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「美しい」とか「きれい」だとか - 『リトアニアへの旅の追憶』ジョナス・メカス

 

1997年12月30日



1. クリスマスに『リトアニアへの旅の追憶』というビデオをプレゼントしてもらった。ナチスに追われアメリカに渡ったジョナス・メカス監督の、故郷リトアニアへの追憶の旅を綴った映画である。正直を言うと、今まで見たことのないタイプの映像に最初はかなり戸惑った。映像は無数の断片からできていて、その断片は時には早回しにされ、時には瞬きをするよりも速く次の断片とつながれる。粗っぽくつぎはぎされた映像の断片がめまぐるしく画面を駆け回り、まるで見ることを拒絶されているかのようだった。視線は行き場所を失い、気がつくと自分自身の記憶を探し始める、そんなことの繰り返しであり、90分にわたる映像を見終えたときには、くたくたに疲れ果てていた。それでいて疲労感のため目を閉じると、頭の中にイメージの破片が焼き付いているのに気づいた。

 結局そのあと5日間、毎日この映画を見続けることになった。そのたびごとに突き放されて自分の内部をさまよう。字幕に気を取られていて気がつかなかったのだが、メカスのナレーションはそれぞれの映像の断片を包み込み、めまぐるしく動く映像をゆっくりとつなげている。少しづつ画面に焦点があうようになって、昨日は気がつかなかったものが今日になると見えてくる事が、何だかとてもうれしかった。


2. こんな感覚をどういう言葉で伝えたらいいのだろうか。目を閉じたときに浮かぶ、そのイメージを形容する言葉をいろいろ考えてみたのだが、とりあえず自分の中で「きれいだった」と言っておくことにした。物事を語るとき「美しい」という言葉や「きれい」という言葉は、何だか陳腐な言葉のように扱われる。確かに「美しい」、「きれい」というのは曖昧な言葉だ。言いたいことを言葉にできない。そんなときに使う言葉かもしれない。

 この映画を見て、なぜだかものを見ること、ものを伝えることについて考えさせられた。彼はこの映画で自分の追憶の旅を完結させていないし、彼の心にある何かを伝えきってはいないと思う。そのもどかしさがこの映画のすごいところでもあるし、心をとらえて放さない理由なのではないかと思う。効率優先の世の中において、うまい言葉を瞬時に選び取って、明確にイメージを形にすることが良いことのように思われがちだ。少なくてもそれがプロの仕事だと思っている人もたくさんいる。しかし、言葉を生業とする人や、ものを作る人にこそ、「美しい」とか「きれい」とかいう言葉の中で遊ぶ時間が必要なのではないだろうか。この時間こそがものを見るということであり、結果的にものを伝えるということと深く係ってくるのではないだろうか。何かを見るとき、いきなり自分の作ったフィルターを通して情報を取り込み始めることはとても危険なことだ。最終的に出力される形を想定しながらものを見ることは、効率的ではあっても何も伝えることはできない。


3. そんなことはわかっていると、やはり多くの人は言うと思う。それではもう一つ。評論の語彙を持たない普通の人が「美しい」とか「きれい」だとか、これらの言葉を発するとき、私たちはそのことをとるに足りないものと言うことができるだろうか。例えば、自分の作品を見てくれた人が「きれいですね」と言ってくれたとき、「なんだこの人は何も見てないんだ。何にもわかってないんだ。」と思ってしまうことはないだろうか。


4. 自戒を込めて。


『リトアニアへの旅の追憶』/ジョナス・メカス監督/1972年作品/1950-1972年撮影/87分/ 日本語字幕 中沢新一、西村美須寿/(株)ダゲレオ出版

 

 

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