
□ 『ヴィルヘルム・ハンマースホイ展-静かなる詩情』。ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツで企画された19世紀末デンマークの画家の展覧会。
ハンマースホイ(1864〜1916)は、この10年で再評価され、私もこの名前を今回初めて耳にした。「象徴主義美術」と言われればなるほどその通りで、ハンマースホイの特徴的な室内空間の表現には、人間の「内面」およびその「漠然とした不安」を読み取ることができる。そして21世紀の現代にも、一般にハンマースホイのような絵画が受け入れられる素地がある。
フェルメールとの類似性はともかく、確かに、構図やテーマなどには17世紀オランダ絵画からの影響が見られる。それは19世紀ならではの、例えば各国がこぞって設立した「美術館」、国を越えた移動を容易にした「鉄道」の開通、本や新聞・雑誌等「印刷媒体」の流通など、「情報」が伝播するスピードと(そしておそらくナショナリズムと)無関係ではない。その気になればアムステルダムに行って美術館で作品を見ることができ、ロンドンやパリへも気軽?に旅行できる時代なのだ。ハンマースホイはそんな「時代の空気」を肌で感じ取っていたし、実際にオランダ絵画や一世代前のデンマーク絵画を参照するためのフットワークの軽さも兼ね備えていた。また一方で、心情的には19世紀前半のドイツロマン主義と通低する感覚もある。これは無根拠ではない。デンマークはルター派プロテスタントの国だからだ。
19世紀初めのC・D・フリードリヒに代表されるドイツロマン主義の絵画は、外部に開かれた「崇高」という畏怖の概念が人の内面に働きかけるような構造を持つ。フリードリヒのように「後ろ向き」の人物が描かれても、鑑賞者の視線はその人物の向うにある荘厳な風景に導かれる。それに対し、ハンマースホイの場合は、開かれるはずの外部は壁で隔てられてしまう。「後ろ向き」の妻イーダの視線は、自らの内部に閉じており、鑑賞者は彼女の心情に同化することは許されずに、宙づりの状態としてそこに留め置かれる。このあたりの屈曲が、19世紀末的ロマンティシズム装置?の織りなす「漠然とした不安」の見取り図(あくまでも私見)だ。
ハンマースホイの室内に置かれるシンプルな調度品は、ビーダーマイヤー期のものだという。ビーダーマイヤーはドイツロマン主義の反動のようなもので、革命の失敗と諦念から、理念的でない簡素で日常的な生活へと移行した時期(1818年のウイーン会議から1848年の三月革命あたり)をさす。もちろんビーダーマイヤーは、ハンマースホイの生きた時代から見れば非常に懐古的な趣味である。しかし、彼は都市の喧噪を避け、生活空間(絵画空間でもある)に、あえてこれら簡素な家具を置くのを好んだ。フリードリヒの死後、一般的にビーダーマイヤー期のドイツでは目立った画家は輩出されず、フリードリヒ自身も忘れられた人となっていたのだが、どうやら「ロマン主義的なもの」は、ビーダーマイヤー期の家具の引き出しの中にでも、ひっそりとしまい込まれていたのかもしれない(再びロマン主義妄想?)。

□『線の巨匠たち-アムステルダム歴史博物館所蔵 素描・版画展』。英語のタイトルでは「線の巨匠たち」は副題で、「The Connoisseure's Eye/目利きの眼」が主になっている。19世紀のコレクター、カレル・ヨーゼフ・フォードルが収集した17〜19世紀のオランダの素描、つまり一人の「目利き」によるコレクションの遺贈がアムステルダム歴史博物館の素描・版画部門の基礎となったことに由来する。
最近の大きな企画展、例えば開催中のフェルメール展などは企画会社の手による展覧会で、簡単に言えばすべてがビジネスベースで動いている。私たちは世界に36点(?)しかないのフェルメールの作品を、日本に居ながらに7点も見られるという恩恵も受けているし、その企画会社はもとより、その企画を買った美術館も出資に見合う収入が見込まれ、観客動員数が増えれば美術館(公立だとその自治体)の評判も上がる。バブル崩壊後、加えて情報公開法の施行以来(税金の使途を開示請求される)、この手の展覧会は確実に増えている。一見良いこと尽くめにも見えるのだが、ここで、はたして美術館学芸員(企画をしなくなった)の役割とは何なのだろうか、もしくは(この傾向が続くとしたら)学芸員の業務内容はどのようにシフトして行くことになるのか、という疑問は起こる。すべてはお金と効率の問題に置き換わる?
東京芸術大学美術館主催の『線の巨匠たち』展は決して派手な展覧会ではない。しかしここに集められた作品を見れば、(私たちにとっての)有名無名を問わず、フォードルというコレクターの「確かな眼」を堪能することができる。そして、そのコレクターの「眼」を今の時代の私たちに繋ぐため、担当学芸員が4年にも及ぶ時間を費やし緻密な調査を加えた展覧会の「企画」自体を楽しむことができるのだ。コレクターは当然だが、学芸員は美術の「目利き」であるべきだし、私たちも「目利きの眼」を楽しむ贅沢ぐらいは味わいたいものだと思う。

□『 モーリス・ルイス 秘密の色層』展を見るため、JR佐倉駅発9時20分の送迎バスに乗り込み、やっとのことで美術館に到着した。なんと長い道のり...。爽やかな秋晴れ。
ところが一息ついたのも束の間、すぐ後に観光バス3台が連なり、追うように入って来たのが見えてしまった。この集団に飲み込まれては大変...。半ば小走りで展覧会場へ。いつから川村はこんなことに?しかもモーリス・ルイスだろ??
日本では20年ぶりの展覧会となるそうだが決して大きな回顧展ではない。今回出展の15点のうち12点は国内の所蔵、展示も以前は常設(ステラとか)があった一番奥の部屋と、その後ろの(最近増設された)スペースのみだ。そして案の定、10分としないうちに巨大な観光バス集団に会場は席巻され、あれよあれよという間に足早に立ち去って行った。やれやれ。ルイスが可哀想だ。
学生時代からモーリス・ルイス(1912〜1962)を含め50〜60年代アメリカ絵画には何となく思い入れがあった。今更ながらパラパラとWikipediaなどを繰ってみると、1929年の世界恐慌(最近また耳にするようになった言葉だ)以降、33年にはアメリカの失業率は25%にも達していたらしい。ルイスは20〜30代をこの不況下で過ごし、WPA(公共事業促進局)の梃入れとして、絵画制作にも携わっていた。WPAはニューディール政策の失業者雇用対策で、仕事に溢れた若手の芸術家らに公共建築物の壁画や作品制作などを委嘱したものだ(ちなみにポロックもルイスと同じ1912年に生まれ、やはりWPAの恩恵?を受ける)。その後はあっという間に戦争。このアメリカの画家(両親はロシアからのユダヤ系移民で本名はモーリス・ルイス・バーンスタイン)の、何か諦めにも似た透明感を、戦後アメリカ現代美術に見るのは感傷的すぎるだろうか。戦後、多くの画家が「新しい表現」に固執したのは何故なのか。そんなことを考える今日この頃。

□ 『トウキョウソナタ』(2008/黒沢清監督)
黒沢監督の作品は継続的に見ているが、今回は東京のある「家族」についての話だ。青山真治監督の『サッド ヴァケイション』のように他人の寄り集まりをひとつの箱として描くのか、あるいは『トウキョウソナタ』のように「家族」という血のつながりをひとつの単位とするのか。いずれにしても人と人との「関係」のとり方が今の日本社会での切実な問題ではある。ここ10年の間、おそらく団塊より上の世代とは違う空気が(それは社会に対して抱える不安と言っても良いが)、父親役である香川照之以下の世代にはあり、その不安は世代を通じて共通の根を持つものの、個人に対しそれぞれ別の問題として現れ、自分に、そして他者に苛立ち...。
重苦しいテーマの中で、黒沢映画らしい非現実的かつ生真面目なユーモアを織り交ぜながら物語は進んで行く。現実に右往左往する父親に対して、そしてこの状況を救ってくれる誰かを求める母親に対して、舵を切ったのは2人の息子だ。大学生の長男がアメリカの軍隊に入る、あるいは小学6年生の次男がピアノを始めるということすら、普通の大人が考える人生から見ればある意味で突拍子もない選択だが、それを機に崩壊しかけた家族が別の形を取り始める。
次男役の井之脇海の好演は特に印象的だ。あの時期の子供にしかない聡明さと感性が映画に深度を与えていたと思う。わかってはいてもあの『月の光』を聴くと何故か涙がでる、黒沢マジック?か。ドビュッシーも10歳でパリ音楽院に入学を許された早熟の天才だ。現実はもっと深刻なところに来ているのかも知れないが、映画が「救い」や「希望」を求めていけないことはない。

□ 神奈川県立歴史博物館で『五姓田のすべて-近代絵画への架け橋(pdf)』を見た(今日が最終日)。幕末の絵師五姓田芳柳(初代、1827-1892)の日本画素材に西洋絵画の陰影技法を取り入れた「横浜絵」から、英才教育を受け卓越した技術を身につけた息子五姓田義松の水彩、スケッチ、油彩画等。義松は日本人初のサロン入選を果たす(1882年)。五姓田の門下には山本芳翠のように洋画家として活躍したり、初等・中等教育用の教科書(書き方の手本帳のようなもの)作成に携わった者もいたりと、五姓田派がその後日本の美術に与えた影響は大きい。今では小中学校での美術教育は様変わりしている(表面上?)が、私が受けた美術家としての基礎教育が義松らのそれに近いことにあらためて驚かされる。ところで五姓田義松と高橋由一がいずれもチャールズ・ワーグマン門下で、実力的に見ても互いにライバル関係にあったのだが、結局、日本近代美術は由一の方に接続されていったということか。近代化...。そして開港150年。
□ さて、『五姓田展』の眼と鼻の先に『横浜トリエンナーレ2008』の会場がある。3回目になる今回のテーマは「タイムクレヴァス」、つまり時の深淵。宣言文(?)を短く要約すれば「交錯する複数の時間軸に走る亀裂、そしてアーティストがそこに打ち込んだ楔を直視せよ」ということだろうか。実に厳しい言葉だ。展覧会全体として見れば、チーフディレクター以下、5人のキュレーターがこの重厚なテーマを共有し、展示に派手さこそ無いが統率がとれたものになっている。前2回のお祭り騒ぎ的な展示からは一歩踏み出した感はある。
トリエンナーレのような国際展は、国外の美術の紹介とともに日本の作家を海外に向けてアピールする機会でもある。その点からすれば日本側の作家の人選については多少賛否が分かれるかもしれない。作品選定にあたっては「身体性のもたらすパフォーマンス的な要素」を重視したという。実際これ自体は展覧会のテーマ「タイムクレヴァス」と照らして必ずしも根拠のあることではない。多少穿ったものの見方をすれば、この「身体性」という規制を使って、今や日本で主流とされる非身体的な作品群を(やんわりと)排除するための意図的な戦略だとも考えられる。日本では作家自身ですら「時の深淵」に降り立たない、「楔」を打ち込まない、主催者はこう言い切っても良かったはずなのだが、あくまでも紳士的にということだろう。私からすれば映像資料として展示される『具体』なども、身体性を掲げるように見えて、その実、殆どがよく政治家などが使う「パフォーマンス」の域を出ていない身体感だという認識だ。これが現在に脈々と続く日本の美術家の身体性および身体感覚の系譜で、これでは「タイムクレヴァス」には降り立てようはずが無いと断言しておく。現代日本美術を近代以前の日本絵画の固有性と直結させて語ろうとする向きがあるが、それは根拠の薄いナショナリズムであり、主催者は五姓田/横浜から始まる日本近代に(たとえ直視したくは無いものではあっても)無自覚であることへの異議を唱えていると読めなくもない。チーフディレクターは日本近代の専門だし。
侵された細胞の若干の取り残しこそあれ、今回のトリエンナーレは日本現代美術に施された大手術(打ち込まれた「楔」)ではある。何しろ組織の殆どを切除してしまったのだから。残された組織が3年後には新しいかたちで生まれ変わると良いと思う。マシュー・バーニーになめられないようにね。

□『フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち』。私が学生の頃、フェルメールは誰もが知る画家ではなかった。認知度が一気に上がったのは、おそらく2000年に『青いターバンの女』を含む5点が公開されてからのことだろう。昨年は『牛乳を注ぐ女』が、今年は7点もの作品が日本に集結(?)。想像を超えるブームではある。ともかくフェルメール展が開催されるたびに、デルフトを中心にした17世紀オランダ絵画も(フェルメールのファンからすると、あるいは付けたりかもしれないが)同時に展示される訳だが、それらを横目で捉えるとフェルメールの群を抜いた独創性が見えてくる。
□16世紀後半、プロテスタント勢力の強いオランダ、つまり北ネーデルラントは、スペインからの独立を目論む。香辛料の貿易大国ポルトガルがスペインに併合されるに伴い、オランダは独自でアジア航路を開拓しスペインに対抗する必要に迫られる。イギリスとの貿易競争も激化し、1602年に複数の商社をまとめオランダ連合東インド会社を設立。主要な河川の河口に位置することもあり、対外貿易と内陸諸国との通商による莫大な利益がオランダに黄金時代をもたらす。09年から21年まではスペインとは停戦するが、その後は独立をめぐってヨーロッパを巻き込む30年戦争(18〜48年)に傾れ込み、1648年にスペインから独立を勝ち取る。しかし黄金時代は長くは続かないのが常である。植民地貿易での富の覇権をめぐり1672年には英仏との戦争へと向かい、次第に国力を落としていく。このあたりがヨハネス・フェルメール(1632〜1675年)の生きた17世紀オランダの概観だろうか。フェルメールは1653年に21歳でデルフトで画家組合(聖ルカ組合)に加入、本格的な画家活動を開始する。デルフトには東インド会社の支社もあり、強力な富裕層に支えられて制作を続けた訳だが、晩年は72年から始まる上述のオランダ侵攻戦争によりバブルな経済は崩壊、14人の子供を抱え(!)43歳で亡くなったフェルメールも美術史上から忘れられていくこととなる。同時代(同世代ではない)の画家にレンブラント(1606〜1669年)がいるが、レンブラントは大都市アムステルダムで工房を持っていたのに対し、フェルメールの方はそういう生活は送らなかった。ライフスタイルの違いとも言えるが、画家が繰り出す作品の質もおのずと変わってくる。

□ところでフェルメールはカメラ・オブスクラを使っていた、少なくともその光学装置に熟知していたと言われる。残念ながら使用を裏付ける記述は見つからないようだが、問題は使用の有無よりは、フェルメールが「ものを見る」ということをどのように認識していたかということにあろう。当然だがカメラ・オブスクラさえあれば誰もがフェルメールのように絵を描ける訳ではない。ひとつの絵を完成させるには高度な色彩に関する知識とそれを実現する絵の具さばきが不可欠だ。また構図ひとつとっても完成に至るまで数々の変更を行う。カメラ・オブスクラは決して魔法の箱ではない。それではいったいフェルメールはその箱で「何を」見ていたのだろうか。
カメラ・オブスクラはレンズを通して本体のスクリーンに映像が映る仕組みになっている。強いて言えばデジカメの液晶画面のようなものだ。写真機との大きな違いはファインダが無いことだろう。ファインダが無いということは、カメラ・オブスクラの機能が写真を撮る行為とは似て非なるものということだ。一般的にカメラ・オブスクラは写真機の原型だという意識があるので、何となくスナップショット的に情景の一瞬を切り取るものだと思いがちだが、要するにカメラ・オブスクラではショット/焼き付けるという概念が無い。よって照準器(ファインダ)も無い。スクリーンの上では任意の枠の中に揺らめく光を、好きなだけ眺め続けることができる。カメラ・オブスクラは一瞬の光を切り散るのではなく、ある振幅のある「時間」を、レンズによって捉えられた光の束の内部に共有する装置と言っても良い。仮にカメラ・オブスクラを通して窓の外の景色を見れば、往来を行き来する人々の姿がスクリ−ン上に映るだろうし、波に反射して煌めく光の粒が止むこと無く浮かび出されることだろう。あるいは左手の窓から差し込む柔らかな光が映ろう時間。人物がたたずむ密やかな空間に、そんな映像的時間をフェルメールが見ていたとすれば、それは同時代のどんな画家も発想し得なかった視覚像であり、その像を絵画と置き換えるために多大な時間を費やした理由も頷ける。ちなみにスピノザ(1632〜1677年)はフェルメールと同年に生まれ、レンズ磨きで生計を立てていたとも言われる。レンズを磨きながらそこに何を見たのだろうか。
□ほんの余談だが、今回の出展作品のうち少なくとも1点は偽物ではないかと睨んでいる。その絵はやけに無駄が多いばかりでなく、画面がスナップショットになってしまっているからだ。もちろんこれは私の独断と偏見だけれども。