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□ 『池田亮司展 +/-[the infinite between 0 and 1]』東京都現代美術館の1階と地階の2フロアーで、明と暗の空間を対比的に作り、平面作品/サウンドインスタレーションとコンピュータ処理された巨大な映像作品とを展示構成している。
ところでカタログの作家と浅田彰氏との対談を読んでいると、浅田氏は池田亮司(1966〜)の作品を「美/崇高」の「崇高」側に位置づけようとしているようだ。浅田氏の教育的配慮?による解説通りに、「崇高」はバークやカントの言うところの「突出する巨大なエネルギーに圧倒され震撼される体験」のことなのだが、19世紀ドイツの画家C.D.フリードリヒに見られるように、「崇高」はしばしばナショナリズム、言い換えればそれは人の激しい情念と結びつく概念である、ということまで含めて語る必要があると私は考えている。無論ここでは池田氏が作品の完成形として「崇高」を目指すなどとは言っていないのだけれども(逆に滑稽なことだと言っている)、本人の純粋さが本人の意志とは裏腹に「権力」に利用されるなんてことは、フリードリヒに限らず(例えば作家の死後にでも)あり得ることだ。私はCD『op.』を持っていたり、池田氏は好きな作家のひとりなのだけれども、あまり「そっち」には行かないと良いな、などとつい思ってしまう(ご本人は多分お読みにならないだろうけれども)。古橋悌二(1960〜1995)さんは「崇高」じゃないしね。
□ 清志郎さんは大好きな「大人」のひとりでした。ご冥福をお祈りします。→

□ 『グラン・トリノ』(クリント・イーストウッド主演・監督)を見る。ほんの数ヶ月前に公開したばかりの『チェンジリング』(アンジェリーナ・ジョリー主演・クリント・イーストウッド監督)では、1920〜30年代のアメリカそして現在に至るまで私たちの社会が抱える、例えばシングルマザーや精神病院と警察との癒着、児童誘拐/監禁、殺人、死刑制度などを描いたとすれば、『グラン・トリノ』では、現在のアメリカが抱える、例えば朝鮮戦争の帰還兵、老い、ベトナム戦争と移民、血縁あるいは多民族化する隣人たち、そしてとりわけ生と死、愛と正義の物語といえるだろう。
so tenderly your story is
nothing more than what you see
or what you've done or will become
イーストウッド扮する朝鮮戦争の帰還兵のウォルト・コワルスキーは、自分の実の息子たちにではなく、たまたま関わりを持つこととなった隣人、年齢でいえば孫の世代ほど隔てた東洋人(モン族)の姉弟に心を開くようになる。そもそもモン族はラオス北部などに住む山岳民族で、ベトナム戦争遂行にあたりアメリカは密かに中立国であるラオスでモン族をゲリラ戦に利用。戦後彼らは共産主義政権からの報復を怖れ難民となるが、アメリカがモン族との関係を認めたのは1999年のことらしい。
gentle now a tender breeze blows
whispers through the Gran Torino
whistling another tired song
映画の舞台はウォルトも50年勤め上げた自動車産業の町。産業の衰退とともに町の様相も変わる。本人もポーランド系なのだが、移民が集まり人も景観も変わっていく状況に自分の老いも重なり、ビールを片手に愛車グラン・トリノを眺め、鬱々と日々を過ごしている。そんな中、モン族の姉弟スーとタオ(アメリカで生まれ祖国ラオスを知らない世代だ)の優しさと出自に対する誇り、そして彼らの若さに触れるにつれ、隣人との関わりを拒絶していた彼の心は次第に柔らかくほどけていく。
『ミリオンダラー・ベイビー』(こちらはアイルランド系)もそうだが、今回の『グラン・トリノ』でも、あたかもそれは彼らの人生の中にすでに織込まれていたかのように、ある時を境に事態は急激に傾れる。一度起きてしまった出来事には「救い」も「赦し」も無い。『チェンジリング』も『ミスティック・リバー』もそう。それでも映画のラストで見る者を優しい気持ちにさせてくれるのは、従軍の経験を持つ主人公の葛藤、自分が手をかけてしまった死について自らが若い友人達のために引き受け、自分の生と引き換えにしても次の世代に「大事なもの」を受け渡すところだろうか。「希望」? あるいはそうかもしれない。
your world is nothing more than all the tiny things you've left behind
最後にタオが、ウォルトから受け継いだ濃緑色のグラン・トリノに、これもまたウォルトから受け継いだ年老いた愛犬デイジーを乗せ、海沿いの道を走るシーンに、強く美しいアメリカの姿を見る。西部劇の。
engines humm and bitter dreams grow
heart locked in a Gran Torino
it beats a lonely rhythm all night long

□ 『ルーヴル美術館展 美の宮殿の子どもたち』現在ルーヴル美術館展と銘打つ展覧会が2つ開催されており、日本側の主催者、つまりお金の出どころがそれぞれ違う訳だが、どちらにしてもルーヴル美術館の方は日本に媚びること無く、と言って肩肘を張ることも無い。こちらの展覧会は「子ども」をテーマに、古代エジプト、古代オリエント、古代ギリシャ・エトルリア・ローマ、彫刻、美術工芸品、絵画、素描・版画と7つの部門を縦断して、莫大なコレクションの中から200点を選び展示している。彼らルーヴル美術館としては、展覧会を企画するとは、私たちに「美術を見ることの悦び」を与えることだという自負があり、それがフランスの底力であり誇りなのだとつくづく感じる。例えばブーシェの『アモールの標的』、シャルダンの『食前の祈り』、シモン・ヴーエの素描、古代オリエントのライオンやハリネズミの玩具、古代エジプトの王家の肖像をかたどったレリーフ、ゴシック時代の象牙で出来た礼拝用の工芸品、15世紀の彫刻家ミノ・ダ・フィエーゾレの『幼い洗礼者ヨハネ像』など枚挙に暇が無いが、作品の知名度に関わらず思わず目を見張るような超一級品が目白押しだ。
ところで西洋の歴史の中で「子供」という認識については、現在でもフィリップ・アリエス抜きでは語れない。西欧で大人と区別する「子供」という概念が生まれ、近代的学校教育が始まったのは17世紀で、それは古代ギリシャですでに存在した学校/教育の制度を模したものだ。そして18世紀ルソーの『エミール』以降の子供観の変化についても、絵画や彫刻、工芸作品を通して如実に見えてくる、実はそういう展覧会なのだ。
ともあれ歴史の主体というのはいつでも大人であり、客体(つまり子供)は大人の側から見た世界、あるいは幻想であろう。「子供たちは大人の作った世界に生きている」(『子供の情景』ハナ・マフマルバフ)
□ 同じ新美術館で開催中の『アーティスト・ファイル2009』を見る。ペーター・ボーゲルスが良い。

□ 『ルーヴル美術館展ー17世紀ヨーロッパ絵画ー』ここ数年でフェルメールの作品が続々と日本で公開され、同時にフェルメールが連れて来た(?)17世紀オランダの風俗画や風景画などにも多少馴染みが出て来たけれども、17世紀ヨーロッパ美術は当然ながらこれらオランダ絵画だけに集約できるはずなど無く、美術史的にもバロック、古典主義、そして北方のフランドル・オランダ絵画と、ヨーロッパ全土を巻き込んだ実に起伏に富んだ様相を孕む時代であり、絶対王政下の諸国の対立から新たに生まれた「国家観」が、それぞれの地域で成し遂げた「黄金の世紀」だとも言うことができる。一方で、大航海時代がもたらす経済の拡大が、様々な不安や不満をもたらした17世紀は、21世紀のグローバル化した格差社会を端的に写し出す鏡でもある。フランス・ハルスやル・ナン兄弟、あるいはクロード・ロランやライスダール等々。
オランダはプロテスタントを背景にした唯一の市民国家で、反イコンのプロテスタンティズムと市民層パトロネージュから派生した風俗画、静物画、風景画、肖像画の誕生とその後の美術に与えた影響は大きいが、一方でカトリック側の対抗宗教改革以後の布教活動は、古代文化に寄り添うことで様々な新しい変化にも耐え、さらに人間の感情により強く訴えかける作品群をも生む。例えばグェルチーノやラ・トゥール、あるいはルーベンスやヨルダーンスも。17世紀のヨーロッパ世界の力関係を美術の側から過不足無く読み取るべく今回の展覧会は、実にラディカルで、ルーヴル美術館の「俺たちはフェルメールで人を呼んでるんじゃないぜ」という自負(?)とフランスという国家の底力を目の当たりにする展示内容だ。もちろん『レースを編む女』もただただ賞賛に値する。

□ 『十二の旅 感性と経験のイギリス美術』久しぶりの世田谷美術館。日英の交流(日英修好通商条約締結150年だとか)を軸に組まれた企画とはいえ、ターナー、コンスタブルからモナ・ハトゥムまでというのはかなり無理な人選だと思う。ましてやワーグマンやリーチまで広げて12人というのは、イギリス美術を概観するには少なすぎ、個々の作家を語るには多すぎて茫洋としていると言わざるを得ない。
展覧会が巡回する栃木/静岡/富山/世田谷と来れば、こちらの認識としても「イギリスに強い」美術館なのだから、結果としてゴールズワージーの作品を「懐かしいなぁ」と思わせただけならやはりまずいと思う。「交流」はただの記録では無いのだから、「現在」の私たちに訴えかけるイギリス美術の必然性を展示に見たい。ターナーやコンスタブルを展示から外しても見る方は理解できると思うし、逆にこれを機にターナーやコンスタブルの本格的な展覧会を見てみたいとも思うのだが。

□ エリック・ロメール監督の『我が至上の愛〜アストレとセラドン〜』を見る。この映画を最後に引退を公言する88歳のロメール。映画の原作『アストレ』は5世紀ローマ帝国下のフランスを舞台にした、一言で言えば羊飼いの男女の純愛物語で、17世紀のサロンで大流行したらしい。「至上の愛」。内容は尊いものだが、まあ、貴婦人たちの自分勝手な妄想でもある訳で、そのあたりはロメールのユーモアか、映画は17世紀の人々の夢想の舞台として再現され(例えば5世紀には油絵はまだ無かったよね...)、しかも17世紀の台詞そのままを、いかにも現代の若者口調(このページで主人公2人の肉声?が聴ける)で演じ上げるアンバランスの中で進行する、不思議な純愛/官能/喜劇映画なのだ。
普通の映画では(というのも変だがハリウッドの?)、たとえ物語に宇宙人や恐竜が出てきたとして、特撮を駆使し、それなりに「本物らしく」撮るし、見る方もそれが「リアリティー」だと思ってしまう。ロメールの映画はそんな安易な戯言を超越し、知的なアンバランスさの中で、それが逆に「映画ってこんなことができちゃうんだ」と、ある種喜びにも似た感情を起こさせる。そして、もちろんそれは計算ずくなのだ。ここで友人の話だが、放映も終わりにさしかかる頃、突然のトラブルでアフレコ部分の音声が出なくなったらしい。映像と同時録音の音声(鳥の声とか)だけが流れた数分間(主催者が放映中止の決断をするまでの)、ものすごい緊張感のある「映画」を見たそうだ。恐るべしロメール、88歳。
□ 今年最初の展覧会めぐり日記は『ジム・ランビー:アンノウン・プレジャーズ』、原美術館で開催中のスコットランド出身ジム・ランビー(1964年生、2005年のターナー賞にノミネートされる。ちなみに05年の受賞者はSimon Starling)の個展。イギリス国内では2000年頃から注目されており、そのころの展示ではカラーのテープ(実際にはテープというより業務用のシートをあらかじめ決まった幅で裁断して使っているようだ)を床に貼り込んで空間を作っていた(右からリンク)。DJやバンド活動とも関連するエッジの効いたポップ調の体感的インスタレーションだ。
今回の展示(このブログで展示風景がよくわかる)は、日本を意識したかのような白黒で円弧型のパターンを繰返す一見石庭風空間。とは言うものの視覚的にはカラーテープのものよりもこちらの方がかなり(視覚的爆音に?)クラクラする。ホワイトキューブではなく、原美術館のような旧住居空間にこそ相応しい枯山水的夢想(?)、現代的(?)な展示とも言える。私たちの生活空間は他人という隣人の無遠慮な侵入に日々苛まれている。それを遮断するため自らが打ち立てる音の壁。ヘッドフォンステレオ然り。ドアノブのたくさんついたパステル調の扉から、自らの内面に自らが作り出した外部へとトリップする。しかしいったいそれは何処なのか?
原美術館の2階がベットルームだったことにあらためて気付かされる。Unknown Pleasures/他人が知らない快楽。他人から隔たることの慎ましい喜び。
