
□ 『古代ローマ帝国の遺産』。 西暦79年ヴェスヴィオ火山の噴火によって地中に埋まった伝説の都市ポンペイは、1748年、私たちの前にその姿を表すことになる。その都市の繁栄ぶりについて初めて目にした18世紀人のみならず、21世紀の私たちにとっても今更のように驚かされる訳だが、この展覧会で私がその「豊かさ」において衝撃をうけたのは『庭園の風景』という壁画だ(左)。
『黄金の腕輪の家』と呼ばれる私邸の一室に描かれたフレスコ画は、青く柔らかな空色の背景に戯れる鳥たち、そして詳細に(それは装飾的でもあり写実的でもある)青々と描き込まれた幾多の樹木・草花は生命力にあふれ、圧倒的な強度をもってそこに「楽園」としか言いようの無い世界を創造している。楽園という言葉はあまりに感傷的なゴーギャンのことをも思い出させるが、ここにある絵画的完成度は彼をも嫉妬させるだろう正真正銘の楽園である。
コンスタンティヌス1世によりローマ帝国でキリスト教が公認され(313年)、テオドシウス1世によってキリスト教が国教に制定されて以来(380年)、ヨーロッパ美術はキリスト教美術として歩むことになった。今、『庭園の風景』を目の前にし、そのとき誕生した歴史と引き換えに失われた「豊かさ」についてふと考えてみる(乱暴な言い方だと承知で)。本来私たちの目の前に広がるはずの「風景」という概念ひとつとっても、次に目にするのは17世紀オランダ(多少広めにみても16世紀のフランドルか)。「風景」はキリスト教美術から消滅してしまう。
美術の主要な概念として「フレーム」というのがある。風景を切り取る枠/フレーム。特に17世紀以降、その枠は単に視覚上の意味でのフレームとしてだけでなく「所有」という概念と深く結びついてくる。「この美しい風景を自宅に所有したい。」それが17世紀に海外貿易による新興富裕層にまで到達し、新しい世界の秩序となり現在に至っている。もちろん古代ローマ人が壁画としてその風景を「所有」したことは間違いない。だが何というのか、つかの間の夏時間の楽しみとして目の前に「実際の」庭園を所有し、その背後に、つまり視覚的フレームから外れた外部に壁画として別の風景を所有するなんて ...。キリスト教的透視図法など未だ存在しない、この古代ローマ的『庭園の風景』の気持ちの良さというのはまた格別でもある。

□5月に公開した『夏時間の庭』(オリヴィエ・アサイヤス監督/2008年)は 、銀座の映画館にマダムたちが大挙して押し寄せる盛況ぶりだった(なぜかルーブルとかオルセーとかは女性を引きつけるらしい)。同じアサイヤス監督の『クリーン』(2004年、英語版のトレーラー→)は、マギー・チャン主演(カンヌで主演女優賞)の全編ロックな映画である。案の定小さな劇場に20人程の観客だったが、はっきり言ってこの映画こそ傑作なのだと言い含めたいところだったりもする。
ストーリーは極めてシンプルなので上記リンク先を参照してもらうとして、この映画の持つ「強さ」について特筆すべきは(上の写真ひとつでも多くのことは伝わるだろう...)、傲慢さや弱さを曝け出す彼女の行為ひとつひとつに対して、「見る者に深く関与することを求めている」ということにあるだろう。
......でも映画は、悔い改めることの可能性を観客がどれだけ受け入れられるかということでもある。彼女が自ら作り出し、生きている地獄から自分自身を救う方法があるということ。そして観客がそのキャラクターとどう繋がれるかも、彼女をどれだけ許せるか、彼女が自分を救うことができるということを信じる心の準備があるかということだ。......それは映画自体よりも、個人の救いへの許容量として、人間的な価値観や信じる気持ちがどれだけ持てるかだと思うんだ。(アサイヤスのインタビューより、下線は筆者)
それが共感という言葉であれば、例えば、義父母のもとに10年間放っておいた息子と、パートナーの死をきっかけに一緒に暮らしたいという彼女に共感できるだろうか。あるいは「なぜ麻薬を射つのか」という息子の問いに対する彼女のあまりにもナイーブな答えに共感できるだろうか。おそらく私たちに求められているのは安っぽい共感や同情などではなく、彼女の窮地を救うことができるのは彼女自身だけであるという、ある意味であまりに残酷な現実を受け止めることでなのではないか。私たちができることはまだ見ぬ彼女の「クリーン」な像(イメージ)を信じることだけなのだ。そこに「希望」がある、と私は思う。
全編を通してエリック・ゴーティエのカメラが冴え渡る。

□ 『ゴーギャン展』。ゴーギャンは正直なところあまり好きな作家ではない。でも何か気になって見てしまうのだ。
ポール・ゴーギャンが生まれた1848年はフランス2月革命の年だ。父親は共和党寄りのジャーナリスト。革命後の弾圧を恐れ、妻アリーヌ(つまりゴーギャンの母親)の縁故を頼り家族でペルーへ向かうその途上で父は病死する。1歳。
その後フランスに戻るが、おそらく経済的にも精神的にも不安定にな幼年/青年時代を送っただろうことは容易に想像できる。19歳の時には最愛の母(母親の面影は左の『異国のエバ』に見て取れる)を失う。
25歳で結婚。人生半ばまでは証券会社に勤める傍ら日曜画家としてサロンや印象派展にも出品する。当時のゴーギャンは羽振りがよかったのだろうか、少なくともマネやセザンヌの作品を購入するほどの収入があったが、1882年に株式の大暴落に見舞われたことで勤めを辞し本業として画家になることを決意、彼の人生で本格的に「逃避」が始まった。39歳。
ゴーギャンは「逃避」の画家だ。ゴッホは南仏アルルに「明るい光」を求めたのであって、決して逃避はしていない。逆に常に誰かに受け入れてもらうことを欲していた。もっともゴーギャンにしたところで単に自分の心の「よりどころ」を求めただけで、それは残念ながら南仏でもゴッホその人でもなかった。
ゴーギャンはタヒチでついにそのよりどころを見つけたような気になったのだが、それは所詮妄想の域にすぎなかった。そのよりどころは現実には手に入れられないもの、おそらく若くして死に別れた「母親の像」がそこにあったのだろう。可哀想だが外から見ればそれを「逃避」と呼ぶだけだ。タヒチの若い恋人の死。娘アリーヌの死。よりどころを次々に失う。『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか』。これをすべて単数形で読み替えると「私はどこから来たのか 私は何者か 私はどこに行くのか」となる。
さて、その『我々はどこから来たのか...』について、担当学芸員の熱のこもった論文を非常に乱暴にまとめると、要するにゴーギャンの絵画はコンピュータ史以前の「コピペ」絵画だということになる。自作の絵画のパーツや様々な写真資料を寄せ集めて構成された絵画。もっとも画家というのは様々なスケッチを組み合わせて大画面を構成するものだし、後年の研究から思わぬところに使い回されたパーツが発見されることもある(そう言えばコンピュータ上で重ね合わせて検証したりする)。だが、ミケランジェロやレンブラントの作品をいくら見ても「これはコピペだな」と感じることは無い。多分。絵画のパーツは常に絵画上の一つの思想の中にあるからだろう。
よくコンピュータの登場によって思考の方法が変わったと言われる。考えることが既にコピペの増殖だ。そんな意味でゴーギャンの絵画は現代の思考を先取りしたものだとも言える(ただしコラージュは違う次元にあると私は思う)。『我々はどこから来たのか...』は巨大といってもいいような大きさの絵画のはずだが、実際に目の前にすると意外にこぢんまりとした印象を持った。太い金色の額縁のせいかもしれないと初めは思ったのだが、それは非常にヴァーチャルリアルなこの絵画作品の特徴かもしれない。パーツがパーツであってそれぞれが思考する。確固たる絵画上の全体はそこに無い。

□ 『フランス絵画の19世紀』現在、一般に19世紀絵画として愛好されているのは「印象派」であり、「アカデミスムの画家」については殆ど知られていないというのは、出展作品を所蔵する各美術館のコメントを見るかぎり、本国フランスでもさしてかわらない状況らしい。いわゆる集客のための「超目玉作品」が無い今回の展覧会だが、私のようなありきたりで断片的な美術史の知識しか持ち合わせない者にとって、その溝を埋める興味深い展示構成になっている。
ポンピエ(仏語で「消防士」の意。歴史画の主題とされたギリシャ・ローマ時代の戦士のヘルメットが消防士のそれと似ていた)とも揶揄されるアカデミズム絵画だが、19世紀フランス美術界の構造上、後世の私たちが考えるほど簡単に切り捨てることが出来ない。例えばマネは「印象派展」ではなく「サロン」にこだわり続けたし、セザンヌは落選し続けても「サロン」入選を夢見た。
ここでの問題は、「教育/パリ国立美術学校」と「新人の登竜門/ローマ賞」そして「国家主催の展覧会組織/サロン」を「アカデミスム」が独占しているという19世紀フランスの閉鎖的構造だ。簡単に言えば、「サロン」の審査員が美術学校の教授職や「ローマ賞」の選考委員も兼ねるという状況の中で画家が生きていかなくてはならないということにつきる。画家を志すにあたって美術学校に入学した時点で、否が応でもその制度に取り込まれる事になるわけだ。もっとも「サロン」に入選さえしてしまえば、例えばドラクロアのように「サロン」の中でも「革新」をもたらす事が出来る。世論を見方につければ旧体制も渋々動くというわけだ。逆にサロン入選のための戦略的なアカデミズムへの歩み寄り(嗚呼、ドラクロア!)は、本人の想像以上にその後の絵画制作上の基盤をになっていくこともあり、保守と革新、その双方の歩み寄りを見ることで解ることも確かにある。
今回の展覧会では表立って触れられていないが、もちろんフランスアカデミズムと日本近代絵画との関わりも大きい。黒田清輝はラファエル・コランに師事した(1886年〜)訳だが、彼こそは帰国後東京美術学校の教授となり、さらに自分の学生たちをコランの元へ送り込むガチガチのアカデミズム崇拝者だ。すでにこの時期には「印象派」が存在し、サロンにはモロー(92年には国立美術学校の教授職を得る。マティスやルオーを育てている)だっていたことを考えれば、黒田が何を求めて何を持ち帰ったのかは明白だろう。
話はずれたが、単に逆説的な意味だけでなく、19世紀フランスに於けるこのアカデミズムの影響は計りしれない。カバネルとかブグローとか見るとついつい笑ってしまうのだが、同時代の画家が、どういう状況で何を目の当たりにして生きていたのか考えさせられる展覧会だった。

□ ヴッパータール舞踊団のピナ・バウシュの突然の訃報。
初めて彼女のダンスを見たのは1999年の公演の『フェンスタープッツァー』。これまでダンスなどまともに見た事が無かった私にとっては、「えっ?...」。演劇的とはよく言われるが、そもそも「演劇って何なの」という時代故、こんな位置取りのパフォーマンスの存在自体にショックを受けた事を覚えている。そして2002年にはもう絶対に見なければならぬと決めた『緑の大地』。「意味」よりも早い鋭敏な身体感覚。2003年の『過去と現在と未来の子どもたちのために』。このあたりから毎年のように日本公演が開催されるようになり、なんとなく訪れる客層が変わって私にはすわりが悪くなってしまった。しばらく足が遠のいていたが、2006年の『春の祭典』とピナ自身も踊る『カフェ・ミュラー』はどうしても見ておきたかったので(公演の様子を自分のサイトに興奮気味に書いたのを覚えている)国立劇場に向かった。これが私にとってピナ・バウシュ最後の公演となってしまった。ご冥福をお祈りします。