2004/11/25  

Column A-01

ちょっと違うかと。


ある教会の小教区報を見ていたらこんな文章に出会った。
「今、日本の社会では現実至上主義で、現実が第一という価値観です。見えない事や手で触れられない物は信じないということで、そういう人達にとっては支障はないでしょう。けれど聖書によれば人は神に向かうように創られています。『なにごとのおわしますかは知らなねども、かたじけなさに涙こぼるる(西行)』自然の中でただありがたくてありがたくて涙が出る・・、世を超えた存在を感じ取るこの歌で西行は人間のその崇高さを歌っています。こういう体験は誰でもします。(以下略)」

西行の歌の引用に少し文句をたれたい。
この歌は本当に上で語っているように、自然の中に人間を超えた存在を見いだすことのできる人間の心に本来備わっている感性を歌っているのだろうか。どうもそれは違うように思う。
まずこの歌の成立を考えてみたい。西行法師の歌と俗に言われているが、ここからしてかなり怪しい。彼の代表的歌集である『山家集』にはこの歌を見る事はできない。ただ『山家集』の元となった『西行法師歌集』には載っているというが、私は未確認である。行教和尚作という説もあるそうだが、それも未確認だ。
新編国歌大観 第三巻 私歌集編Ⅰ 歌集 「西行法師家集」では

太神宮御祭日よめるとあり
何事のおはしますをばしらねどもかたじけなさに涙こぼるる
(新編国歌大観 第三巻 私歌集編Ⅰ 歌集 「西行法師家集」より)
とある。

一般的にこの歌は西行法師が伊勢神宮に詣でた時の歌と知られている。ということは自然の現象を見て、感じて、ハラハラと涙をこぼしたのではないことがここで明らかになる。

次に西行と伊勢神宮の関係を見てみたい。西行は伊勢神宮について詠んだのは前述のもののほかに
1223
伊勢にまかりたりけるに、大神宮にまゐりてよみける
さかきばに心をかけんゆふしでておもへば神もほとけなりけり
(新編国歌大観 第三巻 私歌集編Ⅰ 歌集 「山家集」より)
がある。
今回はじめて知ったのだが、僧侶は伊勢神宮内に入る事ができなかったという。五十鈴川の対岸に僧侶拝所という場所があり僧侶はそこから参拝したそうだ。そのような背景を知ると、『なにごとの』の歌はなんだか分けわかんないけど、伊勢神宮の中に神さまがいてありがたいなという意味にも取れなくはない。だからといって自然の中に人間を超越する存在を認める歌と理解するには無理があるように思う。
ところで西行と伊勢神宮の関係を水銀の産地との関わりで考える人々もいる。当時の仏教界は寺院の装飾腐敗防止のために丹(水銀)が欲しかったから、西行も伊勢にあこがれるのだろうという説である。まあ検証はできるかどうかはわからない。が、興味深い。

問題はどうしてこの歌が日本人の宗教的心情を歌う歌と解釈されるようになったかという事だ。いつ始まったのだろうか。

最初の引用の中で「自然の中でただありがたくてありがたくて涙が出る・・、世を超えた存在を感じ取るこの歌で西行は人間のその崇高さを歌っています。こういう体験は誰でもします。」とある。もともとこのような人間のもつ傾向性を説明したいがためにむりやりこの西行の歌を引っ張りだしてきたと考えられなくもないが、それは深読みだろうか。




Hiroshi Konishi (コニタン)



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