昭和という時代

大正9年文部省発行の修身の教科書がある。目次の次にいま話題の「教育に関する勅語」があり、第一明治天皇、第二能久親王、第三靖国神社、第四志を立てよ、第五皇室を尊べときて、後は通り一遍の道徳のお話。孝行、兄弟、勉強、規律、克己、忠実、身体、自立自営、・・・・。最後にそれまでの言葉を連ねて第二十七よい日本人、があってお終い。
取り立てて言うべきほどのものではないが、尋常小学修身書巻四というから、十才くらいの子は真剣に学習したのだろう。


昭和の教育・・・昭和時代(中島健蔵)
中島健三によると、「これらの指示に基づいて小学校から大学までの教育機関において、その後実際に起こったことは、回想するに忍びないくらい惨憺たるものであった。」具体的には、1941年から始まる『国民学校制度』をさすのだと思うが、これは入江曜子「日本が『神の国』だった時代」に詳しい。

1931年日本軍の奉天北大営砲撃に始まる「満州事変」がどんどん拡大し、1932年三月一日には満州国独立宣言が発せられた。一月二十八日には上海で中国の正規兵と日本海軍陸戦隊との衝突が起る。明らかに日本の侵略でありながら、さすがに満州を日本領土にしようと押し付ける勇気はなく、しかし独立した満州国が日本の傀儡であることは日本人にとっても明らかであったのに、不思議にもまずソヴィエトがこの国を承認し、落ち着くかに見えた。しかしリットン調査団が日本に不利な判定をしたのが32年10月1日、松岡外相が国際連盟を脱退するのが33年3月。この年の五月十日にナチスの焚書事件が起る。ベルリン大学のちょうど向い側の国立オペラ劇場前の広場で、ゲッペルスが音頭を取り、突撃隊や親衛隊の制服に身を固めた大学生団が中心となって、それに従う群衆合わせて四万人が『非ドイツ的』な本を焼き払った。
ナチス焚書事件の頃は、日本の国内ではまだ、それほど統制の力は強くなかった。しかし2・26事件(1936年)以後は、事情がどんどん変わってきた。現在の解釈では、2・26事件は、軍の内部における皇道派統制派の争いであると言われる。そして皇道派は「国体明徴」に基づく革命を企てたが、2・26事件で壊滅し、あとは統制派の思うままになって戦争に飛び込んだとも言われる。それはそうかも知れないが当時の感覚では、皇道派が引っ込んでも「国体明徴」はそのままであった。そしてそこへナチス張りの強力な統制が加わったのだ。統制はあらゆる面に及んだ。官僚の中にも、統制派が現われ「新官僚」の名の元に再編成を強行した。彼らは政治家と結ぶ以上に軍と結び、要するに天皇制下の官僚を中心とする国民組織の確立を行ったのである。産業界も、文化界も盛んに再編成がされていった。新秩序という言葉が用いられ、その再編成によって異物排除に手抜かりが無いように努めたわけである。
そうなると、心の中で何を考えていようと、排除を免れるためには、どこかに紛れ込まなければならない。これは生存のために最小限の要件であった。「伯夷・叔斉」の故事が思い出されたが周の禄を受けず、首陽山に蕨を食って餓死するという道は、しょせん伝説に過ぎなかった。「隣組」が強制的に作られ、海外亡命の道のない日本国民は、伯夷だろうと叔斉だろうと、隣家の人間とつき会わないわけには行かず、テンニースの社会学の学説に従って「利益社会(ゲゼルシャフト)」から「共同社会(ゲマインシャフト)」へ、という苦しい根拠付けが学者によって行われ、要するに、「一蓮托生」の中に様々な思想や感覚が雑居し、同床異夢の空しさが全国的に広がっていったのである。しかも国内の雰囲気は、加速度的に軍国主義で塗りつぶされて行った。事実、大陸における戦況もまた「泥沼」と化し、泥舟に乗せられたたぬきと自嘲したい気持が、刻一刻「覚めた半分」を脅かすのである。
1936年スペイン内乱が起る。これは当時ファシズム対デモクラシイの前哨戦として注目された。ドイツが「ドイッチラント・ユーバー・アルレス(どこよりも優れたドイツ)」というスローガンを振り回していた頃、日本は「豊葦原千五百秋之瑞穂の国」と己を呼んでいた。同じ年、日独防共協定を結んで、日本はファシズムの側に一歩近づいた。国際連盟脱退後の日本には他に手を結ぶ相手がいなかっただけのことなのだが、その後1939年、ポーランドに電撃的な侵攻に成功したドイツは、日本のお手本のように見られた。そして1940年の三国同盟である。
この雰囲気は決して暗いものとは思われていなかった。そしてそれは、要するに学者や芸術家まで含めて、日本の大衆がそういう雰囲気を無邪気に支えていたからに他ならない。文学者の中にも、ヒューマニティとか人類とか言う言葉は、架空であって民族以外に考えるべきものはないと論ずる者が出てきた。「国民文学」の運動が起り、ヨーロッパ文学の排斥が始まった。国体明徴運動を推進したのは明らかに軍部である。ことに2・26事件以後、口では「粛軍」を唱えながら、軍部がますます積極的に政治に口を出し始め、超軍国主義的な統制を要求するようになると、さすがに日本の至るところにひそかな不満の呟きがくすぶり始めた。そして資本家の間にも、政治家、官僚の中にも軍部の力を抑えようとする動きが現われ始めた。1940年斎藤隆夫が粛軍演説をして衆議院を除名された年、近衛文麿は新体制運動に乗り出し、大政翼賛会を作り上げた。大政翼賛会とは実は軍部を抑えるための最後の手段なのだと、近衛のブレーンと言われる三木清が言っていた。
しかし、日本は1940年敗戦のフランスに迫って、インドシナ進駐を強行する。これをめぐってABCD包囲網が作られ41年、12月8日、妻に起こされて真珠湾攻撃のニュースを聞かされた時、跳ね起きると同時にとうとう来るべきものが来た!と息を呑んだ。(中島健蔵「昭和時代」より)



昭和の検察・・・思想検事(荻野富士夫)

昭和の国民・・・草の根のファシズム
・・・・・・・・・山本光男の場合
・・・・・・・・・清沢洌の場合
・・・・・・・・・永瀬隆の場合
・・・・・・・・・憲兵・土屋芳雅の場合
・・・・・・・・・菊池忠幸の場合
・・・・・・・・・咲間進の場合
・・・・・・・・・住友順一の場合
・・・・・・・・・佐々木亀二の場合
・・・・・・・・・信太正道の場合
・・・・・・・・・鵜沼正の場合
・・・・・・・・・板橋潤の場合
・・・・・・・・・満州開拓団の孫
・・・・・・・・・小笠原知新の場合
・・・・・・・・・内橋克人の場合
・・・・・・・・・早乙女勝元の場合
・・・・・・・・・伊丹万作の場合
・・・・・・・・・ジョージ・ウェラーの場合
・・・・・・・・・超国家主義者の論理と心理(丸山真男)
・・・・・・・・・日本のナショナリズム(吉本隆明)
・・・・・・・・・安保反対の時代(藤田省三)
・・・・・・・・・ヴェトナム戦争(吉野源三郎)
・・・・・・・・・1960年代私記
・・・・・・・・・蟻の兵隊
・・・・・・・・・無意味な死から問う
・・・・・・・・・加藤典洋
・・・・・・・・・碓井保の場合
昭和の天皇・・・

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