(1)今井龍一の場合
岐阜県白川村出身の現役兵今井龍一は、1915年、農家の長男として生まれた。高等小学校卒業後農業に従事する傍ら、青年団運動に参加していた。読書好きでいつも机の上には日本文学のほか、ゴーリキ、マルクス、『中央公論』『改造』などがおいてあり、聖書を愛読していた。彼は37年1月、岐阜第68連隊に入営。
(妹に)久し振りだから、レコードをゆっくりと聴こうと、みのりというきれいな喫茶店に入って、フルーツを食べながら、甘いメロディに、しみじみと和やかな気持になる。11時半、うんとよい映画を見ようと、岐阜劇場にはいる。岐阜一の素晴らしい常設館だ。入江たか子の"白バラは咲けど"、"失われた地平線"という外国もので、とても美しい画面だった。入場料は40銭だぞ。日曜日の楽しさは、まったく平素が苦しいだけに大きいものだ。
お前はまだ、聖書を読んでいないかも知れないが、キリストはまったく偉い人だったね。汝の敵を愛し汝を憎むもののために祈れとか、右の頬を打たれたら左の頬をも差しだせと言っているし、上衣を奪ったものに対して下衣を与えよと言っているのだから。兄さんはまだキリストのような聖い気持にはなれないが、人間には人にびんたを取られる体験が一生のうちにあっても悪くはないと思う事が出来るようになった。
多く読まねば駄目だ。よい書物を多く読む事、それが一番よい事だ。
1937年8月20日、巡洋艦榛名にのって名古屋港を立ち、22日上海に戦艦陸奥・長門が浮かんでいるのを見て、「思えば支那などかわいそうな国だ」と思う。23日上陸。しかし第一線に出た24日から負傷者が続出し、25日には早くも戦死者が出る。
召集兵の堀田は一息に戦死だ。上陸してから傷者のでなかった日は一日もない。そして今朝は遂に
戦死者だ。自分は今家屋の蔭でペンを取っている。二尺と離れていないところでに戦死者がおいてあるのだ。支那兵に対する憎悪が俺の全身をせめぐる。
26日に三名の戦死者。27日も三名。
ああ人類は何故戦うのだろう。死の部落で歩哨に立っていると、何故とも知れず冷たい涙が流れ落ちるのだ。
翌28日。
おれは今日まで家庭には恵まれていた。いい父母といい姉さん達と、優しい妹や弟を持って・・・何時死んだっていい・・・。父母やみんなが悲しむのが一番辛いぐらいのものだ。何一つみんなに報いないのが残念だ。・・・けれど日本のためだから・・。
8月31日、彼の所属する小隊が敵兵百五十名ばかりを追いつめ、一時間かかって皆殺しにした日。
我々は血にまみれた銃剣を抜きながらほっとして、戦闘の一段落を喜んだ。ああおれは幾人の彼らを殺したことか。十人?否十五人。ともあれ、おれは生まれて初めて人の命を、自己の力で消滅させたのだ。手を合わせて拝んでいた男、死に物狂いで向かって来た男、それは一場の悪夢だ・・。
(9月1日)お母さん、お母さん・・。お母さんのおとなしい息子だった僕はいま、人を殺し、火を放つ恐ろしい戦線の兵士となって暮らしています。もう一週間も入浴しません。乾パンと乏しい米の飯と缶詰めとが、撲等を養うものの全部です。
兄さんは元気。毎日戦争をしている。兄さんの考えていた人生と、この事実は何という相違だ。人間は何故戦争をするのか。昨夜兄さんはキリストの泣き顔を夢に見た。星の光っている大陸の青草の上だった。兄さんは毎日変わっていく。魂のそこから揺れ動いているような激しい変化だ。いいことか悪いことかは、兄さんは知らない。兄さんはその風景の中で演ぜられる戦争を、お前に語りたくない。若いお前の魂は一変に汚されてしまうようなと、兄さんには考えられるんだから。
(2)村上政則
1915年宮崎県妻町生まれ。1939年、北支派遣軍宣撫官となって、山西省に派遣され41年秋に長子県の新民会事務局勤務となり、妻子を連れて赴任する。
「無知なあるいは誤った考えを持つ中国民衆の迷いを打ち破らなければならない。」という宣撫官教育を受ける中で、かれは「民衆を戦禍から救出し、平和な新中国を建設しよう」という情熱をかき立てられていた。山西省の孝義県を始めとする各地で、主として八路軍を敵として、保安隊を率いて偵察や討伐を行い、民衆の帰順工作、治安維持会・新民会の組織、日本語学校の開設、食料収買工作などで、飛び回っていた。この活動は八路軍の反感を買い、宣撫官一人の首に五千元の懸賞金が付いていることは知っていた。
彼が、軍と占領地内の中国人との板挟みになって苦しむようになったのは41年頃からのことである。この年の夏、日本軍は山西省工作の結果、孝義県を明け渡すことになった。するとこれまで日本軍に協力してきた県公署、新民会、合作社、保安隊、警察の中国人職員は漢奸として処刑されることを恐れて同行を求めた。彼の部下たちも軍用トラックにすがりついた。兵隊達は銃や軍靴で殴りつけ、蹴飛ばした。彼は「許してくれ。許してくれ。」と泣き伏すことしか出来なかった。
42年秋、沢州の新民会勤務となった。この年は大干ばつで収穫が激減した。43年には食料の確保が軍の至上命令となり、日本軍特務機関の収買命令と貧窮にあえぐ中国民衆のとの板挟みとなって彼は再び苦悩することになる。日本軍協力者の大地主・有力者の家には十分な食料があった。しかし、一般の民衆は別であった。城外には大干ばつのため河南省から流れてきた難民が溢れるほどいて、日々餓死しており城内の住民は、木の葉、樹皮、栗の籾殻をひきそれに少量の小麦粉を入れて団子を焼いて食べるなど悲惨な状態であった。このため城内でも毎日数十人の餓死者がでた。村上等宣撫官は私費で難民救済所を設けたが、大群衆が押し掛け死傷者も出かねない状態になって、慌てて中止した。このような中で収買工作が行われた。ある日、県長を始め日本軍協力者から「万人傘」を貰った時も「食料収買工作で、どれだけ民衆を苦しめているかと考えると、心が冷えてくるのをどうしようもなかった。」八路軍地区での収買工作は、武力行使を伴って行われた。彼は、収買工作にでて捕らえた捕虜を日本軍が殺したり、憲兵が住民を拷問して殺したりするのを目撃している。
43年秋、彼は祁県合作社顧問となったが、ここでも収買工作で板挟みの苦悩を味わうことになる。軍の過重な割当で、住民は苦しみを訴え、特務機関長は「家を焼いても、人を殺しても構わんのだ。絞れるだけ絞り上げろ。」と督促した。特務機関から強制収買班が編成され、協力しない農民の耳を削いで脅迫し、目的を達した。
このような行為に憤慨した彼は、生産力実態調査を行って割当量を30〜50%減とすることに成功したことを自負している。また、食料不足に悩む軍と鳥害に悩む農民の要求を同時に解決するために、大地主・資産家の飼っている鳩を捕獲する提言をして感謝されたこともあった。しかし、食料収買工作は彼の主任務の一つであり、彼が如何に誠実に努力しても、中国人民の重荷・苦悩の現認が彼を含む日本軍及び宣撫官の存在そのものにあり、収買工作自体が問題であることに変わりはなかった。収買工作は干ばつ続きの中で、日本軍の敗戦まで続けられた。
敗戦は八月十五日、ラジオの玉音放送で知った。祁県合作社の職員がいう日本敗戦の報の真偽を確かめるために太原にきていた。「新中国の建設を夢見て七年有余、幾度か死線をさまよいながら苦闘を重ねて来たことも、すべて水泡に帰してしまった。」と思うと、涙が止まらなかったという。
しかし、村上の戦争はまだ終わらなかった。祁県に帰ると、進軍してきた山西軍と少数の日本軍警備隊が睨みあっていた。彼は両軍の調停に一役買い、山西軍の無血入城が実現して、山西軍から「祁県政府名誉秘書」の肩書きを貰った。45年末には山西軍の了解を得た山西省実物準備股に加わり、山西省を基地として、日本再建をはかるという名目の下に、旧合作社のメンバーと共に山西軍の指揮下に入った日本軍のために食料・物資の収買を始めたが、この事業は失敗し自分の中国における命運が尽きたことを悟った村上は、46年3月妻子を連れて故郷へ帰る。
帰国後、迷惑をかけた妻は病死し、かつての部下であった段歩雲が死亡し、王慶豊は八路軍に逃亡したことをなどから、自ら敗戦後に中国体験を見直さざるを得なくなった。
帰国後、日夜血の出るような苦労をして、その揚げ句に妻の沢が新だ時に、初めて肉親を殺され、あるいは餓死した中国民衆の筆舌につくせぬ悲惨さと、慟哭の叫びが現実のものとして、ひしひしと私の魂を揺さぶった。私がもっとも信頼していた孝義県の新民会や、合作社の職員達が、助けてくれとトラックに取りすがるのを兵隊たちは非情無残に殴りつけ蹴飛ばした。私たちは彼らを助ける術も無く、山西軍包囲の中を脱出した。あの涙もろい善良な曹県長や祁県の若者たちも、すでに漢奸として全員殺されたのではないだろうか。義兄弟の王慶豊はかわいい妻子を捨てて、まだ逃げ惑っているのだろうか。私はあれを思い、これを考え、日夜悪夢に苛まれ続けた。たまりかねて私は当時のことを何もかも早く忘れてしまいたい、と思った。中国語を聞くだけで、耳を塞ぎたくなるほど嫌だった。それは明らかに激しい拒絶反応であった。そんな状態がつづいている中に、いつの間にか私はすっかり中国語を忘れていた。(「黄土の残照」)
(暗黒日記の)序に代えて
お前はまだ何にも分からない。が、お前の今朝の質問がお父さんを驚かした。
この書の校正ができ上がって、序文を書こうとしている朝である。お前は『お父さん、あれは支那人じゃないの?』と、壁にかけてある写真を指して聞いた。
『ウン、支那人ですよ』と答えると、
『じゃ、あの人と戦争をするんですね』というのだ。
『お父さんのお友達ですから、戦争するんじゃなくて、仲良くするんです。』
『だって、支那人でしょう。明日この道からタンクを持ってきて、このお家を打ってしまいますよ。』
お前の言うことを聞いていて、お父さんは思わず、憂鬱になったんだ。お前は遅生まれの七歳で、まだ学校には行っておらぬ。母親か女中かに教わって、カタカナでどうやら苗字だけは書くが、ワとアが混線して、行方が不明になっている程度だ。不便なところに住んでいる関係で、お友達のないことが気の毒なほどだから、外部からの影響のあるわけではない。それだのにお前は、いつの間に、そうしてどうして支那人は日本人と戦争をする人間であることを知り、そうした恐ろしいお友達を持っているお父さんを不思議に思うようになったのだろう。
『どこから支那人は日本人をタンクで打つと教わったの?』と聞くと。お前は得意そうに肘を張って
『教わらなくたって知っていらあ。チャンと雑誌で読むんですもの』と答えたのだった。
なるほどよめた。雑誌社の好意で寄贈してくる少年雑誌などの絵を見て、お前は自然に時代の空気を感受してしまったのであるらしい。
親父がジャーナリストだから、この子も時代の空気を嗅ぐことは早い、と笑ってしまうには、お前の疑問はあまりにお父さんの神経を刺激したんだ。
『この空気と教育の中に、真っ白なお前の頭脳を突き出さねばならんのか。』
お父さんがお前の教育について初めて真剣に考えたよ。それと同時に、思わずバートランド・ラッセルのことを思い出したんだ。彼の教育に関する著書に中に、彼の息子が教育期に達して、その教育問題に直面するようになってから、初めて真剣に教育のことを考え、その思索の結果がその著だと言う意味のことを書いてあった。そしてその後、彼は夫人と共に少年のための学校を経営するようになったはずだ。
ラッセルとお前のお父さんに、天分の相違がどれだけあったところが、子供に関する責任を感ずる点において相違があるもんじゃない。お父さんも、今朝、今さらながら人間をひとえに敵と味方に分ける現代の教育に、お前を託さねばならぬことに言い知れぬ不安を覚えたのだ。壁に掛かっている、写真はみんなお父さんの先輩や友達なんだ。比較的に世界を旅行したから、欧州の人の写真もあれば、アメリカ人の写真もあり、またお前が見つけ出したように支那人の写真もある。しかしこれはみんなお父さんのお友達なんだよ。お父さんのお友達が、たまたま支那人であったり。アメリカ人である故に、お前の家をタンクで打つと言うことがあるもんですか。
お前はまだ子供だから分からないけれども、お前が大きくなっても、ひとつのお願いは人種が違ったり、国家が違ったりと言って、それで善悪可否の絶対標準を決めないようにしてくれ。お前のお父さんはアメリカに行っておった時に、人種の相違で虐められたこともあった。その時には、
『なに、こいつらが・・・』
と燃えるような憤怒を感じたものだが、しかし年齢を取って静かに考えるようになってからは、地球の上から、一人でもそういう狭い考えを持つ者が少なくなることを念ずるようになったんだ。
前にもいったようにお前のお父さんは、世界を旅しない方ではない。それから感じたことは、文明と言う者は国を縦にした国境で決まるものであるよりは、世界を横にした文化層で決まるということだった。つまり一国の知識階級は、その国内の不知識階級よりも、むしろ外国の同じ層と、代えってよく手が握られ、世界文化の発達のためにつくせる場合がある。世界を縦に区切ることは、決して悪いことじゃない。けれども、しかしこれからは広い世界に育たねばならぬお前に対して、お父さんは囚われぬ心構えを望むんだ。
お前はお父さんは理想主義だと笑うかも知れない。しかしお前が、ものを考える時代になったら、その笑われた理想主義が果たして遠道であったかどうかを見てくれ。
こちらからワンと言って、先方がただ黙って引っ込むなら現実主義は一番実益主義だ。しかしこちらがワンと言うと、先方がそのまま引き下がる保証があるかね。こちらが関税の堡礁を高くして、先方だけに負わせる仕組みが永遠にできれば結構だが、先方も自己防衛から円の下落と、こちらの関税に対抗しないという保証がどこかにあるかね。先方が困ると言うことは、こちらが困らないと言うことではないよ。近頃の日本のインフレ経済学者の中にも、時代の影響を受けて、こうした一本道の人が多いのは喜ぶべきことだろうか。
お前を相手にしてこんな難しい理屈でもあるまいが、永遠から永遠に生きねばならぬわれらの国家にとって、いうところの理想主義者は結果において現実主義者であることを言おうがためなのだ。お前がこの文章が解る頃になったら、昭和七、八年の頃のことを歴史的立場から見てくれ。
お前が大きくなって、どういう思想を持とうとも、お前にお父さんは決して干渉もせねば、悔いもせぬ。赤でも白でも、それは全然お前の知的傾向の行くままだ。
しかしお前にただひとつの希望がある。それはお前が相手の立場に対して寛大であろうことだ。そしてひとつの学理なり、思想なりを容れる場合に、決して頭から断定してしまわない心構えを持つことだ。
お前のお父さんは、一部から非愛国者のように言われたことがある。しかし一家に育ったお前として、これほど滑稽な非難はないことが大きくなったら分かるはずだ。『九千万と言う多い国民の中で、自分だけが国家の前途を憂えなければならぬような義務を誰に負わされたか』お前のお父さんは、時々こんな自問を胸に描いて自嘲したい気持になるほど、真剣にこの国の前途を憂えているんだ。
お前もこの国に生まれた以上は、国家を愛するに決まっている。が、お前の考えるように考えなくても、この国を愛する者が沢山いることだけは認めるようになってくれ。お前のお父さんも、全然反対な立場に立つ人に対しても、真剣でありさえすれば、常に敬意を払ってきたんだ。
お前はお前だ。お父さんはお父さんだ。お前を教育するのに、お父さんの型に入れようと言うような気持は微塵もない。お前はお前の持っているものを、煩わされることなく発揮すればそれでいい。
お前は一生の事業として真理と道理の味方になってくれ。道理と感情が衝突した場合には、躊躇なく道理につくことの気持を養ってくれ。これは個人の場合もそうだし、国家の場合でもそうだ。日本が国を立って以来道理の国として、立ってきている以上は、道理に復することが日本に忠実でないと言うようなことがあるものか。
西洋の誰かは『私は自分が生まれた時より、自分の死ぬ時の方が、少し世の中をよくしたいと信ずることが願いだ』といった。お前は世の中を救うのなんのという夢のような考えを持たないでいい。一生道理のあるところに従った・・・そういう確信を持ったようになれば、それでお前のお父さんの願いは足り得るのだ。
ただ初めに書いたように現代の教育にお前を託するには、お父さんには相当の不安がある。それが少し心配だが、しかしさらばとてラッセルを真似て学校を建てるだけの甲斐性はあるまい。この現在の空気の下で、できるだけお前を道理を把持して動かない人間に導いてゆくのほかはない。
折りも折り、今朝の食卓でお前の頑是無い質問があったばかりに、お前に与える手紙がこの著の序文の代わりになった。これも何かの想い出になろう。
(清沢洌『非常日本への直言』の序文。昭和八年三月十四日)
「戦場にかける橋のウソと真実」(岩波ブックレットNo69)
43年泰緬鉄道建設作業作戦要員として、タイ国駐屯軍司令部・カンチャナブリー憲兵隊勤務となる。不ぞろいな竹矢来で囲まれた所が、捕虜収容所であった。屋根は無く、床は大きな青竹を二つに割って山の方を上に向け、壁は小竹を並べただけのものである。びしょ濡れになった毛布が病人に掛けられている。マラリアである。患者が三人四人と肩を寄せ合ってガタガタと身を震わせている。この非人道的な状況を見ながら、永瀬は「これが皇軍、天皇の軍隊のすることだろうか」と疑問を感じつつ、「戦争はかたねばならぬ。負けたらこのザマだ」と、自分に言い聞かせる。
「日本軍は日露・日独戦争の時、捕虜をひじょうに厚遇した。戦後捕虜達はそれぞれヨーロッパへ帰り、日本人は人道的な国民だという噂が広まり、みんなそう思っていた。だから今度、連合軍がシンガポールで降伏したときも、捕虜の収容所については何の心配もしていなかった。むしろ早く降伏する原因の一つにもなった。」と捕虜は語っていた。
43年10月17日泰緬鉄道が完成する。捕虜は一切の外部との接触を断たれ、泰緬鉄道の存在は極秘事項であった。ところが、収容所内で短波受信機を組み立てて、連合軍放送を聞きニュースを流していたという事件が発覚する。容疑者達は徹底的に殴打された状態で、憲兵隊へ連行されてきた。『無線盗聴事件』と呼ばれ、これに関連して、収容所の将校、下士官が死刑を含むBC級戦犯に問われた。通訳として担当したのは直接の関わりは無いが、私物検査の際、泰緬鉄道の地図を持っていた捕虜であった。鉄道ファンであって、故国に帰ったとき記念にするのだという彼の主張は、到底受け入れられるものではなかった。軍法会議に送るためには、スパイ容疑を成立させ調書を作成し、署名せねばならない。スパイは戦地では銃殺刑が常識であるから、彼はあくまで容疑を否認する。朝から晩までの尋問が続く。一見弱々しそうに見えた捕虜が、いざとなると頑強に容疑を否認した。自白調書に署名することが、即自分の死に繋がることを知っていたからであろう。一応白状して、肉体的精神的苦痛から逃れてはどうかという忠告を聞く耳は持っていなかった。
そこで拷問が始まる。水責め。仰向けに寝かせて、タオルでゆるく口と鼻を覆い首の後ろで結ぶ。タオルの上から注いだ水が、しみ渡ると鼻は使い物にならないため口を大きく開く。そこへまた水が注がれる。胃袋の水がたまり苦しみの余り、のたうち回る。「マザー、マザー」と泣き叫ぶ捕虜を目にして、かれも「お母さん、あなたの息子は今何をしているか知っていますか?」と心の中でつぶやいていた。
そんな仕事はそこで断ればいいのではないかと言われることがある。「なぜ断固として拒否しなかったのか」
こう答えた。「日本の軍隊には、大元帥である天皇陛下から賜った軍人勅諭があって、そのなかで『下級のものは上官の命を承ること実は直ちに朕が命を承る義なりと心得よ』とある。これが日本軍の階級制度を揺るがすことのない根本であった。軍人勅諭を暗誦し、徹底的にこの線で教育されていた私たちには上官の命令は絶対であり、命令に背けば抗命罪に問われ、軍法会議に問われる。しかもそれは個人だけの問題ではすまない。通知は故国へ届き、そこではおそらく家族が村八分の扱いを受けるであろう。」
しかし、いくら説明しても民主主義で育ち、人権尊重が骨の髄までしみ込んだ外国人記者には通用しないし、実際彼らが納得した顔を見たことがない。
その後自分もマラリア熱にやられ、マレー半島ジョホールバレにある陸軍病院に後送された。捕虜であったならば、そのまま薬品も与えられることなく、現地に留め置かれる。病死が多いのは当然である。
半年の静養ののち、再びカンチャナブリーに戻り、そこで「捕虜全員抹殺」命令に関係することになる。45年になると、泰緬鉄道はずたずたに寸断され、すでに徒歩での退却路になっていた。敵の落下傘部隊が降下してきた場合には、捕虜は全員殺戮すべしという極秘電文が発せられた。バンポン地区での塹壕掘りは「塹壕というものは必ずしも闘うためのものとは限りませんよ。だからやつらに掘らせたのです」と使役の捕虜を見ながらいう下士官がいた。
終戦後は副官の計らいで憲兵名簿から外されたが、かわりに連合軍捕虜墓地捜索隊へ通訳として参加することになってしまった。
収容所から解放されると故国へかえるべき身ながら、死んだ戦友の墓地捜索を買って出た連中である。通訳に対する態度は憎悪と軽蔑の二語につきた。泰緬鉄道のビルマ側起点タムビサヤを皮切りにタイ側ノンプラドックまで415kmの沿線のジャングル地帯の墓地を捜索することが目的だった。アナクイン地区での捜索の際、20Pの石油缶を胸に載せている死骸があった。缶の中には小さな丸い煙草缶が入っていて、その中に捕虜の名簿、死因、死亡当時の状況、日本軍部隊長、軍医、通訳などの名前が記されていた。全員死ぬかも知れない捕虜という身でありながら、「日本人に神の何たるかを教えてやる」という元捕虜たちの精神の強靱さに彼は打ちのめされる。クワイが和知郭のチョンカイ捕虜収容所病院墓地では、あまりにも多い木の十字架の迫力に圧倒され、はじめいだいていた敵がい心も、「ツーヤーク」という呼びつける言葉も気にならなくなった。あまりにも多くの犠牲者を生んでしまった旧日本陸軍の一員として、彼の軽蔑を理解した。こうして21日間で二百ヶ所、一万三千人の遺体を確認した。ハイビスカスの花を手向け、丁重に死者に対する礼を尽くすうちに連合軍将校の永瀬を呼ぶ呼称も「ツーヤーク」から「インタープリッター」「ナガセ」そして「ミスターナガセ」に変わってきたことに気づく。
1976年クワイ川再会を企画する。元捕虜の書いたものを読むと、彼らの怨念が、日本人が想像
しているよりも凄まじいものであり、日本側にしてみると不公平な戦犯裁判を恨んでいるものがいる状況では無謀の誹りを免れない。現地を訪れていたイギリス人は「今さら何を言うか。そんなことをすればこのクワイ川に日本人を叩き込んでやる」日本でも、「それ見たことか」と揶揄する記事が出たり、外務省も反日感情が起きると日本製品不買運動が起るのではないかと心配し中止を勧告してきた。10月25日、日本人51名、オーストラリア人18名、イギリス人3名、アメリカ人2名が出席してターマカム橋あるいはメクロン橋を、タイ国旗を持ってわたった。日本人記者がなぜ国旗を持たないのかとなじった。『日章旗の元で、どの位多くの犠牲者が死んだのか知らないのか』と言いたかった。カンシチャナブリー県知事や警察署長もわたってくれたが、一人のアメリカ人は決して一緒には橋を渡らなかった。「恨みをのんで死んでいった戦友のことを思うと、日本人と肩を並べて橋は渡れない」と拒絶したのだ。良心に忠実な勇気のある人だと尊敬する。
記者会見で、「日本軍は東南アジア各地から25万人の労務者を泰緬に連行した。そのほとんどがまだ帰っていない。」と詰問した。当初は職業紹介所を通じて募集したが、労働条件の悪さが伝わって激減、”ロームシャ狩り”になった。地元の役人に命じて、地区ごとに一定の人数を割り当て、さらには街頭で通行人を呼び止めてつれていく強制連行までした。
ビルマでは18万人、マレーから8万人、インドネシアから4万5千人、それに地元のタイ人労働者を加えると、35万人を超すものと見られる。この鉄道建設に動員された捕虜の数は6万5千人といわれているから(連合軍側資料)最大の犠牲者はアジア人ロームシャであることになる。「捕虜に比べれば仕事は楽だったが、いろんな病気のため数多くのロームシャが死んだ。あまりに多くて数は覚えていない。戦後マレーの兄の許に帰国しようとしたが金がなくて諦めた。縁あってタイ女性と結婚して、子供も出来た。インドへ帰ってみたいが、妻子のこともあるので・・。」とインド生まれのマレー人トサミさんは証言する。
ある憲兵の記録(朝日文庫)
敗戦の三日後、土屋はソ連軍に投降する。さっそく尋問を受けるが、使っていたスパイを聞かれポチとかタマという名を教えた。「何を、このロスケめ」という気持だった。チチハルでは有名だったため、身元がわからないうちにと作業大隊入りを希望して、シベリアのトーリンスカヤに送られる。零下40度の中、一抱えもある落葉松を一日に13本切ることがノルマだった。
1946年7月に伐採が終わり、ハバロフスクへ送られるが、彼と同じ小隊にいた40人のうち2人が栄養失調で亡くなっていた。
作業は簡単になり、食事もやや良くなったが、アクチブ運動と吊るし上げが待っていた。隊の指導者だった将校をブルジョア、ファシスト、御用学者、偽民主主義者とあらゆる悪罵を浴びせ、吊るし上げた。吊るし上げられる方は地獄の一時だが、同情の素振りでも見せようものなら、今度は自分がやられるから誰も彼も批判の輪に加わって大声を張り上げた。娯楽に餓えた兵隊には格好の見せ物だった。
1950年7月、元憲兵は日本に向けて出発すると告げられて乗った列車が止まった所が撫順駅だった。ここでは強制労働はない、食事は十分にでるので土屋は「こんな扱いを受けるのはやはり大和民族が優秀だと知っているからではないのか」と思った。退屈を紛らわせるためにマージャンをする毎日だった。
10月に入ると朝鮮戦争の激化でハルビンに移された。しかし51年には再び撫順に戻る。この頃から、身体に変調を覚えるようになった。土屋だけではなく、管理所の戦犯のほとんどが程度の差はあれみな同じような症状に陥っていた。医務室で薬をもらい、仲間で指圧やマッサージをやっているうちに症状は治まった。病気が一通り過ぎると
再発を防ぐには体を鍛えなくては駄目だというので、何か仕事をくれと訴えた。一日4時間の屋根瓦作りの作業を与えられたが、それは良い気分転換になった。そのうち、おそらく看守側からの指示で学習会が始まった。ここでは土屋は不真面目な生徒だった。「資本主義はいずれ消滅する。日本でも、階級闘争がやがて激化し、いずれ中国と同じ革命への道を進むだろう」と答えたが、信じてはいなかった。かといって、いつまでも帝国軍人かというとそうでもなかった。朝鮮戦争を通じて、中国の実力は大したものだと感心し、戦犯に毎日腹いっぱい食わせてくれる中国の度量の大きさにも驚いていた。
しかし、自分が中国でやったことを思うと、胸苦しさから逃れることが出来なかった。重大戦犯がこんなに丁重に扱われていいのだろうか。「私は好人(ハオレン)だ、何もしていない」と土間に額をこすりつけて懇願する中国人を自分はどうしたか。そして、月に一回の散髪でさっぱりして帰りの曲がりくねったコンクリートの廊下で、驚いて見つめる看守や同僚の前で、土下座して叫んだ。「私は極悪人でした。中国人民に悪いことをしました。・・・私は不好人(プーハオレン)でした」
1953年頃から認罪運動が始まった。調べ官に続いて看守が「君たちは中国に侵略して何をしたか。反省したことがあったか。憲兵隊の庭でどれだけの人が拷問で殺されたか、その苦しみ、恨み、家族の悲しみを一度でも考えてみたことがあったか。」と涙声で訴えたときには居並ぶ収容者はシーンとして多くは涙を流したのである。ある憲兵軍曹が「私は敗戦後、錦州から引き上げる途中で、やけくそ気分でいた。誰でも好いと思って、その辺を通っている中国人を殺した。人数は21人だ。」と暴露した。そうした理不尽な殺傷は日本兵や憲兵は誰でもやっていたことだった。しかし仲間の口から出るとそれは大変な罪業だと思った。
取調官から百通余りの告訴状を見せられる。田白工作で逮捕し、拷問にかけたハルビン工業大学生王鴻恩の母親が書いたものだった。「親一人子一人だった息子を土屋が逮捕し拷問したそして監獄に入れた。敗戦で出獄できたが、病気となり死んでしまった。土屋が息子を殺した。どうか私の恨みを晴らしてもらいたい。・・・・」[私はあなたの息子王鴻恩さんを殺しました。いかなる処分でも受けます。」と書いて署名した。自分の罪業を総括してみると土屋が間接直接に殺した人の人数は328人、逮捕し拷問にかけ獄につないだ人数は1917人だった。償うには自分の死をもっても足りないと思って、あの高いびきの土屋が怯えるようになっていた。
1956年7月、処分の通告はあっけなくやって来た。「土屋芳雅、起訴猶予」撫順にいた千人近くの戦犯のうち36人を除いて全員が同じ通告を受けた。
新調の洋服を支給され、管理所員の正装によって見送られた土屋は「この人達とは永遠に仲良くしよう」と思って帰った日本は妙に冷ややかであった。下船した土屋達に渡されたのは戦時中に縫われた粗悪品の軍服だったのだ。出迎えの責任である厚生政務次官は一万円を渡して「汽車に乗ってくれ」という・「中国では、戦犯の俺達に新品の服と餞別をくれたではないか。それに比べてこの処遇は何だ。まるで厄介者が帰ってきたようではないか。」座り込みを始めると、政務次官は「あと一万円手当を支給する。何とか汽車に乗ってくれ」諦めて故郷へ向かう汽車に乗った。汽車の中では、中国で自分は何をやったか、洗いざらい語ることがこれからの付録のような人生における義務のように感じていた。上の山駅に降り立ち、大勢の人がわざわざ迎えに出てくれていた。見上げると駅前に大きなノボリが立ち、自宅へ向かう道には交差した二本の竹竿の先に大きな日の丸が翻っていた。出迎えてくれた多くの人々に頭を下げながら土屋は「あの日の丸の下で、俺は中国のひとびとにどれほどの犠牲をしいてきたことか。だからこそ十一年もの間、抑留されたのではなかったか。」
土屋は1990年、中国へ謝罪の旅に出る。自身の過去をわびる土下座姿がテレビで放映された。通ソ・スパイとして逮捕、処刑した張恵民氏の遺族の消息がわかった。チチハルから安東に移った妻子六人のうち、娘さんお一人がまもなく亡くなり、妻は四年後に亡くなった。残る一男三女は北京や瀋陽で健在だった。張氏逮捕の際に撮った写真に、こぶしを握りきっとカメラをにらんでいた息子さんは59才になっていた。面会を申し込んだが拒絶されたという。
05・1・14道新朝刊
「戦火の記憶」(第一部極限三)
函館出身の見習い士官が中国人に殺された。分隊長は「この集落の人間は皆殺しだ。」と泣きながら怒った。夜、家の戸を小銃で叩き、女性二人を連れ出す。女性は恐ろしさの余り震えている。「山本ちょっと来い。」「山本、参りました」
分隊長は「お前まだ、人間を突いたことないだろうから今、突け。」「自分は突けないであります。」と私。「山本、分隊長の命令は何だと思う。上官の命令は畏れ多くも大元帥陛下の命令だぞ。」
後で分隊長がにらんでいる。私は仕方なく、心の中で「許してください。」と謝って、女性の脇を銃剣で突いた。戦後六十年経った今でもその時の女性の「グワ」という声が脳裏から離れない。
この少し前、分隊長は畑で捕まえた男性を裸にし、後から刺した。「痛い。」という悲鳴に家から飛んできた十七、八の娘が「父は何も知らないから許して欲しい。と訴えたが、分隊長に銃剣で胸を突かれ息絶えた。
1945年5月から7月にかけて、中国の黄河の南方。私は前年12月、旭川の第7師団に入隊したばかりの初年兵だった。当時、二十才。第一線で日本軍人が中国人を犬猫同然に扱うのを見た。
後方からの食料受け取りがうまく行かないと、中国人部落から略奪した。ある村は、他の部隊が襲った跡だった。上官(上等兵)は頭にきて丁度帰ってきた六十歳ほどの中国人の腕を縛り、棒で殴って「子の穴に入ってイモを持ってこい」と、室に押し込んだ。上から火をつけた乾燥草を入れ、約50kgの石でフタをした。老人が石を押しのけて上がり、池に飛び込んで逃げると、上等兵はレンガを投げつけた。
セリの帰りに牛を引いた親子三人の男性が日本軍に捕まった。「腕組みしていて、フテイやつ。」という理由だった。牛二頭は道端で打ち殺され、親子は河川敷に引きずり下ろされ、5メートル間隔に立たされた。古年次兵は中国人一人につき、十人ほどの初年兵に銃剣で突かせていた。心臓以外を突かせ、中国人が座り込むと、無理やり立たせた。本当にむごかった。
05・1・14道新朝刊
戦禍の記憶2005/02/24(Thu)
それは異様な光景だった。ガダルカナル島のジャングル内の司令部で、大本営から派遣された参謀が、上官である現地指揮官達に尊大なことばを浴びせていた。米軍の力量を知り、慎重な作戦を主張する現地指揮官をこの参謀は冷笑、総攻撃をぶち上げた。
私は1938年(昭和十三年)に入隊し、四十一年に第二師団(仙台)司令部の初期を命じられた。身分は下士官だが、仕事柄作戦会議に同席する。一般の兵隊に比べて、戦況や作戦の狙いなどを知り得る立場だった。
第二師団は四十二年十月、ガ島に進出した。二ヶ月前の米軍上陸の後、二度の奪回作戦が失敗しており、本格的な反撃の主力としての上陸だった。天皇に直属する最高の軍統率機関、大本営参謀の辻政信中佐は島内の山岳地帯を越えて、一気に敵飛行場を攻撃する事を主張。「道の山越えは困難」と反対する指揮官は、反感を買うだけだった。大本営参謀が現地の中将、少将を牛耳る権限を持っているのに私は驚いた。
だが、作戦は拙劣だった。ろくな地図もなく、敵陣の様子はよくわからない。細い道しか確保できず、頼みの山砲はわずか一門しか運べなかった。一部の部隊は食料も欠乏していたのに、辻参謀は「飛行場を占領すれば『ルーズベルト給与(敵の食料)』が山ほどある」と嘘ぶくばかりだった。
そんな中で十月二十四日、総攻撃が決行された。前線と司令部を結んだ有線電話が「三十分語の突撃態勢に入る」と告げ、そのままぱたりと連絡が途絶えた。米軍はジャングル内に多数のマイクを置き、日本軍の動きを逐一つかんで待ちかまえていたらしい。総攻撃は無残な失敗に終わった。
その後は飢えと病が待っていた。河辺の草の葉や茎を手当たり次第、飯盒に入れ、海水で味付けして食べた。大便は真っ青になり、脚気やマラリヤも蔓延した。
大本営は撤収命令を出し、四十三年二月、駆逐艦が迎えにきた。しかし一般の兵には新任務のための集結とされ、指令部員は堅く口止めされた。撤退とわかっていれば元気も出て動けただろうに、新任務と聞いて自決した重病人がいたのは残念だった。
辻政信:戦後戦犯に問われ、僧侶に変装して姿を消した。五十年、戦犯調査打ちきりと同時に現われ、著書「潜行三千里」がベストセラーになった。衆院議員を経て参院議員だった六十一年にラオスとタイの国境で消息を絶った。
戦禍の記憶2005/03/04(Fri)
道新
菊池忠幸(83)
側頭部に受けた弾傷がズキズキと痛み、化のうした傷口にはウジと蝿がたかる。疲労と空腹に耐えながらジャングルの中を歩いていると、弱々しい子供の泣き声が聞こえた。「お母さん、お母さん」空耳かと周囲を見回すと、木立の向こうに、三歳、五歳ほどの兄弟らしき子供が、地面に座り込んで何かに取りすがっていた。
子供達がしがみついていたのは、彼らの母親らしき女性の遺体だった。まだ若い。外傷はなく、やせこけた体から餓死と思われる。きっと、子供に食べさせ、自らの口にはろくなものを入れていなかったのだろう。
か弱い泣き声にほだされそうになるが、与える食料はなく、つれていくあてもない。我が身も今日生きるのが精一杯だ。思いを絶ち切るように、彼らに背を向け、一人でその場を静かに立ち去った。
フィリピン・ミンダナオ島。麻の生産のため、戦前は多くの日本人が移住、二万人を越える邦人がおり、「小国日本」とも呼ばれた。幼い兄弟と母親もそんな一家族だったのだろう。
太平洋戦争が始まるとこの島は、日本軍の支配下に置かれたが、1945年春、米軍が上陸、空襲も瀕雑になった。食料は自給で、武器など手薄な日本軍の形勢は悪化した。
軍隊としての体をなさず、数人ずつで小さなグループで、敵の攻撃を避けながら食料を探す毎日だった。戦友二人と一緒に歩いていた時だった。現地住民達が騒ぐ声が聞こえたため、様子を見に行ったところを突然、小銃で撃たれ、その音を聞いた戦友は自分を置いて逃げてしまった。
幼い兄弟と別れてエジャングルをさまよううち、六十歳くらいの日本人夫婦に出会った。夫妻はうなだれ怒っていた。聞けば、娘が日本兵に侵され、それを苦に首つり自殺をしてしまったという。やり切れない思いでその場を去った。また、妻がいると逃げるのに邪魔になるためこの手で始末したいから、群島を化してくれと言う三十代と見られる男性もいた。
人は生きるためには、こんなにも無常で、身勝手になるのかと思うと、空恐ろしい気がしたが、自らも幼い兄弟を置き去りにしたと思うと、口をつぐむしかなかった。
2005/03/11(Fri)
第三部兵士ーー中国編
咲間 進さん(87)
わたしが日本最初の毒ガス部隊だった「野戦瓦斯第十三中隊」に配属されたのは、1939年(昭和14年)9月。旭川で一ヶ月ほどガス兵の訓練を受け、中国の漢口(元湖北省武漢市)で補充要員として合流した。
最初のがス部隊だから、本来なら第一中隊なのだが、中国人がもっとも忌み嫌う数字が「十三」なので第十三部隊となった、と言う。中隊は歩兵と、馬などで武器や食料を輸送する七百七十人ほどの混成部隊だった。私は本部付けの輜重兵で、獣医将校の馬の世話などが務めだった。
毒ガス部隊は自軍が攻めても攻め切れない時などに投入される。歩兵が敵陣の風上に忍び寄って、ガスの入った発煙筒を敵陣手前に発射する。輜重兵は歩兵の少し後方に位置してガスの筒を歩兵に補給するのが役目だ。真夜中にガス部隊単独で行動することもあれば、味方の攻撃を支援するための作戦もあった。
ガスは、催涙ガスや嘔吐ガス、猛毒のイペリットなどがあり、区別するために筒に赤や黄色などの色が帯状につけられていた。毒ガスの使用は国際条約で認められておらず、煙幕に混ぜて使った。敵兵が毒ガスで死んだことも分かってはいけないから、訓練では「遺体に傷をつけろ」と教わった。
毒ガスをまいた場所は危険だから、そこを迂回して進軍する。惨状は見たことはないが、敵兵だけでなく住民にも犠牲は及んだと思う。
第十三中隊には一年ほど所属した。もっとも辛かったのが宣昌(湖北省)の攻略。真夏で行軍中、ものすごく暑い。日射病にかかってはいけないから水を探すのだが、戦地にきれいな水なんてない。ある時、小川の水を飲もうとしたら、すぐ川上に死体が浮いていた。それでも飲むしかなかった。
食料補給が途絶えると、民家を回って自分たちで調達する。拒む人には銃剣を突き付けた。仲間三人で石灰を小麦粉と思いこんで食べようとしたこともあった。水で練っても粘りがでず、小麦粉じゃないと分かった。三人とも人間がどうかしていたんだろう。
追記:
咲間さんの右脚スネには青くくぼんだ長さ5センチ、幅二センチ程のアザがある。旭川での訓練でイペリットの原液を塗った跡だ。「毒ガス液が体に付いた時に落とす訓練。当時は天皇と祖国とのためと耐えることが出来たが、いま思うと人体実験のようだった。」
毒ガス部隊の一端を言葉を選びながら語る。毒ガス使用は固く口止めされ、戦友会記念誌にも触れられていない。「なくなった戦友がいなければ、生きて帰れなかった。贖罪の意味でも真実を伝えたかった。」という。
第三部兵士ーー中国編
住友順一さん(82)
変な部隊だと思った。有刺鉄線と高圧線が張りめぐらされ、「何人も許可なく構内に立ち入ることを禁ず」と朱書きされた立て札が随所にあった。それが旧満州(現中国東北地方)ハルビン市にあった731部隊(旧関東軍防疫給水部)だった。
関東軍の衛生士官として陸軍病院で働いていた私が、731に派遣されたのは1945年(昭和20年)六月。部隊に到着した夜、先輩の兵士が私にささやいた。「なぜこんなところに来た?早く帰れ。ここでは生きた人間にペスト菌を植え付け、どんな苦しみ方、死に方をするかを実験している」。中国、ソ連のスパイ容疑者や捕虜をマルタ(丸太)と読んで、実験材料にしている。体がキューッと冷たくなり、それから暑くなって震え出した。
翌日、構内の一角から強烈な悪臭がした。遺体を焼く匂いと腐臭だ。それまで病院にいたので、すぐ分かった。高い塀に囲まれた建物内の様子は見えないが、先輩の話は嘘ではないと確信した。こんな酷いことをして何が皇軍だ。聖戦だ。腹が立った。何とかしなければと思った。眠れない夜が三日つづいた。だが、騒いだら私も実験台にされる。怖くて何も言い出せなかった。卑怯な自分を恥じた。
ハルビンにいたのはペストの予防接種を受けるための十二日間。何も考えないようにした。その後、内モンゴルに行き、ネズミなどを捕まえてペストの流行状況を調査、奉天(現瀋陽)で敗戦を迎えた。大連近くでつかまり収容所に入れられた。
46年の夏、ソ連軍が新設した金州の内科を任された。栄養失調でやせ細った患者ばかり。体には数知れないウジが群がっていた。ガーゼで取っても取ってもウジはでてきた。涙が出た。数日後にその患者は死んだ。
この病院では二百〜三百人が死んでいる。夏の間に、運動場に遺体を埋葬する穴を掘った。冬は地面が凍って掘れないからだ。死ぬ間際、手を握って名を呼ぶと、「お母さん」とつぶやいて息絶えた若者が何人もいた。
私は翌日、帰国出来たが、なくなった彼らは墓標もなく、遺骨も帰れずにいる。
追記:住友さんの五官には虫けらのように葬られた人々の苦しみが敵味方の区別なく焼き付いている。しかし、731部隊の所業の全容は明らかになっておらず、部隊幹部等は責任を問われなかった。「極東軍事裁判で731の関係者の名が出たら証言するつもりだった」というが、その機会はなかった。かわりに、1991年から戦争体験を語る講演をつづけ、すでに百回を越えた。「事実を明らかにしないと、あの戦争は終わらない」。静かに、きっぱりといった。
第三部兵士ーー中国編
2005/03/27(Sun)
佐々木亀二さん
大隊長が軍刀を抜き、怒鳴った。「中隊長以下全員、銃殺」あのまま戦っても、犠牲者は増えるばかりだっただろう。中隊長はそれを見越して「転戦」を命じた。事実上の退却。日本軍では「退く」のはご法度で、大隊長の逆鱗に触れた。
1945年7月、中国陜西省の万寿山を攻略、占領しろとの命令が下った。
夕暮れから山頂に向けて進軍。斜面は竹林から背丈以上の雑草に変わり、行方を阻んだ。四時間あまりたった頃、「誰何(シュイ)」と中国兵の声が聞こえたが、みな無言で前に進む。三度目の「誰何」に答えるように、小隊長が大声を出した。「突っ込め、突っ込め」中国兵は後退したようだった。
山頂近くに着くと待ちかまえていたかのように、銃声が鳴り響き、近くにいた三、四人の日本兵がバタバタと倒れた。銃弾が飛んでくるたびに何人もの兵が犠牲になった。火だるまになり、死んでいく兵もいた。
弾を一発撃つと、百発撃たれるような状況。午前三時頃から始まった戦闘は、すっかり明るくなっても続いた。いつもはすぐ退却する中国側が、米軍から武器や弾薬の支援を受けているようで、退く気配がない。
業を煮やした大隊長が、近くにいた五人の兵を「決死隊」に選んだ。捨て身で切り込み、戦況を転換する思惑だったが、五人は山の稜線にでたとたんあっという間に銃撃で倒れた。
犠牲者は増えるばかり、中隊長が決断した。「弾があるだけ撃て」弾を使い切った後、断崖絶壁の斜面を滑り降りた。降りたところは、田んぼで腰まで泥に埋まったが、動いては敵に居場所を知られると思い、身じろぎもせず待った。薄暗くなり泥から抜け出てから、痛みで負傷に気がついた。手榴弾の破片が尻にいくつも刺さっていた。
撤退中も、負傷や疲労で何人もの脱落者が出た。上官は「放っておけ。」と言い、「上官の命令は朕の命令」の日本軍では従うしかなかった。「連れていって」と懇願する背入を置き去りにするのが辛い。まもなく敗戦となり、大隊長に言い渡された銃殺からは免れた。
追記:
佐々木さんは敗戦後、十ヶ月ほどを中国で捕虜として過ごし、農家で農作業をして、食べ物を得た。「作業は厳しかったが、負けた国の兵に食べ物をくれただけでも有難かった」と語る。こうした体験から、強制連行や戦争中の加害行為などについて、「日本はどこかで区切りを付け、中国に謝るべきでは」と考えている。
信太正道
厭戦庶民の会
「護憲、平和と言ったって北朝鮮や中国が攻めてきたらどうするんですか」
講演によばれ最近、必ず出るのがこの質問だ。「過去二千年、北朝鮮は日本をほとんど侵略していない。逆に侵略ばかりされてきた。中国も昔、『元』が来たが、あれは蒙古。侵略を繰り返したのは日本の方です。」
だが先のことは分からない。小泉首相も言っているではないか。「備えあれば憂い無し」と。
「防衛年鑑によると、防衛費は北朝鮮十八億ドルに対し日本は約四百億ドル。中国より多い。」
国民の多くは自衛隊を認めている。だが憲法を素直に読めば違憲は明白。改憲は一つの解決策ではないか。
「いまの憲法でも自衛隊は存在できる。つまり、改憲の狙いは別にある。九条があるから米軍の戦争の全面協力できない。この制約を取っ払いたいのです。」
職業軍人のエリート校、海軍兵学校の最後の卒業生。1945年の夏、特攻隊員として千歳で、飛行訓練をしていた、濃霧で訓練が中止になった夜、予定外の時間に戻ると、皆慌てた。物資が底を尽き、信太さん達が突撃すると、飛行機はもうない。出撃しないで済む仲間達は碁や尺八を楽しんでいた。
「八月十五日の二、三日前まで、芸者を上げてどんちゃん騒ぎをした海軍幹部もいる、しかも推計で海軍の特攻隊は千七百人ですが、うち海軍兵学校出身はたったの二十五人、大半は予科練と学徒出陣組です。身内を温存したとしか言い様がない。
戦後、海上保安庁入り。真珠湾攻撃の立案にたずさわった海軍OBに学んだ。目からうろこが落ちる内容だった。こんな内容だ。
ーーーーーソ連を仮想敵国にしたら戦場はシベリアなどの陸だ。大蔵省は海軍に予算を付けない。米国が仮想的なら戦場は太平洋。海軍は予算獲得のため米国を仮想敵にした。勝てるはずがないから戦う気はなかった、だが陸軍が満州で止まればいいものを、愚かにも南方まで出たから戦争になった。
「軍にとって最悪なのは脅威の消滅です。努力して常に脅威を作る。戦後はソ連の脅威を訴えて防衛予算を取った。ソ連が崩壊すると、北朝鮮や中国の脅威を持ち出しているが、あのソ連に比べたら月とスッポンでしょう。予算を分捕り、始めたら止まらない公共事業とおんなじです。」
米軍は分かりやすかった。発足準備段階の航空自衛隊に移り、米人の飛行指導を受けた時のことだ。教室にはいると、机に43ドル、椅子に7ドルなどと値札が張ってある。
「諸君の乗る飛行機から椅子まで、すべて米国の納税者が払っている。無駄にならないように早く上達し、我々のディフェンス(防衛軍)になってくれ』というのです。本音が分かりました。
朝鮮戦争では機雷除去に出た。米軍の要請だ。すでに海保の掃海艇が出動し、一隻が機雷に触れ死者を一人出していた。信太さんの船の役割は、航行の安全を試すモルモット役、「厳秘」任務で国民は何も知らなかった。
「米軍の露払いです。いまだってイラクで米兵が千七百人も死んでいるのに、自衛隊は水作りなどしかしない。米軍は九条を恨んでいます。開園すれば、間違いなく米国の戦争で前方展開、露払いをさせられます。」
「恨み」は単なる感情ではない。戦略・戦術の動機となり、政策に転化する。
「戦後、軍人は就職先がなく、闇屋をやり、下働きもした。平和憲法で劣等感の塊になった。国民は、彼らの九条に対する憎しみ、呪いを知らない。彼らは今やっと改憲の好機が訪れたんです。
航空自衛隊から日本航空に移り定年退職。自宅のある神奈川県逗子の池子米軍住宅建設問題などを通じ、平和運動に入った。二年前、護憲シンポジウムで告白した。「前立腺ガンの宣告を受けました。おかげで、残りの人生を平和運動一本に絞ると決意できました。ガンよ、ありがとう」厭戦庶民の会を作り、講演にビラ配りに駈け回る。
「私は十八歳で特攻になり、なにも分からないまま神風を信じた。でも日航時代、米人機長の言葉で目が覚めた。『戦争で部下に危険な仕事を命じても、百万分の一でも生きて帰れるなら罪ではない。でも、生還を許さない特攻を命じた者には殺人罪が成立する」
靖国の英霊も、私は生き続けて成長していると思う。勉強して、間違った戦争だと、今は気づいていると思う。改憲派は、環境権など当り障りのないところをまず変え、改憲に慣れさせてから九条に来る。関ヶ原の決戦です。
後書き
特攻から生還した時、「馬鹿な戦争だった」とつぶやいた弟を殴った。
「その通り、馬鹿な戦争です。でもそれは人から言われたくなかった。ご苦労様でした、と言われ自分から、馬鹿をしちゃったよと言いたかった。」
戦中派の心中は複雑だ。
戦禍の記憶
兵士国内編
鵜沼正さん
人間魚雷の酸素は二時間
戦意高揚の映画を度々見せられた影響か、飛行兵か潜水艦乗りになりたかった。小樽市の東山国民学校在学中の1943年11月、海軍志願兵の試験に十三歳で合格、一方で合格した小樽基工業学校に一ヶ月通っていた翌年五月、横須賀海兵団に入団せよとの命が来て、休学して入団した。
程なく神奈川県藤沢市に出来た海軍電測学校に移った。英軍から押収した最新式の電波探知機(レーダー)の操作を訓練する場所だった。一棟二百人のバラック兵舎が二十棟あっただろうか。そこで半年訓練を受けた後、青森県恐山の頂上で津軽海峡の監視に就いた。
広島県呉市の海軍潜水学校に転属し、二、三人乗りの小型特殊潜水艇の特訓を受けた後、人間魚雷「回天」を三基搭載した大型潜水艦「伊号第367」に乗務した。
終戦まで二回出撃した。45年7月の航行は忘れられない・沖縄周辺の東シナ海は米軍に海上封鎖されたかのよう。潜航深度は通常せいぜい70メートル前後だが、その夜は六時間半もすべての機関を停止し、水深90メートルで物音ひとつ立てずにいた。遠くの敵駆逐艦の爆雷攻撃の音が聞こえる。汗が滝になった。自分がどんな状態で死ぬ瞬間を迎えるのかを繰り返し考えていた。
人間魚雷「回天」に乗った大卒の悲壮な姿も目に焼き付いている。回天は潜水艦の上部に取り付けられ、内側から開けられないよう外からボルトでハッチを閉める。二時間程度の酸素しか積まず、まさに人間魚雷だ。私と同じ海軍少年兵上がりの者が元気で「行ってきます」と言い、大卒の人は真っ青な表情でうつろな目で出撃していった。声もかけられず、ただ敬礼して見送った。
8月15日の朝、出港の旅に身の回り品を保管する広島の港の倉庫に呉から歩いて行った。原爆投下九日後の産業奨励館(原爆ドーム) の異常な姿が見え、向こうから、妙にだぶついた変な服を着た女性が歩いてきた。近づくとそれは服ではなく、皮膚だった。うめき声、泣き声があたりを包んでいた。
私はその後、直腸、大腸、胃のガンを患った。その当時、死の灰を浴びたせいかも知れないと、札幌の医師に言われた。
検察官・書記官・通訳書記官で拷問した(「庶民が支えたあの戦争は」札幌民衆史シリーズ)
錦州高等検察庁の書記官として中国民衆を弾圧
板橋潤さん
1915年(大正4年)、上川郡美瑛町に生まれ、小学校三年の時に旭川に来ました。33年、旭川地方裁判所に雇いで入り、40年には同裁判所の検事書記官となりました。そして、41年には旭川中学と旭川師範学校の教師やその教え子達多数が検挙されるという、いわゆる「北海道生活図画事件」の取り調べに係わりました。その時、一緒に取り調べにあった検事の勧めと徴兵されたら生きては帰れないだろうとの思いから、43年4月に検事たちと旧満州国司法部の招集に応じ、渡満しました。
1943年、奉天と山海関の中間にある錦州の錦州高等検察庁に赴任しました。錦州は当時人口45万人くらいで、機構は温かく水蜜、西瓜、さつまいもなど何でも取れる良いところでした。
高等検察庁の特別取調室は二階にあって、検察官一名、書記官一名、通訳書記官一名、タイピストが一名いました。満州での通訳書記官は全員日本人です。ここで扱うものは絶対中国人にはみせません。書類を倉庫にしまうのも日本人でした。それらの書類は、敗戦後日本に戻ってきた人に聞いたのですが、敗戦の時に全部焼いたのだそうです。
しかし、撫順戦犯管理所に行くと、私のやったことは知られていました。なぜかと言うと、それは高等検察庁の中に目覚めた中国人がいたからのようです。当時、わたしたちは中国人を人間とは思っていませんでした。私たちは子供の頃から軍国主義の中で、天皇を頂点に天皇の赤子と思っていました。軍隊にはいると、自分は何としても偉い人になりたいと思っていたのです。
すでに42年の春に、関東軍と満州国司法部で西南地区特別治安隊が組織されていました。その目的は、八路軍が解放していた平泉、青竜地区を無住地帯地区にしようというものです。つまりその地区に住んでいる中国人を皆殺しにして、八路軍が住めないようにしようというものです。
軍隊、憲兵隊、警察、検察庁で組織された特別治安隊派、春は春季工作、秋は秋季工作をやりました。油、砂糖、小麦粉は配給制ですが、工作の時は錦州省の物資部からみな分捕ってきました。
取り調べで名前がわかれば、それで終わり。
工作の時は、検察官一名、書記官一名、通訳書記官一名で組を作ります。同居している裁判官の方では、法院審判官一名、書記官一名、通訳書記官一名で組を作ります。
平泉は人口が一万人と少しで、柳の木が生えていました。43年の9月に、平泉、44年の8,9月に青竜に生きました。この平泉は街(チェ)といって、日本では町にあたります。町長は中国人で、次長は日本人です。この日本人がすべてを仕切っているわけです。ここでは満州族が多くて、満州族は髪を編んで後に下げています。弁髪といいますが、取り調べの時は弁髪を焼いたり、鼻の穴にロウソクの火を突っ込んだりの拷問をしました。
拷問は、検察官、書記官。通訳書記官の三人でやる時も、一人でやる時もあります。私の記憶では十日間くらいそこにいて、一人は殺しました。六十人位を法院に送り、その内何人かは死刑、他は陣地構築などで結局は殺されます。
八路軍が町に入ってくる時は、最初工作員が入ってきます。この工作員が中国人を組織します。私の記憶では、三人くらいの工作員がいたと思います。取り調べは、紙一枚です。名前が判ればそれで終わり。法院に回されて、後は先程はなした通りです。この時は、検察官が亀岡、通訳書記官が沖田、書記官が私でした。
翌年は青竜にいきました。青竜は万里の長城と十五キロくらい離れている所で、危険なので多くの軍隊と一緒に行きました。ここは松の木や柳が生えていて、風景も良く、温泉も湧いていました。部落の費とは、アワとかヒエを作って生活しました。44年には八路軍が大々的に抵抗したこともあって、われわれは捕まえられてきた多くの中国人の取り調べをしましたが、毛沢東に近い人や党員に近い人は、一言も言いませんでした。戸板に縛りつけて、薬罐で水を飲ませます。そして腹の上に乗ります。私の記憶では二人くらい殺しています。死んだら裏山にでも埋めてきます。鼻の穴にロウソクの火をたらして、「言え、言え」といったりしました。本当に申し訳ないことをしました。
自分の罪を認めないと人間は変わらない
錦州の時は、憲兵隊が中国人を連れて行きました。初めは検察官と通訳書記官で締め上げたので、なんであんなことをするのかと思いました。しかし、現地では私も鬼になっていました。・・・
撫順戦犯管理所では、私に関する書類が十センチくらいありました。私は殺されると思いました。自暴自棄になりました。
ところが中国人の指導員はみなに白米を食べさせてくれて、自分たちはコーリャンを食べていました。認罪運動といいましたが、中国人のあたたかい指導によって、自分の罪行を知り、被害者の感情を自分でくみ取れるようになりました。六年間撫順にいて、その後中国人民と中国政府の寛大な措置により日本に帰る事が出来ました。
今、天皇が沖縄へ行っていますが、天皇は沖縄に行くべきではないと思います。また、本当に平和を愛する気持が(国民に)あるならば、天皇の問題やPKOの問題を真剣に考えて欲しいな、と思います。
引揚者の眼から見た中国の「反日」〜小泉首相の靖国神社参拝が嫌われるわけ
2005/05/10
私は中国からの引揚者です。昭和28年夏幼少の頃、両親と妹と4人で日本に帰国しました。母は日赤の従軍看護婦でした。父は満蒙開拓青少年義勇軍に志願して15歳のときに旧満州に入植しました。
父の話によると出発前、靖国神社につれて行かれ引率者に「貴様たちはこれからお国のために戦争で死ぬかもしれない。しかしそうなればこの靖国神社で神になるので非常に名誉なことである。死を決して恐れてはならない」と言うようなことを訓示され、いやな思い、というより反感さえ覚えたそうです。
はじめて靖国神社に行った時の印象は、入り口のところに日本陸軍の創始者である大村益次郎の銅像が威圧するように立っており、ほかにも銅像がやたら多く、それまで鳥居と狛犬さんのシンプルな神社しか知らない田舎の少年にとって靖国は重苦しい異様な雰囲気だったといいます。人間は本能的に死を恐れるのが普通ですから、大陸に憧れと希望を抱いて出発する少年たちにいきなり死ぬ覚悟を求めるというのは、いかに軍国主義教育を徹底的に仕込まれた小国民といえども気分が悪くなるのは当然でしょう。あとで「靖国なんかクソ食らえ」と悪態をついた少年もいたそうです。
戦前の靖国神社は日本の伝統に沿った神社というより、明治以来の富国強兵政策に則った侵略戦争を遂行するため、死ぬことをいとわぬ兵士を養成するための特殊な教育機関ではなかったかと思います。
父は20歳になると徴兵検査をを受け旧満州にある関東軍に入隊しました。2〜3ヶ月間銃剣術などの訓練をした後、ある日どこからか中国人の捕虜たちをつれてきて杭に縛り付けました。最初上官がそのうちの一人をいっきに銃剣で刺殺し、続いて新兵にも同じ事をするよう命令しました。父はあまりのことに「無抵抗の者を殺すことなど出来ない」と拒否しました。上官は真っ赤になって怒り、しこたまビンタをうけたあと抗命罪により重営倉に数ヶ月入れられたそうです。
昭和の日本軍は捕虜を国際条約で保護するということを知らなかったようです。昭和天皇の弟である三笠宮が「THIS IS 読売」(1994年8月号※1)の南京大虐殺に関してのインタビューで、ある青年将校から聞いた話しとして、「新兵教育には生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのが良い。それで根性ができる」という話を聞き、ショックを受けたと告白しています。インタビューの中、三笠宮は、捕虜に毒ガスを放射している実写映画も見たと答えています。
父の部隊にも毒ガスの専門班があり、特別の講習や訓練を受けていたといいます。数年前中国の黒龍江省で旧日本軍により捨てられた、毒ガスの事故がありましたが、日本の軍国主義は戦後60年たった今でも中国国民を苦しめていると言わざるを得ません。
両親は日本敗戦後、中国国民党軍の捕虜となり、次いでその部隊が内戦で共産党の八路軍に敗れたため中国共産党軍の管理下におかれ、帰国まで軍の後方で働いていました。父は騎兵隊で獣医をし、母は看護婦であったので、給料ももらい待遇もよく、例えば食事などは米の出来ない旧満州では、日本人でも食べやすいマントウ、餃子などをよく出され、手打ちうどんも特別に作ってくれたそうです。八路軍には様々な民族の兵士がいるため多様なメニューがあり、回教徒は豚肉を食べないので鳥肉を使うなど内戦中で食糧事情がよくないにもかかわらず、食事には気をつかっていたといいます。父によると八路軍兵士の元日本兵捕虜に対する態度は寛大でした。その理由は日本の侵略は指導者が悪いのであって、「一般の国民もまた被害者である」との認識を持っていたからだといいます。
小泉首相の靖国参拝がこれほど問題になるのは侵略戦争を進めた指導者までが神様になっている神社だからです。この問題は文化の違いとか死生観の違いなどというものではないと思います。ひとの国を攻めたり植民地にしたりすることが良いのか悪いのか、それが問われているのです。
※1 三笠宮崇仁インタビュー「闇に葬られた皇室の軍部批判」 聞き手:中野邦観・読売新聞調査研究本部主任研究員(「THIS IS 読売」1994年8月号 P54〜P56)
引揚者の見た中国の「反日」(2)靖国問題の本質を考える
2005/06/10
小泉首相は靖国神社に参る理由として、戦没者の追悼を言っています。戦争の犠牲者に対して敬意を表し、二度と戦争をしないように参っているとも、繰り返し表明しています。そして、中国や韓国が反対することが、どうしても理解できないようです。A級戦犯を「罪を憎んで人を憎まず」とも言っているところを見ると、東条さんたちが罪を犯していることを認めた上での発言のようですが、これは靖国神社側から見ると、とんでもない暴言だと思います。何しろ東条さんたちを、濡れ衣を着せられた昭和の殉難者として扱っているのですからノノ。
私の父(大正13年生まれ)は数え年15歳のときに昭和の少年屯田兵ともいうべき、満蒙開拓青少年義勇軍に志願し、当時できたばかりの旧満州国に行きました。茨城県内原の訓練所で出発前に行われた壮行会では、当時の松岡洋右満鉄総裁と東条英機関東軍参謀長がオープンカーで乗りつけ参列したそうです。東条参謀長は訓示で「満蒙は日本の生命線である。若い諸君がお国のために困難な事業に立ち向かうのは尊いことである。最後まで奮闘してほしい」というようなことを言っていたそうです。
父は20歳で徴兵検査を受け関東軍に入隊しましたが、敗戦で旧ソ連軍の捕虜となり、すぐ脱走するも、逃げる途中で病気になり高熱のためソ連軍の病院に舞い戻り、その後、八路軍に引き渡されました。その八路軍も蒋介石軍に破れ国民党軍の捕虜となり、国民党軍が最終的に八路軍に負けたため、再び八路軍の捕虜となるという目まぐるしい変遷を経験します。朝鮮戦争のときは輜重部隊でピョンヤンまで行き、米兵の捕虜を中国に連れて帰ることもしたといいます。
日本の敗北後、中共軍は軍を4つの野戦軍に編成し直し、国民党との内戦中、父は林彪率いる人民解放軍第4野戦軍の輜重部隊で獣医をしながら中国各地を転戦しました。途中、日本兵と思われる、白骨化した遺体が多数道端に放置されているのを見ます(白骨がなぜ日本兵とわかるのかというと、日本兵は金属製の番号入りの識別票を腰に巻いており、骨だけになっても近くにそれが落ちているそうです)。父は哀れな同胞の遺体を見つけるたびに、穴を掘り埋葬しました。その時、いつでも人民解放軍の兵士が一緒に手伝ってくれたそうです。
人間死ねば敵も味方もなく、「罪を憎んで人を憎まず」とはこの兵士たちの取った行動を指すのではないでしょうか。國學院大學教授の大原康男氏は著書『「靖国神社への呪縛」を解く』の中で、昔の故事を例に、中国は「死者にムチ打ち、墓を暴く」文化を持っていると断じていますが、父の経験では、少なくとも一般兵士レベルでは、死者への感情は日中変わりないことを示しています。
父は引揚船・高砂丸が着いた舞鶴の港で、旧厚生省援護局に、このとき拾った兵士の識別票を手渡したそうですが、彼らもまた靖国に祀られたのでしょうか。私の近所に、日中戦争初めのころに町で最初に戦死者を出した家があります。その人は国葬で弔われ、地域住民や子供たちも参列する盛大な葬儀となりました。「そのとき神社でやったのか」と父に聞くと、そうではなくお寺で仏式でしたそうです。
日本人の多くは「葬式仏教」であり、靖国神社に合祀されている人たちは二重にまつられているのです。A級戦犯となった松岡洋右元外相は、死を待つ病床でカソリックの洗礼を受けましたが、彼も靖国に合祀されています。このように日本人の多くは宗教に無節操であり、このことが靖国問題をわかり難くしている一因だと思います。
私は戦犯といえども、家族や友人、信奉者が故人を追悼、顕彰するのは自由であり、そのことに文句をつける者はいないと思います。国のために命を捧げた一般の戦没者を、遺族が首相に慰霊してほしいという感情も理解できます。しかし靖国神社のような戦前の特殊な国家主義を看板にしているところに、だだっ子のように現首相がしつこく参るというのは世界中から日本の国民性を疑われることになるのではないでしょうか。
靖国問題の本質とは、なにも知らない14,5歳の少年たちを「シナには4億の民が待っている」とか「3年がんばれば20町歩の土地をくれる」とか「満蒙は日本の生命線」とか言って武器を持たせ、多くの日本人を送り込み、人の土地をただ同然で収奪し、抵抗にあい、戦争が泥沼になると日の出の勢いのナチスドイツと組み、旧ソ連を攻めようと思ったものの、南方の資源に目を奪われ、勝つ見込みのない対英米戦争に突き進み、挙句の果てに国土は焦土と化し、日本人だけでも約310万人の犠牲者を出した戦争の責任者は誰かと問われているのだと思います。
引揚者の見た中国の反日(3)〜語られない加害責任
2005/07/17
7月3日(日曜日)の 「サンデープロジェクト」 を見ていると、東条元首相の孫である東条由布子さんが出演していて、知られざる元首相のエピソードを紹介していました。
由布子さんは、東条元首相が太平洋戦争の開戦に悩んでいて、開戦決定の御前会議の日は、家に帰ったあと自室で正座をして嗚咽していて、それからだんだんと慟哭していったというエピソードを述べています。東条首相といえば、好戦的なイメージが強いのですが、その彼でさえ開戦に逡巡していたとなれば、なぜ英米に対して無謀な戦争を挑んだのか。司会の田原総一郎氏の問いに対し、由布子さんは、太平洋戦争はABCD包囲陣であり、対日石油輸出禁輸であり、無理難題のハルノートを出してきた米英に追い詰められての自存自衛の戦いであったと答えました。歴史のとうとうたる流れに押し流されたとも述べました。
こういう言い訳は、戦前からさんざんなされてきたものですが、戦後60年たって元首相の親族が東条内閣の弁明をしているのを日本国民の多数は納得して聞いていたのでしょうか。元首相が太平洋戦争開戦と日本敗戦に対して責任があると認めながら、アジアの人々に対する加害責任については何も言いませんでした。番組のコメンテータたちも彼女を立派な態度だと持ち上げるばかりで、侵略戦争については全く突っ込みませんでした。
私の父は終戦の時に関東軍機動連隊の陸軍一等兵でした。神国日本の勝利を信じて疑わなかった将校たちの一部は絶望して自決しました。部隊でも2人の将校が腹を切りましたが、父はそのとき頼まれて介錯をしたといいます。東条英機大将が戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」と命令した通りの最期を遂げたのです。東条大将は1カ月後GHQが逮捕に来た時に拳銃自殺をしましたが命をとりとめました。
東条由布子さんが戦後、戦犯の親族としてつらい思いをしたことはお気の毒なことです。しかし幾百万幾千万の名もない人々がそれ以上の苦しい思いを持って戦後生きてきたのです。彼女は最近さまざまなメディアで発言していますが、ある週刊誌で東条元首相が遺書の中で当時の青少年のことを非常に心配していたと言っています。私の父は東条さんが日本の重要な指導者であった時代に満蒙開拓青少年義勇軍に志願しました。そして東条さんたち指導者の期待にこたえるため、どんな事を中国でしていたのか記していきたいと思います。
私の父が満蒙開拓青少年義勇軍第2次派遣隊の盛大な壮行会で、関東軍、東条参謀長の訓示を受け茨城県内原の訓練所を発ち、旧満州嫩江(ノンジャン)の訓練所についたのは昭和13年7月のことでした。父が訓練所内の宿舎に入っていこうとしたとき、遥かむこうの赤い夕日のかなたから1人の少年が走ってきて、貴様、と言うなり父に拳骨の嵐を浴びせたのです。先輩にあいさつをしないのは何事か、というわけです。彼は半年前、先遣隊としてひとあし早く到着した第1次派遣隊員でした。軍隊では上下関係は厳しく階級差はもちろん年次の違いも絶対的な意味を持つのです。
「義勇軍」は「開拓」の名前は付いていたものの、中隊単位(6個小隊約360人)で編成され38式歩兵銃、手榴弾、軽機関銃などで武装されたれっきとした軍隊でした。義勇軍の訓練所はソ連との国境近くや、満鉄の線路付近が多く金日成のパルチザン、東北抗日連軍もたびたび出没し攻撃をしかけてきたそうです。
「義勇軍」の1日は講習と軍事教練が主な内容でしたが、1カ月くらいたつとホームシックにかかるものが相次ぎ、深刻なものは自殺することも珍しくなかったといいます。脱走者もたびたびあり、父も捜索にいきました。訓練所のまわりは一面、桔梗やすずらんその他名も知らぬ鮮やかな草花が咲きほこっています。そんな無限に広がる花園を一筋の逃亡者のみちが続いています。馬で進んでいくと1時間もたたないうちにみちは途切れ、足元を見下ろすと白い骨がズタズタになった衣服とともに残っていたといいます。どう猛なシベリア狼はあばら骨や腕の骨さえ食べてしまい、後に残るのは大腿骨だけだったといいます。このように脱走したものは5〜6人いたそうですが、1人として無事内地に帰ったものはいなかったということです。
旧満州の気候風土は厳しく、特に冬は、夜になると外で零下40度、部屋の中でオンドル(朝鮮式の床暖房)に火をつけても欠陥工事で煙が通りません。いくら燃料をくべても零下25度ぐらいしか温度が上がらず、防寒具、防寒靴、防寒帽をつけて布団に入るという有様だったといいます。
父が初めて満州に来て驚いたことは激しい気候風土のみならず、日本人の中国人や朝鮮人に対する傍若無人なふるまいにも衝撃を受けたといいます。些細なことでどなりちらす。人前でもすぐ殴りつける。大連や上海などの租借地・租界に多くいる、「苦力(クーリー)」と呼ばれる労務者たちは道端に倒れて死んでいても、誰も関心をもつものはなく、犬や猫なみの扱いだったといいます。最初はこんなことをしてもいいのだろうかと思うことばかりだったのが、1年もたてば自分も現地の空気に染まってしまったといいます。
「われわれ日本人は戦前、中国人や朝鮮人を人間扱いしていなかった」「自分たちが中国で戦前やってきたことは、7割ぐらいは恥ずかしくて内地では人に言えないことだった」今年81歳になる父が中国の反日デモを話題にしたとき少し顔をゆがめて語った言葉です。
(JanJanより)
引揚者が見た中国の反日(4)〜いまこそ、戦争証言の記録を
2005/08/29
7月23日東京地裁は、日中戦争時の1937年に日本軍が中国南京を攻める途上、2人の日本軍将校が「百人斬り競争」をしたと報道された問題で、報道は「虚偽」として3600万円の損害賠償などを求めた遺族3人の訴えをすべて棄却しました。
訴えられていたうちの一人、ジャーナリストの本多勝一氏は判決後の記者会見で「全く当然の結果にすぎない。もともと歴史上の事実であって疑問の余地はない。本来、歴史上のテーマに属することを裁判の対象にした原告側の意図は、南京大虐殺全体や中国侵略そのものを否定するものだ」と批判しています。
私は30年前本多氏の著書「中国の旅」や「中国の日本軍」などを読み南京大虐殺の実態を知り衝撃を受けた覚えがあるのでこの裁判を注目していました。その当時13歳の高等小学校2年生であった私の父に、一般庶民が南京戦や、「百人斬り」をどう見ていたのか、また南京大虐殺や従軍慰安婦について自身の考えを聞いてみました。
……南京大虐殺のことで知っていることを教えてほしい
「南京戦の当時、自分は子供だったが、向井少尉、野田少尉の百人斬りのことは新聞で有名になったので良く覚えている。大虐殺は戦後、明らかになった。当時、新聞や雑誌は報道統制されていたので一般の国民は全く知らなかったのではないか」
……南京陥落まで一般の国民はどんな様子だったのか
「勝ちいくさであり、陥落の時はちょうちん行列で沸いていた。敵の首都を陥落させたという事で国民は戦争がやっと終わると思っていたのではないか。新聞の報道も皇軍の成果を大々的に誇るものだった」
……いくら戦場でも競争で「百人斬り」というのは異様な事と思うが当時は残虐なことをやっていると言う意識はなかったのか
「全くなかった。暴支膺懲、反日、抗日の支那を成敗するという感覚で、彼らは最前線で戦っているヒーローであり、新聞はどちらが勝つか興味本位にあおっているようだった。それで子供たちの話題にもなっていた」
……終戦後60年たち、南京大虐殺や朝鮮人慰安婦の存在を否定する人たちが結構いるがどう思うか
「南京城には何回も行ったことがある。城壁の中に何十万の人が住み、周辺もいれると100万人ぐらいいたのではないか。そこに国民党軍の敗残兵10万人がなだれ込み、勝ち戦にのって、競争するように二方向から追ってきた皇軍5万人が攻め込む。
結果、どんな惨劇が起こるか火を見るより明らかだ。殺された人間が5万か30万かそれは分からない。30万というのはちょっと多い気がする。しかし10万人単位の人間が殺されたのは否定できないだろう。それに皇軍による捕虜や一般住民の虐殺は規模の大小はあっても全中国でやっていたことであり「南京」はそのうちの一つに過ぎない。南京大虐殺を理解するには、一般の住民が多く住んでいる都市への無差別攻撃だと考えてみればよく理解できる。ヒロシマ、ナガサキへの原爆攻撃は本質的には南京で皇軍がやったことと同じである」
……憲兵隊が一般市民の虐殺やレイプを止めたりしないのか
「戦闘中はそんな事は出来ない。いったん突撃命令が下ると兵は死に物狂いで突進する。敵兵を殺すことが手柄であり、市街戦では住民も敵兵も区別がつかないし見分ける余裕もない。戦闘のあと部隊が駐屯すると女を求めるものが出てくる。それを止めさせるには八路軍のように強姦即死刑というような厳しい軍規にしなければならないだろう。」
……日本軍の軍規は守られていたと思うか
「日中戦争を通じて、守られていたのは全体の1割ぐらいではないかと思う。捕虜を虐殺することは日常的にあった。これは中国戦線だけではなく、シンガポールでの華僑大量殺害、フィリッピンのマニラでの虐殺やバターン死の行進のようにアジア各地でもやっていた」
……慰安所というのはどこでもあったのか
「皇軍のいるところ、どこでもあった。朝鮮人が経営していることが多かったように思う。その理由は、兵卒と将校では遊女が別れており、将校は日本人の遊女で値段も高い。一般の兵卒は朝鮮人の女性が相手で当然人数も多くいる。それでプロの女性だけでは間に合わずたくさんの素人の女性をだましてつれてくるため朝鮮人の女衒が活躍することになる。一日に多数の相手をさせられる朝鮮人遊女は哀れなものだった。」
……慰安所は私的経営であり、軍の関与はなかったという人がいるがどうか
「皇軍が支配するところで軍の関与がないなどという事はありえない。軍は絶対で、勝手に許可なくして軍人相手の慰安所を経営できるほど甘くはない」
……証拠がないという人もいるが
「証拠?軍の書類と言う意味か。そんなものは敗戦のとき焼き捨てている。元陸軍にいて慰安所の存在を否定する人間など一人もいないと思う。戦後育った人たちが知らないのは我われがそんな「恥ずかしいこと」を積極的に言わなかったし、言いたくなかったからだ。」
両親と50年同居してきたがこんな重いテーマを直接聞くのは初めてでした。父にこのごろインターネットの世界では南京大虐殺はなかったとか従軍慰安婦はいなかったと書く人が多いというと不思議な顔をしながら、「戦前の軍隊経験者なら、戦争が正しかったか悪かったか意見を別にしても否定できないだろう。分かりきっていることだ。人間誰しも自分がやった恥ずかしいことは他人にしゃべりたくないものだ。それで戦後に育った人たちに十分、伝わらなかったのだろう」と述べていました。
父も慰安婦の話など息子にしたくはなかったでしょう。しかし病床で体力がだんだん衰えていく父を見ていると今しかこんな事を聞く機会はないのだと思いました。戦場を直接体験した人間がだんだんいなくなっていく中、いまこそ戦争証言、特に「加害証言」の記録が必要だと感じました。
<参考>
父の生誕から渡満〜日本帰還までの履歴
大正13年1月 兵庫県淡路島に生まれる。
昭和13年3月 高等小学校卒業後 満14歳で満蒙開拓青少年義勇軍に志願。
昭和13年7月 旧満州へ渡る。嫩江の訓練所に入所。
昭和15年 満鉄の訓練所に移動、満鉄の警備に当たる
昭和16年 このころ橋本欽五郎退役大佐(極東軍事裁判で無期禁固刑)が設立した大日本赤誠会という右翼団体に入る。旧満州、華北で活動。
昭和17年 このころから軍の特務機関の仕事でソ満国境の調査などをする。
昭和18年 このころ四平街の獣医学校に通い、獣医学を学ぶ。
昭和20年5月 徴兵検査で甲種合格。関東軍に入隊。訓練で中国人捕虜の刺殺を命じられ拒否。抗命罪で重営倉に入る。しばらくして、たまたま近辺を視察中の伯父の樋口季一郎陸軍中将(北方軍軍司令官)が面会に来る。父の言い分(無抵抗のものを殺すのは武士道に反する)が認められ釈放
昭和20年8月 関東軍機動連隊でソ連戦車への特攻攻撃(爆弾を抱いて自爆攻撃すること)を待機中、終戦。ソ連軍の捕虜となり脱走するが、重病になり病院に舞い戻る
昭和21年ごろ ソ連軍から八路軍に引き渡されるが八路軍が国民党軍に敗れたため国民党軍の捕虜になる。その国民党軍が最終的に八路軍に敗れたため、また、八路軍の捕虜となる。
昭和22年ごろ 八路軍が再編成され林彪の第四野戦軍の輜重部隊に入り、国民党軍との内戦で中国各地を転戦する
昭和25年ごろ 朝鮮戦争に従軍
昭和28年8月 高砂丸で帰国 舞鶴入港
戦後六十年
十勝それぞれの戦争体験(4)
隣人に大きな過ち犯す
日中戦争があった昭和10年代、新得町屈足湖畔では岩松ダムや発電所の建設工事で多くの朝鮮人が働いていました。近くの寺の住職だった私は、血まみれでふらふらしている朝鮮人をよく見ました。逃げないように裸同然にされ、棒で殴られていた。労働は過酷で、次々と命を落とす。でも、悔やんでくれる身寄りなど一人もない。私は密かに行われる追悼式でお経をあげ、弔いました。
結婚した昭和十六年、真珠湾攻撃が始まり勇ましい見出しが連日踊る。自分は、そして世の中はこれからどうなるのだろうと漠然とした不安を抱き始めた翌年の夏、町の第一次勤労報国隊の一員として赤平市の住友赤平炭坑で四十日間働くことになりました。
労働は一日八時間。坑内で石掘りをしたり砂利をトロッコで運んだりしました。「あんこつめ」(ダイナマイトを仕掛けること)もしましたよ。朝鮮人も私も同じ仕事をし、似たような失敗をしました。
でも作業班の日本人は朝鮮人だけ怒鳴っていた。「こら、タコ!」説教されても日本語が解らないからまた同じミスをして、怒られる。その繰り返し。食事も全然違いました。私たちは麦と米、魚や肉につゆが与えられる。朝鮮人は豆と麦、雑穀だけ。ひどい話ですが、そういう時代でした。
名前が思い出せないのですが、親しくなった朝鮮人にこっそりおかずを箱ごと上げました。役場の慰問団が赤平にきたときも差し入れのまんじゅうを渡しました。優しさ?哀れみ?分かりません。気づいたらそうしていました。同じ人間だから、それだけです。
私が赤平を去る日、彼は「よいことやってない。(でも)やるしかない」と片言の日本語でつぶやきました。「よいこと」とは「なっとくできること」という意味でしょう。朝鮮人として何故日本人のために働くのか理解できないが、やるしかないという彼の心情を思うと返す言葉がありませんでした。
今年七月末、十勝の戦跡を巡り平和を考えるツアーに参加し、屈足湖畔の朝鮮人の墓を初めて尋ねました。見覚えのある名前もいくつか刻まれていました。
改めて思うのは、日本は隣人の韓国や中国に対し、人間として大きな過ちを犯したということです。戦争に敗け、目が覚めたはずなのに、いまだに日本はアジア諸国との外交関係がぎくしゃくしている。争わず、助け合う。互いの命を尊重する姿勢なくして平和はあり得ないという思いをいっそう強くしています。
内橋克人04・8・16道新夕刊
抜粋
木造家屋の集中する神戸の市街地に米機が降らせた焼夷弾は、油脂に水素を添加させた集合焼夷弾と呼ばれるもので、おびただしい市民を手際よく火炎地獄のただなかに追いこんで、殺戮した。B29一機で三千八百四十発をばらまき、一発の親爆弾はさらに四十八発の子弾となって飛び散った。子弾には火を吹く麻製のリボンが付けられており、広範囲にヒラヒラと舞い降りては、焼夷弾の直撃を免れた家屋までも焼き尽くした。
敗戦後まだ中学一年生にすぎなかった私が、アメリカの持ち込む文化、教育、それを承けて教師等の口にする新奇な言葉、そのすべてに違和感を抱き続けたのは、敵国市民を殺戮する彼らの手法のあまりの残虐性をこの目の奥底に刻んだからだ。
昭和二十年三月十七日未明の空襲では、先ず一機飛来した敵機が照明弾を投げ、次に取りかかったのが街の北側、すなわち山すそに沿って真っ先に焼夷弾の雨を降らせることだった。人々の逃げ道を塞いでおいて次に海側の攻撃に移った。無防備、無抵抗の市民は北と南から挟み撃ちに遭い、雪崩を打って街の中心部に吸い寄せられた。それを待って最後にその中心街に焼夷弾の雨を降らせた。
戦後の教室で、長い間わたしは民主主義という掛け声に和することが出来なかった。
戦中アメリカのマスコミが日本人を指してもっとも頻繁に使った呼び名は「猿人間(monkey-men)」というものであり、それは米軍用ハンドブックでも使われていた。ドイツナチズムは成熟した西欧社会に巣くった癌であるのに対し、日本のそれは文明にも達しない奇妙なナショナリズムと見なされた。
今アメリカ主導の「世界市場化」にとって最大の脅威は厳しい戒律をもつイスラムの世界である。そこでは利子・利息の概念は禁じられ、人は「正当な報酬以外受け取ってはならない」とされる。イラクで進んでいる事の「本質」は、民主化ではなく、市場化というべきであり、米軍はその手始めを飲料水の商品化から始めた。
枯葉剤から劣化ウラン弾へ。戦争のロボット化へと、アメリカは突き進みその後を日本が追い縋る。先頭を走っているのは、日本の「戦争を知らない軍国少年」達に違いない。アメリカでは1%の高額所得層が、所得全体の40%を独り占めする。後を追うように日本でも、その所得格差の大きさを示す、ジニ係数が無限に0.5に接近中だ。
アメリカにおいてはイラク派兵の米兵のうち、上下両院議員の子息は一人しかいないという。フリーランチプログラムの施しをうけていた者、さらに移民の子息が圧倒的に多い。
戦後日本を貫いた戦争放棄の思想は、尊重されることのなかったわたしたちの命の代償として戦い取ったものだったのであり、「乏しきを憂えず、等しからざるを憂う。」の精神を岩盤としていた。南を含む世界はその日本に学ぼうとした。
東京大空襲
早乙女勝元2005/03/11(Fri)
朝日新聞
東京大空襲から60年がたった。「どいた、どいた!」45年3月10日の朝、鉄かぶとの男達が行きなり私をはねのけた。つい数時間前、私たち一家は。超低空で乱舞するB29から豪雨のように降り注ぐ焼夷弾と、猛火の激流の中を必至に逃げ惑った。生き延びた人々は幽霊か、ボロくずのように声もなく、それぞれの目的地へと向かっていく。残煙のくすぶる焦土を歩く私たちも例外ではなかっただろう。
前方からやってきた男達は、鉄のパイプとトタン板による担架を運んできたのだった。その上には、脂肪でギラギラ光った半焼けの死体が乗っていた。斜めに伸びた手が、グイと虚空をつかんでいる。目をそむけた私は12歳。もはや神風が吹くとは思っていなかったが、腹ぺこで死ぬのはごめんだった。
この日の東京大空襲は、それまでの空襲と異なる特徴がいくつかある。
(1)深夜の空爆
(2)300機もの大編
(3)圧倒的な焼夷弾
(4)超低空による無差別攻撃、だ。
目標は人口密集地帯の下町地区で、たった2時間あまりの空襲が東京の歴史と運命を一変させた。
あの日正午、ラジオを通じ大本営は発表した。B29百三十機の「盲爆により都内各所に火災を生じ足るも、宮内省主馬寮二時三十五分、その他は八時頃までに鎮火せり」と。当局は皇居の安泰しか眼中になかったらしく、100万人を超える被災者と、10万人にも及ぶ都民犠牲者を、「その他」の三文字で片づけた。「死は鴻毛より軽しと覚悟せよ」とは、軍人勅諭の一節だが、民草と呼ばれた国民の命は、鳥の羽よりも軽かったのである。
それから60年経ち、戦争を知らない世代が圧倒的多数になった。3月10日が何の日かと聞かれても、首をかしげるばかりだ。
無理もない。高速道路がうねって、超高層ビルの乱立する東京には広島・長崎のような公立の戦災記念館もなければ、平和公園もない。旧軍事遺族等恩給費は現在の国家予算でも約一兆円だが、在日外国人を含む民間の犠牲者や負傷者には戦後この方、援護や補償は何もない。ないない尽くしで「平和記念館」建設計画を進めていた東京都も。六年前に計画を凍結してしまった。
人間の体験は、六十年単位で「歴史」に移行すると言い、当時人の親だった方の語り継ぎは限界に近づきつつある。体験者がいなくなった後は、追体験のための資料や記録が不可欠だ。
止むに止まれず、私どもが民間募金による「東京大空襲・戦災資料センター」を江東区北砂に立ち上げて三年。鉄骨三階の小さな建物だが、それでも都民の戦禍を語り継ぐ扇の要になっている。参観者の三割は小中高生で、資料や体験者の話に、命の尊さや平和への思いを心に刻んでいる。
戦争を防ぐには、戦争の実態を知らねばならない。その際に常に小さい者や弱い者の立場で学ぶべきだろう。昔も今も、国の内でも外でも、彼らがもっとも深刻な犠牲者だからだ。
災害は忘れた頃にやって来ると言う。戦禍も同じである。今がまさに「知っているなら伝えよ。知らないなら学べ」の正念場だと感じる。
過去は未来のためにある。知ること・学ぶことが、ジワジワヒタヒタと迫り来る時流の変化への楔の一つにはなると思う。
ジョージ・ウェラー記者原稿全文 その1
ジョージ・ウェラー記者原稿(1)
【9月8日長崎】原子爆弾は無差別に使用可能な兵器として分類されるかもしれないが、長崎への投下は選別された妥当なもので、これほどの巨大な威力が予想されていたにしては十分慈悲深いものだった。
次に述べることは、廃墟を取材するために初めて訪れた記者の結論であり、詳細に調べたものだが、この戦争による荒地の検証はまだ不完全だ。
長崎はその大きさと形から大雑把に言ってマンハッタンと似ており、南北に入り江がある。
ニュージャージーとマンハッタン側に相当する場所には、三菱と川南家が所有する巨大な軍需工場が立ち並んでいる。
従業員約2万人がいた川南造船所は、バッテリー・パークとエリス島に相当する港の入口の両側に建っている。ここは爆発の現場から約5マイル(約8キロ)の地点。原爆投下前に襲撃したB−29は造船所破壊に失敗し、ほとんど無傷のままだ。
ハドソン川のように両岸に埠頭のある長崎港を上って行くと、奥に向かうにつれ両岸の幅が狭くなっていく。川の両岸に長く立ち並ぶ工場はすべて三菱のもので、その工場の向こうには、手に取るような近さに美しい緑の丘がある。
川南の工場から2マイル(3・2キロ)離れたジャージー側に当たる左側には、三菱の造船所とモーター工場があり、それぞれ2万人と8000人を雇用している。この造船所は原爆投下前の空襲で損害を受けたが、被害は大きくはない。モーター工場は被害を受けていない。ここは原爆の爆心地から3マイル(4・8キロ)で、修復可能だ。
港が250フィート(76メートル)の幅に狭まるのは、高さ1500フィート(457メートル)だった原爆爆発地点から2マイル(3・2キロ)にある浦上川で、原爆の威力の跡をこの付近から確認することができる。この地区は長崎の中心街の北に位置し、建物はところどころ破壊されているが、ほぼ正常な状態だ。
鉄道はプラットフォームを除いて破壊されているが、既に営業をしている。普段は破壊された浦上谷への玄関口と言えるところだ。南北に平行して、両岸に三菱の工場がある浦上川が流れ、町から鉄道と幹線道路が走る。線路沿いには住宅地と鉄やコンクリートの工場が密集し2マイル(3・2キロ)にわたって広がっている。その中に落下した原爆は両側を完全に破壊し、住民の半数を直撃した。判明している死者数は2万人で、日本の警察は推定約4000人が行方不明と語った。
日本の役人の見積もりによると、負傷者数は死者数の約2倍になるとみられるが、死者数がこれほど多い理由には二つの要素がある。一つは三菱の空襲シェルター(防空壕)がまったく機能せず、一般市民のシェルターも遠く離れて限られていたこと。二番目は、日本の空襲警戒警報システムがまったく機能しなかったことだ。
私は三菱社がシェルターにしていた谷の岩壁にある短くて粗雑な6つのトンネルを調べた。また、私は込み入った鉄の桁とカールした屋根のメーン工場を通り抜けて、厚さ4インチのコンクリートのシェルターを見たが、数の上ではまったく不十分だった。事務職員が働いていたサイレンが上に備え付けられた灰色のコンクリート製の建物にだけ、強固な地下シェルターがあったが、PREVIO(建築資材か)のようなものは皆無だった。
2機のB29が現れる4時間前の朝7時、通常の空襲警報が鳴ったが、従業員やほとんどの住民は無視した。警察は原爆投下2分前にも警報が鳴ったと主張しているが、ほとんどの人は何も聞かなかったと言っている。
誇張された話を排除し、証言を検証していくと、原爆はすさまじいものであるという印象が増して行く。しかし、特別な兵器ではない。日本人は米国のラジオから、地面には極めて有害な放射能が残っているという説明を聞いている。ただ、肉の腐敗臭がいまだに強烈な廃墟の只中を数時間歩くと、記者も吐き気をもよおすが、やけどや衰弱の兆候はない。
この爆弾が、これまでよりせん光が広がり強力な破壊力を持っていることを除いて、ここ長崎では誰もまだ、この爆弾が他のどの爆弾とも異なるという証拠は見つからない。
三菱の工場の周辺には危害を与えたくなかっただろうが、一帯は廃墟となっている。記者は、長崎医療研究所病院にあるひと気のない15の建物で1時間近くを費やした。がれきでいっぱいのホールにはネズミ以外は何もいない。谷と浦上川の反対側には、「Chin Jei」と呼ばれるコンクリート製3階建てのアメリカン・ミッション・カレッジがあるが、ほとんど破壊されている。
日本の複数の当局者は、米国の爆弾によって焼け野原となった地域は、伝統的にキリスト教カトリック信者の日本人が住んでいたと指摘した。
しかし、こうした地域や、装甲板製造工場の隣に日本人が設置した連合軍捕虜収容所に被害を与えないことは、1016人の労働者の大部分が連合軍捕虜だった三菱の船体部品工場、また、隣接する1750人の従業員がいた砲架工場にも被害を与えないことになっただろう。浦上川の両岸にあり通常3400人が雇用され、あの日は2500人がいた3つの鉄の鋳物工場にも被害を与えないことになっただろう。さらに今は焼け野原となっている多くの下請け工場に被害を与えないことは、原爆が炸裂した場所にもっとも近く、7500人を雇用していた三菱の魚雷と弾薬の工場を手付かずに残すことを意味したであろう。
これらすべての工場は今日、叩き潰されている。しかし、死の兵器工場の中に工作員が忍び込んだとしても、手で原爆を綿密に仕掛けることはできなかっただろう。
原文はこちら
http://mdn.mainichi.co.jp/specials/0506/0617weller.html
毎日新聞 2005年6月17日 3時00分
ジョージ・ウェラー記者原稿(2)
【9月8日長崎】三菱の兵器工場の骨組みが曲がったりぺしゃんこになっている様子は、鉄や石に対しての原爆の威力がどのようなものだったかを示している。だが、長崎郊外の二つの病院では、炸裂した原子が人間の肉体や骨に対してどのような力を持っているかは、明らかにならないままだった。爆心地から3マイル(4・8キロ)離れた、攻撃された米領事館の正面壁や、爆心地から別方向に1マイル離れたカトリック教会の壁を見てもしょうが入り菓子パンのように崩壊していた。飛び散った原子はすべてを突き抜ける勢いだった。
運良く被害から逃れた人々は、壊れず残った長崎で最大級の2病院で小さな家族部屋に座っていた。彼らの肩や腕、顔は包帯に包まれていた。
降服後、初めて長崎に入った米国人外部者の私に、プロパガンダを意識した案内役の役人は明らかに意味ありげに顔をのぞき込み「どう思うか」を知りたがった。この問いかけが意味するのはこうだ。「あなたは米国人が日本にこの兵器を放つことによって行った非人間的な行為を伝えるつもりがあるのか。それが私たちの書いてもらいたいことなのだ」−−と。
やけどを負っていたり、やけどを負ってはいないが髪の毛の一部がはがれ落ちた何人かの子供たちが、母と座っていた。前日には日本人写真家が彼らの写真をたくさん撮っていった。およそ5人に1人は体中に包帯を巻いていたが、だれも痛そうには見えなかった。
何人かの大人たちは痛みの中、布団に横たわり、低いうめき声を上げていた。ある女性は夫の世話をしながら、目を涙で曇らせていた。あわれな光景だったため、同行の役人は、そこから立ち去るべきかどうか見極めようと、私が同情を禁じえないかどうか表情を密かに探った。
多くの担架を訪ね、2人の一般医と1人の放射線専門家と長時間の話をし、多くの情報と被害者たちの意見を得た。統計というにはまばらで、記録もほとんどないが、この主要な市営病院に今週までに原爆患者が約750人いたが、約360人が死亡したということは確かだ。
死亡原因の約7割は通常のやけどだった。日本人たちが言うには、爆心地から0・5〜1マイル(0・8〜1・6キロ)以内で外にいた誰もがやけどで死亡した。だが、これは事実ではないと思われる。工場にいた連合国の捕虜のほとんどはやけどを負わずに逃げ出しており、わずか約4分の1がやけどを負ったに過ぎないからだ。いずれにしても明白なのは、8月9日の午前11時2分に、多くは思いがけない火にとらわれ、その火は半時間燃え続けたということだ。
だが、重いやけどを負った患者が死亡した今、軽症患者のほとんどは急速に治癒している。不幸なくじを引いたがために治っていない人々には、原爆の威力の不思議なオーラが現れている。彼らは、現在は長崎港の入り口にある第14収容所の連合国司令官であるオランダ人軍医のヤコブ・ビンク大尉が「疾病」と呼ぶものの犠牲になっているのだ。ヴィンク氏自身は、三菱工場の装甲板部門に隣接する連合軍捕虜の食堂にいて天井が崩れ落ちたものの、多くの連合国側捕虜や日本人市民が患った、この不思議な「疾病X(エックス)」からは免れていた。
ビンク氏は病院で黄色い布団の上にいる女性を示した。女性は、病院の医師であるコガ・ヒコデロウ氏とハヤシダ・ウラジ氏によると、まだ運び込まれたばかりだという。被爆地帯から命からがら逃げたが生活のため舞い戻っていた。小さなかかとのやけど以外は、ここ3週間は何ともなかったが、今は破傷風患者のように黒い唇を閉ざしたままうめき、明確な言葉を話すことはできない状態だった。彼女の足や腕には小さな赤い斑点が所々にあった。
彼女のそばにいる15歳の少し太った女児にも同じできものがあり、できものは赤く小さく先端は血で固まっていた。さらに少し先には、1〜8歳の子4人と一緒に横たわっている寡婦がおり、下の2人の子は部分的に髪の毛がなくなっていた。彼らは誰もやけどは負っていなかったし、骨折もしていなかったが、原爆の犠牲者と思われた。
ハヤシダ博士はものうげに頭を振り、三菱工場の周りの土地が汚染されているという米国のラジオ報道のような、何かがあるに違いないと語った。だが、続く言葉は、その考えの支えを奪い去るものだった。寡婦の家族は爆発以降、破壊された地域にはいなかったし、同じ症状は、その地域に戻った人々にも同様にみられたからだ。
日本人医師たちによると、後になって症状が現れた患者らは爆発から1カ月たった今も、1日約10人の割合で死亡しているという。この3人の医師たちは、この疾病にはとまどうばかりで、休息させる以外に何の治療も与えていないと静かに話した。米国からのラジオのうわさは、この症状に対する同様な考えを嗅ぎ取ったものだった。患者たちは、治療のためにできものをなめてもらっていが、それほど心配している様子はなかった。
ジョージ・ウェラー記者原稿(3)
【9月8日長崎】モザイク状に分解された歴史の断片が、解放された連合軍兵士たちによって明らかにされている。彼らは解放後も日本の最南端の島、九州の収容所に残され、救済されないままでいる。ウォルター・クルーガー将軍の陸軍部隊の到着を待っている間、収容兵士たちは厳しく支配してきた日本軍将校から、卑屈な敬礼を受けている。他の地区の収容者と情報交換する中で、この戦争中に何があったのかがヤミの中から浮かび上がってきた。
原爆が投下されるまで三菱軍需工場の中にあった第14収容所は、長崎港の西側入り口へと移った。ここでは機関士のエドワード・マシュー、エベレット・ワシントンや、アメリカの駆逐艦「ポープ」に会うことができる。どのようにしてポープが巡洋艦「ヒューストン」を率い、8隻の巡洋艦と無数の駆逐艦を擁する日本軍相手にスンダ海峡の戦いに臨んだか…。
「我々は朝7時に初めて日本軍を認識し、敵は午前8時半に攻撃を開始した。我々は午後2時まで持ちこたえたが、日本の偵察機が船尾付近に爆弾を落とし、我々の船が沈んでいくのを観察、日本の駆逐艦も見ていた。快晴の日だった。日本軍は我々兵士が海中にいるのを3日間放置した。24人乗りの救助艇と救命いかだに154人がしがみついていた。彼らが我々をすくい上げ、マカッサルに連れて行かれた時には、我々は気が狂いそうになっていた」。
北九州・門司港近くの戸畑にある第3収容所からは3人の収容者が来ていた。彼らは3年間の耐え難い監禁生活後に開かれた道の誘惑に駆られ、原爆投下の結果を見るため長崎にやって来た。
メリーランド州ノースイースト出身のチャールズ・コリンズは「巡洋艦ヒューストンはスンダ海峡の東側、あるいはジャワ側でつかまった。バンタン湾の近くだった。348人が救助されたが、全員散り散りとなった」という。
シカゴ生まれのイリノイ州プレーン出身、マイルズ・マーンケは健康そうに見えたが、本来の体重215パウンドから160パウンドまで落としていた。「俺はバターンの死の行進にいた。それがどういうことか分かるだろう」と話した。
潜水艦射撃手のアルバート・ルップは、フィラデルフィアのベルモント・アベニュー920番に住んでいる。「我々はペナンから450マイル離れたところで2隻の日本の貨物船を追跡していた。偵察機が爆弾を投下して、操舵室に当たった。我々は海底にいたが、もう一回爆弾を落とされて浮上した。最終的に潜水艦を沈めるしかなかった。42人の乗員のうち39人は助かった」という。もう一人、潜水艦にいたのは、ウィリアム・カニングハムだ。ニューヨークはブロンクスのウェブスター・アベニュー4225番に住んでいる。彼はルップと一緒に日本南部の旅行を始めた。
日本の将校や警備兵が姿を消してしまった収容所から放浪してきた別の4人組は、オハイオ州ジュネーブのアルバート・ジョンソン▽カンザス州バンブーレンのハーシェル・ラングストン▽テキサス州ミュールシューのモーリス・ケロッグ。全員がオイルタンカー「コネチカット」の乗員で、テキサス州ワグザハチー出身のウォルター・アランと一緒に日本を旅している。アランは北京の中国北部警備隊から来たのんきな海軍人だ。
オイルタンカー乗員の3人は彼らを捕虜にしたドイツ軍部隊長の言葉が気に入っていた。隊長は「前回の戦争で君たちアメリカ人はドイツ人を日本に閉じこめた。今回は我々ドイツ人がアメリカ人を日本に連れて行く。そうすれば君たちにも同じ薬の味が分かるだろう」と言ったのだった。
九州には約1万人の囚人がいる。日本全体にいるうちの約3分の1だ。日本人らしい全く無秩序なやり方で囚人たちはごっちゃにされ、記録もなかった。
長崎湾の入り江そばにある第2収容所には、英国の巡洋艦「エクセター」の生き残り68人がいた。エクセターは日本の艦隊を排除するためジャワ海で闘い、沈没した。8インチ砲が喫水線を貫通したのだ。その時の戦闘でやはりスンダ海峡近くで沈没した英国の駆逐艦「ストロングホールド」の生き残り計9人のうち5人もいた。また、沈没した駆逐艦「エンカウンター」の乗員100人のうち14人の英国兵と、ほとんどがジャワやシンガポールから来た英国空軍62人もいた。
1942年2月27日の夜11時、324のオランダの巡洋艦のうち、「ジャワ」と「デ・ルイター」が沈没した。駆逐艦や潜水艦によってではなく、日本軍が自慢していた巡洋艦からの魚雷攻撃の攻撃に遭ったのだ。
ジャワ海の戦闘で、やはり夜間の魚雷攻撃にあった駆逐艦「クールトネール」のオランダ人将校もいた。
頑強なテキサス州フレデリックスバーク出身のレイモンド・ウェスト伍長は、ジャワが陥落する前のスラバヤ郊外で、第131野戦砲兵隊がどのように日本軍に6時間にわたって75インチ砲を浴びせ続けたかを話した。死者は700人に上った。
記者の部隊についての熱心な問いに、ウェスト伍長は、450人の隊員がジャワ西部に連行され、その後この極東の地で散り散りとなった。彼らは長崎に送られ、ほとんどが第9収容所に移されたと話した。
ジョージ・ウェラー記者原稿(4)止
【9月9日長崎】原爆がもたらす特異な「疾病」は、医師による診断が下されないため、処方も治療もされず、ここ長崎で多くの人々の命を奪っている。目立った外傷のない男女や子供が次々、病院で死んでいく。何人かは、退院を望みながら病院の中を3〜4週間も歩き回った末に。
医師は近代的な知識を身につけているが、日本が降伏してから初めて被爆地入りした記者に話す時は、この病は彼らの手におえないと率直に告白している。患者たちはけがはないまま、次々と息を引き取って行く。
福岡からきょう病院に到着した放射線治療の専門家、高齢のナカシマ・ヨシサダ医師は「患者たちは原爆がもたらしたガンマ線か中性子線に苦しんでいる」と述べた。
「症状はみな共通している」と同医師はいう。「白血球が減り、舌が収縮し、嘔吐や下痢があり、皮下出血している。これらの症状はレントゲンを浴びすぎた時に起きるものだ。また、被爆した子供たちの毛が抜け落ちている。レントゲンが数日後に髪が抜ける作用をもたらすことを考えれば理解できる」。
ナカシマ医師は、居住地に戻った被爆者たちが地面から致死量の放射線を浴びている可能性があると主張し、政府に「被爆地を立ち入り禁止にすべき」と要請する一般の科医とは異なった見解をもっている。彼は「地面からの事後作用は無視してよいと考える。直ぐに電位計で測るべきだ」と話している。
かつて日本の戦争捕虜で、現在は連合軍収容所の下で働いているオランダ人のヤコブ・ビンク医師は、白血球を増やす作用のある薬を試すべきだと主張した。
第二救急病院では、ササキ・ヨシタカ中佐が「343人の患者のうち200人が死んだ。あと50人は亡くなるだろうと思う」と話した。
原爆投下後1週間で、ひどいやけどを負った患者は亡くなった。しかしこの病院は、被爆の1〜2週間後に患者を受け入れるのだ。従って、本当に悲惨な患者や死者は、病院の外にいるのだ。
ナカシマ医師は検視の結果、やけどのような症状を示す患者たちの死因を二つに大別した。最初の死因が全体の6割を占め残りが4割を占める。
最初の死因の外面的な特徴は、髪が抜け落ち、はしかのように全身に湿しんができ、唇がただれ、血便のない下痢が生じ、のどの喉頭蓋と咽頭後が腫れ、血球の数が減る。普通500万ある赤血球は2分の1から3分の1に減り、白血球は7000〜8000から300〜500へとほとんど消滅する。熱も40度まで上がり、下がらない。
最初の死因において、検視が示す内部症状は、血の詰まった腸だ。ナカシマ医師は死の数時間前に、こうした症状が出ると考えている。胃にも血が満ち、腸間膜炎が生じる。骨髄とクモ膜にも血が散在し、脳はなんら影響を受けないものの、やはり血が散在する。腸も充血するが、それほどひどくはない。
ナカシマ医師は「最初の死因では、原爆の放射線は、エックス線を浴びすぎて生じたやけどのように死をもたらす可能性がある」と考える。
しかし、第二の死因は同医師を当惑させている。患者たちは軽いやけどの症状を示すが、2週間のうちによくなる。彼らが普通のやけど患者と違うのは、高熱があることだ。皮膚の3分の1がやけどに覆われていても、熱がなければ回復する。しかし2週間以内に熱が出れば、やけどは突如治らなくなり、症状は悪化する。まるで敗血症のような症状を呈する。
しかし患者たちは、エックス線照射によるやけどの患者と違って、さほど苦しまない。そして彼らは4〜5日後に悪化し、亡くなる。
彼らの血管は、やけどで死んだ者ほど細くなく、死後に調べると臓器も正常だ。しかし彼らは死ぬのだ。原爆が原因で。ただ、誰も正確な理由がわからない。
9月11日に、米国人25人が長崎の被爆地を調べにやって来る。日本人は彼らが「疾病X」に対する有効な治療策を持って来ると期待している。
超国家主義者の論理と心理
1
日本国民を永きにわたって隷従的境涯に押し付け、また世界に対して今次の戦争を駆り立てたところのイデオロギー的要因は連合国によって超国家主義(ウルトラナショナリズム)とか極端国家主義(エクストリームナショナリズム)とかいう名で漠然と呼ばれているが、その実態はどのようなものであるかということについてはまだ十分に究明されてはいないようである。いま主として問題になっているのはそうした超国家主義の社会的・経済的要因であって、超国家主義の思想的乃至心理的基盤の分析は我国でも外国でも本格的に取り上げられていないかに見える。
それはなぜかといえば、この問題があまりに簡単であるからとも言えるし、また逆にあまりに複雑であるからとも言える。あまりに簡単であるという意味は、それが概念的組織を持たず、「八紘一宇」とか「天業恢弘」とかいったいわば叫喚的なスローガンの形で表れるために、真面目に取り上げるに値しないかのように考えられるからである。たとえばナチス・ドイツがともかく「わが闘争」や「二十世紀の神話」の如き世界観的体系を持っていたのに比べて、この点は確かに著しい対照をなしている。しかし、わが国家主義にそのような公権的な基礎付けが欠けていたということは、それがイデオロギーとして強力でないということにはならない。それはこんにちまでわが国民の上に十重二十重に見えざる網を打ちかけていたし、現在なお国民はその呪縛から完全に解き放たれてはいないのである。国民の政治意識の今日みらるる如き低さを規定したものは決して単なる外部的な権力組織だけではない。そうした機構に浸透して、国民の心理的傾向なり行動なりを一定の型に流し込むところの心理的な強制力が問題なのである。それはなまじ明白な理論的構成を持たず、思想的系譜も種々雑多であるだけにその全貌の把握はなかなか困難である。是がためには[八紘一宇」的スローガンを頭からデマゴギーと決めてかからずに、そうした諸々の断片的な表現やその現実の発現形態を通じて底に潜む共通の論理を探り当てることが必要である。これはもとより痛ましい我々の過去を物好きに掘り返す嗜虐趣味では断じてない。けだし、「新しき時代の開幕は常に既存の現実自体がいかなるものであったかについての意識を戦い取ることのうちに存する」(ラッサール)のであり、この努力を怠っては国民精神の真の変革はついに行われぬであろう。そうして凡そ精神の革命にして始めてその名に値するのである。
いかの小論はかかる意味で問題の解答よりも、むしろ問題の所在とその幅を提示せんとする一つのトルソーに過ぎない。
2
まず何より、わが国の国家主義が「超(ウルトラ)」とか「極端(エクストリーム)」とかいう形容詞を頭に付けている所以はどこにあるのかということが問題になる。近代国家は国民国家(ネーションステート)といわれているように、ナショナリズムはむしろその本質的属性であった。こうした凡そ近代国家に共通するナショナリズムと「極端なる」それとはいかに区別されるのであろうか。ひとは直ちに帝国主義乃至軍国主義的傾向を挙げるであろう。しかしそれだけのことなら、国民国家の形成される初期の絶対主義国家からしていずれも露骨な対外的な侵略戦争を行っており、いわゆる一九世紀末の帝国主義時代を俟たずとも、武力的膨張の傾向は絶えずナショナリズムの内在的衝動を成していたといっていい。わが国家主義は単にそうした衝動がヨリ強度であり、発現の仕方がヨリ露骨であったという以上に、その対外膨張乃至体内抑圧の精神的機動力に質的な相違が見いだされることによって始めて真にウルトラ的性格を帯びるのである。
ヨーロッパ近代国家はカール・シュミットがいうように、中性国家(Ein neutraler Staat)たることに一つの大きな特色がある。換言すれば、それは真理とか道徳とかの内容的価値に関して中立的立場を取り、そうした価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団乃至個人の良心に委ね、国家主権の基礎をば、かかる内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置いているのである。近代国家は周知の如く宗教改革に続く十六、七世紀に亘る長い間の宗教戦争のまっただ中から成長した。信仰と神学をめぐっての果てしない闘争はやがて各宗派をして自らの信条の政治的貫徹を断念せしめ、他方王権神授説を振りかざして自己の支配の内容的正当性を独占しようとした絶対君主も熾烈な抵抗に面して漸次その支配根拠を公的秩序の保持という外面的なものに移行せしめるのやむなきに至った。斯くして形式と内容、外部と内部、公的なものと私的なものという形で治者と被治者の間に妥協が行われ、思想信仰道徳の問題は「私事」としてその主観的内面性が保証され、公権力は技術的性格を持った法体系の中に吸収されたのである。
ところが日本は明治以後の近代国家の形成過程に置いて嘗てこのような国家主権の技術的中立的性格を表明しようとしなかった。その結果、日本の国家主義は内容的価値の実体たることにどこまでも自己の支配根拠を置こうとした。幕末に日本にきた外国人はほとんど一様に、この国が精神的(スピリチュアル)君主たるミカドと政治的実権者たる大君(将軍)との二重統治の下に立っていることを指摘しているが、維新以後の主権国家は、後者及びその他の封建的権力の多元的支配を前者に向かって一元化し集中することにおいて成立した。「政令の帰一」とか「政刑一途」とか呼ばれるこの過程においては権威は権力と一体化した。そうしてこれに対して内面的世界の支配を主張する教会的勢力は存在しなかった。やがて自由民権運動が華々しく台頭したが、この民権論とこれに対して「陸軍及ひ警視の勢威ヲ左右二堤ケ凛然トシテ下二臨ミ民心ヲシテ戦慄」(岩倉具視)せしめんとした在朝者との抗争は、真理や正義の内容的価値の決定を争ったのではなく、「上君権ヲ定メ下民権ヲ限リ」といわれるように、もっぱら個人乃至国民の外部的活動の範囲と境界をめぐっての争いであった。凡そ近代的人格の前提たる道徳の内面化の問題が自由民権論者に於いていかに軽々に片づけられていたかは、かの自由党の闘将河野広中が自らの思想的革命の動機を語っている一文によく表れている。その際決定的影響を与えたのはやはりミルの自由論であるが、彼は、「馬上ながらこれを読むに及んでこれまで漢学、国学にて養はれ動もすれば攘夷をも唱えた従来の思想が一朝にして大革命を起こし、忠孝の道位を除いたただけで、従来もっていた思想が木っ端みじんの如く打ち壊かかると同時に、人の自由、人の権利の重んずべきことを知った。」(「河野播州伝」)
と言っている。主体的自由の確立に於いてまっさきに対決されるべき「忠孝」観念が、そこでは最初からいとも簡単に考慮から「除」かれており、しかもそのことについて何等の問題性も意識されていないのである。このような「民権」論がやがてそれが最初から随伴した「国権」の中に埋没したのは必然であった。斯くしてこの抗争を通じて個人自由は遂に良心に媒介されることなく、従って国家権力は自らの形式的妥当性を意識するに至らなかった。そうして第一回帝国議会の召集を目前に控えて教育勅語が発布されたことは、日本国家が倫理的実体として価値内容の独占的決定者たることの公然たる宣言であったといっていい。
果たしてまもなく、あの明治思想界を貫流するキリスト教と国家教育との衝突問題が正にこの教育勅語をめぐって囂囂の論争を惹起したのである。「国家主義」という言葉がこの頃から瀕雑に登場し出したということは興味深い。この論争は日清・日露両役の挙国的興奮の波の中にいつしか立ち消えになったけれども、ここに潜んでいた問題は決して解決されたのではなく、それが片づいたかのように見えたのはキリスト教徒の側で絶えずその対決を回避したからであった。今年初頭の詔勅で天皇の神聖が否定されるその日まで、日本には信仰の自由はそもそも存立の地盤が無かったのである。信仰のみの問題ではない。国家が「国体」に於いて真善美の内容的価値を占有するところには、学問も芸術もそうした価値体系への依存より他に存立しえないことは当然である。しかもその依存は決して外部的依存ではなく、むしろ内面的なそれなのだ。国家のための芸術、国家のための学問という主張の意味は単に芸術なり学問なりの国家的実用性の要請ばかりではない。何が国家のためなのかという内容的な決定をば「天皇陛下及び天皇陛下の政府に対し」(官吏服務紀律)忠勤義務をもつところの官吏が下すという点にその核心があるのである。そこでは、「内面的に自由であり、主観のうちにその定住(ダーザイン)を持っているものは法律の中に入ってきてはならない」(ヘーゲル)という主観的内面性の尊重とは反対に、国法は絶対的価値たる「国体」より流出する限り、自らの妥当根拠を内容的正当性に基礎づけることによっていかなる精神領域にも自在に浸透し得るのである。
従って国家的秩序の形式的性格が自覚されない場合は凡そ国家秩序によって捕捉されない私的領域というものは本来一切存在しないこととなる。わが国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことが未だ嘗てないのである。この点につき[臣民の道」の著者は「日常我等が私生活と呼ぶものも、畢竟これ臣民の道の実践であり、天業を翼賛し奉る臣民の営む業として公の意義を有するものである。(中略)かくて我等は私生活の間にも天皇に帰一し、国家に奉仕するの念を忘れてはならぬ」といっているが、こうしたイデオロギーは何も全体主義の流行と共に現われ来ったわけではなく、日本の国家構造そのものに内在していた。従って私的なものは、すなわち悪であるか、もしくは悪に近いものとして、何程かの後ろめたさを絶えず伴っていた。営利とか恋愛とかの場合、特にそうである。そうして私事の私的性格が端的に認められない結果は、それに国家的意義を何とかして結びつけ、それによって後ろめたさの感じから救われようとするのである。漱石の「それから」の中に、代助と嫂とが、「一体今日は何をしかられたのです」「何をしかられたんだか、あんまり要領を得ない。しかしお父さんの国家社会のために尽くすには驚いた。何でも十八の年からのべつに尽くしているんだってね」「それだから、あの位に御成になったんじゃありませんか」「国家社会のために尽くして、金が御父さんくらい儲かるなら、僕も尽くしてもよい」という対話を交わす所があるが、この漱石の痛烈な皮肉を浴びた代助の父は日本の資本家のサンプルではないか。こうして、「栄え行く道」と国家主義とは手に手をつなぎ合って近代日本を「躍進」せしめ同時に腐敗せしめた。「私事」の倫理性が自らの内部に存せずして、国家的なるものとの合一化に存するというこの論理は裏返しにすれば国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に侵入する結果となるのである。
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国家主権が精神的権威と政治的権力を一元的に占有する結果は、国家活動はその内容的正当性の基準を自らの内に(国体として)、従って国家の対内及び対外活動は何ら国家を越えた一つの道義的基準には服しないということになる。こう言うと人は直ちにホッブズ流の絶対主義を思い起こすかも知れない。しかしそれとこれとは截然と区別される。「真理ではなくして権威が法を作る」というホッブズの命題に於ける権威とはその中に一切の基準的価値を内包せざる純粋の現実的決断である。主権者の決断によってはじめて是非善悪が定まるのであって、主権者が前以て存在している真理乃至正義を実現するのではないというのがリヴァイアサンの国家なのである。したがってそれは法の妥当根拠をひたすら主権者の命令とイウ形式に係わらしめる事によって却って近代的法実証主義への道を開いた。例えば、フリードリッヒ大王のプロシア国家にしてもこうしたホッブズ的絶対国家の嫡流であり、そこでは正統性は究極に於いて合法性の中に解消しているのである。
ところが、わが国家主権は前述した通り決してこのような形式的妥当性に甘んじようとしない。国家活動が国家を越えた道義的基準に服しないのは、主権者が「無」よりの決断者だからではなく、主権者自らのうちに絶対的価値が体現しているからである。それが「古今東西を通じて常に真善美の極致」とされるからである。(荒木貞夫「皇国の軍人精神」)したがってここでは、道義はこうした国体の精華が、中心的実体からか文章渦紋状に世界に向かって広がっていくところにのみ成立つのである。「大義を世界に布く」といわれる場合、大義は日本国家の活動の前に定まっているのでもなければ、その後に定まるのでもない。大義と国家活動とは常に同時存在なのである。大義を実現するために行動するわけだが、それと共に行動することが即ち正義とされるのである。「勝った方がええ」というイデオロギーが「正義は勝つ」というイデオロギーと微妙に工作している所に日本の国家主義論理の特質が露呈している。それ自体「真善美の極致」たる日本帝国は、本質的に悪を為し能わざるが故に、いかなる暴虐なる振る舞いも、いかなる背信的行動も許容されるのである。
こうした立場はまた倫理と権力の相互移入としても説明されよう。国家主権が倫理性と実力政の究極的源泉であり、両者の即自的統一である処では、倫理の内面化が行われぬために、それは絶えず権力化への衝動を持っている。倫理は個性の奥深き底から呼びかけずして却って直ちに外的な運動として押し迫る。国民精神総動員という如きがそこでの精神運動の典型的なあり方なのである。
前述のキリスト教と教育勅語の問題から神道祭天古俗説、咢堂の共和演説を経て天皇機関説問題に至るまで、一度国体が論議されるや、それは直ちに政治問題となり、政治的対立に移行した。「国体明徴」は自己批判ではなくして、ほとんど常に他を圧倒するための政治手段の一つであった。これに対して純粋な内面的な倫理は絶えず「無力」を宣告され、しかも無力なるが故に無価値とされる。無力ということは物理的に人を動かす力がないと言うことであり、それは倫理なり理想なりの本質上然るのである。然るに倫理がその内容的価値に於いてでなくむしろその実力性に於いて、言い換えればそれが権力的背景を持つかどうかによって評価される傾向があるのは畢竟、倫理の究極の座が国家的なるものにあるからにほかならない。こうした傾向がもっともよく発現されるのは国際関係の場合である。例えば次の一文を見よ。
「わが国の決意と武威は、彼らをして何らの制裁に出づることあたわざらしめた。わが国が脱退するや、連盟の正体は世界に暴露せられ、ドイツも同年秋に我跡を追って脱退し、遅れてイタリアもまたエチオピア問題に機を捉えて脱退の通告を発し、国際連盟はまったく虚名のものとなった。斯くして我国は昭和六年の秋以来、世界維新の陣頭に立って巨歩を進め来っている。」(「臣民の道」)
ここでは連盟が制裁を課する力がなかったことに対する顕な嘲笑と、反対に「機を捉えた」イタリアの巧妙さに対する暗々裡の称賛とが全体の基調をなしている。連盟の「正体」なり、イタリアの公どうなりは、何らその内在的価値によってではなく、もっぱらその実力性と駆け引きの巧拙から批判されているのである。これが「教学」の総本山たる文部官僚の道義感に於ける他の側面だったのである。しかもこうして倫理が権力化されると同時に、権力もまた絶えず倫理的なるものによって中和されつつ現われる。公然たるマキャヴェリズムの宣言、小市民的道徳の大胆な蹂躙の言葉は未だ嘗てこの国の政治家の口から漏れたためしは無かった。政治的権力がその基礎を究極の倫理的実体に仰いでいる限り、政治の持つ悪魔的性格は、それとして率直に承認されえないのである。
この点でもまた東と西は鋭く分かれる。政治は本質的に非道徳的なブルータルなものだという考えがドイツ人の中に潜んでいることをトーマス・マンが指摘しているが、こういう突き詰めた認識は日本人には出来ない。ここには真理と正義にあくまで忠実な理想主義的政治家が乏しいと同時に、チェザーレ・ボルジャの不敵さもまた見られない。慎ましやかな内面性もなければ、むき出しの権力性もない。すべてが騒々しいが、同時にすべてが小心翼々としている。この意味に於いて、東条英機氏は日本的政治のシンボルと言い得る。そうしてかくの如き権力の言わば矮小化は政治的権力に止まらず、凡そ国家を背景とした一切の権力的支配を特質づけている。
例えば今次戦争に於ける俘虜虐待問題を見よう。(戦場に於ける残虐行為についてはやや別の問題としてのちに触れる)収容所に於ける俘虜殴打等に関する裁判所報告を読んで奇妙に思うのは、被告がほとんど異口同音に、収容所の施設改善に努めたことを力説していることである。私はそれは必ずしも彼らの命乞いのための詭弁ばかりとは思わない。彼らの主観的意識に於いては確かに待遇改善に努めたと信じているに違いない。彼らは待遇を改善すると同時に殴ったり、蹴ったりするのである。慈善行為と残虐行為とが、平気で共存し得る所に、倫理と権力との微妙な交錯現象が見られる。軍隊に於ける内務生活の経験者は這般の事情を察し得るであろう。彼らに於ける権力的支配は心理的には強い自我意識にもとづくのではなく、むしろ国家権力との合一化に基づくのである。従ってそうした権威への依存性から放り出され見っ子の人間に返ったときの彼らは何と弱々しく哀れな存在であることよ。だから戦犯裁判に於いて、土屋はアオザメ、古島は泣き、そうしてゲーリングは哄笑する。後者のような傲然たるふてぶてしさを示すものが名だたる巣鴨の戦犯容疑者に幾人あるだろうか。同じ虐待でもドイツの場合のように俘虜の声明を大規模にあらゆる種類の医学的実験の材料に供するというような冷徹な「客観的」虐待は少なくも我国の虐待の「範型」ではない。彼の場合にはむろん国家を背景とした行為ではあるが、そこでの虐待者との関係はむしろ、「自由なる」主体ともの(Sache)とのそれに近い。これに反して日本の場合はどこまでも優越的地位の問題、つまり究極的価値たる天皇への相対的な近接の意識なのである。
しかもこの究極的実体への近接度ということこそが、個々の権力的支配だけでなく、全国家機構を運転せしめている精神的起動力にほかならぬ。官僚なり、軍人なりの行為を制約しているのは少なくも第一義的には合法性の意識ではなくして、より優越的地位に立つもの、絶対的価値体により近いものの存在である。国家秩序が自らの形式性を意識しない所では、合法性の意識もまた乏しからざるを得ない。法は抽象的一般者として治者と被治者を共に制約するとは考えられないで、むしろ天皇を長とする権威のヒエラルヒーに於ける具体的支配の手段に過ぎない。だから違法性という事はもっぱら下のものへの要請である。軍隊内務令の繁雑な規則の適用は上級者へ行くほどルーズとなり、下級者ほどより厳格となる。刑事訴訟法の検束、拘留、予審等々の規定がほかならぬ帝国官吏によってもっとも露骨に蹂躙されていることは周知の通りである。具体的支配関係の保持強化こそが眼目であり、そのためには遵法どころか、法規の末節にとらわれるなということが繰り返し検察関係に対して訓示されたのである。したがってここでの国家的社会的地位の価値基準はその社会的職能よりも、天皇への距離にある。ニーチェは、「隔たりのパトス」ということを持って一切の貴族的道徳を特質づけているが、我国に於いては「卑しい」人民とは隔たっているという意識が、それだけ最高価値たる天皇に近いのだという意識によって更に強化されているのである。
かくして「皇室の藩屏」たることが華族の矜持であり、[天皇親率の軍隊たることに根拠付けられた]統帥権の独立が軍部の生命線となる。そうして支配層の日常的モラルを規定しているものが抽象的法意識でも内面的な罪の意識でも、民衆の公僕概念でもなく、このような具体的感覚的な天皇への親近感である結果はそこに自己の利益を天皇のそれと同一化し、自己の反対者を直ちに天皇に対する侵害者と見做す傾向が自ら胚胎するのは当然である。藩閥政府の民権運動に対する憎悪乃至恐怖感には確かにかかる意識が潜んでいた。そうしてそれはなお今日まで、一切の特権層の中に脈々と流れているのである。
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職務に対する矜持が、横の社会的分業意識よりも、むしろ縦の究極的価値への直属性の意識に基づいているということから生ずる諸々の病理的現象は、日本の軍隊がほとんど模範的に示してくれた。軍隊はその一切の教育方針を挙げてこうした意味でのプライドの養成に集中したといっていい。それはまず、「軍人は国民の精華にして其の主要部を占む」(軍隊教育令)として、軍を国家の中枢部に置いた。軍人の「地方人」に対する優越感はまがいもなく、その皇軍概念に基づいている。しかも天皇への直属性ということから、単に地位的優越だけでなく、一切の価値的優越が結論されるのである。
例えば荒木貞夫男爵によれば、軍隊出身者はしばしば正直過ぎるという世評を受けるが、「此等の批評の反面には、一般社会の道徳の水準が軍隊内のそれと相当の差があって、軍隊出身者にとって方今の社会生活に多くの困難を感ずるもののあることを物語る」のであって、したがって軍人は「一般社会精神を浄化して軍隊精神との渾一に努力」することが要請される。ところが日本国民は今度の戦争で、荒木男爵とまったく逆の意味で、軍隊内の道徳水準と一般社会のそれとの間に相当の差があることを見せつけられたのであった。また軍医大尉として永く召集されていた私のある友人の語る所によれば、軍医学の学問的水準は大学を含めて一切の「地方」の医学のそれより遥かに高いというのが、ほとんど本職の軍医の間の通説だったそうである。是ももとよりこの真面目な病理学者に従えば、事実はまったく反対であった。そうしてこのような自己中心的なプライドの高揚は軍対「地方」の間に存するだけでなく、軍そのものの内部に持ち込まれる。たとえば「作戦要務令」に、「歩兵は軍の主兵にして、諸兵種共同の核心なり」云々という言葉がある。私は朝鮮に教育召集を受けたとき、ほとんど毎日のようにこれを暗誦させられた。ある上等兵が、「いいか、歩兵は軍の主兵だぞ。軍で一番偉いんだ、『軍の主兵』とあるだろう、軍という以上、陸軍だけでなく海軍も含むんだ」といって叱咤した声がいまでも耳朶に残っている。むろんこれは本人も真面目にそう考えていたわけではないが、そういう表現のうちに軍教育を貫く一つの心的傾向といったものが抗いがたくうかがわれるのである。かくして部隊は他の部隊に対する、中隊は他の中隊に対する、内務班は他の内務班に対する優越意識を煽られると共に、また下士官には「兵隊根性」からの離脱が、将校には「下士官気質」の超越が要求される。
戦争中、軍の悪評をこの上もなく高くしたあの始末の悪い独善意識とセクショナリズムはこうした地盤から醗酵した。一人軍隊だけでなく、日本の官公庁を貫流するこのようなセクショナリズムはしばしば「封建的」と性格づけられているが、単にそれだけではない。封建的割拠性は銘々が自足的閉鎖的世界にたてこもろうとするところに胚胎するが、上のようなセクショナリズムは各分野が夫々縦に究極的権威への直結によって価値づけられている結果、自己を究極的実体に合一化しようとする衝動を絶えず内包しているために、封建的なそれより張るかに活動的かつ「侵略」的性格を帯びるのである。自らはどこまでも統帥権の城塞に拠りつつ、総力戦の名に於いて国家の全領域に干与せんとした軍部の動向が何よりの証示である。
このようにして、全国家秩序が絶対的価値体たる天皇を中心として、連鎖的に構成され、上から下への支配の根拠が天皇からの距離に比例する、価値のいわば漸次的希薄化にある所では、独裁観念は却って生長しがたい。なぜなら本来の独裁観念は自由なる主体意識を前提としているのに、ここでは凡そそうした無規定的な個人というものは上から下まで存在しえないからである。一切の人間乃至社会集団は絶えず一方から規定されつつ他方を規定するという関係に立っている。戦時中に於ける軍部官僚の独裁とか、専横とかいうことが盛んに問題とされているが、ここで注意すべきなのは、事実もしくは社会的結果としてのそれと意識としてのそれとを混同してはならぬという事である。意識としての独裁は必ず責任の自覚と結びつくはずである。ところがこうした自覚は軍部にも官僚にも欠けていた。ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているに違いない。然るに我国の場合は、これだけの大戦争を起こしながら、吾こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何者かに押されつつ、ズルズルと国を挙げての戦争の渦中に突入したというこの驚くべき自体は何を意味するか。わが国の不幸は寡頭勢力によって国政が左右されていただけではなく、寡頭勢力がまさにその事の意識なり自覚なりを持たなかったということに倍加されるのである。各々の寡頭勢力が、被規定的意識しか持たぬ個人より成立っていると同時に、その勢力自体が、究極的権力となりえずして今日局的実体への依存の下に、しかも各々それぞれへの近接を主張しつつ併存するという事態ーーさるドイツ人のいわゆる併立の国ーーがそうした主体的責任意識の成立を困難ならしめた事は否定できない。第八十一議会の衆議院戦時行政特例法委員会で、首相の指示権の問題について、喜多壮一郎氏から、それは独裁と解してよいかと質問されたのに対し、
「独裁政治ということが良く言われるがこれを明確にして置きたい。(中略)東條というものは一個の草莽の臣である。あなた方と一つも変わりがない。ただ、私は総理大臣という職責を与えられている、ここで違う、これは陛下の御光を受けてはじめて光る。陛下の御光がなかったら石ころにも等しいものだ。陛下のご信任があり、この位置についているが故に光っているのである。そこが所謂独裁者と称するヨーロッパの諸公とは趣を異にしている。(昭和18年2月6日)」と答えているのは、それがまさに空前の権限を握った首相の言だけに極めて暗示的といえる。そこには上に述べた究極的権威への親近性による得々たる優越意識と同時に、そうした精神的重みをすぐ頭の上に感じている一人の小心な臣下の心境が吐露されているのである。
さてまた、こうした自由なる主体的意識が存せず各人の制約を自らの良心のうちに持たずして、より上級のもの(したがって究極的価値に近いもの)の存在によって規定されていることからして、独裁観念に変わって抑圧の以上による精神的均衡の保持とでも言うべき現象が発生する。上からの圧迫感を下への恣意の発揮に順次に移譲して行くことによって全体のバランスが維持されている体系である。これこそ近代日本が封建社会から受け継いだもっとも大きな「遺産」の一つということが出来よう。福沢諭吉は「開闢の初めよりこの国に行わるる人間交際の定則」たる権力の偏重という言葉で巧みにこの現象を説いている。曰く
「上下の名分判然としてその名分と共に権義をも異にし一人として無理を蒙らざるものなく一人として無理を行わざる者なし無理に抑圧されせられまた無理に抑圧しこれに向かって屈すれば彼に向って矜る可し(中略)前の恥辱はのちの愉快に由って償い以て其の不満足を平均し(中略)恰も西隣へ貸したる金を東隣へ催促するが如し。」(文明論概略)ここでも人は軍隊生活を直ちに連想するに違いない。しかしそれは実は日本の国家秩序に隅々まで内在している運動法則が軍隊に於いて集中的に表現されたまでのことなのである。近代日本は封建社会の権力の偏重をば、権威と権力の一体かによって整然と組織立てた。そうしていまや日本が世界の舞台に登場すると共に、この「圧迫の移譲」原則はされに国際的に延長せられたのである。維新勅語に燃え上がったせいかんろんその後の台湾派兵などは、幕末以来列強の重圧を絶えず身近に感じていた日本が、統一国家形成を機に一躍西欧帝国主義の細やかな模倣を試みようとしたもので、そこに「西隣へ貸したる金を東隣へ催促」せんとする心理が流れていることは否定できない。思えば明治以後今日までの外交交渉に於いて対外硬論は必ず民間からでていることも示唆的である。更に我々は、今次の戦争に於ける、中国や比律賓での日本軍の暴虐な振る舞いについても、其の責任の所在はともかく、直接の下手人は一般兵隊であったという痛ましい事実から目を覆ってはならぬ。国内では「卑しい」人民であり、営内では二等兵でも一度外地に赴けば、皇軍として究極的価値と連なることによって限りなき優越的地位に立つとき、己にのし掛かっていた全重圧から一挙に解放されんとする爆発的な衝動に駆り立てられたのは怪しむに足りない。彼らの蛮行はそうした乱舞の悲しい記念碑ではなかったか。
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ところが超国家主義にとって権威の中心的実体であり、道徳の泉源体である所の天皇は、しからば、この上級価値への順次的依存の体系に於いて唯一の主体的自由の所有者なのであろうか。近世初期のヨーロッパ絶対君主は中世自然法に基づく支配的契約の制約から解放されて自らの秩序の擁護者から其の作為者に高めたとき、まさに近世史上最初の「自由なる」人格として現われた。しかし明治維新に於いて精神的権威が政治的権力と合一した際、それはただ「神武創業の古」への復帰とされたのである。天皇はそれ自身究極的価値の実体であるという場合、天皇は前述した通り、決して無よりの価値の創造者なのではなかった。天皇は万世一系の皇統を承け、皇祖皇宗の遺訓によって統治する。欽定憲法は天皇の主体的製作ではなく、まさに「統治の洪範を紹述」したものとされる。かくて天皇も亦、無限の古にさかのぼる伝統の権威を背後に負っているのである。天皇の存在はこうした祖宗の伝統と不可分であり、皇祖皇宗もろとも一体となってはじめて上に述べたような内容的価値の絶対的体現と考えられる。天皇を中心とし、それから様々の距離において万民が翼賛するという事態を一つの同心円とするならば、その中心は点ではなくして実はこれを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。そうして中心からの価値の無限の流出は縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである。
かくていまや超国家主義の描く世界像はようやくその全貌を露にするにいたった。中心的実体からの距離が価値の基準になるという国内的論理を世界に向かって拡大するとき、そこに「万邦各々其の所をえしめる」という世界政策が生まれる。「万国の宗国」たる日本によって各々の国が身分的秩序のうちに位置づけられることがそこでの世界平和であり、「天皇の御稜威が世界万邦に光被するに至るのが世界史の意義であって其の光被はまさしく皇国武徳の発現として達成されるのである」(佐藤通次)従って万国を人等しく制約する国際法のごときは、この絶対的中心の存在する世界では存立の余地は無く、「御国の道に則った、御稜威のみ世界を光被することになれば、国際法などはあり得ない。」ということになる。山田孝雄博士は肇国神話に現存性を説いて、
「二千六百年前に事実がこれを輪切りにすれば中心の年輪として存在している・・・だから神武天皇様の御代のことは昔話としてでなく、現に存在しているのである」といわれた。(中央公論)まことに「縦軸(時間性)の延長即ち円(空間性)の拡大」という超国家主義論理の巧妙な表現というべきである。
「天壌無窮」が価値の妥当範囲の絶えざる拡大を保障し、逆に「皇国武徳」の拡大が中心価値の絶対性を強めて行く---この循環過程は、日清・日露・戦争より満州事変・支那事変を経て太平洋戦争に至るまで螺旋的に高まって行った。日本軍国主義に終止符が打たれた八・一五の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体が其の絶対性を喪失し今や始めて自由なる主体となった日本国民に其の運命を委ねた日でもあったのである。(1946)
共同幻想論
角川文庫のための序
・・・
国家は幻想の共同体だという考えを、わたしははじめにマルクスから知った。だが、この考えは西欧的思考に深く根ざしていて、もっと源泉がたどれるかも知れない。この考えにはじめて接したときわたしは衝撃を受けた。それまでわたしが漠然と持っていたイメージでは、国家は国民のすべてを足下まで包み込んでいる袋みたいなもので、人間は一つの袋から別の一つの袋へ移ったり、旅行したり、国籍を変えたりできても、いずれこの世界に存在している限り、人間は誰でも袋の外に出る事は出来ないと思っていた。わたしはこういう国家概念が日本を含むアジア的な特質で、西欧的な概念とまったく違うことを知った。
まずわたしが驚いたのは、人間は社会の中に社会を作りながら、実際の生活をやっており、国家は共同の幻想としてこの上に聳えているという西欧的なイメージであった。西欧ではどんなに国家主義的な傾向になったり、民族本意の主張がなされる場合でも、国家が国民の全体をすっぽり包んでいる袋のようなものだというイメージで考えられてはいない。いつでも国家が社会の上に聳えた幻想の共同体であり、わたしたちがじっさいに生活している社会よりも小さくて、しかも社会から分離した概念だと見なされている。
ある時この国家のイメージの違いに気付いたとき、わたしは蒼ざめるほどの衝撃を受けたのを覚えている。同時に同じ国家と言う言葉で、これほどまで異質なイメージが描かれる事に深い関心をそそられた。こういうことがもっと早く分かっていたら、国家の間に起る争いは、別な目で見られたろうにと考えられたのである。こういう西欧とアジアにおける国家のイメージの差異を、確かに把握していたのだろうか。そしてその上で、自分の思考や行動を律していたのであろうか。いまでもわたしには尽きない謎のような気がしている。
国家は共同の幻想である。風俗や宗教や法もまた共同の幻想である。もっと名付けようもない形で、習慣や民族や土俗敵侵攻が絡んで長い年月に作り上げた精神の慣性も、共同の幻想である。人間が共同の仕組みやシステムを作って、それが守られたり流布されたり、慣行となったりしているところでは、何処でも共同の幻想が存在している。そして国家成立以前にあったさまざまな共同の幻想は、たくさんの宗教的な習俗や、倫理的な習俗として存在しながら、ひとつの中心に凝集して行ったに違いない。この本で取り扱われたのはそういう主題であった。
もう一つ西欧の国家概念でわたしを驚かせたことがある。それは国家が目に見えない幻想だというそのことである。わたしたちの通念では国家は目に見える政府機関を中心において、ピラミッドのように国土を限ったり、国境を接したりして目の前にあるものである。けれど政府機関を中心とする政治制度のさまざまな具体的な形、それを動かしている官吏は、ただ国家の機能的な形態であり、国家の本質ではない。もとをただせば国家は一定の集団を作っていた人間の観念が、次第に析離(アイソレーション)していった共同性であり、目に見える建物や政府間の人間や法律の条文ではない。こういうことが分かったとき、目から鱗が落ちるような気がしたのである。以来わたしこの考えから逃れられなくなった。
どうしてわたしたちは国家と言う概念に、同胞とか血のつながりのある親和感とか、同じ顔立ちや皮膚の色や言葉を喋る何となく身内であるものの全体を含ませてしまうのだろうか。最小限、国家を相手に損害補償の訴訟を起こしたといった場合の国家さえ、思い浮かべようとしないのだろう。それでいて他方ではどういう党派に変わるとか、どういう政策に転換したとかいうことに、一行関心を示さずに放任したまま平気なのはなぜなのか。こういった疑問にも、どこか納得のいく回答を見つけたいと思った。これもまたこの本の主題のかげに、いつも離れないわたしのモチーフであった。
・・・・
昭和56年10月25日
日本のナショナリズム
吉本隆明
一前提
「ナショナリズム」という時、ひとによってさまざまな陰りをこめて語られる。社会学・政治学の範疇では、世界史が資本制に入ってから後に形成された近代国家そのものを単元として、社会や政治の世界的な諸現象を考える立場を指している。
しかし、「ナショナリズム」という言葉が、世界史の尖端に遅ればせに登場した国家・諸民族によって考えられる場合、民俗至上主義、排外主義、民族独立主義、民族的革命主義などの、さまざまな陰りを含めて語られる。そこではすでに規定そのものが、無意味なほどである。
さらにこれが、「日本のナショナリズム」として、明治以後の日本近代社会に起った諸現象について語られるとき、もちろんこの場合でも、桑原健男、加藤周一その他におけるように、近代日本資本主義社会の体制的表現としてのナショナリズムの意味で使われ、その再認識が語られるばあいがないわけではない。しかし大抵は、日本のナショナリズムは、天皇制を頂点とする排外主義、帝国主義、膨張主義の権化としてリベラリスト、進歩主義者、「マルクス主義」者の指弾の対象として取り上げられるか、あるいはこの反動として日本近代天皇制トオタリズムの再評価すべきゆえんとして語られるか、である。さらに「日本のナショナリズム」が、政治や社会の諸現象のレベルを離れて、体験のレベルとして、それぞれの個人によって語られるや否や、あらゆる議論は、冷静さを失い、その様相は一変する。つまり「日本のナショナリズム」は、まだ論理的な対象として分離されない段階であることが分かる。
現在の四十代は、戦前リベラリスト・古典マルクス主義者・によって、日本のナショナリズムが語られるとき、秘すべき加担の罪意識が存在する恥部と、抑圧された被害者意識として誇張すべき装飾の部分とが錯合して、ほとんど絶対悪の象徴としてあらわれる。三十年代半ばから二十年代後半の世代によって語られるとき、強烈な絶対否定と、それを無視して思想・政治史を語ることかは、青春そのものの喪失であるという意識との絶対矛盾としてあらわれる。これは、この年代のリベラルな者(言い換えれば上・中流知識人の子弟)にとってもさほど変わりが無いと思う。二十年代前半以後の年代に日本の「ナショナリズム」が語られるとき、芋粥をすすったととか戦争は面白かったとか、疎開は辛かったとかいう幼年期の無意識的な体験としてのみあらわれるか、たとえば石原慎太郎や大江健三郎のように夢や憧れであったり、近代国家主義として活力を与えるもので当たり、あるいは全くの関心の外にあらわれるか、あるいは戦後スターリニストがふりまいた伝説にかぶれて絶対悪の象徴であるか、のいずれかである。この年代まで下がると桑原武夫や加藤周一などの「ナショナリズム」の再評価が、ある断絶を持ちながらも受け入れられる基盤が部分的には存在している。
個人的な体験から世界観に亘るこの思想性の錯綜を考慮に入れた上で、日本の「ナショナリズム」を系譜としてとりだすことは不可能であると思われる。止むを得ず、私の問題意識をもとにして、これに接近する他はない。
私がもっとも関心を持つのは決して「自ら書く」という行為では語れらない大衆の「ナショナリズム」である。この関心は「沈黙」から「実生活」へという流れの中出来えてしまってほとんど解き明かす手段がない。戦後のナって、戦没学生の手記、戦没した農民の手記、疎開児童の記録、主婦の体験談といったものが公刊された。編者達の作為を別にしても「書く」という行為と修練に参加したとき、既にこれらの大衆にとらえられたナショナルな体験の意味は、沈黙の行為から実生活へと流れる大衆そのものの思考とは違ったものとなっている。ここから日本大衆の「ナショナリズム」に対する思考をくみ取ることは、ある保留を必要としているのである。
「書く」大衆と、大衆それ自体との厳密な、そして決定的な相違の意味は生活記録論やプラグマティズムによっては良くとらえられていない。現実上の体験と、その体験を記録することの間には千里の隔たりがあると言うことが極めて重要な意味を持つのだが、大衆の現実体験や体験思想の記録の編者達は、おおく実用主義的であるためこれらの記録に表れた体験と思想を、そのまま大衆の体験と思想のように考えて取り扱おうとする。ここから、ある種の虚像が得られる可能性がある。
言語を伝達として捉えるのと同じように、「書く」という行為と、現実的「行為」の概念との間の違いは、本質的には生活記録論、プラグマティズムによっては捉えられていない。久野収・鶴見俊輔「現代日本の思想」の中で、著者達は日本のプラグマティズムとしてーー生活綴り方運動を取り上げている。まず著者達は、バースのプラグマティズム格言の説明から入る。ある概念は、それが人間の行動に対してどんな影響を与えるかを考えたとき、そのようにして想像される影響の総体が、ある概念の意味の全部である、というマクシムに、プラグマティズムの本質があるとする。日本の生活綴り方・生活記録の方法はこの逆で「書く」という行動の積み重なりが新しく現実的行動へと流れて、それが積み重なりさらに「こう書こう」という形で展開すると説明している。そして今日の膨大なマス・コミュニケーション下では新しいプラグマティイク・マクシムが必要だとして著者達は次のように述べている。
「マス・コミュニケーションによって与えられ得た揮毫の意味を計るのに、われわれはその記号が、どんな階級利害を持つ集団によって、どんな階級目標に向かって用いられているかを計らねばならず、またわれわれ権力階級以外の諸集団の力が、その記号を目標からどの程度にそらして使いえる条件にあるかを合わせて計らねばならぬ。こうして記号の意味は、一定の条件の変化と共に絶えず外気の温度を測る必要があるのと同じく、繰り返し改訂を必要とする、現在から未来へかけての歴史的傾向の予測として計ることができる。
しかし、このようなプラグマティズムのマクシムが承認されるためには二つの前提がいる。一つは「書く」ということと、「話す」ということとを同一のレベルにあると見做すことである。さらにもう一つは「大衆」という概念を、マスコミュニケーション下に自ら登場する「知的大衆」と同一と見做し、マスコミュニケーション下に自ら登場することを、言い換えれば知識人に近づく方向を高次にあるものと見做すことである。わたしは「大衆」をそういうものとして捉えることに反対する。「大衆」を依然として常圧的に「話す」から「生活する」(行為する)という過程を、自ら下降し意識化するとき、権力を越える高次に「自立」するものと見做す。私が解体期スターリニズムや硬化スターリニズム
に反対するのは、その思想の基本構造にどうしても鶴見の予見するプラグマティズムとの混合の傾向を含むからである。かくして「大衆」の原イメージは決してマス・コミ下には登場しない「マス」そのものをさす。
このようにして、大衆のナショナルな体験と、大衆によって把握された日本の「ナショナリズム」は、再現不可能性の中に実相があるものと見做される。このことは大衆がそれ自体としてな、すべての時代を通じて歴史を動かす要因であったにもかかわらず、歴史そのものの中に虚像として以外に登場しえない所以であるということがで切る。しかしある程度、これを実像として再現する道は私たち自体の中にある大衆としての生活体験と思想体験を、いわば「内観」することから始める以外にあり得ないのである。
大衆の現実上の体験思想から、ふたたび生活体験へと繰り返されて、消えてゆく無意識的な「ナショナリズム」は、もっと良くその鏡を支配者の思想と支配の様式の中に見いだされる。歴史のどのような時代でも、支配者が支配する方法と様式は、大衆の即時体験と体験思想を逆さにもって、大衆を抑圧する強力とすることである。
このような問題意識に対して知識人とは、大衆共同性から上昇的に疎外された大衆であり、同じように支配者から下降的に疎外された大衆であるものとして機能する。私たちは、日本の「ナショナリズム」を、この大衆「ナショナリズム」と、そこから上昇的に疎外された知識人の「ナショナリズム」と、大衆「ナショナリズム」の逆立ちした鏡としての支配者の「ナショナリズム」に区別した位相で、つねに史的な考察の対象としなければならないのである。このような位相からは、ある時代のある文化のヒエラルヒイは、大衆そのものからの、湾曲を意味している。ただこの湾曲を通してしか、ある時代思想は進められることはないのである。文化を主軸とすればもちろん、歴史体験を主軸とするとき、つねに大衆それ自体は、決して舞台に登場することのない主役としての存在であろうか。この問は切実である。
歴史の動員でありながら、歴史の記述には決して登場することのない貌が無数にある。これを捉える方法は、大衆路線でもなければ民族路線でもない。また、逆に大衆それ自体を、文化の中に引き入れる啓蒙主義でもない。私はプラグマティズムも、解体期スターリニズム、硬化スターリニズムも、すべて無効であることがやがて実証されると考えている。
二、大衆ナショナリズムの原像
ここでまず欲しいのは、ただ存在するものとしての日本の大衆「ナショナリズム」とはなにかである。しかし、わたしが手に入れうるのは、支配の形で逆立ちしている大衆の存在の様式と、「書く」という形で存在している大衆から隔絶された大なり小なり知識人の「ナショナリズム」の記述である。プラグマティズムと現今流行のプラグマ=マルクス主義とは、ともすれば、大衆がその現実体験を記述したとき、それを体験そのものと同一視したがる。しかし、大衆自体は、記述者として参加するや否や大なり小なり知識人となって自己離脱するものであって、そこには、どのような等価関係もないのである。このことははっきりさせておかないと、多くの誤解が生まれる。
大衆それ自体が残してきた、戦争死や殺害や弾痕や、家屋や工場や廃虚が、明治以後アジア地域のいたるところで、また日本列島のいたるところで見つけられる。彼らは現実的行為によってそれを残し、それをつくり、破壊をさえもつくった。ある種の日本ナショナリズムの研究者達が、これらの「遺跡」に、大衆の「ナショナリズム」の実体を見ようとしたのは根拠がないわけではない。敗戦後、東京裁判で連合国はここにウルトラ化した日本「ナショナリズム」の有罪を見つけ出した。東条英機は、逆にその裁判で胸を反らして、もし連合国に自らの罪なしというものがあれば、屋上に立って東京の市街の廃虚のあとを一望するが良かろう、そこに大衆が鯉に油を注がれ、爆弾をうちこまれて殺害されたあとを見ることができるはずだ、と反論した。
日本「ナショナリズム」の「功罪」を論ずるという意味での、支配者の罪と大衆の罪とは、そういう「遺恨の跡」によっても、ある程度には抽出することができるものである。しかし日本「ナショナリズム」の支配者における罰、大衆における罰、日本知識人の無力と傍観と便乗における罰は、それによって計ることは出来ない。われわれはどのように罰せられたか、支配者はどのように罰せられたか、抵抗者と称するペテン師どもは、いかに罰せられたか。まるでドブ泥をのぞき見るように、彼らとわれわれの内部にのぞいて見る他はないのだ。
現在に至るまで、私たちは、日本ナショナリズムの罰について、良く論じられ、書かれた文書を知らない。罰が本質的に問われないところで,罰は本質的に提出されるはずがないのである。
このような状況の中で、戦後私どもが体験してきた思想の葛藤図は、相互に写しあう鏡の交代であった。そこでは、生き残ったくせに死者である大衆に対して、自己の罪と罰とを対置することを知らぬスターリニズム左翼・リベラリスト、そして死にきることが出来なかった右翼の惨めな思想上の生存競争が演じられただけである。どのような勢力が勝利を占めたとて、そんなことに何の思想上の意味もない。たとえば、現在の林房雄の「大東亜戦争肯定論」は、コミンターン式インターナショナリズムを映す鏡である。労農派といい、講座派といい、神山派といい、すべてこの古いインターナショナリズムの外に立つものではない。羽仁五郎のような老いぼれが現在、威張る理由はどこにもないのだ。福田恆存の「平和論の進め方に対する疑問」は、みずからの罰を内部にのぞき見ることをしなかった、もう戦争はゴメンだ式のリベラリストの平和論と、原水爆は人道に対する罪だ式の構改派平和運動論の鏡である。保守派は進歩派の鏡である。竹内好・堀田善衛・武田泰淳式の中国・東南アジア後進国ナショナリズムに対する罪意識は、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ後進地域に置ける民族解放運動に、現代革命の主要な問題があるとする中国共産党の誤謬を映す鏡である。愚劣さは愚劣さの鏡である。馬鹿を思想的に生かしているのは、思想的な馬鹿である。誤謬を組織的に生かしているのは、「無関心なものの無関心な共謀」である。「連帯」論を盛り場のバー・サロンの妥協として生かしているのは、孤立者のたたかわない孤立を映す鏡である。
ところで私の鏡は何であったのか。そして現在何であるのか。
いま、幼年時の記憶の一つを思い起こしてみよう。戦前に杉本良吉という劇作家がおり、岡田嘉子という女優と一緒に、樺太の国境を越えてソ連へ逃亡した事件があり、これは当時の新聞に大きく掲載された。私が新聞を読めるようになった時期だから、小学生であったと思う。これに前後して、ソ連赤軍の極東方面の陸軍大将がソ満国境を越えて日本へ逃亡した事件があり、これも当時の新聞に大きく掲載された。同じように小学生の頃であったと思う。この二つの事件の印象を再現してみると、それは〈暗いなあ〉というものであった。この暗いなあは、日本の情勢が暗いなあという意味と、ソ連という国は暗いなあという意味が二つとも含まれていたに違いないが、前者通念として意識的なものではなかったから、ソ連という国は暗いなあ、という印象だけが、子供心に鮮やかに浮き彫りされた。当時の子供は私の小学校が所属は東京の中央にあったせいで、天皇陛下がどこかへでてゆく日には、授業をやめて出かけていき、道路に並んで最敬礼を捧げ、頭を上げることが禁じられていた時代だったから、ソ連は暗いという新聞から受けた印象が、宣伝的な印象に過ぎないとという面があったに違いない。しかし、このソ連が暗いなあという印象は、敗戦間際にソ連軍が参戦して、ソ満国境を越えた時まで一貫して変わることがなかった。宣伝、歪曲、その他一切を取り除いたあとでも、このくらいという印象は、戦後スターリン主義を考える場合の基礎をなしていた。
ところで、敗戦まもなくいわゆる「政治と文学」論争が始まったとき、平野謙派、杉本良吉が岡田嘉子と手を携えて樺太を越境してソ連へ逃げたという報道を知って、うまいことやりやがったという印象を受けた、という挿話をさしはさんでいる。私は戦後これを呼んだとき、驚きの感じを受けた。この驚きの中には、世間も広いものだなあという感懐もあれば、たった二十年足らずの年齢の違いがこうも人間の感情を狂わせることが奇跡のように思われるという点も含んでいる。私の子供心
の、ソ連は暗いなああという印象のなかに、さまざまな歪曲や、宣伝が含まれているように平野謙のうまいことやりやがったは、当時口外されることのなかった心の奥でのつぶやきであったかも知れない。しかし、歪曲や心のうわべを取り去っても、依然としてソ連は暗いなあと子供心の印象にも、戦前転向期の知識人のうまくやりやがったというつぶやきにも、動かしがたい真実の核があることは間違いない。
私は平野嫌の昭和十年前後の生活体験や生活思想と、少年の私が言わば父親の元で無意識にやっていた生活思想や体験がひどくかけ離れていたということをあまり信じていない。それにもかかわらず、暗いなあとうまくやりやがったとの間には、鏡とそれに対する像のように対極性が存在している。ゆらい、古典マルクス主義のインターナショナリズムによれば、世代論のというのはあまり人気がないらしい。故意に断層をつくりだすのだという論もある。しかし全く同じような貌で生活していた二十年も隔たらぬ人間の思想に、暗いなあとうまくやりやがったという対照性を与えるものは、日本の「ナショナリズム」がもつ煮詰められていた体験と思想に他ならないと思う。この実体を考察するには、満州事変から中日戦争、太平洋戦争へといたる時期の日本の思想を考えるのがもっとも手っ取り早い方法である。私を戦後突き動かした思想的な衝動は、煮詰められた現実(戦争)のなかで別段違った頭や行動を持っていなかったものが、心の底に、このような対照的な核を隠しているという事実であった。これを他国の体験に求めることは出来ない。またこれを無視したインターナショナルな思想は、生成と消滅を交代に繰り返すに過ぎないという確信であった。
実生活や、政治上の現実運動は、消滅したものがまたおなじ貌で再生し、また消滅するという過程を繰り返すことがありうるものである。これを良く象徴するものは、日本共産党を頂点とする「反体制」運動である。看板を底辺で支える人間は、次々と些細なことで、また死によって消滅するが、日本共産党という看板は、つねに別の人間と世代によって不死鳥のように塗り替えただけで存続する。その政策を支配するのはソ連または中共である。私が「転向論」を書いたとき、看板は残るが、それを支えた底辺は死に、または交代するというという様式を「転向」と規定せずにはどのような「転向論」も成立しないと考えざるを得なかった。私の「転向論」では、日本共産党は転向の典型としてとらえられているはずである。
しかし思想の生命は、それとは違う。それは必ず、思想を支える人間が死ねば死ぬという側面を持つものである。また、生き残った者は死者を土中に埋めて新しく再生することは出来ない。思想が生き続けるために、必ず死者の思想を包括しなければならない。包括した上で、止揚する過程がその生命に他ならない。
杉本良吉の樺太越境事件を、巧くやりやがったと考える内奥の核は、これと対照的なソ連は暗いなあという思想の核を包括しなければならない。逆もまたしかりである。
全く同じように、大衆、労働者とは時代に応じて産業報国会の傘下に包括され、あるいは古典的インターナショナリズムに包括されて揺れ動く存在であろうかという問題意識は生まれる。実はここで先の「前提」が問題となる。これは本当は大衆や労働者の問題ではなく、知識人の思想と、幾分かは大衆の存在を映す鏡としての支配者の思想である、ということを想起する必要がある。古典的インターナショナリズムと産業報国会とは、知識人ファシストと知識人スターリニストとを相互に映す鏡である。しかし大衆の生活思想や生活体験は、そのままこれらの鏡に映されものではない。大衆は映すべき鏡を自分の中に持たず、それを支配者の中に逆立ちにした形で持っているのである。産業報国会と古典的インターナショナリズムとの対立や、相互移行は知識人の問題であって、厳密には大衆そのものの問題ではない。
大衆そのものの問題は、支配形態の徐々な推移の中に逆立ちした鏡を持つものである。
思想としての大衆の「ナショナリズム」が、支配形態を越える道は一般に考えられるように、彼が知識人としてのプロレタリア「インターナショナリズム」または、知識人としての「ナショナリズム」革命思想に移行することではない。
むしろ第一前提として、思想としての知識人になることを排除することであり、知識人の思想そのものを排除することである。同じように思想としての知識人が、支配者の思想を超える道は、大衆そのものの生活思想を排除することの中に存している。レーニンの組織的な考察は、死の間際に既に実質的に知識人官僚組織の中枢を握ってしまったスターリンを弾劾したが、時既に遅かったという背理となってレーニンに円環せざるをえなかった。しかしそれにもかかわらず、私たちは、レーニン以降、それ以外のどんな組織論をも所有していない。レーニン組織論の亜流か、その対照的な鏡としてのファシズム組織論のほかには、甘ったれた学者の吐き気をもよおす統一戦線論などが幅を利かしているのである。
アイ・ジョージうたう「戦友」を、私はテレビの画面を通じてたびたび聞いた。そこにはいつも総体的な暗い感銘がある。
その歌を歌えば復古調であるといわれないか、それは好戦的と呼ばれまいか、というようなつまらぬ知識人インターナショナリズムの理念に、煩わされず、また反対にこれらのもつ事実を忘れるべきではないというような知識人の逆の意味での理念にも煩わさず、極めて自然に近く、うたっていることが、暗いが総体性のある感銘を形作っている。インターナショナリズムの立場から、ナショナリズムを評価するといった、花田清輝やその亜流のような、馬鹿げた理念からあたう限り遠ざかって、みずから良い曲と信じ、良い歌詞と信じまたみずから通過した体験を核にして、それは歌われている。この歌曲は明治三十八年に作られている。
ああ戦いの最中に
隣に居ったこの友の
にわかにはたと倒れしを
我は思わず駆け寄って
軍律厳しい中なれど
これが見捨てて
置かりょうか
「しっかりせよ」と抱き起こし
仮繃帯も弾丸の中
折りから起る突貫に
友はようよう顔あげて
「御国のためだかまわずに
後れてくれな」と目に涙
跡に心は残れども
残しちゃならぬこの体
「それじゃ行くよ」と別れたが
永の別れとなったのか
(真下飛泉「戦友」三〜六)
これをこのまま、日本の「ナショナリズム」の大衆的心情と考えると、誤解を生ずると思う。戦争はリアルなものであるから、この歌曲と同じ位相で、「友」を弾除けにして「我」は逃げるという場面が、戦争の中で何遍も繰り返されるということを、想定できるからである。しかし、知識人によってとらえられた日本「ナショナリズム」はの大衆的「連帯」の理念はこのようなものだった。そこでは「お国のため」が、個人の生死や友情と矛盾し、それを圧倒し、しかし後に余韻が残るということが表現された。この表現には、いうまでもなくその裏面に、他人のことなど己の生命のためには構っていられない、また己の利益のためには「お国のため」など構っていられないという、明治資本主義が育てた理念を、必ず付着しているものである。おそらく後年、昭和に入ってウルトラ・ナショナリズムとして結晶した天皇制イデオロギイは、己のためには「天皇」や「国体」謎は、どうなっても仕方がないという心情を、その底に隠していたのである。明治において初めに単なる裏面に付着していたにすぎない個人主義が、一つの政治理念にまで結晶せざるを得なかった実体を、私たちは、「天皇制イデオロギイ」あるいは「ウルトラ・ナショナリズム」と呼んでいる。このような自己欺瞞は、大なり小なり理念が普遍性を手に入れるためにさけることが出来ないものである。
一般的に日本の「ナショナリズム」に対立する意味でのインターナショナリズムや、日本の大衆の「ナショナリズム」に対立する意味で考えられている、大衆のインターナショナリズムは、これと対照的な意味での、政治的自己欺瞞を含むものを指している。そして、大衆のインターナショナリズムが、「ナショナリズム」に転ずる契機は、古典的に「転向」と呼ばれるものと密接な関係があり、大衆の「ナショナリズム」が、インターナショナリズムに転ずることは、一般に、大衆の古典的な政治・思想の運動と密接な関係があるものと考えられる。かつて私は「転向論」を書いたとき、このことを一つの照明点から明らかにした。
「戦友」と同じように、大衆のナショナリズムを一面からすくった心情の表現は「広瀬中佐」(大正元年)、「水師営の会見」(明治43年)、「婦人従軍歌」(明治27年)などの商家によって流布された。現在40歳を超える人たちは、大方これらの心情を肯定または反発して通過しているはずである。第二次世界大戦前の古典時代に、日本の知識人が少年期を経て長じて社会意識に目覚め、左翼イデオロギイを獲得していく場合は、一つはこのような意味で表現された大衆的「ナショナリズム」の裏面に、どれだけの虚偽が付着しているかに気づいてゆく過程としてあらわれた。言い換えれば、社会のリアリズムに目覚めていく過程として。そしてこのリアリズムが、またどれだけの虚偽をスターリニズムとして含むものであるかを知らなかったのである。
もう一つ別の、日本の大衆的な「ナショナリズム」の心情は、次のように象徴される。
柴刈り縄ない草鞋(わらじ)をつくり
親の手を助(す)け弟を世話し兄弟仲よく孝行を尽くす
手本は二宮金次郎
骨身を惜しまず仕事にをはげみ
夜なべ済まして手習読書
せわしい中にもたゆまず学ぶ
手本は二宮金次郎
家業大事に費(ついえ)をはぶき
少しの物をも粗末にせずに
ついには身を立て人をも救う
手本は二宮金次郎
(尋常小学校唱歌明治44年)
現在でも、小学校の校庭の片隅に、丁髷の少年が焚木を背負って書物を開きながら歩いている銅像が、ほこりをかぶって置かれているところがあるかも知れぬ。現在では小学生達はその銅像がなんのことか理解もしない。教師もまたそれを説明する方法を知らない。その歌曲の象徴する物は、現実としては都市下層大衆の一部、純農村の一部にしか、現在では通用しないかも知れないし、感性としてはほとんどすべて通用しなくなっている。
しかし、これは近代日本の資本主義の膨張期に、大衆によってとられた心情の「ナショナリズム」の一面を表象する。刻苦勤勉し、節約家業にはげみ、立身出世せよという意味で、二宮尊徳の伝記のなかの挿話が唱われる。曲は出処は解らぬが、ポピュラーな歌曲としていいものである。
これは「戦友」とは違って、政治に向かわずに、社会に向かう大衆の「ナショナリズム」を良く表現している。わたしの推定では現在日本の大衆は、刻苦勤勉し、節約家業にはげめば社会の上層に立ちうるということを現実的にはほとんど信じてはいまいし、またそれは不可能であることを良く知っている。知識人もまた同様である。
しかし現在、日本の産業資本・金融資本を支配している人物達は、大なり小なりこのタイプの人間であり、また知識人はごく少数のものが、このモラルを信じているだけである。それにもかかわらず、潜在的には、すべての大衆と知識人は、、この資本制上昇期の大衆「ナショナリズム」をみずからのうちに隠していると、私には思える。このような「ナショナリズム」の裏面に付着している不合理を自覚するという過程から生まれた左翼イデオロギイは一つには官僚主義イデオロギイとして逆の形で結晶し、またそれを意識の過程として所有したである。
日本の左翼官僚主義組織のすべての支配が、現在まで世間知らずの良家の優等生子弟の手に握られており、大衆・労働者がこれに遺恨を抱きながらも、自己上昇してそれらに知的に接近することを択ぶか、逆にいわれのない劣等意識に身を焦がして対峙するというケースから逃れられないのは、彼らがナショナル・ロマンチシズムの裏面に、インターナショナル=リアリズムを発見するにとどまり、このインターナショナル=リアリズムの裏面に普遍ロマンチシズムの虚偽が付着していることに気がつかないためである。私は、知的大衆としての知識人と大衆そのものが、この普遍ロマンチシズムの虚偽に気づく過程を、かりに「自立」と呼ぶのである。
「二宮金次郎」と同じ意味で、社会に向かう大衆の「ナショナリズム」の表現は、「仰げば尊し」、「はなさかじじい」、「冬の夜」、「故郷」などの唱歌の中に存在しており、一般的に流布された。
ともしび近く衣縫う母は
春の遊びの楽しさ語る
居並ぶ子供は指を折りつつ
日数数えて喜び勇む
囲炉裏火はとろとろ
外は吹雪
囲炉裏のはたに縄なう父は
過ぎしいくさの手柄を語る
居並ぶ子供はねむさ忘れ
耳を傾けこぶしを握る
囲炉裏火はとろとろ
外は吹雪
「冬の夜」「尋常小学校」明治44年
これらは、何れも社会に対する大衆の「ナショナリズム」の一側面をそれぞれの主題の上に抽出しており、またそれ故に大衆の間に広く流布されたのである。
現在、表現の主題のうえにのみ先験的な意味を見つけたがるのは、古典左翼と古典右翼に限られており、これらの表現理念は、私どもにとって理論的に克服され尽くしている。大正期の大衆の「ナショナリズム」に引き継がれていった明治の大衆「ナショナリズム」の表現はむしろ、政治や社会の主題を取りなしたものの中には存在しなかった。いわゆる古典右翼達が、今も唱えている積極的な主題の中にはなかったのである。明治期の大衆「ナショナリズム」の心情の表現は、主題に外化されたものよりも、大衆の心情そのものの核に下降した表現に、典型的な表芸が現われ、その典型によって大正期の大衆「ナショナリズム」の表現に接続されたということができる。このような例は、「青葉の笛」(大和田建樹・明治39年)、「夏は来ぬ」(佐佐木信綱・明治29年)、「すずめ雀」(佐佐木信綱・明治34年)、「七里ヶ浜の哀歌」(三角錫子・明治43年)などによって象徴させることができる。
一の谷の軍破れ
討たれし平家の公達あわれ
暁寒き須磨の嵐に
聞こえしはこれか青葉の笛
(「青葉の笛」)
すずめ雀 今日もまた
くらいみちを ただ一人
林の奥の竹薮の
さびしいおうちへ帰るのか
(「すずめ雀」)
真白き富士の根 みどりの江ノ島
仰ぎ見るも今は涙
帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
捧げまつる胸と心
(「七里ヶ浜の哀歌」)
現在、三十代後半以上の人間で、少・青年のある時期にこれらの唱歌の洗礼を受けなかったものは、いないはずである。ここには大衆の「ナショナリズム」の表面にある心情のル・サンチマンが、極めて良く表象されている。なぜ「くらいみちをただひとり」すずめは帰るのか。なぜ帰らぬ十二人の中学生のボート死に「胸と心」を「捧げまつる」のか。ある種の愚物達は、このようなル・サンチマンを日本の大衆にのみ固有なものであると考えている。ただ彼らは、ロシアや中国やアメリカには大衆のセンチメンタリズムが存在しないものと錯覚しているらしい。ただ大衆のセンチメンタリズムは、そのナショナルな核に従って質が違っているというに過ぎないのを知らないのである。そのあやふやな表現理念の誤謬こそが、古典的モダニズムのさまざまなイデオロギイの形を取った典型である。
これらの歌曲は敦盛が、熊谷から首を掻き切られたとき、どのように血が噴き出したか、雀はその巣に帰る時どのように本能的なものに過ぎないか、ボートが沈んだとき中学生達は、以下にもがき苦しみ、我先にと生き延びようと努めたか、という大衆の「ナショナリズム」の裏面に付着したリアリズムを忘却するように書かれている。しかし、忘却しているのではない。このようなセンチメンタリズムの表現こそは、銅銭の裏表のように、大衆の「ナショナリズム」のもつリアルな、狡猾で計算深い(知識人などのような空想的にではない)認識をも象徴しているのである。大衆の「ナショナリズム」の心情はそのセンチメンタリズムをそのまま総体として見ることによっても、その裏を返しても、拾い上げることは出来ないだろう。私たちが大衆の「ナショナリズム」として考えているものは、この裏面と表面の総体(生活思想) を意味するもので、何らかの意味で、その表現に掬い上げられている一面性を意味しているものでないことを強調しておかねばならぬ。
三
大衆ナショナリズムの変遷
大正期における大衆の「ナショナリズム」は、明らかに、政治性としての「御国の為」意識と、社会性としての「身を立て名を挙げ」意識の主題を失った。おそらくこのことは、支配層において、国権意識によって大衆を統合しうるという意識と、腕一本で支配層にもなりうるものであるという資本制意識によって、大衆を統合しうるということが潜在的には、信じられなくなったことの象徴であり、同じように大衆にとってそれが信じられなくなったということを象徴している。このようにして、目に見えるような形で、政治あるいは社会的な主題が喪失したことは、大正期の大衆「ナショナリズム」の表現の特徴である。「叱られて」(清水かつら・対症9年)、「浜千鳥」(鹿島鳴秋・大正8年)、「背比べ」(海野厚・大正8年)、「靴が鳴る」(清水かつら・大正8年)、「カナリヤ」(西条八十・大正7年)、「雨」(北原白秋・大正5年)、「てるてる坊主」(浅原鏡村・大正10年)、「七つのこ」(野口雨情・大正10年)、「赤蜻蛉」(三木露風・大正10年) 「夕焼け小焼け」(中村雨紅・大正12年)、「花嫁人形」(蕗谷虹児)、「あの町この町」(野口雨情・大正14年)などが、主題を喪失した後での大衆の「ナショナリズム」の表面を良く表わしている。
唄を忘れた金糸雀は 後の山に捨てましょか
いえ いえ それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は 背戸の小薮に埋けましょか
いえ いえ それはなりませぬ
唄を忘れた金糸雀は 柳の鞭でぶちましょか
いえ いえ それはかわいそう
(「かなりや」)
雨が降ります 雨が降る
遊びに行きたし 傘はなし
紅緒の木履も緒が切れた
雨が降ります 雨が降る
イヤでもお家で遊びましょ
千代紙折りましょう たたみましょう
(「雨」)
夕焼け小焼けの
あかとんぼ
負われてみたのは
いつの日か
山の畑の
桑の実を
小篭に摘んだは
まぼろしか
十五で姐やは
嫁に行き
お里のたよりも
絶えはてた
(「赤蜻蛉」)
金襴緞子の帯締めながら
花嫁御寮はなぜ泣くのだろう
文金島田の髪結いながら
花嫁御寮はなぜ泣くのだろう
(「花嫁人形」)
あの町この町
日が暮れる 日が暮れる
今来たこの道
かえりゃんせ かえりゃんせ
お家がだんだん
遠くなる 遠くなる
今来たこの道
かえりゃんせ かえりゃんせ
(「あの町この町」)
砂川の闘争の際に、官憲との胎児の間から「赤蜻蛉」の歌が流れ出したという話を、想起するまでもなく、「切れる」「棄てる」「忘れる」「絶えはてる」「泣く」「かえる」というような動きの表現は、大衆の「ナショナリズム」の心情の側面を適確に象徴している。これら大正期の大衆歌曲の伝える、凝縮と退化の感覚は、社会的主題を失った後の心情の下降に対応している。政治・社会といった主題がどこにもないが、ここに大正期の大衆の心情の「ナショナリズム」が良く表現されている。これらの表現を大衆のル・サンチマンとして読むのは古典的なモダニズムの愚物だけであって、むしろこれらはそれなりに成熟期に入った日本の資本制社会の物的な関係の凄まじさ、高度化と停滞の逆立ちした表現に当たっている。これらの大衆的ル・サンチマンのは以後には、物欲主義の臭気が漂っているし、その物的な怖れが表現されている、というふうに読まないかぎり、文学を社会の動向に結びつける道はあり得ないのである。この大正期の大衆的「ナショナリズム」の表現にいたって、ついに「お国の為」や「身を立て、名を上げ」という当為は、まったく主題性を喪失するにいたった。わたしは、それを知識人のデモクラシイ思想の普及や移植マルクシズムの影響であるという解釈を採らない。デモクラシイや移植マルクシズムは、かつて大衆「ナショナリズム」の核を捉えたことはないのである。これらは正に、支配層によって捉えられた現実の、鏡に映された姿に他ならなかったのである。
大衆の「ナショナリズム」は、その統一的な主題を喪失するや否や、これらの歌曲が表現しているように、既に現実には一部しか残っていないが、完全に失われてしまった過去の(いわば明治典型期の)農村・家庭、人間の関係の分離などの情景を、大正期の感性で捉えるというところに移行した。そして、これは幼児体験の一コマと結び付かざるをえなかった。これらの作者達は、知識人としては北原白秋、西条八十のようにモダニストであり、野口雨情、蕗谷紅児のようにアナキストであった。しかし彼らのよって一面を描出された大衆の「ナショナリズム」は、一つの現実喪失、または現実乖離というような形で、はるかに間接的に大正期社会そのものの物的関係とつながっていたのである。これらは、歌曲としてそれぞれ優れた部類に属している。それは何れにせよ大衆の「ナショナリズム」の時代的な核を、ある適確な側面から抽出することに成功しているからである。
昭和期に入って、大衆のナショナルな心情は、さらに農村・家、人間関係の別離、幼児記憶などに象徴される主題の核そのものを、「概念化」せざるを得なくなるところまで移行した。知識層の「ナショナリズム』思想によって、直接に大衆の「ナショナリズム」が、「実感」性を失って一つの「概念的な一般性」にまで抽象されたという現実的な基盤によって、始めて知識人による「ナショナリズム」はウルトラ・ナショナリズムとして結晶化する契機を掴んだのである。大衆の「ナショナリズム」が心情としての実感性を失ったということは、すでに村の風景・家庭、人間関係の訣れ、涙などによって象徴されるものが、資本によって徐々に圧迫され、失われてゆく萌芽を意味している。このような意味での資本制化による農村の窮乏化と圧迫と、都市における大衆の生活の不安定とは、知識層によって、ウルトラ・ナショナリズムとして思想化され、それは満州事変以来の戦争への突入と、一連の右翼による直接行動の事件の思想的な支柱を形成したのである。このような大衆の「ナショナリズム」の心情的な喪失の意味を、日本の古典左翼(スターリニズム)が、いかに把握シエナかあったかについては、私が他の論考で繰り返し問題としてきた。古典左翼が高だか捉ええたものは、天皇制はファシズムであるか絶対主義に属するものか、また支配体系は日本資本主義であるか、封建的な残滓を持った資本制であるか、といった程度のものであった。そしてそれによって政治運動と大衆運動の戦略と戦術が決定されたのである。これら一連のコミンターン・テーゼについての包括的な理論上の批判は、稿を改めなければならないと思う。
ただここでは、大衆の「ナショナリズム」の心情的な基盤の喪失こそは、知識層が「ナショナリズム」を思想としてウルトラ化するために必要な基盤であったことを指摘すれば足りる。支配層はmこれに対し経済社会的には大衆の「ナショナリズム」の最後の拠点である農村・家庭にたいする資本制的な圧迫と加工を加え、政治的には、大衆の「ナショナリズム:の「概念化」を逆立ちさせたウルトラ・ナショナリズム(天皇制主義)によってこれに吸引力を行使したのである。この支配層の二面の方法は、さまざまな錯乱と混乱を運だ。どのような政治。思想勢力もこれに対抗する方法を生み出すことが出来なかったほどである。
昭和期における大衆の「ナショナリズム」の根源的喪失と「概念化」は例えば、次のように象徴される。
おみやげ三つに 凧三つ
おみやげ三つは 誰にやる
さよならいう子に 分けてやる
背中をたたいて ぽんぽんぽん
おみやげ三つに 凧三つ
凧は凧でも いたい凧
背中にしょわせる いたい凧
それそれあげるよ ぽんぽんぽん
(「おみやげ三つ」西条八十・昭和6年)
かきねの かきねの
まがりかど
たきびだ たきびだ
おちばたき
「あたろうか」
「あたろうよ」
きたかぜ ぴいぷう
ふいている
(「たきび」巽聖歌・昭和16年)
てんてん手毬 てん手毬
てんてん手毬の手がそれて
どこからどこまで とんでった
垣根をこえて 屋根こえて
おもての通りへとんでった とんでった
(「鞠と殿様」西条八十・昭和4年)
あの子はたあれ たれでしょね
なんなんなつめの 花の下
お人形さんとあそんでる
かわいい美代ちゃんじゃ ないでしょか
(「あの子はたあれ」細川雄太郎・昭和14年)
これらは何れも優れた歌曲として流布されているものである。しかし、ここに表現された日本の大衆の情緒的な基盤には、既にどのような裏目を考えることが出来ない。また、どのような実感の存在も考えることが出来ない。単なる「概念的」に把握された心情の表現に過ぎなくなっている。ここに象徴される大衆の「ナショナリズム」は、すでにそれ自体が自ら喪失し、表現としての情緒的迫力を失っている。この意味では、歌曲に表現されたものに対応する現実的基盤が、大衆の「ナショナリズム」から失われていることを、これらの正直な歌曲作家達は表現したといえる。
この状況は思想的には次のことを意味している。
<
一、政治思想としての「ナショナリズム」はそれ自体としては、大衆のナショナルな核を包括するものとなり得なくなったこと(ウルトラ・ナショナリズム化する契機をもったこと)
二、農村の資本化に対応するような生産力ナショナリズム(社会ファシズム)が左右両翼の知識人から生まれる基盤が生じたこと。しかし、それは大衆「ナショナリズム」の心情を疎外しそれと対立している為、あくまで知識人の思想であって支配思想とはなりえなかったこと。
これらが昭和期に入って、移植マルクス主義(スターリン主義)運動と、知識人「ナショナリズム」が、社会ファシズム運動へ、また大衆の「ナショナリズム」が支配層のウルトラ・ナショナリズム(農本主義・天皇主義)に吸引された思想的な理由であった。
わたしは今まで、歌曲の表現を借りて大衆「ナショナリズム」の原像とその変遷の基本的な問題を考えてきた。これは単に、これらの歌曲がその時代に応じて、広く大衆に流布されたものだからという理由によるのではない。これらの歌曲の作家達があたう限りその時々の大衆の支配秩序に向かう感性に追従しているため、ある種の近似的な類推が可能となるという理由によっている。すくなくとも、これらの歌曲がその時代の知識人からは軽蔑されながらの口ずさまれ、支配コマーシャリズムからは、ひろく流布される性格を見抜かれて迎えられ、じじつ広い大衆が受け入れてきたものである。
四
知識人ナショナリズムの変遷
明治・大正・昭和と変遷して行く近代日本の大衆「ナショナリズム」の心情的な核の、あるいは主題の喪失過程は、知識人にとって、国権意識と民権意識との分かちがたい混合から、それらがすべて資本制生産力「ナショナリズム」(社会ファシズム)へと合流し、この空隙によって満たされないものが、「叛臣」的な「ナショナリズム」意識から移植デモクラシイを経て移植マルクス主義へと分離し、これが再び昭和十年代に、生産力「ナショナリズム」(社会ファシズム)を経て、知識人の「ナショナリズム」のウルトラ化と合流する過程と対応している。
明治十九年徳富威一郎「将来の日本」は次のように書いている。
「吾人はわが皇室の尊栄と安寧を保ち給わんことを欲し、わが国家の隆盛ならんことを欲し、わが政府の鞏保ならんことを欲するものなり。これを欲するの至情に至りては、あえて天下人士の後にあらざることを信ず。しかれども、国民なるものは実に茅屋の中に住するものに存し、もしこの国民にして安寧と自由と幸福とを得ざるときにおいては国家は一日も存在するあたわざるを信ずるなり。しかしてわが茅屋の中に住する人民をしてこの恩沢に浴せしむるはじつにわが社会をして生産的の社会たらしめ、その必然の結果たる平民的の社会たらしむるにあることを信ずるなり。皇室の尊栄も、目下の威勢も、政府の鞏固も、もって遥々たる将来に継持するのもっともよき手段にして国家将来の大経綸なるものは、ただこの一手段を実践するにあるを信ずるなり。」
大衆的「ナショナリズム」にとって、あるいは支配層の国権意識にとって、これがどんなに虫のいい、めでたし、めでたし主義に見えようとも、明治初期の知識人にとって、矛盾や分裂が現われないという意味で、おそらく多数を象徴する進歩思想であった。
「将来の日本』は、知識人によって迎えられ、当時のベスト・セラーの一つであった。
大衆の『ナショナリズム」にとっては、「生産的の社会」や「平民的の社会」は、まだ自らの対立物として自覚せられないままの所有物であった。支配層の国権意識にとっては、「生産的の社会」(資本主義)のためにのみ、国権意識の拡張が必要とされたのであり、蘇峰いうような折衷と調合は、笑うべき夢物語に過ぎなかったことは疑いを入れぬ。
「生産的の社会」を支配する明治の産業資本や、「皇室」を明治革命の政治的標識として統合しようとする政治的支配にとっては、蘇峰が民友社を起こし、「平民的の社会」を鼓吹しても、組しやすいものと見えたに違いない。現在の「反体制」運動が、資本が輪にとって組しやすいと見られているのと同じように。しかし、ここで蘇峰が「皇室の尊栄」というふうに使っている「皇室」は、現在考えられている天皇制とはまったく異質のもので、むしろ明治革命の一般的表象の意味であることに注意しなければならぬ・また、ここで「わが政府の鞏保ならんことを欲するものなり」というように使われている。「わが政府」は、ブルジョア革命政府そのものをさしていることも、いうまでもないことである。ここに明治革命の当時の知識人による原イメージが存在している。
ところで、明治の後期に入っては、すでに知識人の原イメージは、完全に分裂しその上で蘇峰の言う折衷論の系譜は、知識人「ナショナリズム」として、一種の自覚された国権と民権との総合のイメージとして現われている。そこには、社会ファシズム論の萌芽が存在するに至った。
例えば、陸羯南では蘇峰の折衷と調合はもっと尖鋭な形であらわれ、多数進歩はの知識人の思想を代表している。羯南の「国家的社会主義」(明治30年)は、次のように述べている。
「国家的社会主義は『国家をして社会経済の弊を匡救せしむ』というにあり。国家の本分はただ中外の治安を保つにあるのみ、社会経済はよろしくこれを個人に放任すべしという者、これにいわゆる自由論派なり。国家的社会主義は正しくこれと相反す。藩閥政事家らはこの主義より干渉的部分を抜き取りてもって国家主義と名付け、その自由論派と対戦するの武器となすや久し。すなわち社会経済に干渉するの一点を見れば、彼らのいわゆる国家主義てふものは国家社会主義に類すといえども、干渉其事の目的はまったく相反す。藩閥党の『国家主義』は軍人官吏貴族富豪の利益を保護するために干渉を旨とするも、わが輩がここに叙するところの『国家的社会主義』派これに反して弱肉強食の状態を匡救するにあり。云々。」
羯南によって象徴される知識人の進歩的「ナショナリズム」は、すでに社会ファシズム論の形を明確に持った。言い換えれば、蘇峰では抱き合わせであった者が、ここで大衆の『ナショナリズム」と違った知識人の「ナショナリズム」思想としてはっきりと分離せられたという事ができる。この意識は、人権思想と国権思想の分離的統一ともいうべき形で自覚された。この時期の大衆の「ナショナリズム」が、無自覚のままではあるが、其の裏面に付着しているという形で持っていた現実社会のリアリズムとの違いは、羯南の場合はっきりと現われている。社会ファシズム論は、羯南から昭和の中野正剛にいたるまで支配層のイデオロギイとなりえたことはない。だが、大衆の『ナショナリズム」(農本主義・天皇制イデオロギイ)は逆立ちした形で、支配層のイデオロギイになりえた。社会ファシズム論は、あくまでも知識人「ナショナリズム」の形で 終始せざるを得なかったのである。もしもナチス・ドイツやファシズム・イタリアが支配イデオロギイとして、優にスターリン主義と拮抗する力を、第二次大戦期の一時期に持ちえたにもかかわらず、日本の社会ファシズムが支配イデオロギイをなりえずして、天皇制イデオロギイに支配の形を譲らざるを得なかったとすれば、それらが近代日本の資本制の成立過程を肯定しつつ、「天皇制」的(農本的)国家機関をもって「社会経済の弊を匡救せしむ」ことを目指した矛盾によっている。天皇制イデオロギイは支配層によって、もっぱら大衆の「ナショナリズム」の心情の一面を逆立ちした形で吸い上げながら、一面で「社会経済」的には、大衆「ナショナリズム」の社会的な基盤(農村)を資本制によって現実的に突き崩すという両面を行使したのである。大衆の「ナショナリズム」は、ここでは天皇制イデオロギイに自己のイデオロギイが鏡に映されるような幻想を与えられ、一方で自己の「ナショナリズム」の心情を突き崩すものが、資本制そのものであるかのように考えることを仕向けられた。憎しみは資本制社会に、思想の幻想は天皇制に、というのが日本の大衆「ナショナリズム」が与えられた陥穽であった。去ればこそ、農本主義的ファシズムは、北一輝に其の象徴を見いだされるように、資本制を排除して天皇制を生かす、というところに行かざるを得なかったのである。
政治革命としてみるかぎり、明治以後の日本革命をもっとも実現の近くまで導いたのは、アナキズムや日本共産党に象徴されるスターリニズムではなく、北一輝に象徴される農本主義的ファシズムである。いまだかつて、日本のアナーキズムやスターリニズムは、文化左翼の域を脱したことは一度もない。それは知識人の啓蒙主義の段階として考えられるに過ぎない。しかし、北一輝などの政治革命は、絶対に社会革命を包括することが出来ない先験性をもっていた。社会革命は否定的媒体として肯定するという思想なしには、不可能であり北等の思想は、この一点においては、文化左翼、知識人リベラリズムにさえ一歩を譲らざるをえなかった。それははじめから社会革命として実現不可能な政治革命の構想に過ぎなかったといいうる。
大正期の知識人によって捉えられた「ナショナリズム」は、大衆「ナショナリズム」の主題の喪失に対応している。そこでは抽象的世界主義に対して、具象的民族主義が、不安や世紀病的悩みに対しては生命主義が、観念に対して体験が、神経に対して筋肉が、理性に対して本能が対置される。たとえば、中沢臨川の「新文明の道程」はこう書いている。
「現代における民族主義の勃興は生命の自覚に芽ざしている。従って其の要求する愛はより具体的でなければならない。郷土を離れ、家庭を離れ、国家を離れて何処に人道の花が咲くのか。生命は何時の隣人から始まる愛を要求して止まない。われらはあまりに理想や抽象を重んじ過ぎた。本能の力に帰らなければならない。われらは人道の愛なる空漠たる観念の夢から覚めて、生命の伝統の肥えた土に立脚し、卑近なしかし切実な愛からだんだん大きな愛を体験せねばならぬ。要するところ、抽象的人道主義・消極的世界主義の麻酔郷を離れて、経験の愛に生き、そして具象の人道主義を樹立せねばならぬ。」
第一次大戦期に書かれた臨川のこの文章は、一見すると具体性を強調しているように見えるが、じつは政治と社会に対して喪失された主題を語っている。一種の思想の肉体主義への退化とも呼ぶべきものである。事実、大正期の知識人によって捉えられた「ナショナリズム」は、生命・本能・体験・具象・愛というような次元でしか、現実社会との接触韓を持つ事が出来なかった。そして、この裏目には、観念・理性・抽象などが当然想定せられたのである。また、大正期知識人の唱える「現代における民族主義:は其の裏目に「社会主義者によって『世界労働組合』が結ばれた。彼らにトテは自国の富豪よりも外国の同僚の方が親しいものであった国と国と戦ってお互いに干戈をとる羽目に陥るよりは、同盟罷業の方が彼らには意味があった。」(同)というインターナショナリズムが想起されていた。こういう位相で存在している大正期知識人の「ナショナリズム」をわたしたちは、古典的マルクス主義のインターナショナリズムと同義対照として理解するものである。何れも全否定の媒体となりうるに過ぎない。
知識人の「ナショナリズム」は、大衆のナショナルな心情から孤立する。それは、一つの必然的な経路ともいえる。しかし、この孤立に一つの意味があるとすれば、知識人がその一から大衆の「ナショナリズム」を論理づけるという点にあるのではない。同じように、知識人のインターナショナリズムは、大衆の「インターナショナリズム」から孤立する、ここでも知識人がその位相から大衆のインターナショナリズムを論理づけることにレーニンのいうような意味は存在しないのである。これは対称的な場所から、おなじように大正期の知識人達を捉えた一つの錯誤であった。それらは、両方の車輪のように大衆の「ナショナリズム」からも、其の逆立ちした鏡である支配層の「ナショナリズム」からも外れたところで、夢を見る他はなかった。そして夢を見ながら、共にそれ自体が社会の現実的な動向から乖離して行ったのである。
おそらく、大正期の停滞しながら膨張した資本制覇、大衆「ナショナリズム」の象徴としての「天皇」を、自己利潤の手段として用いた(天皇機関説)ろうが、「天皇主義」としてウルトラ化する段階にもなかったし、其の必要にも迫られていなかったと考えられる。ここでも支配層に、しっ州の主題の喪失があったはずである。底にあった資本制の禁制(タブー)としての「天皇」は、ただ社会的自然としての禁制(タブー)であって、一つの独立した思想としての天皇制ではなかった。このような過渡性を捉えうるものは、知識人「ナショナリズム」でもなく、知識人「インターナショナリズム」でもないことは明らかである。「天皇」が資本制にとって、社会的自然としての禁制に過ぎないことは、肯定的には美濃部達吉の天皇機関説によって捉えられたといえるが、否定的にこの意味を捉えることは、知識人「ナショナリズム」によっても、知識人インターナショナリズムによっても不可能だったのである。美濃部の天皇機関説に、意義を認める見地はこの意味ではまったく無価値なものというべきである。
昭和期の知識人「ナショナリズム」の思想は、一見すると逆のように見えても、大衆「ナショナリズム」の主題の喪失を明らかに基盤にするものであった。すでに何らかの意味で、この喪失された大衆「ナショナリズム」の主題を思想化することなくしては、大衆を現場の担い手とする「満州事変」以後の帝国主義戦争の「事実」に追尾しえないとする意識が、昭和の知識人「ナショナリズム」の思想化(ウルトラ化)の原動力をなしたのである。
昭和期の知識人「ナショナリズム」にもっとも傑出した思想化作業の一つである橘撲(しらき)の「国体論序説」(中央公論昭和16年11月)から、その問題意識を取り上げてみよう。
橘においては、第一に「国体」の概念は、西欧の「デモクラシイ」の概念とまったく同位的な意味を持つ持つものとして「創造」される。すなわち、「国体とは単に一部の人々の情意的把握の対象となるばかりでなく、デモクラシイと同じく理知的に、すなわち歴史的・科学的に把握しうるものだということを明らかにするのが、吾人の国体明徴工作の第一の目標である。」とされる。
ところで、「国体」という概念は、おおむね神授説に根ざしてきたが、現在では科学的に「国体」の発展法則をとらえ、その上にたって具体的な「国家改造」の方法が考えられねばならないとして、橘が挙げている国体発展の三つの基本法則は次のようなものである。
「一、民族組織の単純性(一君万民)を完成する傾向。この傾向を仮りに超階級維持性の法則と名付けよう。
二、全体と個体、すなわち統制と自由との調和の法則。一人日本または東洋ばかりでなく、西洋のデモクラシイもつねにかかる調和を求める強い傾向を持つのであるが、ただ西洋が個人主義と社会主義とに論なく、個体を機軸のとするに対し、東洋は日本と大陸諸民族とを通じて全体を主張とするところになお互いに苟合(こうごう)することの出来ない間隙がある。
三、異民族との関係を規定するもので、かりに民族調和、または通称にしたがって八紘一宇の法則と名付けよう。西洋の対立を原則とするのに対し、東洋は融合を原則とする。満州建国の標語たる「民族調和」は当事者の企画したところはまったくこの原則の実現にあった。」
このような橘の「国体発展の法則」と称するものが、天皇の地位を超越的にして、支配階級を除去するという結論と、一種のアジア協同体論に行き着かざるを得ないのは当然である。そして、この結論は当然、北一輝・大川周明らの農本主義ファシズムの結論と軌を一つにするものとならざるを得なかった。
このような「国体発展の法則」と称するものの裏面には、天皇制国家の大衆に対する歴代の暴虐と階級支配の法則が厳存し、「民族調和」の背後には、東京裁判によって暴露されたような阿片売買による大陸の民衆への圧制と南京虐殺に象徴されるような無惨な現実が付着している。
橘の思想にとっては、事志と反したということになるのかも知れないし、現実主義者に言わせれば、理想と現実は違うというのが政治運動の実体だということになるのだろう。しかし、わたしが取り上げたいのは「ナショナリズム」とインターナショナリズムの同位的対立、理想と現実の食い違い、「デモクラシイ」と「国体」思想の同位的対立というようなものではない。
じつに、橘に象徴される昭和の知識人「ナショナリズム」が、大衆の「ナショナリズム」を、其の鏡としての支配層の「ナショナリズム」(国体、天皇制)と直結しようとして、近代知識人の存在自体の基盤である資本制そのものを排除しようとする傾向を示したという点である。 橘が「国体」神授説を「国体」の科学的・理知的・歴史的な論理に置き換えようとしたことは、日本的「自然」信仰を、たんに日本的「自然」の理念に置き換えただけであり、橘の言うように「西洋社会が自然にできた社会であるのに対し、われらのものは意識的に計画的に作られた社会でなくてはならない。作った社会は出来た社会よりもいちだん高次のぞんざいであるといえるだろうし、また東洋社会をかくのごときものとして創造することは、吾人の努力次第充分可能であると思う。」という意味をまったく持っていなかった。ここに橘の第一の躓きの石が存在した。彼は変革の理念と原理を求めたのだが、そこには連続性の理念しかなかったのである。
しかし、昭和の知識人「ナショナリズム」の一般的特徴は、橘の中に優れた形で象徴されている。それはすでに主題を喪失した大衆の「ナショナリズム」に活を入れようとして、大衆の「ナショナリズ厶」をそれ自体として論理的に抽出して、その逆立ちした鏡である支配層の「ナショナリズム」(天皇制。国体主義)と直結し、その間から資本制支配そのものを排除しようとするものであった。戦後ウルトラ=ナショナリズムと名付けられたものは、近代日本の社会ファシズム(スターリニズム転向者を含む)と農本主義との両面から、このような試みに近づこうとした知識人「ナショナリズム」の一般的傾向と、その現実運動を指している。
いうまでもなく、この昭和期の知識人によって理念として作られたウルトラ=ナショナリズムは、昭和期の知識人により理念として移植されたコミンターン以南たーナショナリズムとまったく同位的なものであり、一方がたんに日本的「自然」信仰を、日本的「自然」理念に置き換えたのに対し、一方が大衆「ナショナリズム」に手を触れずに、頭脳の上に作られた架空の「観念」とその「現実」運動の植え替えに過ぎなかった。題目ばかりは立派でありながら、その現実が無惨な圧制の道行きを付着したという点でもまったく同じである。
天皇制という軟体動物のような代物は、いうまでもなく大衆のアモルフな「ナショナリズム」の逆立ちした鏡であり、法的な規定に入ってくる限りにおいて国家権力に介入している。従って、橘が出発した点とは反対に、資本制の消滅とともに社会的、経済的な基盤と権力を消失する同体の存在にしかすぎない。なぜ、橘・北・大川らに象徴される農本的ファシズムは、一様に天皇と資本制を、別々に扱うという錯誤に陥ったのだろうか。
コミンターン27年テーゼは、天皇について他人の財布を覗き見するように、次のように言っている。「天皇はただに厖大な土地を私有しているばかりではない。天皇はまた幾多の株式会社、企業連合の実に多額の株を所有している。最後にまた天皇は、資本金一億円の彼自身の銀行を持っている。」
32年テーゼは、次のように言っている。
「1868年以後に日本に成立した絶対君主制は、それの政策には幾多の変化があったにもかかわらず、絶対的権力を掌中に保ち、勤労階級に対する抑圧と専横支配とのための、その官僚機構を不断に完成してきた。日本の天皇制は一方主として地主なる寄生的、封建的階級に依拠し、他方にまた急速に富みつつある貪欲なブルジョアジーに依拠して、これらの階級の上部と極めて緊密な永続的ブロックを結び、かなりの柔軟性をもって両階級の利益を代表しながら、同時にまた独自の、相対的に大いなる役割と、わずかに似非立憲的形態で軽く覆われているに過ぎぬ、その絶対的性質を保持している。自分等の権力と収入を貪欲に守護している天皇主義的官僚は、国内もっと反動的な警察支配を維持し、なお残存するありとあらゆる野蛮なるものを、国の経済及び政治生活において維持せんがために、その全力を傾けている。天皇制は国内の政治的反動と封建制の一切の残存物との主柱である。天皇主義的国家機構は搾取階級の現存の独裁の鞏固な背骨をなしている。これを粉砕することこそ、日本における革命的主要任務の第一のものと見なされねばならぬ。
27年テーゼは、天皇の物質的生活の基礎が、大地主であり、それ自体大ブルジョアであることを述べているに過ぎないが、32年テーゼにいたって、大土地所有者と資本制を代表するそれ自体独自の権力としてとらえられている。ここには法的な国家規定の要素が介入してくる。資本制における階級対立からつつき出され疎外された幻像としての天皇制が、封建的な階級対立(地主と小作人)をも随伴しているというふうに理解されている。この理解は、コミンターン的(スターリン主義的)天皇制理解としては、クーシネン報告と共に、頂点に立つものである。
ところで、この理解は昭和の知識人「ナショナリズム」によって、裏面から肯定的に捉えられた天皇制理解に比べて決して優れたものとは言えない。例えば、橘撲によってとらえられた天皇制は資本制支配、封建的支配の残存物を象徴するだけでなく、アジア古代的なアモルフな大衆の共同性をも、強大な要素で包括するものと考えられている。橘の理解が、どのような特性によって形成された負価を負うものとしても、マルクスのいわゆる地理的(孤島)、風土的(モンスーン的)、農耕的環境の特性によって形成された日本の大衆「ナショナリズム」と、その逆立ちした鏡である天皇制支配の古代共同遺制の存在を、良く認知していたという点で、その理解は32年テーゼに対し一歩を先んずるものであったと言いうる。かくして、コミンータン=テーゼが、天皇制の封建的要素の強大さに幻惑されて当面の革命を社会主義革命への強行的転化の傾向を持つブルジョア民主革命と規定したように、古代共同体制の強大さに幻惑された日本の知識人ウルトラ=ナショナリズムは、資本制打倒による、大衆の古代的共同社会、アジア共同体社会の実現に、その「昭和維新」(革命)の目標を定めたのである。残念なことに、現在の理論の水準で、ここには二色の錯誤があったと言う外に言葉がない。
国家の権力が、権力としての実体構造をもって、実存する所以は、コミンターン32年テーゼのような二分割をも、日本のウルトラ=ナショナリストによる復古共同体への還元をも許さないし、また資本階級と労働階級との生産社会的対立への単純化をも許さないものである。古代アジア的といい、封建的といい、独占資本的といい、それを国家権力の実体として考える限りは、単にどの要素主要であるかを示すだけであって、その実体の中には、原始共同体いらいの、すべての要素を包括するものとして存在している。
したがって政治革命の標的として考えられる国家権力は、これらのすべての包括的要素と、現存する主要な要素(資本制)との交点に錯合する利害の共同性として想定すべきであった。この地点から、知識人のコミンターン=インターナショナリズムとウルトラ=ナショナリズムによって現在まで提起されてきた「革命」論争は、根底から批判されねばならない。
今にして思えば、私の敗戦体験のもっとも重要な核の一つは、知識人「ナショナリズム」として思想化された日本のウルトラ=ナショナリズム思想が、その美麗なスローガンの裏面に醜悪な現実を持っていたという程度に過ぎなかった。徹底抗戦のスローガンの裏面には、無条件降伏の現実が付着するということであった。これは日本の知識人のインターナショナリズム思想(スターリニズム・リベラリズム)の世界革命のスローガンがその裏面に醜悪な政治的虐殺と、怯懦で卑屈で狡猾な傍観的エゴイズムを含むということとまったく表裏して現われた。私はそこで、日本の知識人ウルトラ=ナショナリズムの、掌をかえすようなデモクラティズムへの転身と、社会ファシズムの掌を返すようなスターリニズムへの転身をみた。また、知識人ウルトラ=ナショナリズムが極少数の例外を除いて、依然として知識人として生き延びる恥じなく光景をも見た。わたしは、現実とはかくのごときものであるか、という点で、知識人「ナショナリズム」と、知識人インターナショナリズムは別物ではありえない。
知識人「ナショナリズム」(ウルトラ=ナショナリズム)の敗戦における挫折と、知識人インターナショナリズム(スターリニズム=デモクラシイ)の満州事変による挫折とを比較する場合、いずれか一つを優位としてみるという考えを、わたしは承認しない。それらは、否定的な媒体として同位性をなすものである。
同じように、第二次世界大戦の敗戦による、知識人「ナショナリズム」の消解の仕方と、知識人と、知識人インターナショナリズムの復元の仕方を承認しないということは、わたしにとって戦後期における思想の主要なテーマであった。
とたえば、わたしが日本の古典を読み方を教えられたのは、国文学者からではなくて、保田与重郎・小林秀雄などの戦争気の仕事からであったが、本気で腰を入れて読んだのは、実は、敗戦直後からである。書物というものは、おおよそ欺瞞的なものではないかという意識から、本棚に並べてある本が、見るのもイヤになり、リュックサックに背負って神田へ売りに行き、その代わりに国訳大蔵経と、文庫本の日本古典を出きるだけ買って読みふけった。わたしが、このとき感じた本質的な事は、恐らく「書く」という行為の結果は、それ自体がすでに、現実の「事実」から異なった次元に属するという哲学だったが、当時はそれを洞察することが出来ず、理想というもの、美辞というものは、現実と異なるものであり、思想は死に、世界の観念が死んでも、生身の人間が死なない限り、食べ、金を集め、生きるものだ、というようなリアリズムであったらしい。もし、「書く」ということの本質が何であるかを知っていたら、それらの書物を売り払い、後年、文献として、また買いあさるという愚はしなかったであろう。わたしが、スターリン主義者・記録主義者、プラグマティズムに対して感ずる最大の不信はこの点である。
敗戦後、キリスト教文献・聖書、キリスト教に惹かれたのはその直後である。マルクス、その他古典政治経済学の雑誌をやったのもその直後である。
したがって、敗戦後ただちに復元を始めたスターリン主義的な現実運動や、デモクラティズムに惹かれることはなかった。わたしは、戦後現実の労働組合運動をやっては追われ、ということを数年置きに二回繰り返しているが、戦争期に社会的ファシズム・農本的ファシズムに結晶せざるをえなかった社・共を中心とする犠牲適正時運動と現実上共働しても本質的に惹かれたことはない。
わたしは、自分で思想の通路を作りたかったし、それを作りえなければ、わたしたちの年代は、本質的であればあるほど思想的にも、現実的にも生きられない、というふうにおもわれた。社・共を頂点とする戦後スターリニズム運動は、わたしの年代の本質性を生かすことように存在しなかったし、今も存在していない。しかし、わたしは戦後に生きたのであり、生きている限り、戦争の死者だけは非難することなく、その錯誤を自己媒体として思想的に生かすという方法を講じてきた。たとえば、「軍艦大和の最期」を書いて、見事に死にうるものが、最高の人間的価値を持つという日本的「自然」信仰の世界を、体験者として描き、またそこから偶然に生者の世界にもどされた吉田満が、善良な銀行員となり、キリスト者となったという経路が、よく理解できる気がする。わたしは、けっしてそんな道をとらなかったし、採ろうとも思っていないが、それはこの著者が、よく戦争で死にきり、わたしが全部は死にきれない戦争体験を経たというまったく偶然の差異にしか過ぎないものである。
わたしは、シスモンディ、サン=シモン、フーリエ、プルードン、バクーニン、マルクスなどから思想的な恩恵を受けたが、日本マルクス主義運動や、民主主義運動から恩恵を受けていない。彼らが行っている古典マルクス主義(スターリニズム)の系譜化は、必ず解体し、止揚されるということを固く信じている。反省する能力なき家系意識は、生きる能力がないものである。
しかし、恩恵はなくとも、惰性の世界はある。わたしが、戦後の古典マルクス主義とその周辺の進歩主義と、決定的に決別しようと心に決めたのは、安保・三池闘争以後である。わたしがそこで体験し、目の前に見たものは、百メートルの目の前で、官憲から叩かれ、血にまみれながら闘っている青年達を見ながら、大衆のその闘いへの参加を阻止して立ちふさがり、「整然たる」デモ行進へ追いやった日本共産党とその周辺の進歩運動の姿であった。もしも戦略と戦術に具体化されて現われる日本の大衆と知識人の反権力思想が、かかることを冷厳に行いうるものでありうるものであるならば、幾多の転向と挫折を繰り返してきた、明治以後の近代日本思想にとって喜ぶべき厳しさであると思う。わたしも、またそれまでは恩恵なき存在であるというに過ぎなかった日本共産党とその周辺にある進歩派民主市民主義者の思想的誤謬による崩壊の姿を、手を貸して加担することなく冷淡に見送らねばならぬ。もちろん、わたしの「自立」思想の展開が、日本大衆と知識人に対して無限責任を負うという意志を前提としてである。わたしは、それを契機にして日本共産党や進歩主義とあいまいな妥協を繰り返している文学的な同志達と、決別した。彼らは、個人としてどんなに優れていても、善意に富んでいても、わたしとは一切無縁である。
隠してわたしの貧弱な歩みと、激しい思想のトレーニングは第二の段階に入った。わたしは戦争世代を自己離脱し、それらの運動を克服するために、ここ数年を歩んできた。
現在の段階で考えると、日本の知識人ウルトラ=ナショナリズムの美麗なスローガンの背後に、醜悪な現実が付着していた、というリアリズム覚醒の形で訪れた敗戦体験は、ただ古典「ナショナリズム」(ウルトラ=ナショナリズム)と、古典インターナショナリズム(スターリニズム)を否定的媒体とするための前提をなすに過ぎない。わたしたちが、戦後包括し、止揚しなければならない課題は、未知なものを含めて、これよりはるかに広範に亘るはずであるが、今確かにそれを指摘するだけの力量が、わたしにはないのである。
五
戦後ナショナリズムの問題
わたしの考えでは、戦後日本の知識人「ナショナリズム」の思想的な展開は、おおよそ二つの側面から考えられる。
一つは、竹内好、久野収、鶴見俊輔、橋川文三、藤田省三などのよって代表されるもので、その特色は戦争体験と知識人インターナショナルリズム、ウルトラ・ナショナリズムの転向経験を検討しつつ、そこから戦後における思想的な王道を探るという方法意識に要約される。
もう一つは桑原武男、加藤周一などの近代主義的な外国文学者による日本の近代文化の様相の検討を通じての「ナショナリズム」の方向づけである。
前者の場合、その方法と展開とにそれぞれ固有性が存在するが、その根底にあるものは、大衆「ナショナリズム」にいかにして、知識的方法から接近するか、大衆「ナショナリズム」は、いかにして、裏目につねに醜悪なリアリズムが想定されるというような形ではなく、土着性として捉え得るかという問題意識に貫かれている。その方法は、大なり小なりプラグマチズム的である。たとえば最も鮮明な問題意識を持っている鶴見俊輔の場合をとれば、アメリカ=プラグマチズムの方法を、日本の大衆「ナショナリズム」の定着に試みるという形が取られる。竹内好の場合、中国・東南アジアに対する戦争と、アメリカに対する戦争を戦争とを、太平洋戦争について区別することによって、大衆「ナショナリズム」の土着化の課題に接近しようとする。久野収、橋川文三、藤田省三などの場合は、戦後マルクス主義者が捨てて省みなかった近代日本の「ナショナリズム」思想を深く再検討することによって、この課題に間接的に接近しようとする態度が、古典マルクス主義、リベラリズム、ナショナリズムの転向体験、戦争体験、天皇制問題の追求を通じて貫徹されようとする。
たとえば、この内もっとも異邦的な鶴見俊輔の方法を「日本知識人のアメリカ像」を通じて考えてみよう。彼は、まず日本知識人の「ナショナリズム」が生み出す虚像についてアメリカ観を軸にして語る。戦争期に鬼畜米英論を書いた知識人は、戦後日本共産党の排外民族主義路線に便乗して「今年こそ国の内外/力を合わせ/われわれを戦争地獄に追い立てる/あぶらぎった白鬼どもを逆に/地獄へ叩き込め」(赤旗昭和28年1月1日赤木健介)というような米国観を披歴する。それらは虚像として同一である。青年時代、大なり小なりアメリカから影響を受けたり、アメリカへ留学したことのある知識人達も、戦中・戦後にかけて同じような虚像を披歴していることを鶴見は指摘する。(ライシャワー文化攻勢という言葉は、ソ連・中国に対する彼らの虚像を写す鏡である)
ところで、日本にも米国にも、ソ連や中国にも虚像を持たないというリアリズム覚醒を敗戦体験とした私には、「虚像」を「虚像」で打つという進歩派にも保守派にもあまり関心がない。いずれ虚像は死に、彼らが現実に引き下ろされるとき、思想の土着化の課題が、彼らにやってこなければならないのだ。
私の敗戦体験は、虚像から覚めるという形で訪れたことを示す一例を挙げよう。敗戦直後、米軍が進駐したとき、どんな目にあうのかと緊張したおもいで、動員ーー疎開の地方体験から、東京の街に帰ってみて、米軍兵士がガムなどを噛みながら有楽町の雑踏を寿を肩にかけてぶらぶら歩いているのを見て、ああ、俺の現実認識はどこか違っていたなと感じた覚えがある。この一例は、わたしにとって普遍的な体験のほんの一つをなすに過ぎない。従って、虚像がアメリカについて指摘されても、ソ連・中国について指摘されても、日本のスターリニズムやファシズムについて指摘されてもわたしには、すでに自明のことでそれほど迫力のある意味はない。
鶴見の指摘する方法が、私にある熟考をせまるのは、次のような点である。
「(ある)条件下で、天皇並びに役人達は日本人であるという理由だけで友であるか。日本を攻撃するアメリカの飛行機は、敵であるか。わたしはそうは思わない。ある条件下で、獄中で日本の軍国主義と戦っていた日本人は、日本の権力者に対するよりも、アメリカ人と結びついていた。このような結びつきは、当時可能であったごとく、今後も条件の変更にあっては、日本人とアメリカ人の間に起り得ることなのだ。このことの認識を抜きにして、虚像を建設することだけは、はっきり排除したい。」
この見解は、当然ソ連や中共やアメリカが友であり、日本の民衆は敵であるということが条件次第では可能であるという認識を含むものである。わたしはソ連や中共やアメリカにどんな虚像も持たないことを代償として、日本の大衆は敵であるということが条件次第では可能であるという認識に対しては、鶴見の断定に反対したい。あるいは、あるはにかみを以て沈黙したい。インターナショナリズムにどんな虚像も持たないということを代償にして私ならば日本の大衆を絶対に敵としないという思想方法を編み出すだろうし編み出そうとしてきた。井の中の蛙は、井の外に虚像を持つ限りは、井の中にあるが井の外に虚像を持たなければ、井の中にあること自体が、井の外とつながっている、という方法を選びたいと思う。これは誤りであるかも知れぬ、俺は世界の現実を鶴見ほど知らぬのかも知れぬ、という疑念が萌さないではないが、その疑念よりも、井の中の蛙でしかあり得ない、大衆それ自体の思想と生活の重量の方が、少しく重く感ぜられる。生涯のうちに、自分の職場と家とをつなぐ生活圏を離れることも出来ないし、離れようともしないで、どんな支配に対しても無関心に無自覚に揺れるように生活し、死ぬというところに、大衆の「ナショナリズム」の核があるとすれば、これこそがどのような政治人よりも重たく存在しているものとして思想化するに値する。ここに「自立」主義の基盤がある。
スターリニズムの影響下に育った戦後の若い知識層のうちには、一連のプラグマティズム系の学者・思想家による大衆「ナショナリズム」と知識人のウルトラ・ナショナリズムにたいする汎アジア的または、汎西欧的なインターナショナリズムからする検討の試みと方法の発掘を、過小評価するものがいるのは確かである。しかし、スターリニズムはプラグマティズムほどにも自己のスターリニズムの否定的な意義を検討しようと試みてはいない。
それらは、大体解体期にあるとは言えスターリニズム系統が、世界の半分を現実政治勢力として支配しているということに、何か意味があり力があるかのように錯覚し、安堵してそのような検討に手を触れようとしないというのが現状である。しかし、スターリニズム系統の思想と政治勢力は、いかに平和共存や資本主義との平和競争のうちに、未来の世界史の動向を構想しようとしてもそれ自体が背理であり、かれらは「資本主義」との核戦争以外に、世界史の未来を支配することはあり得ないのである。わたしは、これらの虚像を資本制に対する虚像と同じように否定する。それは、大衆「ナショナリズム」の土着化(裏目無しの地点への下降とその思想化による上昇)の立場である。
戦後知識人「ナショナリズム」のもう一つの系譜は、現在まで桑原武夫・加藤周一・上山春平などの近代主義的な西欧文学者・思想家によって唱えられている。これらの論の基礎となっているのは、戦後日本の資本主義が、西欧並の近代性を獲得し、近代国家と言う概念が成立し得るようになった、という認識を含むものである。
加藤周一の「日本文化の雑種性」は、この基盤の上に立った西洋紀行の文化的な反省の体験から成立っている。
「西ヨーロッパで暮らしていたときには西ヨーロッパと日本とを比較し、日本的なものの内容を伝統的な古い日本を中心として考える傾きがあった。ところが日本へ帰ってみて、日本的なものは他のアジアの諸国との違い、つまり日本の西洋化が深いところへ入っているという事実そのものにも求めなければならないと考えるようになった。ということは伝統的な日本から西洋化した日本へ注意が移ってきた、ということでは決してない。そうではなくて日本の文化の特徴は、その二つの要素が深いところで絡んでいて、どちらも抜き難いということそのこと自体にあるのではないかと考え始めたということである。つまり英仏の文化を純粋種の文化の典型であるとすれば、日本の文化は雑種の文化の典型ではないかということだ。」
ここから加藤周一は文化の純粋日本化運動も、純粋西洋化運動も結局は、成就不可能であり、この雑種性を積極的な契約に転化していくより道はない、と結論している。このような近代主義的な西欧文学者・思想家の反省は、いかに位置づけられるものであるかは、私の今までの論述から明瞭であると思う。これらは近代日本の知識人「ナショナリズム」の抽出過程と、その裏目にリアリズムの認識として対立した日本知識人のインターナショナリズムに対して日本の社会・文化の実体構造を、まず実体構造として前提としなければならぬ、ということを主張しているのである。日本の国家(ネーション) を、資本制の社会構造として独自に存在している実体であることを認めるべきだとする論理である。このような見解は、戦早期の知識人のウルトラ・ナショナリズム(天皇主義)とウルトラ・インターナショナリズム(スターリン主義)の体験を経て、もっとも近代主義的な西欧文学者・思想家の手によって唱えられたという意味で、戦後的なものといえよう。
この種の戦後知識人の「ナショナリズム」を政策論として表現したものとして、現在の上山春平の「再び大東亜戦争の意義について」(中央公論昭和39年3月号)の一節をあげることができる。
「新しい国家体制にふさわしい新しい防衛体制の基本的特徴について、いま私の念頭にあるのは次のような諸点である。
(1)国の政治的独立を維持するに必要な、徹底的に防御的で住民の分業的生活体系と密着した、国土の外では機能しえない、非侵略的組織であること。
(2)国の安全と独立を脅かす人災並びに天災に適時対応しうる体制を整えることを目標とし、仮想敵国は想定しないこと。
(3)国民の総意が、生活時間の一部をさいて、何らかの仕方で参加できる権利と義務を持つこと。
(4) すべての国民が短期間ずつ参加しうる組織を維持し、改善するために事務局ないし専門機関が必要となるが、そのメンバーは一般公務員とし、一般国民に対する助言者及び奉仕者としての立場を明確にし、旧軍隊における職業軍人の徴募市民に対する様な関係が再現しないようにすること。
(5)事務局ないし専門機関は内閣総理大臣の直属とするが、運営に当たっては超党派的な議会の防衛委員会(議員外の専門委員を含む)の協議を経る等、党利党略に左右されぬよう最大の注意を払うこと。
(6) 国民は防衛義務の履行にあたって、その体力・能力・志望等に応じて、技能を磨きながら、全国民的規模における防災体制の維持に貢献しうるような多角的な機構と設備を国家に要請しうる権利を持つこと
(7)従来、分散的に処置されていた防災事項安全関係事項一般を総合的に研究する機関を設け、その総合的な対応処置を重点的に行うこと。
」
こういう論議は、日本の資本制が近代的な意味での国家(ネーション)を形成しうるまでに到達したという現状認識と、自己の戦争体験の総体的肯定と、部分的修正をもとにして成立している。それは戦後知識人「ナショナリズム」の一表現である。
私は、上山春平のこの到達点を、安田武の近代主義的な「戦争体験論」や、解体期スターリニズムとの融着を勧めつつある井上光晴の文学表現と共に、戦争世代の面汚しであると思う。私は、人を唖然とさせることが嫌いではないが、上山春平のこの国土防衛論は、もっとも私を唖然とさせる。私の中に含まれている戦争世代の同窓会意識を、どんなにかき立てても、感応するものは含まれていない。いったいこの社会の現実は、上山春平の脳髄の中で、どういうことになったのか。かつての海軍士官は、こういう結論に到達するために、戦後知識人の思想史を歩んできたのか。ここには、戦争世代が全力を挙げて粉砕すべき処方箋しか示されていないのである。この上山春平の見解は、ある意味で戦争知識人のウルトラ・ナショナリズムからの後退であり、又ある意味で解体期スターリニズムとの合流を含む戦後知識人「ナショナリズム」の社会ファシズムかである。林房雄が現在『中央公論』誌上で展開している「大東亜戦争肯定論」は、偏見を去って読めばこれと変わらぬことを言っている。わたしは上山春平に向かって、階級観がないなどと次元の違った観点からものを言うほど野暮ではないはずである
これらの近代主義者、戦争世代の一部、戦争期のウルトラ・ナショナリストの近代主義との混合(林房雄)が、実体構造論として決定的に欠いているのは何であろうか。
それはただ一つ、現在大衆の「ナショナリズム」は一種の「上げ底」の上で、戦後資本制の高度化から思想的な現実の基盤を侵食され(農村の資本制化の進行)で、根拠と主題を失っているという意味を彼らが、全く尋ねようとしない点に存在する。
戦後の「ナショナリズム」は、ナショナリズムのウルトラ化も許さ<れず、又「ナショナリズム」の社会化も許されずに、その基盤である農村を戦後資本制によって収奪されているところで、思想的なアパシイ化を受けつつあるということができる。明治以後の大衆「ナショナリズム」は「ナショナリズム」概念自体を喪失しているところに、現在ナショナルな実体を置いている。
この現状は、上山春平に象徴される近代主義知識人「ナショナリズム」による、大衆「ナショナリズ厶」も資本制国家への統合のイメージも許さないし、解体期スターリニズム知識人のインターナショナリズムによる大衆「ナショナリズム」の吸収も許さないものとして世界史的な連関の中で存在している。
この大衆「ナショナリズム」の現状は、依然として戦後日本の資本制とその影の部分に亡霊のように存在している戦後天皇族の存在の在方に、逆立ちした鏡を見ている。覗き見の興味と、会社の重役に対するような畏敬と、漠然たる自然感情による憧れと人気の象徴として、大衆ナショナリズムは自らの鏡を支配層に見いだしている。
これらの大衆「ナショナリズ厶」の「上げ底」化を、土着化に導く道は、政治的には資本制支配層そのものを追いつめ、突き落とす長い道と、大衆「ナショナリズム」の「上げ底」を大衆自体の生活思想の深化(自立化)によって、大衆自体が、自己分離せしめるという方途以外には存在しないのである。その時、戦後知識人「ナショナリズ厶」による国民的統合のイメージと、。戦後知識人のインターナショナリズムによる疑似社会主義化のイメージは、共に根底から転倒され、止揚されるはずである。この考えは「自立」主義と他称されているが、それは名辞の問題ではなく、現実の問題に他ならぬのだ。妥協のない歩みは、長く困難に続くと思う。
戦争責任者の問題
伊丹万作
最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。
そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れられない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最小限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。
もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からもくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
また、もう一つの別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたらとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(ぜいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。
こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。
しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。
すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位や職能によつて判断する方法である。現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。
しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないか。しかもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはつきりとしているのである。
いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者である。これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。
しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。
たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念をもちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。
もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。しかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。
戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかつた。そのためには何事でもしたいと思つた。国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。このばか正直をわらう人はわらうがいい。
このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。
では、結局、だれがこの仕事をやればいいのか。それも私にはわからない。ただ一ついえることは、自分こそ、それに適当した人間だと思う人が出て行つてやるより仕方があるまいということだけである。
では、このような考え方をしている私が、なぜ戦犯者を追放する運動に名まえを連ねているのか。
私はそれを説明するために、まず順序として、私と自由映画人集団との関係を明らかにする必要を感じる。
昨年の十二月二十八日に私は一通の手紙を受け取つた。それは自由映画人集団発企人の某氏から同連盟への加盟を勧誘するため、送られたものであるが、その文面に現われたかぎりでは、同連盟の目的は「文化運動」という漠然たる言葉で説明されていた以外、具体的な記述はほとんど何一つなされていなかつた。
そこで私はこれに対してほぼ次のような意味の返事を出したのである。
「現在の自分の心境としては、単なる文化運動というものにはあまり興味が持てない。また来信の範囲では文化運動の内容が具体的にわからないので、それがわかるまでは積極的に賛成の意を表することができない。しかし、便宜上、小生の名まえを使うことが何かの役に立てば、それは使つてもいいが、ただしこの場合は小生の参加は形式的のものにすぎない。」
つまり、小生と集団との関係というのは、以上の手紙の、応酬にすぎないのであるが、右の文面において一見だれの目にも明らかなことは、小生が集団に対して、自分の名まえの使用を承認していることである。つまり、そのかぎりにおいては集団はいささかもまちがつたことをやつていないのである。もしも、どちらかに落度があつたとすれば、それは私のほうにあつたというほかはあるまい。
しからば私のほうには全然いい分を申し述べる余地がないかというと、必ずしもそうとのみはいえないのである。なぜならば、私が名まえの使用を容認したことは、某氏の手紙の示唆によつて集団が単なる文化事業団体にすぎないという予備知識を前提としているからである。この団体の仕事が、現在知られているような、尖鋭な、政治的実際運動であることが、最初から明らかにされていたら、いくらのんきな私でも、あんなに放漫に名まえの使用を許しはしなかつたと思うのである。
なお、私としていま一つの不満は、このような実際運動の賛否について、事前に何らの諒解を求められなかつたということである。
しかし、これも今となつては騒ぐほうがやぼであるかもしれない。最初のボタンをかけちがえたら最後のボタンまで狂うのはやむを得ないことだからである。
要するに、このことは私にとつて一つの有益な教訓であつた。元来私は一個の芸術家としてはいかなる団体にも所属しないことを理想としているものである。(生活を維持するための所属や、生活権擁護のための組合は別である)。
それが自分の意志の弱さから、つい、うつかり禁制を破つてはいつも後悔する破目に陥つている。今度のこともそのくり返しの一つにすぎないわけであるが、しかし、おかげで私はこれをくり返しの最後にしたいという決意を、やつと持つことができたのである。
最近、私は次のような手紙を連盟の某氏にあてて差し出したことを付記しておく。
「前略、小生は先般自由映画人集団加入の御勧誘を受けた際、形式的には小生の名前を御利用になることを承諾いたしました。しかし、それは、御勧誘の書面に自由映画人連盟の目的が単なる文化運動とのみしるされてあつたからであつて、昨今うけたまわるような尖鋭な実際運動であることがわかつていたら、また別答のしかたがあつたと思います。
ことに戦犯人の指摘、追放というような具体的な問題になりますと、たとえ団体の立場がいかにあろうとも、個人々々の思考と判断の余地は、別に認められなければなるまいと思います。
そして小生は自分独自の心境と見解を持つものであり、他からこれをおかされることをきらうものであります。したがつて、このような問題についてあらかじめ小生の意志を確かめることなく名まえを御使用になつたことを大変遺憾に存ずるのであります。
しかし、集団の仕事がこの種のものとすれば、このような問題は今後においても続出するでありましようし、その都度、いちいち正確に連絡をとつて意志を疏通するということはとうてい望み得ないことが明らかですから、この際、あらためて集団から小生の名前を除いてくださることをお願いいたしたいのです。
なにぶんにも小生は、ほとんど日夜静臥中の病人であり、第一線的な運動に名前を連ねること自体がすでにこつけいなことなのです。また、療養の目的からも遠いことなのです。
では、除名の件はたしかにお願い申しました。草々頓首」(四月二十八日)
(『映画春秋』昭和二十一年八月号)
1戦後日本の支配過程
1960年5月から6月にわたる日本社会の状況の特徴を示す二人の外国人の評言がある。一つは中国人のものであり、他の一つはアメリカの著明な神学者のものである。中国人郭沫若は「日本国民に寄す」という漢詩において
「無恥之尤岸信介 不知悔禍昧天良
喪心己認賊為父 厚瞼還甘自作娼
三島民情今蹶起 五州輿論正瞻望
駆除寇盗争民主 富士山頭旭日光」
と言っている。(人民中国1960年第六号)他方、アメリカのハーヴァード大学の教授であるP・ティリッヒはーーーーと言うよりも、かつてナチスによってドイツの大学から追われ、その後アメリカで活動している現代世界での有数の神学者の一人であるP・ティリッヒは、日米知的交流に本委員会の招きで来日していたが、彼は「日本の印象」を尋ねられて次のように答えている。
「私はこの国で政治的情熱が強まっている時に居合わせた事を喜んでいます。なぜなら、こういう事がなかったら見られないような日本の性格と言うものが沢山見られるでしょうから。遺憾な暴力行為は沢山ありましたけれども、若い人々が政治に責任を感じるのは良い事です。彼らは何等かの形で政治的決定に加わらなくてはなりません。彼らの方法が良かったかどうか私には判断出来ません。しかし、何れにせよ、政治的情熱が何等かの形で表れた事を喜んでいます。」
政府が「無恥之尤」となった時、国民の中の特に「若い人々」が「政治に責任を感じ」ていたと言うのが、外から5.19をめぐる日本を、二つの地点から照射してみた場合の最もくっきりした輪郭なのであろう。このような状況の内部構造は第一章以下で詳しく述べられるはずである。この章での課題は、そうした状況の歴史的前提をなすいくつかの要因を選んで説明しておく事である。それは当然一方、「無恥之尤」なるものとなるに至った戦後日本の支配過程を、他方「政治に責任を感ずる」に至った抵抗運動の過程をできるだけ構造的に概括する事となろう。
戦後日本の国家と国民
敗戦による国家機構の崩壊と共に、日本では祖国と国民の観念も四散した。「御国のため」に生きる「われわれ国民」と言う共同の意識の側面は私たちの精神の中にほとんどなくなった。
そしてそれは歴史的理由を持っていた。近代日本は「我が国古来政府ありて国民無し」と言われた明治維新の状況から国家政府の主導のもとに国民社会を作り出してきた。だからして、ここでは意識の上でも、したがってまた権利の上でも、「国民」は国家機構に先立つものとして独立の存在足る事ができなかった。それは絶えず国家機構の下にこれとくっついて存在する随伴物に過ぎなかった。祖国と国民の観念が国家機構と共に心中するのはこの意味では当然であった。そしてその事は望ましくない事ばかりだとも言えない。国家に先んじて独立のネイションの概念が存在することができなかったことは、確かに日本の近代化の構造の弱い面である。その点については強い自覚を必要とする。しかしだからこそ根底的にその構造を改めていくためには、国家の随伴物となっているようなそんな脆弱な国民の観念は跡形もなく無くなってしまう方が良い、という面もあるのだ。明治以来の建物が焼け落ちるのと共に国家制度という機構的建物がことごとく廃虚とかしても、なおその荒野の中に厳然と見えざる精神の秩序として立っているような「祖国」と「国民」の観念でないのなら、それはむしろ完全に一掃された方が良い。物質的条件と政治的条件にける荒野に加えて精神的秩序における荒野が立ち現れれば、その時われわれ日本人は、初めてホッブズ的な意味での自然状態を体験する。つまり国家もさらに社会性制度も存在しない前の人間として、最も自由に生きる事から出発するのである。そうして一切の制度から独立した人間の交流を通して相互生存の規範が生み出された時に、初めて制度に対する日本人の主体性が回復され、制度を与えられたものとしてみる思考方法が改められる。したがって制度を不断に作り直そうとする精神が生まれる。そこに存在する日本人の共同性の意識こそが権利の上で独立した存在としての「国民」もしくは「市民」なのである。戦後の状況はその可能性へのチャンスであった。しかし、そのような下からの社会形成が自生的に行われないうちに、法律革命は終わり日本の形骸的な機構は系列的に整序され、そのようなものとして外から枠づける意味での秩序が作られた。その能率的な執行は、官僚制によって行われた。
そこで戦後日本の政治過程は一方では価値感情において、「国民」の共同性を持たない指摘個人及び小集団のエゴイスティックな雑居的状況と、他方ビルディングの建築が進行するのと軌を一にして政治物理学的なメカニズムが整然と体統化されていく二方向の共存として現われている。だからして日本に単一の政治社会が存在しているかに見えるのは形骸の整然さにおいてだけであって、見えざる有機的つながりによるものではない。そこで、もし何等かの精神的な共通項によって結ばれた一つの社会の上にのみ一つの国が存在すべきだと考えるなら、戦後の日本は一つでも二つでもなく多くの国に分かれて当然であるようなそういう状態なのである。また日本を一つの政治社会に構成すべきだと考えるなら、分裂した社会状況の中で不断の横の公開相互交渉を通して、あらゆる時点でつねに一つの社会的妥結点を発見し再発見していく以外にはない。分裂の中に相互の対応点を見つけまた逆の過程をとるこのダイナミックな往復運動こそ、典型的に議会主義本来の方法である。しかし、分国制にもダイナミックな過程国家にもよらないで、戦後の支配過程は進行してきた。こうして相互に無関連で有機的な結びつきのない非社会的社会の中に人民は生活し、鉄骨だけで中身のないビルディングのような機構の秩序建てを、主として官僚制が担当する格好となった。
この間の深い溝は、日常においては国民生活の直接的な利害を官僚制が無原則に決定していく事によって埋められている。生活上の利害は、階層によっても職能分野によっても、また集団毎に、さらに個人毎に分裂しているから、もし一定の原則に従って官僚制が国民利害を決定していくと、絶えざる衝突が各所に起って来るからして分裂は促進されるはずなのである。しかし官僚制が無原則に、その都度大きい利益手段を握っている集団の要求を入れ、また時々は小さい利益手段しか持たない集団に対してもパーソナルな親近さにしたがってその要求を容れるから、ちょうど巨大な骸骨ビルディングは空であるがゆえにビルの所有者や経営者の目の届かないところから、誰でもちょっとは入って見る事が出来るように、住民はそれぞれ時々部分部分的に国家機構に「参与」し、戦時のような全人的国民ではなく部分概念としての「国民」となり、その部分国民性を共有する事によって、単一の政治社会であるかのような外見が保たれている。ここでもしかし戦前戦時と同じくこの部分国民は機構の付属物でしかない。だから官僚制の無原則性は、分化を嫌い、直接的に静的な統一を好む日本の習慣が生み出した日本の智慧の支配過程における表現なのである。
日本の官僚制と官僚政治家
日本の官僚制は近代的官僚制の像から決定的に外れた要素を持っていた。近代官僚制の理念は文章で明確にかつ客観的に規定された権限に従って機械的に支配機能が営まれることだ。だから一定範囲の社会現象に対してのみ、予測可能な一定の処理が行われるに過ぎないのである。対照的にも方法的にも恣意的な支配はそこにはあり得ない。またそうした支配の機能が純粋に機械的形式的である事によって、逆に機械的でない人間の生活部分ーー精神や個性的な生活領域ーーは完全に人民の自由なる判断と選択に任される。というより寧ろ、その市民的自由が社会的に広く存在することを前提として、その上で行政上の形式的統一を図ったものが官僚制なのである。むろんその場合に注意されねばならないのは、その官僚制の形式性とは前項で述べたような個別的存在と無関係な形骸的機構性とはまったく異なると言う事だ。形式は人間が共存出来るための共通のルールであって、形式であるがゆえに各個別性を貫いて普遍的でありうるのだ。形式は個別者の恣意性を前提の一つとはするけれども、それを貫く普遍的形式への志向をいささかも持たない、従って市民的自由と両立する契機がない。
近代官僚制の理念においてこうであるからして、個々の官僚は、自分が専門官僚として作用くときには、自分の主観的判断や政策を完全に抑制しなければならない。「主観の禁欲」が官僚のモラルなのだ。むろんそこには一人ひとりの官僚が自分の判断や自分の意見や自分の政策を持ち、かつそれを主張しようと言う欲求をも強く持っていることが当然の前提となっている。だから禁欲なのである。また、その禁欲は官僚と言う職業の倫理であって、官僚になった人の市民としての倫理ではない。
しかし、日本では官僚は主権者によって決定された客観的権限を、私的判断を交えないで、純粋に形式的に忠実に執行する「機械の部分品」とはなり切れなかった。市民的自由が社会一般に存在していなかったし、政治権力の介入を拒否するような強い宗教も一般的にはなかったから、官僚制の機能を純粋に形式的なものにしておかなければならない社会の必要がなく、したがって近代官僚制の理念もまた起らなかった。ただ天皇の名のもとに働くと言う意味で、あらゆる政党政派からの「中立性」が戦前は日本官僚の建前とされていた。それはむろん「形式性」とはまったく異なる。中立性とは政党政派から独立に実質的な政治的決定を行う事であったから、政治の禁欲どころか逆にどんな政党政派の意見や力も無視した恣意的な政治的決定をする事が出来た。何しろ近代の日本には、官僚がそれに対して自らを道具とすべき実質的な主権者がいなかったのだ。むろん建前は天皇主権ではあったが、その天皇は絶対者もしくは絶対者の地上における代理者として究極の決定を行うものではなかった。明治時代には伊藤博文等の強力な側近実力者が本来のインナー・キャビネットとして作用したが、その後においては決定は支配層全体の内部における相互のよりかかり現象の中から醗酵してくるものとなっていたから、決定の責任の帰属点が無くなって構造的な無責任を生んだ。それだけに逆に温微な決断のチャンスは支配機構の中に空気のごとく偏在していた。官僚は道具として自己を機能させるよりも、この匿名にして無責任な決断過程に参与する。そのことによってのみ支配機能を営む事ができる。だから日本では、「主観の禁欲」を行って自分を完全に執行機械とするような、近代官僚制の典型的な実践者は、支配機能を果たしえないから、日本の官僚としては、有能な働きをする事が出来ない。そういう律義な官僚も数の上から言えば少なくないが、日本官僚制内部では有力とはなれない。そこで、自分の高い能力を自分の仕事において発揮したい官僚は、官僚である事によって政治家であると言う意味での官僚政治家となっていくのだ。そうして官僚政治家は、建前の上では天皇主権の下で働く中立的機械であったから、あらゆる政治勢力の制約から自由に、従ってたいへん恣意的に決断出来た。この中立性を逆用した恣意性が許されているがゆえに、官僚政治家はどんな事でもやれるし、そこで最も強靱な政治勢力となることが出来た。どんなに自分の権力欲を満たしてもそれは公正なる中立的行為なのである。まことに都合の良い立場であった。
それでもまだ戦前においては、官僚政治家の恣意的な権力行使もとにかく天皇の「名」のもとに行われねばならなかったから、誰の目にも明らかであるような勅語違反は出来なかったし、また「天皇の赤子」が多数危害を受けたような場合には、一応の形式的責任を負わねばならなかったが、戦後にはその「名」が無くなったから、ただ実質的にアメリカの支配層によりかかりくっつこうとするだけではなく、国内での権力行使については、原理的制縛なり人格的恭順なりの自分の支配行為を縛る何者かをまったく持たないことになってしまった。むろん繰り返しいっておくが戦前にあった権力行使の制約方法は、責任による方法ではなく、むしろ逆説的に言えば、支配の無責任の結果として生み出された、日本政治社会に特殊なフィード・バックの方式であったのだ。物理的な政治権力が物理的な形で無制限に使われる時には、社会的不安定を絶えず引き起こすから、絶対君主的なまたはヒトラー的な超強力の支配者でなければ持続的に治め切る事は出来ない。(それも人間に自由への本能がある限り、長続きすることは不可能なのだ)日本の弱い支配者にとっては、どうしても権力行使を適度なものに緩和する手段が必要だった。しかも法による原理的権力制限は、自己を厳しく縛る事には耐えられない弱い支配者にとっては望ましいものではなかった。そこで天皇と言う特定人格への人格的恭順の感情を支配過程に組み入れる事によって、権力の荒々しさと物理的な圧服性を緩和しようとしたのである。精神的厳しさも物理的強力さも避けねば歩けない弱さが個々に象徴的に現われているのだ。この天皇への恭順感情は恭順感情それ自体としてもキリスト教徒の「主」にたいするような、徹底的な恭順ではなく、実力については天皇など大したことはないと腹の底では考えながら、しかし昔から尊いものとされているのだから、その社会的習慣に従って尊いものと思い、ありがたいものと感じていただけのものなのである。そんなあやふやな根拠しかない社会的習慣から自分一身をすら切断出来ない弱い精神の者が社会を支配しようというのだから、徹底的な原理的支配も徹底的にニヒルな支配も生まれるわけがない。そして責任とは成り行き次第で流動する対人格的感情によって保証されるものではなく、状況を越えた原理的規定によって保証されるものであるからして、天皇制的権力緩和の方法は、支配状況についての責任意識をもたらすものではなかった。だからして、その意味では戦後国内での対人格的恭順感情が失われると権力制限の方法が支配者の中からなくなってしまうというのは、天皇制の一つの特質が最大限に純化されて表れたものだと言えるのだ。
権力緩和の方法は失っても、弱い支配者である事には変わりはないので、そこで官僚政治かは一つは国外に依存すべき相手を探す。本来縦の関係である恭順関係を本来横のものである国際関係に置き換えるのだ。その恭順の横倒し工作にとっては戦後占領時代の米日関係は最も適合的であった。本来の横の関係が一時的に縦の関係になっていたからだ。官僚政治家はそれと共に、国内においては成り行き主義になる事で、強力な権力行使による社会現象の裁断をできるだけ避ける。時間の経過に身を任せて「何とかなっていく」ことを期待するのだ。これなら主体的決断に伴う責任から逃れることができる。このアメリカの支配層と自然のカレンダーへの二つの依存の交替が戦後の官僚政治家の支配過程なのだ。5・19、6・15での物理的な暴力の乱用やハガティ事件の際の普通のデモ参加者をあたかも主謀的「関係者」であるように仕立ててまで逮捕したり、まためちゃくちゃな捜査の仕方をしたり、するような、権力の無制限の行使をする場合は、必ずアメリカの支配層へ依存した姿勢でそれを行っている。決して主体的にやっているのではない。その面については、マルクス主義者がつねに繰り返す「アメリカ帝国主義の手先」という批判は当たっている。嫌むしろもっと酷いと言うべきだ。アメリカの支配層が手先としての行為を要求していないような状況や問題についても、進んで手代になろうとするからだ。U2機事件の処理はまったくそういう点を良く表わしていた。当時、ノルウェイやパキスタン政府はアメリカにはっきり抗議したのに対して、日本政府はU2機が気象観測機であるかどうかを問い合わせる事しか出来なかった。また自ら進んで日本国の身体を提供しようとする新安保条約自身がそういう精神状況を良く表現している。マルクス主義者の考えるように、アメリカ帝国主義がああしろこうしろと命令して、その命令通りを忠実に行っているだけではない。それならまだ、自分を他者の機械的手段としているものが持つある種の誠実さが感じられるし、その行動は機械的忠実さを持つだけにすっきりしたところが認められるのだが、今われわれを支配しようとしている官僚政治家は、要求されない事についてまでも、こうしたら気に入られるだろうと気を回してお追従を言ったり、「先生、あいつは国際共産主義の手先なんですよ」といって、友達を陥れ告げ口して行く、あの最も卑しい亜優等生の精神を持ち、怒られても知らん顔をされていてもつねに尻尾を振ることしか知らない飼い犬の根性で事を行っているのである。丁度この姿勢は天皇制下で暴力を振るうばあいと相似である。しかしアメリカの支配層に心理的によりかかりながら行うこの裸の権力行使は、他面で時の経過への依存と裏腹をなしてつながっていて、つねにそちらに転化している。5・19であんなに酷い単独強行採決まで行った者が、「国民運動」の請願を聞き入れて採決を無効にして慎重審議に変えることをあえてしないのなら、それほど誤りを承知で押し通そうと言うのなら、当然参議院でも単独採決を行うのが、権力の論理として当然である。にも関わらず、時が経って「自然成立」するのを待つ事しかできないというのは、暴力的権力に頼るものとしては、なんと権力に対する確信のない事だろうか。自分が主体的に持っている唯一の武器に対してすら確信を持てない、そのひ弱い精神は、ファシストとしてすら完全に落第である。個々には権力主義者として権力によって社会状況をどこまでも切り開いていこうとする原則もなく、かといって後の章で詳しく述べられるであろうが、議会主義原理によって支配過程を営もうとする原則もむろんない。言うまでもない事だが、単独採決と言うのは自己矛盾であって採決ではあり得ない。採決とは複数の対立者の間でのみ行われ得るものだし、また少数意見の尊重をしないで多数決をやるのなら議会は不要である。多数派総選挙の時に決まってしまうのだから、少数意見から学び取ることをしないのなら、わざわざ議会で討議の真似事をして無用の時間をとる事は政治の能率を甚だしく悪くするだけである。議会主義は能率の低下のマイナスよりも反対意見者との議論によって啓発されるプラスをより大切と考える事によって作られたものなのだから、そのプラスを取らずマイナスだけを取るくらいなら、議会などやめて選挙で決まった多数党が、次の総選挙までの間は一切の支配を請け負って、自分の好きなように全政策を決定し、実行すればよいだろう。そうすれば非能率のマイナスが無くなるだけでなく、その間の出来事には多少の責任を取らねばならなくなる。相手が座り込むから単独採決したんだなどという自分の行為の責任逃れは出来なくなるだろう。自民党主流派が断然議会をやめるならば彼らは立派な単独採決派であって「国民」に向かって、正々堂々と挑戦する主体的な権力支配者である。今のままでは実に卑しい単独採決派なのである。
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2戦後日本の抵抗運動の過程
戦後の「自然状態」と私生活主義
政府が政府である事を完全に止めた時、被支配者の中から政治行為が生まれた。戦後、部分的に国家機能につなげられているだけで、国家そのものに対しては無関心になって、都市では消費面での私生活享受主義、農村ではエゴイスティックな直接利害追及主義によって生き続けてきた日本の被支配者の中から、突然大きな「政治的情熱」が生まれて、政府行為を行わない名目だけの政府は止めるべきであるという抗議運動が起ったのだ。その運動の中には、戦後日本の支配者を貫いていた二つの依存主義を廃棄して国際的にも、国内政治的にも自立主体性を回復すべきだと言う民主主義の理念が含まれていた。支配者の側の政府行為の完全停止は依存主義の象徴的発露であったのだから、運動の側は当然そうなるはずであった。だからしてそれまでの新安保条約反対の運動は「俄然」広がると同時に、すべての面で自律的主体足る事を要求する普遍的理念に支えられるものとなった。内面的高まりと深まりとを得たのだ。現在の現実政策としては新安保反対は無理であると思っている者も、政府がこの理念そのものの完全な敵である事は疑えなくなり、「慎重審議」に復せと抗議するのようになったのだ。
「国民とは国民たろうとする人民だ」。また、「国の方向を作りだしていく人民だ。」そうだとすれば、ここでさまざまの形で・・沈黙の監視を含めた・・運動に参加した人々こそ「国民」ではないか。政府と国家機構の外で、自ら日本の政治の方向づけを行う「被治者」は、自分が権利の上で国家より先にある者としての「国民」である事を知りかつ示した。これは、むろん5・19における政府の自己廃業によって触発されて急激に出てきた「政治的情熱」であったには違いないし、またそこに歴史のダイナミズムが表れてもいるのだけれど、しかしまた他面では戦後の運動の歴史の続きでもあった。
現代の私生活への没入主義派、現在の政治的事件に対しては無関心ではあったが、その一つ前の時代の政治に対しては無関心ではなかったような、そういう政治的無関心であった。かつての戦時体制の中では、伝統的には「百僚有司」つまり「官僚」つまり「臣」つまり支配層にまったく属していないところの「衆庶」つまり植物的「民草」つまり受動的服従さえしておればよく、何らの能動的な責任を持った政治的社会的行動を要求されないばかりか禁止されていた最も「気楽な庶民」が、すべて国家に無理に献身させられた。「特別志願」を強要された。それへの抵抗は当時は出来なかった。戦後になってから行ったのである。闇市で「特攻崩れ」が暴れたのは、一番急激な形での戦争中への抵抗であった。ほとんどの日本人が戦争中の国家に国家一般のイメージを見いだして、それに目を向ける事さえ拒否した。後になってから抵抗すると言うのは日本の伝統だ。日常生活の中に起る小さい支配・被支配の関係についてもそういう事は一杯ある。「恨みを晴らす」形で抵抗が行われるのだ。この場合には普通抵抗される方はタイミングを外された打者のように、不意を突かれてポカンとする。問題そのものに対して追及し、問題を起こした行為の責任をきっちり取らせるのとは逆なのだ。心情的に嫌な思いをさせられた事への仕返しであって、問題行為の方はさっさと忘れる事が多い。池田首相はすでに5・19の積極的協力行為の責任から一ヶ月後には解放されてしまっているようだ。ところが太平洋戦争はちょっと違う。この場合には「嫌な思い」は精神的肉体的全身の破壊であったし、それをやったのは「総動員国家」だったから、東条首相のような象徴的な人が「うらまれ」もするけれど、同時に全社会を組織づけようとする現代「国家」そのものへの「うらみ」が集まる。国家そのものへの抵抗は、政治に見向きもしないで私生活に熱中することであった。
しかし、戦後の私生活第一主義はもう一つの条件によって強く基礎づけられていた。闇市的状況に象徴される戦争直後数年間の体験である。そこでは国家は日本人の生命を何ら保証しなかった。戦争中ならまだ、はかないものではあったが、防空壕政策を行い、戦場では「友軍」の援助はできるだけ行われるべきものであるとされていた。戦後数年間は違う。ささやかな闇薯を取り上げようとはしたが、餓死に対する保証はしようとしなかった。法律はすべて飾りとしてだけ作られていた。国家などに頼っていて生きられるものではない、と一般に考えられた。事実ほとんどの日本人が国家の外で生きた。国家は信用を失墜したのである。これは日本における自然状態の出現である。戦後の日本人の内面は、この地点をくぐり抜けてきている。だからすべての日本人の精神態度は、主観の契機を中核にするようになった。生活上の私生活主義はここに根を持っている。国家の役人になったり、政治家になったりする人も、現在日本の国家に献身しようと思っているのではなく、(1)自分の地位衝動と権力衝動を満たすためか、あるいは(2)それ以外に自分の技能を活かした生活手段がないからか、そうでなければ(3)自分の国家理念に献身してそれを実現に近づけたいと思ってか、とにかく、主観の契機が強いのだ。単なる地位と権力への衝動によるのは特権官僚と官僚政治家に多く、第二の型はサラリーマン官僚に多く、第三の型は革新政党及び左翼運動家に多い。分蚊帳思想の面でも類似の思想傾向は強い。むろん、この戦後状況のくぐり抜けの意味を十分に自覚しないで、戦争以前の思想体系そのままの中にすっぽりとはいってしまっている意識形態は非常に多い。だから戦後における主観の契機の強まりが一番よく表れているのは、イデオロギーの面ではなく、直接的な生活形態と国家官僚の支配の仕方の中とである。
戦後の運動はこの線に触れた場合のみ大きなものとなった。地位と権力に対するまったくの私的衝動、しかも卑しいよりかかり主義によってそれを満たしていこうとする支配者に対して、私的生活圏を自分で確保しようとする態度が対決した場合に、運動は民衆の中から起った。そうして、憲法を最初自分たちが受け入れ民衆に押し付けた支配者が、まったく憲法に縛られないのを見ながら彼らに対決していくうちに、私生活の擁護を憲法によって基礎づける事を民衆の方が知ってきた。それは始めは自分の欲求の単なる合理化の手段としてであったが、次第にそれは精神的根拠となっていく。単なる「健康で文化的な生活」の主張から自然的「人権」へと援用部分が変わって行く。俺の事は俺の自由なる判断でやるべきなのだと言う権利感情がそこに育っていくとすれば、そこの初めて社会的に生きた規範として憲法精神が作り直されていくだろう。ちょうどヨーロッパの法の一つの原形をなしたローマ法ができる時代に、すべての人が「自ら立法しすべての人は逞しき男に属した」ように、男も女も自然権的権利感情から、社会構成の規範を下からまた内から作っていくようになる。
戦後の民衆運動の構造
そうした戦後の「精神」に導かれた民衆運動の第一回目の大きな渦潮は45,46年の日本の「自然状態」の中で起った。日本人はそれぞれめいめい自由に相手を見つけて交流した。餓死の危険に曝されてはいたが、すべての面で自分の工夫による行動が可能であった。この章で使っているような象徴的意味での「闇市」でなく、ヤクザに支配されていた事実上の「闇市」にすら、ヤクザの伝統的倫理だけでなく、自生的な規範が生まれる可能性があった。秩序は相互の生存を欲する民衆によって自由に作られようとした。自然権の相互確認のうちに、下から法が生まれようとさえしていた。「労働者の生産管理」「市民食糧管理委員会」「食料メーデー」「隠匿物資摘発運動」が相次いだ。
そうしたカオスの状況が次第に整理されて行こうとしている時代に、官公労を中心の二・一ストが準備された。労働組合は十分に、この混とんを捉える事は出来なかったと思われる。自己の生活手段なり、生活方法なりを自己に属するものとする感覚、つまり自然権的権利感情を日本社会の基礎に動かないものとして定着させる気運よりも、むしろ一つのイデオロギイの配図にしたがって一挙に日本社会の経済的構造を変革する方向の方を尊重した。
どういう経済体制に変えるにしても、その基礎に自然権の定着が必要ではなかろうか。それなくしてはいかなる集団も官僚化し得るのではないだろうか。それにその基礎付けを持っていないと、労働運動が弾圧される場合にも、組合が一つ潰されたら、それで終わりになってしまう可能性が強い。運動の配図は一つだけしかないのではない。自然権は自然権であるがゆえに、人間の本性がある限りどんな状況の下でもいろいろな方法をとりながら自己を貫徹していくものだ。だから自然権威式に支えられているところには多様な行動の仕方に眼をを明けてきやすい。
戦後の日本は五十年前後から、アメリカの支配層の急速な反共化、米ソ緊張の激化と共に、アメリカの基地国家として「整然」たる機構化や組織化が進んでくる。民主化もアメリカに依り、反動化もまたアメリカに寄りかかった形で行われたわけだ。しかしそれと共に、「自然状態」の混沌から獲得した自然権的権利感情が、機構的組織化によって生産行為における自由が失われてくると、最後の場を求めて一方では消費生活享受主義となり、他方では国家機構をもできるだけエゴイスティックな利益の拡大に利用しようとして「お貰い」行為を通して、前述したような部分的な意味での戦前的「国民」になる。しかしまた、そういう傾向が一般化しているだけに、もし政府が生活手段(土地)そのものを「公用徴収」しようとする場合や、生活方法(消費生活の自由)を取り締まる可能性を示した場合には、徹底的に抵抗する。前の場合が基地反対闘争であり、後の場合が警職法反対闘争であった。現代の日本人は、一度実効性を完全に喪失していた実定法の外で、自分自身の手による自分の生命の保障を行ってきている。国家官僚が定めた法律よりも、何等かの政党が定めた法律よりも、もっと大切な本源的なものとして自分の生命を考えている。もう一歩進んで、法律よりも政策よりも価値において高い普遍的人間の「法」があって、前者は絶えず後者によってその正当性を吟味されねばならないと考えるようになれば、人民主権的な国家批判や正当批判、総じて政治権力への厳しい監視と抵抗が一般的に起るだろう。しかし日本人が国家から価値感情において解放されたのは、明治以後で始めての事だからして、自然権的感情が普遍的権利意識として十分に成熟していないのは当然でもある。だからこそ内灘・妙義・砂川の各基地反対闘争は十分な形では他の地方に住む民衆の共同行動を得ず、運動は生活手段の「公用徴収」の脅威に直接曝されている現場中心の形で、したがって飛び火的間歇的にしか起らなかった。また基地反対闘争の場合には多くの現地が、事実の上では、空襲による荒廃や自分自らによって生命を保証しなければならぬ闇市的状況を、言い換えれば既存社会の分解を経過していない農村が多く、それだけに伝統的な部落の習性が強く、「よそもの」の共同行動を排除する傾向があった事も事実である。
しかそれにしてもなお、敗戦によって国家よりも高い価値を自己の生活に見いだす精神的方向を公然と認める事になっていなければ、あれ程までに堂々と胸を張って政府に向かって「反対」を叫ばなかったはずである。伝統的な形での農漁民の生活エゴイズムや、抽象的理念から国家に至るまでの客観的価値に対するニヒリズムは、歴史的にはつねに沈黙による拒否と頑固な非行動のうちに表現されるものであった。公然として主張としてではなく内に包み込まれたものとして、たとえば特攻隊志願をつのる場合のような献身を求める問に対して諾否を表現しないでいつまででも頑なに石のような無表情をもって俯き続ける形において、従って醍醐的な結果における彼らの生きの微を見る事によってのみ、彼らの意思を知ることができるような、そのようなものとして存在していた。だからして公然と自己の生活手段の自己帰属性を主張する態度は、伝統的な生活臭義からは一面においてはっきり異なってきている。それは国家やイデオロギイの権利要求を拒否するだけでなくて自らを権利づけている。同じエゴイズムでも価値づけられたエゴイズムである。
自己の生活を自己に属するものとして価値づけ権利づける精神態度は、運動の形態としては、土地接収への公然たる反対を絶対化する。価値はこちらにあって接収の相手にはない。「絶対反対」というスローガンが民衆の中から掲げられたのは基地闘争において目立つ傾向である。内灘以来例えば、「地元は絶対反対ーー内灘試射問題」などという「地元民」自身の意向が伝えられることが多くなった。もちろん、日本の進歩主義イデオロギイのなかには一つの問題事に勝負を争う考え方があり、また自分のイデオロギイによって世界のすべてのことを解決し得るし解決しなければならぬと考える、現代世界の左翼に共通の、イデオロギイの独占・独裁の傾向が強く、その両契機が絡み合って、あらゆる個別的闘争においてつねに「絶対反対」を掲げることが好んできた。したがって基地反対運動においても、これを応援する労働組合や知識人や学生などの集団における進歩主義指導者が「絶対反対」と呼号するのはイデオロギイ的には不思議でないかもわからない。しかし民衆自身の中に生まれた「絶対反対」は自然権的権利感情の表れである点で、進歩主義イデオローグの、世界観に基づく「絶対反対」とは思想的質を必ずしも同じくするものではなく、逆に一定の状況ではそうした世界観からする要求にも徹底的に抵抗するであろうような性質のものである。その意味では普遍的に主張される権利感情であるからして、何等かの特定のイデオロギイ集団が、そのイデオロギイによってこれを完全にすっぽりと包摂し尽くす事は決して出来ない者として脈打っている。その点については「革新党派」およびイデオローグは自分に甘い誤った認識をしていないか。例えばこの基地反対運動が自分のイデオロギイを、国民の「日常の利害に結びつける」ものであって、その意味での一つのイデオロギイを支える基礎だという面だけを取り上げてはいないか。この認識は間違いではむろんない。しかしまた、それだけではない。運動の内面的起動力自身は単なる「日常の利害」関心にだけではなくて、自己の生活が自己に帰属すべきものだと感じ取る権利感情がある限りにおいて、そうして、運動を行うことによってだんだんその感情は強くなっていく限りにおいて、すでにそれは体系的イデオロギイの諸々から独立した思想である。どれか一つのイデオロギイだけを支えるとは限らない。のみならず、しばしばイデオロギイに組み込まれてしまうことに抵抗する。その場合に自己決定権の感情の独立性からでているだけなら良いが、その面と共に、価値や理念への伝統的な嫌悪及び部落全体主義から生まれる排外性などからでている面が重なり合ってそういう抵抗を強める。その結果またそうした部落主義自体を強めることにもなりやすい。だから進歩派は、こうした摩擦を起こさないようにすることが、自分の理念の実現のために大切なことだと考えられる。
警職法改正反対運動の場合にも、生活の私的享受の方法に対する国家の統制を拒否する感情を基礎に持っていたが、それと同時に日本の移住と市中間層(サラリーマン)が伝統的に持っている「巡査」に対する身分的優越感が働いていた面もあった。自分より出身身分において低い者に威張られるのは厭だと思う卑しい気分が社会心理学上の動機としてあるとすれば、国家制度への対決が「巡査」個人個人との社会的地位競争にすり替わってしまうことがあり得るのだが、警職法の場合には逆に、そうした伝統的ステイタスへの卑しい固執さえもが国家制度の対決となった。そうなったのは、記憶の中の戦時「総力戦国家」のイメージのなかでは、地位競争つまり下克上と国家の圧制とが一枚となって癒着していて、移住都市中間層はこのイメージと戦っていたからである。実際、戦時翼賛国家においては、革新官僚と結んで社会的地位革命を起こした伝統的土着中間層(地主、古い商家)が国家の統制の担当者として大いに威張ったものである。だから移住都市中間層などが持っている、社会的地位の保守意識ーーそれは帰属の持っている保守主義のように下の身分に対する高貴な義務感を含んでいるものではなく、エゴイスティックな卑しい保守意識であったが、ーーーすらも国家への抵抗として機能することができる状況だったのだ。その状況の記憶に対して戦っていたから、「文化人」も「文化人」たらんとする人も棹いっそうのこと立ち上がり、東京以外の地方で「東京へ行っています」
という例の「東京」という言葉の中に含まれている地位の出世の感覚がすべて動員されて広汎なものになった。しかし、むろんデートの方を国家より大切なものと感じる意識がなかったら運動は起らなかったし、戦中の言論弾圧をくぐって来た新聞・報道機関が国家統制拒否の意思を明らかに持っていなかったら、運動は成功しなかっただろう。新聞は警職法反対運動では、大きな力を発揮した。六・一五と正反対に。そこで私生活享受主義は都市中間層の地位保守主義とも、また、新聞「良識」とも結び、むろん進歩主義政党や労働組合の運動とも結びついて、相互に運動を促進しあう関係を作ったのだった。しかしこの場合大事な点は、いろいろな契機のこうした結合は、警職法と言う一つの具体的な問題に関しての結びつきであって、進歩主義イデオロギイに体系的に結びついたというのではないことである。だから自民党支持者の中にも警職法反対者が多く出たし、また自民党自体の中からも出たのである。この問題別に共同行動をとるという方向は、今後の民衆運動に示唆するところが大きい。これによって、一つ一つの大切な問題については、院内多数党の恣意的支配を許さないで、逆に民衆運動のほうがその問題に関する限りは多数派を占めることが出来るようになる。そうなれば、選挙の結果の多数が絶対的につねにどの政策についても多数であってしたがって何をしても良いのだ、という考えが無くなって、選挙の多数は条件多数であって、例えば憲法改正問題については三分の二に満たない限り条件的少数でしかなく、したがって少数派もまた条件的少数派であって、憲法問題については多数派であるのだという意識が一般化してくるから、民主主義の原則である少数意見の尊重が実行されるようになり得るのだ。多数・少数の条件性という議会主義の原理は、単に多数も次の機会には選挙を通じて少数になり得るというような時間的意味においてだけ存在するのではなく、ある種の問題については少数が多数として作用し得るし、またある種の討議の状況においては、少数派はたとい一人であっても会期切れに持ち込むことによって、実質多数派として自分の意見を特殊な仕方で通すことができる、ということとして存在する。したがって議会主義の原理は本来問題別思考方法によって支えられるものなのだ。またこういう思考法による運動の仕方が進めば民衆は政府・与党の政策自体を改廃をも含めて自由にコントロールすることが出来るようになる。その時初めて人民主権が社会的に活きたものとして成立するのである。
3五月十九日まで
五月十九日以前の安保闘争の概略
いうまでもなく、警職法改正反対運動につづいて今度の新安保条約反対の運動が起ったのだが、この問題は何よりも先ず日本の国歌としての安全と国家としての自立性に関するものだから、土地接収や警職法に反対する場合の直接的な私的動機からは、深いところでつながっているのはいうまでもないが、まっすぐに運動は起ってこない。そこで、1959年一年間は、国の政治そのものについて日常的に関心をも尾定る人々によって、新安保反対運動が行われた。社会党、共産党、総評、知識人、学生、労働組合などが主体であった。
同年三月二十八日に結成された安保改定阻止国民会議は、同年末までに十次に亘る統一行動を行ったが、そのスケジュールは労組の期末年末闘争に会わせて組まれていたし、参加者も労働組合員と学生とが大多数を占めていた。全国で十万人が参加し、最大規模といわれた六月二十五日の第三次統一行動の同時刻に、後楽園スタジアムでも万余の観衆がオールスター・ゲームを楽しみ、さらに何百倍もの数のテレビ観客が野球中継を見ていたというエピソードは、政治関心と私生活享受とが完全にすれ違っていた当時の状況をよく物語っている。知識人はこの時期に積極的に活動した。
三月二十三日に初めて安保改定を批判する声明を発表した知識人達は、三千人を超える学者、研究家、評論家の同声明支持の署名を獲得し、七月には有志によって安保問題研究会を組織した。
十一月にはいると、国会はベトナム賠償をめぐる論戦で緊張した。社会党の追及は厳しく、政府側が答弁に窮することがたびたびあった。南ベトナム政府をもって北ベトナムを含む全ベトナムを代表させる理由が不明確であり、賠償額の算定基準があいまいであり、また二百五億一千六百万円(5560万ドル)の賠償金が軍事目的に使用される恐れがある点にも疑問があり、さらに賠償問題に介在する日本商社の動向にも不審の点があった。 世論は湧き、新聞は政府に反省を求めた。五十九年十一月二十七日の第八次統一行動を前にして、政府・与党は委員会審議を一方的に打ち切ったうえ、暁の国会で衆院強行通過を行って、ベトナム賠償協定の自然成立を意図した。ちょうど「極東の範囲」問題などについて、安保改定交渉をめぐる政府答弁に失言を重ねられていたときだけに、関心を持つ人々は安保条約についても政府の態度に決定的な疑惑を持たざるをえなくなった。この日、請願のデモ隊は国会構内に入り、ちょうど佐倉惣五郎や田中正造の直訴のように「国民」にかわって「直訴」型の請願行動をした。「駆け込んだ」のである。政府・与党は、一方ではこの事件については国会デモ規制案をちらつかせ、他方新安保条約の交渉がまとまった後においても、その正文を発表しようとさえしなかった。岸首相・藤山外相は、1958年はじめから財界人などの会で改定の「長所」を宣伝し、自民党もまたPR文書を発表したりしたが、肝心の条約案文を調印の時まで秘密のまま押し通すという点では、吉田元首相のサンフランシスコの故事を見習った。1960年一月十六日には、全学連は岸首相の調印のための渡米を妨げようと羽田空港に座り込んだ。
しかし、11月27日の全学連及び労働組合員の国会構内立ち入りと、1月16日の全学連羽田デモによって、安保改定反対運動の側の内部の不統一が表面化した。11月27日の事件直後、社会党と総評とは一部に混乱があったこと遺憾と考えるむねの意見を発表をした。共産党は全学連指導部の「トロツキスト」の冒険主義を非難した。もちろん全学連指導部はこれに反論した。前者はマスコミの動向も考慮しながら、国民諸階層の世論を徐々に高め広げようと努力し、後者は一部の学生や労働者の鋭い問題意識の力を激発させようとして、両者は戦術的に対立した。
11・27事件の結果、国民会議派12月10日の国会デモを中止したが、「安保批判の会」は、めげずに独自行動として国会請願を行った。こうして12月、1月、2月と運動内部の不統一はてきめんに運動の停滞状態を生み出した。1月11日「安保批判の会」の抗議集会が国労会館で開かれた時、中島健蔵は近日に迫った岸首相の羽田からの出発について、「全学連が秩序整然として行動をとるなら、批判の会として羽田付近での全額練習会に代表を送って応援する」と会の方針を明らかにしたが、それは全学連に秩序ある行動を要求した点と、その限りで羽田デモに参加する意思表示をした点で、注目された。しかし、1月16日には、国民会議は混乱を恐れ羽田デモをやめ、二万の労働者、市民、学生を中央大会に集めた。全学連主流派は、羽田に行き、警官隊と衝突し、その攻撃を受けた。両指導部間の相互信頼と了解のもとに、労働組合と学生集団とが統一して、規律ある反対行動を羽田で展開することはついにできなかった。
こうした指導部間の対立とは別に、安保反対の民衆運動は深まり始めていた。それは二月以来の衆議院安保特別委員会における討論と五月初めのU2機のソ連スパイ飛行問題の発生とを契機としてであった。安保特別委員会において、「事前協議」「極東の範囲」などが社会党委員によって追及され、政府委員が責任ある答弁をすることが全然出来なかった事は、新安保条約の所為かを如実に示すものとして、また現在の日本政府の性格を象徴的に示すものとして、民衆に大きな政治教育を施した。日本には本来の議会主義が機能したことはなかったが、この機関の安保特別委員会は初めて議会を意味あらしめた。その点では画期的だった。しかもU2機問題が時を同じくして起こり、この問題自身も安保特別委の議題とされ、政府の処理の仕方がまたまたまったく無責任であったことから、民衆の中の保守的な考えを持っている人々も、新安保条約に対して強い疑問を抱くようになった。それに「黒いジェット機」の問題は民衆の安全感を脅かす気配をみせた。
国会への個別・直接請願が大衆的規模で展開され始めたのは、4月4日、「安保批判の会」「が中心で批准反対請願退会を開いてのちのことであった。4月中旬からは、東京都内の民主団体や労働組合が地区別に連日請願をおこない、地方代表も多数参加した。「安保問題研究会」も独自に、各人の主張を請願書に書いて国会へ出かけていった。国会前には近県からの請願者のバスと、いろいろな服装をした人々の列が毎日見られるようになった。そして4月26日には、八万人の請願行進が終日絶えることなく国会へ向かった。こうして運動の足踏み状態は打ち破られ、民衆の自発的立ち上がりを背景として運動の主体性は再び回復されてきた。4月26日の請願権行使を中心とする統一行動についても、全学連主流派の指導部は引き続いて、「お焼香」デモに反対し、26日午後国会正門前で独自に行動を起こし、その結果警官隊と衝突する事件を起こしたが、実際には安保改定反対運動の意識は誇張ではなく、「空前の」広汎な国民の請願権行使によって、はじめて質量共に定着していったのである。国会への請願権運動は質的に展開して、それ以前のように団体がその代表を請願書を一括して託するのではなく、一人ひとりが個人の署名をもって請願権を行使するようになった。むろん請願とはいっても「物乞い」する精神において行われたものではなく、基地反対闘争で地元民衆が「陳情」して国務大臣を取り巻き、立ち往生させるのと同様に、それは権利の行使である限り「対決」であった。それは立憲主義の端緒期に人民が「権利の請願」を行ったのにも似ていた。政府はそれになお一顧すら与えないで安保採決の道を急ごうとしていた。疑念と不安が広く民衆の間に拡がった。そのような時に5・19事件が起ったのである。
5月19日に何が起ったか
19日正午
議院運営委員会理事会は、会期延長の是非をめぐる議論がまとまらず、午後4時28分散会。その後も調整がつかないまま「与党委員だけで運営委員会を開いて、混乱のうちに会期延長の採決を強行した」と言われる。(週間朝日5・20号)
19日午後1時49分から、安保特別委員会の理事会が開かれその後議院運営委の様子を見るため、一事休息。
午後10時25分に衆議院本会議の開会を知らせる予鈴が鳴ると、同時に小沢委員長は突然会議をはじめようとしたため、委員会は混乱。この間に、「新条約承認を求める件」「新協定の承認を求める件」「新条約、協定関係法案整理法」等の三件を多数で可決したとされる。ただ、議事録には、「午後10次25分小沢委員長、休憩前に・・・・・(発言するもの、離籍するもの多く議場騒然聴取不能)・・・午後10時27分」と記されているだけである。
本会議10時50分警官隊導入により、座り込んでいた社会党員を排除し始めたのが11時07分。
11時49分から本会議が開会。会期の50日間の延長を単独採決。社会党民主党、自由民主党の反主流派が入場せず、河野一郎等は途中退場。
日付が変わって20日の0時6分、新安保条約の単独採決。(この強行は6月19日のアイゼンハワー大統領の訪日の前に自然成立するための30日前という日程にあわせて行なわれたという。)
20日各朝刊の論調
朝日:何といっても弁解の余地のない非民主的な行動である
毎日:問答無用の多数横暴と言われても致し方あるまい
読売:議会政治の権威はとても守り得るものではない
そして、19日夕方に国会前に約二万人の学生・労働者のデモ隊が集結、採決が伝わると「安保批判の会」の単独採決反対の声明発表があり、20日には10万人のデモが国会を取り巻く。
これに対し、一週間後の岸首相
「日本は議会政治の国である。その議会で絶対多数を占める自民党の中のそのまた絶対多数が安保条約の採決に参加した。だから、この採決は法規に照らして間違っていない」(週間朝日6・12号)
「院外のデモやストに屈することは、民主主義の破壊だから、断じてとらない」
大学関係者
「そのよって来るところのものは、少しく古めかしい言葉で言えば、誰しもみな国事を憂えていたということ、新しい表現で言えば、社会人・市民としての政治に対する責任の自覚か」(高宮篤「銀杏並木の周辺にて」)
「・・・われわれは、自己の義務に忠実な市民として、日本国憲法の基本原理が冒されたことを黙視することは出来ない。また、われわれは知性の権威を確信する学問研究者として、あらゆる異論の存在を無視することによって理性的討議そのものを根底から否認した暴力を承認し得ない・・・・。」(6月2日民主主義を守る全国学者・研究者の会決議文
丸山真男5月24日
すべての出来事は、あの真夜中の出来事を境として一変したということから、私たちの考え方と行動とを出発させるべきではないか。・・・・今やあの問題は著しく単純化された。・・・あの強行採決の事実を既成事実として認めることは、権力は何でもできる、万能であることを認めることだ。権力が万能であることを認めながら、同時に民主主義を認めることは出来ない。・・・岸政府は一挙に欲するものを手に入れたかも知れない。しかし同時に民主政治のあらゆる理念と規範を脱ぎ捨て、単純な裸の力として、私たちの前に立っている。私たちがあの夜起ったことを否認する道は、ちょうどこれと逆の方法、つまり岸政府によって脱ぎ捨てられた理念的なもの、規範的なものをことごとく私たちの側に引き寄せ、これにふさわしい現実を私たちの力でつくり出していくことである。
竹内好
(安保問題を日中国交の立場から反対していたが)「民主か、独裁か」が現時点での争点であると強調した。
6月15日:
茅誠二東大総長「事件における警察官の行動に、多分の行き過ぎがあったことは蔽うべくもない事実であり、この不祥事の原因は憲法の理念である民主主義に基づく議会主義が危機に陥ったにも関わらず、国家猪木のUを回復する適切な方法がとられず、ついに三旬節に及んだ。このような事態のもとでは、大学が学生教育の任務を果たすことは到底不可能であるばかりでなく、説得その他の教育的方法によって、学生に静穏な行動を求めても効果があるとは考えられない。事ここに至っては、一刻も早く憲法の根本理念に従って民主主義的責任政治の回復が図られる以外に、問題の解決はあり得ない。」
これに対して、文部省当局「外に向かって批判をする前に、先ず学生達を説得すべきである。松田文相「自分の責任を棚に上げてすべての責任を誠二になすりつけようとする態度は許されない」
5月26日朝日新聞「空前のデモ、国会を包む」(20日十万人、26日17万人、6月18日33万人)
6月15日朝日「声」欄の投書
友に訴える
”三悪追放はどうした”
こんなことを今さら言っていると、
全学連に叱られるかな・・・でも大事なことなんです。
岸さんは暴力が嫌いだったんです。
でもやりました。
もっとも大事な時、
最も大事な場所、
最も大事な国民の期待を踏みにじって。。。
でも考えよう。
三池の流血もあった。
家族を抱えた炭鉱労働者の死活を賭けた争いも、
偉い人には単なる暴力でしかなかったんだ。
まして、全学連の突入は、
とんで火に入った夏のウンカかも知れんのだ。
でもね、
どんなに強烈なジグザグでも
警官の棍棒がわき腹をついて
生きが苦しくなった時でも
国民の声を一笑に付した
独裁にも通ずる政治に
社会が黙っている方がおかしいんだ
だけどね
君は・・・きっと暴力を嫌うだろうね
そして僕らを笑うだろうね
6月4日国鉄労組と動力車労組を中核とする全国470万人の参加による政治スト
国鉄は始発から7時まで止まる。そのほか、都市交通、大阪交通、東武交通、茨城交通、臨港バス、関東バス、国際興業バス、全自動車交通(六千台のタクシーが四時間)、官公労では、全逓が全国主要の50局で二時間の職場集会、全電通が1700の職場で一時間、全専売、全林野、国家公務員労働組合共闘会議は一時間の職場集会、日教組は朝一時間の授業カット、自治労は一時間乃至30分の職場集会、民間労組では、炭労は一時間半、合化労連は一時間、全港湾は半日、紙パ労連は4時間、全印総連は半日、全国金属は半日、鉄鋼労連は4時間の職場集会、中立労組では、全造船が一時間、全国ガス30分、繊維労連30分、全国商工団体連合会の加盟店六万店が一時間から終日の閉店ストを行った。
前橋の望月クリーニング店「5月12日に初めて閉店ストをやる時には、そりゃ心配しました。私はまだ好いとして、女房はえらく心配しましたよ。お客が減りはしないかと思ったり、町の人から変な目で見られやしないかってね。」
「(6月4日のストの時は)この時私はもう商人とか労働者とかいう区別など忘れてしまっていたんです。一人でも多く加わって、ピケの壁を厚くすること、これが今人間としてやるべき最も大切なことだと思ったんです。今から考えてみると、町の有力者、お金持ち、権力者といった人達の間に一人でも多くお得意を持つことが信用だと思っていました。一緒にピケを組んでみて、彼らこそ私の本当のお客様じゃないかということが分かったんです。権力者にへつらうことで信用を保てるんじゃなくて、大勢の労働者達に認められ信頼されることで、本当の信用が生まれるのじゃないでしょうか。(世界8月号)
ある国鉄労組員「(全学連が一緒のやっってくれるのは嬉しいと思うが、ストの時は違う)全学連が『労働者、頑張れ』という時、労働者は「ありがとう」という。しかし、ストライキそのものは労働者がやっているんだと自負している。『俺達がちゃんとやっているのに、なんで全学連がホームにまで上がってくるのか。』
政府声明(2日):「一部の労働組合は4日、安保条約の改定阻止、内閣総辞職、衆議院解散を唱えてストライキを行おうとしているが、このような政治ストは明らかに憲法の保障する団体行動の範囲を逸脱するものである」
椎名官房長官(4日)「混乱による事故が極めて少なかったこと」は「国民諸君が」「冷静な態度を取られた結果であり」、「今時行動」は「政治的圧力となるまでに盛り上がらなかった」証拠である。」
朝日社説(5日)「政府は混乱が起らなかったことを行動が盛り上がらなかったからだといっている。大衆行動で盛り上がりの意思が示されるのは。行動の外形において騒然たるものがなければならぬと判断しているようである。・・政府が本心からそのような皮相な判断をしているものとすれば、いわゆる警察官僚的な治安感覚だけにとらわれているからであり、民衆の信条を直接肌で感じとる民衆的政治家としての感覚に欠けているのだ。」
警察当局「予想以上に充実したストであり、反岸の空気が根強く一般大衆に浸透している事を率直に認め」た。
毎日(3日)「政府はこれを純然たる政治ストとし、官公労関係の参加者には断固処分の態度で臨むといっている。政治ストには間違いなく、それを非難するのは原則論としては正しいのかも知れない。しかし現実は単なる原則論では対処できないところまで進んでいる。デモには屈しない、ストにも屈しない、屈すれば民主主義は守れないと岸首相はいう。しかし民主主義を口にするならば、新安保の単独採決は、議会主義に沿うものとはいえない。」
北海道新聞(2日)「われわれとしては、4日の政治ストが合法か非合法かという、法律論の枠内だけでこれ批判することは差し控えたい。このような固定した立場にとらわれている限り、問題の本質がぼかされるだけではない。むしろ『労組は法を犯したが、5月19日の単独採決は法的に正当なものだ』という政府の逆宣伝によってすり替えられてしまう危険性があるからだ。法の権威はその運用者である、政府自体厳正に守ってこそ初めて確立されることを忘れてはなるまい。従って政府のいう『合法の枠内』での国会解散要求の道がすべて塞がれた以上、まことに不幸な事態ではあるが、このような一般市民の抵抗権を含めた抗議ストの波が盛り上がるのも、 ある程度やむを得ない成り行きである。自分の犯した大罪を弁護、正当化するために小罪を徹底的に弾圧するのが、独裁政治家共通の手段である。」
川島幹事長「政治ストは絶対に許さるるべきではなく、国民は内心非常な憤りを感じている。作り上げられたデモやストには国民は踊らされてはいない」
有泉亨東大社研「”ストも無理はない”という、ある意味での支持の空気がうかがわれた。とにかく中小企業の焦点で店を閉めたところもあるというし、労働者だけでなく一般の支持があったことは政府には痛かったと思う。」
「アイク招待取り消し」をめぐるマスコミ
6月10日のハガティ事件を第一の波とし、6月15日の国会流血事件を第二の波として、ついにアイク招待は取り消されることになる。
10日までの新聞論調は、延期説が二十数紙、歓迎説が五紙(東京、中国、徳島など)という色分けだった。そこで岸首相は7、8、9日、マッカーサー大使は7日午後、言論界の主要メンバーとの会談を行った。マッカーサー大使は「国際共産主義勢力によるこの動乱を、アイク訪日の中止という形で鎮める事が、いかに共産主義諸国を利することになるか」という観点から説得したという。
そして、10日のハガティ事件(マスコミは『国際信用の失墜』と非難)を契機に大衆運動に対して否定的な方向を打ち出し、論調が変わる。
15日の国会流血事件の報道に続き、17日には七社共同で「暴力を排し、議会主義を守れ」を宣言する。(批判的であったのは愛媛新聞と北海道新聞だけという)
13日民社党「アイク訪日歓迎決定」
14日総評太田議長「アイク訪実のでも中止を社共両党に要請」
15日社会党「国賓として来日するアイゼンハワー大統領を全国民一致して歓迎しよう」
外国の反応
アメリカは、慣習法的な考えから法律の成立には必ずしも重きを置かず、法律の運用を保証する社会的条件があるかないかを見届けようとした。「日本の総選挙は新安保条約よりも重要である。というのは、総選挙は、事実上新安保条約に対する日本人の国民投票になるからだ」(ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン)
西欧の論調ははまず第一に、アメリカが日本に対して一方的な軍事同盟を押し付けることを批判する。次に、日本の多数党がもっと強力な政治体制を自力で作って少数者の暴力を静めるべきだと判断する。
「岸氏は、辞職するところではあるが、彼の主要な戦闘に勝利を納めた。火に包まれた甲板に残された少年のように頑張り抜くことを通して、彼は新安保条約を発効させた。彼の持久力は西側においては称賛を勝ち得た。こちらでは、選挙の結果から見れば国民の大多数を代表しているのではない群衆に彼がなぜ譲らなくてはならないか、ハッキリしない。しかし、ヨーロッパ人とアメリカ人とが彼を賛美するまさにその故に、彼は自らの党内までを含めて多くの日本人が彼を非難するのだ。議会制度があるにも関わらず、社会的和合を政治の目標とするという古い中国・日本的理想がまだ生きている。統治者の義務は、父親が家庭でするように相反する利害を和合させることにある。しかし岸氏は、安保条約の危機においても、それ以前の警職法の対立の時にも、彼の属する多数派の意志を少数者に押し付けようとした(彼のやり方は、西欧の基準から見て非難を受ける筋合いのないものである)。彼の後任となる人の仕事は二重のものとなる。憲法によって定められた首相として、新首相は議会主義政治の方法に対して不可欠な民衆の支持を取り戻さなくてはならない。当然の第一歩は、安保条約を批准した政党に対する選挙民の意見を記録するために総選挙を行うことである。しかし新首相のもう一つの仕事は、めちゃめちゃに引き裂かれた日本の社会的連帯組織を復旧することであって、このためにはすぐさまの選挙は妨げになっても助けにはならない。しかし、確かに危険を冒す事が必要である。選挙だけが、必要な新しい出発を可能にする。」(マンチェスター・ガーディアン)
オーストラリア「日本政府が、民衆の前に頭を垂れさせたのは、歴史始まって以来、今度が初めてである。」
全ドイツ労働者協議会「日本の労働者階級がアメリカと日本の侵略的勢力に対し大勝利を勝ち取ったのはなぜか。彼らが、反動の戦争準備に対し、プロレタリアートの統一戦線の言葉で答えたからである。西ドイツで軍国主義を押さえつけるためには、われわれもこの道を歩まねばならぬ。いまこそ、われわれがアデナウアやシュトラウスに対し、いよいよ
日本人の言葉で話さねばならぬ時である。」
越境の時1960年代私記(青春と読書june2005:集英社)
第一章
なぜ1960年代か
アルジェリア戦争をめぐって
なぜ1960年代を取り上げるのか。それは何よりも先ず、60年代の幾つかの重要な問題が、今に至るも変わることなく続いているからだ。
たとえば、わたしは最近必要があって、改めてジッロ・ポンテコルヴォ監督の映画『アルジェの戦い』を観たが、この作品は雄弁に、60年代の状況が未だに終わっていないことを証明している。これは1966年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲得したイタリアとアルジェリアの合作映画で、内容はアルジェリア独立戦争(1954〜1962)の際に、1957年1月から9月にかけて実際に起った一局面を映画化したものである。当時フランスからの独立を目指す「民族解放戦線」(FLN)は、アルジェのカスバにも少しづつ組織を作っていたし、また国際世論に訴えるために、カスバの全商店はゼネストを 計画していた。フランスは、マシュー将軍の指揮する空挺部隊を送り込んでこれを鎮圧しようと試み、またFLNの容疑者を捕まえては仲間の所在を自白させるために片っ端から凄惨な拷問を行って、組織網の根絶を試みた。FLN側はこれに対抗して、相手の武器を奪って攻撃をかけ、駅や空港やダンスホールに時限爆弾を仕掛けて抵抗した。このように、植民地における支配者の暴力が対抗暴力を生むという状況を、この映画はドキュメンタリイふうに描いている。
おそらくいま改めてこれを観るものは否応なしに、現在のイラクやパレスティナあるいはチェチェンを重ね合わさずにはいられないだろう。映画の中ではFLNの活動家が仕掛ける爆発物は、殺傷する標的を厳密に選ぶわけではない。犠牲者の中には、FLNに好意的な人もいるかも知れない。にも関わらず、彼らは敢えてそうした行動に踏み切ったし、実際のアルジェリア戦争もそのように展開した。最終的には、こうした行動と、民衆の圧倒的なFLN支持と、国際世論への働きかけが功を奏して、フランスを追いつめ、これと同じ抵抗手段は、現在世界中の国家の指導者達が口をそろえて非難する「テロリズム」と何ら変わるところがない。
それだけではない。そのような抵抗を支える民族の問題も、今日までほとんど変わりなく続いている。変わりないどころか、ソ連と東欧が崩壊して冷戦構造が終了したときに、問題は改めていっそう困難な形を取り始めた。旧ユーゴスラヴィアや旧ソ連の解体後に生まれた民族問題が極めて複雑なものであるだけではなく、パレスチナとイスラエルの関係に代表される従来からの民族問題も、そう簡単に解決するとは思えない。
考えてみれば50年代、60年代は、第二次世界大戦以後特に顕著になった民族独立の動きが、世界史の前面に大きく登場した時代だった。フランスの支配に終止符を打つインドシナ戦争は、大戦直後に始まって1954年の『ジュネーブ協定』で一応の決着がつくが、その年にはアルジェリア独立戦争が勃発し、56年にはスエズ紛争があり、また59年にはキューバ革命が始まっていた。そうした動きを集約するかのように1960年はアフリカの十七の国が独立を達成したために「アフリカの年」と呼ばれた。こうしてアジア・アフリカ諸国の動きは世界史の動向を左右するものになったし、「第三世界」という言葉もまた、この時期から少しずつ用いられるようになった。それは米ソの冷戦構造に打ち込まれた楔だった。
もちろん当時の日本では、アジア・アフリカの問題に関心を寄せる人があり、A・A連帯運動や、A・A作家会議などは、背後にこれを利用する政党の存在も感じさせながら積極的に展開されていた。日本でそうした組織の国際大会が開かれたこともあって、私もその手伝いをしたし、1967年にはベイルートで開かれた作家会議の大会にも参加した。しかし私の立場は微妙だった。参加する途上国の代表がなんの疑念もなく、ポジティブな価値として主張する「民族」という言葉を聞いていると、私はかなりの抵抗を覚えたし、まして自分の問題をそのままそこに重ね合わせて実感することは困難だった。だからA・A諸民族との「連帯」から「反米愛国」といった主張を展開する単純な単純な革新ナショナリズムにも、私は強い違和感を覚えていた。
にもかかわらず60年代は、さまざまな回路を通って私が民族の問題に直面することになる時期で、それはとりわけ在日朝鮮人に関わる日本人の「民族責任」という形で現われた。私は手探りでこの課題を考え、専らそれに基づく幾つかの発言や行動を通しながらこの時代を過ごしたのである。ところが、私が目を通した限りでの60年代に関する著作や回想記には、一般に民族問題がほとんど取り扱われていない上に、ごく一部を除いて「民族責任論」を取り上げたものもない。逆にこの問題は1970年代以降になって初めて現われた、という記述も見かけるくらいだ。無理もないことで、こうした声は未だ小さく、ほんの少数の人の関心を惹いていたに過ぎないし、私自身はあまりに非力で、到底問題の本質をシャープに展開する能力などなかったからだ。
その少数のなかには、たとえば故人となった藤島宇内がいた。彼はいち早く民族問題に関心を寄せた評論家で、沖縄、在日外国人、未解放部落などに対する「内なる差別」を告発した先駆者である。また、いまではずいぶん立場を変えてしまったように見えるが玉城素もその著書の「民族的責任の思想」で明らかなように、この問題に早くから着目していた。彼らはいずれも住居が私の家のすぐ近くだったので、始終やって来ては、夜遅くまで話し込むのが習慣になり、この二人から学んだことは私の貴重な糧になった。
まったく理論も経験もない「フランス文学研究者」がなぜこんな問題に取り組むようになったのか。それを理解していただくためには、遡って50年代の留学時代のことに触れなければならない。
私は1954年にフランス政府給費留学生として、初めて渡仏した。当時は戦後未だ日が浅く。日本人全体が貧しくて、むろん海外に行くのは大事件だったし、外貨を手に入れるのも、それを海外に持ち出すのにも、厳しい制限のあった時代である。帰国の費用はフランス政府が支給してくれるけれども、往きは渡航費を自分で捻出しなければならない。飛行機はとても高くて手が出なかったから。私は他の留学生と同様に、メッセージュリ・マリティム社の船(ラオス号)でインド洋を通り、はるばるとマルセイユを目指すことになった。いまでは信じられないことだろうが、船が横浜港を出る時になると、デッキに立った出発する者と、陸にいる大勢の見送りの人達が、それぞれのテープの両端を持ち、さまざまな色をしたその何十本のテープがするすると延びて,最後のぷつんと切れて船腹に吹き流しのようにいつまでも舞っているという、風景が見られる頃だった。
ところで船がサイゴン(現ホーチミン市)に着いた時突然黒人の兵隊達がドヤドヤと乗り込んできて私を驚かせたが、それはヴェトナムから撤退するフランスの軍隊だった。その少し前にディエン・ビエン・フーで敗退したフランス軍は、七月のジュネーブ協定により、一世紀近く領有したヴェトナムを手放すことになったのだが、その戦争には、セネガルをはじめとする海外領土から数多くの兵士達が借り出されていたのである。これがフランスと植民地の関係に接した私の最初の経験だった。考えてみれば、横浜とマルセイユの間を往復するメッセージュリ・マリティム社の船が「ラオス」「ヴェトナム」「カンボジャ」という名前を持っていること自体が象徴的なことだった。
こうして約ひとつきの船旅の後、その年の九月末にフランスの土を踏んだのだが、それからほんのひとつきほどしか経たない十一月一日に、私はまるで予期していなかった「民族解放戦線」(FLN)による武装蜂起が始まった。
この蜂起は、アルジェリアのコンスタンティーヌ県東部とオレス地方で起ったが、これに対してフランス側は、ただちに強硬な弾圧で応じた。当時のフランスの首相はインドシナ戦争を見事に収束したマンデス・フランスであり、内相は後に八十年代から九十年代にかけて君臨するミッテランで、いずれも中道左派を代表するリベラルな政治家だった。しかしそのミッテランでさえ武装蜂起から一週間後のラジオ放送で、「アルジェリアはフランスのものである。そしてフランスは自国のなかに、自分の権威以外の権威を認めることはないだろう」と言明しているくらいである。
当初この武装蜂起は一握りの「テロリスト」による襲撃事件と見做され、鎮圧に時間がかかることはあるまいと思われた。ところがFLNは山岳を利用し、住民の圧倒的な支持を受けて、容易に鎮圧されなかった。こうして私がフランスに滞在していた三年余りのあいだに、戦争は拡大し、フランスはアルジェリア全土に「非常事態」を宣言し、兵力を増強し、次々と予備役の兵士を動員してこれを現地に送り込んだ。そしてその影響は必然的に、パリの学生街にいた私の周辺にも押し寄せて来ずにはいなかった。
私はそれまでフランス文学を専攻しながら、植民地のことはまったく視野に入っていなかったのだが、このとき初めてフランスとアルジェリアの関係に目を開かれた。もともとフランスによる支配は1830年に遡る。この年にフランスは極めて些細な理由でアルジェリアに兵を送り、これを領有したのだが、このときの「大義」はオスマン・トルコの支配からアルジェリアを解放して、これを「文明化」すると言うものだった。(あたかも、サダム・フセインからイラクを解放して、これを「民主化」するという2003年のアメリカの口実のように)その時から1954年まで百数十年のあいだ、アラブ人とベルベール人からなるアルジェリアの人々はたびたび抵抗を試みては鎮圧された。FLNの蜂起は、そうした一世紀以上に亘って繰り返された歴史から生まれたものだった。
当事者と違って、外側から冷静に、客観的に見ることのできる者にとって、戦争の「大義」がどちらにあるのかは明瞭だった。植民地に送り込まれたコロン(植民者)と原住民との間に、どんな政治的・経済的な格差があるかということも、少し本を読み、情報に気をつけていれば、一目瞭然である。しかしこの時期のフランスのマスコミに表れた圧倒的世論は、FLNを単に「テロリスト」であり、「暴徒」であると断定して、これを制圧するのはごく当然のことと見做すものだった。わずかに後に述べるフランシス・ジャンソン夫妻の共著『アウト・ロオ・アルジェリア』やサルトルの主宰する月刊誌「現代」や、あるいは「フランス・オブセルヴァトゥール」、「キリスト者の証言」といった、二、三の週刊誌に掲載される若干の論説や記事が、そのような世論に抵抗していたに過ぎない。
しかし私の経験したパリの学生街の空気は、このマスコミの論調とはだいぶ違っていた。
その時の見聞は、かつて『異郷の季節』(みすず書房)所収の「パリ左岸のことなど」というエッセイに書いたから、詳しくは繰り返さない。しかし私がパリで知りあった多くの学生達は。この状況に深く動揺していた。当時のフランスでは、成年男子に十八ヶ月の兵役義務があったし、中には再招集されてアルジェリアに送られるものもいたからだ。その上特記しておかなければならないのは、学生街には多くのアルジェリア人学生もいて、その中にはFLNの支持者が多く、積極的な活動を展開しているものさえいたことである。私が親しくしていたヤケールという学生も、その一人で、彼はアルジェリア独立後に政府内の実力者として仕事をし、1980年前後には駐ソ連大使を務めた人物だが、当時はパリの学生街で、だれ知らぬものもないアルジェリアの学生組織のリーダーであり、FLNの顔だった。
それにしても、日本からきた事情を知らない者にとって、このようなアルジェリア人の存在は不思議なものだった。北アフリカの現地では、まさに『アルジェの戦い』で描かれた凄惨な殺し合いが行なわれている。しかし、官庁の入り口に「自由・平等・友愛」の標語を掲げ、アルジェリアをフランスの一部と見なす国内では、建前上、彼らの人権も保障されなければならない(実際には、さまざまな仕方で彼らの行動は監視され、規制されており、隠然たる差別が至るところに広がっていたのだが)。だからある種のアルジェリア人にとっては、現地よりもパリの方が安全だった。現地でFLN関係者と見なされて逮捕されたり拷問を受けたりした者で、フランスの逃れてきた者も少なくない。やはり私が知りあったマムード・トレムサニという青年も、その一人だった。彼はコンスタンティーヌでフランス当局により、三日間にわたる過酷な取り調べを受けた後、有力者の口利きで釈放されて逃げて来たのである。彼が受けた拷問の詳細な話は私を戦慄させたが、一緒にそれを聞いていたフランスの若者たちにとって事はさらに深刻だった。彼らは明日にも再招集を受けて現地に送り込まれかねない人達だし、いったん現地に行けば身を守るために何をすることになるかということを、その時突き付けられていたからだ。
学生街にこうしたアルジェリア人達を取り囲むように、一群の北アフリカの学生達がおり、彼らの中には心情的にFLNのシンパだった者も少なからず混じっていた。
私があるチュニジア人の伝手で住みついた安ホテルには、そうした北アフリカの若者たちがよく出入りしていたから、完全に当局に監視されていたらしい。私は無邪気にも何も知らなかったが、私自身の行動もマークされ、逐一記録されていたのだった。1957年12月のある日、私は突然にパリ第八区のソーセー街にある内務省の「国土監視局」(DST)から、大晦日に出頭せよという呼び出しを受けた。わたしは「国土監視局」が何なのかも知らなかったが、それを聞いたアルジェリア人の友達は大層心配して、その日は私が無事に帰るのを待っていてくれた。それは要するに私の行動に関する訊問であり、思想調査だった。取調官は一人だけだが、私の背後にはもう一人、カタカタと音をさせてタイプライターを打っている男がいて、それは見えないだけに不気味だった。訊問というのは奇妙なもので、たいしたことではなくとも、出来れば隠しておきたい事柄へと、いつの間にか話題が誘導される。特に驚かされたのは、私がどこに旅行し、誰に会ったかということさえ、彼らが私以上に把握していることだった。それでも一時間半ほどの訊問の後に、「もう帰ってよい」といわれた私は、最後に「おあいにくさま」と捨てぜりふを言ったが、当時パリでよくお会いしていた私の高校大学時代の旧師で哲学者の森有正氏は、それを聞いて腹を抱えて笑っておられた。
このような雰囲気のなかで、武装蜂起から約一年もすると、予備役の招集兵たちの不満が現われ始めた。1955年の九月から十月にかけて、現地へ送られる召集兵が各地で出発を拒否し、ルーアンでは三日間にわたって憲兵隊と対立するという事態も生じた。こうしたことが明日は我が身の学生達にとって、重大な関心事だったことは当然である。結局その不満分子たちも最後にはバラバラに引き離されて現地に送り込まれたし、若者たちの間では、反対者はマークされてアルジェリアで一番危険な部署につかされる、といった噂も流れていた。それがまた彼らの不安をかき立てたことは言うまでもない。
じっさい、自国の政府に対するどんな不満があろうとも、現地に送られてフランス軍に組み込まれた者は、攻撃を受ければ応戦するだろうし、身を守るためには、住民の間に紛れ込んだFLNの組織を壊滅させなければならない。そのために、協力者とみればこれを捕らえて情報を聞き出す必要があり、常識では考えられないような手段に訴える場合も生じるだろう。そして一度そのような行為に手を染めれば、やがてはこれが習慣化するだろう。大多数の召集兵は、たとえ反対でも渋々と現地に送られ、フランス軍の一員として良心に恥じる行動に手を貸した。そして、「敵」の、待ち伏せ攻撃で命を落としたものも多かったし、生き残った者も魂を売り渡した人間として、口外も出来ず、肯定することもできない暗い過去を抱えてフランスに戻ってきた。これが、たとえばアラン・レネの映画『ミュリエル』の主題になるだろうし、サルトルの戯曲『アルトナの幽閉者』が暗示しているのも、こうした帰還兵の心である。そして、私がいた学生街で、私が付き合っていたフランスの若者達が、絶えず脅かされていたのも、そういう運命にさらされるのではないかという恐怖感だった。
アルジェリア戦争をめぐって
承前
三年余りのフランス滞在の間に、友人にな合ったアルジェリア人は数多い。私は彼らとの会話の中で、しばしばその頑なな民族主義に辟易しながらも、百数十年に亘る「大義」なき支配を打ち破るためには、事的な段階でこのような意識が生まれるのも理解できなくはないと考えるようになっていた。彼らの中には、自分たちが一人残らず殺されても止むを得ない、と言う者さえ現われた。一世紀後、二世紀後に荒廃した土地を眺めた人が、ここに一千万人のアルジェリア人が住んでいて、独立と自由を得ようとして死んでいったのだと思い出してくれればよい、と言うのである。私はこういう言葉をとても肯定できなかったし、そういう本人がどんな行動をするかは、必ずしもたしかではないと思ったが、それでも現在の中東で頻発する「自爆テロ」と呼ばれる行為が防ぎようもないように、自分の命と引き換えに求める独立を防げる力はないように思われた。しかもこのような彼らの民族主義は、フランスが培い育てたものなのだった。
私が日本に帰国したのは1958年4月だったが、その頃には私はすでにアルジェリアが遠からず独立へと向かうことを確信していた。
私の帰国後にアルジェリアでは、いわゆる「ピエ・ノワール」すなはち現地生まれのヨーロッパ人が、追いつめられしかも何が何でもアルジェリアを手放すまいとして、ますます先鋭化していった。その上、軍によるクーデターもあり、ド・ゴールの登場もあったが、大勢は私の目にはもはや動かしようがないものに見えた。私が帰国する前後に、友人のアルジェリア人達はほとんどみな逮捕されていたが、前述のトレムサニが獄中から寄越した何通もの手紙を見ると、彼らはもはや「勝利」に自信を持っているように思われた。FLN(民族解放戦線)は独立後に備えて、外交的にもさまざまな手段を用い1958年9月にはアルジェリア共和国臨時政府が樹立されて、東京にも極東代表部が置かれたが、私は初代代表のキワン氏やその後を受けたベナビレス氏に協力して情勢をフォローし、ときには彼らと一緒にアルジェリア情勢を巡る公演などを行いながら、戦争が終わって独立の達成される日の来るのを待っていた。
しかしその間にも、フランスはやはり召集兵を現地に送り続けていたし、心ならずもフランス軍の兵士として歴史に逆行しながら銃をとる若者たちのことは、パリに残してきたフランス人の友人達とも重なって、私には極めて気掛かりだった。帰国後の早い時期に、大学のフランス文学科の同級生で、同じ頃フランスに留学していた小林善彦、二宮敬とともに『太陽の影_アルジェリア出征兵士の手記』(青木書店)を訳出したのは、そのような理由からである。これはやむなく戦場に送られた召集兵たちが、おそらく出征を拒否できなかったかわりにせめて戦場での体験を書こうと決意した結果のもので、中には生きて帰れなかった者もあり、一種の「聞け、わだつみの声」のような性格も持っている。こうして私がはらはらしながら戦況を見守っている間に、1960年がやって来た。そしてその年に、私は最初たぶんベナビレス氏からだったと思うが、「FLN援助組織」の存在と、逮捕を免れて潜伏したジャンソンのことを知ったのである。
フランシス・ジャンソンは、前に挙げた『アウト・ロオ・アルジェリア」の共著者だが、もともとはサルトル論で注目された人物である。彼の書いた『倫理問題とサルトルの思想』(1947)は、それまで書かれたすべてのものがまるで他人の思想を語っているようだと苦々しい思いを味わってきたサルトルをして、初めて自分の思想を自分と違った立場で語ってくれた書物が現われたと喜ばせたものである。当然のことながら、彼はサルトルを編集長とする「現代」に加わって、若手の論客として健筆を振るうようになる。
そのジャンソンが密かにFLNの援助に踏み切って、少人数で付帯的な活動を開始したのは、1956年からだったらしい。そのいきさつは、アモンとロットマンの共著『スーツケースの運び人』に詳しいし、ジャンソン本人も『われらの戦争』と題された小著の中で語っている。さらに私自身も1967年に彼をパリのアパルトマンに訪ねて、その間のことをいろいろ聞き質したが、小柄できびきびしていて鋭い目のジャンソンは、いかにも行動的な思想家と言ったタイプの男で、当時の模様を生き生きと物語ってくれた。その発端はどうやらFLNの潜行幹部を目的地に届ける運転手役を務めることだったらしい。それから徐々に資金や武器の運搬が始まったと言う。資金はスイスの銀行に入れて、FLNの武器調達に宛てるためだった。やがてこの行動が少しずつ組織化されて、「ジャンソン機関」ができ上がっていったのである。
その頃、フランス当局の弾圧政策に賛成できずに、密かにFLNの便宜を図っていたフランス人は、ジャンソンだけではなかった。アルジェリアでは、1956年4月にマイヨという一人の見習い士官が、武器と弾薬を積んだトラックごと「敵」に合流して軍当局を驚愕させたし、数は少なかったが出征を拒否して軍を脱走し、スイスに逃れる者もあった。こうしたニュースは、まだ私がフランスに滞在していた時から、新聞報道や、噂話など、さまざまな形でパリの学生街にも伝わり、それがまた友人達との議論の種にもなっていた。後に知ったことだが、スイスには56年5月から、脱走兵の受け入れ機関も待機していたという。こうしたいろいろな動きがあったにせよ、FLNの大物幹部と接触を持って組織的な援助を計画したのは、この「ジャンソン機関」が最初だったと思われる。
むろん、先にも触れた国土監視局(DST) が、これを見逃すはずもはなかった。こうして1960年2月、この機関のかなりのメンバーが、次々と逮捕された。逮捕を逃れて潜行したジャンソンは、組織を建て直してFLNの援助を続けるかたわら、すでに機関の存在が明らかになった以上はこれまでの方針を変えて、今度は国内外の世論に訴えることを考え始めた。そのために彼は大胆にも、四月に密かにパリに戻って記者会見を開いたのである。招集されたのは十五人ほどの外国人ジャーナリストで、そのなかに一人だけフランス人記者が混じっていたが、それがクルーゾー監督の映画『恐怖の報酬』の原作者であるジョルジュ・アルノーだった。
私はこのアルノーにも、アルジェリア独立後の1967年に、先に触れた友人トレムサニの勧めで、アルジェリアのアルノー家で会った。小柄で、痩せたいかにも身軽そうな、飄々とした男で、当時はすっかり独立後のアルジェリアの生活に溶け込んでいるような印象を受けた。ともあれこの地下記者会見に出席した彼は、その内容を「ジャンソン教授の奇妙な打ち明け話」と言う記事に仕上げ、それが「パリ・プレス」紙に掲載されて、たちまち援助グループの存在がフランス中に知れわたった。こうしてジャンソンの所期の目的は達成され、日本にいたわれわれにも、援助機関の存在が伝わってきたのである。
尚、これは大分後になってからのことだが、私はジャンソン機関が「・・・のための真実」と言う奇妙な名前の非合法出版物を何冊も出していたことを知り、それを調べたところ、何と国立図書館の貴重書室に保管されていることが分かった。フランスの国立図書館は、まことに端倪すべからざる胃袋を備えており、反政府的な非合法活動までその文化に取り込んでいる。私はその貴重書室で全号を通読したが、なかにはサルトルの長いインタヴュー記事まであった。サルトルはジャンソンの行動を充分に理解した上で、密かに彼を支持していたのである。サルトルはまた、1960年9月から10月にかけて行なわれた逮捕されたメンバーに関わる裁判に旅行先から手紙を寄せて、「もしジャンソンからスーツケースを運んでくれとか、アルジェリア人活動家を泊めてくれとか頼まれたら、私は躊躇わずに実行しただろう」と書いている。
このサルトルの『現代」誌グループに、援助期間の積極的な支援者が何人もいたのは当然だが、それと同時に見逃せないのは俗に「121人宣言」と呼ばれている知識人の宣言で、これは私の60年代の出発点になるようなものだった。この文章は『文学空間』などの著作やラディカルな主張で日本でも一部で根強い崇拝者を持っているモーリス・ブランショが最初に起草したという説もあり(『スーツケースの運び人』) 、以前にマルグリット・デュラスの夫だったディオニス・マスコロと、シュールレアリストグループの中心であるジャン・シュステルの二人が起草してブランショが手を入れたと言う説もあるけれども(クリストフ・ビダン『モーリス・ブランショ』)、いずれにしてもブランショがこの「宣言」の中心にいたことは間違いがない。彼自身の書いた『友愛のために』の中でも、数人のものが何回も会合を重ねてこの文章を練り上げたことが語られている。
正確には「アルジェリア戦争における不服従の宣言」という名称のこの文章は、「ジャンソン機関」の逮捕されたメンバーの裁判が開始される1960年9月6日の直前に発表された。しかしあまりにも重大な内容を含んでいるために、全文を紹介する新聞はなかったらしい。『不服従の権利』というマスペロ社刊行の資料によると、わずかに9月5日の「ル・モンド」紙が囲み記事でこれを紹介しているという。
長い宣言だが、要点は最後の過剰が期された次の三点にある。
一、われわれはアルジェリア人に対して武器をとることの拒否を尊敬し、正当と見なす。
二、われわれはフランス人民の名で抑圧されているアルジェリア人の援助と庇護を与えることを自分の義務と考えるフランス人の行為を尊敬し、正当と考える。
三、植民地体制の崩壊に決定的な貢献をしているアルジェリア人の事業は、すべて自由人の事業である。
第一点は、大義なき戦争に自ら加担するのを潔しとしない脱走兵の行為を、正しいと認めることである。ジャンソンは記者会見の時に、3000人の兵役拒否者がいる、と言ったようだが(アルノー『わが裁判』)、たとえこれが効果を狙って誇張された数字であるとしても、国防省の発表でも政治的理由による脱走兵は20人と言われるから(『スーツケースの運び人』) 、それ以外の者も含めてかなりの数の兵役拒否者がいたことが想像されるし、これが軍の士気に影響を与えたことは間違いないだろう。
第二点はさらに重大で、アルジェリア人を庇護し援助することを正しい、という断言は、ジャンソン達の非合法援助組織の行為を正しいと認める、という態度を言外に含んでいる。FLNは、いわゆる「テロリズム」に訴えてフランスに抵抗する事を余儀なくされている人達だから、これに援助を与えることも辞さないと読めるこの項目が重大な意味を含んでいることは明らかだろう。
そして第三点では、アルジェリア独立戦争を自由のための事業として、全面的に肯定しているが、これは植民地という体制そのものを変えることが重要であると考える態度を示している。おそらくもっとも早くこの事を主張したものの一人はサルトルで、かれは1956年3,4月合併号の「現代」に、植民地主義は一つの体制である」を発表しているが、それはジャンソンの『アウト・ロオ・アルジェリア』に呼応するものでもあった。注目すべきことは、これほど大胆不敵な「非国民宣言」に、121人もの人々が賛同したことだろう。その中にはすでに名前を挙げたブランショ、マスコロ、シュステロ、サルトルはもとよりだが、その他にも日本でよく知られた多くの作家や芸術家の名前が見える。そればかりか、いったん発表された後にもフランソワーズ・サガンをはじめ、次々と賛同者が現われて、数日の間にその数は二百五十名ほどに膨れ上がった。
この宣言はアルジェリア戦争の一局面に現われて、多少ともその帰趨に影響を与えたという意味では、政治的な文章である。だがまた同時に、「フランス人民の名で」アルジェリア人を抑圧し続けている政府の方針に真っ正面から異議を唱えているのは、まさにアルジェリア戦争が、フランス人である署名者達自身の問題だからだでもあって、その意味では倫理的な宣言でもある。永年にわたるフランスの過酷な支配が生み出した抵抗運動の推進者は、「暴徒」とか「テロリスト」などと呼ばれて、フランスによる抑圧の対象とされているが、それにフランス人である自分自身はどう応えるのか、自分の良心はどのようにこの問題を捉えろと命じるのか、という厳しい問が全文に流れている。
私はその頃、フランスでの報道や東京のアルジェリア臨時政府代表部からの情報を元に、進行中のアルジェリア戦争について執筆することが多かった。私の立場はすでに述べた通りだが、この宣言を前にした時に、私が始め非常な躊躇いを覚えたことは、今もよく記憶している。このような重大な宣言を取り上げる以上は、同じような状況に直面した時に自分ならどうするか、という判断も問われることは覚悟しなければならない。それが物を書く人間の当然の前提だろう。だから最終的にこれを肯定的に評価するまでには、私にさまざまな逡巡があり、恐怖感もあったことを隠そうとは思わない。
1960年から63年くらいまでのあいだに私がさまざまな機会に書いた短文は、たとえば「アルジェリア戦争は遠くない」といったタイトルが示すように、このことを手探りで検討するものが多かった。最終的に私はそれに「民族責任」という名前を与えることにしたが、たとえば62年11月12日号の「日本読書新聞」に書いた「不服従の権利の記録」や、「アジア・アフリカ通信」63年2月号に書いた「民族責任について」などに、その考え方が現われている。
そこへ至るまでには、フランスのマスペロ社から出版されている種々の資料、『ジャンソン機関の裁判』や『不服従の権利』などもむろん検討したが、その一方でFLN最大の理論家であるフランツ・ファノンの諸著作も熟読した。(この人物の存在を最初に教えてくれたのも、先に名を挙げた中日アルジェリア政府代表のベナビレス氏で彼から送られた『アルジェリア革命第五年』がきっかけだった)。 いまではよく知られていることだが、ファノンはもともとマルチニック生まれの黒人で、その生涯の終わりにFLNに身を投じた人物である。そのラディカルな思想を詳しく紹介する余裕はとてもないけれども、ファノンの死の直前に刊行された『血に呪われたる者』に長い序文を寄せているのがサルトルだったことだけは指摘しておこう。彼は、ファノンが最後に最も信頼を寄せていたフランスの思想家で、その立場はこの体制を壊さない限り本質は変わらないことを、常に訴え続けていたのであり、その点でファノンと完全に一致していた。とたえば、
「よい植民者がおり、その他の性悪な植民者がいるというようなことは真実ではない。植民者がいる、それだけのことだ。」(『植民地主義は一つの体制である』)
サルトルと同じように、チュニジア生まれの知識人アルベール・メンミも、ほぼ同趣旨のことを次のような言葉で語る。
「植民地的状況とは、民族の民族に対する関係だ。(中略)彼(善意のコロン)は抑圧する民族の一員であり、望もうと望むまいと、彼がそのこ幸運を分け合ったと同様にその運命をも分け持つように決められている。(中略)かれは、個人としては何の罪も無いけれど、抑圧するグループの一員である限り、集団的責任に預かっている。」(『植民地化委託者の肖像』)
植民地とは、コロンと原住民の間に越えられない境界を設ける体制である。どんなに善意を持っている者でも、この体制が変わらない限り、コロンである以上は抑圧する側の一員に組み込まれざるを得ない。だからフランス人民の名において抑圧する状況がある限り、フランス人であるということは、それだけで抑圧する側に属することを意味する。これは厳しい認識だが、それに触れた以上は私もその境界から目をそらせるわけにはいかないし、その結果として一つの重大な宿題を負わされることになった。もし、日本人の名で抑圧する状況が存在したなら、逆に言えば日本人でないということが抑圧される理由になるような状況があるとしたら、否応なしに抑圧者に組み込まれる自分はどうしたらよいのか?これが私にとっては、それ以後の大きな課題になったし、また日本人としての「民族責任」 ということを考えるようになる最初のきっかけでもあった。
越境の時
第二章
李珍宇と小松川事件
「アルジェリアは遠くない」と書いた時私の頭にあったのは、日本の旧植民地であり、朝鮮だった。だがそれ以上に、日本の侵略史がもたらした在日朝鮮人の存在だった。
むろん旧植民地というなら、台湾その他もある。しかしわたしが先ず朝鮮を、そして特に在日朝鮮人の存在を考えたのは、大学時代以後、日本やフランスでの何人かの知り合いを通してしばしば朝鮮半島を意識した、という個人的な事情もあったかも知れない。また旧宗主国の日本が敗戦から徐々に立ち直っていくのに対して、旧植民地の朝鮮はドイツと並んで分裂を強いられており、それが日本の支配と冷戦のもたらした者として心に掛かっていたということもあるだろう。おまけに日本は臆面もなく、1950年代に勃発した朝鮮戦争を飛躍のばねにした上、60年代には過去をうやむやにして朝鮮の分裂をいっそう固定する日韓基本条約調印(1965年)に向けて着々と準備を進めていた。それでも南北の朝鮮は日本の支配から解放された独立国家だが、それとは違って「在日」の人々は私の目に、戦前戦後の日本によって生み出された矛盾をことごとく身に負わされた存在のように思われた。その事を私はある時から、日本人としての自分自身を否応なく、意識させる深刻な問題として考えるようになったのである。
ところでこれは何度も繰り返される恥ずかしい光景だが、特に現在の日本では、石原慎太郎の「三国人」発言(2000年4月9日)や麻生太郎の「創氏改名は朝鮮人が望んだ」という発言(2003年5月31日)のように、歴史に対する無知と無反省を示す有力政治家の暴言が目立つ。それはまたそのような政治家を容認する日本人のお粗末な歴史認識を暴露するものだが、いまは過去の日本の朝鮮支配に触れる余裕もないし、またそれは私の任でもない。ただ、1910年の「日韓併合」以前から着々と支配体制を固めていた日本が、併合後は農民から土地を奪って莫大な数の貧民群を作り上げる一方、「同化政策」を遂行し、特に第二次世界大戦に突入すると、「内鮮一体化」、「皇民化」の掛声のもとに、朝鮮人に「皇国臣民」であることを要求したり、初等学校の生徒達には毎日、「天皇陛下に忠義を尽くします」という誓いの言葉を唱えさせたり、「日本語普及運動」と称して学校では朝鮮語の使用を禁じたり、「創氏改名」と称して日本名を半ば強制したことなどは、今さらいうまでもないことだが基本的な常識として押さえておきたい。
在日朝鮮人とは、まずこのような植民地支配によって作り出された存在である。彼らの大部分は、生活の根拠を奪われたために、止むを得ず仕事を求めて日本にやって来たか、強制的に連れてこられた人達で、日本人労働者とはまるで違う劣悪な条件の下での労働を強いられた。すでに「日韓併合」以前から、日本には千人近い朝鮮人がいたが、併合後はその数がうなぎ登りに増大して、1938年までに八十万に達し、さらに戦争中の「強制連行」によって、1945年の敗戦時には二百万とも二百四十万ともいわれる在日朝鮮人がいたのだった。
日本の敗戦後、それまで勝手に「皇国臣民」賭されていたこの人達は、突然日本国籍を剥奪されて放り出された。当然彼らの多くは朝鮮に帰ったが、故郷での生活の根拠も手段も奪われて帰るに帰れず、かろうじて日本で暮らすことを余儀なくされた。その数は現在でも六十万人強といわれている。彼らがどんな暮らしに耐えねばならなかったかは、高史明の『生きることの意味』や『闇を喰む』、あるいはカンサンジュンの『在日』を読んでいただければ、そのほんの一端を知ることが可能だろう。
この在日朝鮮人に対して、日本国は何の補償もしなかったばかりか、日本人なら誰でも享受できる権利さえ取り上げた。その実態は、田中宏編『在日コリアン権利宣言』を見れば一目瞭然である。
私が「在日」の問題に注目したのは、彼らの存在が自ら望んだものではなくて、全面的に日本によって作られたものである上に、日本人でないということが彼らの権利を奪う口実になっているからだ。言い換えれば、われわれは日本人である以上、どんな善意を持とうとも、存在自体で日々彼らを抑圧していることになる。つまり在日朝鮮人の問題とは、日本人の問題なのだ。しかし、私がそんなふうに日本人の「民族責任」を考えるようになったのは、ある出来事に強い刺激を受けたためで、それは「小松川事件」と呼ばれるものだった。といっても若い読者の中には、この事件の存在すらご存知ない方もあろうから、まずごくかいつまんで概要を説明しておこう。
1958年8月17日から行方不明になっていた都立小松川高校定時制二年の太田芳江さん(16才)は、同月21日の朝、同高校の屋上で腐乱死体になって発見された。その前日、読売新聞社社会部に、小松川高校のアナに死体があるという怪電話があり、アナならば地下室ではないかと調べたが、そこには何もなかった。ところが21日朝、今度は小松川署に「太田芳江を絞め殺して小松川高校屋上の物置に投げ込んだ」という電話があり、警察がただちに捜査した結果、死体を発見したのである。新聞各紙はただちにこの事件を大々的に報道した。
次いで8月24日、太田芳江さんの葬儀に、彼女の父親宛てに被害者の櫛が送られてきた。また26日には、「小岩郵便局のポストに被害者の写真三枚と手鏡を入れた封書を警視庁寺本捜査一課長宛に投函した」という電話が読売新聞社にあり、事実その封書が発見された。
読売新聞社にはこのように、事件発覚前からたびたび電話があり、なかには別人によるいたずら電話も含まれていた。しかし、8月28日朝の八回目の電話は、それを受けた記者が巧みに会話を長引かせて、実に29分間に亘って、延々と続いたという。これが町の公衆電話からのものである永遠かってパトカーが駆けつけた時は、直前にそれらしい人物は姿を消した後だった。しかしじりじりしながら電話をまっていた一人の主婦と三人の少女に顔を見られてしまい、また通話内容から「世界文学」を愛読する若い男であることが判明した。警察はその電話のテープを各放送局に流して協力を依頼し、同時に小松川高校の教師や生徒にもそれを聞かせて、心当たりの名前を無記名で書かせた。またその少し前に付近の図書館から多数の文学書を盗んで小岩署につかまった少年がおり、その写真を電話ボックスの外にいた目撃者に示して確認を求めたという。こうして一人の人物が特定された。9月1日夕刊の読売新聞には、江戸川区上篠崎町の朝鮮人部落に住む「金子鎮宇こと季珍宇(18)」を殺人の疑いで逮捕、取り調べの末同人は「犯行の一切を自供した」と書かれている。
捜査本部では、これに先脱同年4月20日に、近くの田圃で田中せつ子さん(24)が殺害された事件も、同一人物の仕業ではないかと追求した結果、季は犯行を認め、詳細な自供をしたという。犯罪と容疑者逮捕のあらましは以上のようなものである。
これで分かるように、犯人が十八歳の少年であったのと、自分から電話をかけたり、証拠となるものを送り付けたりした点で、事件は極めて異常な、犯罪史上珍しいものと見なされ、新聞や週刊誌は興味本位にこれを書き立てた。李の横顔は自己顕示欲の強い不敵な凶悪犯か、異常性格者のように書かれた。また、知能テストで、家裁始まって以来のIQ 135を記録して係官を驚かせた、といった報道もあり、それも事件の特殊性として何度も書き立てられた。一審判決では、「大胆残虐な性的犯罪」「動機なき犯罪」「極悪非道の犯罪」など、裁判官が乏しい語彙を動員して、躍起になって少年を稀代の悪人に仕立て上げようとしている様子が窺われる。私も最初の報道のときはずいぶん奇妙な犯罪だと思ったが、しかしそれ以上に興味を持つことはなく、いつしか事件の記憶も薄れていった。そして李珍宇は、1959年2月27日第一審判決で死刑を宣告され、さらに同年12月28日の第二審でも、東京高裁は控訴を棄却して、死刑を申し渡している。
なお、以下の記述を進める前に、一つだけお断りしておきたいことがある。それはたしか李珍宇はすべてを自供しているが、物証となるものを送り付けたのがはたして彼であったかどうか疑う人もいる、という事実だ。たとえば、築山俊昭『無実!李珍宇ーー小松川事件と賄婦殺し』や、小笠原和彦『李珍宇の謎ーーなぜ犯行を認めたのか』は、そのような立場で書かれており、どちらも自供を裏付ける決定的な証拠に欠けていることや、自供そのものの矛盾点などを詳細に挙げている。実際、櫛や写真や手鏡を送ったのは犯人であろうが、それが李珍宇であるという事は、自供以外に何らかの形で証明されなければならない。これらの本を読むと、そうした裏付けの証拠が必ずしも明確でないことも分からないではない。
もしも仮に無実であったならば、その場合は李が犯してもいない罪を引き受けて、自ら死を選んだことになるだろう。
これに関連して、地裁と高裁で死刑判決が出た後に、彼が最高裁への上告をしない決意を固めていたことも、記しておかなければならない。当時都立大学の教授での数少ない朝鮮史の専門家だった旗田巍が、たまたま上告期限の切れるその日のことを知り、大急ぎで周囲の人と相談し、弁護士に連絡して、ギリギリで上告手続きを取ったという。それを考えると、李珍宇に死の意志があった可能性も捨てきれない。
しかしまた他方では、李は後に旗田巍等の勧めで恩赦願も出しており、また最後にはごく近い周囲の人も知らないうちに再審要求まで提出しているので(小笠原)、たとえ死の意志があっても、それはさまざまな動揺を含むものだったと想像される。
いずれにせよ、私は1980年代にでた上記二冊の本を読むまで、犯行はすべて李珍宇の行為であることを一度も疑わなかった。だからいまは単にこれらの説を紹介するだけに止めて、私にとっての「小松川事件」について書き進めていくことにする。
さて、上にも記したような報道が一段落すると、私はそれ以上関心を持つこともなくいつか事件のことはすっかり忘れていた。
次に李珍宇が私の意識に上がったのは、最高裁の判決を控えて1960年9月に「李少年を助けるためにお願い」という分所が送られてきた時で、これは「李少年の減刑」を訴えるための嘆願書に署名を求めるものだった。内容は、本人が心から悔悟していること、事件が未成年者の犯行であったこと、民族的な自覚もない在日朝鮮人の貧しい未成年者が起こした事件であったこと、立場を異にするさまざまな人達がこの事件に関心を寄せていることを指摘し、何とか李を助けて更生の道を歩ませるために、減刑嘆願書に同意して欲しい、というもので発起人として上原専禄、幼方直吉、大岡昇平、木下順二、高木健男、旗田巍、羽生英敏、三宅艶子、吉川英治、渡辺一夫が名を連ねていた。私は嘆願書の文章に全面的に賛成したわけではないが、すべての死刑に反対するのが正しいという立場から、これに署名した。しかし、それは死刑反対という関心以上のものではなかった。このような減刑嘆願にもかかわらず、最高裁は1961年8月17日に、「原判決の死刑は不当ではない」として、上告棄却を言い渡し、刑は確定した。その前後に私は「真日本文学」誌上で二度にわたり、金達寿の文章を読んでいる。最初のものは、「別冊新日本文学」創刊号に掲載されたもので、「小松川事件の内と外」と題された長い文章である。そこには公判廷での李の供述の一端も紹介されており、犯行前に彼が書いた短編小説「悪い奴」も転載されていた。またそれに続いて「新日本文学」10月号に掲載された金達寿の「『小松川事件の内と外』補遺」では、最高砂判決とという重大な決定がどんなに事務的に人を食った仕方で言い渡されるものかが書かれていて、私は怒りを覚えたが、しかしその時も、それだけの印象に止まった。
李珍宇は、最高裁判決のあった次の年、1962年8月30日に仙台の宮城刑務所に送られた。刑は異例の早さで、11月16日に執行された。彼は二十二歳だった。
そのような「小松川事件」が私にとって突然重大なものに見えてきたのは、李珍宇処刑の翌年に、たまたま朴壽南の編んだ『罪と死と愛と』を手にした時だった。これは彼女と李珍宇の往復書簡を編集した小著で1963年5月31日の発行である。一読して、たちまち私にはこの一冊が手放せないものになり、何度も読み返しながら、これを手がかりにして改めて自分なりに「小松川事件」を考え始めたのである。
書簡を通して現われた李珍宇は、目のくらむような個性だった。父親は日雇い人夫、母親は半聾唖者で、兄、弟、妹がいたが、読書好きの少年だった李は、金がないので小学三年の時から本の万引きを覚え、後には世界文学に強い関心を持って、江戸川区内の六ヶ所の図書館から53冊の本を盗みだして何度も補導され、ついに保護観察にされたという。中学卒業後、朝鮮人であるために大手の会社から就職を断られ、臨時プレス工として働きながら、事件当時は小松川高校定時制の一年に在学していた。
十八歳で一年生だから、進学はかなり遅れていたことになる。彼の旺盛な読書欲は、逮捕投獄後も衰えなかった。刑務所内でカトリックに入信したので、『聖書』はもとより、宗教関係の厖大な数の書物も差し入れてもらっているが、彼の読むものには少年と思えないほどの幅があり、ギリシャ哲学、ギリシャ悲劇から、ロンサール、パスカル、コルネイユを通って、ラングストン・ヒューズ、サルトル、カミュ、ボーヴォワール、マルロー、モルガン、ヘミングウェイらに至り、さらにはヘーゲル、マルクス、エンゲルス、レーニンを引用し、ベルクソンからフッサールの現象学にまで興味を示している。一つ一つの書物について語る感想も、とても20歳やそこらの少年の言葉とは思えない。一、二の例を挙げれば、たとえば処刑の約三ヶ月前に、宮城刑務所から送られてきた手紙の一節がある。
「このところギリシャ悲劇を読んでいましたが、私には矢張りソポクレスが一番優秀だと思います。その次が、エウリピデス、そしてアイスキュロスです。アリストパネスは『蛙』の中でアイスキュロスとエウリピデスを戦わせ、そして前者に冠を与えていますが、どうもアイスキュロスには迫力がありません」
もう一つだけ挙げると、その一月ほど前の手紙の中で、カミュの『異邦人』を再読した感想である。以前は裁判のところに興味を覚えたが、という前提付きで、李はこう書いている。
「ずっと前に、ある人が私に、ムルソーが死んだアラビア人に尚三発の弾丸をうちこんだが、それは果たして自然だったかどうかと訊いてきたことがあった。それで私はこう答えた。
ムルソーがさらに四発弾丸をうちこんだことは、一発でやめるよりはさらに悪かったかも知れない。けれどもその場合四発を更にうちこんだ事は自然であった、と。(中略)
いま改めて『異邦人』を読んだが、私の意見は前とは変わらない」
私はこうした言葉を読んで驚愕すると同時に、この死刑囚に強い共感を覚えた。そしてこれほどの頭と理解力を具えた少年が、どうしてあのような不思議な犯罪を犯したのかということが、私には大きな謎として残ったのである。
・・・
第九回
第二章李珍宇と小松川事件
すでに何度も触れたように、「悪の選択」という分省は、1966年11月に、一橋大学の学園祭で鈴木ゼミが開いたシンポジウム「李珍宇の復権ー在日朝鮮人問題の内面化のために」の資料集のために書かれたものだが、その結論部分の冒頭で私は次のように述べた。
「私は李の生涯の最後の数年に、おおまかに三つの段階があったろうと空想することがある。第一は徐々に想像の悪が彼の世界を形作った時期であり、第二はそれが二つの犯行となった時期である。ー此のとき少年は明晰な行為者というよりも、むしろ想像の演技者ではなかったかと思われる。そして第三の時期がやって来る。想像の挫折(現実化)を真っ向から蒙った少年が、死を見つめつつ、超人的な勇気を奮い起こし、透徹した理解力で過去を全面的に捉え直しながら、その全責任を自ら要求した時期、死刑囚として未来を奪われながら、なおかつ揺るぎない実存者として自己を作り上げた時期である。」
この第三の時期の証言として、私たちには李の書簡が残された訳だが、そこには想像から生み出された取り返しのつかない行為の結果を引き受けて、死を覚悟しながらも努めて快活を装いつつ、自分の過去と向き合う彼の姿が鮮明に現われている。彼は「自殺は逃亡なんだ」「私は生きたいと思っている」といい(1961年9月22日)、残された短い生に強烈な執着を示しながら、しかし極めて冷静に自分を振り返って、その時々の立場を確認している。そこから、あれ程の罪を犯した人間でありながら、一種の厳しい倫理性とも言えるものが浮かび上がってくる。これを他の犯罪者達(虚構の人物なら『異邦人』のムルソー、現実の人物なら連続殺人事件の永山則夫など)と比べてみれば、李の卓越した人間性が明らかになるだろう。
とりわけ彼が触れているテーマの中で、私に重要だと思われるものが二つある。一つは民族の問題、今一つは責任の問題。それは前にも引いた次の一句に要約されている。すなはち「私は朝鮮人の死刑囚なのだ」。私はこのことを、1979年の『李珍宇全書簡集』ではじめて公表された書簡も利用しながら、この省の最後の改めて書いておきたい。
まず民族について。李はこの問題を自分から進んで語ることは決してない。しかし朴壽南(パクスナム)がしきりに、「民族」と「祖国」を語るのに答えて、まず「私は祖国が立派になったから、祖国に対する愛、朝鮮人としての自覚が高まった」のではなくて、「自分が何のために生きなければならないかを知って、自分の価値を見いだしたからこそ、祖国の状態如何に関わらず祖国を愛するのだ」とい(1961年3月4日付け)また、祖国を圧迫するものを憎み、それに反抗するのは、祖国愛そのものではなくて、「危険な愛国主義」に過ぎない、と断定してこれをきっぱり斥ける。(同年4月25日付け)。「祖国」や「民族」という言葉は、その当時のアジア・アフリカのナショナリズムと結び付いてしばしば口に出されたものだが、李は朴とのやり取りで、自分が結び付いているものとしてその言葉を用いても、最後まで一貫して『愛国主義:や「素晴らしい祖国」をポズティヴな価値として認めることはない。さらに同年5月1日付けの手紙では、「祖国愛について、姉さんにこてんこてんに言われのを覚悟しています」と言いながら「さあ、今日はじっくり書きまするぞ!」と宣言して、彼の考え方を披露している。それは決してまとまった明晰な考えとは言えないし、確固たる結論の到達するわけでもないが、その要点を敢えて整理すると、次のようになるだろう。
まず彼は、日本で生まれ育った朝鮮人が『朝鮮人」という言葉に嫌悪を感じることから初めて、このように嫌悪感を持つのは決して本人の責任ではないが、そこから二つの態度が生じるという。第一は環境の影響で「朝鮮人としての自分」を意識しなかった人の場合で、彼にはその反動で、誰よりも偉大な朝鮮人としての自分を見つめようとする衝動的な欲求が生まれるが、これは虚栄であって「正常的」とは思われない。第二は、自分が朝鮮人であうr事を意識しながら「朝鮮人』という言葉に嫌悪を感じている人の場合で、彼は朝鮮人であることを逃れよう、忘れようとするが、それは真の朝鮮人としての自覚を抱いていないからである。結局李は「うまく言えません』、「どう定義されているのかよく分かりません」と言いながら、同時に「私は死刑囚です。そして祖国にあるのではなく、異国日本にいる、ということも考えなければいけません」と付け加えていることが注目される。
それが同年9月22日の手紙になると、「姉さんの言う通り、私たち若いものにまず必要なのは民族意識なのだ」と言う言葉から始まって、もしいま外に出られるとしたら「挑戦の統一の運動に飛び込むでしょう」という言葉になり、さらに「私は朝鮮人の、死刑囚なのだ」を何度も繰り返すことになる。これは李珍宇が政治的なンイン現になったことを意味するものではないだろう。ただ分断された挑戦は、朝鮮半島だけではなく、すべての「在日」の人々の生活に深刻な影響を与えていたから、李は個々で民族全体の悲願である統一の目標を自分自身の問題として、以前より強く実感しているのは確かだろう。
さらに宮城刑務所に移送された後の、翌62年9月15日の手紙になると、死刑が近いことを感じながら、李が祈りにも似た気持ちで、活用する宛てもあて朝鮮語の勉強を始めたことが分かる。彼は、言葉を「国の息吹」だと認め、「大事なことはそれによって私が民族的なものを吸収していくことだ」といいながら、こう付け加えている。
「私はこの残された生を気違いのように愛している!最後のそのようなときに私は自分を『』と認めたのだった。私は『鎮宇』として生きるよりも、『』として死ぬ自分を誇りに思う。私は何だか悲しくて、いま涙を流してしまった。
この手紙が書かれたのは、死の二ヶ月前だった。そして個々でも朝鮮語の学習は、現実に存在する国家とは無関係に、死刑囚としての彼の自己確認のように私には映る。在日朝鮮人の社会の中でも孤立していた彼は想像の世界にのめり込んでいった後に、そこから生まれた取り返しのつかない犯罪の結果として、死が刻々と迫ってくるのを感じるに連れて、ますます朝鮮人としての自分を意識するようになったことが、この手紙から察せられる。彼は死刑近づくのを感じながら、今度は「他者」としてではなく、また「愛国」などとも無縁の形で、主体的に自分を朝鮮人として選び直したといえるのではないか。
では、その犯罪そのものに対して、彼はどのように向き合ったのだろうか。ここから第二の責任の問題が出てくる。そして彼はこの点に関しても終始一貫して、実感の湧かない自分の行為に、全面的に責任を負おうとする。それを知るためには、彼のいくつかの言葉を引用するだけで十分だろう。
「私が人殺しだということ。この責任がどうして私から離れるの?」(1961年9月22日付け)
「悪をなしたものがこれは自分の責任ではない。そう言えるのはおくびょう者でしかない」(1961年11月7日付け)
「アイヒマンは四百万人を殺した、そして私は二人しか殺さなかった。それにもかかわらず私の方が罪深いと云われるわけは、私は自分のしたことについて、いわば体験的に行動したことにあるからだ。(中略)従って、前者はある人ではなくてもなされ得ることだが、しかし後者は彼でなくてはならない」(1962年10月7日付け)
最後の引用が書かれたのは、これまた処刑されるわずか一月あまり前のことだった。こうして彼は、夢のようになされた自分の行為の責任を、絶えず全面的に引き受けたのであった。
たしかに李の犯した二つの殺人が、彼の責任において行なわれたことは言うまでもない。しかし果たして彼だけに責任があったのだろうか。
もちろん李がおかれた境遇にも問題がある、と考えた人は少なくなかった。現に、朴壽南が獄中の李に手紙を書いて近づいていった最初の動機も、そこにあったと思われる。彼女は日本の敗戦まで、日本名で新井姓を名乗り、日本語しか喋れず、それも学校では「国語」(すなはち日本語)の朗読で一番になるような、まったく日本人化した朝鮮人、ひたすら日本人になろうとつとめていた朝鮮人だったという(1961年2月7日付け)。戦後に苦労して朝鮮語を勉強し、民族教育を受けた彼女は、李珍宇の事件の底に「半日本人」の問題があることを鋭く見抜いて、そのような観点から李に手紙を送りはじめたらしい。だから彼女の手紙には、「もしあなたが朝鮮人学校へ行ったならば」といった言葉が何回も書かれることになる。
ところがこれに対して李珍宇は、朴の言葉に感動しながらも、痛切な気持ちを込めてそれに反論を加える。例えば、往復書簡が始まってまもない61年4月18日付けの手紙では、例によってだれか他人が書いた詩を写して送るといいながら、まるで朴壽南の語る様な口調で正反対の主張を書きつけている。その出だしの部分。
「私の同胞!
異郷に生まれ
異郷の地で死ななければならない私の同胞
珍宇さん
わたしはとてもあなたを助けたい
でも
わたしはあなたに言わなければならない
胸にあふれる悲しみを押し殺して
わたしはあなたに言わなければなりません
あなたは今の立場をよく理解してください
そして朝鮮人であるということをよく自覚して下さい
朝鮮人は悲しい民族・・・・
異国の地にいる同胞達はどれほど苦しんでいることでしょうか!
どれ程さげすまれ
それに耐えなければならないか・・・
珍宇さん
あなたも知っているでしょう
この悲劇が日本人によってなされたことを
日本人がなしたあの歴史がなかったら
私達はこんなに苦しみを味わわなくて済んだはずです
しかし
わたしはあなたの事件の原因がここにあるとはいいません
少なくともあの時
あなたはあなたの境遇に満足していました
だから
直接の原因は
あなたの心そのものにあったと思います
・・・・・」
"詩"はまだまだ続くが、ここで李は明らかに、「朝鮮人であるという事をよく自覚」する態度とは、自分の行為の責任を引き受けることだ、と主張しているように見える。
同じような態度は、日本名を名乗る別なある在日朝鮮人女性に宛てた手紙の中にも見られる。彼はこう書いている。
「あなたのおっしゃることはよく分かります。例えばある日本人はわたしの問題を在日朝鮮人という点から考え、そして責任は自分たちにもあるとして私達のために尽くしてくれている。
けれども前にあなたは云ったと思いますが、わたしの問題には二つの見方があり、ひとつは境遇は如何にしてわたしに罪を犯させたか、ということであり、もう一つはわたしは境遇において如何につとめたか、ということです。この後者から責任の問題が出てくるわけです。」(1961年12月28日)
つまり李の行動は、この「境遇において如何につとめたか」という問への答えであり、在日朝鮮人としての李珍宇の独自な表現だったことになる。多くの「在日」の人達がこの事件に衝撃を受けたのも、その事を察知したからに他なるまい。だから李は、その責任がすべて自分にあると言うのだが、その一方で彼に「罪を犯させた」境遇については、いったい誰が責任を負ったのだろうか?この境遇を変えるべく「如何につとめたか」ということからは、責任の問題は生じないのだろうか?
彼はこの境遇に不満をぶちまけることもできた。彼自身が詩の中で作り出したあの犯人のように、犯罪を環境のせいにして居直るのも容易なことだった。もし日本名を名乗らされたり、絶えず偽の自分を演じたりしなくてもよかったら、もし日本語で思考したり、日本語で「俺は朝鮮人だ」と呟かなくともすんだら、したがって日本人の差別的な視線に内心から同意を与えることもなく、また日本人でないために就職を妨げられることもなかったら、要するにもし日本人の作り出したこの境遇がなければもおそらく想像に頼る必要もなく、犯罪もなく、彼が「非常な本性」を語ることもなかっただろう。
しかし彼はそのような告発を一切しなかった。というよりも、彼の告発はいっそう周到なものだった。すなわちすべての「在日」の人達に共通な条件を、犯罪という彼独自の形で表現しながら、その行為を犯させた環境には一切触れようとしなかったのだ。また触れないことによって、この境遇を作り上げた者たちを徹底的に見下したのである。これほど鈍感な者たちには、今さら何を言っても始まらない、というように。つまり、彼の犯罪を生み出す境遇を作り出した日本人は、その倫理性において、一人の殺人者の足下にも及ばなかったことになる。
実際、戦前の日本の植民地主義が生んだ数々の不当な境遇は言うまでもないが、それにもまして、そうした過去がもたらした戦後の日本社会のひずみは、なぜ放置されてきたのだろうか?素知らぬ顔でそれを温存してきた行政・立法の当事者はもちろんだが、言論の世界でも、このころまでごく一部の人を除いて、「在日」の問題は関心を引かなかった。それは日本人が全体として、戦後責任をまるで果たしてこなかったことを示している。李の犯罪と書簡が明らかにしたのは、このような日本の姿だった。
こうして私は一冊の往復書簡集『罪と死と愛と』から、日本人の「民族責任」ということを思い知らされた。それが1966年に書いた「悪の選択」の主要な内容である。今回改めてその分省を読み直したが、私の基本的な考えはその時と変わらない。そこで本章を終えるに当たり、私はその「悪の選択」の末尾の一節を引用して結論に代えたい。少々力んでこの一節に書いたことは、60年代の私の発想の軸になるものだったからだ。
「李の最大の敵であるわれわれは、当の李から『無視』という侮辱を浴びせられ、踏みにじられてしまったことになる。この侮辱をどう堪えたらよいか。それが今度はわれわれの課題であるはずだ。
李は憐憫や同情を求めていない。ただわれわれの手にカードを返してくれただけである。次に札を出すのはわれわれであろう。それはおそらく、まだるっこしいスピードで、何かを一つ積み上げるだけに終わることになるだろう。現実の仕事が多様な局面でのろのろと進行することも、私は幾分体験していないわけではない。およそ無益な批判や罵倒が交錯するだろうことも、それがやはり何かを少しづつ進めていることも、承知しているつもりである。その上で、どのような立場や仕事を選ぼうとも、それが李の視線を跳ね返すことを望む者でない限り意味が無いと私は思う。いわば李はわれわれの大敵である。そして李の復権を要求する理由もそこにある」
第十回
第三章のためのノート
小松川事件が起ったのは1958年、李珍宇が異常な速さで処刑されたのは1962年のことだった。後から見ると、これは危険な少年を生かしてはおけないという国家意識の現われのようにすら思える。その翌63年には『罪と死と愛』の出版があり、この書物について私が発言し始めたのは64年からだった。
朴壽南とはその前後に知り合った。記憶に間違いがなければ、ある若い劇団の勉強会で問題提起を頼まれて、小松川事件を取り上げたのがきっかけである。それ以来私達は、ときおり連絡をとったり、互いの著書を送り合ったりして、交流を続けていた。
1966年11月に、一橋大学鈴木ゼミが「李珍宇の復権」という題でシンポジウムを行ったときに、朴壽南にも参加してもらったのはこのような事情による。そしてこの日の討論資料として書かれた「悪の選択」を基に、私が「日本のジュネ」を発表したのは、「新日本文学」67年2月号の誌上においてだった。
金嬉老事件が起るのは、その一年後の1968年2月である。私は次にこの事件のことを述べたいが、その前に60年代と「在日」の問題を考える上で重要な二つのことに触れておきたい。一つは日韓条約、今一つはベトナム戦争である。
日韓条約は50年代初めから両国間で懸案になっていたもので、数次の会談を経て1965年6月22日に調印され、何れの国会でも極めて強引な形で批准されて、同年12月18日にソウルで批准書交換式が行われた。この過程で顕著に現われたのは、日本側に過去の植民地支配への反省がまったく見られないということだった。一方、当時クーデターで韓国大頭領の地位に就いていた朴正煕は僅か八億ドル(無償3億ドル、有償2億ドル、民間協力資金3億ドル)と引き換えで過去の保障を曖昧にし、植民地帝国だった日本の責任をウヤムヤにした。韓国で売国的取引として大規模な反対運動があったのはそのためである。日本でも、反対運動があったが、それは韓国に比べて弱々しいものだった。
日本の衆院本会議でこの条約に関する強行採決が行われた直後の65年11月27日、国民文化会議の呼びかけで「日韓問題と日本の知識人」というシンポジウムが開かれ、約四十名が参加した。まず日高六朗、上田耕一郎、中原浩(竹内芳郎) の問題提起があり、それを受けて全員が討論を行ったが、会全体は休息を挟んで延べ七時間半に及ぶものだった。私はその中で発言し、戦前の植民地帝国の生んだ状況を放置してきた「戦後責任」こそ問われなければならず、政府自民党はもとより、「革新勢力」と言われた野党側もこの認識が不足していたことを指摘した。若輩者の口幅ったい意見で、顧みると冷や汗が出るが、その背景には当時考え続けていた小松川事件と、「民族責任」の問題が横たわっていた。
また日韓条約は南朝鮮(大韓民国)を朝鮮半島唯一の合法的政府と見做して、露骨に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を敵視する点でも、甚だ不当なものだった。こうして分断国家の状態をいっそう固定し、民団(南朝鮮)系と総連(北朝鮮) 系に別れた在日朝鮮人の存在にも深刻な影響を及ぼしたからだ。
近年、その北朝鮮による日本人拉致事件が明るみに出て、大きく報道された。この拉致という行為は許すことのできない国家犯罪であり、政治的にはとんでもない愚挙だった。その被害を受けた本人と家族が嘗めた苦しみは、今なお続いている。
ただその一方で、かつての日本がこれとケタ違いの規模で強制連行を行ったことは、北朝鮮の行為を非難する人達こそ、決して忘れてはならない事実だろう。被害を受けたのはまず挑戦や台湾の人達だが、植民地でない中国本土からも、数万人が連行された。そうした過去の日本が作り出した被害者達への補償はほとんど行なわれていない。
現在の日本人の多くは戦争も知らず、植民地帝国日本の犯罪的行為も知らない人達だが、このようなことを自分たちと無縁の問題と考えるのだろうか。しかし私達は、こうした過去の蛮行(少なくともその大部分のもの) に頬被りして恥じない日本を作り、あるいはそれを容認してきた責任を免れることはできない。これは現在の日本人の問題であり、あなたや私の問題である。
この日韓条約と共に、60年代の問題を考えるにあたって見逃すことのできない重大な背景は、ヴェトナム戦争である。
第一章に述べたように、私は1954年に始めてフランスに行く船で、ヴェトナムから撤退するフランスの軍隊に遭遇したのだが、その翌年には今度はアメリカが介入して、南ヴェトナムに共和国を作り、ここでも分裂国家が誕生した。これに対して60年には南ヴェトナム解放民族戦線が結成され、北ヴェトナムの支援を得て、アメリカへの抵抗が激化した。アメリカは大部隊を送り込み、おびただしい数のヴェトナム人を殺害した。このとき抵抗者をあぶり出すために、アメリカ軍は極めて毒性の強い化学兵器を使用し(いわゆる「枯れ葉作戦)、それが多くの奇形児の誕生を引き起こして、今なおその後遺症に苦しむ多数の人々を生むことになったのは周知の通りである。さらにアメリカは駆逐艦が攻撃されたという「トンキン湾事件」なるものをでっち上げ、それを口実に1965年2月からは本格的な北ヴェトナム爆撃を開始した。
日本の米軍基地は、このヴェトナム攻撃のための重要な拠点だった。またイラク戦争に協力する現在の日本政府と同様に当時の日本政府もアメリカの作戦に積極的な協力を惜しまなかった。日本はこうしてヴェトナム戦争の当事者になったのである。
この時の首相佐藤栄作は、67年10月8日にまずヴェトナムに行き、次いで11月12日にはアメリカに飛んで支援を鮮明にした。そしてこの両日には彼の出発を阻止しようと、羽田空港の近くで激しい抗議デモがあり、それを規制する警官隊との衝突で、10月8日には京大生山崎博昭が命を落としている。
警察はこのデモ隊を追い散らすために、放水車を使用した。そして警察発表によると、過激なデモ隊がその放水車を奪い、自分たちで運転して、誤って同じデモ隊の中にいた山崎博昭をひき殺したのだという。たちまち翌日の各紙には、「奪った給水車に引かれ京大生一人死ぬ」(毎日新聞)といった、暴力デモ隊の暴力行為を印象づける大きな見出しの活字が踊った。朝日新聞には、「車の下から引き出された学生の体」、「ここで学生をひいて」など、まるで轢殺現場を,見たかのような記事が掲載された。
しかしこれは警察発表の垂れ流しで、何の根拠もない報道だった。これに対してデモ隊の側は、死因は警棒による撲殺であるとして警察を非難した。事件当日のラジオでは、最初「頭がい骨骨折」といった報道もあったが、これはたちまち消えて、いつか放水車による轢殺説だけが独り歩きし始めた。さらに遺体解剖の際にも、警察は遺族側の推薦する医師(京都大医学部上田教授)の立合を拒否して、密室で解剖を行った。(いわゆる60年安保闘争の犠牲者だった樺美智子の場合は、医師の立合が認められそれが警察側に不利な結果をもたらしたことが思い出される)。死かも「死体検案書」には「脳挫折。胸腹腔内(推定)損傷の疑い」となっているのに、遺族に返却された遺体には、引かれた筈の胸に何の傷もなく、轢殺の証拠となる内臓は抜き取られていたという。
私はこの警察発表に疑問を覚え、これは意図的に事実を隠している可能性があり、これを鵜呑みにして報道する各紙の記事は世論操作に大きな影響を与える危険があることを、自分の勤務している大学の「一橋新聞」に書いた。まだ一般紙が「不偏不党」などという立場を標榜して、客観的に正確な報道をしているかのように装っていた時代である。
当時私が親しくしていた哲学者の竹内芳郎は、この文章を読んで、二人でもう少し真相を探ってみないかと私に提案した。私達はまず「朝日新聞」に連名で当初を行い、山崎博昭の死亡原因に関する報道の根拠を問うた。この投書が予想通りボツになったので、私達は筑摩書房の月刊誌「展望」に「朝日新聞」への公開状を発表して、同じことを訊ねた。「朝日」は答えない。そこで私達は「展望」の編集長だった中島岑夫氏とともに、同紙の社会部長に面会を求めた。その希望は実現したが、結局報道の根拠は言えない、しかし内容に間違いはない。、それは今に分かる、という回答でしかなかった。私達はその時の質疑応答の内容と、その後の電話や文書でのやり取りを、改めて「展望」に発表した。この一連の経過は、私の評論集『政治暴力と想像力』に収められている。
この報道の根拠などは存在しなかった。また、警察がこの悲劇を利用して世論操作を図ったことは、遺族側代理人の小長井良浩弁護士の文章を見ても容易に推測される。(社会新報67年10月18日号)、「朝日ジャーナル」同年12月24日号)。警察はその後、二人の「容疑者」なるものを逮捕したが、彼らを起訴することもできずに釈放した。こうして敗戦から日の浅い時期に起った一連の事件(松川事件その他)と同様に、この京大生死亡事件も一定の政治的な効果を上げて闇に葬られたのだった。
このような世論操作の上で、新聞報道の果たした責任は大きい。「朝日新聞』は当時の全国紙の中でも良質のものだったが、その「朝日新聞」にしてこうだった。今では当時に比べても日刊紙の姿勢ははるかに後退し、権力を厳しく監視しようとする批判精神などどこにも見られない。テレビに至っては論外で、権力者さながらにふんぞり返ったキャスターや、ふざけ半分でワイワイがやがやとニュースを語る常連出席者のことばを聞いていると、ほとんど日本人の愚民化に寄与しているとしか思えない。
アメリカの軍事行動に加担したくないという気持ちは、こうして私を思いがけずマスコミ批判へと駆り立てたが、ヴェトナム戦争はもう一つの役割を私に負わせることになった。戦地に送られるを嫌って群から逃亡する脱走兵の援助である。
米軍の重要拠点である日本には、ヴェトナムで一定期間戦闘に従事した兵士が送られてきて、しばらくの間戦闘の内瀬活を楽しみ、英気を養って、再び殺人のために戦場に送り返される。しかし北朝鮮に拉致された曽我ひとみさんの夫ジェンキンスさんのように、戦場に送られるのを忌避する人も少なくない。アルジェリア戦争の時も脱走兵が後を絶たなかったことはすでに述べたが、大儀な嬉戦争に駆り出される者は決して好き好んで出かけていくわけではない。真して戦場に行なわれていることを見てしまった者、それに参加してしまった者にとって、ヴェトナム行きが心の躍るような運命である筈がない。それが日本滞在中の脱走となって現われたのである。
第二回目の羽田デモの翌日である11月13日、小田実を代表とする「ベトナムに平和を!市民/文化団体連合」(略して「ベ平連」)は、空母「イントレピッド号」から脱走した4人のアメリカ兵を密かに日本から出国させたと発表して、世論に大きな衝撃を与えた。その後「ベ平連」は次の脱走兵に備えて、具体的に彼らを書くまい国外に逃す組織の「ジャテック」と共に、資金集めや宣伝のために「インットレピッド四人の会」を作り、数学者の福富節男、仏文学者の高橋武智とともに、私にもその世話人になってくれと依頼してきたのである。
私はそれまで「ベ平連」と直接のかかわりがなかったし、1968年3月末からは一年間日本を離れてフランスでの研究生活にはいることがきまっていた。しかし「ベ平連」の重要メンバーである栗原幸夫や武藤一羊とは前からつきあいがあり、またアルジェリア戦争以来の脱走兵援助の問題でもあるので、68年3月までという条件で承知した。こうして短期間ではあるが、この仕事に目まぐるしく追われる日々が始まったのである。
この組織は、ヴェトナム戦争に反対する集会を開催したり、記者会見を開いたり、反戦のための刊行物を出したりするとともに、何よりも資金を集めてそれを「ジャテック」に回す役割を持っていた。つまりは表と裏の活動の接点である。それと同時に私がこれを引き受けたのは、この時長崎県の大村収容所に入れられていたもう一人の脱走兵である金東希のことを、少しでも多くの人に知ってもらいたいと考えたためだった。
当時の韓国は、現在のイラク戦争におけると同様に、ヴェトナムに軍隊を派遣していた。金東希は、そのヴェトナム往きを嫌って65年7月に軍隊を脱走し、亡命のために日本に密入国して対馬で逮捕されたのである。しかも1935年に済州道で生まれた彼は、小学三年まで皇民化教育を受けて日本語を学んでいたし、彼の長兄、次兄、三兄は、何れも働くために小学卒業ほどの年齢で敗戦前の日本に渡り、その後各地を転々としながら日本で暮らしていた。要するに、植民地帝国日本が生んだ典型的な崩壊家庭の一つである。しかも彼の亡命願には、次のように書かれていた。
「私が亡命地を日本に選択したのは勿論地理的条件もありますが特に私は日本国憲法前文並びに(第九条)戦争の放棄を規定し平和主義を貫こうと努力している日本国に亡命したのであります 」(ママ)
ところが日本政府は頑なに彼の亡命を拒否し、韓国のへの退去強制命令を出した、大村収容所に収監した。しかし脱走兵が独裁政権下の韓国に送り返されれば極刑も覚悟しなければならない。藤島宇内はいち早く「現代の眼」1966年5月号で、この問題を取り上げたし、金東希を救わなければならないという動きは、福岡、大阪、長野などに広がり、東京でも「ベ平連」などいくつかのグループがその声を上げた。これら東京の支援者達を結ぶ「金東希・東京連絡会議」も作られて、署名や請願を通して彼の亡命実現に努めていたが、そこには二、三の大学の学生グループに混じって、一橋大学の私のゼミ生達も参加していた。67年12月12日には、その鈴木ゼミの主催で、学内に「イントレピッドから金東希へ」というテーマのシンポジウムも開かれている。これには「ベ平連」から武藤一羊、「金東希を救う会」から玉城素、学内から中国思想史の西順蔵が参加し、他大学や地区の運動家も加わって、約四時間に亘り熱心な討議が行われた。
今も私の手許には、大村収容所の金東希本人から68年1月3日付けで送られてきた手紙がある。当時写しが出回っていた彼の北朝鮮への「帰国先希望書」なるものについて私が手紙で質問したのに答えたものだが、そこには、「私が真がいなく日本に亡命を願っているものであります。それいがいなにものもありません」(ママ)と明記されている。おそらく、日本政府から亡命を拒否された彼は、韓国に送還されることだけは避けようと、やむなく北朝鮮への「帰国」を「希望」させられたのであろう。
その北朝鮮に彼が突然送り出されたのは、68年1月26日の朝だった。勿論朴正煕の韓国二層関されなかったことは喜ぶべきことだが、この妥協的な措置には私は釈然としなかった。その後の彼の情報は分からない。小田実は76年10月に金日成主席に会った時に、金東希のことを訊ねたが、そんな人は知らない、と言われ、また後に、調査したがそのような人はいない、という返事をもらったという。ここにもまた、戦後日本の酷薄な対応のために、空しく希望を摘み取られて消えていった人の運命がある。
これが1960年代、特に67年から8年にかけての日本を覆っている空気だった。すなわち過去の反省はなおざりにされ、戦争への協力は露骨になってゆくが、なおかつそれに抵抗しようとする人々が懸命な努力を惜しまなかった時代である。またそのような流れの中で、大学では諸セクトや全共闘の運動が激しく燃え上がった時代でもある。
金嬉老事件は、このような空気の中で起った。
第三章金嬉老事件1
1968年2月20日の夜、静岡県清水のバーでライフル銃による発砲事件があり、暴力団風の二人の男が殺害された。発砲した男は直ちにその場から逃走し、凍てついた山道を大変なスピードで車を飛ばしていくつもの温泉宿のある寸又峡まで行くと、突端にある「ふじみ屋旅館」に入り込んだ。そして報道によれば、主人と宿泊客を「人質」にし、コンロの火をおこして傍に何本ものダイナマイトを積み、いつでも爆発可能な状態を作った上で、清水警察に電話して自分の居場所を明らかにした。そして日本の警察、とくに静岡警察の小泉という刑事に、在日朝鮮人である自分に対する態度を謝罪せよ、と求め、また殺害された二人は暴力団員でトラブルの原因が彼らにあることを公表せよと要求したという。子の事件は21日の朝から、テレビとラジオで報じられ、日本中が固唾を呑んでその成り行きを見守ることになった。
うかつにも私は始めこの事件を知らなかった。アメリカの脱走兵の援助組織である「イントレピッド四人の会」の仕事に追われていただけでなく、三月末から一年間フランスでの研究大滞在が決まっていて、その準備に謀殺されていたためだ。さらに現天皇の成婚パレード(1959)と東京オリンピック(1964)で一躍普及したテレビさえ、当時はまだ自宅に備えていなかった。私に事件を知らせたのは、実は2月22日の朝早くかかってきた中国研究者の中嶋嶺雄からの電話である。
中嶋嶺雄と知り合ったのは、60年安保の直後で、清水幾太郎を中心とする「現代思想研究会」のある会合においてだった。後の「未来学者」香山健一などが組織したグループだが、その多くのメンバーはやがて器用に転向していった事は周知の通りである。
中嶋は、「人質」といわれた人々の安否を気遣っていた。小松川事件をめぐる私の仕事やサルトルに関する著書なども読んでいた彼は、「ふじみ旅館」に立て篭もった朝鮮人の主張は日頃私の指摘していることに通じるから、例えば大島渚などと共に私が寸又峡に出かけて行って「人質」の解放を呼びかけてはどうか、そのために知り合いのテレビ関係者に、私のところへ連絡するように伝えた、というのだった。そこで初めて私はたまっていた新聞を読み、ラジオを聞いて、事件の概要を知ったのである。
警察であれ、一般人であれ日本人の差別意識は国の至るところに深く浸透しており珍しいことでも何でもない。それをこのように正面から、暴力的な形で難詰するものが現われることも私には決して意外ではなかった。だから私の最初の印象は、小松川事件を通してずっと追究してきた問題が、今現に起っているという云うものだった。ただ小松川の場合は李珍宇がすでに亡いのをよいことに、私は自分の身の安全なところに置いたまま、彼の内面を探っていたのだが、この朝鮮人は生きた存在で、しかもやがて自ら生命を絶つとさえ言明していた。私は自分の考えた通りの事態が、このような形で現実化したことにうろたえた。しかし私が出かけて行ってどうなるものでもないし、テレビ局などからの連絡も避けたかった。そこで私はその旨を中島に伝えると、その日の朝から家を明けて、一日中外出していた。案の定、私の留守中に家には何度もテレビ局から電話があったと言う。
私が見た限りでマスコミは、「人質」と呼ばれた人達の生命が脅かされている事を強調していた。しかし私には、日本人であるというだけで、私達はいつ何時でも同じように「人質」にされ得るのではないかと思われた。彼らは言わば私の身代わりだった。私は「ふじみ屋」に要る自分を想像した。ある日、一人の男が銃とダイナマイトを抱えて、境界の向こうからぬっと入ってきたら、自分ならどうするだろう。恐怖に刈られて、恥も外聞もなしに一人だけ逃げ場を求めるかもしれない。しかしそれが不可能がと分かったときに、改めてこの人物の言葉に耳を傾けようと努めるのではないか。そう私は考えた。
それと同時に私には、マスコミによって「ライフル魔」と呼ばれた「金岡安弘こと金嬉老」という人物の運命が気掛かりだった。この「こと」という表現は、李珍宇の問題で触れたように、それだけですでに雄弁に、その人物がこれまでおかれてきた状況を示している。しかし武器が一挺のライフル銃と数十本のダイナマイトに過ぎない以上、彼に残されているのが自決でなければ逮捕であることは明らかだった。つまり彼の敗北は既定の事実であり、私には到底正視することのできない結末が予想された。
こんな風に、寸又峡の状況を考えながら、事件から逃亡するように過ごした一日がくれたが、その夜はたまたま脱走兵関連の用事で、「ベ平連」の古山洋三郎を訪ねる約束になっていた。彼は私の中学の二年後輩で、高校の社会科の教師だった。後に59才の若さで急逝するのだが、堅固な信念の持ち主で、一貫して平和運動、反戦運動、労働運動に取り組んだ人物である。私はどっしりと構えて冷静な判断を下す彼を全面的に信用して、脱走兵の問題ではよく一緒に行動したものだった。高円寺の彼の家に着いたのは、すでに夜かなり遅い時間だった。ところがそこへ独文学者の伊藤成彦から電話がかかってきたのである。伊藤は中央大学の教員で、私とはすでに仕事で何度か会っていた。また古山洋三夫人の和泉あきと彼は、何れも小田切秀雄に近い文学グループの同人だった。その電話で私のことが話題になったらしい。古山が「鈴木さんならちょうど今ここにいるよ」と答え、私は電話口に引っ張り出される羽目になった。伊藤は、寸又峡の事件について話し合うために、銀座の東急ホテルに一群の人が集まっており、中嶋嶺雄も来ている、ついては是非私にも議論に参加して欲しい、と言う。こうなってはもはや逃げるわけには行かない。私は重い気持ちで、深夜の東急ホテルに向かった。付いたのは零時をとうに回っていた頃だと思う。こうして心ならずも、私の「金嬉老事件」が始まったのである。
ホテルの広い部屋に集まっていたのは、中嶋と伊藤の他に、大沢真一郎(国民文化会議)、作家の金達寿、数人の大学教員(法政の西田勝、福島の吉原泰助、東大の横山正彦、その他に学芸大の石川湧が同席という記録もある。)、三人の弁護士(斉藤浩二、角南俊輔、山根二郎)、名前は紹介されなかったが二人の朝鮮人と、TBSの記者二人だった。金嬉老はその日(二月二十三日)の正午までと刻限を切って警察の回答を求めていたので、かれにも「人質」の身にもいつ何が起るか分からず、ホテルのその部屋にも緊張がみなぎっていた。
重苦しい議論は午前二時ころから始まったが、明け方近くになって、この局面を打開するために金嬉老に「呼びかけ」を行うことが提案された。私は、もし「呼びかけ」をするにしても、生きのびてくれというのは自首=逮捕を勧めるにも等しいから、彼の生死については何も言うべきでない、むしろ、仮に彼が死んでもわれわれは彼の主張を生かすべく、努めるし、万一逮捕されて裁判になった場合は法廷で彼を支える用意があることを伝えるべきだ、と主張した。それは大筋で皆に了承され、「呼びかけ」原案の起草が私に依頼された。私は中嶋と相談しながら大急ぎで文案を作成したが、それは全員によって検討され、大幅に修正を施されて、結局最後に承認されたものは次のような文章だった。
「あなたの声は私達のところに届きました。私達(文学者、大学教師、弁護士、ジャーナリスト)は、事件の詳細について深く知りたいと思いますが、このような形で届けられたあなたの声の持つ重大な意味を、いま夜を徹して考え続けています。私達は、本日正午までと刻限を切られたあなたにM私達の精一杯の声を送りたいと思います。私達は今回のあなたの行動を通じて、日本人の民族的偏見にかかわる痛烈な告発を知りました。私達は、もしもあなたが生命を失っても、あなたが叫び続けた問題を、その本質において受け止めねばならないと思います。
私達は、いまあなたにどのような手を差し伸べるべきなのか、深刻な反省と共に考えております。そのためには、あなたに生き抜いていただきたいというのが、私達がいまここで言えるただ一つの言葉ですが、もしもあなたが生きる道を選ばれた場合には、法廷闘争をはじめあらゆる運動を通じてあなたの行為を無駄にしないように努力するつもりです。法廷は私達にとっても同様に戦いの場であり、それによってあなたの言う「人間味のある人間関係」を作るために、あなたと一緒に全力を尽くしたいと思います。
あなたの行動は民族の責任を衝きました。私達はまさに日本民族のために、あなたのを真っ向から受け止めたいと思います。そしてそのためにこそ、あなたに生き続けて訴えて欲しいと思います。
これは「もしもあなたが生命を失っても」と言う部分にいくらか最初の発想が残っているが、全体としては「生きのびて欲しい」という訴えに終わっている。私自身も、特に最後の一句にはずいぶん抵抗しながら、結局はそれを受け入れた。おそらくいつ爆発するとも分からない寸又峡の状況を、じっと堪えて見守り続けるだけの勇気が私に欠けていたのだろう。のちになって冷静に振り返ったとき、私はこのような「呼びかけ」に名を連ねるべきではなかったと言う苦い反省に襲われた。もっとも、これが寸又峡の「金岡安弘こと金嬉老」にそのまま届けられたわけではない。
この文章には、その場にいたものの他に、電話で参加を求められて、宇野重吉、小田切秀雄、日高六朗、中野好夫、野間宏も署名者として参加することになった。朝の五時か六時ころだったと記憶している。明け方のこの時刻にそのような連絡が可能だったのは、それらの人達もまた息を凝らして事態を注目していたためだろう。そしてこの「呼びかけ」を持って伊藤成彦と金達寿及び三人の弁護士が、直ちに寸又峡へと向かったのである。
現場では、おそらく非常線を張って警戒している警察に阻まれて、彼らも容易に「ふじみ屋」には近づけなかったに違いない。その非常線を通るための苦肉の策だったと後に説明されたように記憶しているが、合意文書は現場に行ったものの責任で変更され、まったく形を変えてNHKを通じて発表された。伊藤達が、「ふじみ屋」に入れたのは、その発表のあった後で、23日の午後九時半ころだったと言う。その前文は、三一書房刊「金嬉老の法廷陳述」のあとがきに掲載されているが、そこにはまず
「私達は今度のあなたの行動のすべてを認めるわけにはいきませんが、このような行動に立ったあなたの気持ちを理解するものです。あなたのその気持ちをもっと多くの人々に正しい方法で訴えるために、法廷に立つ道を選んでください」
という言葉があり、
「あなたがあなたの主張を法廷で述べる道を選んだ場合、私達は弁護団を組織するなどできる限りの方法で、あなたの力になりたいと思います。そしてその事を通して、朝鮮人に対する偏見を日本人の中からなくすために努力したいと思います」
と続くもので、全体が説得工作であり、自首の進めと見られても仕方ないものだった。
この第二の「呼びかけ」をいつ伊藤成彦から示されたのか、私にはもう記憶がない。しかしこれでは金嬉老が対立している当の警察に協力するものになり、「気持は分かるが方法が悪い」といったマスコミの主張と何ら変らなくなってしまう。私は到底このような変更を認めるわけにはいかないし、これには共同責任を負う意思はないことを周囲の者に語ったけれども、考えてみれば最初の文章もこれと五十歩百歩のものだった。おそらく、このようにしゃしゃり出たおせっかいな私達の行動は、金嬉老の気の緩みを招く一因になったことだろう。
その後、私はこの金嬉老事件に長くかかわるようになるのだが、たとえこの時東急ホテルで深夜の話し合いに参加していなくても、そのことは変らなかったと思う。李珍宇をめぐって「悪の選択」と「日本のジュネ」を書いた以上、それは自然なことだった。しかしそこにこの「呼びかけ」という事実が加わった。私は自分が第一の文章に同意したのだから、少なくともその文言に忠実であろうと、このとき心を決めたのである。
現場の様子は、はじめに想像されたものとずいぶん異なっていたらしい。寸又峡にはテレビや新聞の記者達が殺到し、最初はこわごわと「ふじみ屋」に近づいたが、やがて金嬉老を取り巻いて何度も大掛かりな「記者会見」間で開かれるようになった。テレビに映し出された旅館の状況と、命がけで朝鮮人への差別を糾弾する金嬉老の言葉は、視聴者に強烈な衝撃を与え、「篭城」中の彼の許には全国から約四十通の電報とそれをはるかに上回る手紙が寄せられた。それは検問所で留められて彼の手には渡らなかったが、その多くは同情を表明するものだったという。金嬉老はライフル銃をおいたまま風呂にはいることもあったし、少人数の者と一室に閉じこもって話し合っていたこともある。武器も持たずに旅館の主人と共に外にでて、近所を徘徊したこともあった。「人質」の多くは山の作業場で働いていた男の技師達だったから、隙を見て逃げることも、また数人で飛びかかる事も可能だったが、彼らはそうしなかった。おそらく自決を覚悟で警察を糾弾する金嬉老の姿勢に、心を打たれるものがあったのだろう。彼らの中には、朝は寸又峡より下の奥泉というところの実家に帰って、夜再び「人質」になりに戻ってきた者もある。これはもう監禁などと呼べる状態ではなかったし、隙だらけの金嬉老が逮捕されるのはもはや時間の問題と思われた。
彼は二月二十四日の午後三時過ぎ、数十名の報道陣が詰めかけた旅館の玄関先での「記者会見」のさいに逮捕された。最前列には記者を装った警察の屈強な特別捜査班員数名が配され、一人の記者が「手記を書いて欲しい」とメモ帳を金嬉老に差し出した隙に、丸腰の彼に一斉に飛びかかったのである。続いて記者達がメモ帳も放り出して襲いかかった。金嬉老は舌を噛んで自殺を図り、多量の出血があったが、直ちに口の中にさまざまな者を押し込まれて一命はとりとめた。こうして私達は、取材と称して近づいてくる記者が刑事を紛れ込ませ、時には自らも私服刑事に変身することを見せつけられた。
それだけではない。TBSの城所賢一郎は、その後社内でたいそう出世した人物と思われるが、この事件の時は現場記者としていち早く金嬉老に接触していた。しかも彼はその模様を事細かに検察官に語り、金嬉老から脅迫を受けたという彼の供述は、高裁段階で証拠として採用されて、起訴の対象になった。氏かもこの証言はTBS社内で行なわれている。事件全体の中では小さな問題に過ぎないが、裁判でもこの点も争った弁護団は、城所賢一郎を証人として申請し、裁判所も彼を喚問した。しかし彼は「報道以外に顕出させることは報道記者の良心から許されない」ともっともらしい口実をつけて、証言を頑なに拒否した。検察官には取材上の体験をぺらぺらと喋っても、それ以外のところでは沈黙を通して、被告の防衛手段すら奪うというのが、この人の「良心」だった。たとえそれがどんな恐ろしい行為を犯した被告であっても、これは報道記者のとるべき態度ではないだろう。寸又峡の事件はこのように、日本のマスコミの正体も、ものの見事に暴露したのだった。
第十二回
第三章金嬉老事件
金嬉老に対する私達の「呼びかけ」や、寸又峡に出かけて行った者たちの行動は、マスコミ特に週刊誌から批判の集中砲火を浴び、罵倒や嘲笑の対象になった。私も何度か記者達の取材を受けたが、その度に彼らの憎悪を含んだ冷笑的な視線にさらされた。もともと論壇でも無視されてきた「在日」の問題だから、関心を持っていた記者は皆無に近かったのだろう。その上、「呼びかけ」加わったものの中にも、逮捕と同時に早くも亀裂や食い違いが表れ始めていた。
まず、きっかけを作った中嶋嶺雄は、自分は裁判の仕事には加わらないと言って、真っ先に去って行った。また深夜の会合以後、二度と姿を見せない人もあった。それでも弁護士達は、逮捕と同時に直ちに金嬉老に面会するなど、新事態に対応して動き始めていたし、伊藤成彦、大沢真一郎、金達寿、西田勝と、私の五人はどのように裁判に臨んだらよいかを弁護士たちと連日話し合うことになった。電話で署名に応じた人達の中では、日高六郎のみがこの議論に加わって、粘り強く意見を述べた。
三人の弁護士は、他の人達にも声をかけて協力な弁護団を組むことを目指していたから、最後まで長い裁判をになうことになる数人の弁護士が、この時点かないしはその少し後で、すでに会議に加わっていた筈である。山根二郎が主任弁護人として公判に当たることも早い段階で固まった。一方弁護士以外の者は、弁護団と密接に連絡をとりながら裁判に取り組む組織として、「金嬉老を考える会」を作ることがほぼまとまった。この会はその名の示す通り、啓蒙と裁判支援の性格とを合わせ持つもので、その活動内容として承認されたのは次の三点である。
1。金嬉老の半生及び今回の事件の事実を調べ、また知らせたい
2。この事件の意味とそれがもたらしたものを考え、意見を交換し問題の認識を広げ深めたい
3。弁護団と連絡をとりその活動を支持したい
このような会を発足させるために、また問題を少しでも多くの人に知ってもらうため、私達は手探りで各方面に声をかけて、呼びかけ人として名前を連ねてくれる人を求めた。すると評論家の荒正人をはじめこれに賛同する者が次々と名乗りを上げて、その数は私達まで含めると約四十名に達したのである。それだけの賛同者があったということは、寸又峡の事件が日本の知識人と呼ばれる人達の中に、衝撃と共に在日朝鮮人の抱えた問題を強く印象づけたことを示しているだろう。
ところで、すでに述べたように、私はこの年の三月末から一年間、日本を離れることが決まっており、そのためには大学や受け入れ先機関の一切の手続きを済ませていた。どうやら、「金嬉老を考える会」の構想も固まりかけた段階で、私は自己紹介の意味を含めてまず収監された金嬉老に手紙を書き、また三月中旬には静岡市梅田にある刑務所に面会に訪れた。そして不在中も彼及び「考える会」と連絡をとること、一年後に帰国した後は裁判のためにできるだけの努力をすることを約束した。むろん金嬉老は私の名前も念頭になかったろうから、その頃あちこちから獄中の彼に寄せられた同情や援助の声の一つくらいに考えていたかも知れない。ともあれそれが彼との初めての接触だったし、またおそらく優に百通は超えると思われる往復書簡の始まりだった。
この金嬉老との関係とは違って、支援組織のことを考えると、一年間の不在は心苦しいことだった。まだ正式に発足していないこの会は、どんなに微力な者であっても、一人でも多くの手を必要としていたからだ。詩かもそこへ新たに厄介な問題が生じた。一旦合意された申し合わせ事項に、あるときから荒正人が強く異をとなえ始め、その提案に伊藤成彦と西田勝が同調したために、容易に会の発足に至らなかったのである。
荒正人が問題にしたのは第三の合意項目で、これがあると会が弁護士の応援団のような印象を与えかねないし、そのために参加を断る人もあり、運動の広がりを著しく妨げる、というのである。(彼は呼びかけ人を「国民的」な規模まで広げて、会田雄二、猪木正道、石原慎太郎にまで声をかけるべきだと主張したが、今日これらの名前を見る人はどんな印象を持つだろうか)おそらく伊藤と西田は、荒正人とともに「近代文学」同人だった小田切秀雄と繋がりがあり、運動を進める上でそのような人脈を大事にしたかったのであろう。
それに対してどこまでも「呼びかけ」の文言に忠実であろうとした大沢真一郎と私にとっては、弁護団との協力は当然の前提であり、譲れない項目だった。こうして何度も話し合いが持たれ、一度は荒正人の自宅だったか仕事部屋だったかで、小田切秀雄を交えて長時間の議論が行われた。しかし第三点をめぐる溝はどうしても埋めることができず、結局「金嬉老を考える会」は発足に至らずに瓦解した。最終的に二つの立場が決裂したのは、私の出発も迫った三月二十二日のことである。
その結果、大沢真一郎と私は、金達寿や日高六郎とともに、裁判を支えるあらたま組織を模索しなければならなかった。一方、荒正人とその意見に賛同する人達は、一般的な啓蒙活動を目指していてさらに広汎な人々に呼びかけることになり、これは後に「偏見と差別を考える会」という名称のものになったはずである。私は内心、このように目的の違う二種類の組織が生まれるのも、互いに補い合ってよいかも知れないと考えたが、その後の彼らが行った啓蒙運動の実態や成果については一切知るところがない。
こうした意見の食い違いのために、三月の下旬になっても、裁判を支える組織はまだ雲を掴むような状態だった。出国の日はせまる。私は焦燥にかられた。そんなある日、大沢真一郎から、どうやら組織のイメージが掴めたので、一晩合宿をして相談したい、ついては浜松にある岡村昭彦邸に来てくれないか、と言う要請があった。そこにみんなが集まるのだという。三月も押し詰まったころである。
岡村昭彦はヴェトナム戦争を取材したカメラマンとして一躍脚光を浴びた人で、「日本のキャパ」などと呼ばれた人物だが、すでにそれまでに「考える会」辺の参加を表明して、何度か話し合いにも顔を見せていた。
この地方の名家らしい広大な岡村邸は、多人数の会合にはうってつけの場所だった。そこにははじめとする数人の弁護士がきていたが、その他には、せりか書房の敏腕編集者で「考える会」の準備会にもでていた久保覚、後に朝鮮研究で重きを成す梶村秀樹、教育学で独自な領域を築き上げる里見実などがいたのを、明確に覚えている。
この会合の実現は、一にも二にもオルガナイザーとしての大沢真一郎の功績だった。彼は日高六郎の下で、国民会議の事務局を実質的に支えてきた人物だが、とくに六十年代を特徴づける日韓条約とヴェトナム戦争には、積極的に取り組んでいた。岡村昭彦との密接な繋がりも、そんなふうにして生まれたものなのだろう。また、前々回に書いたシンポジウム「日韓問題と日本の知識人」を立案し、かつ当日の司会を務めたのも大沢だったし、里見実はその時の出席者の一人だった。また、この浜松会議には参加していなかったが、その直後から運動の主要な担い手の一人となる社会学の三橋修も、この日韓シンポジウムの出席者であり、大沢、里見、三橋のトリオは、学生時代からの親密な間柄だった。一方、梶村秀樹は日本朝鮮研究所の若手の理論家で、日韓条約の欺瞞を早くから指摘していた人物であり、在日朝鮮人の問題を考えるためには不可欠な存在だった。その梶村と同じく日本朝鮮研究所のメンバーだった佐藤勝見も後に運動を支えることになる人で、浜松会議にも参加していたかも知れないが、この点に関する私の記憶は定かではない。
こうして日韓問題とヴェトナム戦争とが大沢真一郎という接点で結びつけられてこの一見バラバラな人達の会合を実現させたのである。
その後、八年間にわたって裁判にかかわることになるグループの、大体の方針と骨格ができ上がったのは、この浜松会議においてだった。今で箱の時の出席者の中で、岡村昭彦も、梶村秀樹も、久保覚も鬼籍にはいってしまった。
私達が目指すのは、単なる刑事事件の被告としての金嬉老を防衛することではなく、彼の主張を生かしながら、法廷を通じて在日朝鮮人の抱えた問題と、日本人の責任を明らかにすることだった。おそらく司法はこれを純粋な刑事事件としてのみ、処理しようとするだろうが、それでは金嬉老が命がけで訴えたことが無意味になり、消えてしまう。しかも、「在日」の問題は、これまでほとんど議論されることもなかったから、手探りで進めなければならない点が多かった。これを、そのような事柄にもっともなじみにくい裁判の場で明らかにするためには、当事者である在日朝鮮人や専門家を弁護団に加えることが必要だった。このような弁護士の方針も、この時確認された。
また集まった弁護士達は比較的若い気鋭の人達だったが、世論や裁判所への影響力という点を考慮すると、少し年配の有力な弁護団長を置く必要も実感された。その候補として何人もの名前が浮上したが、最終的には小繋事件と呼ばれる岩手県の入会権をめぐる裁判で知られていた戒能通孝に依頼することになり、戒能は後にこれを快諾して、弁護団長として毎回公判に出廷してくれることになる。
私のように経験も資格もない素人は「金嬉老公判対策委員会」を形成して必要な仕事に当たることになった。後に4月十二日付けで発表される事になる「発足にあたって」という声明文には最後に委員会の仕事を次の三点に要約している。
1裁判費用を集め、労力を提供し、弁護団を物質的に支援する。このことがまず、<被告>としての金嬉老の権利を保証する。
2この<事件>の過程と、その背景を徹底的に調べる。このことを通じて、日本人と在日朝鮮人の根本問題を探り、問題への理論的アプローチを深め、法廷闘争の論理を充実させる。
3その他必要なすべてのこと(パンフレットの刊行等)を通して、弁護団を全面的に支え、たすける。
こうして、弁護団と公判対策委員会が密接に連絡を取り、しばしば合同会議を開きながら裁判に臨む体制が整った。これは「金嬉老を考える会」の時とは全く異なり、戒能通孝をのぞけば著明な知識人が一人もいない若い集団で、最年長の岡村昭彦、佐藤勝巳、および私も、まだ四十才になっていなかった。
出廷する弁護士も、依頼されたというよりはみな自発的に参加した人達で、弁護料はおろか交通費も宿泊費もなしで弁護にあたった。寄せられたカンパのほとんどは、印刷費、通信費、事務所費、集会費などに消えていった。これがワープロもパソコンもなく、厖大な資料や発行物もいちいち外注しなければならなかった当時の運動の状況である。要するにこの裁判は、すべてが全くのボランティアによって担われたのだった。
この浜松会議から三日後に。私は日本を離れた。最初の土台作りの仕事を他人任せにするのは申し訳なかったが、後から考えれば私など却って足手まといになるばかりだったかもしれない。弁護団と金嬉老公判対策委員会の方針やその時々の活動状況は、亡妻が会議に出席して逐一知らせてくれることになり、それは一年間実行された。その妻も1988年帰らぬ人となった。
フランス滞在中に、私はサルトルの主宰する雑誌「現代」にかなり詳細な「金嬉老事件」と言う文章を発表している。そもそも私のこうした問題への関心はアルジェリア戦争を原点としていたし、日本とは歴史も現状も政府の方針もまるで違うとは言え、フランスにも現在の都市郊外の暴動事件が示す通り、旧植民地からの移民も多く、共通する問題も少なからずあったからだ。この文章は最近、フランス人や韓国人の朝鮮研究家達が作る仏語雑誌「レ・カイエ・ド・コレー」すなわち「コリア・ノート」に再録されたが、こんなところでも60年安保は再検討の対象にされているのかも知れない。
またこの滞在中に私は、今となっては歴史的事件といえる「68年5月危機」に遭遇し、ブランショ、デュラス、マスコロ、シュステルといった作家達の「行動委員会」の中に身を置くことにもなった。それについてはこの連載の最後に簡単に触れる機会があるかも知れない。
1969年3月に帰国すると、私は直ちに金嬉老公判委員会に合流した。私が不在だったこの一年の間に、すでに弁護団と対策委員会はそれぞれの組織を整備して、公判を勧める基本的な態勢とスタイルを作り上げていた。
まず、6年5月中旬に弁護団長を引き受けた戒能通孝の下に、山根二郎を主任とする二十六人からなる大弁護団が組織されていた。静岡地裁での第一審で、冒頭の人定質問と検察側の起訴状朗読、被告である金嬉老の二日間にわたる意見陳述に続き、弁護側から意見陳述を行ったのは、山根、戒能の他、広田尚久、金判厳、西山正雄、長塚安幸、角南俊輔、倉田雅年、後藤孝典、近藤俊昭、水上学各弁護人だった。
また弁護団は19人の特別弁護人候補者を申請したが、在日朝鮮人作家の金達寿、報道カメラマンの岡村昭彦、日本朝鮮研究所の佐藤勝巳の三人のみが、裁判所から認められて弁護団に加わり、これもそれぞれ意見陳述を行った。裁判は大幅におくれて、三人目の佐藤勝巳が承認されたのは、私の帰国後の69年5月11日のことだった。最終的に第一審を支える弁護団の顔触れが出揃ったのはこの時点である。
一方、対策委員会には、浜松会議の出席者を中心とする数人の世話人が設けられたが、それ以外にも代々木の事務所には多くの人達が自発的に集まり、8年に亘る対策委員会の運動を全員で創り出してくれた。扱う仕事も多岐に亘り、まず何十回に及ぶ公判のたびに、静岡と東京で報告を開き、時々は大きな集会を行って、裁判の進行と問題点を明らかにするということがあった。カンパを寄せてくれる支持者には、二十ページから時には三十ページを超える「ニュース」で状況を伝え、またそれとは別に問題ごとに資料集も発行した。八年間に「ニュース」は四十号、資料集は十二冊を数えたが、中には第一審の弁護団最終弁論の洋に、原稿用紙750枚に近い分厚いものもある。
その弁論の執筆にも、法律の専門家以外の者にできる部分で私達は積極的に参加した。
だから帰国後最初の私の仕事は弁護団最終弁論の冒頭陳述作成に協力することだった。その冒頭陳述が、序に続いて第一章「金嬉老とは何か」という型破りの形式で書かれ、在日朝鮮人とはどういう存在であり、その中で金嬉老が如何なる人間として形成されたか、彼にとって日本語とは何か、警察とは何か、などを詳述しているのは、寸又峡に至る半生を理解するために、弁護団と対策委員会の編み出した方法である。また、私にとってもそれがサルトルの言う「独自的普遍」に通じるものであった。金嬉老の行為は決して彼固有の特殊な動機だけで説明されるものではなく、一人の人間の置かれた歴史と自由から生み出される全体的なものであることを、私達は裁判を通じて明らかにしようとしたのだった。
第十三回
金嬉老公判対策委員会その一
裁判は初めての経験だったが、私には楽観的な見通しなど一切なかった。また公正な裁判などということも、わたしは少しも信じていなかった。極少数の例外を除き、社会的な問題に関して司法がたえずその時々の政治権力や体制の顔色を窺ってきたことは常識だろう(その極端な実例は最近の東京高裁による立川反戦ビラ裁判である) 。それは特に在日朝鮮人に対する裁判に顕著に表れていた。
もともと司法は、在日朝鮮人に対して犯された日本人の不当な行為を、ほとんど裁いてこなかった。関東大震災一つをとってみても、数千人の朝鮮人が理由もなく、虐殺されたのに対して、手を下した日本人で裁かれたものはごく僅かに過ぎず、それも大部分は執行猶予付きである。詩かも多くの研究が明らかにしているように、警察も朝鮮人による暴動というデマを流して虐殺を誘発したのに、その責任は一切問われなかった。こうして司法は、むき出しの暴力を是認するために重要な役割を果たしたのである。
この姿勢は戦後も、そして今に至るも、無反省に続けられている。それを知るには、たとえば強制連行の被害者や、「従軍慰安婦」とよばれた過去を持つ人達の提起した訴訟に、裁判所がどのように対応してきたかを見るだけで十分である。
もし裁判がいくらかでも正義を志向するものなら、まずこのようなあり方を反省することから始めなければならないだろう。それなしに、日本の裁判所に在日朝鮮人の犯罪を裁く資格などありはしない。これは法律以前の道義的な問題である。だから「日本の裁判所は金嬉老を裁けるのか」という発想は、法律の素人集団である金嬉老公判対策委員会を構成した多くの者たちに共通していた。そればかりか、法律のプロである弁護人の中にも、内心その感覚を共有していた者が少なくなかったのではないか。裁判開始時に各弁護人の行った「意見陳述」で、多くの者が法律的な言葉ではなく、まず事件とのかかわりや自分自身の朝鮮人体験を語っているのは、その表れのように思われた。
にもかかわらず、法廷が何の躊躇いもなく、金基老の行為を犯罪と見なして裁くだろうことも分かっていた。その意味で私達の運動は初めから勝ち目の無いものだったのである。しかし金嬉老が逮捕された状況の中では、法廷を通じて彼の主張を生かす以外に手段は残されていなかった。私は彼の行為を少しでも理解して在日朝鮮人の存在にいくらかでも光を当て、日本人の責任を明らかにしたいと思うと同時に、絶対の李珍宇のように司法の手で彼を殺させてはならないと考えていた。
それにしても、検察官や裁判官はどんな根拠で、金嬉老の行為を裁くのだろうか。私は裁判に備えてその問題を考えるために、団藤重光、福田平などといった刑法学者の著書にも目を通したが、そこで見る限り、「犯罪」の「構成要件」を充たしているという理由だけで人を起訴したり裁いたりする法曹には人間の行為の真実など容易に理解できないのではないかと思われた。刑法的評価の対象という枠内でいくら行為を考察したところで、生きたみずみずしい人間の現実に到達することなどある筈が無いだろう。
私達の行為は、これほど単純ではない。それは敢えて言えば、一人の人間の歴史と自由から生み出された全体的なものである。その歴史と自由の炸裂である。それが寸又峡の事件に端的に表れた。しかも人間の行為は絶対に一回限りのもので、どんなに似通った行為でも決して同じではない。このような生きた人間の行為を、どうやって法技術的な発想に対置するのか、どうやってそれを法廷の枠内で行い、かつまた外部に発信するのか。その事が公判対策委員会の課題だった。
ところで金嬉労災版では実に多くの問題が出されたので、その全貌はどんなに分厚い本でも書き尽くせないだろう。だからここでは詳述を避け、主題を次の三点に限定したい。第一は、裁判を通して浮かび上がった金嬉老がどんな人間で、どんなふうにして寸又峡に至ったか、第二は、その金嬉老と私との関係、第三は私の参加した公判対策委員会の運動とは何だったかという問題である。しかしすべては公判との関係で進行したので、その三点にはいる前に、ごく簡単に裁判の経過だけは述べておこう。
第一審の静岡地裁では、五十七回に及ぶ公判で証拠調べが行われ、厖大な数の証人が出廷した。検察側がこれを全くの刑事事件として扱い、民族問題は金嬉老のこじつけだと恣意的に断定したのに対して、弁護側は多くの在日朝鮮人や朝鮮問題の専門家を証人に申請して、彼の行為が歴史的にいかに根の深い問題を含んでいるかを明らかにしようと試みた。こうして四年に亘る公判の末に、1972年2月16日に求刑が行なわれたのだが、検察官加藤圭一はごく当たり前のことのように死刑を求めた。それに対して同年4月5日から三日間にわたり弁護団の最終弁論と金嬉老の最終陳述が行なわれて結審となり、同年6月17日に下され た判決は、殺人、換金、火薬類取締法違反などを、検察官の主張通り認めた上で、「被告を無期懲役に処する」というものだった。弁護側も検察側も控訴した。
1973年4月から始まった東京高裁における控訴審では、証人として出廷したのは金嬉老の母親の朴得淑のみだった。そして1974年6月11日、裁判官は第一審でのいくつかの事実誤認を指摘して原判決を一旦破棄した後、改めて第一審と同じ無期懲役の判決を下した(これを「破棄自判」という)。朴得淑以外に唯一の商人をして喚問されたTBSの城所賢一郎が出廷しなかったために、彼がTBS社屋内で検察官に語った供述書がそのまま証拠として採用され、第一審とは違って新たに城所への脅迫罪が追加されたことは、お上に弱いマスメディアの典型として記録されなければならない。
金嬉老と弁護団はさらに上告したが、最高裁判所は1975年11月4日にこれを棄却して刑は確定した。金嬉老は翌1976年2月に熊本刑務所に送られた。彼が出獄して韓国に送還されたのは、1999年9月7日のことだった。
まず金嬉老とはどんな人物か。この説明は、一つの挿話の紹介から始めたい。
対策委員会が公判のたびに、第一審では裁判の行なわれた静岡と東京都で、第二審以後は東京で報告会を開き、膨張できなかった人達に法廷の模様を伝えた事はすでに述べたが、その席によく岡と名乗る四十才前後の無口な男性の姿があった。かれは69年のある報告会の席上で突然発言して、「僕はね、実は朝鮮人なんですよ」と前置きしながら、自分がどんなに金嬉老に近い生活を送ってきたかを語り始めた。また金嬉老の行為は「自分を殺すことによって自分を解放するという以外に手段のないところへ追い込まれた」者の行動で、終始あれは自殺だと言っていい、しかし「僕は断固として自殺したくない」。「今までの負債を全部返して勝ちたいですよ」と、堰を切ったように喋り出した。その情景を私は今もよく記憶している。
その日私達は、彼の本名を知り、それからは何かと彼に助言を求めた。第一審では証人として出廷してもらったし、弁護団と対策委員会が総力を挙げた「最終弁論」執筆の時には、その一部に目を通して批判を述べてもらった。やがて私達は彼が小説を書いていることを知り、雑誌「人間として」に連載されたその作品「夜がときの歩みを暗くするとき」を争って読んだ。この人が現在の高史明である。
彼に限らず、金嬉老の行為に自分自身を重ね合わせた朝鮮人は数多い。第一審では、彼の他にも在日朝鮮人として、ユンリョンド、チョンゲイ厶ン、チョヨンホ、金本茂、金良順、朴得淑、李丙洙、李恢成、金時鐘、趙重泰といった証人が出廷したが、その何人かは金嬉老事件への共感を語って、一歩間違えば自分が金嬉老になっていたと述べている。一例として、詩人金時鐘の証言を引用しておこう。
「族に言うキムヒロ事件に対して、少なからぬいえ、決して小さくない共感がありました。その方法が殺人と言う極端な行為によって、自分の主張が抱き合わされていることに気後れがないわけではありませんが、彼キムヒロならずともそのような極端な行為に駆り立てられる衝動は私自身の内部にも古くからあるものです、正直に言って。朝鮮人なら誰しもが持っているであろうところの日本に対する感情のように思えてならないからです。」(証言集3)
ところで、金嬉老は、本名さえ曖昧な人物だった。1928年11月20日に静岡県清水に生まれたが、実父は権命述、このときの彼の名前は近藤安弘こと権禧老である。彼が五歳の時、父親は港での積み下ろし作業のさいにウィンチから落ちた木材にあたって死んでしまう。母親はその後、リヤカーをひいてクズ鉄拾い(クズ綿
?)を始め、後には豚飼いで生計を立て、数年後に金岡(清水) 藤太郎こと金鐘錫と再婚する。この時から彼は、金岡安弘または清水安弘こと金嬉老と呼ばれるようになる。これに朝鮮読みのクヲンヒロ、キムヒロを加えれば、実に七つの名前を持つことになる。この一事だけで日本社会における彼の立場は明確に示されている。なお裁判所の記述は「金岡安弘、金嬉老こと権禧老」となっているが、ここでは名前に関するかぎり、最もよく知られた金禧老で統一しておく。
幼少期の彼の生活は、『金禧老の法廷陳述』岡村昭彦編『弱虫・泣き虫・甘ったれ』に生き生きと叙述されている。彼は母親のひくリヤカーに乗せられてくず拾いに着いていきながら、「朝鮮人、朝鮮人」と言って、石を投げる人々の嘲りを体験する。また豚の餌のために他家の台所や八百屋に残飯や菜っ葉のクズをもらいに行っては、そのでも些細なことで侮蔑や暴力の対象になる。清水小学校も屈辱の場で、三年生の時に金持ちの子供から粗末な弁当をバカにされて床に叩きつけられ、喧嘩になると、担任の教師は何も聞かずにいきなり殴りつけ、そのために彼は小便と糞を洩らしたという。それ以来、彼の足は学校から遠ざかり、五年生の九月で完全に退学してしまう(姉の美代子も三年から行かなくなったらしい)。この少年時代に受けた日本社会からの仕打ちが、彼の一生を方向づけることになる。
しかも家では養父と折り合いが悪く、彼の存在は始終、養父と母親の諍いの原因になる。そのため居ずらくなった彼は十二歳頃に家を飛び出し、住み込みで働くか宿無しのように放浪しながら、さまざまな仕事を転々としては時々家に戻っていたらしい。そんなある日に、清水駅の待合室で寝ていたところを起こされ連れて行かれたのが、清水警察署(当時の江尻署)だった。それが警察との最初の接触である。その頃から放浪は下関、尾道、名古屋などに及び、ときおり窃盗などの疑いで警察に連行されると言う生活が始まる。警察では、朝鮮人であるためにしばしば手荒な処置を受けて自白を強要された。また警察から送り込まれた名古屋の瀬戸少年院では、逃走を図ってひどい体罰を受け、這ってでなければ歩けないほどの傷を負ったという。この時から日本の敗戦まで、彼はいくつかの少年院で似たようなリンチを受けるが、また行く先々の土地で不良やヤクザとの喧嘩も経験する。彼の左目の上に残る傷跡は、この時期に熊本で凶器のチェーンで殴られ、ひどい怪我をしたときのものだ。こうした体験を通して、彼が社会の暴力を肉体にしみ込ませるとともに、したたかな狡知を身に付けたことは容易に理解されるであろう。
日本社会から植え付けられたのは暴力と狡知だけではない。彼が無邪気に理想として抱いたのは、日本の子供と同じように、当時軍神と言われた数々の戦死者であり、東郷平八郎や乃木希典のような将軍だった。彼は終戦を、東京江戸川の相愛学院という少年院で迎える。ここは八十人ほどの朝鮮人少年と、三人の台湾人だけを収容していた施設だったが、玉音放送を聴かされて日本の敗戦を知ったとき、彼はポロポロ悔し涙を流したという。それほどまでに、彼は完全に日本人化した朝鮮人だった。
言語も同様である。結婚のために十八歳で来実下母の朴得淑は、生涯を通じて日本文字の書けない人だった。おそらく幼い金嬉老との会話は朝鮮語だったのだろう。しかし夫の死後は彼女自身が身を粉にして働かねばならなかったし、子供相手の断片的な会話は語彙の貧しいものだったに違いない。それに金嬉老は早くから家を捨てたから、家庭内で朝鮮語に接する機会も失われた。こうして彼は全く朝鮮語の喋れない朝鮮人に成長する。「私は今も日本を第一の故郷としていますし、日本語以外には何も喋れません」と、彼は『法廷陳述』で述べている。
同じような経験は、高史明も語っている。彼は三才で母を亡くし、兄とともに父親の手で育てられた。この父親はほとんど日本語を覚えようしない人だったが、それでも子供の使う言葉は片言の朝鮮語以外、すべて日本語だったという。父と子は朝鮮語と日本語で会話にならない会話をしたらしい。高史明は小学一年のころ極貧の生活の中で自殺を図ろうとする父親に取りすがったとき、自分の口から出た言葉が日本語だったと、痛切な悲しみを込めて語っている。
このように、母語を失った在日二世は圧倒的な数にのぼるだろう。しかも金嬉老は小学四年以後ほとんど学校に行ってないから、その日本語すらあやふやだった。彼が言葉を本格的に学ぶのは、服役中のことである。
第二次世界大戦後の社会の中で、とにかく食う手段を求めたかれは、始め商売などに手を出すが、やがて窃盗、詐欺、横領などの罪名で何度も懲役刑を言い渡される。裁判は被告の言い分に耳を傾けない過酷なものだったが、いずれにせよ彼が社会の裏街道を歩んでいたことは間違いない。こうして1952年には、横領、強盗、強盗予備、銃砲刀剣類等所持取締法違反の罪名で、懲役八年の刑に処せられたが、その時静岡拘置署内で出会ったのが、破暴法反対闘争で逮捕された白鳥良香だった。白鳥は後に静岡市議、県議などになる人で、金嬉老裁判のときには証人の一人として出廷している。私達対策委員会の者は、公判のたびに白鳥家に泊めていただいたりしてずいぶんお世話になったが、52年当時のかれは若い共産党員で、ほぼ半年くらいを拘置所で過ごしたらしい。その間に金嬉老の希望もあって、彼は外部の救援会の人達から基礎的な資料を金嬉老に差し入れさせたという(証言集2)。内容は思想的な入門書や文学書だったが、そうした書物に刺激されたのか金嬉老は、「読み書きが満足にできない」ことを恥じて、静岡から千葉刑務所に移されて過ごした七年の間、漢和辞典と国語辞典を手許において毎日必死に勉強している。(『法廷陳述』)このように彼の読み書き能力は、服役中に独力で獲得したものだ。これは彼のような境遇のものにとって決して簡単な努力ではないだろう。
言葉だけでなく、彼は同時に刑務所で自動車整備士の免許を取得して、技術も身に付けた。(しかしその国籍のために、彼を雇ってくれるところにめぐり合った形跡はない) そして1959年2月に千葉刑務所出所後は、一度服役した他は、ある女性と内縁関係になり、掛川市で彼女に飲み屋を開かせるなどして、比較的安定した日々を送っている。その内縁の妻と別れる事になったのが67年5月。それから九ヶ月間の彼の生活は、一気に寸又峡の事件へと傾斜していゆくことになる。
第四章
金嬉老裁判と対策委員会
その3
金嬉老の弁護は、まず彼の行為を理解することから始まるだろう。また、「みんくす」と寸又峡での彼の行為は、全面的に日本の国家と社会に作られた在日朝鮮人でなければ起こりえなかったことから、それを理解することは日本人の責任を明らかにすることにも通じるだろう。私はずっとそう考えてきた。対策委員会も総力を上げて執筆に協力した第一審の弁護団最終弁論は以上に述べた考え方も充分に取り入れた一つの到達点だった。
だがまたそのような作業を進めながら、私には二つのことが気になった。第一の問題は最初から頭を離れなかったもので、在日朝鮮人のおかれたこの上もなく困難な状況が日本社会によって作られている以上、抑圧者に属する当の日本人がそれを理解するというのは不遜ではないか、ということだった。しかし私が敢えて「越境」してその内面をも想像の対象としないかぎり何も始まらないと考えたことは、小松川事件について書いた章でも述べた通りである。だがそれと同時に裁判の進行に連れて、予期しなかった第2の難問があらわれた。それは次のようなものであった。
対策委員会は発足声明の時から、「告発者としての金嬉老を真に弁護する道」を探るという方向を明らかにしていた。事実、彼の存在と行為はまるで鏡のように、彼を作り出した醜悪な日本社会を映し出し、これを告発していた。私たちの仕事はそれを受け止めて、問題の根元にあるものを明らかにすることにあったし、それはかねがね私の主張していた民族責任や戦後責任に通じるものだった。しかし、私は第一審の進行中に、場合によるとそのような主張が、金嬉老という一人の在日朝鮮人をますます他者に作られたものにする可能性があること、言い換えれば、私たちは日本の責任を強調する余りに、かえって在日朝鮮人の主体喪失に手を貸す場合があることに気がついた。
一人の人間の行為を、彼自身が自由に選び取ったものではなくて、やむを得ずそこに追い込まれたものと考えるのは、弁護のためにも避けるわけにはいかなかったが、それはまたその人間の主体を危うくする危険もはらんでいたのである。しかも、前々回に書いたように、幼い頃からの彼の境遇が、暴力を身にしみこませるとともに、ねじれた人間関係を作り出し、したたかな狡知を育んでいただけに、問題は複雑だった。むろん彼のこうした性格も日本社会に培われたものに違いないが、そのことを指摘するだけですむわけではない。とりわけ金嬉老の主張の中で私に納得できなかったのは、警察や刑務所に関するものであり、その一つが掛川署の大橋朝太郎巡査の問題にあらわれておた。
もともと金嬉老は、警察と特殊な関係を作っていた。大戦末期の十二、三才ころに初めて「保護」され、連れて行かれて、ひどい仕打ちを受けた清水署(当時の江尻署)は、朝鮮人と見れば過酷な処置をすることで知られたところだが、それ以来、寸又峡に至るまでに、彼は何度も逮捕され、肉体的にも精神的にも警察から痛めつけられた。
服役中に警察官に恋人を奪われて、20才そこそこだった彼が絶望のあまり、農薬自殺を図ったこともある。だがまた度重なる逮捕とむごい扱いを通して、彼は警察の恥部や弱みを知りつくしていたので、逆にしばしばそれを利用して留置場でも特別な待遇を与えられたし、警察はそのような扱いを餌にして彼を陥れ、彼のほうはさらにその事実を暴露して警察を追及することもあって、そこから管理するものとされる者の、敵でもあり味方でもある複雑に入り組んだ関係が生まれていた。金嬉老のライフル銃不法所持も、警察は以前から知っていながら見逃していた可能性がある。おそらく彼の生活の中で、警察は最も身近なものだったろうし、つきあう知人の中にはかなりの数の警察官が含まれていたはずだ。
このような関係は警察だけでなく、刑務所内でも管理責任者や看守との間に生じていた。たとえば裁判のはじまって二年ほどたった70年3月から4月にかけて、静岡刑務所内で起った「凶器差し入れ事件」と呼ばれるものは、その顕著な一例である。
これは周到に張り巡らされた驚くべき罠が明るみに出た事件で、「対策委員会ニュース」の号外や、第一五、十六、十七号に詳述されているが、金嬉老によると、刑務所では早くから、弁護団を解任して民族問題を訴えるのをやめるようにという働きかけがあったという。その一方で彼の房だけは鍵がかけられておらず、自由に出入りできたり、無許可のものがいくらでもて入手できたり、出所の分からない金が送られてきたり、揚げ句に、なんと包丁、ヤスリ、翌分からない粉末までが差し入れられた。彼は寸又峡以来、何度も自殺の意思をほのめかしていたから、そのように自他殺傷の可能なものが彼の手に渡るのは、きわめて重大な結果をもたらしかねないことだった。
この時は、弁護団が迅速且つ的確な判断を下して、面会の際に直ちに金嬉老の示した凶器の証拠写真を撮り、事実を公表して危うく難を免れた。法務大臣は「綱紀の重大な欠陥」があったといい、静岡地検は「所内の規律問題」だといったが、これが単なる優遇処置や綱紀の乱れなどといった種類のものではないことは明瞭である。関与した看守や職員も複数に上る筈だが、最後に一人の看守が「自殺」して、すべてが封印されてしまった。その後は弁護団や対策委員会の賢明の要求にもかかわらず、法務省も地検も、真相を明らかにするためのどんな努力も見せようとはしなかった。
それにしても、弁護団の機敏な処置で救われたとはいえ、金嬉老と刑務所職員や看守との特別な関係がなければ、この事件は起らなかったはずだ。言うまでもなく、懐柔と強圧を使い分けるのは刑務所の常套手段だし、自由を奪われて拘禁された状態でそれに抵抗するのは、外部のものには分からない困難を伴うに違いないが、それでも金嬉老には毅然とした態度を維持してもらいたいというのが、このとき私たちの抱いた共通の願いだった。
警察についても同様である。1960年に原谷駐在所に赴任した大橋朝太郎は、前任者から予め金嬉老を要注意人物と聞かされていた。しかし間もなく金嬉老本人が「挨拶」に訪れ、それから両者の間には親密な往き来が始まったらしい。大橋はソフトな態度で金嬉老に接して、彼を「ヒロさん」と呼び金嬉老の母親からは仏様のような人だと言われるほどだったし、金嬉老のほうは大橋に協力して夜警までしたくらいだ。いずれにしても金嬉老が曽我由紀夫と対決する直前に、わざわざ大橋を訪ねて計画を打ち明けたのは、そのような間柄だったためである。
その日、金嬉老と大橋は、夜中の十二時頃から明け方の三時半頃まで話しあったという。大橋はライフル銃とダイナマイトを示してもう後に引けないという金嬉老をしきりになだめ、なんとか我慢するようにと説得した。しかし彼はこのことを本署に通報はしなかった。警察官としては、たいへんな手抜かりというだけではすまない失策だろう。そして金嬉老は、最初の意見陳述の時から繰り返して、自分は通報されると思っていたし、もしそうなればライフル銃やダイナマイトの不法所持で捕まるけれど、対決は避けられたはずだという趣旨のことを述べている。つまり曽我由紀夫他一名の死を招いたのは警察にも責任があるというのだった。
確かに彼は、そこに対決回避のわずかな期待にかけたのだろう。また、清水署の小泉刑事のことを社会に訴えようととしていた以上は、正面から警察に頼る気が無かったのも理解できなかったといって金嬉老自身が大橋朝太郎を攻めるのはどう見ても筋違いであり、私には到底受け入れられなかった。それでは自分の選んだ重大な行為に主体的に向き合うとは言えなくなってしまう。裁判官の心証を考えても、これは決して有利に作用する言葉ではない。だから私は長い間迷った末に、少しでも本物の対話を作り出すために、いつか自分の印象を彼に伝えようと考えた。その機会が訪れたのは、静岡刑務所の面会室に於いてである。
裁判の進行中、私は静岡刑務所にも、何度か面会に訪れた。そこで先ず私を迎えるのは特有の匂いで、それは臭覚の鈍い私にもなかなか慣れにくいものだった(いまは改善されているだろうか?) 。透明な仕切りごしの会話は、決して気楽な雰囲気のものではない。だから面会室から出ると、いつも私はひどい疲労感を覚えた。ともあれ、そうした面会のある時に、話題が大橋巡査に及んだのである。すると金嬉老は私の感想を聞いてひどく不快な顔をしながら、あなたの言うことは「権力者の言葉」と同じだ、と答えた。この「権力者の言葉」という表現を、私は忘れることができない。しかし、むろん私がそれを受け入れたわけではない。
それから大分経って、私は「対策委員会ニュース」第二十一号(1971/4/5日付け)に、この問題も含めたかなり長い手紙形式の一文を書いた、たまたまある雑誌に、私の文章を誤解した朝鮮人青年による批判が掲載されたので、それに応える形で、朝鮮人と日本人の境界を越えた対話の可能性を模索したものである、その中で、私が大橋を巡る会話に触れながら書いた一節を引用する。
「私は、もしこのような指摘が在日朝鮮人からなされていたらどうだろうか、と考えます。金嬉老は絶対にそれを『権力者の言葉』と同じだとは、言わなかったでしょう。(中略)そうだとすれば、日本人はこのようなことを口にすべきではないのでしょうか。もともとこんなことを考えるのは不当なことなのでしょうか。所が一方では、対策委員会は金嬉老を英雄視して言うべきことも言っていないという批判の声も響いています。
おそらく問題は、一つのことを言うか否かではなく、それを含んだ人間関係全体に、つまりは社会の構造にかかっています。一人の在日朝鮮人と一人の日本人の関係は、甚だ不自由なものですれ違いなどはもともと付き物なのでしょう。また多少自由にものが言えたところで、この関係は変る筈がありません。けれども私はそれを承知の上で、できるだけ物を一手生きたいと思うようになりました。それはまたまた新たな誤解やすれ違いを産むかもしれませんが、その誤解やすれ違い自体が、対話を幾分でも進めるものかも知れないと思われてきたからです」
しかし金嬉老との対話は決して滑らかにはいかなかった。面会ではその後もときおり気まずい空気が流れたし、文通も少しずつ重苦しく、間遠なものになった。こうして控訴審も終わるころ、内容を書くのは控えるがやはり彼の主体的な選択に絡むある問題をめぐって、私たちの見解ははっきり分かれた。私は彼に、疑問を述べ、回答があるまで沈黙することを選び、面会も文通も絶えたのである。このように法権力に抵抗して守ろうとした当の本人との間に納得のいく関係を築けなかったことは、私にとって痛恨事として残った。
この主体の問題を、在日朝鮮人の側からいち早く鮮明に指摘したのは、作家の金時鐘である。彼は1971年12月17日の公判に証人として出廷して、自分が金嬉老のいる被告席に座っていないのは「奇跡に近い僥倖だ』とまで言いながら、「自分の不幸の一切が日本人によってもたらされている」というような金嬉老の考え方を厳しく批判した。金時鐘はまた、「自分がたえず自分でない外側から悪くされてきた」という意識を取り上げて、それを排除することが「朝鮮に行き着く行為であると思っている」とまで述べている。私はこの証言を、傍聴席で感動しながら聴いていた。
金時鐘はその後も、これと類似のことをさまざまな機会に語っている。もちろん現在の日本のお粗末極まるリーダーと、それに嬉々として従って行く軽薄な風潮の中では、こうした言葉の尻馬に乗って過去/現在の日本の行為を棚上げしようとするものの発言を徳に警戒しなければならない。在日朝鮮人の状況を作り出したそもそもの原因が日本にあることは明白で、私たちがその責任を免れることはできない。しかし彼の言葉は私にとって、あらためて「民族責任」を再考するひとつのきっかけになった。
所で第二章で記したように、当初私が民族責任論に傾いていったとき、繰り返し読んだのは李珍宇と朴壽南の往復書簡だった。またその中で特に私が心打たれたのは、明らかに日本社会によって深く印づけられていた筈の李が、自分の行為の全責任を背負って、「悪」こそ自分の「本性」だと言い切り、自分はアイヒマン以上に罪深いと断言していたことだった。私はその言葉に、どんな告発にもまさって、日本人としての自分の存在が揺すぶられるのを覚えた。
しかし考えてみると、李珍宇のような主体の奪還は、誰にでも可能なものではない。むしろそれは、彼の死と背中合わせになったものと見做すべきだろう。彼が紡ぎ出したとも言えるやさしさにあふれた言葉や、澄み切った洞察の文字は、近づく死を代償にして獲得したものであり、その意味で「作家は死ぬ」といったブランショ以上に本格的な文学だった。一方、生きようとする者の言葉は私自身も含めて、決してこのように進むことはない。むしろ生者達は最後のところで、決して自分の責任を認めまいとするだろう。だからこそ、そこに非難や告発の言葉が飛び交うのだろう。
とりわけ、私たちがこの裁判に係わるようになった60年代は、日本中に告発の言葉が十万している時期だった。そうした告発は、時には人が自分を呪縛するものを経ちきって解放を成し遂げるための端緒になるかも知れない。だが仮に告発の言葉がどんなに正当でも、すべての責任を他者に負わせる形でなされる告発は、必ず退廃を招かずにはいないだろう。また告発を受けた側が他だ相手の言葉を無条件に認めるだけでは、そうした反省が却って告発するものをいっそう巧妙に呪縛して、その主体を駄目にする危険もはらんでいる。そのような難問に、私は最初のうち全く備えを欠いていた、それが見えてきたのは金嬉老との苦いつきあいのおかげだった。私はこれを通じて、加害と被害、抑圧と被抑圧、差別と被差別、といった枠組みだけでは、民族責任などといってもまだ不十分であり、そこに同時に他者の主体と向き合う姿勢が必要とされることを知ったのである。
この難問の解決は、どこにも転がってなどいはしない。在日朝鮮人は依然として、自分のことしか眼中にない日本社会によって、きわめて不当な地位に留めおかれている。この両者の関係の中で、此の上もなく困難な選択を強いられているのは、彼らの側である。彼らをこのような立場に追い込んだ日本という政治共同体に属する私たちは、文字通り紙一重に所で暴発することなく示してくれる彼らの寛容な主体に、謙虚に相対する以外にないだろう。
それにしても私がそうした厄介な問題を考えることができたのは、同じように朝鮮人と日本人の困難な関係を共有して、それを乗り越えようとする同志達に恵まれたおかげだった。それが公判対策委員会という、組織とも癒えない集団である。だから本章の最後に、私はこの運動体のことを語らなければならない。それなしに私の「60年代私記」を終えるわけにはいかないからである。
第四章金嬉老と対策委員会(4)
金嬉老公判対策委員会は1968年三月末の浜松の合宿でほぼ方向が決まり、四月十二日の日付で発足の声明が発表された。裁判はその年の六月から始まり、75年11月の最高裁による上告棄却でいっさいが終了した。そして翌76年2月に、金嬉老は熊本刑務所に移された。
その事態を受けて、私たちはここで自分たちの役割が終わったことを確認し、委員会の解散を決定した。そして最終号となる「対策委員会ニュース」第40号で、支持してくれた人達にその旨を報告した。この号は1976年10月2日の発行だから、委員会は発足の時から数えて八年半続いたことになる。その間、私は一年間のフランス滞在を除けば、この委員会の仕事をすべてに優先させた。自分の勤めもあり、その他の仕事もしないわけではなかったが、、重要度から言えばそれらはすべて二次的なものだった。
この第四十号には、「解散にあたって」という、四百字詰めで約六十枚ほどの一種の総括文が掲載されている。私たちはその中で、発足の時に目指した目標がどこまで達成されたかを振り返るとともに、この運動を通してあらわれた特に重要と思われるいくつかの問題点について、改めて検討を加えた。今そのすべてに触れることは紙幅が許さないし、なかにはすでに一端を述べてきた問題もあるので、ここでは主として対策委員会とはどういう性格のものだったかということのみを書いておきたい。それが私の「1960年代」にとって、欠くことができないものだったからだ。
この委員会は何よりも、集団が作り出す言葉を大事にする人々によって構成されており、その側面はこの「解散にあたって」の作成過程にもあらわれていた。
わたしたちはまずさまざまな議論から浮かび上がった問題別に分担執筆者を決めた。たぶん最初の書き手はそれぞれ、自分が最も関心のある部分を自発的に選んだのだと思う。原稿はいったん集められて全員の討議にかけられ、細かい字句に至るまで批判の対象になった。ついでその議論をふまえて別のものが原案を書き直し、それも再び全体の討議にかけられて修正された。こうして十人前後の者がかなりの時間をかけて、何度もこのような手順を繰り返しながら、一つの文章を推敲したのである。
これは集団の文章の試みだった。しかし「私」という主語ではなしに、「われわれ」という主語で責任ある文章を書くことがどこまで可能なのか?私は始めいくらか懐疑的だった。今読み返してみると、自分が最初に第一稿のどの部分を書いたのかも、もう見当がつかない。文体も自分のものとはいえない。だからこれを自分の署名で発表することはあり得ないだろう。にもかかわらず、私は今でもこの文章全体に異存はないし、これに責任を負うことを躊躇しない。つまりこれは集団の文章としか言えないものだった。
考えてみると対策委員会は八年半の間に、これとまったく同じではないけれども、類似したものを何度も執筆しており、それらはいずれも裁判に活用された。わたしはすでに本紙四月号で自分の最初の仕事が第一審の弁護団冒頭陳述作成への協力だったことを述べた。その後、法律のプロである弁護団と、素人である対策委員会とは、ときには激しい意見の対立もあり、きわめて緊張した関係になった時期もあったけれども、両者が総力を上げて第一審最終弁論を書き上げた72年四月からは、協力の方式がほぼ確立された。「解散にあたって」の一節をひけば、それはつぎのようになる。
「作業は先ず弁護人と対策委員会メンバーとで第一次原稿を分担執筆し、その原稿のまとめ、修正、大幅なリライト、その再修正、清書などは、ほとんどすべて対策委員会がこれにあたり、最終的判断と責任を山根主任弁護人に求めるという形で行なわれた。しかも、第一稿はしばしば原型をとどめぬくらいに修正され、ときにはまったく新たに書き直されたのであった」
今でも私には、延べ三日にわたって法廷で読み上げられた第一審最終弁論作成時の光景が頭に浮かんでくる。その時対策委員会の者は、昼間は静岡地裁での裁判での裁判を傍聴し、夜は宿にこもって弁護団とともに徹夜で弁論の完成にあたった。念には念を入れて最終仕上げを行ったのだが、最終段階ではまる二晩の間、私は一睡もしなかったのを覚えている。そしてこの方式は継続され、その後の上級審のために書かれた控訴趣意書、答弁書、控訴審最終弁論、上告趣意書などは、むろんのすべて弁護団の名前で裁判所に提出されたけれども、内容は弁護団と対策委員会との合作だった。なるほどこうしたものの他に、私は裁判にプラスになると思えば、個人の署名でいくつかの文章を書いた。外部の雑誌に掲載されたり、自分の評論集に納めたりしたもの、「ニュース」のなかに、自分の名前で発表したものなどがそれである。しかし当時書いた大部分の文章は無署名で、なかには他の人の手で直され、形を変えて活用され、こうして私の手を離れて集団のものになったり、または捨てられたりしたものも少なくない。
書くという行為だけでなく。対策委員会は、集団の言葉、集団の合意を、できるだけ大切にする運動体だったと思う。しかしそれを強制するような昨日を持った者はどこにもなかった、すべての行動は世話人会と呼ばれる集まりの議論で方向づけられ、決定されたので、後はその行動を引き受けたものが実行するだけの話である。その世話人会も、メンバーが必ずしも一定していたわけではない。発足当時から欠かさず出ている数人のものはいたが、去って行ったものもあれば途中から加わった者もある。結局は対策委員会に参加するという各人の自発性が、世話人会と運動とを成立たせていたのだろう。
しかし全てが淡々と進行していたわけではけっしてない。私個人にとっては、控訴審が終わって上告趣意書を提出した74年ごろが最も辛い時期で、この運動の継続がほとんど重荷にすらなっていた。それは何より、前に触れた在日朝鮮人の主体の問題をめぐる根本的な意見の衝突から、金嬉老本人とのコミュニケーションが中断したためだった。それでも私が終わりまで対策委員会の仕事を続けたのは、最初に金嬉老とかわした約束を守るためでもあったが、これがもはや彼一人の裁判という以上に私たちの裁判でもあり、朝鮮人と日本人の新たな関係を構築する場にもなっていたからである。
もっとも公判の仕事は第一審の最終弁論の時期がピークで、それ以後は不備な点や新たな争点の補足を除けば繰り返しが多く、特に最高裁は法廷も開かれなかったから、ただ手をこまねいて判決をまつしかなかった。したがってこの時期には、ニュースや資料の刊行も大幅に間隔があき。それまでの目の回る酔うな忙しさではなかった。しかしそこに至るまでの仕事は、厖大な時間と手間を必要とするものだった。それは委員会が早い時期(1970年)から、意識的に能率を犠牲にしたためである。
発足当時の委員会には、事務所の維持や通信・会計などの仕事をしてくれる一人の専従者がおり、日常的な仕事を全てこなしていたから、他の者は安心して裁判を支える理論活動に専念しているつもりだった。しかしそれは愚かな思い上がりで、わずかばかりのアルバイト料をもらう専従者にはそのための義務や束縛観も生ずれば、分業に基づく微妙な立場の違いも生まれる。私たちは口ではもっともらしいことをいいながら、委員会の中にも明らかな格差を作り出し、面倒な仕事をすべて専従者に押し付けていたのだった。しかも、専従者の造反があるまで、そうした問題の存在に気付きもしなかった。
専従者は去ったが、事務所は維持しなければならないし、毎日の事務もこなさなければならない。当時はパソコンや携帯はおろか、まだ留守番電話もなく、すべてを手作りで進めなければならない時代だから、こうした仕事はかなりの量に上った。しかし私たちは便利だや機能主義を犠牲にしても、敢えて専従をおかずに、各人ができる範囲で日常業務を分担することを選らんだ。それがいくらかでも、自分たちの築こうとする人間関係や、目指す文化に近づく道だと考えたからだ。この選択は運動の性格を決める上で、きわめて重要なものだったと思う。
その時から私たちは、会計、通信、発送の業務や、事務所に詰める当番などを見直し、全員ができる範囲でそれを負担することにして、新たな事務局体制を整えた。これは決して専従者がいた時のように能率良くはいかなかったが、各人が仕事の一端を担うことによって、かえって事務局が運動の死活に係わるものであることもよく認識された。そうした解決が可能だったのは、大学の教師などという、わりあいと時間を自由に使える職業の者が私を含めて三、四人いたからでもある。しかしそれとは比較にならぬほどの厖大な時間と労力を、もっと有効な形で注いでくれたのは、失業中だったり、浪人していたり、学生だったり、今で言う派遣のアルバイトをしたりしている人達だった。
実際、なすべきことは少なくなかった。ニュースや資料集の刊行も、原稿を書くこと、それを集めることのほかに、必ず整理や割り付けや校正があり、印刷所との連絡や交渉が必要だったし、その後には山のような資料の発送業務が待っていた。公判や報告会、たまに行う少し大掛かりなシンポジウム、あるいは街頭での行動などの前には、普段とは違った準備も必要だった、そういった仕事はみなが手分けして行ったのだが、手が足りない時には声をかけると快く労力を提供してくれる何人かの支援者もいて、狭苦しい委員会の部屋で私たちと一緒に手作業をしてくれることもあった。
それでもすべてがスムーズに進行したとは言えないだろう。年齢も、経歴も、職業も、家族関係や生活のスタイルも異なっている者が作り出す共同作業だから、どこかに思いがけない不満がしわ寄せされていたかも知れない。知的な作業と肉体的な作業との差も、完全に乗り越えられたとはとても思えない。ただこのように小さな規模の運動体で、自発性を拠り所にしていたからこそ、逆に各人が必ず全体の状況を把握しながら、その中での自分の役割を見定め、必要とされる自分の仕事を選ぶということを、いくぶん実現できたのではないか。たしかに分業を固定させてそれぞれの領域での専門家を作り、有能な司令塔の号令で動くほうが効率は良いだろう。しかし私は、便利さや能率を捨てたために獲得できた人間関係の方が、はるかに信頼のおける密度が濃いものだったと思う。誤解を恐れずに言えば、このような方法を取ったために、対策委員会の仕事は私にとって楽しいものでさえあった。それは逆に現代社会が、効率や便利さや利益を優先させたために、いかに多くの貴重なものを失ったかを実感させる。
委員会の仕事は、もとより事務所の中に限定されなかった。当初のことから振り返ると、まず金嬉老本人の生い立ちや形成を、具体的に調査する必要があったが、始めのうちそれを精力的にやってくれたのは、「チョッパリの会」という挑発的な名前を名乗る主として若い人達からなるグループだった。さらに公判に出廷する証人を探し出し、その人達に会いに行って話を聴くという仕事もあった。金嬉老の幼いころをよく知っている金良順という人が箱根に住んでいて、私も彼を訪ねて彦根まで出かけたが、寸又峡の「ふじみ旅館」でいわゆる「人質」と言われた立場に置かれた人達を、一人で次々と実に精力的に訪ねまわってくれた人もいる。一審段階では地元の静岡で、公判傍聴に訪れる人のための宿や報告会などのために、さまざまな便宜をはかってくれた人もあった。
対策委員会の運動は、そういう多様な人の参加で初めて可能になった。もともと一定の会費もなく、会員が決まっていたわけでもなく、すべてはカンパで賄われたのだから、いったい対策委員会の構成員とは何だろうということが、世話人会でもときおり話題になったほどだ。ニュースを送ると必ず一定額の送金をしてくれる人もあれば、ときたま思いついたようにカンパを寄せる人もあった。「身辺の事情もありますので、無名カンパとさせていただきます」といった断り書きとともに、匿名でお金を送って下さる方も数人あり、それはこの運動をどこかで見守ってくれる人がいることを暗示していた。このような人達も対策委員会には欠くことのできない存在だった。
「解散にあたって」を掲載した「ニュース」最終号には、今後の連絡先として九人の氏名が掲載され、またとくに密接な関係にあった二十人ほどの人達の横顔が、「忘れ得ぬ人々」として描かれている。しかし対策委員会がこれだけに限定されるものではことは明らかだろう。むしろ、「解散にあたって」の中で指摘されているように、結果的に運動を支えたのはつぎのような姿勢を共有するすべての人々だったと思われる。
1.対策委員会の発足の呼びかけにある裁判のための三つの仕事を果たす。
2,右の結集軸によって集まるさまざまな領域の人間の多様な発想を突き合わせ、可能な限り豊かな弁護論を作り上げる。
3.文字によって呼びかけたことをやりきることが、呼びかけをしたり、それに応じた人間の義務であり、責任である。
4.その個々人は、右の責任を自分の物として行動するだけであり、他の誰をも代表しない。
5.従って決めたことを実際の行動に移す行動主体もまた決めた個々人である。
これらはいずれも予め申し合わせた合意事項ではなかったが、運動の終わった時点で振り返ると、それが皆に共通する暗黙の了解だったことが分かるのだ。
現在も続く多くの市民のボランティア活動は、どのような行動原則を持っているのだろうか。私には分からない。ただ、対策委員会の活動の中で、私がしばしば思い出したのは、同じ68年に「五月危機」のパリで生まれた作家・学生行動委員会だった。私もしばらくの間そのグループの会合に出ていたが、ブランショやデュラスといった著名な作家が参加したこの委員会も、ある意味で自発的な集団の行動を模索していた。しかしこれらが何を目指してどんなことをするのか判然としなかったから、行動はしばしば無効なパフォーマンスに終わることが多かった。この有名作家達は、人民そのものになるためにひたすら無名であろうとしていた筈なのに、無署名だった文章が後にはある作家の名前で発表されたりもしていたから、理念と実態はかなり違っていただろう。私はかつてこの行動委員会に触れて、こう書いたことがある。
「口幅ったい言い方だが、私だったらこれほど有名作家に頼らず、従ってこれほど無名化の努力を必要ともせず、もう少し具体的な目標を備え、それゆえこれほど無効なジェスチュアに近づくことはなく、外部に支えられながらも何よりもまず内部において社会的分業を乗り越える努力を惜しまない、そういった委員会を考えるだろう。
その時私が思い描いていたのは金嬉老公判対策委員会であり、同じころ日本で悪戦を繰り返していたことが分かっている同種のいくつかのグループだった。このような運動体の存在は、おそらく1960年代の文化を考える上で見逃すことのできない一側面だったのではないだろうか。
最終回
エピローグ
1976年に金嬉老公判対策委員会が解散した後、私はしばらく虚脱状態で過ごした。八年半にわたる運動への参加は、長くもない人生の中で決して短いとはいえない期間だが、問題は長さだけではなかった。その間に私たちを取り巻く空気は一変し、かつてはあれほど威勢の良かった諸セクトや全共闘運動も完全に破綻して、ほとんど存在していなかった。68年に始まった私たちに運動は、彼らの急速な崩壊過程を目のあたりにしながらも、裁判を通して一つのことを主張し続けていたのだから、周囲の変化とは無関係に一貫して60年代の延長線上を歩んでいたようなものだ。こうして委員会の仕事が終わった時、私には自分たちが70年代半ばの日本社会に迷い込んだ別世界の人間のように思われた。
たしかに運動を始める時も、私たちはマスメディアや世論の中で孤立していた。マスコミが「ライフル魔」と呼ぶ人物の裁判を支えるなどというのは正気の沙汰ではない、といった反応が至るところで感じられた。それでも私たちが裁判を通して問題を明らかにしようと試みたのは、そうした行動が、何かを変えようとする60年代にみなぎっていた活力に満ちた空気と無縁ではなかったためだ。しかし委員会解散の76年になると、そんな空気はもはやどこにも感じられなかった。その意味で、私たちは運動開始の時よりもいっそう孤立していたと言ってもいい。
裁判の結果も極刑こそ避けられたが、予想されたとはいえ判決は重いものだった。しかも在日知朝鮮人の立場は裁判後も、ほとんど変っていなかった。たしかに八年半の間には在日ゆえに就職を拒まれた朴鐘碩の日立製作所を相手取った就職差別裁判があり、金嬉老裁判の間接的な影響もあって、これに勝訴した朴鐘碩は無事に入社を果たしたけれども、基本的な条件が変化したとは思えなかった。
おそらくこの問題は八年半どころか、十年でも二十年でも訴え続ける必要があるのだろう。だがまた執拗に同じことを主張したところで、日本社会は簡単に聴く耳を持とうとはしないだろう。そう考えると私は徒労感に襲われた。さらに私自身はただ同じ言葉を繰り返しているのを好まなかったし、裁判の過程で明らかになった在日朝鮮人の主体という問題も容易に解決できない難問に思えた。考えてみれば、ひたすら「民族責任」を主張するだけでよしと信じていた1960年代の私の立場は気楽なものだった。しかし金嬉老裁判にかかわった後では、むろん在日朝鮮人の存在自体が日本を告発しているという事実に変わりはなくても、ただそのことを繰り返すだけでよいとは思われなくなった。こうして、私は徐々に口が重くなるのを感じていたのである。
その事情を、私は一度だけ「季刊三千里」という雑誌に書いたことがある。在日朝鮮人作家たちの作るこの雑誌には「架橋」と題されたエッセイ欄があって、私は以前にも執筆依頼を受けながら辞退してきたのだが、それは以上に触れたような問題を反芻しながら、容易に本音の言葉を発する自身がなかったからだ。しかし、再度の依頼を受けたので。金嬉老裁判に長い年月を費やした者として、現在の心境をありのままに書いておいてもよいという気持ちになった。「或る私的回想」というその短文は本連載の第十五回に記した問題を取り扱ったもので、そのなかで私は、「民族責任」の意識が皮肉なことに「その責任をいささかも追及しない李珍宇の刺激で形成され、その責任をひたすら追及する金嬉老によって、かえって脅かされた」ことを述べた。そして最後に「仮にこうした問題で通り一遍の建前論とは異った、多少は意味のある言葉を自身をもって綴れる時が来たならば、たぶんそのとき私の言語状況もいくぶん変るだろう」という言葉で短文を結んだ。
その時から今回の連載の開始まで、私は在日朝鮮人と日本人の関係を中心のテーマとする文章をたぶん一度も書いていない。もちろん問題に無関心だったわけでは決してなく、特に指紋押捺拒否の運動が起ったり、従軍慰安婦の問題が明らかになったりしたときには、じっとしていられない焦燥感さえ覚えたが、それでも私が発言や行動を控えたのは、それらがどれ一つを取り上げても、一端言及したらよほどの覚悟を決めてコミットしないわけには行かない問題だったし、不用意な発言が予期しない結果を招くことも恐れていたからだ。不特定多数の読者に向かって物を書いたり呼びかけたりする人間は、たとえ読者の数がどんなに限られていようとも、自分の言葉が全世界に知られていると見なすべきだろうし、したがって、自分の文章に責任を負うことを覚悟した上でなければ、言葉を発するべきではないと私には思われたのである。
一方その間に他人にはまるで別次元のことと映るかも知れないが、私にはプルーストの再検討という新たな課題も始まっていた。もとよりそれは文学の世界に属することがラである。しかし文学から出発した私には、もともと文学こそ社会的な行動の根拠である、それを方向づけるものと思われた。加藤周一の言葉を借りれば、文学は「人生または社会の目的を定義する」のである。そればかりか、私は自分が小松川事件以来ずっと金嬉老裁判を通じて探っていたものを、まったく異った形においてではあれ、他ならぬプルーストの中にも見いだしていたのだった。
「プロローグ」でも述べたように、プルーストは私が物を考える出発点になった作家である。単に「失われた時を求めて」が小説として興味深かっただけでなく、それは自我の問題を考えるためにも、またその自我の呪縛から逃れるためにも、私にとって貴重な役割を演じていくれた作品だった。だから在日のことが関心の中心を占めるようになってからも、私はときおりプルーストを繙き、頼まれれば部分役を行うこともあって、そうした仕事は裁判に忙殺されていたその当時の、数少ないくつろぎの時間でもあった。
その上、ちょうど対策委員会の解散と相前後する76年ごろだったと記憶しているが、私は思いがけず、知り合いにの編集者から「失われた時を求めて」個人全訳の企画について意向を打診されていたのである。しかし間もなく、50歳に手が届くという年齢で、これから長い時間をかけてプルーストの全訳に取り組むのは、自分の人生そのものを左右する重大な選択だったから、私にはとても即答できることではなかった。
最終的に私がその翻訳を引き受ける決断をしたのは、それから10年近くも経った1985年のことだった。それは最初の打診からその時までのあいだに、自分が良く知っていると思っていたプルーストの作品を、もう一度念入りに検討した結果である。
私はいっぱしの専門家のような顔をしていた自分が、実はプルーストのテクストを本当に分かってはいなかったことに気付くとともに、この作家の偉大さに改めて目を開かれたのだ。たとえば彼のユダヤ意識と同性愛との関係はその一例である。もちろんプルーストが母親を通してユダヤ文化につながっていること、また彼自身が同性愛者だったことは、誰もが知っている。さらにプルーストが同性愛者を描く時に、絶えずユダヤ人と比較していることも読者の常識だろう。しかし私が充分に注目していなかったのはたとえばこの二つのものを結ぶ次のような言葉の持つ意味だった。
差し当たりここで私は致命的な過ちに警告を発しておきたかったのだ。それは、シオニズムの運動を鼓吹する人があったのと同じように、ソドミストの運動を創設してソドムの町を再建するといった過ちである。ところが、ソドミスト達は、ソドムの町のものと見られたくないために、妻をめとり、別な都市に愛人を囲うばかりではなく、そこでありとあらゆるしかるべき気晴らしを見いだすだろう。
現代世界の暴力の根源であるイスラエル国家の存在はシオニズムなしに考えられないし、そのシオニズムは、十九世紀以降の国民国家と、その標榜するナショナリズムなしにはありえない。ソのようなものと比較しながらソドムの町(国家)の建設に反対すれば、それはまた黒人でありながら、「ネグリチュード」を超えようとしたファノンにも通じるだろう。
さらに言えばその態度は、国民国家とナショナリズムをも明らかに射程内に捉えている。そう考えなければ、「失われた時を求めて」最大の同性愛者であるシャルリュス男爵の次のようなドイツ贔屓は理解できないものになるだろう。
ナショナリズム同志のぶつかり合った第一次世界大戦のまっただ中で、ドイツは多くのフランス人にとって悪の化身と見なされていた。ところがプルースト描くシャルリュスは(ここで作者ははっきりと自分の思想を作中人物に貸し与えているのだが)、そのドイツを一方的に拒否することがなかったために、ときにはスパイ呼ばわりされて、フランスではまったく孤立していた。そのような人物像を作り上げたプルーストは、こんな風にその理由のひとつを説明している。
「いったん傍観者に過ぎなくなると、生粋のフランス人ではなくてしかもフランスに住んでいる以上、彼は否応なしにドイツ贔屓にならないわけには行かなかった、彼はたいそう鋭敏な人間だったが、どこの国でも一番数が多いのは愚か者である。もし彼がドイツに住んでいたら、愚かにも情熱を込めて不正な立場を擁護する愚か者達にすっかりいらいらしたことは、疑いの余地が無い。けれどもフランスに住んでいると、愚か者達が、やはり彼をいらだたせるのであった。」
これは「否定のナショナリズム」以外の何者でもない。かつて私が李珍宇と朴壽南の往復書簡を読みながら見つけ出したつもりの「否定の民族主義」という考え方は、すでに早々とプルーストの中に書かれていたのだった。鈍根の私は、厖大な時間と労力ををかけて迂回した後に改めてプルーストを読み直してやっとそれに気付く有り様だった。これはほんの一例に過ぎないが、このようにして私は次々とプルーストの作品の新たな面を発見したのである。集英社新書の「プルーストを読む」の冒頭で、「不思議なことに、プルーストを離れてさまざまな読書や体験をしてから、ふたたびプルーストを取り上げると何のことはない、私の新たな経験の本質は、形こそ違うがすでにあらかた「失われた時を求めて」のなかに書かれていることに気付くのだった」と記したのは、そのような事情を指している。
70年代の終わり頃から80年代にかけて、私はそれまで自分が見ていたのとは違った角度からプルーストの作品を見直すことに意を注いだ。1980年に一年間の在外研究の機会を与えられた時は、パリの国立図書館にこもって19世紀のフランスにおけるユダヤの問題を中心に調査した。そして帰国後に「あるヤダヤ意識の形成」と題したプルースト論を書く一方で、82年から二年間にわたり、丸全の「學燈」「マルセス・プルーストの誕生」という連載を執筆したが、それは金嬉老の弁護の時に試みたように、「独自的普遍」としてのプルーストを理解しようとする小さな試みだった。そうした準備段階を経た後に、初めて私には残された時間の多くを割いて「失われた時を求めて」の全訳に取り組む意欲がわいてきたのだった。私は遅まきながらその旨を出版社に伝え、こうして晩年の仕事が始まった。だから私がプルーストに関して作り出そうとしたものは、質も形式も内容もまるで異っているけれども、この連載に述べてきた問題と通底している。こうして私は1990年代の大部分を、絶えず「失われて時を求めて」と向き合いながら過ごしたのだった。
その間に、ソ連を始めとする多くの社会主義国は崩壊し、世界は大きく変化したが、日本の変化も激しかった。公然と戦前の日本を肯定する言論もあらわれたし、「愛国心」の大合唱も始まった。「国益」だの「愛国」だのという言葉を恥ずかしげもなく口にするのは、国民国家の形成される19世紀ならともかく、とても21世紀を生きようとする人間のやることとは思えない。私たちはそういうものが乗り越えられ、解体されていく過程にすでに入り込んでいると言うのに、今のにほんは100年前にプルーストがシャルリュス男爵という同性愛者の肖像を通してあれほど痛烈にこき下ろした愚か者達で充満しているように見える。私はプルーストの翻訳を進める過程で、ますます現代日本の頽廃を日々思い知らされながら、彼のもつ現代的な異議を改めて確認した。
こうしたみっともない現在の日本の姿は、すでに本稿で何度も述べたように、第二次世界大戦の無反省史観のもたらしたものだ。この点でしばしば指摘されるのは日本とドイツの違いである。ドイツでは、1985年の大戦終了40周年記念式典で、当時の西ドイツのワイツゼッカー大統領が戦争と暴力支配の被害を受けた人達の霊を次々と具体的に挙げ、過去を反省する感動的な演説を行った。また、2005年1月に当時のドイツのシュレーダーは、ナチの絶滅収容所解放60周年を記念する演説で、戦争やユダヤ人大量虐殺を知らない世代の者もこれから目をそらすべきでない、それはこの記憶が「ドイツ国民のアイデンティティイの一部をなしているからだ」と述べた。私はドイツの事情に詳しいわけでもなく、またドイツも背後にいろいろな問題のあることを承知の上で言うのだが、少なくとも日本の為政者の口からは、大戦後ただの一度として、これらに較べられる重みのある言葉が出てきたことはなかった。そのことが日本の現状を作った最大の要因だろう。
日本はこれからますます薄っぺらな社会になっていくだろうし、「愛国心」はますます大手を振ってはびこるだろう。そうした傾向を見ていると、私には、日本社会全体が一つの殻の中に閉じこもって、他者を欠いたエゴイストになっていくような気がする。このような日本の現状と関連して私が思い浮かべるのは、自我の殻を容易に破れなかった若いころの自分のことだ。当時の私にとって、サルトルの「自我の超越」にある次の言葉が解放の強力な啓示でもあれば励ましでもあったことは、「プロローグ」にも書いた通りである。
「実際、私の《我れ》は、意識にとって、他の人々の《我れ》よりもいっそう確実だということはない。ただいっそう親密なだけである」
同じように、否応なしに私が組み込まれている日本という国は、私にとって親密なものであり、気になるものだが、けっして他の国以上に確実なものではないし、まして愛の対象になるものではない。むしろ日本だからというだけで無条件にこれを肯定したり、熱狂的にこれを支持したりする動きを目のあたりにすると、私は逆に、たとえ自分一人が取り残されようとも、シャルリュスのようにこの国の醜さを意識する者として踏みとどまりたいという気持ちに駆られる。将来の日本がどのようになっても、私はこの意識だけは譲らずに一生を終えるだろう。今回、敢えてこの「1960年代私記」を執筆したのは、そのささやかな意思表示に他ならない。
[完]
終戦の意義とヴェトナム戦争(1965・8)
八月十五日記念国民集会に臨んで
今日、八月十五日というこの日に、こうしてこのような会に連なっているということは、私には特別に
感慨の深いことであります。というのは、私は戦後に仲間のジャーナリストとジャーナリスト会議という団体を作って、毎年その団体で八月十五日の終戦記念の集会をやっておりましたが、十年ばかり前その集会に新聞社の方がやって来て今日東京で八月十五日を記念する何か催しがあるかと思って探してみたが、このジャーナリスト会議の催しの他には、右翼団体の小さな集まりが一つあるだけだったと話されたことがあったのを覚えているからです。憲法記念日と共に、この八月十五日も年ごとに忘れられてくる傾向にあったのです。それが今年は終戦後二十年ということで、政府もこの九段の上で戦没者の遺族の方を招いて慰霊祭をやっていますし、新聞や雑誌もいろいろと特集しております。これはどういうわけなのでしょう。二十周年というので取り上げたことは勿論ですが、私にはやはり、本年二月7日のアメリカ軍の北爆開始と共に、にわかに急を告げてきたヴェトナム戦争による危機感が、特別にこの日に注意を向けさせているように思われます。いま私どもの国は総じて、いわゆる泰平ムードに包まれています。しかし、異常なピッチで成長の続く、その底に何か大きな不安が忍び寄っている。毎月何百という倒産の続く中小企業の不況は、もう一年近く尾を引いています。ヴェトナムの戦争は大戦の終局以後、最大の危機を醸し出して十何年積み上げてきた平和共存の実績を一挙に崩してしまいそうです。アメリカが現在極東で進めている軍事行動は、国際的紛争を力によらないで解決するという戦後のあの国連の作られた精神をまったく無視した大規模な行動として画期的なものだと思います。私たちは、この状況の中で、この状況に促されて今日の集りをやっているわけです。ですからそれとの関連で、この日を記念することが肝心なことだと思っています。
終戦後二十年経ちました。その間に築き上げたものはたくさんあります。勿論いま振り返って見れば、まだこうも出来たのにやれなかった、と思うこと、遺憾に思うこともたくさんあります。現在の状態がこのままで良いとは、毛頭言えません。しかし、二十年の間に私たちが、もう失ってはならないというものを獲得した、二度と再び手放してはならないものを手に入れた、ということは確かです。そしてその新しいものが、終戦の日この八月十五日という日に、単に古い時代の終わりというだけではなく、新しい時代の始まりという意義を与えていると思います。その新しいものとは、すでに言い古されたことですが、第一にやはり基本的な人権の尊重がわたしたちの社会生活の原則として承認され、犯すことの出来ないものと認められたことだと思います。民主主義という思想も、制度も、世界史の上では決して新しいものとは言えませんけど、私たち日本人の歴史の上で、それが国造りの根本と認められたということは二十年前の敗戦を経て初めて可能となり、初めて実現されたことであります。それこそ日本歴史始まって以来の出来事だったのであります。民主主義という言葉さえ、公然とは口に出来ず民本主義という言い方でしか主張されなかったのは、つい三、四十年前までのことだったのです。一人ひとりの人間に掛け替えのない尊さのあること、譲ることの出来ない権利があることを、言論の上で主張することが憚られたというのが、終戦までの現実であって、わたしたちの存在の意義、生きている意味は、ただ国家への奉仕によってのみ認められるという思想や、それにもとづく強制が、公然と大手を振って行われていました。それは私たち日本人にとっては遠い昔のことではありません。民主主義や思想や言葉としては、あるいはすでに言い古されたと言えましょうが。それがわたしたちの現実を支配する原理となったこと、この歴史的事実は私たち日本人にとって、まだ最近のことであり、じつに斬新のことなのであります。終戦の日を記念するとすれば、この新しさを思い起こすことなしに、これを記念することは出来ません。
第二に、人権の尊重が平和の尊重と結びついて、私たちに受け入れられたということがあります。個人の生涯が国家への奉仕によってのみ意義を持つ、天皇への献身によってのみ全うされる、という原則の下に、一部の人々の恣意のままに、わたしたちの同胞何百万が死んでゆきました。無数の家庭が破壊されました。敗戦は全国民を飢餓の淵に陥れました。こういう非人間的な原則が否定されたということ、これは大きな歴史的な出来事でした。これもおそらく日本の歴史始まって以来のことでしょう。人間が人間らしく生活していくためには、平和こそ大切なのだ、という当然のことすら、二十年前の八月十五日までは、公然と口にすることが出来なかったのです。それがわたしたちの憲法の原則となっています。子の変化の大きさ、その素晴らしさは戦前に大人となり、戦争の中を生き延び、今日生きている私のような年齢のものにとっては、激しい感動を伴わずには思い起こせないことであります。しかし、これは私のような世代にとっての大きな出来事であると言うだけでなく、じつにこのアジア大陸の東の列島で何千年前から生活してきた日本民族にとって、画期的な意味を持つ出来事であります。また、それだからこそ、私などにも激しい感動を呼び起こしたのでした。終戦の日を記念するとすればそれは同時にこの新しい原則の確立と自覚とを記念することに他ならないと思います。
第三に、もう一つ大事なことがあると思います。いま申しましたような二度と手放してはならないものを私たちが手に入れたのは、痛ましいあの敗戦を経てではありましたが、敗戦はやはり敗戦で、それに続く占領下の生活を離れてではありませんでした。日本の人民は歴史上始めて主権を持つことになったとはいえ、それは占領下においては制限された主権でした。基本的人権は獲得したけれど、民族として自分の運命を自分で決定する権利は国際的に抑えられていた、ということは否定できない事実であります。終戦の頃を思い出しますと、残念ながら私たちは、それを主張するだけの気概を十分持ち合わせていたとはいえません。虚脱状態という言葉が当てはまるような、一時的な無力の状態にありました。戦争で叩き負かされたのですから、それも無理はなかったかも知れません。しかし、それにしても情けない状態がかなり続きました。片山内閣が出来ました後でも、閣僚の一人がGHQに呼び出され、廊下でしばらく待たされてやっと面会ができる。しかもその相手は課長級の大佐ぐらいの人物であるというようなことがありました。また、私が目撃していまでも忘れられないことですが、アメリカの特務機関の隊長が帰国することになって、お別れのパーティがありました。そこへ多くの人が呼ばれて出席していましたが、旧貴族院のお歴々と言われる人から、皇族まで来ていました。そして吉田首相や、二三の大臣までが挨拶に駆けつけました。パーティの開かれている庭に臨む二階の窓から、戦前までの旧支配階級の代表的な人々、日本の上層と言われた人々を眼下にして、その隊長が手を振っている光景を私はいまでもあざやかにおぼえています。私は日本人として非常に情けない気がしました。だからといって私は、敗戦と敗戦に続く一切のものを民族の屈辱だと考えてそれに反抗する、というつもりはありません。その時も、それはありませんでした。しかし敗戦を通じて開かれた新しい時代、そこで始めて確立された原則を、私たちは、改めて自分の力で掴み直さなければ駄目だ、とはつくづく感じました。自分達の力でこの原則を貫いていきたい。それだけの勇気を私たち日本人は回復したい、私は心からそう思いました。ところで何がその勇気を与えてくれたのか、何が私たちを立ち直らせたか。・・・私はそれこそ、他でもない、平和主義への徹底だったのです。
第二次大戦後、わずかに二年を経ないうちに、もう後に冷戦と呼ばれた二大陣営の対立と抗争とが開始されていました。連合国側は、ドイツ、イタリア、日本の三国、いわゆる枢軸国のファシズムを世界平和の敵と呼んで、連合してこれを打ち負かし、これを占領し、その戦争責任者を文明と世界平和の名の元に国際裁判にかけていました。ところがその裁判も済まないうちに、その連合国が割れて、再び大戦争の危機を生み出し、我々をも原子力戦争の危険の中に巻き込んでいる。こんな馬鹿なことがあるか、と思うのは私たち日本人の当然の考え方であり、感情でした。日本人は戦争の責任を問われ、再び戦争を引き起こすまいと決意し、軍隊さえも持たないと誓っていたのです。それだのに、戦争の責任を問う連合国自身が、再び戦争への道を辿って恥じないということは、私たちには・・・少なくとも私には我慢のならないことでした。私たちが平和の大義に誠実である限り、このような国際政治の現状を肯定することは出来ないはずです。私たちは私たちを裁くものに対して、裁き返さざるを得ない。こうして私達は平和に徹することによって、自分たちの征服者をも批判する原理的立場を持つに至りました。我々よりも優勢ないかなる大国に対しても、それを批判する勇気や気概がそこから生まれます。当時、日本は四流国に落ちたとか、何とかそう言われましたほど国際的には無力の立場におりましたけれど、少なくとも精神的にはこのようにして独立を回復したと、私は考えております。そればかりではありません。戦後の国際情勢の中で私たちが平和の道を辿ろうとしますれば、私たちに必要なのは、他の大国の意思に引きずられて戦争への道を進む危険から抜け出るということでした。自分たちの運命を自分で決定できるだけの独立が必要でした。こうして独立への要求は、わたしたちの場合平和への要求と不可分のものでした。私が考えますに、八月十五日という終戦の日を記念する場合、平和への要求と不可分のものとして、独立への要求が私たち日本人の間に生まれたということは、ぜひ思い返しておかねばならないということだと思います。なぜならば、終戦の日とは無条件降伏の日であり、日本人が初めて他国の占領下におかれるようになった日であり、したがって独立ということが初めて民族の現実の問題となった日でありますけれども、その独立の要求はわたしたちの場合、他国の支配に対する直接の反発や反感や反動として生まれたというよりは、寧ろそのような単純な民族主義的感情からではなく、平和という国際的な大義に媒介されそれを通じて広汎な日本人の要求として形成されてきた、ということは確かに注目されてよいことだからであります。このことは、原水爆禁止運動のような大衆的な運動が平和運動として大きく広がっていき、それに伴って独立の要求、日本の主体性の要求が問題となってきたことからも、よく証明されていると思います。
そんなわけで、終戦の日を端緒とする日本の新しい時代では、平和と民主主義と独立とは、分かちがたい要求として日本人を動かしてきたと思います。それはこの三つのものを契機とする一体の要求であったと申してもよろしいかと思います。「独立・民主・平和の日本」といえば「赤旗」 のスローガンを思い出しますが、この三つのものの間に、どのような内面的な連関が考えられているのか、私は聞いておりません。ただ、私自身はいま申し上げたような連関の中で、それを分かちがたい一体として考えてきました。新しい憲法にも「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないよう」と前文に書かれたありますが、そのためには、どうしたって民衆の意思が支配している政治が必要です。言い換えれば民主主義の政治が強力なものとなって確立している必要があります。同時に、政府方の強国の意思や政策追随しているようではだめです。
このことについて、私は十年前中国を訪問したとき周恩来首相の言った言葉を思い出さずにはいられません。首相は、私たちに向かってこう申しました。「中国と日本とは、最近の数年非常に不幸な間柄にあった。しかしあれは日本の軍部や一部の政治家が起こした戦争であって、私たちは日本の民衆の責任とは考えていません。私たちは、軍部や政府と、日本の民衆とを区別して考えています。日本の民衆には怨みはありません。両国の人民は仲良くやってゆけるはず」と、そう申しました。こういう言葉は、その後中国を訪問した日本人が繰り返し中国の要人から聞いた言葉であって、私は中国の人達がこのように日中戦争を解釈してくれる好意を深く嬉しく思います。このような形で手を差し伸べてくれる暖かい交誼を、両国のために有難いと思います。しかしいま、私たちはヴェトナム戦争を眼前にしています。この戦争の重大さは申し上げるまでもありません。民族自決の原則が頭からふみにじられています。また国際紛争を武力によって解決したり、武力による脅威を使用したりすることを慎もう、という国連憲章の精神がまったく顧みられていません。そればかりか、この戦争の底にはアメリカ対中国の関係の極度の緊張が潜んでいます。戦局の発展は何時中国対アメリカの戦争に点火しないともはかられず、アジア全体の危険、ひいては世界的な戦争の危険さえはらんでいると言われます。そしてヴェトナムの戦争のが対中国の軍事衝突まで発展したとなると、たちまち私たちも戦争の中に巻き込まれることになりましょう。ところでそういう事態になったとして、その場合私たちは私たちの口から「来れはアメリカの軍部や日本政府のやっていることで、日本の人民のやっていることではない」と言えるでしょうか。そう言って済ませるでしょうか。今度はそんなことは許されない、と私は思います。断じてそんなことを言ってはならない。我々は、われわれの政府のすることについて、我々として負うべき責任を負おうではありませんか。日本の政府が、日本人の名において世界平和のためにならないことをやるとしたら、それをやらせないようにするのは、日本の民衆がアジアの他の民衆、世界の他の民族に対して負っている第一の責任ではないでしょうか。出来れば、進んで日本の政府をして、世界平和へ寄与するような行為を取らせること、そこまでやり抜くこと、それが民主主義の原則の上に立った日本人民の責任だ、と考えようではありませんか。若し事態が志に反して、日本政府の行為によって国際的緊張が高まり、戦争の惨禍を他の民族の上にもたらすようなことがあったならば、万一にもそういうことになったとしたら、それは私たち日本の民衆の非力のせいだし、私たちは自分たちの無力を恥じるのが本当だと思います。このように考えて、少なくとも戦争に関する限り、自分たちの政府の戦争行為や戦争協力をしっかりと抑制していくこと、そのために努力すること、それが今日本としてもっとも肝心な点だと私は考えます。この努力によって私たちは世界平和に寄与することができます。同時に日本に本物の民主主義を根づかすことができます。そして日本が他国に引きずられることなく、自分の運命を自分の責任において決定したという、独立の自信をも、これを通じて持つことになりましょう。
八月十五日を迎えて、私は私たちがこのような努力を決意することこそ、この日のもっともよく記念することになるのではないかと考えます。大体八月十五日と言う日が私たちにとって特別な日となるに至ったのも、考えてみると二十五年乃至三十年前に日本の人民が軍部や一部の政治家の無謀な行為を抑えることが出来なかったということの結果でした。そして今から約二十年前、この敗戦と共に日本の民衆にとってこの日は「再び満州事変この方の歴史を繰り返すな。再び政府や軍部の行為によって戦争の惨禍を引き起こさせるな」という警告の意味を持った日になって今日に至っているわけです。
アメリカの極東における現在の軍事行動を見過ごすことは許されません。それは一日でも早く停止されねばなりません。しかしそのためには私たちはただアメリカ帝国主義反対を叫ぶだけでよいでしょうか?アメリカにとっても日本政府にとっても、痛くもかゆくもないというのでは何にもなりません。私たち日本人としては、少なくとも我々の政府が今日、この戦争の危機に際してアメリカの軍事行動に些かでも手を貸している限りこれをまず停止させるのが日本人の責任だと考え、自分たちの政府に抗議し、これを抑制することに努力すべきではないでしょうか。自分たちの政府の行動をも抑制できないで、どうしてアメリカの軍事行動を辞めさせることができるでしょう。私は、世界平和運動の中で日本の民衆が担当している部署は、何よりもまず国際政治における日本の動向であって、これを戦争の方向に向かせないことが、ヴェトナムの民衆に対し、また中国の民衆に対してわたしたちの負っている責任と思います。まして「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることがないように」とは、わたしたちの憲法で、私たちが決意したことなのです。このことを確認する以上、今日、この八月十五日を記念するにふさわしいことはないと信じます。
(八月十五日の東京九段会館における発言)
池谷薫
映画「蟻の兵隊」
訴えかける戦争の意味
2006/09/28(Thu)
道新
第二次世界大戦後も軍の命令で中国に残留し、中共の内戦に巻き込まれた日本軍部隊があった。敗戦時、山西省に駐屯していた北支派遣軍第一軍の将兵約二千六百人である。国民党系の軍閥に合流した彼らは、その後四年間、共産軍と戦い、約五百五十人が戦死、七百人以上が捕虜となった。残留兵のほとんどは長い抑留生活を終えて、1955年前後に帰国するが、彼らを待っていたのは、逃亡兵の扱いだった。
世界の戦争史上類を見ないこの”売軍行為”は、戦犯容疑者だった第1軍司令官澄田ライ四郎中将と、国民党系軍閥の閻錫山将軍との密約によって引き起こされたと元残留兵等は主張する。しかし日本政府は「将兵達が自らの意思で残り、勝手に戦争を続けた」と見なし、彼らが求める軍人恩給などの戦後補償を拒み続けている。
二年前、元残留兵の一人、奥村和一からこの史実を聞かされた時、私はまず知らなかった自分を恥じた。そしてすでに八十歳を超えた奥村達元残留兵が真相を究明するため国を相手に裁判を起こし、孤軍奮闘の闘いを続けていることを知って胸が潰れる思いがした。彼らの戦いが、戦争とは何か、続く世代の我々に伝えるためだと強く感じたからである。
私の目の前に現われた奥村和一は、寅さん映画で「おいちゃん」を演じた故下条正巳に似た温和な感じの老人だった。その彼が残留の話になると、突然怒り出した。
敗戦後三年も経った戦闘で重傷を負った奥村は、炭坑での強制労働など辛い抑留生活を送った後、1954年に帰国する。郷里の新潟で彼を待ち受けていたのは、すでに自分の軍籍が1946年三月に抹消されていたという衝撃の事実だった。
そればかりではない。公安当局から「中共帰り」のスパイのレッテルを張られ、執拗な監視の目にさらされた。
「自分たちはなぜ残留させられ、戦争を続けたのか」。証拠を探すために山西省へ旅立った奥村は、やがて自身の戦争そのものと激しく向き合っていく。
二十一歳になったばかりの奥村は、初年兵教育という名の元に、罪のない中国人を銃剣で刺殺するよう命じられていた。殺人現場を再訪し、犠牲者に手を合わせる彼の姿から、我々は「戦争とは人が人を殺すこと」であり、その苦しみから死ぬまで逃れられないことを思い知らされる。
軍命による残留を認められない奥村達は、国家に捨てられた戦争の被害者といえよう。しかしあの戦争ではまぎれもない加害者でもあった。食料を強奪し、村を焼き払い、女たちを犯し、男たちを虐殺した。残留の真相を世間に知ってもらいたいと願いながら、加害者であることには目をそむけてきた自分に、奥村は居心地の悪さを感じた。
帰国した奥村は靖国神社に赴く。もちろん英霊達の魂を静めるためではない。今の日本の状況を見届けるためだ。そこで彼が目にしたものは、驚嘆すべきものだった。
撮影中、ずっと気になっていることがあった。奥村達も登山龍平から、今の雰囲気は自分たちが戦争に駆り出されたあの頃と似ている、と聞かされたのだ。真意をただすと、日の丸掲揚に異議を唱えた教師が処分されたことに触れた。ひたひたと右傾化の波が押し寄せ、いつか来た道を再びたどり始めたこの国に、戦争体験者としての危機感を募らせていたのだ。
今にほんは、二十年、三十年先の将来を決める大事な岐路にさしかかっていると思う。安倍晋三首相は、五年以内に憲法改正を行うと宣言し、海外での武力行使を可能にする集団的自衛権の解釈の方法を検討するという。侵略戦争という言葉さえ疑問符がつき、野党も安保の時のように身体を張って阻止するという気迫に欠け、マスコミも至るところで行なわれている反戦運動をほとんど報じない。
正念場だ。将来、あの時の日本人は何をやっていたのかと非難されないためにも・・・。
「蟻の兵隊」というタイトルは、もと残留兵たちの手記集からとった。そこには、上官の命令にただ蟻のように黙々と従い戦い続けたという痛切な思いが込められている。しかし、一寸の虫にも五分の魂という言葉があるではないか。このまま踏みつぶされるわけにはいかない。
ニッポン人脈記戦争未完の裁き10
兵の日記を掘り起こす
1946年7月25日、東京裁判の法廷は重く沈んだ。南京を占領した日本軍の残虐行為を、現地にいた米国人意思が証言したのだった。
翌日には三人の中国人が出廷した。「其の叙述惨酷を極む。嗚呼聖戦」。被告の一人、元外相の重光葵が日記に書いた。
南京虐殺は戦時中、国内では伏せられていた。国民は東京裁判で事件を知る。
南京攻略を指揮した陸軍大将松井岩根は絞首刑になった。
今年7月1日、東京で「証言を聞く会」があった。南京在住の女性、夏淑琴(77)が約160人を前にして、家族7人を日本兵に殺された体験を語った。
戦後、南京事件は日本軍に」よる残虐行為の象徴になった。それに反発して「中国のプロパガンダ」「戦闘行為の一環だったなどと虐殺を否定する人々もいる。
夏は、事件を風化させまいと語り部を引き受けてきた。日本のある出版物で「にせの証人」のように書かれたとして、裁判のために来日したのを機に、彼女を支える人達が集いを持った。
其の参加者の中に、福島県から来た小野賢二(57)がいた。
88年に市民団体を主催したツアーで南京を訪ねた。「なぜこんなことが起きたのだろう」事件には福島県の連隊もかかわっていた。「格好良く言えば、歴史に目をつぶるまいと思った」。
小野は会社勤めの合間を縫って元兵士を訪ね歩き、聞き取りを始めた。やがて、彼らの陣中日記の史料価値に気付く。後知恵や記憶違いの紛れ込む余地がないからだ。だがそれだけに生々しく提供を渋られた。
始めは「もう捨てた」と言っていて、何度も通ううちに見せてくれた元兵士がいた。南京占領から三日後の37年12月16日には、こんな記述があった。
「二三日前捕虜せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を持って射殺す、その後銃剣にて思ふ存分突刺す・・・・」
約200人に会ううち、20冊を掘り起こした。96年、日記を収めた「南京大虐殺を記録した皇軍兵士達」(大月書店)を出版する。
小野の調査は研究者達から高く評価された。都留文科大学の笠原十九司(62)も「貴重な一次史料」という。
笠原は東京教育大学出歴史学者家永三郎の教えを受けた。80年代、教科諸検定をめぐる恩師の裁判を支援するために、南京事件の研究を始めた。事件の記述への検定意見も争点の一つになっていた。
史料集めに米国まで足を伸ばした。大学から文献を借り出し、10セント硬貨を山と抱え、夜な夜な近所のスーパーでコピーした。歌人でもある笠原がそのころに詠んだ歌がある。
南京大虐殺を教科書に記すに闘いを経ねばならぬこの国を思うも
笠原は93年、米でミニー・ボートリンとういう女性の日記を目にする。南京が占領された時、現地のミッションスクールの教務主任だった。民衆を保護するために設けられた国際安全区で、献身的に女性や子供を助けた。
ボートリンは事件のトラウマから、精神を病み米国に帰った後の41年、自ら命を絶った。笠原は其の日記を妻と共同で翻訳、99年に「南京事件の日々」を出した。
本は、東京の演出家渡辺義治、女優横井量子夫妻の目に留まる。二人は中国残留婦人を描いた戯曲「再会」を上演してきた。米や中国も含め、舞台は93年から250回を越す。「終わっていない戦争」にこだわり、南京事件をテーマにした舞台を考えていた。
子の夏、夫妻はボートリンの悲劇を盛り込んだ朗読劇「地獄のディセンバー・哀しみの南京」を書き上げた。
「彼女は日記に、何とも哀しいこの出来事を日本の女性達に知って欲しいと書いています。その願いを汲んだ舞台に仕上げたい」南京事件から70年になる来年、公演を始めるつもりだ。
世界と結ぶ最後の絆
9条堅持し立憲愛国主義
加藤典洋
2005/12/05
道新
ドイツの思想家ユルゲン・ハーバーマスが、まだ東西ドイツ統一前と思うが、「立憲愛国主義(憲法に立脚した愛国主義)」というものを唱え、こう述べたことがあった。
「立憲愛国主義が、ドイツにとって自己を西側から引き離さない唯一の愛国主義である」
私はいま、ちょうどこれと同じ意味で、現行憲法の9条堅持をもととする「立憲愛国主義」が日本にとって自己をアジアと太平洋の近隣諸国圏から引き離さない、唯一の『愛国主義」にあたるのではないかと思う。
他にない貴重さ
ここでのポイントは、「愛国」である。この言葉はどぎつく響くが、そのどぎつさを含め、これと第九条をドッキングさせなければ、所謂第九条立憲主義のいま帯びている絶滅危惧種的な、他に替えることのできない貴重さは、言い当てることができない。
これは十月に発表された自民党の「新憲法草案」だけでなく、一部民主党の憲法案にも言えることだが、現在、第九条の堅持がもはや現実から乖離してしまっているという指摘は、米国との協調、はっきり言えば対米追従を、議論の前提としている。
集団自衛権を認めない孤立主義的な憲法では、もはや世界から相手にされないというのである。しかし太宰治の「世間論」にならって言うなら、「世界」などは何処にもない。ここで言われているのは、「アメリカ」である。
自民党の改正案を一読してすぐに思ったことがある。この政党は、1955年の結党以来、ほぼ一貫して対米追従を「不磨の大典」としてきた。石橋湛山、田中角栄など少数の例外もあるが、「自主憲法制定」の主張も、むろん米国の要望と合致する限り、「党是」とされてきた。それは今回も例外ではない。
今回の改正案の骨子は、第九条(戦争放棄)、第20条(信教の自由)、第96条(憲法改正)だが、そこからもたらされる変更は、第一に今後の日本の選択が「米国同盟」か「アジア重視」かの二者択一の形に流し込まれる、であり、第二に、その上で「日米同盟」が選択される、である。
信教の自由の改正は首相の靖国参拝を合法化するが、それは日本の国益というよりは日中韓三国の東アジア圏での協調強化をおそれる米国の国益に叶っている。また集団自衛権に道を開く第九条の改正は、むろん首相言うところの「日米同盟」に不可欠である。
しかし、ここまで自国本位の観点を捨て去り、米国一辺倒の発想で憲法まで改正したその後に、何がくるのか。
今回のこの自民党案が国民から奪ってしまうのは、米国とも中国とも仲良くするという選択肢である。しかしこれは、日本がしっかりしさえすれば、困難であろうとも、追求するに値する、まずは最善の方向だろう。米国か、中国か、という選択肢の形は、現在の米国政権には喜ばれるだろうが、この政権が変われば、どうとも転ぶ可能性がある。というより何より、ここまで闇雲な対米追従がやがてこの政党に「米国憎し」の反動を呼ばずにいないだろう事を、私などは恐れるのだ。
日本の立脚点に
結局日本は日本の立脚点に立つとき、もっとも安定する。その前提となるものとしては、第九条しかない。たしかにこれは、GHQからの借り物である。また、この戦争放棄条項が、憲法制定時には昭和天皇の運命及び象徴天皇制の保持と、一対となり、その後も米軍基地の存在、日米安保条約の堅持とあいすくみで戦後日本の欺瞞の構造を作ってきたことは、よく知られている。
しかしこの憲法の理念は、米国を始めとする世界と繋がり、中国、韓国の信頼をつなぎ止める最後の絆となっている。そのことを通じ、日本の将来により広い選択肢を提供し、またそれに劣らず大切なことだが、国民を過去の反省と戦争の死者の哀悼へとつなぐ、過去との絆となっている。
かつて「第九条」は世界平和と結びつけられ、「愛国」の対極に置かれた。しかし私はいま、この二つを結びつけることで、新しい論の地平が開かれるのではないかと思う。
投下した遺書 無事に届いた
無職 碓井保(82)
昨年末、仏壇の中から一通の手紙を見つけました。18歳の私が父親に宛てた遺書でした。
便せん3枚で、一枚目には大きく筆書きで「必殺の体当たり、必ずやるぞ」とあり、母音が押されています。2,3枚目は転属先の地名を伏せた上で、父への感謝と死ぬ決意が記されています。
私は陸軍少年飛行兵として17歳で志願しました。ある時、急に一週間の休暇が出て、飛行学校分教場のあった群馬県から大喜びで実家に帰りました。ところが帰隊早々、転属命令が出ました。私はこの遺書を懐に入れ、軍用列車で高崎駅を出発。実家に近い小田原駅を通過する事がわかり、遺書を同駅ホームに投げ落としました。
その後、私は翌年三月、台湾高雄沖の南シナ海上の先頭で船ごと沈没、10時間漂流した後に、駆逐艦に救われ九死に一生を得て、生還しました。
手紙は親切な人が届けてくださったのでしょう。今回、自分の遺書と再会でき、言葉になりません。この世に戦争ほど酷なことはありません。遺書は私の最後の道連れにするつもりです。