■ゴダールの『愛の世紀』を見る。前回の劇場公開からどれぐらい経ったのだろう。忘れていたこともたくさんあった。映画は2部に分かれ、前半はモノクロフィルムでとられた現在(映画上の)、後半はデジタルで撮影しカラーバランスを処理したその2年前の追想、つまり過去である。凡庸に考えると過去=モノクロが一般的だろうが、実は「アーカイブ=昔の記憶」こそデジタル化がふさわしいのかもしれない。実際そのように計算されている。
演出家エドガーは主演女優を探している。エドガーは「彼女」に出演依頼をする。
「彼女」の死、そして映画は2年前の回想に突入する。そこで「彼女」はある対独レジスタンス運動家(もちろんフランス)の孫娘だと明かされる。その対立項としての自らの歴史を持たないアメリカ合衆国、そしてハリウッド映画。全編を通じて執拗に隠された「彼女」の顔(実は後から指摘を受けたのだが、エドガーとの関係に於いてみるものには伏せられていると言った方が正確だろう)は、ただ一度だけ、ガラス越しにエドガーと向かい合う形で確認される。
「新しい風景」の発見は常に過去の記憶の「自分が知っている風景」との比較で認識されること。そして「大人」であること。それは前回見た時も確認している。はたして私/私たちはどこまで「大人」になれたのか。(『アワーミュージック』とともにイメージフォーラムで公開中)
■トリシャ・ブラウンのダンスを見る幸運に恵まれた。トリシャ(1936年生まれ)自身が踊った『アキュムレーション ウィズ・トーキング・プラス・ウォーターモーター』 という映像(1979年)と、カンパニーによるダンス3編で構成されている。ダンスについては全くの門外漢だが、ローリー・アンダーソンが音楽、ロバート・ラウシェンバーグが美術を担当した『セット・アンド・リセット』(1983年)など見ると、在りし日の「アメリカ美術」の匂いがして小気味よい。どういう言葉で表現したら良いかわからないが、ひとつひとつのタームの構造が視覚的ではっきりしており、それらをアキュムレート(蓄積)する、あるいは接続する方法の差異から、どこか「物語」的な感覚を生み出しているとでも言おうか。その点ではじめから物語を作っていくピナ・バウシュとはかなり違うように思える。
■東京-ベルリン/ベルリン-東京展。ベルリンの壁崩壊(これも不思議な言葉だ)はいつのことだったろう、この20年近い「私たち」の時間はいったい何だったのだろうと、こういう粗雑な展示を見せられる言いたくなることもある。確かにカタログを見ると研究者レベルでは有意義な情報交換がおこなわれているのかもしれないが、ことは展覧会、作品の展示だろう。
田中純氏の展評は是非一読すべきだ。私も作家として付け加えたい。例えばニナ・フィッシャー&マロアン・エル・ザニの『共和国クラブ』(田中氏が指摘しなかった方の、クラブ様の騒音?を発生させる建築模型装置)を機能させる努力を怠っていること、キャンディス・ブレイツを評価するかしないかは個人の問題だろうが、たぶん性格的に他の作家に対して遠慮がちなタイプだろうカタリーナ・グロッセの能力を充分に引き出せないような展示構成は、現代美術館として問題がなかろうか。
ところで川端龍子の『爆弾散華』(1945)というのはすごい作品だ。
■須田国太郎展。美術史家であり、もちろん画家である須田国太郎(1891−1961)の回顧展。須田が黒の絵の具を塗っては布で拭き取る行為で格闘していた対象が、正直を言うと何かよくわからない。それはバロック的な陰影の黒でもなく、ましてやマネのような色としての黒でもない。よく言われるような日本的な(そういうものがあるとすれば)黒にもなっていない(少なくとも私が見る限りは。手がかりとして、能、狂言のクロッキーも持ってきたのだろうがやはり今ひとつピンと来ない)。
初期の作品を見ると、ややセザンヌを意識させる構造感と独特の色彩感を持つことがわかる。独特の色彩感とは、具体的には混色され「はだいろ」がかって見えるバーミリオンと、その補色関係にあるいくつかの緑のバリエーションで、これが実際、須田の使う黒となじみがかなり悪い。そう思うと、その黒い画面に明るさを出すために用いる白がやはり生っぽいとしか言いようが無い。画家自身がそれに気づかないはずも無く、それでも画面に記し続けたたこの行為は何なのだろう。何かを消したい?意図的に失敗し続ける?「喪」に?
■『白バラの祈りーゾフィー・ショル、最後の日々』(マルク・ローテムント監督、2005年)を見る。月曜の初回にもかかわらず中高年の男女(熟年の女性と定年過ぎの男性、念のため)で非常に賑わっている。
ナチスへの小さな抵抗運動「白バラ」のゾフィー・ショルら3人が逮捕され、たった5日間で処刑されるまでを撮った映画。ドイツ人のメンタリティー(ちょっと不確かな言葉だが、今はこれに変わる言葉が思いつかないので)と言うか、ゾフィーの真っすぐで一途な行為そのままに監督のローテムントの視線がある。しかしながら注意しなければいけないのは、その「崇高」さを背景に持つメンタリティーと同じ「根」からナチスは生まれたのだということだ。ドイツ人と似たメンタリティーを持つ日本人は予想通りに映画館に足を運び、宣伝通りに映画館で涙する...。ゾフィーの行為を讃えながらも、いざ有事のときにはそれがどちらに転ぶのかは実は定かでない。

ゲルハルト・リヒター −絵画の彼方へ−
世界をありのままに写し取りたいという欲望は、19世紀の写真術の発明によって劇的な変化をとげる。欲望は産業、あるいはメディアと結びついて私たちの生活を消費する。自身で捉える事のできる世界像は、写真、映画、テレビ、インターネットなどメディアを介した映像によって刻一刻と置き換えるられる。写真に映し出された像をカンヴァスに写す/移すことで、 絵画上を「額縁」としてその内部に広がる空間の再現から、メディア上のイメージという「薄い皮膜」を再現する手段へ転換...等々。という感じでまとめておくとなんだかわかった気になるとすれば、そこに注意が必要だろう。リヒターはロバート・ライマン(同じく数年前にこの美術館で回顧展が開かれている!)と「親しい仲」なのだそうだ。一方はイメージを白い絵の具で覆い隠し、一方はイメージをぼかす。ことはそれだけなのだ(ついでだがポルケとの親交は決裂したらしい)。
10年程前のこと。ロンドンのアンソニー・ドフェイ画廊でリヒターの展示を見た。アンソニー・ドフェイといえば現代美術を扱う画廊の中でもあからさまに「格」が上だ。それは、例えばテムズ川沿いの旧市庁舎を買い上げて美術館にしてしまう広告屋チャールズ・サーチの金銭力を持っても覆すことができないものだ。リヒターの作品はそういう場所にあるのがふさわしく、その画廊に並ぶ10数枚の『アブストラクト・ペインティング』は壮観であったし、確かに美しい。欲望の一致。