2005/04/08  

Column A-07

教皇の死とパパボーイズ


教皇の死とパパボーイズ

奇妙な光景
二月のある日、ミラノのすぐれた牧者であったジュセッリ神父が亡くなった。彼は六十年代の後半ミラノを吹き荒れた学生運動のさなかに若者たちと対話を繰り返し、彼らの生き方に新しい道を示した人である。彼はコミュニオーネ・エ・リベラツィオーネという組織を作り、一貫して若者たちを指導してきた人である。若者たちは彼のことを親しみを込めてドン・ジュセッリと呼んだ。葬儀はミラノの大聖堂で行われたが、この牧者から導かれた人々で大聖堂はいっぱいになった。イタリアの政財界人も駆けつけ、彼の影響力の大きさを示した。私は初めてこの偉大な指導者を知って、興味深かった。そしてイタリアの教会がいまだに保ち続けている社会への指導力を知ることのができたのは新しい発見であった。ただ、このニュースをテレビで見ていて私が不思議に思ったのは二十代の青年たちも葬儀に駆けつけ、祈ったり、さめざめと泣いていたりする画像を見たときだ。彼らのドン・ジュセッリの死への反応が妙にオーバーだったのに奇妙に思ったのである。実際にこの神父から指導を受けた中高年の人間が泣くのなら話がわかるが、なぜあまり直接関係のなさそうな青年たちが感傷的になるのかが理解できなかった。

パパボーイズ
同じ風景を一ヶ月後に見ることになる。復活祭の頃から教皇ヨハネ・パウロ二世の容態は悪くなった。誰もがこの偉大な教皇の最期の時を想像しないわけにはいかなくなった。その頃よりサン・ピエトロ広場には教皇のために祈る人々が集まり始めた。その中で異彩を放っていたのが、若者たちのグループである。彼らは自発的に集まり、ロウソクを灯し、車座になって座って歌を歌いながら教皇のために祈りをささげたのである。この若者たちの祈りの輪は日に日に大きくなり、広場のあちこちでいくつかのグループができた。多くの若者がイタリア中からやってきてはそのグループの中に参加し、ロウソクをささげ、メッセージを書き込んでいった。中には広場で徹夜をするグループもいた。マスコミはこの若者の自発的な動きをパパボーイズという名で呼んだ。
教皇の亡くなる二日前頃から、毎晩ロザリオの祈りが公式にささげられた。広場は祈る人でいっぱいになった。パパボーイズも増えていった。四月の初めのローマの夜はまだ寒い。彼らは肩を寄せ合い、ブランケットにくるまって、地面に直接座って、ロウソクの火を見つめながら祈り続けた。四月二日午後九時三十七分、教皇ヨハネ・パウロ二世は地上でのいのちを終え、神のもとへと旅立ったのである。ちょうどサン・ピエトロ広場で行われていたロザリオの祈りが終わった時であった。人々の祈りは頂点に達した。誰もが涙を流し、偉大な教皇の死を悼んだのである。若者たちも同様であった。あるテレビのインタビューに「わたしたちはこれからどうなるのだろうか。」と泣き崩れる女の子もいた。泣きながら祈りをささげる若者たちの姿がマスコミにとりあげられ、あらためて教皇のカリスマの偉大さがクローズアップされた。曰く「これほど若者をひきつけ、若者に信頼された教皇はいなかった。」と。
教皇の帰天後、パパボーイズはますます人数を増していった。それぞれが教皇へのメッセージを携え、広場中央のオベリスクにそれを貼付け、祈りをささげた。何日も徹夜をする若者たちでいっぱいになった。ローマ市ではそんなかれらのために簡易の宿泊所を設けたほどである。

感傷的な反応
このような光景を実際にサン・ピエトロ広場で目にし、新聞やニュースで知るにつけ、前の月にドン・ジュセッリの死に際して生じた疑問がよみがえってきた。なぜこの若者たちはこれほどまでに涙を流すのか?
教皇の容態がいよいよ悪くなってきた頃から、司教たちは教皇のために祈ることを人々に勧めた。ただその祈りは復活の信仰の光に照らされての祈りにするようにと付け加えられたのである。つまり教皇の奇跡的な快復よりも、このパウロの後継者がよい最期の旅立ちをできるようにと祈ってほしいという教会の意向であった。これはごく当たり前のキリスト教の信仰を言い表している。教皇の死後も教会はこのキリストの代理人が果たしてきた様々な務めを顧みながら、永遠の魂の安息を祈るようにと勧めている。世界中で祈りがささげられた。特に世界中を旅した教皇が訪れたことのある国や地域では、その出来事を思い出しながら祈ったのである。死後も続々と集まってきた若者たちも同様であった。彼らはそれぞれが抱いている教皇への思い出、思い入れを互いに分かち合いながら、歌い、祈り、共に時を過ごしたのである。「パーパは平和のために働いた。」、「パーパは世界中を旅して、貧しい人々、苦しむ人々と出会った。」、「パーパはほかの宗教との対話の道を開いた」口々に若者たちは教皇のカリスマのすばらしさをたたえるのであった。
そんな若者たちがテレビの番組に招かれて、自分たちの思いを披露し合った。自作の歌を歌う者もいた。ある一人が「これほどすばらしいパーパはいなかった。もうこれほどのパーパの代わりになる人はいないだろう。」と語ると、その場に居合わせた高位聖職者がすかさず「代わりのパーパと言ってはいけません。後継者と呼びなさい。そしてその後継者は使徒ペトロの後継者なのです。」ときびしく若者たちをいましめた。その番組を見ながら今までの疑問が解けたように私には思えた。私が若者たちに抱いていた違和感がわかったように思えた。つまり彼らは教会の信仰という観点から教皇を見ていないのである。いわば時代のすぐれた指導者、あるいは自分たちのヒーローの死という観点からこの出来事見ているのだ。だからこれほどまでに感傷的になれるのである。実は教皇の死を悼んで広場に集まっている青年たちのほとんどが普段教会に通っていない青年たちである。批判を恐れずにあえて書けば、彼らは教皇の死を自分たちのイベントに仕立て上げてしまったのかもしれない。

評価の始まりと次の教皇への期待
土曜日の夜に帰天し、翌日の日曜日を驚きと深い悲しみとで迎えたイタリア社会も明けて月曜日になると現実へと戻っていった。ちょうど地方選挙がおこなわれた時でもあったので、人々の関心は政治へと推移した。もちろん(この原稿を書いている段階ではまだ葬儀は終わっていないので)教皇への弔問の列は途切れることなく、十二時間待っても最後のお別れをできないままあきらめる人もたくさんいる。
マスコミを中心に二十七年間におよぶ教皇の在位期間の評価が少しずつ始まっている。それは新しい教皇へ託す人々の願いを形成していくものでもある。しかし、現在ローマ市内に満ちあふれている、教皇の死をめぐっての感傷的な反応が、–それは故国ポーランドからの大巡礼団の到着でますます増大しつつあるのだが– 教皇への正当な評価を難しくしているは確かである。私はエネルギーと感情にあふれ、行動力のあるパパボーイズのような青年たちを否定するつもりはない。しかし若者であるがゆえに、そして信仰者であるがゆえに教皇の死と新しい教皇の誕生という歴史的な出来事を冷静に見つめ、雰囲気とかに押し流されずに自分の力で理解するそんな青年たちになってほしいと思う。自分の死をもってして青年たちを教会の方へと向き直した教皇ヨハネ・パウロ二世の遺志を継ぐためにも。
2005年4月7日木曜日  記



Hiroshi Konishi (コニタン)



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