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呪いの醤油臭

畜生… 今日は何もかもが…

俺は何時もの様に混み始めた電車に乗り、辛うじてせしめた座席に腰をおろした。午後6時半。両隣りはオヤジ。 

しかし、この臭い… 一体どっち側のオヤジなんだ? 今日はホントに何もかもが…

そう、俺は今日、一日中この臭いに支配されていた。この臭い。この紛う事なく確認出来る馴染み深い臭い。 

これは… 間違い無く醤油の臭いだ。餃子のタレか、それとも蕎麦つゆか、或いはラーメンか… いや、もしかすると焼き鳥かも知れない。 

朝の電車で隣に座ったネーチャンから始まって、そして、会社じゃ、隣の席の中途入社のあいつ。臭ぇんだよ… どいつもこいつも。だらしねぇんだよ、醤油の臭いなんぞぷんぷんさせやがって。 

冬の電車のむっとむせ返るような暖かい空気は、俺の鼻孔をいやが上にも敏感にさせる。俺は心底、逃れたい… 今日一日俺を取り囲で放さないこの臭いから。 

漸く、駅に着く。俺は、家路へと急ぐ。 

まあ、誰が待っている訳でも無いが、少なくとも醤油臭いオヤジに挟まれているよりはましだ。 

アパートの鍵を開ける、そして、中に入る。エアコンのスイッチを入れる。コートを脱ぎ、スーツの上着を脱ぐ。それを椅子の背に無造作に放り投げる。ワイシャツの釦を外す。 

ああ、今日もマジで疲れた… 少しのんびり… しかし、さっきから何だ? この臭いは… 臭ぇ… こりゃ、醤油だ、醤油の臭い… 

ん? あ? …え? え? え? えええええ? もしかして、お、俺…?

俺のダークグレイのワイシャツの袖口が一部分だけ本来の色よりも濃く変色しているのが眼に入る。

そういえば、俺… 今朝、納豆を喰ったっけ。

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「呪いの醤油臭」について。

ありませんか? こう云う事って。(笑)

例えば「朝からミントの香りが漂うな〜?」と思っていると、実は、歯磨きした際に鼻の先に歯磨き粉が付着した所為だったり、「何やら発酵臭が?」と思っていると、洋服の前身頃に、味噌汁がはね飛んでいたりとか、「ニンニク臭ぇ?」と思っていると、自分の手指が芳香を放っており、前夜にニンニクを料理した事を思い出したりだとか。 

「臭い」思った時、私を含め人間と云うものは(そう?)自分ではなく他の人間を疑うものなんですよ、きっと。 んで、最終的に消去法で行くとどうも自分が匂っているらしい…? と云う事に気付かされるのです。 そう、だすから、驚愕と羞恥に苛まれない為には、先ず自分を疑い、然る後に、心置きなく他人を疑う様にしなければいけないのです。

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滴り

あの日…

丁度、今日と同じ様に麗らかに晴れ渡った小春日和だった。そう… あんな無惨な出来事が起こるとはとても信じられない程の穏やか過ぎる程に穏やかな冬の日。

数日前から冬型の気圧配置が続き、当時、私の暮らしていた地方でも、窓の外に映るのは、何日も前から、美しい冬の青空と低い太陽からの暖かな陽射しに満ち溢れた透明な風景だけであった。

ああ、何て素晴らしい日なんだろう… そだ! こう云う日には、やはり…

私は、思い立つと、二階の一室へと急いだ。押し入れから家族分の布団一式を取り出す。一人に付き、敷き布団二枚で計四枚、厚いものと薄いもので構成された二枚の羽毛掛け布団計四枚。肌掛け布団二枚。更にシーツを剥がし、掛け布団カヴァーを剥がし、枕から枕カヴァーを剥がし… そして、陽光で溢れんばかりになっている二階ベランダ前の掃出し窓の前にカヴァーを剥かれて俎の上の鯉の様相を呈しているそれらを堆く積み上げた。

布団干しに最適の乾燥した一日。

私は、おもむろに窓を開けた。山から吹き下ろす風が少し冷たい。 

こう云う時にのみ活躍する二階の洗面所で、雑巾を絞り、ベランダの手摺を丹念に拭く。一度、そして、もう一度。更にもう一度。何度も洗面所とベランダの間を往復し、排気ガスと埃が霜と冬特有の極度の乾燥状態との融合によって造り出される黒々としつこい汚れを落とす。 漸く、準備が調った。私は、一寸重い羊毛布団を四枚、羽布団四枚、肌掛け布団二枚を二つ折りにしてベランダに掛けた。ベランダの手摺を水拭きした手が冬の乾燥した風になぶられて少しつらい。 

時間は午前十一時半。干すのに要する時間は二時間程か…

私は、洗濯の必要なリネン類を腕に抱え、階下の洗濯機へと向かった。

二時間後。既に、夕方の気配。

私は、雲の中に日が陰りはじめ、先刻よりも更に冷たい西風が吹き付けているベランダに立ち、干してある敷き布団布団四枚、羽毛布団四枚、肌掛け布団二枚を次々に力任せにベランダの手摺から掃出し窓を経て床の上に放り投げた。乾燥し寒さに赤紫になった両の手の皮が強ばる。午前中と同じ様に、床の上に横たわる布団の山。私は、新しいリネン類を用意し、先ずは、羊毛敷き布団にカヴァーを掛ける。 

一枚目、二枚目、三枚目… 

…と、その時である。ふと何気なく見遣るその手の先に… 点々とした染みが出来ているのが眼に入った。 

あれ? 確かに洗濯したばかりなのに… これは一体?

その場所を手にとって良く良く見ようとした私の眼に飛び込んで来たのは、先程迄はそこにはなかった筈の同様の染み。そして、最初に作業を終えた一枚目の敷き布団のカヴァーにも、二枚目の敷き布団のカヴァーにも… そう、その染みは、私の手が触れた場所に点々と染み付き、次第にその数を増して行く。そして、また、ここにも、あそこにも…。 赤茶色のその染み… これは… これは、血? 真っ白いシーツのそこここに、血の染みが…

ま、まさか…

ゆっくりと見下ろした私の両手の指は、関節に沿って刻まれた皺の通りに皮膚がぱっくりと割れている。その一本一本から、最初は球の様に膨らみ、そして、やがて自らの重みに堪えかねて滴り落ちる無数の血液の流れ…

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「滴り」について。

卑近なテーマ(布団干し…(笑))ではあるんですけれど、思い出すだに恐ろしい体験でした。 もうね… 自分の手がそんなに赤切れ(漢字は正しいのか?)てしまっていたのに正直云って全く気付いていなかったものですから。 

こう、何と云いますか、点々とね、付着している訳ですよ、紅く鮮明に。んで、流血の惨状を呈している自分のお手ての事を知らないものですから、その朱に染まった手指を使って、はたいたり、確かめようと触りまくったりして、被害が拡大。やっと気付いた時の驚愕と来たら…! しかも、その間に真っ白いシーツが、血まみれと云う言葉が大袈裟でない程に…!

原因は幾つ考えられますね。

先ず、基本的に、乾燥肌傾向にある云う事。

次に、手指に於ける関節各地の皺が深い(笑)事。

更に、直前に水で絞った雑巾で以って埃を拭った事。(埃は油分を吸着し、汚れを洗い流す際、埃と埃に吸着された油分は水とともに流れ去るに違いない)

そして、当時の在所が「空っ風」で有名な某関東の田舎であり、当該、恐怖の出来事の起こった日は折しも物凄い強風が吹き荒れ湿度は20%台…

まあ、それはそれとして、事の顛末なんですけれど… 惨劇の証拠物件を記念として残して置くと云うのもなんですし、詰まりは結局、仕事が増えちゃっただけ… 本当の意味の「恐怖連鎖」とはまさにこの事。

教訓(?)は冬の布団干しは剣呑だと云う事ですね… 諸氏、お気を付けあれ。

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図書館の怪

そう、麗らかな冬の陽射しの満ち溢れた平和である筈の図書館であの出来事は起こったのだ…

あの日…

私は、とある図書館の陽のあたるソファに腰掛けて読書に没頭していた。初冬の柔らかな陽が窓越しに降り注ぎ、その空間は空気さえもがのんびりと居眠りをしているかのような… そんな午後だった。何時しか私も半分微睡んだような意識の混濁を感じ、そして、ある瞬間、その気持ちのよい白昼夢から、ふ… と、我に返ったのだ。 

ああ、何だろう… 何かが、おかしい…

私が感じたのは一種の違和感だった。何時の間にか、その図書館の一画が、先程来とは違う何か異様な雰囲気で覆い尽くされようとしていたのだ。私は意識を研ぎ澄ました。

正体不明の空気の震えが、この一帯を異空間に変えている? 

そう… 何か、正体不明のうめき声にも似た空気の振動が、その場所に漂っているのだ。

「… スネイ ン… デ …ホラ ド コ …ネ ビィ ガ … トン デ… ン … ホラ コ ヨ…」

その音はほぼ真後ろから私の耳を襲い、まるで催眠術の様に脳髄の中に染み込んで来る。果てしなく続くかに思われる呪文。 

「… トイ ット … ド コ… ホラ ナ ニヲ ス …ノ …ン」

甘ったるい響き、私の脳を犯すこの音。これは… 女の声? しかし… 余りにも… 

と、突然、陽の光を汚染する様に充満した呪文を引き裂くかの如く、その幼い子供の声が響き渡ったのだ。

「ここはね、まま、ぼくねぇぇぇ、あのねぇぇぇ、ちーするぅ、そんでうんするぅ、んで、そえはねぇ、ちーーーーーーのうーーーーーーのとこおだよぉ」

「そう! トイレットはここだよね〜」

スネイル、ビー、そして、トイレット…

恐る恐る振り向いた私の視界に飛び込んで来たのは、絵本に興じる、妙に発音の良い母親とその息子(推定二歳)の睦まじい姿だった。

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「図書館の怪」について。

今回のお話は、一寸ばかり判り難かったですかね… 自分の筆力に限界を感じましたよ。(笑)

これは図書館での出来事なんですけれど、実を云うと本当に異空間に居るような錯覚を覚えたんですよ、この親子の会話(か?)を聞いていて。先ず、母親の英単語の発音が… 多分、訓練を受けた人なんだろうけれど …物凄く臨場感に溢れている訳です。で、それが日本語と混ざって発話されているんですが、もうね… 最初に耳に入った時点では、日本語ではない響きの音と日本語の音が輪唱状態になっていて、聞き耳を立ててはいるんですけれど、それでも何が発音されているのかが、俄には判別出来なかったのです… 最初の恐怖はこれ。 

それでも、次の瞬間には、ああ、素晴らしい発音の英単語と赤ちゃん語(母親が赤ちゃんに話し掛ける甘ったるい話し方の総称)の混合だと云う事が判る訳です。で、それはそれで納得して、その後の教育の様子を聞くとも無しに聞いていたんですが…

… んで、ここからは二番目の恐怖について。 

ああいうのって如何なんでしょうか?

凄く一生懸命だし、強制している訳でもなく楽しそうだし… 「ああ、頑張ってるな…」と微笑ましく思う反面、「あのさぁ、日本語もしゃべれない幼児に英語を仕込んで如何すんの?」と疑問にも思うんですよ。

やはり、日本人の基礎は日本語でしょ… ね? 如何ですか?

語学に早期教育が大切だとは云いますが、じゃ、日本語を疎かにしてもいいのでしょうか? 日本語だって語学… まっ更の状態からスタートする子供にとっては、日本語も英語もフランス語も、どんな言語も同じ語学なんですから… 勿論、程度問題ですけれど。  

言葉って… 道具なんですよ。多分。

自分が何者なのか、何を拠り所とする存在なのか… 語るべき内容がなければ、どんなに素晴らしい道具を所持していても全くの無駄、と云う事になりかねないですもん。それって、物凄く恐い事だと思いませんか? 

最近知り合いになった翻訳家の方も嘆いておられました、翻訳家を志す若い人の日本語のレヴェルについて… やはり、日本語がきちんと使いこなせてこそ、素晴らしい道具としての外国語が本当に役に立つんですよ。きっと。

… と、かなりえらそーに書いてしまいました。一体、何様か?(笑) 

ところで、因みに、私はどんな外国語も満足に使えません(笑?)。あしからず。 

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絶叫

あの日…

何時もより帰宅の遅くなってしまった私は、恐る恐る玄関の扉を開けた。家の中はしん… と静まり返り、常ならばつけっ放しでがなり立てている筈のテレヴィの音すら聞こえない。 

「只今…」 

返事はない。しかし、確かに人の居る気配はある。

「只今、誰かいないの? あ… 何だ、居たんだ…」

彼は、電源を切ったテレヴィに背を向けて炬燵に深く身体を預け、眼を瞑り、沈思黙考の態であった。まずい… 機嫌が悪いんだ。私は、自分の食事の支度をし、同じ炬燵の彼の向いに座った。 

「今日さ、仕事がさ、一寸終わらなくって。疲れたな。」

彼の表情は微動だにせず、深く眉根を寄せて、何かに取り付かれたかのような硬直状態に陥っている。普段ならば文句の一つも云う筈なのに… 彼のその姿は尋常ではない。 

「ね? 如何したの? 気分でも悪いの?」

無言… 一体彼に何が起こったのだろう… まさか… 私は堪りかね、彼に手を差し伸べた。

「ね… あの… 大丈夫なの? ね…」

その刹那である。閉じられていた彼の血走った眼がカッと見開いたのは。そして、私があっと思う間もなく、彼がこう叫んだのは、それとほぼ同時であっただろうか。

「うぉぉぉぉぉ! さいとーがほーむらんをうったぁぁぁ!」

ふと見遣る彼の右の耳からは黒くか細いコードが垂れ下がっていた。

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「絶叫」について。

今回の「絶叫」は、ほぼそのまま… 実際に起こった通りに書いてみました。しかし、一寸ばかり、時期を外してしまいましたね。

お解りでしょうが、彼(父親)はプロ野球日本シリーズのラジオの生中継に興じていたんですね。 本当にねぇ… はっきり云って、物凄く恐かったです(笑)。しかし、何故に彼(父親)はテレヴィではなくラジオを、しかも、どう云う了見でイヤホンで聞いていたのか… 幾ら考えてもさっぱり判りません。謎が更なる謎を呼ぶ、本当にあった恐い、否、迷惑千万な(笑)お話、でした。

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毬藻

そう… 今から三ヶ月前、夏の陽射しと茹で上がりそうな湿気の中で私はそれを手に入れたのです。けばけばと丸く愛らしい緑色も鮮やかなそれ。しかしその他愛もない物体が、私をこのような恐怖へと導くとは… その時の私には全く思いもよらなかったのです。

私の手に入れたもの、それは、小さな筒型の容器に入った直径一センチ程度の二つの毬藻。あの日、私はとある水族館のお土産コーナーでそれを見付け、産毛にも似た緑色の繊維をびっしりと身に纏った、その余りにも健気な風情に一度で魅入られてしまったのです。そして、我知らず、それは私の手中に大切に抱えられていたのです。ああ、私の可愛い毬藻…。 

暫くは、私と毬藻の蜜月の日々が続きました。しかし、日が経つに連れ、次第次第に私の心は毬藻から離れていったのです。慈しみ育てていた毬藻を放置する毎日… 気付けば、毬藻の為に特別に誂えた美しい花模様の描かれた丸い金魚鉢にもカルキの痕が付き、干涸びそうになる寸前での、そして余りにもぞんざいな水の投入… 

冬に差し掛かったある日。私の眼は、その日に限って毬藻に吸い寄せられ、何度となくその喫水線がカルキによって白く刻まれた水槽を魅入られた如くに眺めている自分に気付いたのです。毬藻。あの小さかった毬藻。 

そして、その恐怖の出来事は起こったのです。 

動く筈のない毬藻が蠢いている… そう、そして確かに… ああ、何と云う事でしょう。眼の錯覚では断じてありません。それは、私の眼前であの愛らしい産毛のようだった触手を伸ばし、二つ互いに絡み合い乍ら蠢き、今や、巨大な一つの固まりとなって小さな金魚鉢から溢れん出ん程に…

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「毬藻」について。

まあ、勿論… 「巨大な一つの固まりとなって小さな金魚鉢から溢れ出ん程に…」と云うのは嘘ですけれど(笑)、手に入れた経緯や何かは本当なのです。そして、巨大化(!)と云うのも、一応、五分の二程の真実を含んでいるのですよ。(否、十分の三、か、な?)

その話しは一寸置いておいて… 毬藻本体について。

本編(笑)にもあるように、この毬藻は都内の水族館のお土産なのです。その名も「愛のマリモ」。クサいです。そして、筒状の容器に入っており、上面の蓋は不透明である為、横の歪曲した面から毬藻を眺める訳ですが、屈折率の関係で、実物よりも二回りくらいは大きく見えるんですよね。毬藻を金魚鉢に移す段になって、初めて肉眼で毬藻を見たのですが、直径は大きく見積もっても8ミリメートル。あまりの小ささに吃驚しましたよ。

こう云ったお土産って、全国各地津々浦々の水辺で売られていると思うんです。実際に、私も、富士五湖の一つである山中湖畔でも見ましたし、他に複数の水族館で同じパッケージ同じ体裁の「養殖毬藻」に出会いました。で、実は… 見掛ける度に欲しくて欲しくて仕方がなかったのです。大人気ないですよね? なので、堪えに堪えていたのですが、今年の夏、またしてもそのパッケージに出会った時には、もう無理でした、如何にも我慢出来ませんでした。(本当)判っているんですよ… 大人気ないって。(ぷ?)

と云う訳で、手に入れた毬藻なんですが、家に持って帰る迄にはまた紆余曲折があるんです… 

大人気なく嬉しがった私は、毬藻をきちんと仕舞わずに、手に持って歩いていたんですね。ホラ… 時々ちらっと眺めては悦に入りたくて。(判ります? この気持ち)そして、とある喫茶店にてお食事をし、更にデパートを冷やかしたりし、電車に揺られて帰宅したのですが、家に帰ってみると… ね、ないんですよ、毬藻が。よく考えてみると、食事によった喫茶店で確かに机の上に置いたのが記憶にある最後のシーン。そう、私は大切な毬藻をあの喫茶店に置き忘れてしまったのです。家からその喫茶店迄は電車に揺られて二時間、更に歩いて三十分。とても取りにいける距離ではないので… 通常なら諦める所なのですが、私は記憶の糸を手繰り、その喫茶店の名前を懸命に脳内走査し、奇跡的(?)に思い出し、某電話局の番号案内で電話番号を尋ね、喫茶店に電話し、説明し、お願いし、宅急便で送り届けて貰ったのです。え? 大人気ない?(笑)

そうまでして手にした毬藻なのに… 人の心はうつろいやすいものですね。

私が毬藻を放置して、たま〜に、日なた水を追加する程度のお世話しかしていなかった数週間の間に何が起こったかと云いますと。先ず、ベルベット状だった毬藻表面のけばけばがやけに長く育って参りまして、何か大きくなったな… と不審に思って、よくよく観察してみると、何と、二個の毬藻がお互いに伸ばし合った毛羽が絡まりあって見事にくっつき、一体化しているではありませんか! そう、毬藻はホンの僅かの間に二倍の大きさに巨大化していたのです。

ね… 恐いでしょ?

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文系脳

その刹那の彼の苦悶の表情を私は今でも忘れる事が出来ないでいる。あの時、彼は、声にならない声で懸命に私に呼び掛けようとしてたのだ。

あの日…

あの日は、麗らかな小春日和の週末だった。

一緒に食べる遅く起きた休日の朝食を兼ねた昼食。それは、多分、最高に気分の好い仕合わせな瞬間だったのかも知れない。不吉な影など微塵もない美しい陽射し。そして、私はテレヴィのリモコンに手を延ばし、何の気無しにテレヴィの電源を入れた。画面に写し出されたのは、男子選手のマラソン中継だった。

彼は云った。「ねえ、君… 今、仮に君がマラソンをしているとするだろう?」「え? ええ…」「君は、今、そうだな… 三位を走っているんだよ」「それで?」「それで、君は、後ろから来た選手に追い越されるんだ」「ええ、私が追い越されるのね?」「そう… 君は三位なんだよ」「ええ、三位なのね」「で、君は追い越されるんだ」「ええ、追い越されたわ」「うん… そう、いいかい? そうするとさ、君を追い越した選手は何位だと思う」

彼の眼は尋常ではない光を宿していた。

「何? そんなの簡単じゃない」私は応えた。

「… 二位でしょ?」

その刹那の彼の苦悶の表情を私は今でも忘れる事が出来ないでいる。あの時、彼は、声にならない声で懸命に私に呼び掛けようとしていたのだ。

彼の内部で二つの相反する行動が一度に表に出ようとして爆発的な葛藤を引き起こしていた。彼は呼吸に困難を来し乍ら… それでもその言葉を私に伝えたかったのだ。

「だ、だ、だから… き、君は… 君の頭は… ぶ、ぶぶぶ、文系…」

彼の声にならない声は何時しか恐ろしい程の笑いの発作へと変化していった。

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「文系脳」について。

これは、ばりばりの理系人間(高校数学教師…)である私の兄が家族団欒の席で私を辱めた事件を元にして居ります。兄は私を「文系のやつはみーんなそーゆうんだよなー」と私を散々に慰み物に…(当たり前か?)しかし、よくよく考えてみれば(否、よく考えてみなくても)、当然… 三位の選手を追抜いた選手が二位である筈がないんですよね。

で、あまりに悔しいので(笑)、この間違いを分析してみますと…

先ず、文系人間である私は右脳に強い偏向があるのだと思うのです。ですから、耳から聞いたお話が、論理的に文章として理解されるのではなく、脳の視覚野に於いてビジュアルとして再生されてしまうのです。さあ、考えてみて下さい。三位の選手が走って来ます。彼の頭には、人間の顔の換わりに巨大なアラビア数字の「3」が乗っていますよね? だって、三位なんだから… 当然です。そして、後ろから走って来た選手、彼の顔はのっぺらぼうです。彼には何らレッテルが張られていませんから。そして、いよいよ「のっぺらぼう」が「3」を追い抜きました。すると如何でしょう… 「3」を後ろに従え「のっぺらぼう」の顔が次第に変化して行きます。そう、彼は「3」の前に立ったのですから、彼の頭は「2」に変化して然るべきなのです。 

この映像が、一瞬の内に、私の脳裏を、駆け巡り… 

だって、無理ですよ。一度イメージした「3」頭が、追い越されたからと云って直ぐに「4」頭変えられませんよ。

ね? そうでしょ?

これは… そう! あの「アキレスと亀」のパラドクスに対して、丁度反対の論理ですね。「何時迄も亀に追い付けないアルキメデス」と「追い付かれたにもかかわらず何時迄も三位の「3」頭」。

世の中、上手くいかないものです。

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蠢き

あの日、進まない仕事を抱えた私は、そう思い乍らもコンピュータを開き日課のメール送受信を行っておりました。当時、私のコンピュータは白い小さなノートパソコンで、私はそれをピアノの蓋の上で操作するのが常でした。そして、そのピアノ自体は狭い書庫のど真ん中に存在を誇示する様に置かれていたのです。

誰も居ないはずの書庫… しかし、集中してコンピュータの画面に向かおうとする私の目の端に、何故か白い何ものかが過るのです。気配に振り向いてはみるのですが、勿論、何の変化もありません。 

「何だろう…」何回目かに頭の上に輝く薄暗い白熱灯を眺めやった刹那、私の目に信じられない光景が映ったのです。それは、光り輝く無数の点… そう、それは飛び交う何十匹もの白い小さな蛾の姿でした。そして、眼前の書棚以外の二方の壁を呆然と見遣った私は、そこに更に恐ろしいものを見たのです。壁には、その蟲がびっしりと犇めき、まさに壁全体が蠢いていたのです。

見る間に、それは、集団で何かを形作ろうとするではありませんか… そして、その形は… 

もうこれ以上は語りたくありません。

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白い悪夢

今考えてみれば、その日は、朝から不吉な予兆と云った雰囲気が私の周辺を支配していた様に思う。

そんな雰囲気も薄らぎ、殆ど忘れ切っていた仕事帰り、私は、何時ものように、焼き芋の香りのするネスカフェエク○ラの大瓶を取り上げ、標準よりは小さな手に大瓶の直径を負担に感じつつも、マグカップにテキトーに振り入れた。今日は気分的にこれも入れよう… 私は常にない行動に出た。そう、クリ○プの瓶に手を延ばしたのだ。一回、二回三回… 瓶の中で固まっているのであろうか、白い粉はなかなかマグの中に落ちて来ない。私は、思いきり負荷をかけるべく急激に大きな力を瓶に加えた… その刹那、マグの半分に及ぶかに見える大量の粉末が降り注いだ。取り除こうと思えば取り除ける。しかし、私の思考回路には、後戻りという単語はないのだ。 

私がその液体を啜りながら、朝の不吉な予感を思い出したのは云うまでもない。(口当たりはヘビーにしてミルキー。 そして、妙に甘い。(笑))

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虫偏

その日、私は常よりも遅い夕食を終え、風呂に向かったのでございます。当時、我が家の風呂は、無駄に広く天井が高く、そして、やけに薄暗い寒々しい空間でした。そう、今にも蜈蚣が這い出してきそうなその空間は… 

私は無意識に脱衣しながら、考えるともなく一人の友人の事を考えていたのです。私の友人であるその女性は、蟲を非常に恐れておりました。そして、それがエスカレートし、終に彼女は「虫偏」の漢字までを恐れる様になったのです。そう、それこそ蛇蝎の如く。私は、風呂場に足を踏み入れ、ひんやりとしたタイルの感触に、足を縮める様にしながら、かけ湯をし、湯舟に浸かったのでございます。

彼女は、この風呂には入れまい… 虫偏の漢字で表現しなければならない物体が、今にも出て来そうだからな…

取り留めもなくそんな事を考えながら洗い場に出ると、私は、スマン姿勢で洗髪をはじめました。シャワーなどある筈もなく、湯舟からお湯を汲み上げながらでございます。だからこそ、それに気付いたのかも知れません。その、赤い物体に。 

何だろう? これは?

私は、はっきりとは見えないそれを気にしながらも、洗髪… という、一日の内で眼鏡を外しているただ一度の機会であった為に、すぐに確かめる事が叶わなかったのです。 

何回目かのお湯を、たらいに汲み、後頭部からかけ、洗髪を終えた私は先から気になっていた赤い毛糸屑と思しきものの正体を見極めようと、度が強く、それ無しでは居られない愛用の眼鏡に手を延ばしたのです。

あ… ああ、何と云う事だ… 動いている…

それは、長さ4センチメートル、直径1.5ミリ。体腔に得体の知れない糞を一杯に詰め、その様子を半透明の赤い皮膜を通して晒している「蚯蚓」であったのです。

きっと、彼女は私の家の風呂に入ってはくれる事など金輪際あるまい…

虫偏に込められた私の諦念… 皆様は解って下さるでしょうか?

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午後の思い出話

私は小学校二年生。未だ泳げなかった。
所は、海の傍の塩水プール。
そして、ここは、その傍の公衆便所。

私は、水着のまま、公衆便所に独りでやって来た。
狭い中に個室が二つ。誰も居ない。

そして、私は片方のドアを開ける。鍵を閉める。

やがて、鍵を開けようとした私は愕然とする。
だって鍵が開かないから。

目に涙。そして、訪れる恐慌。
もうここから出られないかも知れない。

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以来、私の脳裏には、もしかしたらまだあの場所に閉じ込められているのかも知れないと云う一つの考えが凝り固まった様に消えないのです。今、ここにこうしているのは、もしかしたら、あの場所で涙に暮れ乍ら意識を失いつつ、しかし観果てぬ未来を想像している、私の逆の意味での走馬灯なのかも知れません。(かなり本気です(やば?))

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うなり

何だろう… 何かが唸っている… 

熱にうかされながら微睡みの中に居た私は、その異様な音の響きに目を醒ましたのです。まだ春も浅いと云うのに、まるで、既に夏が来たかと思わせる、蒸し蒸しと湿気の重苦しい午後の事でございました。私は、その日、常にない頭の痛みと疲れとを感じ、茹だるような八畳の一室に布団を敷き述べて独り臥せって居りました。誰とて様子を覗きに来るはずもない独り住まいなのでございます。私の他に動くもの、否音を立てるものなど居る筈もないのに。しかし、聴こえて参りますのは、確かに、低く、緩慢に響き… 

この音は、ああ… 蜂に違いない… しかし、まさか…

そう、この部屋は、何日も前から窓を空けた事もなく、外部に通じる間隙とてないのです。 

蟲が居る… そんな筈はない… 

しかし、私は、突然に沸き上がった蟲への根源的恐怖を抑えきれず、寝具をはね除けると音のする方向に向かって起き直ったのです。 

何と云う事か… 

ぴったりと閉ざされた窓辺、そこに掛けてある薄く白いカーテン。それが、幽かに蠢いているのです。転々とカーテンの襞に群がる黒い影。蜂が群がっている。それらは鈍い、しかし、敵意を剥き出しにした羽音を立てながら、はっきりとこちらを伺っている。私がそれを確信した刹那、一匹の蜂が私に向かってふわりと舞い上がったのです。(嘘80%)

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