
□
『國華』という日本東洋美術研究誌がある(リンクは表紙のみ)。「夫レ美術ハ國ノ精華ナリ」で「國華」。明治22年(1889年)に創刊し120年(1945年と1969年は休刊)になる。近代化とともに日本の古美術を「国の内外」に位置づける必要があった(これだけでも読む人の想像力を刺激するが、今回は以下「対決」のみ)。
□『対決ー巨匠たちの日本美術』。雪舟vs雪村、永徳vs等伯、宗達vs光琳など、12組の「巨匠」の国宝/重要文化財級の作品を「対決」形式で展示する、上記國華社および朝日新聞社、東博主催の贅沢な展覧会だ。あくまでも日本美術の歴史を概観する類の展覧会ではないので、純粋にこの「対決」を楽しんで良いということだろうと推測する。普段、展覧会を見るという行為自体が私にとって「対決」(誰と?)なので、あらかじめ「対決」の構図が決められているははっきり言って楽だ(ほんとに良いんだね、あーラクチンだ)。雪舟や若冲、蕪村など多くはここ数年でそれぞれ別の展覧会に出品されているし、『風神雷神図屏風』などは宗達・光琳に抱一も加えた形での展示もあった。やはり楽しめば良いのだと思っていると、等伯の『四季柳図屏風』など新出作品もあるので侮れない部分もある。
さて夏休みだし、私なりの対決を独断と偏見で。
運慶と快慶、雪舟と雪村では対決にならないなぁ。個人的にもあまり好みではない。円空と木喰もそう。若冲も簫白も興味深くはあるが、まあ、やり過ぎだと思う。
永徳と等伯の対決は、等伯に軍配を上げたい。展示替えで『松林図屏風』は無かったが、それでも断然等伯。『四季柳図屏風』や『萩芒図屏風』等、金箔地の作品も繊細で非常に美しい。もちろんパトロンの好みが画面を左右するのは当然だが、永徳は暑苦しいかな。絵の具が重い。
宗達と光琳では宗達。宗達は天才だからしょうがない。後に生まれた光琳は完全に不利だ。これもまた『風神雷神図』が無いなかでの対決だが、それにしても宗達の『秋草図屏風』は圧巻だ。そもそも画面の作り方(その考え方)が違う。秋の草花のざわめく時間と動きを孕んだ画面には驚かされる。
応挙と芦雪は難しい戦いだ。どっちの虎も「変」なのだが、筆が立つのはやはり応挙だろう。見たことが無い動物をここまで自信を持って描ける筆力には脱帽。それに対して芦雪はちょっとずるい。漫画家的才能か。『虎図襖』の裏面には同じポーズの「猫」が金魚をねらっている絵が描かれているそうだ。それ、見てみたいじゃない。敗者復活戦なら雪舟と対決させたい。
最後に、私は歌麿の『ポッピンを吹く娘』が大好きだ。以上。

□ もう何年も前の話だが、横浜に『ルーヴル美術館展』を見に行ったことがある。JRの駅にアングルの『トルコ風呂』という風変わりな作品のポスターが掲示されていたので記憶にある方もおられよう。印象派以前の19世紀フランス美術を一望できる名品ぞろいの展覧会だった。当時、私は19世紀ドイツロマン主義の画家C.D.フリードリヒに興味があり、フランスでのロマン主義の動きも(ついでに)押さえておこうという非常に安易な気持ちもあった。フランスでロマン派といえば、一般的に新古典主義者のアングルに対峙させてドラクロアの名が挙げられる。ところがフリードリヒとドラクロアでは絵のタイプが違いすぎて比較にならない。安易な目論みはこれで打ち止め。もっとも、19世紀フランス美術といえば実物を目にする機会が圧倒的に少ないので展覧会は堪能した。多くの作品の中ではコローの作品が何故か気になった。その時はそこまで。
□さて、国立西洋美術館で開催している回顧展『コロー 光と追憶の変奏曲』で、数年ぶりにコローに再会したわけだが、今まさに私の「ロマン主義病」の再燃(再発...)。繰返すが、フランスでロマン主義の画家と言えば先ずはドラクロアだ(実際に「ロマン主義」という用語は、厳密にはその土地や僅かな時代のずれによって微妙に変化するので一律に扱うのは難しい。私が言うところの「ロマン主義」もしくは「ロマン主義装置」はやや特殊ではあるので、興味があればこちらも参照していただければ)。
フランスでロマン主義の時代は1814年頃から1840年代にかけてのことと言われる。フランスの歴史を簡単に整理すると、フランス革命(1789年)、ナポレオンによる第一帝政(1804〜14年)、王政復古(1814〜30年)、七月革命とルイ=フィリップの立憲君主制(1830〜48年)となる。先ずはフランスのロマン主義とは、ナポレオンの後ろ盾による新古典主義(代表的画家としてはダヴィッド)に対する意思表示的な面がある。ところで、フランスに於けるロマン主義は常に古典主義の「対概念」であり、ことの起こりからしてドイツロマン主義のような一元的な思想ではない。例えばドイツに於いてはロマン主義の熱情と自国の劣等感とがナショナリズム的感情と結びつき、19世紀では独立を謳う政治運動となり、20世紀にはあらぬ方向に向かうことになる。ちなみにドラクロアの『民衆を導く自由の女神(La Liberté guidant le peuple)』は自身も参加した7月革命を描いたもので、そこにロマン主義的な高揚感があると言っても良いだろう。しかしながら、30年戦争(1618〜48年)以降極端に荒廃したドイツと違い、フランスは文化的に17世紀古典主義(プッサンやクロード・ロラン)から18世紀のロココ(フラゴナール、ブーシェら)を経て、18世紀後半に新古典主義に至る流れがあり、絵画表現上の「対」はここでいうロマン主義以前から存在していた。さらに言えば、フランス革命以後激動の時代にあってすら、フランスの美術アカデミーは常に新しい為政者に重用されて来た経緯があり、「ロマン主義」対「新古典主義」という対立の構図こそあれ、互いに共有できうる先陣の思想が、どちらか一方に突出して行く流れに歯止めをかける。ドラクロアのロマン主義も色彩(感覚)と感情の表出という点で新古典主義と一線を画すということはあっても、唯一絶対の「ドイツ的」な崇高概念(これは必ずしもドイツだけに起こるわけではない)に昇華することは無い。
□前置きが長くなったが、カミーユ・コロー(1796〜1875)に戻ろう。コローは裕福な商人の子として生まれ26歳で風景画家を志す。フランスでの「風景画」というジャンルは、ヴァランシエンヌ(1750〜1819)が1800年に刊行した『美術家のための実用遠近法概要』で確立されたと言われる。古典主義全盛の時代で「戸外での自然そのものの観察」をすすめ、「歴史画」に比べて一段低く見られていた「風景画」を「歴史的風景画」というジャンルにまで高めた。コローも当時の慣習に従い、先ずはローマに滞在し「風景画」の習作を重ねた。この初期の習作群の伸びやかな筆致と豊かな色彩表現からは、近代、さらには現代にも通じるある種の感覚を読み取ることができる。その後何度か自身のスタイルを変え、晩年の「想い出(スヴニール)」という独自の様式を作り上げた。

コローの画業に対して数行での説明では端折り過ぎのようだが、私の言わんとすることは、つまりコローという画家は古典主義から出発し、政治的な位置からは身を遠ざけ、結果的に、私の言う「ロマン主義装置」を作り上げたという点にある。通常、コローはロマン主義の画家に類別されない。ここで言うロマン主義(装置)とは、つまり、描かれた風景にある情動的な視覚体験、しかも朧げでいかにも誰もが共有できうる表現が架空の原風景を創造し、それが無意識のうちに画家の手を離れ、鑑賞者の無意識の隙間に入り込む、そんな形の「不気味なもの」をさす。こうして「国民的」画家が誕生するのだ(括弧の付け方に注意して欲しい)。
モネ展の時も書いたが、19世紀後半になると現代に連なる画廊/画商システムが画家を翻弄し、コローも1875年に79歳で亡くなるまで(特に晩年の風景画に関して言えば)、作品の需要から、それに関る画商の意向に従うことを余儀なくされた部分もあるようだ。とは言うものの、画家としての「有り様」をほぼ同年代のドラクロア(1798〜1863)のそれと比較するとき、ロマン主義の両極は見え隠れする。

□ ポルトガルという国について。1920年代半ばから続いた独裁政権は、1974年リスボンで起きた「カーネーション革命」で終止符を打つ。無血革命で、群衆は兵士の銃口にカーネーションの花を差したという。もっとも手にした自由はしばしば矛盾をも抱え込むも。革命から30年を経て、比較的安定した経済成長を続けるこの国の影の部分、旧植民地からの移民が多く住むフォンタイーニャス地区の若者を撮った前作『ヴァンダの部屋』からはや6年。ペドロ・コスタ監督の最新作『コロッサル・ユース』をみた。
ヴェントゥーラは、旧ポルトガル領カーボベルデ諸島からの移民で、34年間このフォンタイーニャスで暮らしてきた。ざっと考えても革命以前からのことになる。再開発のための取り壊しは進み、地区の住民の殆どは強制的に移住させられたようだ。今では前作の主人公であるヴァンダも、真っ白い壁の近代的な外見を持つ集合住宅に住む。驚くなかれ、彼女は一児の母となっていた。ヴァンダも含めこのコミュニティーの多くの若者から、ヴェントゥーラは「父」として慕われているようだ。
長年連れ添った妻に出て行かれてしまうという失意の中、何かを確かめるように「子供達」を尋ね歩くヴェントゥーラを、ペドロ・コスタのカメラが静かに追いかける。現在の時間軸と過去の回想とが交錯しながら、ヴェントゥーラの歩みの速度で物語は進んでゆくわけだが、はっとするような美しい瞬間を焼き付けていくようなコスタの映像は健在だ。
ヴェントゥーラが繰り返し暗唱する「妻への手紙」(右)は、ロベール・デスノスの詩がもとにあるらしい(強制収容所から妻に宛てた手紙。原文のままなかどうかは不明)。過去を彷徨う彼の甘美で切ない心の揺れがその詩にある。ヴェントゥーラの革命や独立への期待とは裏腹に、どうやら生活は革命以前、美術館*の建設に携わっていた頃の方が安定していたようだ。回想からは、革命運動はナショナリズムを纏い「黒人狩り」をも引き起こしたらしいことが伝わってくる。その後の彼ら移民の生活がどうなったかは想像に難くない。ヴェントゥーラは故郷の島には戻らずに、このコミュニティーでの生活を受け入れた。それが彼の人生だったはずだが、妻のそれとはどうやらずれてしまったらしい。
『コロッサル・ユース』が前作『ヴァンダの部屋』と異なるのは、この映画がたたえている未来への小さな希望だろうか。現在のヴァンダが住む「部屋」は、窓も無く崩れそうな壁と、重機が廃屋を取り壊す轟音と、ヘロイン吸引とその見返りの咳が充満する部屋ではなく、カーテン越しに光が差し込む白い壁と、決して広くはない部屋いっぱいに置かれたベッドの上で、幼いベアトリズに懸命に話しかけるヴァンダのいる「部屋」なのだ。
再度ヴァンダを尋ねたヴェントゥーラは、隣家の掃除にでかけ本人不在の「ヴァンダの部屋」で、ベッドに横たわり眠りに落ちる。片隅にベアトリズのいる空間、そして時間。穏やかな光の中で。Colossal Youth! この映画は比類のない傑作、だと思う。
*リスボンにあるカルースト・グルベンキアンの個人美術館。グルベンキアン(1869〜1955)はアルメニア人の富豪で、第二次大戦で中立国だったポルトガルに移住。財団はポルトガル映画の支援もしている。映画の中で写っていた絵画はルーベンスの『エジプトへの逃避』。友人は、このカットも含めジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレを思い起こさせると言っている。なるほど、私もそう思う。

□ 連休中にイギリス現代美術の大きな展覧会を見ようと思っていました。そこの美術館は何故か入館料と東京が一望できる展望台の料金がセットになっていて、以前から苦々しく思っていたのですが、今日はその展覧会を見たいだけなのに展望台行きの長蛇の列の後ろに着けと言われ、ぶち切れました。美術を馬鹿にしていると思うのです。おそらくその美術館には二度と行かないでしょう。
そのかわりに、私の友人の展覧会(5/10まで)をお知らせしておきます。日本の作家には珍しい90年代後半のイギリス美術の強さを感じる作品です。
□予定を変更して『紫禁城写真展』を見に恵比寿に向かう。目的は明治の写真家小川 一真(1860〜1929)の清朝末期の紫禁城を撮った記録写真だ。一真(長崎大学付属図書館のデータベースへ)は日本の写真黎明期に於ける最重要人物と言っても過言ではない。彼の写真の持つ強さは圧倒的で、当時の、つまり日清戦争、北清事変後の日本と中国の力関係が、終焉に向かいつつある宮廷(撮影の翌年1901年に500年の幕を閉じる)のそれに、明白に写し取られていることも興味深い。
私自身は写真に関して門外漢でオリジナルプリントと言われてもさして興味は無いが、1906年に出版されたコロタイプ印刷*による豪奢な写真集『清国北京皇城写真帖』(外箱とともに2ページ分だけ展示)は、言葉を失う程美しいものだった。20世紀の初頭には、(技術としての)写真術や写真印刷術は一真によって完成されていたと言っても良いし、写真家としての彼の並外れた資質(それは感覚と言い換えることもできよう)、をそこに見てとることもできる。今回は『紫禁城の写真』ということで構成された展覧会で、観客の多くがそれを求めて来ていたには違いないが、私は写真美術館に小川 一真個人の本格的な回顧展を期待している。
*便利堂ではおそらく国内唯一コロタイプ印刷を行っている。

□ 『ウルビーノのヴィーナス-古代からルネサンス、美の女神の系譜』。ヴェネチア派、ティツィアーノ(1490頃〜1576年)の傑作『ウルビーノのヴィーナス』(1538年/ウフィツィ美術館所蔵)。こんな作品が日本で見られるなんて...。と言うより、人目に触れてもいいのか、本当に? と私の期待こそ膨らむが、混雑の具合と言えは、去年見た同じウフィツィ所蔵の『受胎告知』(ダ・ヴィンチ)と比べると大分少ないようだ。知名度だろうか。
ヴィーナスはギリシャ・ローマ時代の女神なので、ルネッサンス期に於いて文字通り「再生」する。ルネッサンスでヴィーナスとくれば、何はともあれボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』だろうか。変な言い方かもしれないが、ボッティチェリはやはり「自覚をもって」ヴィーナスを描いている。彼はサヴォナローラに心酔するぐらいなので、どちらかと言えば生真面目な人柄に違いない。それに対してティツィアーノの方は(時代的にはボッティチェリより半世紀も後であり、ヴェネチアという地理的条件とも関係あるのかもしれないが)、機会さえあればこういう絵を「喜んで」ヴィーナスとして描いてしまう、そういう画家ではあるだろう。絵を描くという事はある種の「制約」の中で執り行われる行為だが、制約をどこに置くかは、実は外の(注文主とか、展示場所とか)の意向よりも、本質的には画家の気持ち次第なのだ。ボッティチェリにせよティツィアーノにせよ、制作のためにモデルがいたことに間違いは無い。そこから何を引き出すか。美?官能? モデルが誰かについては諸説あるが、注文主、つまりウルビーノ公はこの絵にご満悦だったことだろう。
さて実際に絵に相対してみると、何とも不思議としか言いようが無い。まず、想像していたよりも大きい。存在感がある。それにモデルと目が合う。あわせた目を身体に沿って右方向に落としていくと、急に中景に視界が開ける。奥の人物が配されている床は正確な一点透視図法になっており、しかも消失点は窓から抜けずに、衣装箱の左隅あたりに止まるのだが、その消失点ギリギリの場所から左側を覆うように暗幕が引かれているのがなんとも意味ありげだ。そして、その暗幕の黒さは人体の明るさとシーツの白さを強調する。発光体のような...。気がつくと目が勝手に画面を一周して戻ってくる仕掛けになっている。
マネがこの絵に魅かれたのもわかるような気がする。ちなみにマネの『オランピア』は19世紀の世ですらスキャンダルの的となり、『草上の昼食』のように落選こそしなかったもののサロンで酷評されたのだった。

□ 『わたしいまめまいしたわ』。謎の(?)回文の副題は「現代美術にみる自己と他者」となっている。
前回ブログは書けないと言ったけれど、もちろん他人のブログを読む事はできる。概して彼ら(ブロガー?)にこの展覧会が不評なのは、人を食ったようなタイトルのせいなのか、それとも他人から「わたし」云々を問われる説教臭さへの無意識の嫌悪感からだろうか。いずれにしても企画者の意図はもう少し丁寧に見る必要がある。5人の学芸員のアプローチにや作品選定に違いこそあれ(当然だが)、ここで問題とされているのは単に「わたし」についてというよりは、そこで発生する「不安」についてなのだから。自己の「像」(他者の視線を必要とする)と自分自身の「身体」とのずれ。それを仮に「不安」のもとと言っておこう。2008年の「現代」の空気からそれを読み取ること。「過去」の近現代美術の組み合わせからそれを読み取ること。「不安」というのは言うまでもなく「近代」にその根をもつ概念だ。漠然とした不安。それは21世紀の現在も解決済みではない。ここは森美術館ではなく近代美術館なのだということも大事な点だ。
ところで、私たちはいったい何を見たいのか。「見たいもの」が見たいだけではないのか。大方の勘違いとしては「見たいものを」自分で選択しているようで、結局は「誰か」によって意図的に作り出された情報に乗っかって、踊らされて...。こうやって自分が「見たいものが無い」状態を突きつけられた時に、何か考えるべきではなかろうか。例えば「見たいもの」が何も無いビル・ヴィオラの映像を(見るべきものが何のではない)たった15分間我慢できるか。不安に耐えられるのか。
□ 日記とは言うものの、新年に入り1ヶ月も経ってしまいました。小学生の頃、日記を書かせられたことを思い出しました。私には日々の徒然を綴ることは無理なのです。ブログなど書けません。
ところで、埼玉県立近代美術館に『ニュー・ヴィジョン・サイタマ』を見に行きました。友人が出展していたからなのですが、公立美術館にやっと動きが出て来た感じがしますね。この10年間、自治体の美術館への予算が軒並みカットされ苦しい状況が続いていました。その中で規模を縮小して質の高い企画を確保したり、常設展示を充実させて耐えて来た美術館もあります。でも現在の日本の美術の状況を見れば、10年間の空白は大きな損失でしょうね。それはフリーターの問題と似ていなくもない。無かったことにしてはいけないのです(あっ、これブログ風に書いてみたつもりなんですが...)。