学科という新しい学科名を見て、何か新しいものができたのだと関係もない学科に入学していながら妙にワクワクしたのを覚えている。英語を話せることが当時に学生の夢であった。この国際なんとか学科はその後雨後の筍のようにあちこちの大学で誕生する。八十年代が過ぎると今度は福祉なんとか学科がまたあちこちの大学で開講するのだから、大学のはやり廃りほどあてにならないものはないと後でわかった。それでも若い私には国際という言葉は妙に虚栄心をくすぐったものだ。国際化という言葉が新聞から消えない日は八十年代にはなかったのではなかろうか。この国際化という言葉の意味はまず英語とか外国語に堪能なこと。第二に外人と対等に話しができること。第三に外国の価値観を、尺度を身につけることであったように思う。第三のポイントが一番重要ではなかったろうか。とりあえず日本式の考え方・尺度を括弧にくくって、欧米式の尺度を身につける。これが国際化を推進する上でなにより大切なものだと強調された。実はこの他に第四のポイントして自国の文化を伝えるという点もあるのだがそこはあまり強調されなかった。
この欧米式の尺度を身につけるというのは、日本人にとっては得意技である。なんせ和魂洋才を生き抜いた先輩たちがいる国である、表面上欧米のやり方に追従するのは容易い。私も伊太利にきて三年間、戸惑いながらも伊太利式に慣れようと必死になっていたように思う。最近はだいぶ慣れてきて、もう「日本はこうだったのに、日本ではああだったのに、まったく伊太利ときたら」などと愚痴をこぼすことはなくなった。伊太利は伊太利なのである。そこに慣れればいい。でも魂の底では日本人なのだと、その点は譲れないという式である。心のどっかにこれでおれも一人前の国際人さ。ヘヘヘ。というなんとも情けない自負がないわけでもないが。
でもこの和魂洋才式、別な言い方すれば日和見主義は他の国の人にはないようだ。あくまでも彼らは自分たちのやり方に固守する。昨日の晩のことである。メキシコ人の友人がピザを食いに行こうと誘ってきた。すでに私はそとでちょっと食べてきたのでお腹は空いてなかった。でもとりあえず出かけることにした。相手に合わせていくこれが日本式の美徳なのだから。そこで久々の議論となった。
話しの発端はこうである。伊太利の学術論文ではよく知られた源泉資料を使う場合、なんの注意書きもなしに、すぐに略号をつかうことが多い。DS, COD, EV, FF, AASといった具合だ。読み手もそれなりの研究者を対象としているから、いちいち略号の意味を載せる必要もないのである。だから研究者の第一歩はこの略号を覚えることから始まる。彼はこのことに腹を立てている。これは伊太利だけのことだと声を荒げるのである。FFという源泉資料がある。フランシスカンの資料を一冊にコンパクトにまとめたものである。資料的には正しいかどうかは知らないけど、とりあえず普及している。だから、引用の際にはFF., pOOO式に書くのが普通である。彼はここに腹を立てているのだ。おかしいとさわぐ。なぜならFFは伊太利だけに普及しているもので、それはスペイン語圏では通用しないというのだ。彼の立腹を聞いていてバカじゃないのこの人と思った。実際彼はスペイン語で論文を書いている。FFを参照することはない。ならば怒る必要もないだろう。「おまえ考えてみろよ」と彼は言い出す。「もしおまえがイタリア語の論文を日本で読むときにいきなりFFと書かれていたらなんのことかさっぱり分からないだろう。」と日本人をバカにしたような言い方をしてきたので、こう言ってやった。「略号を覚えることが勉強のまず第一歩なのであって、それが伊太利しか通用しないかどうかは別の問題だ。DS, COD, AASは神学の学術論文の世界では国際的にも通用する略号である。さらに言えばFFはフランシスカンの世界では常識に等しい略号であると思うけど。」哀れな日本人に鼻っ柱おられた彼はさらに声を荒げて、ラテン語式の略号のつけ方が正しいのであって、イタリア語式はおかしいと言い始めた。じゃあんたは何語から引用するのと聞くとスペイン語の翻訳からだという。その本で使われている略号は何の言葉と尋ねると、スペイン語式でほぼラテン語のそれと同じだそうだ。それじゃイタリア語式がおかしいといえないじゃないのかと反論すると黙ってしまった。
和魂洋才の私はこういうことであまり悩んだり、腹を立てた経験がない。略号を覚え、それがイタリア語式ではこう、フランス語式ではこう、スペイン語式ではこうという具合に違いを覚えるようにするのがあたり前である。他の人々がどうして自分たちのやり方に固執するのか不思議でしょうがない。ささいな出来事なのかもしれないけどこの略号論争は象徴的な出来事である。よく見ると私の修道院の連中は自分たちの国、地域のやり方に固執している。食事もそうだ。ミサもそうだ。言葉もそうだ。国際修道院と名がつく割には非国際的である。彼らは自分たちのやり方を壊して、相手に合わせる必要がないのである。私はこの三年間彼らに合わせて自分なりの国際化を進めてきたが、そんな努力はバカバカしくなってきた。略号一つ覚えようともしない人間と生きていくのはいくら和魂洋才とはいえ、こっちの魂のほうがすり減ってしまう。自分は自分なりに生きようと思うそんな蒼いことを今考えている。
Hiroshi Konishi (コニタン)
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