privateではない日記

年末休暇

[2006年12月31日(Sun)更新]

29日から、休み。東野圭吾の「さまよう刃」「手紙」、マークトェインの「不思議な少年」 伊坂幸太郎の「ラッシュライフ」「オーデュポンの祈り」、ベアテ・シロタ・ゴードンの「1945年のクリスマス」を読む。
その前の週には久しぶりの数学発見物語「フェルマーの定理が解けた」には感動した。よくわからないが、いろいろな問題が絡まりあって、解きほぐす格闘が目に見えるようだった。その中で、「点予想」という問題が長い解かれていなかったことを知る。ついでにその証明も読んで少しびっくり。シルベスターの定理と少し似ているようだ。と思って、調べてみたら七十年の4月号に清宮俊雄による紹介記事があり、Gallai、Kelly,Williamsによる三つの証明が載っていた。1893年にシルベスターが提出したものを、1933年エルデーシュによって再び世に出され、gallaiによる「天才的な」解決を見たのだそうな。
東野の現実的で暗い小説を読んでいると滅入る。読ませるんだが、思わず犯罪に手を染めるつらい構図だらけなので、苦しい。それを嫌って、伊坂を読むとこれは良い。とくに「オーデュポンの祈り」には感心した。謎の孤島という本格推理仕立てでありながら、人間が良く書かれていて、最後には救いがある。桜の存在が不思議。喋る案山子の意味は何だろう。人非人城山を軽く扱っているのも良い。
今日になってやっと年賀状を書く。昨年は出さずにいたら30通しかこなかった。今年も、義理で書くが、本音を書くことにした。
「驚くべき一年でした。《新》教育基本法が成立してしまいました。あの愚かな第二次世界大戦を反省して、「個」の確立を目指していた筈の日本がまた「公」という名の『お上』を戴くということです。小泉や安倍、中川が民主主義を理解しているとは思えません。何が大切か。この国は理解不能です。時代に越えられたということなのでしょうか。」と書いた。
六十年かけて、ここまでしか来れなかったということ自体、戦後民主主義の誤りだったということだ。思えば体育の授業の前へなおれ、右向け右とかは一体何だったのか。軍国主義の名残をそれと知らないままに、流用していたという迂闊さが今日につながっているのではないか。今でも中学校では「マスゲーム」をやっている。北朝鮮をバカにできない。戦後、ずっと教育のテーマは集団の中の「個」だったのではないか。今日あるべし。
校内暴力をどう克服(?)したか。『毅然としてルールはルール』を指導原理とした。対処療法としては正解だったのだろうが、落ち着いたところで再考すべきだったのではないか。社会の影響を留めることはできない訳だが、もっと精確に分析すべきだったのでは。なぜなら、そのときの教師の苦しみが現在の一般の苦しみになっているように思えるからだ。やっと、民間人も教師がどういう人間を相手にしていたのかを理解できるのではないか。「車に乗って酒飲んで何が悪い。運転している訳じゃないだろ」と因縁をつけている場面がテレビにでる。当時は、先生に対してこんな感じだった。
それでも、いまは自分たちではどうしようもないから警察力に頼ろうとするが、教員はなるべくそうしようとしなかったのは偉い。囲い込んで見えなくしてしまったという反論がでそうだが。とにかく、昔は安易ではなかった。
失われた中間社会の再構築ではなく、いきなりトップの権力、国家に任せるという安易な姿勢はおかしい。それでは、決して民主主義を守ることはできない。そんなに簡単に民主主義を守れる訳ではないだろう。それにしても、彼ら日本国民の選択の行く先を見守りたいものだ。 (既に第三者の観点に立っているみたいだ。)
ベアテは本の最後でこう書いている。「私は日本をはじめアジアの国々、ヨーロッパとずいぶんいろいろな国に出かけて行って確信したことがある。文化的には異なるけれど、どこの国の女性も思っていることは同じだということだ。子供を産み、育てる。子供の将来を考えれば、どんな女性だって平和を切望している。家庭を守るには絶対に平和が必要だからだ。男性よりずっとその思いは強い。戦争の原因になっているのは、宗教や領土、政治、経済と様々な理由があるが、なぜ皆「違い」を強調するのだろうか。どこの国の人でも共通点の方がずっと多いのに。そのことが分かっているのは女性だと思う」


必修漏れ問題、17道県で517人処分 
朝日新聞社集計 2006年12月31日15時36分  
公立高校で必修科目の履修漏れが判明した35都道府県のうち、12月末までに17道県の教育委員会が関係者を処分したことが朝日新聞社の集計で分かった。いずれも過去にさかのぼって校長ら責任者を処分し、総計で517人にのぼる。残る教委の多くも年度内に処分を決める方針だが、様子見の教委もある。
・・・・・・  教育長が結果責任を問われ、最も厳しい処分になる場合が大半だが、山梨では県教委の調査に2度にわたって「漏れはない」と虚偽の回答をした校長が戒告となり、県内で一番厳しかった。
 校長だけでなく教諭も処分したのは、過去にも履修漏れが発覚している兵庫県。県教委に提出していた時間割りと異なる授業をしていると認識していた教科主任ら27人が厳重注意となった。
 一方、処分に慎重な教委も少なくない。奈良県教委は、漏れが判明した県立2校の対象生徒がすでに卒業していることから「今のところ処分は考えていない。他府県が過去分でも出せば考え直す」という。青森、群馬、島根、岡山、宮崎、鹿児島の県教委も「有無を含めて検討中」という立場だ。
 私立高校に関しては、都道府県に直接の処分権限はないが、三重県では、漏れのあった2校への助成金の減額を検討中だ。毎年度3回に分けた支給のうち、2校とも11月分の申請を見送った。神奈川県でも助成金の一部削減を検討している。福岡県は、同じ私立で再び発覚した場合、「補助金打ち切りの可能性がある」という。

以前から現実にあわない指導要領を批判してきたが、張本人の悪党(文科省)をのさばらせて、トカゲのしっぽ切りとは何事かと思う。教育の素人の井戸端会議で決まったことを、絶対のルールとするなんて信じられな〜い。世界史が理念的には重要だということは正論だが、カリキュラムがきつくて、地方の要求に応えられないからこそでてきた反応である。大綱的基準で良いではないか。そのうち、日の丸を掲げないからと、助成しない事態がこないと言えるのか。つまり、教育が独立していなくてはいけない、という理念を理解できていないということではないか。理解していたならば、教育基本法は改定する必要がない訳だから、理解してないことは明白である。

ついに成立

[2006年12月15日(Fri)]
改正教育基本法が参院可決・成立
2006年12月15日17時57分
 安倍政権がこの臨時国会の最重要課題と位置づけた改正教育基本法は15日夕、参院本会議で採決され、自民、公明両党の賛成多数で可決、成立した。民主、共産、社民、国民新の野党4党は反対した。「教育の憲法」と言われる教育基本法が改正されたことで、来年の通常国会以降、多くの関連法令や制度の見直しが本格化する。

ついにやりました。教養ある国会議員が民間のネット右翼と同じ信条の持ち主であろうとは・・・。総理もあのレベルだから仕方がない面はある。「責任とって俸給返納」の件です。「すり替えと指摘されて、『失礼じゃないか』」と、気色ばんだという話があるが、失礼なのは泥まみれの基本法に対して、だろう。糞まみれ、と言った方が正確だが。
06/12/9日付の読売に編集委員のエッセイが載る。「心理検査によると、80年代には取れていたバランスが95年頃から『自己中心的な世界に留まり、自分と外界との関係性が把握できていない子供たちが増えている』という観察がある。攻撃的な意識を示した絵も増えているということはまさに「子供の心の危機」である。そこで危機の解消のために教育基本法改正が役立つのか?」と問う。
この編集委員は『役立てなければいけない』と思う。彼には、「改正案の核心は「個人」「個性』ばかりが強調されている現行法に対し、「公共の精神」「伝統と文化の尊重」「国と郷土を愛する態度」を織り込んでいることだ」と映るようだ。
「外の世界との関わりの中に自分がいること、時間を超えて引き継がれている文化や伝統、自分が帰属し貢献できる共同体があることの認識は、子供たちを自己中心的な「個」の世界から抜け出させる。社会性を養わせる。」「これには、価値観に関わる教育を学校ですべきではない、とする反対論もある。だが、価値観形成をすべて子供にゆだねるのは机上の空論だ」として退ける。そんな彼も「家と木と人を総合的に描く子供であってほしい。そのための手だては尽くしたい。法改正論議は政治的な駆け引きばかりが目立った。子供の健全な成長という視点を大事にしたい」と良心的であることをアピールしてエッセイを終わっている。思慮深そうな雰囲気を醸し出しながら、言っていることは「ゲロを食うより、糞を食おう」ということだ。「個」を大事にして腐ってしまったとしても、「公」を大事にしては滅んでしまう。
「個」を大切にするのは、それしかないからだ。戦前の日本のように、「」を大切にして一億総白痴化した経験から、「個」を立て直すしか過ちを繰り返さない方法はない、との洞察があった。だからここで言う「個の確立」には楽観的な、進歩的なものは何もない。難しいけど、これしかないという処方箋なのではなかったか。
「寄らば大樹の陰」を、『法の定めるところにより」と言い逃れる連中には、「いじめ」を咎めることはできない。 批判的精神を生かせない民主主義は既に、民主主義ではない。国家による自大主義とでも言うしかない。 この編集者も、こう決まったからには「生かす道」を考えるのが責任ある大人のつとめではないか、というような嫌らしいやつだ。それも「子供のため」を付け加えて、ますますいやらしい。

何もできない

[2006年12月14日(Thu)]
 
政府、与党が今国会の最重要法案と位置付けている教育基本法改正案が14日夕の参院教育基本法特別委員会で、自民、公明両党の賛成多数で可決された。今国会での成立は確実で、与党は会期末の15日の参院本会議で採決する考え。
 民主党など野党は採決に反対したが、与党が押し切った。野党は安倍内閣への不信任決議案を衆院に提出する。
 教育基本法の改正は1947年の制定以来、初めてとなる。改正案は18条からなり、前文で「公共の精神を尊び」と明記。教育の目標として「我が国と郷土を愛する態度を養う」ことなどを掲げ「愛国心」重視の姿勢をにじませた。また「生涯学習の理念」「家庭教育」などの条項も新たに盛り込んだ。
 与党は改正案採決より優先される不信任決議案などが複数提出され、処理に時間がかかる事態になれば、5日以内の会期延長で対応する方針。
 参院特別委は、採決をめぐる与野党対立が解けず理事レベルで断続的に折衝。与党が14日午前に続き、野党の主張する追加審議に応じたため、同日夕に委員会が再開された。しかし、与党が採決に踏み切ったため、野党は幹事長・書記局長会談で内閣不信任決議案提出で合意した。

あとは、参議院本会議を残すのみとなった。基本法の首が締められるのを、私はただ見ていることしかできないのか。無力である。時代錯誤の法律が通ることを止められない。しかし、思う。戦前を笑えない。あんな馬鹿な戦争を止められなかった人々を笑えない。きっとこうやって地ならしをされて、逃げ場がなくなるわけだ。「愛国心の強制」はほとんど矛盾である。
それも戦前のように、テロの恐怖があった訳でもない。特高に見張られている訳でもない。今反対しても村八分になる訳でもない。ヒトラーの偉業の前に、不平を言えなくなったドイツ人の苦悩もない。せいぜい、拉致問題は決して妥協しないと言う安倍がいるだけだ。 なのに、何もできないという無力感を持つ私が戦前を笑うことはできない。こういう国民しかいないのだから、こういう法律が通るのも道理である。何のための戦後六十年だったのか。

安倍と言えば、TMやらせの責任を取って、100万円を返納するのがそうな。何をとち狂っているのか。公聴会で政府が動員をかけたと言うことは、黙っていては反対派の声が大きくなるからだろう。つまり、国民の大勢ではないのではないかと疑念をもたれるからやったこと。それだけ、意見の相違があるのに『改正』を打ち出したことに責任があるのだ。100万ですむのか。個人の責任にすり替える、すり替えて見事に責任を取ったことにする姿勢は異常である。安倍は全く分かっていない。馬鹿だ。これをよしとする人々も変だ。変だぞ、日本(Nippon)。

さらにいいお知らせ。防衛庁の昇格が決定。さらに不気味な決定。宇宙基本法という代物が策定されているという。さぞや、産軍複合体の連中はにんまりしていることだろう。軍需費は無限に増大する。何でも極秘扱いである。天井知らずの予算が手に入る。アメリカだけに宇宙を独占させるわけにはいかないということだ。さて、アメリカは黙っているか。外圧頼みとはまた情けない。
しかし、それでも政府が資本家の意向を受けて何を狙っているかはそろそろ分かりそうなものだが・・・。

『美しい国』を自称するといえば、戦前の日本と、現在のお隣・・北朝鮮を思い出す。いずれも、自己満足の国である。一方は神の国であり、一方には主体(チェチェ)思想がある。いずれも、小さくとも大義を通す立派な国を自称し、やがて自滅する。もう一度滅びることが必要なのか・・・・。

日本は駄目な国だということを一生懸命教えたがる先生もいるし、男女共同参画社会はよいが、ジェンダーフリーの教育を進めようとしているグループもあり、そのグループがまた過激な性教育をやっている。人数は少ないのだろうが、そういう人達を見ると、なんとか日本を駄目にしたい、特に子ども達から駄目にすることが早道だという考えがあって、それに一生懸命になる悪い情念のようなものがあるような気がして残念に思う。そういったことは是非やめてもらいたいし、周りの方々も気をつけてもらいたいと思う。今、文部科学省としても性教育の実態調査を進めているが、きちんとした性教育は必要としても、異常な性交教育、性器教育になっている面もあり、このことについて国民全体で目を光らせておく必要があると考えている。(中山大臣05年6月11日TM in shizuoka)

呆れる。『日本を駄目にしよう』としている人たちは何を目指しているのか。世界に先駆けてジェンダーフリーな国を作ろうとすることは愛国心の発露ともいえる。どういう愛国心が良くて、駄目な愛国心ははどれか?自分たちのお眼鏡にかなったものだけ良しとするという態度が手に取るようだ。そもそも、ある運動が最初の段階で過激になることはあってもそれで慌ててはいけない。慌てて廃止した教育委員会公選制を思い出せ。あっ、あれは思い通りに廃止できたから成功例ですね。試行錯誤はあって当たり前なのだ。

何もしなくていいのか?

[2006年12月09日(Sat)]

安倍君が外遊からかえってくる14日に教育基本法が改定されそうだ。
問題点は三つ。
(1)愛国心を国が一元化して指導することの可否
(2)公と公共の混同の可否
(3)「不当な支配」の主語は誰だったのか
地方分権を主張しながら、中央集権を目指す心はただ一つ。国と地方の分担を明確にしたいということだ。国は何をするのか、防衛庁の格上げがその一例。教育は、切り離そうとしている。教育の民営化で、富裕層は困ることは何もない。困るのは、明治でもあった門閥抜き・学力次第で出世もできた融通が利かなくなり、国家の硬直がおこることだ。しかし、政権担当者は長い目を持たない。
最近の未履修問題を考えて、現場主義を重要だと思うようになっている。ここで、教育関係だけでなく警察からもその声が出てきた。トヨタ方式を取り入れた郵政省の失敗も現場を知らずに、何でも導入、という姿勢が間違いである証拠だろう。どの分野でも、戦前の革新官僚が日本という国家をおもちゃ代わりに持て遊んだことを思い出すべきだろう。
地方分権を認めることが本気ならば、それは多様性を認めるということだ。国家による価値の一元化はそれと矛盾する。つまり国家は多様化を認めないということだ(いじめをなくすというのはかけ声だけであることがわかる)。
14日まですることは、できることはないのか。焦りまくりの毎日ではある。

子育て論議に結論はない

[2006年12月03日(Sun)]

昨日のBSで、メキシコに近いコスタロサというアメリカの町でおこっている(不法)移民問題の放送を見る。白人は移民を嫌って町に秩序を求め、公的な「職業斡旋」を廃止した。おかげで,斡旋所の周りに群がる移民は激減し、無法地帯の趣は減った。しかし,皮肉なことに町は彼らの労働力なくしてスムースに運営されなくなっている。実際に,移民の中から事業を興す者までいる。小さいけれどアメリカンドリームが確かにある。移民反対派の議員も、アメリカの夢を大切だとは知っていながら,犯罪者を増やしているという現実に戸惑っているように見える。そして,現実も犯罪は増加しているようだ。合法移民の資格を得るために、両親が夜昼なく働いているのに、子供たちは「親の心子知らず」で、実際放っておかれているので、子供たちは安心を求めてギャング団に入るのだそうだ。昔日本では子は親の背中を見て育つ、と言われて私もそう思っていたが、子供たちはそんなに強くなかった。何のために苦労したのか分からない結果を生み出してしまっている。自分の子育てを見てもそう言える。子供は見ていてくれなかった。確かに貧しくても仲の良い家族の方が良いのかもしれないが、それでは、物足りない。自分にも人生があるのだから。結局、子育て論に正解はないのだろう。それぞれに考えて、それぞれに生きてみることしかないのだ。巷間にあふれる子育て論を信用してはいけない。責任は全部自分たちが引き受けなくてはならない。
そして、それは教育論議にも言えるだろう。いくらでも好きなことが言える。Aというやり方でうまくいく人もいるだろうが、そうばかりではない。絶対はないのだ。諸処、時々刻々それぞれの持ち場で全力で対処するしかない。基本方針さえ信用しがたい。国家がすべてを掌中に収め、諸処に工夫を許さない基本法精神は狂っている。

夜、教育テレビで障害者を呼んで話をしていた。細かいことは理解不能だったが、自分のペースで生きさせてほしいという願いはわかった。みんな同じなのだ。もっと競争したいという人がいてもいい。そうでない人にも生きることは許されるだろうということ、それを容赦しない社会をがんじ得ないのは当然ではないか。
途中で視聴者からメールが入った。「健常者だけでなく、障害者も歩み寄るべきだ」という内容。その直前に「老人でも、障害者でも席を譲る必要はない。同じお金を払っているのだから。」という人がいますがどうなんですか?という話をしていたのにである。確かに障害者がそれ故に何か特権的な立場にいるかのように見えることがある。解放同盟などで問題になっていることと根は同じだろう。それでも不自由を感じていない人が一歩引かずに何が前進するか。永久の対立を生むか、忍耐を養うかの選択しかないのか。9・11ではアメリカが耐えるしかなかったのだ。これを機会にアメリカが引きずり込んでいる他国の怒りを理解するしか方法はなかったのに、アメリカは怒った。怒りに任せて世界を震い上がらせた。そして北朝鮮が自滅の道を歩み始めた。自国民を犠牲にする道だ。

always三丁目の夕日

[2006年12月02日(Sat)]

嬬恋コンサートのDVDが出るそうだ。是非買いたいのだが、見所は中島みゆきだけなので少しもったいない。
映画でalwaysを見る。懐かしい感じだが、昭和34年お話だそうだ。あんな感じだったのか、私はまだ小学生にもなっていない頃か。東京タワー・高速道路が建設中で、まだ近所があった時代という設定なのだろうが・・。吉岡君がいつもの演技しかできていないが、それでも臭くないのが救い。人情話で泣かせる。ただ、引き取った孤児の父親が実は大富豪という話はいただけない。戻ってきた子供を受け入れると誘拐罪が成立してしまう。あり得ない話は、ちょっと引く。が、CGも悪くなかった。機関車の側面がいやにでこぼこだったのが気になる程度。あ、それから最初のゴム動力飛行機がよくない。
"続"もできたそうだ。これは二代目寅さんになり得る。あれから4ヶ月後だという。登場人物にも年を取らせることができて、続くことを希望しよう。涙の再出発を誓って彼らは鈴木オート一家は夕日を見る。「50年後も見れるかなあ」。見れないのです。50年後は夕日を見る暇がなくて、競争に明け暮れているなんて,彼らは思いもしないだろう。

ところで、PTA総会を開けないかと夢想する。教育基本法が参院でも今週か来週には成立しそうだという。情けない話だが、保護者は実際どうなのか?黙っているところを見ると、受け入れているのだろうが、あれを受け入れるということは自分たちの受けてきた教育を否定することになるのだが,わかっているのかね。最近の父兄もぼけているから、反対に振れることも必要と思っているのかもしれぬ。
防衛庁が省に昇格らしい。改憲の先取りのつもりだろう。外国への派遣が本来業務になるらしい。自衛隊の名が泣く。武器を持たない人道援助は考えられないらしい。
東京新聞に兵器産業の興奮が書かれていた。なるほど、三軍複合体の復活がなかっただけでも、平和憲法の存在に意味はあったか。
この国は,自国のことばかり憲法で武装して,他国に対して憲法を生かそうとしたことがない。悲しい国に生まれてしまった。もう何を言っても無駄だと思う。省に格上げになった利点は、国民からいっそう遠くなるということだから、国民とあ無関係な国家防衛(国体護持)に勤しむがいい。
Dataというパーティションが消えてしまった。どうも駄目なので、インストールのやり直し。今度は、egブリッジがインストールできない。ことえりは、未だにひどい。アップルワークスも消去できない。ゴミ箱から,"確実に消去"が選択できず。.Macもパスワードを違えておぼえてるらしい。ひどいもんだ。


住基ネット適用は違憲 大阪高裁「プライバシー権を侵害」 
  2006/11/30 23:34
 住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)運用でプライバシーを侵害されたとして、大阪府内の5市の住民16人が各市に損害賠償などを求めた訴訟の控訴審判決で、大阪高裁(竹中省吾裁判長)は30日、「拒絶している市民への適用はプライバシー権を定めた憲法13条に違反する」との違憲判断を示した。
 その上で、箕面市など3市に住民4人の住民票コードを削除するよう命じたが、賠償請求は認めなかった。
 2004年2月の1審大阪地裁判決は全国民に割り振られた11けたの住民票コードについて「いつでも変更でき、一生使用し続けなければならないものではない」と指摘。「人格権やプライバシーに関する法的利益が侵害されたとは認められない」として請求を棄却した。

裁判所の中にも諦めずにがんばっている人がいるのだなと感心する。何をしても遅れるくらいにしかならないだろうが、成立した法律に、崩れた形でも抵抗の痕跡を留めるべきなのか。母の転居届にも,コードが書いてあって、さらし者になっていることを知り,びっくりしたが係はいたってのんびりとしていた。
未履修問題に関連して、道新に高橋一という人が書いている。

世界史を学ぶ意義そのものは誰もが知っている。にもかかわらず、「世界史」が忌避されてきたのは、高校生だけでなく親や教員さえも、日本という国のあり方をじっくり考えるゆとりもないまま、すぐに大学受験に取り組まなければならないとの差し迫った要請(幻想かもしれない要請)に追い立てられているからではないだろうか。

と投げかけ、詩人キーツの”Negative Capability”(わからなさに耐え続ける力)という概念を紹介していた

キーツはこれは詩人にとって、必要不可欠な能力であると語った。
しかしこれは教育にこそ必要な能力ではないか。しかもこの「わからなさに耐え続ける力」を一定期間保持しなければ、本人も親も友人教員も、誰一人としてその「結ぶ実」を知りえない。この消息が、多くの人々の心理的多忙と効率性偏重によって、ないがしろにされてきた点も反省しなければならないのではないだろうか


家庭内不和の日々

[2006年11月25日(Sat)]

23日に、朝のNHKで2006嬬恋コンサートを偶然見る。吉田拓郎。カマヤツひろし、かぐや姫が出演。ところが、途中であの中島みゆきが登場。「永遠に嘘をついてくれ」とか言う、拓郎のために作ったというものを歌う。グッときた。拓郎のデラデレした態度と対照的に、あごを引いてお尻を突き出して、手を後ろにくんでキリッと歌った。私生活ではどうかは関心がないが、あの姿勢には参った。あの年で、(確か私より二つ、三つ年上)たかが歌に、根性入れるなよという気さえするあの迫力。彼女の姿勢は凄い。泣けた。こんなことではいかんなと思わされる。

法政大学が関東学院に勝った。ラグビーのお話。完全にフォアードが、体重負けなのに、よく持ちこたえてボールを早めに出し、バックスにつなげる華麗なプレイで逆転勝ち。これも興奮した。4人のラインを作っておき、バックスに回して途中でフォワードで一度ポイントを作りますね、と解説が入ったところで、これがダミー。最後までつないで学院が対応し切れないうちにタッチしてしまった。先週の早稲田の余裕あるつまらないゲームと大違い。力の劣るものは、機転が大事で、その機転を生かすためには、日頃の練習が大切と納得。いくら面白いプレイを考えても、走力・体力がないため生かせないことが多いが、今回は凄かった。どちらにも足をつる選手がでたけれど、練習不足だからではない。久しぶりの面白いラグビーを見せてもらった。

基本法のネタが、新聞・テレビからで出てこない。道新が少し改心をした記事が20日に出ただけだ。ルールと称している「指導要領」に疑問がある、という内容である。地方の教委が知っていて、中央が知らなかったから怒り心頭に発しているのだろうが、地方の工夫を褒めこそすれ、いきなり処罰はないだろう。先生は規範意識に欠ける、はないだろう。世間知らずは中央だけだ。

以前に、外務省認可の財団法人日本国際問題研究所が「反日的」な論文を掲載したとして、産経新聞にたたかれ、所長が謝罪(2006/8/18)した事件があった。
『論文「日本はいかに中国を想像し、自国を見ているか」の要旨。
 中国と日本の外交関係は70年代以降最悪の状態だ。だが日本国内では自国が国家主義的、軍国主義的、タカ派的に見られているとの認識は薄い。 ・・・・』
この論文の結論は『「日本の政治的見解は海外で理解されない」』である。
当時も過剰反応ではないかと思ったが、小さな異分子を大きく言い立てることによって、圧力を増し、そのうち言わずともそんな言動は自粛するさ、と笑っているに違いない。しかし、それは国内だけの話だという例だ。

ニュースへの視点
桂敬一
道新2006/11/25 ・・・・

2001年に発足した小泉内閣は、米国の「9・11」事件後、ブッシュ大統領のアフガニスタン・イラク戦争支援に踏み切り、自衛隊のインド洋やイラクへの派兵、拉致問題を契機とする北朝鮮への対決姿勢の明確化、靖国参拝で中国・韓国の対日感情逆なで、有事法制定、九条改廃を狙う改憲方針提示など、右寄り・タカ派路線をとってきた。
そしてこれに続く安倍晋三内閣も、ミサイル発射実験・核実験をした北朝鮮の制裁では世界の先頭に立ち、拉致問題の国際放送をNHKに命令、改憲を横取りする「防衛省」実現を急ぎ、日本の核武装論議にも容認の余地を与え、外国メディアには自分の首相在任中における改憲の意向を表明、愛国心を事実上教える教育基本法「改正」を今国会の最重点課題としてきた。

情勢変化に動かぬ日本
この大きな右旋回、改憲路線はブッシュ大統領の「テロとの戦争」宣言と、それに続くイラク戦争遂行、さらに拉致問題を強力なエンジンとして利用しながらスタートを切り、推進されてきた。ところが、小泉政権発足後、五年あまりが過ぎたいま、肝心のアメリカが、ブッシュ大統領の中間選挙敗北で、イラクについては既定路線の見直しをやむなくされ、北朝鮮との関係でも日本に相談もないまま、中国とともに北朝鮮と直接対話し、その六ヶ月後への復帰を実現させた。やがて二国間の対話もありうるとする観測が、海外では強まっている。
ブッシュ路線を支援してきたスペインとイタリアは、国民の支持を失って早々と政権が交代、ブッシュ大統領が頼みの綱とするイギリスのブレア政権も、いまは死に体だ。こうした国際情勢の変化にもかかわらず、依然として対米路線の基調を変えない日本政治のあり方が一つの奇観を世界に呈している。これを道理解するかがいま、日本の国民、またメディアが問われているというべきではないか。
もしかしたら小泉・安倍政権にとっては、改憲・再軍備、日本政治の戦前会期こそが本命の目的であり、ブッシュの相手路線そうも、北朝鮮の拉致問題も、この目的達成に利用できる格好の材料であり、まだ使い捨てにはできない、ということであろうか。本音がそんな程度の政治家他紙なら、彼らをそろそろ使い捨てにすることを、国民も考える必要があるのではないか。来年は参院選も待っている。


フテクサレ

[2006年11月23日(Thu)]

一昨日は落ち込み。昨日は嫁、ぎっくり腰。私はやる気無く早退。家で、再開された教基法審議を見る。細かい話で、改正の理由と結びつかず。最近目に付く論点は、教育を国民のてに取り戻そうだと思うのだが、与野党ともに如何に法規制で「縛るか」ばかり。下々を信用できない国が民主国家かね?
今日届いたスクリーン保護とキートップカバー、それにパッド保護膜をはってみたが、大失敗。実用向きの人間ではない事が分かりまたがっかり。特にスクリーンは空気泡が入ってしまってどうしようもない。もう一枚買ってやり直すか?理屈が分からずに始めるから、馬鹿扱いされるのだと一昨日の思い出に浸る。三枚重ねの意味が分からなかった。いまでも分からない。どういうつもりで作ったのか?

MiccroSolution社の
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一番高い奴で失敗は痛い。wristfilmはなぜか二枚入り?wrapは、少し失敗したが許せる範囲。でも、強く打たないとaなどが抜けやすくなってしまった。

「ゆとり教育」を進めた寺脇研が文科省を辞めたようだ。

競争力より信頼度高めよ
寺脇研
元文部科学省大臣官房審議官

国会では教育基本法改正案が審議され、官邸には教育再生会議が設置されるなど教育論議が注目されている。これを機に国民全体が教育のあり方について真剣に考え、改革の方策を広い視野に立ち、自らの意思で選び取っていく方向に向かって欲しい。
特に、教育再生会議の主要な論点に挙げられているバウチャ−制度(学校を自由に選べる利用券) 制度や学校、教師の外部評価をめぐる問題は、今後の学校と教育のあり方を決める上で極めて重要な意味を持つ。すなわち、学校を民間企業や商店と同じ市場原理に沿った競争にされされる教育サービス機関と割り切るのか、地域に根ざし高い公益性を求められる公共教育機関である事を堅持するのか、その岐路に立っている。
前者の途を是とする人達は、競争と利用者による選択の結果として淘汰される画稿や教師がいても当然だ、と主張する。しかし私は、そうした主張には反対だ。学校は市場性ではなく公共性によって支えられるべきである、 独自の建学理念を掲げる私立学校でさえ、教育基本法の第一条が定めるように「心身ともに健康な国民の育成」(改正案でも同じ)を目指す公教育が行われる場でなければならないはずだ。ましてや公立学校の場合、明治初年に地域住民の手によって創設されたように、住民が自分たちの税金を使って地域の中核機関として育ててきた。そこには直接の利用者である子供や保護者だけでなく、すべての住民の願いが反映されている。警察や消防の機能と同様、それぞれの地域に不可欠であり、競争で消長していく存在であってはならない。
ところが最近社会を騒がせている事件の数々は、残念ながら学校の公共性を疑わせるものばかりだ。いじめ自殺対応では公共機関として義務づけられる危機管理や説明責任を果たせないばかりか、公的責任より自己保身が優先されているかのようである。高校の必修科目履修漏れでは、公教育の内容を国民に対し法的に約束した学習指導要領を入試対策のために無視するという、まるで受験予備校的な体質を露呈した。学校の公共性を担保する行政機関であるはずの教育委員会の動きもはかばかしくない。
もちろんすべての学校や教育委員会がそうだというわけではないが、このていたらくでは市場原理や競争の議論に対抗できない。
不見識な公立進学校はバウチャーで競争になれば進学実績目当てに生徒が殺到して潤うと考えているかもしれないが、それはたとえば、もっと受験一辺倒で公教育警視の株式会社立学校との競争にもなってくることに気付いているのだろうか。 公立学校が市場化の荒波を逃れるには、方策はただ一つだ。公共教育機関としての信頼度を高めていくことである。知育・徳育・体育をバランスよく組み合わせた公教育をきちんと行い、公共機関らしく地域住民に信頼され、そこに勤務する公務員として自らを律し「全体の奉仕者」の自覚を持てばいいのだ。
こんな当たり前の事ができていなかった事を、深く反省すべきである。つい最近まで文部官僚だった者として、自省を込めつつ問題提起したい。

現場に混乱をもたらした人間が、まだ官僚主導を言い募っている。教育委員公選制を廃止し、教育を国民から取り上げ、国家のものにしたのは誰だったのか。寺子屋から始まる伝統を取り上げ、集権化したのは誰だったのか。大綱的な約束である学習指導要領には拘束力があると言いながら、特色ある学校作りを促したのは誰だったか。今回の未履修問題で要領通りにやっていた学校や教育委員会は工夫をしていなかったとさえ言えるのではないか。地方分権と言いながら、統廃合を繰り返し人々を都会に招いているのは誰か。法律と同等だと言い張るから、妥協も地方の話し合いもなくなる。地方の教育委員会に相談して、地方が工夫した事を犯罪のように言わなければならないのは拘束力を持つと言い張るからだ。柔らかく、考えよ。
「自ら学び、考える力」を身に付けるのは良い。しかし、それを教える教員ががんじがらめになっているようでは本末転倒ではないか。彼の理想は尊いだけに、現場を知らなかったのは残念だ。

今日になってTMについてのやらせ・サクラ疑惑が再び現れる。」
TM、「エレベーター手動」1万5千円計上 蓮舫氏質問
2006年11月22日21時09分
 「やらせ質問」が問題となっている政府主催のタウンミーティング(TM)で、会場での送迎やエレベーターを動かす係に、1万5000〜4万円の費用が計上されていたことが22日、参院の教育基本法特別委で明らかになった。蓮舫氏(民主)の質問に、安倍首相は「節約できるところはもっともっとあると思う」と述べた。
 蓮舫氏は、03年12月に岐阜県で開かれた教育改革TMの「契約単価内訳表」を示して質問。「空港(または駅)での閣僚送迎等」が1万5000円、「会場における送迎等」が4万円、「エレベーター手動」が1万5000円となっていた。会場送迎係は8人を雇い32万円が計上されていた。
 内閣府の山本信一郎官房長は、一般競争入札で年間の請負業者を決めており、総額として最も安かった業者が落札していると説明。入札は「トータルの額で判断している」としながらも、単価については「高い、という感がある」と認めた。「エレベーター手動」は「05年度から項目として削除した」とした。

問題は節約の話ではない。閣僚が出席するから、エレベーター係をつけるのはいい。しかし時給600円の時代に、それだけのために一万五千円とは何事か。職務に専念するためなのか分からないが、これを判断した部署の考え方がおかしい。熟考しての判断なら、常識を疑い、軽く考えての判断ならば彼らの価値観を疑う。お偉いさんには失礼があってはいけないという特別視だ。尊重されるのは発言の場においてであって、そこに至るまですべてが尊敬される必要はない。過度に敬意を払いすぎる感覚があるのではないか。上ばかり見て仕事をするからこうなる。
さらにもう一点追加。教育基本法に「不当支配」という語があるが、これについて以前から、政党・組合からの支配のことという理解があったが、文科大臣から蛇足とも思える返答があった。

教育行政、「不当支配にあたらず」 
国会審議で文科相 2006年11月23日00時07分
 伊吹文部科学相は22日の参院教育基本法特別委員会で、政府の教育基本法改正案が、教育は「不当な支配」に服することはないと規定していることについて「国会で決められた法律と違うことを、特定のグループ、団体が行う場合を『不当な支配』と言っている」と語った。一方、法律や政令、大臣告示などは「国民の意思として決められた」ことから、「不当な支配」にあたることはないとの考えを強調した。
 現行の教育基本法は「教育は、不当な支配に服することなく」と規定。政府の改正案も、この表現を踏襲しつつ、「法律の定めるところにより、行われるべきだ」との規定が追加された。
 これまで教職員組合などは「不当な支配」の規定を、教育行政による教育現場への「介入」を阻止する「盾」と位置づけてきた。また、9月の東京地裁判決では、国の学習指導要領に基づき国旗掲揚・国歌斉唱などを強要する都教委の通達や処分が「不当な支配」にあたると判断された。
 しかし、伊吹氏は、政府案の規定は、教育に対する「政治結社、イズム(主義)を持っている団体の介入を排除する」目的だと説明。むしろ、一部の政党や組合などによる「介入」を念頭に置いていることを示唆した。
 一方、安倍首相は、国旗・国歌について「学校のセレモニーを通じて敬意・尊重の気持ちを育てることは極めて重要だ」と強調。「政治的闘争の一環として国旗掲揚や国歌斉唱が行われないのは問題だ」と批判した。

なるほど、今までの理解が不十分だった。国家による支配こそ、戦争を導いた真犯人であったという反省から「全体の奉仕者」と改めて位置づけた基本法の凄さが分かる。
大臣が如何にも、もったいぶって言う「法による」支配は支配ではないという論理も気に入らない。そう言われると、法治国家だから、文句は言えないという気持ちにさせられる。これについては、下の文章。

 法令だらけの日本教育
日本の学校システムには、法律とそれに伴う政省令が網の目のように張り巡らされています。たとえば、1学級の生徒人数とか、小学校で何を教えるとか、職員会議は校長が主宰すること、というようなことを国が定ます。
 こういうものは、学校マニュアルと言っていいものです。学校マニュアルを法令にした弊害が、日本の学校にあります。柔軟性がないのです。
 学校を運営しているのは公務員たちですから、法令を批判してはいけない立場です。それで、法令でまずいことがあっても、「これでは、うまくいきませんよ」と言う声が上がりません。
 学校も教育委員会も、法令の枠の中でなんとかしようと頑張ります。それで、精神論がはびこります。

 学校システムが法令だらけになったのは歴史的経緯があります。
 戦後、文部省は暫定運営を任されていました。官庁の指揮権には法令の裏づけが必要なので、文部省はなんでもかんでも成文の法律に書きました。戦前、法律なしに勝手に命令する官僚が多かったことの反省でもありました。
 文部省はやがて教育委員会に主要な権限を委譲して、サポート機関となる予定でした。しかしその後の文部省は、権限を委譲せずに教育運営の実権を握りました。  
その運営方法が、今も続いています。日本全国の学校が、お役所みたいになっていきました。

 この“お役所体質”が日本教育の質を落としています。  
不登校、学級崩壊など、いよいよ追い詰められた人たちが現れるまで、問題の所在がわからないのです。  それなのに、教育基本法政府案が、この病気をいっそうひどくさせようとしている。大きな問題点が2点あります。

 まず第一に、〔教育行政〕の中に「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり‥‥‥」としていることである。「法律の定めるところにより」を挿入したら、日本の教育のお役所体質はもっとひどくなるでしょう。現在の病気は、「法律の定めるところ」の蔓延で起こっています。

 次に、〔教育振興基本計画〕そのものの問題である。これは、文科省の教育指揮権をそのまま固定するようなものです。現場との乖離がいっそうひどくなるでしょう。
(転載歓迎 古山明男)

安倍活躍

[2006年11月19日(Sun)]

安倍君がApecでうまくやっているようだ。日越・日中・日韓・日米と会談をこなし、国際的に名を売ったらしい。アオザイがよく似合う。首相になった途端、今までの物言いに封をし、側近には言いたい事をしゃべらせている。おばかな坊ちゃんかと思いきや、国際的に支持を得て、国内の事は問題にさせない体制を作っておいて、これから国内向けにはエグイ仕掛けを考えているに違いない。教育基本法しかり、防衛庁の昇格然り、憲法改定然りである。国の言うことを聞く国民作りが始まる。いまでも十分従順であるのに・・。
国際的な圧力を期待できないとなると、我々保守勢力は頼りが無くなる。郵政民営化の時のように、守旧派扱いされるのがおちだ。さらに形勢が悪い事には沖縄で糸数さんが負けた。これで、勝っていれば安倍にとって逆風が吹くかと期待していたのだが・・・。教育基本法を強行突破した反省はする必要がなくなったと言えるだろう。
結局日本は市民を作る事はできなかったのだなあと、茫然自失。遺族会のように、臥薪嘗胆五十年を持続する長い日程が必要だ。彼らは決してあきらめる事なく、待遇改善を勝ち取ってきた。死んだ者を盾に取るという卑怯な人々ではあるが、こうしてまた、戦争のできる国できてさぞうれしい事であろう。
彼らの轍に習って、我々も一度負けて敗者復活を目指そうか?残念だが、遺族会に認められた自由は我々にはない。民主主義を悪用して成り上がった連中は、自分の時世には民主を認めない。ちょうど、いま閣僚の原爆を持つべきと騒ぐ中川・麻生には、言論の自由があるのだからと言って自由に論議させながら、保持に決まったら破棄の言論の自由は「いかがなものか?」と言うに決まっている。
ナチスと同じだから安倍はファシストだと言う。国民が小官僚になって、命令を遵守するばかりで自分で判断する必要のない政治体制を味わうとするか。下部で判断すると間違えるから上部に任せろ、判断はこちらですると言っている人間を支持する人はいったい何なのだ。

愛国心のうさん臭さを表す例が一つ。これにはなんとも応えないでしょう。黙殺が一番と言う事を安倍君は知っている。いじめられるほうが悪いとは言えないから、黙ってみぬふりをする非常なクラスメイトを想起せよ。日本の首相には、いじめ問題に無関心。自分で率先しているのだから・・。

"愛国心"とは、こんな卑劣な"心"なのでしょうか。「教育基本法」改正案について、札幌の中学生が安倍総理に、「反対の声明文」を送ったところ、「匿名の大人」から「抗議文」が届きました。15歳の"自由な意見"に"脅迫"ともとれる批判でした。
(衆院議長)「賛成の諸君の起立を求めます。賛成多数。よって、この法案は可決されました」 自民・公明与党だけの出席で衆議院を通過した「教育基本法」。ポイントのひとつは、初めて文言になる「愛国心」。賛否が分かれる問題です。
この「改正教育基本法」について札幌の中学校では、女子生徒たちが自ら勉強して、「愛国心を国民に強制するものだ」との結論に至りました。そして、この法案に反対する声明文を安倍晋三総理大臣あてにおととい送ったのです。 (女子生徒)「自分の国を大切にというのはいいが、間違った方向に進んでいるんじゃないか」「反対の人はしょうがないと思っている。動かないとこのままですよね」
こう話してくれた中学生。実は、きのうの約束では、普通にインタビューさせてもらう予定でした。なぜ、取材が匿名になったのか。
(抗議のメール)「阿部首相の送った中学生の意見書は何だ?お前ら、学校で何を教えているんだ」 この彼女たちの行動を知った一部の大人が、彼女たちに対する脅迫ともとれるメールを匿名で送りつけてきたのです。 道新11/15

基本法改悪なる2

[2006年11月16日(Thu)]
教育基本法改正案、衆院で可決
 野党は採決を欠席 2006年11月16日13時35分
 安倍政権が今臨時国会の最重要法案と位置づける教育基本法改正案は16日午後の衆院本会議で自民、公明両党などの賛成多数で可決した。同日中に参院へ送られる。民主、共産、社民、国民新の野党4党は15日の衆院教育基本法特別委員会で与党が単独で採決したことに抗議して16日の本会議を欠席した。一部の参考人質疑を除いてすべての国会審議を拒否しており、与野党が正面から激突したまま舞台は参院に移る。

百時間を超える論議をしたから、もう十分だと言い強行採決に踏み切る。どんな論議かと見てみれば、法律を作る人達にお願いしているだけではないか。
”かつて軍国主義がはびこった時代を思い出す人もいるようだが、そうではない事を明確にしていただきたい・・。”
”自分の国を愛するということができて初めて、他国を信頼し、他国を好きになり、友好関係を結んでいくことができる。”
人それぞれ愛国心を考えるのは良い。しかし問題なのは、これからは国家が考えてあげると言っているのだ。なぜ聞こえないのだろう。政府は、彼らの意見を十分尊重してにんまりと笑っているに違いない。彼らは、色々の人々の意見から、彼らに都合の良い意見を取り上げる事ができるからだ。行政は信用できるのか?公聴会はどうだった?文科省の責任逃れはなんだ?

私が最近憂慮しているのは、社会がどんどん個人に対する瑣末な統制を強める方向に動いている点だ。解剖学者の養老孟司はこれを世界の北朝鮮かと言い、哲学者の鷲田清一は幼児化と言った。大人は責任をとれる存在だ。子供は責任をとれない。大人の幼児化が進むと、結果責任を問う以前の予防拘束的な規則がどんどん増え、同時に結果責任の意識が希薄になる。それに呼応して予防拘束的な規制に対する少数意見に対するヒステリックなバッシングも増える。子供の世界にいじめがなくならないのも無理はない。これは危険な兆候である。

これは、今日の道新にのった池田清彦という人のエッセイの結論部分であるが、まことにその通り。以前に中国韓国の校長にすんなり受け入れられたインタビューが日本では教育委員会の顔色を気にして、受けてもらえないと言う話があったが、すでに校長のレベルで責任を持った対応が不可能になっている。校長の幼児化である。それでも彼らは生徒には権威として振る舞う。軍隊だね、まるで。

以前の事だが書き忘れている事があった。11月車検。入車日に99820円、出来上がり日に67000円、計16万円なり。ほんとか?これからは、ディーラーに持っていかない。半年点検もしない。
ところで、MacBook Proは順調に動いている。速い、速い。iBook500MHとは比べ物にならない。二つの仕事を同時に行っても止まる事がない。しかし、Latexが動かない。インストールしたばかりで、すぐアンインストールしてしまった。どうしてかは分からない。

基本法改悪なる

[2006年11月15日(Wed)]
15日夕、衆院の同法特別委員会で自民、公明両党などの賛成で可決された。民主、共産、社民、国民新の野党4党は「審議は尽くされていない」として採決を欠席、国会の全審議を拒否する方針を確認した。与党は16日の衆院本会議で可決し、参院に送付する構え。ただ、会期末まで1カ月しかなく、成立には1週間程度の会期延長が不可避だとの見方が与党内で強まっている。

ついに来ました。特別委員会とはいえ、あっさりと「愛国心」の国とは何かの論議も深まらないまま。これが通ったら、具体的に出てくるそうです。従順な「法治」主義者にとっては、これでも法なのでしょうね。敷地内禁煙賛同者も、ルールを守らなくてはと言うのでしょう。さっそくNHKでは、愛国心の教え方を工夫している人たちが取材されていました。てめえの頭で考えろよ!読み終わったばかりの「Death Note」にも、『もし神がいて、神の教示があったとしても、私は一考し、それが正しいか正しくないかは自分で決めます』とあるじゃねえか。漫画に教えられる日本人は何者なんだ?
こうなっては無視し続けるか、廃案を目指すか、どちらにしても勝ち目はない。日本人全体が、戦後六十年を退化と考えているのだから。革命を恐れる気持ちが、今わかった。雪崩を打つように変化が押し寄せるだろう。どこまで耐えることができるのか。思えば、好き勝手を言っても良い権利は憲法が保障し、個人の自由を大切にすることは基本法が与えてくれた。彼らは、それを十二分に活用し、今日やっと革命が成就した。これからは、このような革命が起きないように自由を公共の福祉の名のもとに制限することができる。いや、公共という隠れみのさえ必要なくなった。国家を作ってきたのは我々だったが、我々が国家に作り出されることになるのだ。もう、建前としての法さえなくなってしまった。これからは、建前の面でもなんの遠慮もいるものか。なんのことはない、私たち日本人はワイマールの轍を踏んだのだ。笑えない。三十年前に同僚と話をしたとき、いつでも日本は復古できると言うと笑われたが、私が正しいことが証明されてうれしくない。^_*。
国の権威が高まれば、いま話題の未履修問題などが再び起これば、卒業延期という強硬な方針で来るだろう。もとから断たなきゃだめ、といっているのにもかかわらずである。なぜなら一部の生徒が不利になったとしても建前を強行することが長い目で見れば、権威を高めることになるのは明らかだからだ。あえて苦渋の選択をした、政府に賛辞が送られることだろう。そしてその責任は現場の教師ということ。すれば、生徒のためなどと余計なことを考えず、ひたすらお上の言う通り動くのが一番。考えさせるから間違いは起こる。判断させなければいいのだ。大事なことは全部国家が考えるから、下々のものはただ個人の幸福だけを考え、いざというときには命を投げ出してくれればいい。いったいこの国で、一番上にいて人に命令を下す者が責任をとったことがあるのか?呆れるね・・・・・・・・・・・・・・・。

AMERICAは偉大なり

[2006年11月12日(Sun)]

アメリカで中間選挙が終わった。上院は民主党の圧勝、下院でも51:49で過半数を獲得した。ブッシュは負けを認め、ラムズフェルド国防長官を更迭した。テロに対する戦争を支持したのも、ブッシュを否定したのも同じアメリカ人であるとは到底思えない。日本人ならありうるのだろうか。バランス感覚の話を聞かされることが多いが、それを目の辺りにしたのは初めてである。やはり、アメリカは偉大なのか?

2006年11月02日10時55分
ブッシュ大統領、副大統領と国防長官の続投明言
 ブッシュ米大統領は1日、複数の通信社とのインタビューで、チェイニー副大統領とラムズフェルド国防長官の2人について、自らの任期(09年1月)までの続投を考えていると明言した。ブッシュ政権の中でも、泥沼のイラク問題を招いた責任者として最も不人気な2人は、7日投票の中間選挙で野党民主党の標的になっている。大統領の発言が及ぼす影響が注目される。

2006年11月05日23時14分
フセイン元大統領に死刑判決 イラク高等法廷
 イラクのサダム・フセイン元大統領(69)ら旧政権幹部を裁くイラク高等法廷は5日、82年のシーア派村民大量殺害事件で、フセイン被告に求刑通り死刑の判決を言い渡した。「人道に対する罪」を犯したと認め、絞首刑とした。米国などによるイラク戦争でフセイン政権が崩壊してから3年半。元大統領は二つの事件で起訴されているが、判決は初めて。ただ、終身刑以上の判決は控訴院で審査され、被告側による再審請求もできるため、判決の確定、刑の執行は先になる。

2006年11月08日13時17分
 「ブッシュ勝利の女神」も落選報道 大統領「側近」苦戦
 7日に投開票の行われた米中間選挙では、ブッシュ大統領の不人気のあおりで、大統領「側近」の共和党候補の苦戦が目立った。
 フロリダ州の上院選では、共和党のキャサリン・ハリス候補が落選と早々と報じられた。州務長官だった00年、集計をめぐる大統領選の混乱をブッシュ候補に有利な形で収め、共和党陣営から「勝利の女神」ともてはやされた。02年の下院選で大勝して上院を目指したが、逆風で民主党現職に歯が立たなかった。  

2006年11月10日13時13分
最後の議席は元海軍長官 イラク戦反対、民主に転身
 米中間選挙は9日、上院(定数100)で最後の1議席となっていた接戦のバージニア州で民主党新顔のジム・ウェッブ候補(60)が当選した。民主党は同党に近い無所属の2議席を合わせて計51議席となり、上下院で多数派となった。両院の主導権を民主党が握るのは94年以来、12年ぶりのことだ。歴史的な敗北を喫したブッシュ政権は、超党派の連携で苦境を切り抜けようとしている。

2006年11月09日21時42分
民主、上院も過半数へ 米中間選挙
 米中間選挙の開票作業は8日も続き、米主要メディアによると、上院で接戦を繰り広げていたモンタナ州で、民主党新顔のジョン・テスター候補が当選を確実にした。最後の1議席となったバージニア州について、AP通信など複数のメディアは同日夜、民主党新顔のジム・ウェッブ候補が集計の再点検で、共和党現職のジョージ・アレン候補を上回ったと報じた。アレン氏が9日夜にも敗北を表明すると伝えており、94年以来12年ぶりに民主党が上下院で過半数を得る見通しとなった。  
上院は非改選を合わせて共和党49、民主党51(民主党系無所属2を含む)となり、民主党が上院でも過半数を確保、94年以来12年ぶりに上下両院が逆転する。民主党が過半数をとった下院(定数435)では、9日朝までに共和党196、民主党229となっている。

2006年11月09日01時04分
米国初のイスラム教徒下院議員 ミネソタ5区で当選
 米下院選ミネソタ5区で、イスラム教徒のキース・エリソン氏(民主)がイラクからの米軍の即時撤退などを訴えて当選した。イスラム教徒の連邦議員は米国史上初めてという。01年の米同時多発テロ後、肩身の狭い思いを余儀なくされた米国在住のイスラム教徒の間で朗報として受け止められている。

2006年11月09日10時40分
ラムズフェルド氏辞任、イラクも速報 議員らは歓迎  
 イラクの地元テレビは、定時ニューストップで辞任を報じた。すでに夜間外出禁止令の時間帯だったため、地元の反応や解説はほとんどなく、事実関係だけを伝えたり、米国派遣の特派員の報告を流したりした。
 テレビ以外にも、スンニ派のイスラム宗教者委員会の公式ホームページが即座に辞任をトップで掲載するなど、関心の高さを示した。
 イラク政府のダッバグ報道官はロイター通信に「これは米国の内政問題だ。我々が交渉しているのは一個人ではなく政府であり、政府との合意に基づいて行動している」と対米関係の基本政策に変更はないことを強調。ただ、ラムズフェルド氏が「イラクは十分うまくいっていない」と認めた点については「治安の点で十分進展していないのはその通りで、同感だ。もっと(米国との)協調が必要だ」と語った。

昨日のNHKBSで、「ワシントンの奪還」と題するドキュメンタリーが放送された。湾岸戦争に参加した元海軍大佐をリーダーに、ベトナム戦争からイラク戦争までさまざまな戦争に参加した経験を持つ帰還兵たちが「Band Of Brothers」というグループを今年2月結成。”国のために命を懸けて戦い、生還したが、泥沼化するイラク戦争に対して疑問を持ち、一刻も早くイラク戦争に決着をつけなければならない”と呼びかける。
十分しか見なかったのが残念だったが、 二人を覚えている。一人は、メキシコからの移民で、大義のために人々に耐乏を求める政治にノーを言う人。彼の娘の子供が障害児だが、戦費優先のため生活保障が切り捨てられ、介護を受けられなくなる。こういう人たちこそ国家が面倒を見るべきではないかと、切実である。しかしその彼も運動資金が続かず、選挙運動を断念する。
もう一人は、マーサという人。この人も10万票対9万票と惜敗する。最後まで、共和党の対立候補に遅れをとっていた。公開討論の席でイエスかノーだけで答える場面がある。「星条旗を燃やすことは違憲ですか?」とい問いに彼は「ノー」、違憲ではない=認めると言ってしまう。素人である。どうやってはっきりさせないために言い逃れるか、それが度量を示すとされる日本では信じられない話である。これを言ったら、ここまで支持してくれた人のうち、離れる人がかなり出るだろうという状況で、である。伝えるマスコミは、集まった人が「これで心は決まりました。××候補に入れます」と言う様子を連続4人登場させるという不公平ぶり。その返事を聞いたときには『それを言っちゃあおしまいよ』と思ったが、開票日には意外の接戦。 マスコミのミスリードにもかかわらず、大きな失言(?)にもかかわらず、彼は支持されていた。アメリカという国は大変な国である。
さらに、民意を受けてブッシュが早速動き出したことも、ちょっとした驚き。

教育基本法が危ない。タウンミーティングの失態にもかかわらず、安倍君は「やらせ質問と改正は無関係」と言い張るつもりらしい。公聴会は形だけだとは思っていても、ここまで誘導されていた。すごいお金をかけて、形だけで済ませるものか。これが税金の無駄遣いでなくて何だろう。監督官庁自らの無駄遣いは誰が審査するのか。再生会議では教育委員会の見直しが決まったそうだが、委員会が仲介に入るとごまかされやすいので、文部省が学校を直轄経営したいということだろう。
しかし、10人に二人は指名された責任を果たしたわけだが、この連中は国に対して責任を果たしたわけなのだ。これが愛国心。ちなみに、国会議員の保坂氏は「愛国心でいうところの『国』とは何か」と質問したところ、『成立したら発表する』と言われたのだそうな。昔だって「東条政府」を愛せ、と言われたわけでもなかろうが。

 
あきれつつ、腹が立つ。
 政府主催のタウンミーティングで、やらせ質問があった。テーマは教育改革だ。こともあろうに、子どもの教育を担う文部科学省が「やらせ」に深くかかわっていた。
 その会合は青森県八戸市で9月に開かれた。当時の小坂憲次文部科学相ら約400人が参加した。質問した10人のうち6人は政府側から事前に頼まれていた。
 うち2人は、政府が国会に提出している教育基本法の改正案に賛成意見を述べるよう、文科省から質問案を渡されていた。改正案は安倍首相が最重要課題に挙げる法案だ。質問者は文案に沿って、時代に応じて法改正が必要なことや、家庭教育の大切さを口にした。
 質問した人たちは「せりふの棒読みは避けて」「自分の意見を言っている、という感じで」と指導されていた。当日は会場の担当者が受付から後を追っていき、座席の位置を確認する手順になっていた。その人たちが間違いなく司会者から指名されるようにするためだ。
 いったい、これは何なのだ。  
タウンミーティングは、小泉首相が01年の就任直後から「国民との対話」を掲げて始めた。しょせん、政府の政策宣伝の場にすぎない。そんな冷めた見方も多いかもしれない。
 しかし、開催費用は昨年度、1カ所につき約1100万円にのぼる。国民にとっては、閣僚に直接、質問して意見を言える貴重な機会だ。多額の税金を投じて、民意を聞くふりをするのでは困る。
 タウンミーティングは小泉政権の5年余りで174回開かれた。八戸市のほかでも、「やらせ」があったに違いない。そんな疑念がふくらむ。
 塩崎官房長官は過去にさかのぼって「やらせ」の有無を徹底的に調べ直さなければならない。
 もう一つ、聞き逃せないことがある。タウンミーティングを担当する内閣府は「質問案を示さずに発言を依頼することはあった」と認めたうえで、「議論の活発化」を理由に挙げている。
 しかし、これは政府への反対意見を減らす狙いとしか思えない。参加者の意見に真剣に耳を傾けようという謙虚な姿勢とはほど遠い。
 明らかに民意をなめている。
 「やらせ」が文科省から内閣府を経由して地元の教育委員会への要請だった事実も見逃せない。改めて文科省と教育委員会の上意下達ぶりが明らかになった。これでは教育委員会の無用論が強まっても当然だろう。
 いま国会では教育基本法の改正論議が大詰めを迎えている。政府の改正案は教育の目標として「個人の価値を尊重して……、自主及び自律の精神を養う……」ことも挙げている。
 「やらせ」を頼んだ文科省、引き受けた地元の教委。そんな人たちが法改正を進めたり、後押ししたりしていると思うと、なんとも暗い気持ちになる。

退職校長の胸の内

[2006年11月8日(Wed)]

講演会があったので聞く。名前は明かせないが、今年退職の某校長。
話は二点。一つ目は、現在の世相は教員はダメだ、だから改革だということ。二つ目は、専門家は発言権がなく、素人が教育を論議しているという現在の状況。
一つ目については、どこを見て「教員はダメ」と言っているのかがわからず、話が通じない。まあ、そう思うのは自由だろうが、教育に金をかけないで質を上げるには法で縛るのが合理的。免許更新もダメな教員を切るためというよりも、教員も競争をしてもっと質を向上して欲しいという狙いがあるそうだ。確かにそういう面もある。予備校ではビデオ学習などの昔の睡眠学習並の詐欺をやっているところもあるらしいが、高校でもあるという。教えきる自信がないか、面倒なのか?自分の学校の生徒に合わせた教材を用意し、間違えやすいところを注意しながら進めるのも教えることの面白さではないか。顔をさらして教える以上はもう少し自信を持ってもらいたい。
二つ目は最近の世相の反映か?思い切ったこと、たとえば国鉄の合理化などは組合の顔色を窺っていてはやり切れない、というのと同じように思っているのだろう。それはいい。が、そうすると教育は、言われた通りやればいい奴隷の仕事。教育基本法で、否定しているのがそれだ。だから悲惨な戦争の反省として、判断できる個人を育てることを主題にしたのではなかったか。上を見て判断する人間ばかりでは国は立ち行かない。個人を成長させることが必要なのだ。そうだけれども、教員は言うことを聞くべきなのか?それも不思議だ。というか、そんなことを本気で言うのは愚か者だけだろう。ね、安倍ちゃん。

発言依頼「工夫を逸脱」
 青森のTM、内閣府認める
2006年11月08日00時26分
 青森県八戸市で開かれた政府主催の教育改革タウンミーティング(TM)で、教育基本法改正に賛成の立場からの発言が3人に事前依頼されていた問題で、内閣府の幸田徳之参事官が7日記者会見し、「工夫の範囲を逸脱していた。他の参加者にも失礼だった」と問題を認め、陳謝した。八戸市教委は同日、内閣府担当者からの電子メールの内容を公表した
。  幸田参事官によると、内閣府の担当者は、文部科学省が作成した発言案を「深く考えずに地元に連絡した」という。過去のTMでも同様の手法で発言者を立てていなかったか、調査するという。
 発言案をもとに依頼した3人のほかにも、案を示さずに4人に発言を依頼。この4人も当日、発言していた。会場からの発言を促すため、案を示さずに発言依頼することは他のTMでもしているといい、「運営上の工夫の範囲内」だと説明した。ただ、発言案を示さなかった人たちに対しても「お願いされたとは言わずに」などの注意事項は伝えていたという。  
一方、八戸市教委も同日記者会見し、TM開催後に就任した松山隆豊教育長が「本来ならあってはならないと思う。市教委として主体性のない判断だった」と述べた。  
東森直人教育政策課長は、内閣府が発言予定者に質問案を示すよう依頼したことについて「正直、お国もしようがないな、そこまでしなくてもタウンミーティングは成り立つだろうにと思った」と振り返った。  
市教委が公開した、内閣府担当者からの8月30日のメールでは、文科省が作成した発言案を添付したうえで、「このような趣旨で、もう少し自分の言葉を足したような感じで発言していただきたいとのことです」と記していた。
 また同月31日のメールでは、内閣府側が「文科省依頼分(3名)は必ず当たります。それ以前にお願いした4名についても、たぶん当たります。(特に学生は当たります)」と記述。質問を依頼した人を優先的に指名する考えを示していた。
 内閣府は「メールが残っていない」として、公表していなかった。

おかしいのは、八戸市教委が「本来あってはならないと思う。市教委として主体性のない判断だった」と答えていることだ。本来持っていない主体性の話をしている。まるで(主体性が)あるかのような話し方ではないか。いわゆる『公共の嘘』と言うヤツだ。 この教育長は恥を知らないのだろう。または、自分が建前を語ることによって本家の悪をかばっているか?どちらにしても、田舎芝居だ。しかしこれが日本の縮図。言えばいい「国のやることだから正義を信じた。おかしいとは思わなかった」とね。
ところでこれも、専門家は発言する権利がなかったのだろうね。日本は現場を信用しないからね。今回も、行政は正しいことをやっているのに、現場が正義を理解できないからこのような混乱が起きる、位にしか思っていないのだろう。現場を信用しないから、法で縛ろうとする。ますますそうなるだろう。講演を聞き、暗澹たる気持ちになった。

未履修はどうする?

[2006年11月6日(Mon)]

必修科目未履修問題は最終的に全国で540校、8万3743人にのぼることが判明した。高校生の一割が問題を持っていたことになる。これをけしからん無責任な教員のせいだと考えるか、だから教員任せ・地方任せにはできず、文部省が直々のお出ましが必要と考えるのか。ここまで放置していた当事者の文部省が言うかね?ここまで現実を知らず、今なおなぜ未履修が起こったのかを理解していない文部省が何をするのか、不思議だね。

二件目の自殺があったようだ。国旗国歌問題で広島の一人の高校長の自殺を大騒ぎしたあの野中官房長官はいないが、きっとこれは知らぬふりでしょう。みんなが何にだまされているのか、火を見るより明らかといえる。政府の言うことを真に受けていてはダメだ。国民一人一人が理解し、判断することが大切で、それが要請されている。これは基本法についても言えること。みんなしっかりしてくれよ。

愛媛・新居浜西高校長が自殺 履修問題苦に?
2006年11月06日15時32分
 6日午前7時半ごろ、愛媛県松前町北黒田、県立新居浜西高校長の政岡博さん(60)宅で、政岡さんが首をつって死亡しているのが見つかった。県警は自殺とみている。
 同校によると、政岡さんは必修科目の世界史をめぐって県教委に履修漏れに当たらないかを相談しており、「生徒が無事卒業できるか心配だ」と教頭らに話していたという。

確認しておこう。いま問題なのは「ルールを守るべき」と言うことではなく、『強制』するほど「ルールは適正だったか」と言うことである。
敷地内喫煙にしても然り。シートベルト着用にしてもso。

PTAの親睦会

[2006年11月5日(Sun)]

昼のスポーツ大会には出ず。フロアカーリングは面白そう(優劣の差がつきにくい?)だったが、その後の親睦会にだけ出る。先生の多いテーブルだったが、面白い先生方が多くて誠意を感じる。最初に校長から、お詫びがあったのはまいった。気にすることないですよといいたい気持ち。不利益のためにやったことだとは誰も思うまい。受験にシフトしたことが高校の功名心のなせる技であるかの言が横行している。何をみているのか。そうさせているのは社会であり、教育に競争をもたらそうとしてる現政府ではないのか。
鹿追高校は修学旅行にカナダでホームステイしているそうだ。治安はいいのだが、子供をおいて夫婦で外出することを禁ずる法律がある、と聞いた。以前にニュージーランドやアメリカの教室では口答えや騒ぐ子を教室から出すということを聞いたこともある。そのときは、日本標準はいつの間にか世界最先端になっているのだなと感心した覚えがあるが、今度もルールを法律にすることに抵抗がある。やり過ぎだ、民間に任せろと言いたいが、日本にもあってもおかしくない法律ではある。
ところで、マックブックプロの開封から設置までを公開。 これは普通の包装だと思う。

なぜか足が写ってしまう。iPhotoでは、トリミングができないので今まではグラフィックコンバーターを使っていたのだが。上に乗っかっているのは、今までのiBook。それほど大きさが変わっていないことに驚く。印象は、ずいぶん大きいな、であるが、比べてみると大した差はない。

スピーカーが大きいの目につく。でも、音が大きくてはっきりしているのは可。いまも、iTunesでラジヲを聞きながら書いているが快調。変えてよかった。メモリーも100MBしか使っていない。メモリーを食うのはブラウザで画面を増やしたときではないか。QuikTimeも気になるが・・・。

ぼやけているが、1GBのメモリーと2.16GHのCoreduoが分かる。
日曜の9時半に「ワン・ピース」をやっている。ゴールデンタイムから押しのけられたのか。彼らの戦いは、現実の整合性に嫌気がさした庶民の気持ちの反映ではないかと、フト思う。息苦しさを払いのけるのが、革命だとすれば、今おこっていることは革命ではないのだ。ますます息苦しい世の中を作ろうとしているのだから・・・。

教育基本法改正 エリート校あえて反対
評価で締め付け 委縮する教員
東京新聞11/3 

安倍政権の最大課題である教育基本法「改正」は地方公聴会の日程も決まり、成立に向け着々と歩みを進めている。現場、とりわけ公立校の校長、教職員の大半が沈黙する中、私立進学校の校長二人が「こちら特報部」の取材に対し、実名で異議を申し立てた。果たして、こうした声が国会審議で十分反映されてきたのか。広島学院の李聖一、麻布学園の氷上信廣両校長に話を聞いた。 (片山夏子)  
国会での攻防の傍らで、学校現場では自殺が相次いでいる。いじめに遭った生徒のみならず、教員たちもだ。「必修」問題で高校にも激震が走った。もはや学校は「戦場」のようだ。  
この現実について、麻布学園の氷上氏は「学力は子どもの可能性の一つ。勉強のできない子が、行き場を失い自殺を図ったり、不登校になる気持ちはまともだと思う。その気持ちに寄り添えない教育現場の方がおかしい」と切り出した。  「改正」派はこうした荒廃を「少年犯罪の増加」で語ったり、「規範意識の低下」に原因を求め、それを改正の根拠としてきた。
 しかし、広島学院の李氏はこう反論する。「少年犯罪は本当に増加しているのか。規範意識の低下や犯罪も子どもたちが大切にされてこなかったつけだ。それに教育だけで変わるものではない。社会情勢や家庭崩壊など根深い背景がある」  「改正」にはシステムと理念の両面がある。柱は基本法一〇条だ。現行の「教育は(中略)国民全体に対し直接に責任を負って行われる」が、改正後は「国と地方公共団体の適切な役割分担」と国の介入を認める形に転換される。  李氏は「現行法は教育の使命は人格形成という崇高な理念を掲げ、国家権力も政治権力も介入させないと誓った。だが、改定後はいくらでも国が介入できるようになる」と指摘する。

■人格の完成がないがしろに
 そんな「使命」が教育の現在の荒廃を招いた、という逆説も強調される。しかし、李氏は「むしろ、基本法の理念を追求しなかったことが現状につながっている」と分析している。  「六十年前、日本は焦土と化した。そこで、崇高な理念を掲げた。だが、次第に経済界の要求が先行し、人格の完成という目標はないがしろにされた」  
理念の変ぼうと、現場教師への上からの指導強化は教師自身をも追い込んでいると氷上氏は懸念する。

■教職の魅力が失われていく
 「現場が悪いとたたかれ、評価で締め付けられ、教員は委縮する一方。いじめだ、少年犯罪だ、さあ解決策を出せと言われれば、上からのマニュアルに従うしかない。生徒と苦しみ悩む自由すら失われていく」  その結果、氷上氏は「生徒の人間的な成長の手助けをするという教育本来の目的ができなくなり、教職の魅力が失われる。魅力がないのになり手が来るのだろうか」と素朴に問う。「これは進学校か否か、ということにはかかわらない。教育界全体の危機だ」  李氏は自身の危機感をこう表現した。「どのような拘束力を持って国が介入してくるのか。心情の自由にも抵触してくるのではないか。その程度によっては、私は教職を辞めなくてはいけないかもしれない」
 「改正」の具体的な中身は端的にいえば、学校への市場原理の導入と「愛国心」や「徳目」の強調といった二本柱がある。
 前者については、両校ともエリート校だ。さらに私学関係者の中には、改正案に「私立学校」の項目が新設されたことを「私立も公の性格が認められた。私学への助成は根拠を得た」と喜ぶ声があるという。

■私立の独自性なくす恐れも
 だが、氷上氏は「国の決めた指導に沿っているか、全国学力調査で結果を出しているかで学校が序列化され、助成金も決まるのだろう。そうなれば、私立は独自性という存立根拠を失う」と先行きを懸念する。
 「これまで公立は私立に比べて市場競争が少なかった分、多様な子どもたちの居場所があった。市場競争にさらされた公立校は事実上崩壊し、私立は生徒確保のため数字を上げるのに必死になる。学力偏重が増すことで、子どもたちは行き場を失っていく。教育の多様性より、すべてが数字に置き換えられていく。ますます、教育も子どもたちも荒廃するだけではないか」
 さらに「愛国心」や「徳目」については、両氏とも強い反発を隠さない。
 李氏は愛国心について、「愛することは無意識なもの。愛せと言われて愛せるものではない」と話す。
 「徳目」については「親孝行しなさい」と言われたからといって、生徒が心から従うことはないという。「自分の体験の中から学んでいくこと。教え込んで分かるものではない。そんなことをしても生徒は聞く耳を持たないだろう」
 「態度を養う」という表現も乱立しているが、「態度チェックが行われるのだろうが、それに意味があるのか。無理やり言うことを聞かせようとしたら、それはもう教育ではない」
 氷上氏も「国や社会のために『役立つ』人をつくる狙いで、外から強制することでは子どもには何も響かない。大人の言うことを聞かなくなるだけ。教育で本来、最も大切な人間性は育たない」と言い切る。
 「だいたい、国を愛せという前に愛するに足る国なのか、誇りに思える国なのか、を問わずして押しつけても無意味ではないか」
 では、なぜいま、愛国心教育が持ち出されてきたのだろうか。それは「荒廃」への救済策になるのか。
 その点について、李氏はこう語る。「個人を大切にしろ、といった戦後教育の反動が出ているのだろう。でも、これまで本当に個人を大切にしてきたか。してこなかったからこそ、少年犯罪や規範意識の低下が起きているのではないか」
 二人はこれまで教育基本法「改正」への疑問を保護者や生徒たちにも訴えてきた。共感する教育者は少なくない。しかし、現実の政治ではその流れは加速こそすれ、弱まらない。

■生徒指導で余裕ない公立  
 氷上氏は「国家管理が一気に強まるという危機感は一般的にはある。が、公立では物言えぬ雰囲気で、私立では数字を上げるのにきゅうきゅうとしている。漠然と不安を感じていても声が上がってこない」とみる。
 李氏も知り合いの公立校の校長に「おまえのところは上ずみ(エリート)だけだからいいよな」としばしば言われるという。その後に「評価や締め付けが厳しくなり、いまは生徒指導で公立は手いっぱいだ」といった愚痴が続く。そんな状況をどうするか。その答えは李氏にもみつからない。ただ、こう確信する。
 「基本法や憲法は六十年たった現在、読んでも新しい。こんな平和憲法を持っているところはない。憲法や基本法に書いてあることを実現できたら、これほど新鮮なことはない」
 「改正」の理由に「戦後教育は失敗」という言葉を聞く。李氏はそれをこう解釈している。「日本はせっかく上った高みから、現状に合わせて理念を引きずり降ろしてしまうのか」

エリート校だけにこういうことを言う権利がある訳ではない。愛国心が強制されればそれは意味を持つようになる。やがて強制は当たり前になり、自然な気持ちで国を愛するようになるのはわかりきったことだ。彼のように「外から強制することでは子どもには何も響かない」とは言えないのだ。われわれ日本人はそうなってきた。安保も通ってしまえば、追認する。何でもかんでも、追認してきたではないか。だから為政者は”通してしまえばこちらのもの”と考えている。その通りというのが現在の日本。敷地内喫煙でも、一度決まったらわれわれには従う以外の選択肢は残されていなかった。学習指導要領とやらも、決まった上は守るのが教員の責任ということになってしまった。この前行った市役所でも、嫌みでタバコは吸えますかと言ったところで嫌みになるのは責任のない下級武士。同族に苦言を呈しても意味はなかった。
守らなくてもよいというのではない、守らないことを犯罪としてひとくくりにできるのかということだ。具体的には、学習指導要領は大綱的なものとしてとらえるので十分ではないか?多様を認めるということ、特色を認めるということはそういうことだ。
地方の学校にしても、功名心だけではない。実際にどうでもよい指導、生徒の自主性に任せると行って何もしない指導は地方で批判され、ラサールに人材を取られたではないか。昔の柏葉高校は講習をせず、理想的なテストをおこなってきた。道新にたたかれたのは十年ほど前。地方に活を入れられ立ち直ってきた。(今は、少しやり過ぎだと思うが・・・それこそ、一部の教員の功名心にたぶらかされ、話し合いもできない状態だ。)基本的にはその後の反省は功名心のなせる技ではなく、地道な「地元との和解」ではなかったか。どこにも国家の出る番はなく、道新と言う地方からの批判とそれに応えようとする高校側があるだけ。国家の介在は必要なかった。(ひょっとしたら教育委員会は関与したかもしれぬが・・・)

秋の叙勲があった。いつもはちゃんとした話ができる人たちが、なぜ天皇からの勲章を受けることができるのか不思議に思っている。
賞金が出るらしいので背に腹は代えられぬということかと考えていたが、今日はちょっと違う。彼らは、天皇を上にまします畏れ多いものと考えているのはなく、単なる文化上の存在としかみていないのではないかということだ。ならば、天皇に頭を下げることは文化的な伝統に頭を下げることすぎない。能力の面で上のものが下のものに頭を下げることも気にはならないのだろう。
それでもちょっと許せない気持ちだが。やはり、選定したものと表彰するものが違うというのはおかしい。選定したものを代表すると考えるといいのか。それなら、その所属する代表が彼の責任をもって表彰すべきだ。まだ、高体連の方がよい。会長名の表彰状が出るが、それを手渡すのは彼の代行をするものだから。天皇は代行なのか。だから可哀想なのだ。ただの人形でしかない。いや、だからこそ利用できる。最近の天皇のように意志を持って発言する人間は天皇にはふさわしくないと考えているのではいだろうか。

マック着

[2006年11月3日(Fri)]

昨日、整備済みマックブックプロが到着。茶色の段ボールではなく、ちゃんとした飾り箱に入っていた。アップルケアは段ボールだったけど。
今日一日かけて、三つにパーティションを切った(Data15GB,Windows15GB,OSX45GB)。三回インストールのやり直し。起動ディスクはパーティション不可能なので、クリーンインストールをした。インストールする前に、パーティションを切る。
後は、メールやiチューンズの中身を転送すること。iWebは使えるかもしれない。要研究。
おとつい、デスノート4巻を読破。映画より面白いか?昨日から今日にかけて、沈黙の艦隊を読み切る。好戦的かと思っていたが、ある意味九条万歳。 <追記>「われわれ人類の大多数は、有史以来戦争に反対しているのです」という海江田艦長の言葉がそれを示している。しかしそれを民主的に実行しなければならなかったはずだ。自分が力の覇者であることをその存在の根本に持っている限り、独裁者ではないかというデマゴーグはデマではない。民主主義とは、自分の言葉に自分が縛られることをよしとする姿勢である。ほかの誰に縛られるのでもない、自分たちによってであるということが要諦だ。そのためには、必ず誰かの言葉ではないことが明らかでなければならぬ。彼の方法は間違っていた。まるで独裁者であるかのような、自分だけが見えているかのような行動は、所詮独裁者のそれでしかない。
ベネットの決断もアメリカは受け入れないであろうから、うさんくさい。

どちらが妥当なのだ?

[2006年11月2日(Thu)]

補習は50時間まで緩和
藤田さんが発言していた。がっかりした。日頃注目していた人の意見なのでなおさらだ。指導要領が拘束力を持つ理由は「理念をもっている」というのは救いではあるが。NHKで報道されたアンケートで、高校長の9割が指導要領が悪いと考えているという実態はどうなのか。NHKの番組内で、ある元校長は「五日制、地域の保護者の願い」を未履修の遠因としてあげていた。その通り。さらにはゆとり教育によって、学力が下がった生徒が直面しなければならない大学受験は昔と同じように難しいことも挙げておっこう。有名私立や予備校のない地方では、高校が全責任を持っており、進学校でなくとも学校のレベルを下げないためにも、受験体制をとらなければいけない現実を見てほしい。やはり理念に走る学者は駄目なのか。

藤田英典
国際基督教大学
上限七十時間という事実上の決着はやむを得ないと思うが、未履修が複数科目ある学校については、何十時間を超える補習も必要なのではないか。学習指導要領は高校生が学ぶべき理念を示しており、すべて履修するのが本来の姿だ。当初、文部科学省が主張していた「ルールを守り、百四十時間は補習すべき」という主張は、筋が通っている。ルール破りはモラルハザードにつながる。文科省の未履修調査に対し、仮に学校が虚偽報告した場合は厳しい処分を科すべきだ。アンフェアは許されない。 2006/11/2
週五日制導入で授業時間足りず 大手予備校の見方

今回の問題の背景について、大手予備校の担当者は「週五日制の導入で授業時間が足りなくなったことが発端だ。」と分析する。
東大などの難関校に合格するには、膨大な学習時間が必要だ。「多くの教師は、勉強する時間がなくて困っている生徒を何とかしてあげたいと考えるもの。安易に責められない」と話す。
この担当者は学習指導要領の理想と、大学受験の現実とのギャップについても指摘する。覚えるべき知識の量が多い世界史を必修とする指導要領が、数学や理科の勉強に時間を割きたい理系の受験生の重荷になっているという。
理系学部を目指す受験生は「大学入試センター試験の「地理歴史」では、地理を選択するのが一般的。勉強に時間がかかる世界史や日本史は敬遠する。高校もこうした状況を考え理系クラスでは地理を重点的に教えることが多いという。「私が教員なら世界史と偽って地理の授業をしたいくらい、今の高校の学習時間は少ない」と打ち明ける。
また、別の予備校の担当者は、高校が置かれる現状の問題を指摘した。 「学力低下が問題となって以降、進学校は生徒の学力の高さを証明する必要が高まった。その材料として、難関題への進学実績へのこだわりが強まっている」とする。 2006/10/26 朝日新聞
制度のひずみが必修漏れ招いた 高校生
2006/11/1

全国の高校で必修科目の未履修が相次いで発覚、問題になっている。その責任は一方的に学校側に押し付けられているが、大きな疑問が残る。
この問題の根本的な原因は、現行の大学入試制度と、文科省の学習指導要領の間のひずみにあるのではないか。現場の教職員は、生徒の進学希望を実現させたいと思うが故に、受験に必要な別の教科に振り返るなどの苦汁の決断を強いられてきたに違いない。
政府は単位不足の補習を検討しているようだ。だが、さし迫った大学入試への影響というリスクを冒してまで性急な詰め込み授業を行うことになれば、生徒達を苦境に追い込むだけだ。
政府はまた、必修漏れに関与した校長や教育委員会の責任を明確にし、同様の事態が発生しないよう、処分を含めた是正策を検討するというが、現状に目をつぶってきた文科省の責任を棚に上げて、教育現場の処分だけするのはおかしい。
必修漏れをどう補うかより、大学入試と指導要領との間のひずみなど現状の正しい理解が必要なのではないでしょうか。

この意見などは高校生のものとは思えないほど成熟している。19歳の高校生とあったのは何か事情がありそうだった。


先生の規範意識

[2006年10月30日(Mon)]

全国で4万7千百人が、必修科目未履修であることがわかった。
これだけの、違反者を出した責任を伊吹は「先生の規範意識」のせいにする。大臣として、このような指導要領を定めたことを恥ずかしくは思わないらしい。
最近の話だが、ソフトバンクが無料ショートメール、および番号持ち運び制による人気沸騰のために一度に多くのアクセスがあり、消化しきれないという失態があった。 「総務省は30日午前、携帯電話の契約変更業務を2日連続で停止したソフトバンクモバイルの阿多親市(あた・しんいち)専務執行役を呼び、トラブルの原因究明と再発防止策の徹底を求めた。 」
なるほど、国家はこのように叱責を加える。しかし自分のこととなると、責任を教員に転嫁して恥じない。これでなくては文部大臣はつとまらない。さすがだ・・・・。さすがだ・・。言葉がないほどさすがだ。

28日朝日新聞
「法治国家はみんながルールを守ることから社会の秩序が成立っている。ルールを守らない学校を前提に、なし崩しにするのは適当じゃない」伊吹文科相は27日の記者会見で、学習指導要領に基づき、履修すべきだとした。
きちんと履修した生徒との不公平を避けることも理由のひとつだ。もし短縮を認めたら、履修している学校も授業をやめる可能性がある。その上、文科省自身がこれまで「指導要領には法的拘束力がある」と強調してきた経緯を否定することにつながりかねない。
指導要領の「国旗と国歌斉唱」を根拠とする通達などで大量の教員が処分される事例が相次ぐなか、「蟻の一穴」になって文部行政の根底が覆るかも知れない。

大学入試のあり方に問題
加藤幸次上智大教授
建前として指導要領は守らなければならないのだが、実は高校の現場でこうした授業実態が進んでいることは、教育関係者の間では以前から周知のことだった。
最大の問題は大学入試のあり方にある。 今の入試で問われているのは、世界史や日本史といった、限られた領域の知識、それをペーパーテストのみではかっている。だから入試に関係ない科目はやらない方がいいという考え方になる。
これでは幅広い知識をもって実社会のさまざまな問題に取り組む人材は育たない。世界の先進国の中で、こうした入試制度を実施している国はそう多くないことを自覚すべきだ。

指導要領見直しも必要
黒沢惟昭・山梨学院大
必修科目を履修していなかった生徒は便宜的には補習などをするしかないのだが、それはあくまで弥縫策に過ぎない。 問題の根はもっと深いところに或る。長期的には「必修」という形で特定の教科を一律に強制する現在の指導要領のあり方も含めて議論を深めなければならない。
かつては「総合的学習」「ゆとり教育」「学校週五日制」と、世界の流れに合致した教育施策が進んでいたが、今はそれが逆方向に修正されつつある。
授業時間を増やしてガチガチ知識を詰め込むことと、学習指導要領による「必修」の強制とは実は根が同じであり、この機会に見直していく必要がある。

東京新聞27日付け社説の「卒業に不可欠の必修科目は学校教育法に基づく学習指導要領で定められ、法的拘束力がある。」 というのは、文部省のお先棒を担いでいるだけではないか。加藤という人の話は「現実と理想」を混乱していて、問題外。黒沢といういう人の意見は後半の「同根」の話が分からない。ゆとりといって怠けさせるだけでしかなかったのを何か成就したとでも思っているらしい。ガチガチはないだろう。小さな計算や漢字が負担になるのか、それなしで高級な理論を理解できるのか?

日本郵政公社が07年の民営化に向けて3年前からトヨタのかんばん方式を流用(JPSジャパン・ポスト・システム)して能率化を図っているらしい。指導役のトヨタ社員がストップウオッチで郵便物の仕分けの速さを0.1秒単位で測ったり、局員の歩数を数えたりして作業の全工程を見直した。今は全国1200の普通郵便局のうち約千局に取り入れられている。この方式は、そもそも仕事の量を明確にすることで、無駄のない人員配置にすることが狙い。
公社は今春、JPSの導入前に比べ越谷局で33%、全体でも18%ほど生産性が向上し、1467人の余剰人員を生んだとして「トヨタ効果」を強調していた。しかしトヨタから派遣された指導役の社員が視察したところ、現場に浸透していないことが明らかになった。
高橋俊裕・副総裁(元トヨタ常務)らに当てた報告書では「実効果に繋がる動き何一つやっていません」「上辺だけの改善ごっこが氾濫」と厳しい指摘が並ぶ。都内のある職員は「担当者の見回りのときだけ(JPSを)やっているように見せかけている。局長も黙認している」「局長でさえ、JPSがうまくいくと思っていない。下には『やれ』と言うしかなく、上には『やってます』と作文しているのでは」
かんばん方式がどれだけの効果を持つかは知らないが、一分野で成功したことでも企業の土壌を考慮せずに導入が図れるわけがない。元トヨタ常務の固い頭が見えるようだ。導入先の個性を理解・肯定してそこから始めずにうまく行くのか。全否定して、うまく行くのは奴隷相手の時だけだ。文部省聞いているか。おそらくかんばん方式がうまく行ったのは、トップダウンではなかったからだ。工夫することが自分たちの肯定に繋がるというボトムアップも大切なのだ。現場をもっと理解しなくては、教育の場はもっと荒れる事になる、あるいは潜伏した荒れを抱えることになる。

履修漏れ発覚、県立高校長が自殺 
保護者説明会の当日
2006年10月30日22時15分

30日午後4時5分ごろ、茨城県大子町左貫の山林で、同県立佐竹高校(常陸太田市)の高久裕一郎校長(58)がロープで首をつって死亡しているのが見つかった。そばで「先に行きます」などと書かれた遺書が発見され、県警は自殺とみている。同校は26日に必修の2科目で履修漏れが発覚、30日は保護者説明会の開催日だった。大子署が自殺との関連を調べている。
調べによると、高久校長は29日午後2時に在宅が確認されているが、その後行方がわからなくなり、30日朝になっても帰宅しないため、妻(56)が同署に届け出た。県警が上空からヘリコプターで捜索して校長の車を発見、後に遺体を確認した。

とうとう校長が一人自殺した。国旗の件では当時の官房長官が広島の校長の自殺を切っ掛けにして「国旗法制化」を成し遂げたが、今度も校長に責任を押し付けなくとも済むように、文部省が全責任を以て必修を押し付けるか?確かに現場にいれば板挟みにあい、理想通りには行かず管理職は辛い目にあうだろう。現場にいない官僚は何とも感じることはなく済ませることができる。責任を感じることもない。なぜなら、その時は責任はあるかも知れないが、その任務を解かれれば、自分には関係がなくなるからだ。組織ということだ。そうやって日本全体が無責任体系に推移していく。いいのか、日本人。


現場は駄目だ

[2006年10月29日(Sun)]

納内から母が引っ越し。疲れた一日だったが、なんとか終えることが出来た。来週は、転居の手続きに忙しくなりそうだ。
未履修問題はどう展開したのだろうか?
「大変だね」と、手伝いに来た親戚に言われる。この時期に、世界史の授業が出来ると文部省は本気で考えているのだろうか。嘘の屋上屋を重ねる事にならないか。それでも良しなのか?突っつけばいくらでも突っつくことは可能。現場としては、なるべく生徒の負担にならないようあらゆることを考えるだろうから。大学側が、調査書の虚偽記載の恐れ有りとして、再提出を求める気運あり。これは大変だ。
世の中は文部省の味方なのか?東京新聞27日付け社説で「卒業に不可欠の必修科目は学校教育法に基づく学習指導要領で定められ、法的拘束力がある。教育現場の学校や教師がルールを無視した責任は重い。 」という。
君が代伴奏を拒否した件で北海道の人事委員会は「『教職員に対する式での日の丸・君が代の強制は思想・良心の不当な侵害と解される』と指摘。国旗掲揚・国歌斉唱の根拠となる学習指導要領の『日の丸・君が代指導条項』については「法的拘束力は否定せざるを得ない」としたことは適用されないか?
伊吹はNHK番組で、今回の問題に関し

『未履修の生徒だけでなく受験に不必要な勉強をしていた生徒も被害者だ』と強調した。
さらに番組終了後、富山市で共同通信などの取材に応じ『(ルールを守った生徒を)無視し一部のいいかげんな校長のもとにいた生徒(の救済)を論ずるわけにいかない』と指摘。『不公平感が出ないようにしたい。臨時異例の措置として(単位を)認定するには法律的な詰めも必要』
とした。 その上で『気の毒というだけで、情緒的な解決をしたら国家は成り立たない』と安易な救済には慎重な考えも示した。

私が文部大臣なら、この不公平を言い募る連中に油をかけて、アジらせるだろう。本人が守る・守らないの決断をしたわけでもないのに不公平を言う不見識。最も、最近の被害者は私的制裁を国家に求めるようだから、楽観は出来ない。国家が暖かい目で見るのは、何の主張もない一般民間人に限られ、国家に批判的な主張に対しては厳しく当たるという習性がある。理屈は何とでもつけられる。この点から見ると、今回は生徒にはきついか?
しかし文部省の企みについては意見を変える必要を認めない。 「現場は駄目だ」と言いたいのだ。

現場と高み

[2006年10月27日(Fri)]

おとついあたりから高校での必修科目を取っていないことに関して喧しい。受験に使われない世界史を中心に履修した事にして、別科目をやっていたという現状に新聞などは驚いているという。道教委も驚いていているという。文部大臣も驚いたそうだ。伊吹という人は教育には素人だろうから、知らなかったのだと思う。自分の子供を通わせている道教委や文部省、マスコミの人間が知らない筈はない、先生方は大変だねとおもっていたはずだ。なんせ週五日制になって、時間数が不足しながら、「ゆとり教育」で学力の落ちてきた生徒でも進学したいと希望する御時世に営業努力をするとこうなるという例である。てっきり、特色ある学校作りという文部省の掛け声に呼応した体制は認められているのだと思っていた。
地方の進学校では、そうでもしなければ父兄に尻をたたかれるわけだから、保護者をとるか、指導要領を取るかの選択で保護者の信頼を取ったのだろう。
朝日・道新の社説は現状に合わない指導要領を絶対視して、高校に批判的だが、記事の上では同情的に見える。いい加減、決まったことだから守るべきだというナイーブさを克服してもらいたい。現状に合わない指導要領を何年か前に作成して、後生大事に守っている文部省が全責任を取るべきで、生徒に転嫁させるなんてもっての外である。 彼らは、自分の過ちを認めることは決してない。誤るのは不祥事を起こした下の責任を取るだけである。さすがに、組織としては立派なものである。
戦中の神懸かり教育は文部省全体で推し進めたことだから、謝らなかったではないか。新しい憲法の話とかいう小冊子で、何事もなかったかのように説教を垂れたことを思い出す。戦後から日本人は恥知らずになったと言われるが、天皇を始め、まず恥知らずだったのは指導層ではなかったか?
それにしても、この時期の生徒を巻き込んでの大騒動は何を目指しているのだろう?だから現場は信用ならぬ、現場に任せていてはまともな教育は出来ない、だからトップ・ダウンを徹底しなければという話だろうと思う。そうなのか?駄目なのは、一般国民は受験など考えずに、国民としての素養を身に付け、エリート教育は有名私立校に任せればいいという文部省のの方針であり、文部省ではないか。現エリート層の子弟はどこに行っているのだろうね。
今さらながら、「出来ない子は出来ないなりに」を目指したゆとり教育の有り難さを感じる。できる子は「いじめ」の陽得な馬鹿なことはしない私立へ行けばいいのだ。ならば、われわれの子供はどうする。
札幌では学区が一区になるらしい(現在は四つに分かれている筈)。南高をトップ高にしようとしている。保護者が支持しているのが信じられない。行ける子はほんの一握りだ、ほとんどの子供はこぼれることが分からないのか?自分の子は違うと思っているのだろうか。四つの学区でそれぞれ頑張る方がよっぽど、実績は上がる。帯広は明確に分かれていて、進学したい子は柏葉に行くがそれ以外の学校に行くととたんにやる気をなくす。そういう学校ではないからだ、そういう子供たちがいないからだ、そういう指導をしないからだ。それが特色か?呆れるね。
それにしても頭を下げればいいという現場、管理職の無責任な態度には呆れる。なぜこうなるのかを丁寧に説明すべきだ。堂々とね。そうすれば如何に愚民(報道各社その他煽りに走っているマスコミ)といえども、本質が見えてくるに違いない。しかし彼らは分からないで煽っているが、文部省は見えているのに生徒に責任をたらせようという確信犯である。罪は深い。

ちょっぴり嬉しいニュース。マックブックプロを買った。残念ながら25日に出たものではない。Core2Duoは性能の面で、またデザインの面でつまらないことがだんだん見えてきた。必要なステップアップなのだろうが、もう待てない。6年目を迎えたiBookを抱えての決断である。整備済みの一つ前の型である。整備済みは初めてなので少し心配はある。嬉しいと書いたが、実は不本意なので嬉しさも半分位のおらが春。
あんなにも新マックブックの情報を漁っていたのに、もう今は見たくない気持ちだ。出荷は30日。待ち遠しいような、それほどでもないような・・。

戻ってきた

[2006年10月23日(Mon)]

納内へ行く。引っ越しの準備に行ったのだが、気の抜けるほど仕事はない。電話で済むようなことばかり。それでも一通り、済ませてきた。あとは28日にもう一度行くことになり、そこで引っ越し完成。
カメラを持っていけば良かった。もう何度も、通ることはないだろうと思うと通い慣れたこの道も懐かしい。芦別で若者向けの小さなレストランに入り、味噌カツ丼を頼む。量が多くて食べ切れない、味噌の味が濃過ぎて年寄り向きではない。若いふりをした私が誤り。
小学校を過ごしたこの町は私の故郷なのだ。エゴで肥大化した小学生。それでも、一番夢のある生活だった。八十八ヶ所をもう一度巡りたい。井上さんの家はもうないだろう。本州の造りと同じだった農家はまだ廃屋として残っているようだった。そう言えばあの頃川村さんのストーカーだった。
もう一度、一人で通って写真を撮っておこう。それを死の床で眺めるのだ。あの頃だって決して未来は輝いてはいなかった。でも未来は無限にあった。死を意識することがなかったことが、幸福の証しか。

明日、狩勝峠を越える

[2006年10月21日(Sat)]

9時から10時半までアルバイト。またノルマをこなせないような予感。
母が納内から帯広に引っ越すことになって、詰めのための相談をしに、狩勝を越える予定なので、少し早めのタイヤ交換。路面は濡れており、明日は雪が降るやも知れず。今年の春の交換で大変な目に合ったので、JOMOでやってもらう。2000円位か。ホイールバランスをとってもらうと、4本で3200円。15分くらいで出来たのでOK。明日は、峠では雪が降るかもしれないという予報なので念のため。月曜も休んで、銀行・役場を回るつもりだが、どこをどう回ればいいのか分からず心配。課題も作らなくてはならない。
今日家財道具を買う。ストーブ(ホーマック)が14畳用で7万円。カーペット1枚、カーテン(ニトリ)、物干し、玄関前の段差解消の石4枚、というところか。総額10万円。思ったより高くついた。

新マックプロの噂が飛んでいるが、何度目か。裏切られることが続いているので、気にかけないと言いたいところだ。 形状は変化なしと言う噂だが、ノッチではなくマグネットの開閉装置になって欲しい。

古新聞を整理していて、次の記事を見つける。2005年7月7日のイギリス地下鉄・バス爆破事件の被害者の記事である。"政府の対応はヒステリーとしか言い様がない"という言葉を日本政府にも送りたい。国のために死んだ人を国が追悼するのは当たり前だという素朴な民衆の感情を、政治家が利用している。ナショナリズムは制御不能になるということを先の大戦の反省としているのか。甚だ疑問である。

2007/7/5
朝日新聞
レイチェル・ノース

テロが会った日に発売された雑誌を買って、いつもより遅く地下鉄に乗った。雑誌には私の記事が載っていた。02年7月、自宅に押し入った男に暴行され、死にかけた時の体験談だった。
ぎゅうぎゅう詰めの車両で記事読み進むうちに心臓がどきどきしてきた。心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状だった。目を閉じて息を整え気を落ちつかせていると、突然両耳を殴られたような衝撃に襲われた。何も聞こえなかった。真っ暗な車両。4,5秒の静寂。そして車両の奥で悲鳴が上がった。
携帯電話の明かりを頼りに、線路を歩き続けて15分。駅のホームへ引き上げられたとき初めて悲鳴を上げた。右手首に突き刺さった鉄の破片が抜け落ち、血が噴き出したからだ。頭を左右に振ると、髪の毛からはガラス片がパラパラと落ちた。 テロリストは私たちを恐怖に陥れようとしたのだろうが、完全に失敗した。被害者はバラバラになるどころか、連帯組織をつくり、互いの自宅でバーベキューをするほど親密になった。人間らしいつながりを強めることが、テロを打ち負かす最良の道だと信じたい。
ブレア政権はテロに対して強硬な姿勢を示すことで求心力を取り戻そうとしている。ロンドンではナイフで刺されるほうが爆破テロに遭遇するよりはるかに確率が高いことを忘れてはいけない。政府の対応はヒステリーとしか言いようがない。 例年、7年間つきあっている男性と結婚する。テロの7ヶ月後に婚約した。7・7という数字に前向きな意味を持たせたかった。いつまでも暗い地下鉄で悲鳴を上げているわけではない。

今日付け夕刊道新に面白い記事。

「現場追いつけぬ」85% 東大の公立小中校長調査 2006/10/21 11:34
「ゆとり教育」の見直しなど、政治主導で目まぐるしく提案される教育改革について、全国の公立小中学校の校長を対象に聞いたところ、回答者の85%が「速すぎて現場がついていけない」と感じていることが21日、東大の基礎学力研究開発センターの調査で分かった。
教育基本法改正案には66%が反対。「教育問題を政治化しすぎ」も67%に達した。教育改革を最重要課題とする安倍晋三首相が教育再生会議を始動させる中、格差拡大の懸念も大きく、現場に強い抵抗感があることが鮮明になった。
調査は同センターが7,8月に全国の公立小中学校の3分の1にあたる1万800校の校長を対象に実施。約4800校の回答(一部は教頭らが回答)を得た。
「教育改革が速すぎて現場がついていけないと考えるか」との質問に「強く思う」と答えたのは30%、「思う」は55%で、「思わない」「全く思わない」の計15%を大きく上回った。「教育改革は、学校が直面する問題に対応していない」と答えたのも79%と圧倒的多数だった。
中教審が教員の質確保のために導入を答申した教員免許の更新制は再生会議でも重要テーマの一つ。だが、これに賛成する校長は41%止まりで、59%が後ろ向きだった。
学校選択制については「学校活性化に役立つ」との回答が63%ある一方で、「一部で教員の士気が低下する」(73%)「学校の無意味なレッテル付けが生じる」(88%)「学校間格差が拡大」(89%)と、マイナス面を心配する声が多かった。
安倍首相らが再三口にする「学力低下」。だが20年前と比較して子どもの学力が「下がった」とする校長は47%で「変わらない」「上がった」の計53%を下回った。
一方、大多数の校長が心配を強めているのが将来の教育格差の問題。「子ども間の学力格差が広がる」とした回答が88%を占めたほか、「地域間」(84%)、「公立・私立間」(77%)といずれも格差の拡大を予測している。

もう一本。

数学五輪の出場者、数学研究者になったのは1割以下
朝日新聞2006年10月21日22時43分

中学・高校生が数学の実力を競う日本数学オリンピックの出場者のうち、数学の研究者になった人は1割以下であることが文部科学省科学技術政策研究所のアンケートでわかった。
90〜05年に参加し、予選を通過した14〜32歳の1063人を対象に調査した。296人(回収率28%)が回答を寄せた。
現在、高校生以下の回答者がめざす職業は、数学系研究者が29.6%でトップ。ところが、すでに社会人になっている人がついている職業を問うと、数学系研究者は6.6%しかいなかった。
最も多いのは民間企業や役所などの事務職で22.0%、次いで医師20.9%、情報処理技術者が11.0%。「現在の職業は数学の知識を生かせる」と考える人は、半分以下の47.8%だった。
同研究所によると、日本の数学系研究者は約3000人で、フランスの半分しかいない。若い世代の意欲を数学の振興に生かす施策が必要という。

アレックス君は東大の理三に入ったし、中嶋さんは理一に入ったけど、その後数学からは離れているようだ。

念願の札幌出張

[2006年10月9日(Mon)]

6・7・8日と出張で札幌へ。あこがれのアップルストアに行く。ホテル橋本から直ぐだったのだが、横にある筈の三越が見つからず、苦戦する。思ったよりも、小さな店だったが、従業員が多くて、話題は豊富。マックブックのキータッチは×。プロでなくてはと思って帰る事になる。それにしても十万円の差は大きい。また、従業員(stuff)から新しいCore2Duoが出たとしても、性能的にはさほどの変化はないはずという話を聞く。iMacでもそうだったので納得。
しかし、扁平な形状が変るのではないかと疑心暗鬼。という事で、プロを買うのだが、期日は直ぐではない。今年のクリスマスには発売されるという噂(?)をさすがに今度はホンモノであろうと信じることにする。それからnanoの旧型は置いてないとのことで、これは別の通販から買うことに決定。消耗品なのに傷がつくとか言って、新しいアルミのnanoを買うことは考えられない。ズッシリ感がたまらない。おもちゃみたいなぺらぺらを喜ぶ連中ばかりではないぞ、アップル。
Tさんと同席して話。ラグビーの話、そして子供の話。思うように育たぬことを理解する。子供ではあっても一個の人格である、仕方がない。
出張前には北朝鮮が核実験をすると宣言したことで大騒ぎしていたが、帰ってみるとその話題はもう無くなっていた。しかし、今日の12時に朝鮮中央通信社から発表されたそうで、日本は未確認。韓国は自然ではない地震を観測したという。 官邸中心に大騒ぎ中。予告していた通りなのだから、準備をしている筈。してないのは愚かだし、したのならこの混乱が計画通りということ。あたふたと大騒ぎをして、いかにも大変だという状況を作ることに成功か?日本もアメリカ、中国の核実験に対処したと同じことをすべきだろう。北朝鮮だから、戦争を仕掛けるのは公平ではない。が、出張前の雰囲気では開戦やむなしの感あり。

アンナ・ポリトコフスカヤさんが7日、モスクワの自宅アパートのエレベーター内で銃で撃たれて死んでいるのが見つかった。 彼女はチェチェン紛争をロシア軍に反対する側から取材し、モスクワでのチェチェンゲリラによる劇場占拠の際は、交渉役としてゲリラから指名されたが、現地に行く途上で毒殺されそうになった。
事件発覚後はプーチンに極めて誓い人間が捜査を任されすべての資料を没収されたという。やはりギャング:プーチンの仕業だろう。

国会では安倍君がのらりくらりとのっぺり顔を曝しているが福島瑞穂の質問『「戦後体制からの脱却」とは何を指すのか』に対し、

(憲法や教育基本法は)占領されていた時代に制定された。戦後体制からの脱却とは、当時決まったものは変えられない、変えてはいけないという先入観のある時代はもう終わったということだ。

と、答えて少しずつ本性を現し始めているという。『当時決まったもの』はどういう理念を体現したものか?その理念自体を変更しようというのか?わざと現象のみに目を付け、その背景をなし崩しに葬ることを狙っているのだろう。だから政治はいやらしい。哲学があるなら、戦後を形作った理念そのものを変えなくてはならないというべきだ。そのために憲法を変えると。占領体制の中で否応なく受け入れたもの《だから》、変えなくてはいけないのなら哲学がない。当時の日本人は圧力の元で戦争を放棄したのか。愚かな戦争そのものに嫌気がさしたのではなかったか。東京裁判で隠されていた事実を知って、聖戦といえないことを心から納得したのではなかったか。そこで飛躍はあるが、戦争そのものを拒否する言葉があの憲法に現されていると確信したのではなかったか。
7日付け東京新聞のまとめによると

日本の「植民地支配と侵略」を認めた「村山談話」などは政治家個人としても継承する。極東軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯として裁かれた国家指導者に戦争責任はあるが、戦争犯罪人ではない−。二日間の論戦を通じて浮かび上がった首相の歴史観だ。

少し軟化しているのは、控えた中・韓訪問をを意識してのことではないかと観測されている。しかし、トップはある程度の常識を披歴し、下部の大臣連中に国家意識丸出しの政策に邁進させ、司司に任せていると言うつもりだろう。
なお、過去ばかり質問されたが、未来を語りたいと宣ったそうだが、久しぶりの『過去に目をつぶる政治家』の出現を危惧するのが、愛国心の発露でなくて何なのか?
祖父岸信介を尊崇するという安倍君は、60年安保をどう考えているのだろう。なぜ多くの市民が抗議のためのストにでたのか。それは決して一部過激な煽動者の挑発に乗ったものではない。岸のクーデーターを思わせる行動に不安を覚えた市民が、民主主義を守ろうと仕方なく腰を上げたものだったのではないか。警官隊、民間右翼を国会に入れ、アイク訪日の前に成立するような日程を考えた行動に売国を見たのではなかったか。(最初は確かにイデオロギー上の対立だったが、岸のクーデター以降、民主主義を守る行動に変化した。 「昭和という時代」ーー>「安保反対の時代・・藤田省三)
そして、偉大な祖父と共に、彼は一貫して戦争を煽る立場にいたことを忘れるべきではないだろう。彼が愛国心を口にする時、己に要求するものではなく常に一般の衆生に強いるものであることを感じる。ならば、最初に彼が戦争に行くべきだ。最初に死ぬべきだ。それを見てる愚衆は判断する。ドラマ「戦場のキックオフ」にあった場面だが、感情的になった指揮官が攻撃を命じて突進するが誰もついていこうとしない、重大な軍紀違反だが指揮官はその後自殺する。戦争を呼びかける無責任者は許されない。”死して屍拾うものなし”が相応しい。
しかし恐ろしいのは、今度の戦争は勝つ。だから彼は死ぬことはないだろうし、死んでも英霊と評価されるに違いないことだ。やがて政治を忘れた、正義を振りかざす軍人がでかい顔をする日本になるようで、嫌な気持ち。
最近のニートには徴兵という手段も受け入れられるようで統帥の深慮を感じる。ニートになってしまったのではない、意図的にニートを増やしているのだ。戦争に突入しやすいように。

日の丸は恐ろしい

[2006年09月23日(Sat)]

東京地裁、難波孝一裁判長の判決。徒花ではあるが、記憶すべき。高圧的な都教委、およびナショナリストへの抵抗。
「国旗掲揚、国歌斉唱の強制は、憲法が保障する思想・良心の自由に反し、教育基本法が禁じる教育の「不当な支配」に当たる」という判断である。 しかし、要旨を読んでみるとそうでもない。「国旗、国歌は、国民に強制するのではなく、自然のうちに定着させるというのが国旗国歌法の制度趣旨であり、学習指導要領の理念と考えられ、都教育長通達や各校長による職務命令は違法であると判断した。 」とあるから、いきすぎをやんわりを批判したという「あんまりカッカしなさんな」という程度か。
問題は「都教委は公か?」という事だと思うのだが。「公」の一種であることは間違いないが、それがすべてではない。常に批判され見直されるものだ。お上の決めたことをないがしろにする奴はさぞ憎かろうが、処分で脅すのはヤクザと同じだ。「やってもいいけど、どうなるか教えてやろう」ありがたいいことだ。校長等は、なぜ命に代えてもお上に忠言申し上げないのか。 民主主義というのは、中間管理職がすべてなのだと思うのだ。議会が何を決めたところで実際に事に移すのは現場だ。その現場がお上のいうことしか聞いていないのでは、誰がキャスティングボードを握るのか。下っ端どもよ、しっかりしろ。
国旗といわれれば思想信条も吹っ飛ぶという考え方が恐ろしい。最も大切なものよりも最も大切なものが国旗なのだろうか。そういう考えと国旗は無縁ではない、というか無縁ではなかった。そして今でも無縁ではない。国家とは私たちを包み込んでくれるものという国家観とつながっている。旗に敬意を表するなんぞ、おかしくて出来るか。国家も旗も人ではない。擬人化できないものだ。何の安心を求めているのか。安心を求めて遂には破局に至ったのはいつだったか。国旗は恐ろしい、頭を垂れる人々も恐ろしい。
さらに嬉しいことには、安倍君が「新首相の初舞台となる26日召集の臨時国会では、通常国会で継続審議となった教育基本法改正案を「最重要法案」とし」(20日記者会見)ており、文部大臣には中川十勝代表が就任するという噂がある。安倍、中川ともに「97年、歴史教科書の記述の見直しを訴えるため「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を結成した 」という間柄だ。彼らの意見そのものが胡散臭い。日本が真の独立を果たすために、アメリカに押し付けられた憲法を改定し、再びアメリカの属国となるように軍事同盟におんぶしてもらって、中国・韓国と妥協しない道を選択するのだそうだ。 何度も言うが、もっともアメリカの凄さを感じるのがあの憲法だ。最も良質な部分を切除し、悪質な部分を継ぎ接ぎしようとしている。そんなことはありえないのだとすればゆくゆくは自立か。一国でも中国に攻め込める実力を持つことが最大の夢だとすれば、それは哀しいことだ。

NHK「きらっと」を見る。
障害児がここまで育ってくれたのは、園のおかげだと繰り返すおかあさんが登場、たいへん美人だ。
「おかあさん、返事をしていますよ」と言われて、「いいえ、うちの子はできないんです」と言うけれど、その気になって聞いてみると「ウー」と言っている。いまでは9割くらいは返事をしている。
それが、今度の障害者自立支援法のおかげで、「園と契約」をして、さらに今までの5倍近くの負担に耐えなくてはならないということでおかあさんが怒っている。特に問題は、「普通の子として生んだのに、少し遅れているかなと心配になり、行政に相談したところ、『一度園のようなところに行ってみてはどうですか?』とアドバイスを受け、通っているうちにうちの子はやはり障害児なのだとやっと理解する時間があった。」という。それが最初にあるのが受容だという。障害児であることを受け入れることができない親は、契約できずに子を一人で育てることになる。それがどういう結果になるか。いまある時間的な余裕は無駄なのか。いきなり自分の子は障害児なのだと受け入れることが可能なのか。新法は出来なければいけないということなのだろう。まず親が、現実を認めるところから始まるということだ。自分の子を持ってみればいい。障害のある子を持ってみればいい。人間がやることではない、とテレビを見ながら涙する。
行政には、多少の摩擦はあってもやらなければいけないことはやり切る、という性格がある。多少騒音がうるさくても基地は必要なのだ。それでも、緩和措置を設けるではないか。防音装置を付けるではないか。なるほど国家の安全は大切だからか。しかしなくてもいいのかも知れない、そんなものに金をかけて、ないと困るものは捨てておくのはどういうことだ。
やらなければいけない事なのかという大問題がある。国民それぞれが力をつけて、自立すべきだということなのか。その通りだ。しかし最初に最も弱い人か。彼らは守るべき人達ではないか。彼らを保護せずに国家は誰を保護するのか。自分で契約できて、お金が払える人達か。その人達は、始めから保護される必要がない。
目的自体が怪しい法律である。対象がおかしい法律である。ヤクザが生活保護を受けているのとは違う。
さらに問題は、実際に折衝に当たっている下っ端だ。彼らは、お母さん達の憤りを理解している。けれど繰り返すのは行政の姿勢を貫こうとする。議会を通っているのだから、それは民意だ。しかし、世情はそうか。下っ端ならば分かるだろう。なぜ彼らは発言しないのか。議会の言う事は分かる。しかし実際は無茶だ。自分の子供が障害児であることを理解するには時間がかかるのだということを、なぜ上に伝えないのか。決まったことを粛々とやればいいのだと上は思っているからだ。下っ端は、決まったことをやればいいのだ。単なる歯車だ。嫌ならやらなくていいけど、その代わりは仕事はないぞ、そのうち、首だぞ。
しかしだ、民主主義の社会というのは、各自の持ち場で各自の判断をすることがどうしても必要なのだ。下っ端は、彼らなりに責任を果たすべきだ。

タイでクーデター。

タイ陸軍のクーデター、84%が支持 世論調査
2006年09月21日09時31分

バンコクの公立大が約2000人を対象に20日実施した緊急世論調査では、軍のクーデターへの支持率が約84%に達した。理由として「政治的な混乱が収まる」を挙げた人が多かった。一方で、約16%が「国のイメージダウンになる」「政治への信頼が低下する」などの理由から反対と答えた。
また、約75%が政治が「改善に向かう」と答え、「後退する」の4.7%を大きく上回った。
街には装甲車や銃を持った軍人の姿があるものの、衝突もなく平穏だ。首相府の近くで雑貨店を営む男性(30)は「クーデターといっても静かだし、これで政治の混乱が収まるんであればその方がいいよ」と話す。
陸軍司令部前では、警備に当たる兵士にバラの花を渡す若い女性や、「市民は軍の行動を支持する。クーデターがなければ我々が抗議デモをしただろう」と叫ぶ男性の姿などが見られた。
一方、ビルの清掃を仕事にしている女性(43)は「私は首相をずっと支持していた。貧しいものの味方だから。なぜこんな結末になるのかわからない」と、顔を曇らせた。

呆れた。民主主義が軍の実力行使でひっくり返ったのに、何を言っているのか。”叫ぶ男性”に言おう。軍が動く前になぜ抗議デモをしなかったのか。政府に抗議することが出来ない人間が、軍が間違った時軍に抗議できるのか。愚かしいにもほどがある。腐敗していようが、金持ちに辛くあたるだろうが、それは民主的に解決すべき問題だ。戦車に囲まれた社会にいて、人々が笑顔でいられるのか。それがいられるから不思議だ。もっとも教員に自由はないという日本も不思議だ。

安倍君独走

[2006年09月16日(Sat)]

千葉大の栗原禎子さんの「中東のイメージ」を読んで考えた。
中東の現状を『憎悪と報復の連鎖』として表現されることが多い。 そして『イスラーム一色の世界だから非合理・狂信的だとするような非歴史的・静態的な中東観が横行している』。
しかし実際は『中東の内部に民主化や社会変革の歴史がある』。
それにもかかわらず『奇妙な社会』として中東が描き出されるのには理由がある。冷戦後の、そして9・11事件以後「米国による中東支配の『再植民地化』ともいうべき動きに日本が加担するようになったことが、中東をことさら非合理で狂信的な世界として描き出し、事態の本質を隠ぺいするような言説が生み出されることにつながっている」と言う。
1994年のルワンダの虐殺の際、欧米のジャーナリストは『「これは善玉と悪玉の戦いではない・・これは悪玉しか出てこない物語だ」 』と描いた。今度も同じことが起きていないかというわけだ。中東に民主化の動きがあったことを詳しくは知らないが、ナセルを中心に非同盟諸国という括りがあったことは知っている。それを正しく評価しようとする姿勢が、以前の日本にはあった。それが、私たちの憲法のおかげだといったら、ずれているだろうか。日本が自国の植民地支配や侵略戦争を批判的に見たからこそ、中東の民衆への共感に支えられた認識が生まれたのではないか。今は、正義を振りかざすアメリカに追従する、現状を正当化するための「現実的」な認識しか生き残れないのではないか。そして、憲法を失おうとしている我々には遂に、中東を理解することは叶わず政治的な、進化論的な力の均衡のみを頼りにする以外の道を選択することはできなくなる。
弱腰をなじり、力による冷徹な外交を進め国際連盟脱退に至って戦争を始めたあの日本を繰り返さないという反省が消えてしまったから、安倍君を選ぶのだろう。

安倍君はこう言う。

安倍氏、改憲に「5年近く」 中国の戦争責任観に異論
2006年09月12日00時26分


安倍官房長官は11日の公開討論会で、持論の憲法改正について「これは1、2年でできる話ではない。5年近くのスパン(期間)も考えなければならない」と表明した。来夏の参院選についてはすでに決定した自民党候補の差し替えも検討する意向を示した。また、72年の日中国交正常化の際、中国が戦争指導者と一般国民を分けて自国民を説得したことについて「それは中国側の理解かもしれないが、日本側はみんなが理解しているということではない」と述べ、容認しない考えを示した。
・・・
アジア外交をめぐっては、谷垣氏が「日中国交正常化をした時に、中国は戦争指導者と一般の日本国民を分けて国民に説明した経緯があった」と指摘すると、安倍氏は「そんな文書は残っていない。国と国とが国交を正常化するのは、交わした文書がすべてなんだろうと思う」と反論。そうした記述が国交正常化の際の文書に残っていないことを強調した上で「日本国民を二つの層に分けることは、階級史観風ではないか、という議論もある」と批判した。

周恩来達は、軍国主義者と一般国民を区別することなしに、中国国民を説得する大義がないと判断したことは自明だ。そうでもいわなければ、中国人はいつまでも日本人を憎むことになるだろう。すると日本を滅ぼす以外には手は無くなる。そうはしたくないから生み出した苦肉の策を、こともあろうに日本には関係ないといわんばかりの言辞はいただけない。階級史観風とは笑わせる。かれを支持する人達の矜持を疑う。

誰か生まれた

[2006年09月6日(wed)]

BSでおとつい「ハリケーン」昨日「キリング・フィールド」今日「ボーリング・フォア・コロンバイン」となかなか面白そうな映画が続いている。今日のはちらっと見たが、なかなかしつこくて良いできのようだ。最後に、アメリカとカナダを比較して同じように銃はあるのに、なぜ射殺者数が十分の一位なのかという事に応えられない。夜でも鍵をかけることがないというカナダの都市住民が出た。日本でも戸締まりはしっかりとすることが当たり前なのに、何と言うことだろう。いつの間にか日本は近隣を信用できない体質になってしまったのか。不信がアメリカを存立させているかのような作り方になっていた。KKKがRNC(全米ライフル協会)に発展的解消したとの見方があることを初めて知った。会長のチャールトン・ヘストンにしつこく食い下がっていたが、彼から「人種」という言葉を引き出す。公民権運動の時にもいろいろあったそうだし、黒人がアメリカを不安にしていると言いたいらしい。
一見すると、自分を守るのは自分だと言う建前だけ聞くと国の成り立ちに自信を持っていて、前向きに見えるが、その実は他人に対する恐怖が支配しているというのだろうか?もっともすべての責任を行政や警察に委ねて自分では注意さえしない日本人に較べると確かに立派ではある。

今日誰かが生まれたとお騒ぎをしている。馬鹿馬鹿しい話である。日本が土民の集まりであることを露見させた。生まれながらにして、自分は特別だと意識させられる人も可哀想ではあるが。そんなものを有難がる奴の気持が分からない。民間の信仰はあってもよいが、それを統一させた人口的な神道が日本古来の伝統であるわけがない。高だか、百五十年のことだ。我らが内なる天皇制の呪縛の強さよ。

昨日は台風の所為と言うが、半円の二重虹が出て少し気味が悪かった。あれ程大きな虹は見たことがない。嫌な奴を寝る直前に思い出して眠られず。六時に寝る。寝不足だったが、なんとかやり過ごした。それにしても、人生を振り返ると、ちっとも進歩していない。奥に言わせると人間なんて変らないのだそうだ。人を相手にすることがつくづく苦手なのだなと感心する。

かもめ食堂

[2006年09月01日(Fri)]

見逃していたが、好評につき延長される。1日は映画の日ということで、狙って12時40分にぎりぎり間に合う。年休を取って、忙しくなったが、あっという間の二時間だった。なぜフィンランドかという必然性はなし。ファンタジイのたぐいだが、肩の力を抜いた「のんびりさ」を楽しむ。フィンランドに多いという森がキーポイントか。小林聡子の「嫌なことはしてこなかったから」という脱力振りに企業戦士たる団塊の世代は感動をうけるか。時間が気にならないということは、私の映画観賞の重要なポイントなので、この映画は高得点。

NHKの朝ドラ「純情きらり」も、冬吾と桜子の危ない関係も解消され、来週はいよいよ達彦が復員する予定。大けがをして、中国戦線においてきぼりを食ったという設定だが、足が無くなっているわけでもなし。冬吾の足が不自由になっているのを 見て、60年代に銀行前でアコーディオンを弾いていた松葉杖の傷痍軍人を思い出す。お恵みを受けているように思っていたが、なんのもっと堂々としていて良かったのに、と今は思う。愚かな戦争だったけど、義務を果たしたのだから。

戦争絡みで、ETV特集で、現在の世相に危機感を持った80歳過ぎの元軍人が、孫の世代に実相を伝えたい、と告白の手記とドキュメント四編を紹介していた。中国、フィリッピン、満州での経験だ。中でも、中国で南京事件に関係していた人の伝聞証言あり。揚子江の桟橋に長さ100M、幅30M、高さ海面から6Mという死体の山ができていたという。 虐殺はなかった、戦闘行為だったと過去を美化する人達、たとえば安倍君は何と言うか。
軍隊経験者は、その体験を恥じて戦争を語ることが少なかったが、改憲の兆しが見えた今ごろでは遅くないか。しかし、彼らは過去を残すべきで、やっていることは正しい。ただ、未来を語ることは禁句ではないか。未来は、過去を知った若者たちが独自に判断すべきもの、間違うとしたら若者の責任だ。淡々と過去を語ることが今まであまりに少なかった。だから愛国心だの、ナショナリズムだのの愚かしい言葉が復活したのではないか。多治見の爺さんは戦場で内傷を受けて帰ってから、数年は何もしなかったというが、そういう閉じこもりが若者の閉じこもりに結び付くように思える。
自由からの逃走」というテーマで道新が特集を組んでいる。なかなかの力作。放火された加藤元幹事長も大学時代にフロムの「自由からの逃走」を読んだという。 結局、国家主義から個人主義に切り替えようとしたが、ついにその具体化に失敗したということなのか。権威主義的構えは、日本人に懐かしいものなのかも知れない。

ラグビーも終わって一区切り

[2006年08月26日(Sat)]

小泉元首相が公約の靖国当日参拝を果たした日の夜、批判的な言を弄している加藤元自民党幹事長宅兼事務所が放火された。 即時、官房長官などが非難したが、其の後犯人の思想的背景が確定しないからと、新たな進展はない模様。放火のタイミングから言うと明らかにテロだが、科学的に立証されないと物事を言えないという自民党は実に実証的精神の権化となりおおせている。見事な変身振りには呆れる。東京新聞がこの無反応を指摘している。
都合のいいテロは容認し(石原都知事は「非国民はテロを受けて当然」と言った)、都合の悪いテロは絶対許さない、そのためには国民の多少の不自由は仕方ない、という考え方をしているのだろうが、民衆を馬鹿にするととんでもない事になると言うのが、日米戦争の反省。日露戦争の日比谷焼き打ち事件でもいい。抑えきれないのだ。抑えきれないから軟弱な時の政権は開戦に走ったではないか。(『日比谷』は頑張ったが。)最高責任者の天皇でさえ、戦争を回避すればテロをおそれなくてはならなった。ここが民主主義の難しいところ。代議制は其の妥協策だ。(ところで、住民投票を嫌う理由は、それが直接民主制だからではない。)自分たちが煽っておいて、自分たちで消してまわる事がいつまで可能か。
前回記事のNHKの次に「アジアの中の日本」という討論番組があった。麻生が出て、「パートナーとライバルと言う言葉じりを捉えて、また分かり切ったことで煙に巻こうとしたの腹立ちて、消した。道新の26日桂敬一さんがその事を書いていた。それによると、視聴者アンケートで「首相の参拝賛成63%、反対37%」。さらに若者(20代〜30代)は「70%」にもなっていたそうだ。若者は、中国を「パートナー」ではなく、「ライバル」と見做し、北朝鮮のミサイル発射に対する日本政府の強硬姿勢にも彼らは賛成だと言う。
スタジオで反対派の高齢者が「かつての戦前と同じ雰囲気ではないか」と懸念を示すと、「「それなら、戦前のその時になんであなた達は抵抗しなかったんだ」と、不信と苛立ちを露にした」という。これはすれ違っているのだが、若者が勘違いしているのだろう。それだけ、戦争を通過していないということだ。その時の大人が今の君たちなのだから。ひょっとして、桂さんのまとめがおかしいのかも知れないが。そこで、桂さんは、こう弁解する。

昭和16年12月8日早朝、ラジオからの『帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において戦闘状態に入れり』と告げる大本営発表の放送を、嗚呼やっぱりと当然のこととして、またなにかわくわくしたながら聴いた六歳の少年にとって、戦争になると言うことは、予告されていた台風がやっぱり来たのとさして変らない、極自然な出来事としか受け止められないものだった。しかしその後日常となった戦争を生き、またそこからの断絶を、無惨な敗戦の到来によって自覚させられ、やっと戦前と言うものも理解できるまでになったのだ。
不気味なミサイル報道
それから言えるのは、戦争とは、気付かずにいれば、気付こうとしなければ、極自然にやってくるものだ、ということだ。若い人に分かってもらいたいのは、いつも敏感に、そして早糞の危険に気付いてもらいたいーー私たちの無知・無力が招いた過誤を二度と繰り返して貰いたいくない、ということだ
NHKは7月5日、未明から通常番組をやめ、北朝鮮ミサイル発射のニュースを延々と続けた。「・・・において戦闘状態に入れり」と続いてもおかしくないその語調に感じた不気味さを改めて思い出す。

たしかに日米戦争は無茶だったが、日朝戦争は大丈夫と思っているのかも知れない。この前の戦争は負ける戦争だから駄目だったが、今度のは勝てる戦争だから良いと思っているのかも知れない。「勝てば官軍」の世界だと思っているのだろうか。「東京裁判はしかたない、負けたのだから」と思っていた大人も多かっただろう。あれを言い返せなかったのは、日本の戦争に理念がなかったから、大東亜共栄圏はこじつけでしかなかったからではなかったか。 今度はどうか。『自衛』のための先制攻撃、というところか。テポドンというちんけなミサイルをロシア沖に落としたことが、本当に恫喝になるのか。北朝鮮で生まれる多くの難民を引き受ける気はあるのか。戦争ということになれば、当事者はわれわれというより、韓国だがその後始末はどうなるのか、何度も語っていることなので繰り返さないが、それらの議論をした上での話のようには思えない。おそらく、民主化とかいうずっと後のことしか考えていないのだろう。それとも、ついでに韓国も落ち込んでしまえば都合がいいとでも思っているのか。「泣けるぜ」

お盆休み

[2006年08月14日(Mon)]

熱さは結局8日間続き、一日平温でまた、二日の30度越えだ。それでも夜は過ごしやすくなっているので気にならない。庭になっている苺は、小さいが毎日四、五個づつ食べる。甘味が足りない。市立図書館で本を借り始めた。カードを作る時、彼らはコピーをとらなかったぞ。正しい。ビデオ屋は免許証のコピーを取りたがるが、何だあれは。プライバシイを何と心得るか。ところで6冊を4日のペース。「殺人の門」で東野圭吾を見直したのだが、図書館には初期のものしかない。ないのではなくて、借りられている。そこで、仕方なしにラムゼーを借りる。頑固な刑事のセリフがしゃれていて面白い。苦いリンゴ酒以来楽しみにしていた。なぜか中断していたのだが、また復活しそうだ。と思って、二回目はラムゼーがない。帯広の人も知っている人が多いのだなと感心する。
フィリピン45年2月12日の虐殺を扱った本も借りた。フィリピンは対日感情が悪くないと言う評判だったが、そうでもないらしい。金銭的な賠償を必ず口にするという印象を持つ。戦争責任を形にして欲しいと思っているようだ。賠償はマルコスのとの間ですでに解決済みなのにとおもう。「上官の命令で虐殺した」人達に同情はしても、未だにそれを反省していない日本人に対しては今更に許せないと思う人達が多い。物分かりのいいフィリピン人は、戦争だから仕方ないと思い、物分かりの悪い日本人も戦争とはそういうものだという。意見は一致しているが、やった者とやられた者の違いは大きい。
NHKで日中戦争の特集を組んでいた。ヤフーのNHK版にほめておいたが、どんな反発が来るか楽しみ。あそこはひどい。NHKは反日の巣窟であるかの言が横行している。37年の盧溝橋事件のとき不拡大方針を唱えながら上海に拡大し、限界線を設けながら南京まで行った、行かせた当時の軍部・政治が情けない。その元が石原莞爾が関係した満州事変にあるということを感じた。即戦即決で巧くいったことを忘れることができなかったようだ。その間に、蒋介石はナチスドイツからチェッコ機関銃を購入していたというのに。蒋介石は柔軟とも言えるが、ナチスに脅威を感じているソ連に参戦を促すなど彼の戦略は幼稚に見える。
マギー神父は虐殺を映画に記録していたということだ。実際に揚子江で飛び込んだ人達を機関銃で撃ち殺す現場を目撃した人の証言もあった。死ぬ前にいっておくべきだと思ったと、弁解していた。戦友に対してだろう。南京城に十万の軍隊を残し、軍隊は戦わずに軍服を脱ぎ捨てて、難民にまぎれたということだから虐殺になってもしょうがないという気もする。しかし見分けがつかないからと、全員殺戮というのは松井大将が死刑になるのも道理だ。当の兵隊にしてみれば、可愛くないと思うのだろう。フィリピンでも同じだった。容易に宣撫されないことの原因を自分に求めるのではなく、他のせいにすることは簡単だ。
きつい状況にあると人のせいにするのは今の自分も同じ。この前、吹奏楽を聴きに行った時、喋り続ける女の子を注意したことがあったが、今回も図書館でペチャクチャやっている中学生くらいの女の子を「外に行って喋ったら」と注意したら、凄い顔で睨まれた。ついカッとして、大声を出すところだったが、相手が力関係を測っていることが分かったので少し冷静になれた。「外なら自由に喋れるよ」。私の言ったことは正論なのだが、正論だからといって居丈高になるのはよくない。よくあるシーンだった。ただ、誰も注意していない(これは先のコンサートでも同じ、まるで気にならないかのような周りの40代のおじさんおばさんは何をしているのかと憤慨)周りの良識ある大人にガッカリ。大きな気持ちになれない自分が小さいのかとも思う。長居すると別の中学生男子もいて騒ぎそうだったので急いで帰ってきた。
消耗率50%という接戦をものにして上海を落として、兵士はやっと終わったとほっとしていた時、派遣軍が我先に軍を進め始めたことも虐殺に関係しているだろう。南京を落とせば蒋介石は認めるというのが満州事変以来の中国観だったのだから。

大虐殺については、あったとかなかったとかいろいろ問題になることが多いが、今日の放送で得心がいった。あったに違いない。これからはいろいろ議論を仕掛けてくることがあっても、無視できるような気がする。事実の細かな積み重ねが必要だと言われるが、それは学者の仕事。普通の常識で考えて喋って良いのだと思う。ただ、フィリピンの場合もそうだが、証言というのは重い。フィリピン側だけの証言ではやはり弱い。勇気ある日本の、加害者の証言がないと弱い。彼らがちゃんと喋らないから歴史が確定していないのに、なぜ沈黙するのか、ますますの無責任を感じる。公文書だけしか信じる根拠にならないということでは、ひょっとしたら日中戦争はなかったことになってしまうのだから。
いつも気になるのだが、南京までを描くというのはよくやっているように思うが、その後の中国戦線は一進一退だったのだろうか。その後から、41年12月までの状況はどうだったのか。
証言といえば、被爆証言を封じようという気配が出てきたようだ。ことの起こりは、長崎県。「原爆の参加を体験した長崎が、被爆の実相を世界に向けて訴え続けることによって、核兵器のない平和な世界を一日も早く実現しようと、一般市民と行政 (長崎県・市 )が一体となって組織している公益法人」という長崎県平和推進協会というところが証言に制限を加えたらしい。

「政治色のない被爆証言なんてあり得ないんじゃないか」。広島で被爆した長野県原爆被害者の会の前座良明会長(85)は言う。数年前、被爆体験を話すために招かれた高校で、校長に「政治色のある話は控えて欲しい」といわれて反論した。熱かった、痛かった、鼻血が出た、下痢をしたと被爆時の状況を語るだけでは、「ああそうですか」で終わってしまう。

同じことが、群馬、神奈川で起きているという。たしかに証言がルーチン化していてつまらない、被害者だからと特権意識を感じるなど悪くいわれることも多くなってきた。しかし、これ幸いと証言を無害無益なものに変化させようという火事場泥棒のような真似はいただけない。教訓を垂れるなどもってのほか。「公」というのは、もっと大きくて広い。長崎ごとき、日本ごときがぶつぶつ言うな。
もっとも被害者意識が強すぎて、自分の体験は大声で叫びながら、日本兵が中国でやったことについては否定する人が多いということも聞く。そんなことで世界に向けて発信できるのかね。加害体験に踏み込んで戦争責任を考えるということが始まったのが80年代、軌道に乗る前に良くする会にやられたのは痛い。アベちゃんも一枚咬んでいますが。

暑い

[2006年08月08日(Tue)]

今日で六日続きの最高気温30度以上である。昨年のアメダスでも、8月は多くて三日連続。異常である。 二回では熱がこもって眠れないので、一階に降りて睡眠をとる。特に昨日はWWDC2006でアップルの新製品がでるのではないかと二時からの同時通訳を聴く。残念ながら、Macproとサーバー機、そしてOSXレパードの発表だけで庶民には関係がなかった。直前モデルのG5に比べて、1.6〜2.1倍の速さだというのだが、G4では4倍がキャッチフレーズだったことと比較して進歩は少ないように思う。やはりインテルにする必要は無かったのではないか。virusにやられやすいだけ不利のように思う。パラレルのようにウィンドウズのソフトが使えることは長所なのだが・・・。
レパードでは64bitになるらしいが、AMDの64bitと違って本格的ではないという話も聞いている。64bitを生かすソフトを利用することも、そんなに頻雑ではないだろう。ブックプロ(30万円)がduo2を採用するという噂があるが、高嶺の花だろうし、そこまでの高性能は必要ないのではないか。だから今のところはMacbookで充分だと思っている。ブラックの必要もないのだが、何となくG3にあこがれているので、一応ブラックとしておく。

前回書きそびれていたことを追記。
実は、チャレンジャーの事故検討委員会の前に、乗組員の国葬(?)が行なわれていた。そこでレーガン大統領が弔辞を述べて「皆さんは国家の誇りです」と言う。原因は分からなかった時点で言うことなので仕方ないと思うが、『(何が間違いだったのか分からないけど、とにかく)誇りです』というならまだよかったのだが。この場合の誇りには、味噌も糞も一緒にするというニュアンスが生きている。命を犠牲にしたという結果に対して「誇り」だ、という意味だろう。実はこれが正しい「誇り」の使い方なのだろう。彼ら自身の死の意味、家族への同情を考えた時、理由は何であろうと構わないというなりふり構わぬ正当化である。
原因が分かってみると、科学よりも営業を優先することの犠牲になったことを『誇り』に思え、というわけである。

決定ということ

[2006年08月04日(Fri)]

1986年1月にチャレンジャーの事故があって、もう二十年経つ。BSで検証番組をやっていた。家族が見ている前での、爆発事故はかなりショック。何が起っているのかよく分からないという気持ちは理解できる。ところで、事故調査委員会にファインマンが入っていたということを知ってビックリ。委員長らしく原因をゴム製Oーリングが、零下5度という低温のために固くなり伸び縮みできなくなって、水素ガスがもれたためとしていた。さらにところが、事前にOーリングの製造元の技術者が危険を訴えていたのを、新規のNASAとの契約が目前にある経営者のごり押しが通って、打ち上げを中止することはなかったという。ファインマンは委員会で、固化したゴムを示しながら、「物理現象を無視することはできない」と言っていた。しかし、技術者は必ず恐ろしい結果になると言うのだが、経営者判断は確かに難しいのではないかとGOを出した人達に、少し同情する。科学上の事柄でさえ、科学より経営が優先されるという世の中なのだ。御前会議で戦争に反対できなかったという無責任を笑うことができるのだろうか。それでも、御前会議がチェックされたとは聞いていないから、アメリカのほうが民主的な手続き面ではさすがだ。しかしそれでも、ほとんどの責任は問われていないという。中止を言張った技術者のほうが、居づらくなって会社を辞めたというのは残念。アメリカの民主主義が後退しているのではないかと不安。少し前のBSでやっていた、ジャーナリスト三人衆を扱った番組では、ベトナム戦争では民主主義が勝って戦争で負けたが、湾岸戦争では民主主義が負けて戦争に勝ったという。これは後退。ジョンソン大統領がやめる時、「真実を報道するジャーナリストの仕事に敬意を表する」と字幕に出ていてびっくりしたものだ。語訳かとさえ。ベトナム報道のせいで軍を撤退させ、初めての敗北を喫した大統領ではなかったか。アメリカの懐の深さを感じた。
だいぶ前だが、リサ・ランドールという物理学者の話をBSで見た。とてもきれいな女性で、五次元空間の研究をしているのだそうだ。何だか怪しい感じが最後までつきまとったが、今話題の物理だという。その中での話。太陽が大きくなって地球が飲み込まれる時がやって来る。何十億年か後のことだというので少し安心だが、それでも最後はくる。そしてそれまでに人間は太陽系から抜け出ることはできない。もっともその前に、人類は滅ぶだろうが・・・。するとわれわれの営みは残らない。ならばなぜわれわれは今活動しているのか。どうせ孤独な滅亡しかないのなら、私たちが今騒いでいることは何ナノかという大いなる疑問を久しぶりに抱いた。人間の意見や欲望など小さなものだなと少しニヒルになる。無意味の中で私たちは意味を求め、それをわれわれを越えるもののなかに求めようとする。それを国家に求めることもあり得る。これを人類へと広げることは出来ない。なぜなら、それは滅びることを運命づけられているから。
そしてまた、現在の不確かな人々を見ていると、確かなものが欲しくなる。それを国家に求めたとしても軟弱と責められないのではないかと、弱気になる。それほどいまの日本は腐っている。何が良いことなのかという基準は国家以外には見つけられないものなのか。自分たちで責任を取れるというたった一つの民主主義の利点が、こういう形で失われるのは辛い。

天皇の平和利用

[2006年08月01日(Tue)]

《私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか
易々と 松平は 平和に強い考があったと思うのに 
親のこころ子知らずと思っている
 だから、私あれ以来、参拝していない それが私の心だ》
(88/4/28 富田宮内庁長官メモ)

これが7月20日頃の朝日。日経のスクープであったという。 これをきっかけにして、古賀元幹事長の分祀発言が勢いづく。
古賀氏は講演で「戦没者ではない英霊が合祀されたことで、皇族がお参りを遠慮され、日中の問題がここまで先鋭化してくる。そういうことを無念の死を遂げた英霊がどう見ているだろうか」と指摘。「遺族会の原点に返って、国民がわだかまりなくお参りし、皇室もお参りできる、英霊に思いを寄せた対応こそしていかなければならない」(7月25日)彼は、遺族会の会長であるが、会内では職業軍人の遺族と召集兵の遺族の合祀に対する感情が対立しているという観測がある、中味は一枚岩ではなかった訳だが、それで少し救われる。戦争に駆り出されて死なねばならなかった人の遺族が靖国史観を受け入れているならば、それは自分を喰らう狼を赤頭巾チャンが愛しているように大変おぞましいことだからだ。
なお27日の報道では、A級戦犯として処刑された広田元首相も78年に合祀されたわけだが、遺族(孫)は「靖国から事前に合祀の連絡はなかった。聞かれていれば断った」「靖国神社に行くことはあるが、国のために亡くなった戦没者を思い手を合わせている。祖父は軍人でもなければ戦没者でもない。靖国神社と広田家とは関係ないものと考えている」 と発言した。
これらが昭和天皇の発言から流れてきたわけではないが、何ともやりきれない現状だ。反発するものは、自分の身代わりに罪を背負わされたA級戦犯をないがしろにする天皇の心情が理解できないだろうし、賛成するものとしても、お飾りとしての役割を越える発言であること、さらにそれに大きく影響を受けるという日本の後進性にガッカリする。戦後60年は何のためだったのかという思いだ。安倍次期首相が言うように、政治利用すべきではない、無視すべきだと思うのだが。彼と意見が一致するのは愉快である。なお、福田元官房長官が70才という高齢と靖国で国論を二分したくないという理由で、総裁選挙には出ないという。70才とは思わなかったが、自らの議論を引き下げるという心根では、始めから勝負がついているようなものだから、仕方なし。
A級戦犯の際の靖国の弁解にある通り、「国から送られてきた名簿に従って神社はお祀(まつ)りするにすぎない」と主張するのに対し、政府は一貫して「神社からの照会に調査回答しているだけ」という立場であるが、これついては56年1月25日付「旧陸軍関係 靖国神社合祀事務協力要綱(案)」で、 要綱(案)によると、
(1)戦没者の合祀をおおむね3年間で完了することをめどとする
(2)合祀事務体系を終戦前のものに準じたものに改める――が「方針」に掲げられた。
つまり、軍が選び天皇が決定するという戦前に戻すという趣旨であったが、政教分離の原則に反するのではという見解もあって、「「援発三〇二五号」に付けられた「靖国神社合祀事務協力要綱」では手直しされ、「神社の照会に対し、都道府県が調査し、引揚援護局がとりまとめる」「神社は合祀者を決定する」という表現に変わる。都道府県が「祭神名票」と呼ばれるカードに戦没者の氏名や本籍、生年月日、死亡地や死亡年月日などを書き込み、引揚援護局がまとめて神社に送る仕組みだ。 」と変更されたのかぼかされたのか分からない形に落ちついたが、だからこそ現在の靖国の国との見解の相違が生まれているわけだ。
遊就館についても、30日に報道あり。展示品の蒐集の際、「「出品要領」は、遺書について
(1)亡くなる直前に直筆で書かれたもの
(2)内容は父母や妻子にあてたものか、裁判内容について訴えたもの――と内容を限定。」とその内容を不当な裁判をうったえるもの、庶民の同情をかうものに限定するということだ。
なお、15日サマワ撤収の自衛隊が、地元ムサンナ州評議会の議長らに対し、撤収する陸自に感謝の手紙を書くよう求める書簡を送っていたことが分かった。
「(陸自の活動に対する)あなたの心からの支持を多くの人々がはっきりと知ることができます」とあいまいに書いたため、感謝状を送らなかったドワイニ議長は「陸自側の要請の趣旨が(直接的ではなく)よく分からなかった」と語った、という。感謝状は要求しても得られなかったわけだ。百億の金を使っても得られない感謝のために、彼らはイラクへ行ったのか。

君が代で「はらわた煮えくり返る」事件発生
埼玉県戸田市の伊藤良一教育長が市議会で、市立小中学校での入学、卒業式の君が代斉唱で起立しない来賓について「はらわたが煮えくり返る」と批判していたことが20日分かった。市教育委員会も起立しなかった来賓の氏名や人数の調査を検討しているという。
君が代斉唱をめぐっては、東京都教委が地方公務員法に基づき、起立を拒否した教員を大量処分しているが、来賓に関しては教育委員会に指導権限がなく、調査することになれば極めて異例。
市教委によると、今月13日の市議会で「保護者や来賓で起立しない人がいる」との一般質問に、伊藤教育長が「(事実であれば)はらわたが煮えくり返る」と答弁。「内心の自由という人がいるようだが、生徒たちの前で規律を乱すようなことがあってはならない」と述べた。

「自国への誇り」に関する調査結果が独り歩きして、一部の愛国心教育推進論者を勢いづかせてしまったことで弁解していた。あくまでも「将来に希望を持つ」若者は「自国に誇りを持つ」とい関連を示しただけだと強調する。そして次のように結んでいる。日本に民主制が行き渡っているなんて信じられない。

私がこの調査に着手した時、中国や韓国では校長が「イエス」と言えばOKであとは皆快く調査に応じてくれ、校長の自主性が重んじられていると感じた。ところが日本では予想を裏切って、校長達の強烈な抵抗にあい、調査が難航した、彼らは異口同音に「なぜかってに調査に応じたのかと、後で教育委員会に言われる」と恐れたのである。 教育現場に自由が感じられない中で、「愛国心教育」を法制化などしたら、「国家」が介入する度合いが進んで、個人の感情や思想と言う人格規範にまで及び、自主性が失われていく危険性がある。

「戦艦ポチョムキン」のシネマ&レクチャーを聞いた。必ずベスト20には入る名作だというのだが、どこが面白いのかさっぱり分からない。以前の「芝居」から脱却し、映画独自の「鉄の固まり」「多数の水兵・市民」が主人公になった画期的な映画だという説明だったが、それでは歴史的な価値しかないではないか。革命というものを信じる心がなければ、いい映画には見えないだろうと思った。艦長付の兵隊達が、「(腐った)肉は食えない」といって、反逆に問われた仲間を処刑する寸前、「兄弟、誰を撃とうとしているんだ?」という周りの同情的な水兵のセリフは、確かに今でも通用するとは思うが。

北大の所先生の話を聞いた。福沢諭吉の教育観の変遷についてだった。
1871「学問ノスヽメ」「されば今より後は日本国中の人民に、生まれながらその身につけたる位などと申すものは先ずなき姿にて、ただその人の才徳とその居所に由って位もあるものなり」
1875「教育の力」「人の能力には天賦遺伝の際限ありて、決して其の以上に上がるべからず」
1881「時事小言」「元来教育の主義に於いては、人の天賦を平等一様のものなりと見做して、其の能力の発達は教ゆる者の巧拙と学ぶものの勤惰如何とに在るものにして奨励することなれども、是は所謂誘導の方便なるものにして、実際に於いて人の能力は天賦に存するを常とす」
1882「遺伝之能力」「北海道の土人の子を養いて之に文を学ばしめ、時を費やし財を損ねて辛苦教導するも、其の成業の後に至り我が慶応義塾上等の教員たる可からざるや明らかなり。蓋し其本人に罪なし、祖先以来精神を錬磨したることなくして遺伝の智徳に乏しければなり」
1883「徳教之説」「所謂士人は中以上に位を占めて社会の上流におり、以下の群民にいたりては報国尽忠、この一義のみを以てするもあるいは感動の鈍きの恐れなきに非ず。無智の小民が苟も道徳を維持したるは、宗教の信心与えて大いに力あり」
1889「貧富智愚の説」「最も恐るべきは貧にして智ある者なり」「貧智者は財産私有の法廃すべきといい、或いは田地田畑を以て共有公地となすべしといい、其の他被傭賃の直上げ、労働時間の減縮等、悉く皆彼らの工風に出でざるはなし」
1891「貧富論」「今世の貧民は無智なるがゆえに貧なるにあらずして。貧なるがゆえに無智なり」「富豪の大なるものをして益々大ならしめ、以て対外の商戦に備えて不覚を取らざるの工風こそ正に今日の正務」
「子弟教育費」「この時にいたり、わが輩の願うところは天下の父兄が無代価教育の妄念を払い、子弟のために文明の教育を求むるとともにそのこれを求むるの法もまた文明の風に従い、子弟立身の元入れに銭を愛しむことなきの一事なり」

まさに、現在推し進められている教育自由化の論理と瓜二つ。なお之は、フランス革命に驚いたブルジョアが教育機会の制限を主張したことと一対をなす。福沢がこんな奴だとは思わなかった。

ジダンの退場

[2006年07月11日(Tue)]

Wカップの決勝戦対イタリアでジダンが頭突きでレッドカードを出され、退場した。読唇術を使ってビデオを解析したところ、マセラッティが人種差別を込めて家族を侮辱したらしいが、もしそうだとすれば、大会の最初に人種差別と戦うことを宣言したことに反する行為があったあった事になる。実況で伝えていたフランスの放送ではその瞬間「駄目だ、それはいけない、ジダン、何ということを・・」と突然の出来事に、反応していた。最初から「悲嘆」が感じられた。
アルジェリア出身の父母を持ち、サッカーをやっていなければトラックの運転手になっていただろうと言う彼はフィールドの外では内気で、だから人の話を聞くことができるとも語っている。その彼が珍しい政治的な発言をしたのが、2002年の大統領選挙。移民排斥を訴える極右政党「国民戦線(FN)」のルペン党首が決選投票に進んだ際「あれはフランスの価値観にあわない」と述べ、極右に投票しないように呼びかけたことがあったという。
「サッカーのひのき舞台が演出する人種。民族間の融和が、実は頼りないことは誰もが知っている。それでも、市民は今回のWカップで出自を問わずジズー、ジズーと愛称を連呼した。たとえつかの間でも、ジダン選手とともに勝ち上がるフランス代表は国民に一体感をもたらし、民族を隔てる垣根を揺るがせた。・・」と道新11日の37面は伝える。

この一体感に眉をひそめる向きもあろうが、これは人種でも、民族でも、旗でも歌でもなくいわば共和国精神という理念に対する連帯という面があるのだから、日本で進められている愛国心の下の一体感とはわけが違うのではないだろうか。
実は日本も壁を越える可能性がないわけではないという話が次。

当時の韓国は、ヴェトナムに軍隊を派遣していた。金東希は、そのヴェトナム往きを嫌って65年7月に軍隊を脱走し、亡命のために日本に密入国して対馬で逮捕されたのである。しかも1935年に済州道で生まれた彼は、小学三年まで皇民化教育を受けて日本語を学んでいたし、彼の長兄、次兄、三兄は、何れも働くために小学卒業ほどの年齢で敗戦前の日本に渡り、その後各地を転々としながら日本で暮らしていた。要するに、植民地帝国日本が生んだ典型的な崩壊家庭の一つである。しかも彼の亡命願には、次のように書かれていた。 「私が亡命地を日本に選択したのは勿論地理的条件もありますが特に私は日本国憲法前文並びに(第九条)戦争の放棄を規定し平和主義を貫こうと努力している日本国に亡命したのであります 」(1960年代私記:鈴木道彦)

たとえこれが口実であっても、またはお世辞であっても、少なくとも憲法は建前として機能している。日本における数少ない、救いの道がこの憲法である由縁なのだ。人種を越え、民族を越える可能性はここに最もよく現われている。天皇制や、その陰となる国旗などでは無理なことだ。
しかし、道新の記事にもあるように理念に対する忠誠ということは、実に難しい。
村上龍は同じ道新で 「・・
ドイツから戻って、多くの人から「日本って本当に弱いんですね」と言われた。目標は最低でもベスト8などと開幕前にマスメディアが煽ったために、多くの人々は日本代表の実力を正確に把握することがないままに観戦し、たとえばブラジル戦を見て、明らかになった落差に愕然とした。
外国との力の差を冷静に把握することを怠り、さまざまなリスクと可能性を分析することなく単純に国民的ムードをあおるというマスメディアのパラダイムは、唐突な比較かも知れないが、前の戦争とあまり変っていないように私には思えた。敵の力と戦術を正確に分析し、どう戦えば勝利の可能性が増えるのか、そのための準備は十分なのか、現状の戦力と戦術ではどのようなリスクがあるのか、客観的な報道はほとんど無かった。
最も重要なことが曖昧なままドイツWカップは意味のない楽観的なムードの中で始まり、結局は何も得られないまま終わった。敗戦から学習するのは簡単ではない。」

ちっとも唐突ではない。戦争から何かを得ようとする人達は、再現の可能性を常に考える。戦前に戻るなんて馬鹿馬鹿しいと思う人達もいるようだが、ならば現在の状況の根幹は何ナノか、聞いてみたい。天皇制に収斂せずしてどこに向かうのか。テロへの恐怖に駆られて、自由より安全を求め、秩序を警察頼みにして、自らは愚痴を言うだけのわれわれは、何をその大本に置くことができるのか。大和民族としての誇りの復活と、それ以外の民族に対する侮蔑しかないのではないか。世界に、未来に目を開かなければ・・。

映画『突撃』を見る

[2006年07月10日(Mon)]

昨日の夜、ことし初の花火が柏葉高校で見られるということで、国道沿いまで出かけると、70才はいってるお年寄りが自転車に乗って近づいてこう聞いた。「イラク・・、北朝鮮のテロかい?」「どうして!北朝鮮はそんなことしませんから、安心なさい」「だってこんなに人が集まって何してるかと思った。」という事で、日本がだらしないこと、安倍や小泉が弱腰だからつけ込まれるんだ、というようなことを喋り続ける。こんなじいさんまで、与太話を信じているのだ。テレビの影響は大きい。戦争になるかならないかの瀬戸際と思うからこそ、煽りまくっているのか。それとも、そんな馬鹿なことはないと信じていいるから、おもしろがって煽っているのか。お前さん達が思っている以上に、大衆は影響を受けているぞ。冷静を呼びかける声は出て来ないが、その内テレビでさえ押さえきれない感情的な声が国民から聞こえてくることがあるのではないか。その頃、冷静を呼びかけてももう遅い。「国民は戦争を欲していた」という戦後談になってしまわないか。

溜めておいたビデオを見る。「突撃」はもう何度か見ていたが、皮肉が利いてて面白い。いつものように中間まで、すでに見ていたことに気がつかず。カーク・ダグラス演じる大佐が、無理な作戦を無理して引き受けたところが、途中で退却せざるを得ない事態に陥る。それに業を煮やした指揮官が、見せしめのために三部隊から一人づつ軍法会議にかけることになり、大佐は弁護を引き受ける。
無理な作戦が名誉欲から起きたものでないことは分かる。出てきた指揮官は、一人残らず不可能と考えていた。しかし、それぞれの思惑で引き受ける。大佐は、配置転換させると脅かされて、部下だけ戦わせるわけにはいかないと、やむを得ず引き受ける。その上の将軍も同じこと。無理とは思っても、必要とは思ったようだ。数百メートル進むのに数万人の犠牲が必要なら、話し合いで停戦には持ち込めないものだろうかと、素朴に疑問。
無理な命令を拒否すると、抗命罪に問われるという戦争の構造がわれわれの理解を超えている。民主主義がエポケーされる事態が生まれる。国家を優先すると、こんなふうに国家を擬人化し、一人ひとりの個人は一個の細胞にしか過ぎなくなることは自明である。しかし、個人は細胞なのか。他の多くの細胞を助けるために、三個の細胞は切り捨てられて当然か。当然なのだ。戦争が始まれば、多くの切り捨てが行なわれるだろう。それは現在のわれわれの理解が甘チャンのものであり、実際には開戦を止めることは出来ず、ただただ「戦争を始めるときの勇気の無さ」の責任を問われるわけだ。どうせ戦場で死ぬのなら、少し早めに反対して死なかったのだろうというよく聞かれる反省を、また繰り返さなくてはならないのだろう。
劇中、将軍が陣中視察をして大佐を督励しようというシーン。 大佐「半数以上が死ぬんですね」
将軍「確かにひどい代償だが、あの丘はとれる」
大佐「それはどうか?」
将軍「国旗の栄誉は君にかかっている」
大佐「・・・」
将軍「何かおかしいのか」
大佐「闘牛じゃないので旗は不必要です」
将軍「国旗を侮辱するつもりかね」
大佐「とんでもない」
将軍「愛国者の言葉とも思えない」
大佐「愛国心は人それぞれ、サミュエル・ジョンソンも・・」
将軍「何者だね」
大佐「いいんです」
将軍「何者かと聞いているんだ」
大佐「文人です」
将軍「愛国心を何と言った」
大佐「”悪党の逃げ口上だ”と。深い意味はありません」
英語を喋っているとは言え、フランスの軍人にイギリスの文人の言葉を持ち出すのは不適当である。

国民の80%ということ

[2006年07月9日(Sun)]
80%が経済制裁強化を要求 全国電話世論調査 北朝鮮のミサイル発射で 2006/07/08 19:26
北朝鮮のミサイル発射を受け、共同通信社が7,8両日に実施した全国緊急電話世論調査によると、送金停止や輸出入規制など北朝鮮に対する経済制裁強化の是非に関し「経済制裁を強めるべきだ」とした人が80.7%に達した。「強めるべきではない」とした人は12.6%だった。

この制裁が戦争に結び付くかも知れず、その際は日本が被害を受けるというよりも韓国がまず1番に攻撃される。そうはならないと高を括っているのだ。しかし、経済制裁によって国家の存立が怪しくなり、西欧諸国は日本という国家を認めていないとして、旧日本帝国は国民大多数の支持のもと、勝ち得ない戦争に突き進んだではないか。常軌を逸した北朝鮮がそうならない、『虚勢』であるという判断の根拠は何か?拉致家族の会の判断か?彼らはいかにも北朝鮮の専門家であるかのように振る舞っているが、責任はとれるのか。結局戦争を始めたのは国民であって、国民の後押しがあるから政府は判断できる、戦争に突入できる。では戦後、開戦責任は拉致家族にはない。これは、対米戦争と同じ構図ではないのか。国民がこんな判断では駄目だ。
私の考える構図では、戦争に反対する国民に対して、政府が強権的に戦争を発動するというときだけ、戦後の責任の所在がはっきりする。*戦時中の被害にかかわるだけではない。*戦後処理において生ずる多くの難民を韓国の負担だけにすることは出来ない。*金の問題ではない、*避難民を日本国政府は引き受ける用意があるのか。*戦後体制について、彼らの中にその支持者を見いだす用意はあるのか。*北朝鮮の人民は自国の非道を理解するのか。*上部構造との関係だけしかない日朝関係で、人民は日本の誠意を見いだすことが出来るのか。特に近来の靖国参拝を心の問題といって、口出し無用と断言する人間を指導者とする国家が・・。
冷静に考えていまは、戦争を望む時期ではないだろう。対話を望みながら、北朝鮮がこれを拒否したという歴史がなければ、必ずや現在の日本と同じナショナリズムに苦しむことになる。
または、彼らの高が正しいとしよう。つまりわれわれは北朝鮮が戦争など出来ないことを知っているからだ。やれば負けると知っているから出来る筈がないという理解か。すると、戦争は出来ないと知っていながら、ギリギリまで持っていってそれでも暴発する国力が無いからいくらでもエスカレートする。それは戦後資料で明らかにされたとき、「止むに止まれず、けしかけられた戦争、自存自衛のための戦争」であったという論が流布するに違いない。その時、正義はわれわれにはない。
テポドンが成功だったのか、失敗だったのかという事にかまけているテレビは何の役にも立たない。焦点をぼかし、国民の頭を悪くするばかりだ。

文化祭のパレード

[2006年07月7日(Fri)]

最近パレードをあまり見ないように思う。交通に支障をきたす恐れがあるという判断か、交通指導に人員を配さなくなり、学校ごとで父兄を配置するようになっているらしい。今回も、どうやらそうらしく先生とおかあさんが交通整理をしていた。復路も見ようと500メートルほど歩く途中で、その忙しい筈の警察のパトカーに出会った。場所は勝毎新聞の前の東1条通り。何と駐車違反の取り締り中だ。なんだ、忙しくないのだ。民間に任せたと言っている駐車違反は出来るけど、学校のパレードに人は割けないということなのか。地元の高校生の行列を先導し、整理することよりも誰の迷惑にもならない車を駐車違反で摘発するほうが彼らの仕事なのだ。久しぶりに見た皮肉に笑ってしまう。市民の警察という言葉が死語になってもう何十年も経つが、この落差を見せられてもまだ市民は警察がどっちを向いているか理解できないのか。
しかも、1台は駐車する許可をもらっているらしく、不審げな人に話をしていた。警察に届ければ良いということなのだろう。権限の拡大である。信用されていない道警が、さらに権限をもった。恐ろしい世の中になったものだ。これが戦後民主主義の行き着く先か。お上に怠りなく報告すれば、許可されるのだからという慈悲の行政。これが審査を必要とするようになるのは、もうすぐだ。
テポドン関係が一つ。制裁を国連安保理に提出していたが、中露が反対しているようで、非難決議に切り替えたようだ。

非難決議案切り替えへ 政府、北朝鮮ミサイルで
政府は7日、北朝鮮のミサイル発射をめぐり先に国連安全保障理事国に提示した制裁決議案について、常任理事国の中国、ロシアが反対を貫く場合は最終的に「非難決議案」に切り替えて両国の取り込みを図る方針を固めた。複数の外務省幹部が明らかにした。(共同通信)

わが日本国政府は根拠を示さず、憶断でものを言っているようだ。この無責任な発言をする政府筋とは誰か。テレビでは、日本海で操業していた漁船の乗組員に、執拗に「どうでしたか?」と質問し、「いつもと同じですけど、怖いですね」と言わせるし、偉い人は今度はハワイを狙っていたようだと言う。ハワイを狙っていたなら、アメリカと戦争する気だったことになるんだぞ。バカも休み休み言え、煽動者め。

テポドン2、ハワイに照準 政府筋が可能性を指摘 2006/07/07 13:33
政府筋は7日昼、北朝鮮が5日に発射した長距離弾道ミサイル「テポドン2号」がハワイ周辺に照準を合わせていた可能性が高いとの見方を示した。根拠は示さなかったが、米軍情報などに基づくものとみられる。米国領土を目標にしたことが明確になれば、米政府の対応にも影響を与えそうだ。
政府筋は発射されたテポドン2号について「だいたいハワイの方向に撃ったのではないか」と述べた。テポドン2号は5日早朝、北朝鮮北東部の花台郡舞水端里にあるミサイル基地から発射されたが日本海に着弾。このため日米両政府は「失敗」とみている。

煽動者と言えば、最近続けてゲーリングの同じセリフを目にしたので、有名なのか同じ出所なのかは分からないがここに引用。

「……もちろん、国民は戦争を望みませんよ。運がよくてもせいぜい無傷で帰ってくるぐらいしかない戦争に、貧しい農民が命を賭けようなんて思うはずがありません。一般国民は戦争を望みません。ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツでも同じことです。政策を決めるのはその国の指導者です。……そして国民はつねに指導者のいいなりになるように仕向けられます。国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。このやりかたはどんな国でも有効ですよ」 (ニュルンベルク裁判での証言) )

テポドン発射さる

[2006年07月5日(Wed)]

今朝早く、ミサイルが発射された。相次いで7発、最後のものは午後5時頃とか。NHKは、盛り上げようと純情キラリをカットしやがった。土曜日にまとめて見ているのだが。停泊予定のマンギョンボン号は、陸揚げを禁止され人道上の見地から、乗客のうち上陸を希望するもののみ(結局全員) 認め、船は北朝鮮に帰っていった。経済制裁があるかも知れぬ。横田さんまで、国政を担当しているかのような物言い。個人的な怒りで、外交を左右するつもりか。呆れた。
北朝鮮は、戦前の日本に似ているのではないかという話をもう一度。ABCD包囲網などの圧力を当時の日本人はどう感じたか。アジア平和のための出兵を、アメリカはどう断じたか。開戦の報を聞いて「遂に来たか」と有頂天になったことを忘れまい。来るべき戦争がやっと来た、と知識人でさえ溜飲を下げたのではなかったか。さらに、今回は小国が野蛮人の国アメリカに潰されないための知恵なのだから、外目にはばからしく見えても、本気なのかも知れない。なにせ、隣は韓国だ。いざとなれば、地上戦で韓国に侵入すれば、アメリカも休戦を急ぐに違いないとの見込みがある。
ニュースでは、北朝鮮は悪者で、気違い扱いだがそれならなぜ、落ちた地点は日本というよりはロシアなのか。測ったように7発中6発が同じような地点に落としたのはなぜか。まだ正気はある。
それにしても、日本と北朝鮮を擬人化しているのは頂けない。違うだろう、政府と国民を区別せよ。なぜ国民に届くメッセージを送らないのか。経済制裁をして、反感を持つのは北朝鮮の人々ではないのか。彼らを和睦を結ぶことは出来ないのか。なぜ孤立しているのかを理解してもらえないと、制裁は戦前の日本のように「やってやろうじゃないの、正義は我にあり」と、金正日の側に追いやることになるのではないか。北朝鮮の人々を標的にしてはいけない。戦争になり、われわれが勝ち、彼らが占領されたとしても、ルサンチマンが残る。いまの日本のように反動が来る。朝鮮の人々は日本人のように忘れやすくはない。

タイガーOSX10.4.7でダッシュボードエディットの最新版を判定するために、7時間に2回の割合でアップルのサーバーと通信しあっているという話がマクにあった。以前iTunesでも、私の嗜好を点検してお勧めの曲を提案するという機能があったがそれは廃立された。今回もそうなるべきだ。どんな内容を知られるか分かったものではない。発見者のダニエル

Keep me in the loop, Apple. And if I’m not comfortable with it, give me an option (short of Little Snitch) for turning it off. It’s my computer, after all.

と言っている。その通りだ。マックは好きでも、われわれを植民地のように扱って、選択の余地がないのならマックは止めるぞ。

BSで『ライフ イズ ビューティフル』を見る。二度目だと思うが、30分ほど経ってから見たものが、あっという間の1時間だった。お父さんの勇気に脱帽。彼もまさか政権党のナチスがユダヤ人を根絶やしにしようとしているなんて思いもつかなかったのだろう。しかし、一日60点ずつ得点したとしても、ご褒美の戦車が貰えるまで二週間。そして連合軍(アメリカだった)による解放があったのだから、45年の4月頃か。その頃、何も感じないでユダヤ人として商売をしていたことになると、ちょっとあり得ない話で鼻白む。最後は少しハッピーで良かった。
ところで、このビックリするような鈍感さは、いまの私に似てはいないだろうか。北朝鮮が狂わない限り、戦争を始めることはあり得ないと思っているのだから・・・。発射実験は軍部のやったことで、政府は関係ないと云っているように伝えられるが、いい加減にしろよ。 強硬な軍をなだめる金正日という構図は無理だ。天皇よりも責任がある。天皇でさえ戦争責任が(国民に対して)あるのだから、金正日はなおさらだ。善人往生す、いわんや悪人をもや。

嫌なことばかりの毎日

[2006年07月2日(Sun)]

テポドンの発射はない。危機を演出すると、日本の便乗者が喜ぶことを知らない筈もあるまいに。危機を煽って得する人達が世の中を動かしているということか。
北朝鮮に拉致されたという金英男さんが母親と会う。一部をテレビで観たが、まことに痛ましい限り。これでは、北朝鮮がどんな非道な国かという証拠をただ増やしただけだが、実際そうなのだからしょうがない。いつもは、好意的に扱う韓国でもさすがに評判は悪いらしい。

【社説】北の政治の遊び場にされた金英男さん家族再会
28年ぶりに韓国に住む母親に会った金英男さんが昨日、記者会見で自分は拉北されたのではないと主張した。
「海水浴場にあった小舟に乗って海に出ると北朝鮮船舶の救助を受けて北へ行った」と言った。本当に開いた口が塞がらないことだ。英男さんの拉致はこの工作に参加した後、南派されてから検挙されたスパイによって確認されていることだ。

16歳という幼い生徒を拉致した後、対南工作教官に育てたことだけでも断罪を受けなければならない重犯罪だ。しかし北朝鮮政権はこれまで黙ってきた。拉致をしておいて被害者にこんな言い訳をさせる北朝鮮政権の非道徳性に怒りを覚える。いつまでこんな嘘の世界の中に生きているのかあわれな気がしてしまう。...

一日は映画の日という事で、昨日は千円でホテル・ルワンダを見てきた。アフリカのシンドラーとは決してほめ言葉ではないと思うが。プロパガンダ映画と思っていたので、期待薄だったが大変良い出来に思えた。
虐殺のさなかに、千二百人をホテルにかくまったという話からして胡散臭かった。しかし実は、民兵達フツ族はかくまっていることや、奥さんがツチであることは知っていたということだ。ゴミ(ゴキブリ)が隠れているので、差し出せば家族は見逃してやると言われていた。襲われる直前に反乱軍RPFが間に合ったので助かったらしい。虐殺のきっかけとなった大統領機撃墜は和平交渉の直後の事なのだから、ツチがやるわけがないという感じだった。
なだらかな丘に道を挟みながら家々がの機を連ねて並ぶ様、そしてホテルでの会話などはフツとツチが共存していたことを示していた。誰も虐殺が本当に起るとは予想していなかったのだ。 主人公のホテルマンも、見通しの甘さのつけを払うことになる。事情は悪化し、国連まで手を引き、誰にも守ってもらえなくなる。「自分は支配階級の一員だと勘違いしていた。違うんだ。ホテルを監督してもオーナーにはなれないアフリカ人だったんだ」と嘆くが、時はすでに遅い。しかし、状況が悪化する中、彼は良く奮闘した。責任をとったというべきだろう。彼の奥さんが好演。夫を残して出獄させられると分かったときの泣き顔はすごかった。こちらも顔がくしゃくしゃになるところだった。ホテルに民兵が入ってきたら、屋上に上がって子供を抱えて飛び降りろと、奥さんに約束させて彼らは辻褄を合わせた。
shameという言葉を、引き上げる外国人カメラマンが使っていた。助けるどころか、映像を伝えられない、何も出来ない苛立ちを表わす言葉だった。あの状況で恥を感じるナイーブさに心を打たれる。わが国の誇る伝統体現者は、開戦の詔書に玉璽を押しておきながら敗戦の時は安泰で、四十年後訊かれても「文学のことは分かりません」とのたまわった御仁に聞かせたい言葉だ。実に嘆かわしい天皇だった。本質的にあの存在を認めることは出来ないが、敗戦のあと彼が責任をとって、自害するなり退位するなりしたらひょっとすると、日本に天皇がいても許せたかも知れない。彼が戦後のアンモラルの発祥の地ではないか。
ホテルオーナーとしてジャン・レノが出演。真面目さが妙に似あわなかった。Million Voices というエンディングが子供たちの合唱で始まり、語り口調で大人が引き継ぎ、ルワンダを忘れないでと歌う。監督は北アイルランドの出身だという。

一日から駐車違反が民間委託となる。北海道では札幌から始まるのだろうか。帯広では、変化なし。

朝日新聞06/6/28
私の視点
高山俊吉
駐車取り締り 安易な「民力」導入見直せ

新方式による駐車違反の取り締りが始まって、まもなく一ヶ月。違法駐車の減少を歓迎する声も聞くが喜んでいていいものか。
道路交通法の規定では、制限速度を一キロ超えていても違反だし、ただちに運転できない状態であれば駐車違反が成立する。だがこれまでは、数キロの速度超過や短時間の駐車は取り締りの対象とはならず、それが法の建前と市民常識の距離を取り持つ調整弁の役割を果たしてきた。それが人手がないという交通警察の事情を反映した判断でもあった。
新制度の導入で、こうした「慣行」は崩れた。物流業者などから悲鳴が上がり、駐車料金の商品価格への転嫁が論じられている。日常的に車を利用する市民も戸惑い、駐車監視員とのトラブルによる公務執行妨害さえ発生している。
車の利用者の多くは、車外で用を足すために車に乗る。車を簡単に停められる合理的なスペースが各所に潤沢に用意されていないことが、違法駐車問題の根源だ。公共用地や民間用地を活用し、駐車場作りに力を注げという各方面に答えず、ただ取り締りだけを突出させる強権発動的な政策は、市民の不満を蓄積させることだろう。

今回の改正では、違法駐車をした車の持ち主が「放置違反金」を払わされる制度も始まった。持ち主が違反金を支払った場合には、運転手は違反の責任を免れると言う「利点」が用意され、実際問題として、警察は持ち主の責任を問えば済むことになったのである。
だが現行法の下では、駐車違反はれっきとした刑事犯罪である、犯罪である以上は、警察が捜査をつくし、違法駐車をした当人を検挙するのが筋道だ。持ち主処分方式は、安易な手法と言う批判を免れない。
また朝日新聞のアンケートによると、回答があった駐車監視の受託法人のうち7割が警察の再就職先だったという。報道は、委託先が天下りの温床になるのでは、という懸念を強く裏付けた。この不透明さを解消しない限り、渋滞解消などと自賛しても、市民の疑惑はぬぐえない。
新制度の狙いは、駐車違反の取り締りに費やされている警察の予算や人員を重大犯罪に振り向けるとともに、民間委託と言う形で「民力」を導入し、交通警察力を強化する事にあるとされる。
だが、交通違反と言う犯罪捜査の一環に、制度的に民間人を組み入れる手法は、法律家として看過できない。それは、捜査の過程で外部の専門家の知恵を借りるのとは意味が違う。
このような外部委託が許されると、速度超過など他の違反の取り締りも拡大され、一般の刑事犯罪捜査にも動揺の方法が用いられかねない。今回の改正の持つ問題点はあまりにも大きく、深い。
警察発表の効果論に惑わされず、私達は警察権力の肥大化を監視し、制度の再検討を始める必要がある。

疑惑を持つ市民はいるのか不安だね。文中のトラブルの話は大げさだ。市民は決まったことだからと大して不平は言わないだろう。それがお上のすることはご無理ごもっともと受け流してきた庶民の知恵という奴だ。しかし、いつも甘い顔をしているから調子に乗って権力はエゴイことをするのではないですかね。われわれも、天下り先を作ってくれろ。

冷凍庫を開きっぱなしにしていたらしい。肉・野菜は全滅。愚かな人間である。その後何事にも集中できなかったが、アイリッシュの「消えた花嫁」に救われる。反省を込めて風呂洗いをする。笑って許してもらえて救われた。

テポドンの発射

[2006年06月20日(Tue)]

子供たちが、テポドンが発射されたかに関心を持っていた。携帯でニュースを見ていたようだ。NHKが首相近辺やアメリカの受け売りをして騒いでいる。借り物の発射技術しかない国のやることを、それを逐一監視できる国が何を騒ぐ必要があるのか。アメリカや中国はもう何度も発射しているから今更演習の必要さえ無いことでも、北朝鮮にとってはほとんど初めてのこと、撃ってみればいい。騒ぐのはそれが日本に落ちて何万人かの人々に被害が及んでからで良い。そうなったとしても、故意のものかミスだったのか外交チャンネルを通じて聞くべきだ。もし、狙ったのなら戦争状態にはいることは仕方がない。それほどに戦争は避けるべきだ。なぜなら、戦争になって死ぬのは何万人ではないからだ。何百万もの人々が北朝鮮で、韓国で、日本で死ぬことになる。(決してアメリカまで被害が及ぶことはない、やっと届くミサイルしかないのに何ができるのか)死ぬのが日本人であれば問題で、日本人でなければ問題ないのか。そうではあるまい。何人であろうと、死は大問題だ。
テポドンを撃ったとしても、それでお終いになる選択をするとは思えない。しかし、昔の日本はそれをアメリカに対してやったのだから、あり得ないわけではない。そうなったら北朝鮮は昔の日本と同レベルだということになり、国家を運営する能力が無いことを証明することになり、何らかの道程を経て国家として消えることになる。そこで金正日体制を維持するとなると、それこそ大日本帝国の天皇制と同じように責任の所在が不明となり、後に尾を引くことになる。どうだろう、天皇制は現在の金体制と似たようなものなのだろうか。まだ少しは歴史的に意味のある制度なのではないかと思うのはわが愛国心のなせるワザか。
サッカーは対クロアチアで引き分けとなり、自力で予選突破はなくなった模様。残るブラジル戦に最後の期待を寄せる向きもあるようだが、これはあり得ないこと。奇跡に賭けるようになってはお終いだ。神風が来ると信じていた日本人がここにもいるわけだ。もう駄目だと思いたくない気持ちが神風が吹くと思わせる。15年戦争はそうしてつづいてきたが、ワールドカップはやがて現実を見せてくれるから少し安心だ。後何日かだけ、夢を見ているがいい。それにしても、この国が戦争をするとしたら、また夢を見続けて、徹底抗戦するのだろうか。
大岡昇平がレイテ戦記で神風特攻に触れ

しかし、これらの障害にも拘わらず、出撃数フィリピンで四百以上、沖縄千九百以上の中で、命中フィリピンで百十一、沖縄で百三十三、他にほぼ同数の至近突入があったことは、われわれの誇りでなければならない。 想像を絶する精神的苦痛と動揺を乗り越えて目標に達した人間が、われわれの中にいたのである。これは当時の指導者の愚劣と腐敗とは何の関係もないことである。今日では全く消滅してしまった強い意志が、あの荒廃の中から生まれる余地があったことが、われわれの希望でなければならない。

と書いている。荒廃した戦局においてなお、強い意志を成就した人々がいたことを正しく「誇る」ことができると、加藤典洋は言うが、そのアンバランスさを美しいものと見ることはできない。こうした状況を呼び込んでしまった自分たちの責任を果たすべく敢行した自殺行ではなかったか。やがてわれわれもそうした状況になることを覚悟せねばならない。彼らはそうする以外に、己の責任を果たす道はなかったのだ。一人昭和天皇が、また軍上層部の人間がその責任を逃れた。昭和天皇はGHQが、軍上層部は日本人が見逃した。衆目の一致するところ天皇に責任があるのは明らかだったにも拘わらずである。このグロテスクさを繰り返そうというのが、伝統を重んじる『国体』の復活なのだろう。だから私は今度の改憲や基本法改定に反対している。

いうほどの不正か?

[2006年06月14日(Wed)]

社会保険庁の不正が問題にされている。国民年金の保険料を払うのは国民の義務だそうだが、低所得者の場合は免除が認められている。この規定を『悪用』して、本人の確認を得ずに、免除を決定していたことが問題だそうだ。最近は少し下火になっているが、偽善の香りがするので考えてみる。
たとえば、信濃毎日新聞にはこうある。

今回の不祥事は、全国各地の社会保険事務所が昨年から今年にかけ、本人の了解を得なかったり、電話の確認だけで免除・猶予の手続きをしていた、というものだ。
なぜこんな不正をしたのか。保険料の納付率の目標達成に向け、あせりがあったとみられている。
国民年金は保険料を納めない人が増え、2002年度に納付率が過去最悪の62.8%にまで落ち込み、ずっと低迷が続いている。これ以上空洞化が進めば、年金制度の土台が崩れかねない深刻な事態だ。
このため、社会保険庁は納付率アップを最も重要な課題に掲げ、全国の社会保険事務所が取り組みを強めてきた。

低所得者に対し、便宜を図ることがことほどさように不正なのか?公平の観点からは確かに不公平ではある。だが、糾弾を浴びるほどに不正なのか。親切過ぎるというのなら分かるが、まるで払えるのに払えない不当な権利を保護してしまっているかのような扱いではないか。保険庁の職員を責めながら、低所得者を盗っ人のように考えさせようという魂胆はないか。 納付率をノルマとして課した当の責任者は問責されない。社会主義の国の考えそうなハッパのかけかたである。こんなことを事件として取り上げるマスコミは、どういう役を振られているのか理解しているのだろうか。あまりに潔癖でナイーヴに過ぎる。ノルマの設定は保険を集める人達にとって、集められる人達にとってどう働くのかを理解せずに、怠けさせないという鞭だけで切り抜けるなんて馬鹿馬鹿しい考えではなかろうか。尻馬に乗った人達および日本のマスコミは愚かである。瑣末な事件を大きく取り上げ、本質的な「年金制度への不信用」を見逃すとは。
私達は、こういうマスコミにリードされ、なぜ年金納付率が減っているのかという話を聞かされることはない。(以前はその話をしていた筈だ)納付を進めること・強要することは、すでに定められた事項であるかのようで、すでに私達の及ぶところではないのか。社会の責任と考えられてきたことを、個人の責任だと言い始めたのは誰だったか、もう忘れたのではあるまい・・・・。

政治に奪われた言葉
大川正彦
2006/6/1朝日新聞
朝のごみだしのあと、テレビをつけるとワイドショーでは現役の国会議員が威勢よく時事放談をしている。つい先日も、深夜の討論番組で長広舌を振るっていた人達だ。
「テロ」がはびこる世界で「国際平和のための国際協力」を果たすのは日本の責務である。犯罪急増で「身近な生活に隣り合う脅威」が増大した今こそ、共謀罪の新設を急がねばならない、云々。政府・与党からは不安をかき立てる問題が騙り煽られ、一挙手にその不安の最終解決が果たされるかのような言葉が千切っては投げつけられる。”分からないとは言わせない”とでも言いたげな、分かりやすい(非)論理の、まさに「放談」=「砲弾」だ。
反対すれば、あたかも国際平和や国際協力など大事でないと思っているかのように、組織犯罪を肯定しているかのように、仕向けられる。異論封殺の危ういトリックが、ここにはある。

野党の側はどうか。旧い話になるが、「国際平和」は日米同盟だけに比重を置く外交を批判する者たちの、「構造改革」にしても資本制社会の内部的改良を目指すもの達の言葉であった。にもかかわらず、政府・与党の「横領」を許し、失語状況に甘んじている。その鈍さ、立ち後れの責任は重い。
ともあれ、ワイドショーに出演する与野党の議員達はカメラアングルに合わせ、ほんの一瞬のうちに、手慣れたカメラ目線で、割り切ったワンフレーズをスッキリと、あっけらかんと言い放つ。政治の言葉はかくも騒々しく空疎、そして軽佻浮薄。なのにどうして力を持つのか、持ちうるのか。
もはや個々には、国家権力という怪物に手を汚して癒える事への厳粛な責任を担う姿など見る陰もない。今日、政治の非専門化、それぞれ普通を生きて暮らす人達にとって、さまざまな媒体を通じて伝達される政治の言葉とは、治者による専権事項、「すでに設定されてしまった選択肢」に他ならない。

それは生活のほとんどすべての領域に食い込み、個々人の情動にすら浸り込み、さまざまな情念の蠢き、揺らぎを一挙に一定の方向へと水路付ける。とくにテレビでは、いったん発せられた言葉を吟味する余地など与えられない。ニュースは「ハイ、いったんコマーシャル」で別の場面に切り替わる。
小泉首相を筆頭とする、テレビを意識した「政治の言葉」の再生産のこうしたありようは、国内のワイドショーにかぎらない。米国の大統領が先日漏らしてしまった様に、いまや世界は第三次世界大戦のさなか、だとか。戦時動員体制となれば、敵か味方かを一方的に迫るスローガンが重要になるのも、統治者の論理からすれば当然か。
言葉は人と人の間を切り裂きもするし、その間を結び直しもする。いま、人々が一方通行で見聞きさせられる数々の「政治の言葉」は、これまで編みつがれてきた関係の網の目を、将来編まれるだろう網の目を、繋ぎ直し不可能なような仕方で切り裂く。
ここには、国家暴力の圧倒的な迫り出しが如実にある。そんな中、それぞれの人生の専門家である生活者がどのようにして言葉に本来備わる繋ぎ直しの働きを奪還するか。小さきものが生き延び生き抜けてゆく際の呪文として抱える言葉を、手間ひまかけて取り戻すか。これが問われている。

あるいは、自分の中でどうしても生じてしまう不安・不信の解消への傾きを突っ放して眺めること。不安に限られない、己がさまざまな情念ーー怒り、歓び、哀しみ、恐怖、怨み、などーーの一つ一つを、どのように語らい、どのように味わうか。さまざまな情念の襞を表出する言葉を、朴訥に、どう紡ぎ直してゆくのか。
つまり、いわゆる「政治/統治の言葉」をゲロとして、吐き出し拒食すること、「こんなもん、まずくて食えねえよ」と突っ返すことがいま、試されているように思う。
いや、それは、いつも、どこかで、行なわれている。生活の中で握りしめられた一片の重い礫として。 ただ、「はい、いったんコマーシャル」のミニ世界からは見えないだけだ。政治家やニュースキャスターからは口にされないだけだ。

こんな嘘っぽい話は聞くに及ばない。

12日頃からサッカーのワールドカップがミュンヘンで始まっている。日本は初戦のオーストラリアにまさかの逆転負け。1-3。実際はシュート数といい、ボールの支配率といい始めから負けていたように思う。オリンピックの解説での教訓はマスコミがテレビで言う話は全く信用できないということ。だから、自分の目で見て判断したい。俊介のまぐれゴールで勝った気になったのが、大間違い。始めから、リードされていたのだと思う。
そう思って冷静に見ていたが、きのうの韓国ートーゴは、韓国の勝利。これを見て日本だけが取り残されているような、ねたましさを感じる。これは以前の韓日共同開催の大会でも感じたことだ。やはり私は日本人であったのかと、愛国心を自覚する。この愛国心は、穏やかに「まだ負けたわけではない」という物分かりのいいファンを見ていきり立つ。なぜ、非難しないのか、なぜぬるま湯に漬かることを許すのか。韓国の頑張りを見てさらに思う、くやしくはないのかと。いかんいかん、どうしても愛国心は攻撃的になり、やがて敵方を非難するだけではなく、味方をも非難せずにはおられないだろう。それが、愛国心の必須付属物である。だから愛国心は権力が言い出してはいけないのだ。逃げる場所がなくなる。

白バラの祈り

[2006年06月10日(Sat)]

帯広で最後の上映の日という事で、CINE十勝へ行く。30人くらいいたのにはビックリ。若い人もいたようで二度ビックリ。お涙ちょうだいではなかったが、いま一か。と言うのも、向こう見ずな先走りが鼻に付く。それで最後は、自由と正義のためになったかのように振る舞っていたのにはしらける。ナチの取り調べの前の生ぬるさには辟易する。日本の特高のすごさを教えてやりたい。若い娘ならただではすまされないだろう。向こうでは魔女狩りのように、自白したからといって罪が減じられることはないのだろう。日本は違う。自白し、仲間を売れば死刑はない。治安維持法で死刑になった者はいない筈だ。日本では、保護観察という免罪装置が働いて、イモずる式に共犯者は分かるし、共犯者はまた、自白すれば許されるからだ。何となれば、日本人である限り日本精神が充ち満ちているに違いないのだから、言えば分かるのだ。ドイツは遅れている。と言うか、天皇ほどの求心力を持つものがいなかったということなのだろう。
一番の不満は、遅かれ早かれ捕まるとは思われるが、無茶なビラ撒きをして仲間を巻き込んでしまった主人公が「誇り」を持って処刑されるというのが気に入らない。周りの協力者にとってこれは迷惑な話だろう。兄は「責任」は自分がとると、大口を叩いたが、取り切れなかったという責めを負っている様子はない。
ビラ撒き、すなはち言論の自由で戦ったのに権力者は言論で攻めてはこない。死刑という暴力で攻めてくる。ここに最初から不公平がある。もし、彼らがヒトラーを暗殺するという暴力に訴えたり、クーデターで首相を殺害とかいう手段にでたのなら、死刑は公平である。が、言論に対して死刑は暴力的ではなかろうか。この不公平が恐怖政治、憲兵政治の実態である。これを認めてはいけない。

ゆっくりした休日

[2006年06月05日(Mon)]

久しぶりにゆっくり起きようと思っていると、夢の中で駐車中に飲酒をしてしまう、これはまずいぞと思っていると、向こうから警官がやってくる。そこで目が覚めたがこのまま寝ると夢の中で捕まってしまうと判断した賢い私めは、起きてしまい休みを楽しむことができなかった。
11時の約束の協会病院眼科へ。半年ぶりの視野検査とついでに眼底検査を受ける。眼底を覗かれながら、脳梗塞をやりましたかと聞かれてギョッとする。何かの徴候が現われていたのだろうか。エピクテートスを携えていったので、ストア派に習って、病に責任はないから考えることをやめる。
その後帰って昼ご飯を食べ寝る。しばらくするとおやつの時間で水ようかんを食べて寝る。きのうにまして何もしない一日だった。
少年が殺された事件の容疑者が逮捕された事と、村上ファンドの社長がインサイダー取引の容疑で逮捕されるという二つの話で、テレビは満載。これにサッカーを加えれば、共謀罪・教基法は何事も無かったかのようだ。
インサイダーの話では、聞いた情報がどの程度の妥当性があるかは関係なしに、違法なのだろうか。検察・警察のやることは、スピード違犯取り締りでも分かるように、みんなやっていても捕まれば違反となって、処分がくる。それと同じなのではないかと、仰々しい取り上げ方が気に入らない。
成り上がりを排除するエスタブリッシュメントのやり口は、以前のリクルート最近のホリエモンでもおなじみの手法だが、大昔の豊田(トヨダ)商事刺殺に敵うものはないだろう。金を買ったと称して大金を預かり、客にはペーパーを渡すのみという詐欺だったが、アパートの前にたむろするマスコミの前で凶行が行なわれた。

事件が起こる前後に多数のマスコミがいたため、 各所で「マスコミは凶行を阻止できなかったのか」と言った自己批判の論調がマスコミに当時多かった。 だが、法律論を抜きにして感情論で言えば、当時この凶行には心情的理解を示す者も少なくなかった。 つまり、それほど豊田商事の手法の酷さは有名であったといえる。(Wikipedia)

冗談ではない、当時心情的に理解した覚えは無い。無法国家の仲間入りという自覚があったのみ。とはいえ、これは「エスタブリッシュメントの報復」とは違う文脈であったようだ。
10時25分からNHK教育でペシャワール会の中村医師が登場という事でみる。今回は、干ばつに苦しむアフガンには医者よりも水が必要だというところか。2000年には井戸を600本掘ったというが、2001年10月アメリカのアフガン攻撃によって、多くの難民が生まれ、カルザイ政権発足によって帰還プログラムで100万人が戻ったとされるが、すでに畑地は荒廃し切っており、再び生地を離れざるを得ないという中で運河建設を考え始めたという話。「平和に暮らすことが大事なのは、アメリカでも日本でも、アフガンでも同じこと」という素朴なヒューマニズムが根底にあり、とても説得力がある。
NHK教育テレビ 2006年6月,7月 月曜日午後10:25〜10:50
(再放送 翌週月曜日午前5:05〜5:30)

   第1回 6月5日放送  アフガニスタンという国で   
 第2回 6月12日放送 ペシャワールへの道   
 第3回 6月19日放送 内戦下の診療所開設   
 第4回 6月26日放送 出会いの記憶〜ペシャワール以前   
 第5回 7月3日放送  医者、井戸を掘る   
 第6回 7月10日放送 9・11と空爆の間で   
 第7回 7月17日放送 旱魃の大地に水を拓く   
 第8回 7月24日放送 日本の若者たちへ
運河を掘るために独学で土木工学を学んだというが、行動力だけではない頭の良さに感心した。
ところで鞭打ち症はきのうより改善されている。今日も寝るときには湿布を張ることにする。

共謀罪、その後

[2006年06月04日(Sun)]
共謀罪、継続審議へ 民主、委員会に応じず
2006/06/03 07:56
与野党は二日午後、共謀罪新設を柱とする組織犯罪処罰法などの改正案の審議をめぐり、衆院法務委員会理事会で断続的に協議を続けた。与党側は民主党案を全面的に受け入れる形の採決を求めたが、民主党は次期国会で政府案に近い再改正を図る可能性があると反発。今国会中の審議に応じない構えで、同法案の今国会成立は困難な情勢になった。

自民、公明両党は二日午後、幹事長・国対委員長会談を国会内で開き、民主党の姿勢が変わらない限り、継続審議はやむを得ないとの認識で一致した

外務大臣が、「組織的犯罪処罰条約」に合致しないことを認めたことと、細田官房長官が「まず、成立させて次期国会で狙いに近づける」旨の発言をしたことを盾にとった民主党の政治的判断だという。まずは、良し。しかし何とも盛り上がらない世論はいったいどうしたことか。警察が力を入れているのは、スピード違反・駐車違反(6月より民営化)・シートベルト装着義務違反など、どうでも良いこと、庶民の生活を脅かすことだけしか浮かばない。また、検察は検察で戦前と変っていない。彼らに任せることは、国民が奴隷になるようなものだ。社会に感謝といい、生かされている自覚を促す主張もあるが、お上に逆らわず、流れに身を任せるのでは駄目だという戦後の出発点を確認したいところだ。時々訪れる激昂老人のブログでも、「都教委が犯罪を創出」という記事で卒業式で国歌斉唱の際に立たないように訴えて式を2分中断させた元教諭に罰金刑が科せられたことを扱っていたが、 コメントに

歌う(起立した状態)ことを強制することと、歌わないことを強制するのはどっちが正しいのでしょうか?国歌斉唱の時に生徒が一斉に座ってたのは、明らかに誰かに何か言われてますよね。
双方けんかを売っていると思うのですが、騒ぐことで問題が大きくなっていると思います。あえて騒がないのも大人の知恵じゃないでしょうか。
静かに歌っている人の大半は「歌っても何ともなりゃしないよ」と思ってますよ。国家(歌の間違い)歌ったから軍国主義になるわけでもあるまいし。
大半の人にとって別にたいした意味はないんですよ。騒ぐことがかえって余計な意味を持たせてるんです。
立つ立たないでもめている現状は異常です。生徒は都教委と教師に翻弄されています。
石原都知事みたいな人は反抗すると余計燃え上がるタイプのように見受けられます。
卒業式のような所で政治活動するんじゃなく、選挙の時にがんばってください。

『「歌っても何ともなりやしないよ」と思うのは、無責任だと思う。「大人の知恵」もやめた方が良い。たいしたことじゃない、どっちでも良いじゃないかと思うのなら、なぜお上の方になびくのか。どっちでも良いと思っているわけではないのだろう。石原氏を起らせることに怯えてどうするんだ。今言わないでいつ言うのか。 』
というコメントを送ろうとしたが、文字コードが合わなくてやめた。上の意見の「邦松」という人は4件中3件の投稿があるようで、きっと常識人を装った無責任男と思うが、抗議のメールを出そうとするとa@a.comというふざけたアドレスなのでこちらも見合わせる。強制に反対するのは政治活動というより日本国国民としての義務だと思うくらいです。しらけたふりをしているうちに流れは勢いを増し、急流となり濁流となった戦前を繰り返さないとどうして言えるのか不思議な気持ちになります。
サッカーが近づきテレビが面白くなくなっているので、ビデオでラグビーや映画をみていると、04年くらいの歴史教科書をめぐる歴史認識についての討論会が入っていた。言いたいことを短い時間で言おうとして、発言者は感情的になっていた。自分も含めてどうも感情的になるのは頂けない。私について言えば、論理的に言えないときこそ感情的になってしまう傾向があるのだが、他の人はどうか。さらにクリスティの『五匹の子豚』も見る。ポアロの解決は説得力がある。あれだけの構想が無くては誰の同意も得られないだろうとおもう。難しいものだ。いつかあんな論証をする機会が訪れるのだろうか。来たとしても、生かせないような気がする。
ところで、三日前からの首の痛みはおそらく『鞭打ち』ではないかと思う。突進を受けて後にのけ反ったときがあったに違いない、年には勝てない。

共謀罪が息を吹き返し

[2006年06月01日(Thu)]

小泉首相が国会の会期延長を拒否したとの報道で、教基法・共謀罪・国民投票法案などの重要法案が成立しないのではと、期待されていたが、今夜一転して共謀罪について強行採決の可能性が高まったとの報道があった。

共謀罪法、民主党案受諾へ 与党一転、今国会成立も
2006年06月01日22時02分
「共謀罪」創設を盛り込んだ組織的犯罪処罰法改正案をめぐり、自民・公明の与党は1日の衆院法務委員会の理事会で、民主党の修正案をそのまま受け入れる考えを表明した。18日の会期末が迫る中で、自民党の細田博之国会対策委員長が受け入れを指示した。民主党は国際組織犯罪防止条約との整合性を政府側が確認することを条件に、2日にも採決に応じる構え。政府・与党は今国会中の成立を見送る方針をいったんは固めたが、一転して成立する可能性が出てきた。
これを受け外務省は1日夜、条約との整合性がとれるかどうか、詰めの協議を続けた。政府・与党内では、民主党案では条約の批准はできないとの見方が強い。与党はとりあえず今国会で改正法を成立させ、次の国会で条約の要件にあわせて再修正を図る構えだ。
・・・
同法案をめぐっては、与党と民主党は1日午前まで断続的に修正協議を続けた。だが、折り合いがつかず、事態打開のために細田氏が同日午後、国会内で民主党の渡部恒三国対委員長と会い、「民主党案を基本的にのむ形で解決を図りたい」と提案。衆院法務委の理事会で、与党が修正案を取り下げ、民主党案に賛成する考えを示した。
民主党修正案では、共謀罪の対象を「性質上国際的で懲役・禁固5年超」という犯罪に限定し、「4年以上の懲役・禁固」とする政府案に比べて300程度減らすことができるとしている。
同法案については、与党側が5月18日に法務委で採決を強行する方針を固めたものの、野党の審議拒否による国会空転化を恐れた小泉首相の強い意向により採決を見送った経緯がある。

いろいろな反論が寄せられているが、つぎの文は『思想検事』で有名な荻野樽商教授の言葉だから重い。

社会を威嚇する恐れ
荻野富士夫
戦前・戦中の治安維持法も、本来は特殊な「結社」の取り締りに限定した法律だったが、運用の過程で対象が瞬く間に拡大され、弾圧に猛威を振るった。共謀罪についても、いま国会でどんな答弁が行なわれていようと、何年か経てば運用者に都合よく乱用され、社会を威嚇・畏縮させる道具として使われることは十分あり得る。
道新5月10日(水)

密告についても
「いいか。暴力団やらテロ集団一味の中から、警察に密告するヤツが出てくると思うか。しっかりした犯罪組織ほど、それはあり得ないんじゃないのか」 という現役刑事の声があるという。「例えば、外事警察の動きを見てください。破壊活動防止とか、本当の仕事に力を注ぐべきなのに、外国人のオーバーステイとか、簡単な事件ばかりやっているでしょ。警察はノルマ社会だから、事件数の統計を伸ばして予算を取りやすくしたいんです。犯罪組織が対象だという共謀罪だって、法施行から数年後、あれっと気づいた時には、犯罪組織よりも市民団体に矛先が向いているだろうことは想像に難くありません」 という公安ノンキャリアの声もあるという。
すでに日本でも「殺人罪や放火罪など一定の重大犯罪については予備行為の段階で処罰可能とされている」という状態ではないか。社会が活力・正当性を失い、警察依存の気持ちが以前より強まったことがその法案を後押ししているのではないか。シートベルト着用を警官が取り締まることに始まって、警察は必要だから、予算や警官はもっと多くて良いと国民が感じていると、与党は思っているのだろう。日本人は民主主義を忘れてしまったのではないか。
水俣病のときの被害者の激昂振りを思い出す。共謀罪があれば、彼らの集団訴訟自体が共謀罪となるだろう。そして、水俣病は存在しなかったことになり、公害はなかったことになるとすればこんなに住みよい社会はない。

いよいよ教育基本法が審議

[2006年05月16日(Thu)]

16日から国会では共謀罪の審議かと心配していたところ、その前にまずは教育基本法攻撃から、らしい。アメリカ教育使節団の報告書、基本法制定時の政府の迷走振りを扱った5月11日付けの朝日の特集、それに載っていた吉川稲美というアナクロニスとの発言を<<近代>>に収録した。この人は、「ただ、国を愛する「態度」というのは引っ掛かる。態度は「心」があって初めて生まれてくるものだからだ。不足しているのは、「報恩」と「感謝」の理念。自分たちは一人で生きているのではなく、ともに生かされている。その事に恩と感謝を感じることが、教育の出発点だと思うし、子供たちに教えて欲しいからだ。」という。態度だけでは駄目だ、心も要求される事になりそうだ。厳かに日の丸を仰ぎ見なくてはならぬのか。心が本当に、日の丸に向いているならば、こうなるべきだと要領を示されるのも近い。東京ではもうやっているか。それから、何に対する報恩と感謝なのか、どこに結びつけたいのか、ここまで来て『父母、郷土』などと寝言を信ずるものも居るまい。彼らが恩を感じるのは『国家』そしてそれを象徴する『××』。国家の源は国民の合意ではなかったか。自民党を与党にしている国民の責任は重い。共謀罪とあいまって、国民を精神的に一つにする隣組の社会の出現は、日本を第二の北朝鮮にすることだろう。『異論はない』社会なんて有り得ないのに・・・。何か行動を起こさなくては、子孫に対する責任を果たすことにならない。治安維持法だって、こんなにあっさりとは決まらなかった筈だ。

教育基本法改正、審議入り
 衆院本会議 2006/05/16 14:35
終盤国会の最重要法案である教育基本法改正案は十六日午後、衆院本会議で趣旨説明と質疑を行い、審議入りした。改正されれば一九四七年の制定以来初めてとなり、焦点の「愛国心」の表現などをめぐり与野党が論戦を展開する。政府・与党は今国会での成立を目指すが、小泉純一郎首相が六月十八日までの会期の延長を重ねて否定する一方、与党内では成立には会期延長が避けられないとの見方が強まっている。
改正案は前文と全十八条で構成。「愛国心」は、「我が国と郷土を愛する態度を養う」との表現で「教育の目標」の一つに盛り込んだ。「生涯学習の理念」や「家庭教育」などの条文も組み入れた。
これに対し民主党は愛国心について、対案の前文に「日本を愛する心を涵養(かんよう)(する)」と表記。五月末までに法案として国会提出を目指す。また教育基本法は憲法に次ぐ重要法案で、審議に十分な時間をかける必要があり、今国会で採決すべきではないと主張している。

アップルからiBookに代わるMacBook13.3inchが発売される。
待ちに待たされて、少し食傷気味。なお、MacBookProは、すべてintel Core duoが2Gigオーバーとなる。12インチは死亡したと間違いないだろう。こうなると、15インチしか考えられないが、スペック的にはMacBookと同等か、キータッチが最大のコダワリだが、6万円の差は大きい。それでも、17インチとの差がありすぎる。貧乏人はマックブックを買え、ということか。
朝鮮総連と民団が和解(?)というニュースが飛び込んできた。

民団と総連、和解へ 
17日初のトップ会談 2006/05/16 22:16
在日本大韓民国民団(民団)と在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が60年にわたる対立関係を解消し、歴史的な和解をすることが16日、分かった。双方のトップが17日午前、初めて会談。日本の植民地支配からの解放を祝う8月15日の記念行事共同開催などに合意する見通しで、共同声明を発表する。
南北首脳会談(2000年6月15日)以降の和解ムードを受けた動きで、当面、常設機関は置かず、在日が抱える諸問題に関する窓口を双方に設け協議を進める。首相の靖国神社参拝問題や竹島領有権問題などで両団体が共同歩調を取ることが予想され、日本の政策にも影響を与えそうだ。

約束

[2006年05月07日(sun)]

東京の八泊九日の合宿で、只一つの憩いがテレビ。朝の連続テレビ小説「純情キラリ」を楽しく見ていた。波乱万丈の桜子をめぐる昭和12年の出来事を綴ったもの。桜子はピアノが好きで、女学校から上野の音楽学校を目指す。家族の皆に反対される中、お父さんの理解をえて目標に向かって邁進するが、お父さんは事故で亡くなる。二番目の姉は、結婚に失敗して家に戻る。嫁ぎ先の進学援助は望めない。いろんな話が目まぐるしく展開される。その中で、いつも思うキーワードが『約束』。してはいけない約束や以前の約束が負担になったり、逆に支えになったりする。12年から、今は13年を扱っているらしいが、ウソだろうという和やかな雰囲気は頂けないが、やがてやって来ると予感される戦争を前にして、確実な約束を得ようとする長姉と、不確実でも心の赴くままに生きたいという桜子の約束をめぐるお話であるように思える。今後の展開に期待する。
きのう、見る気も無くテレビを捻ると「ジョン・レノン」の映画をやっていた。ビートルズはあまり好きではないが、解散を導き出したオノ・ヨーコとの結婚。新聞にヨーコが「醜い」と評されたことをジョンが非難する。本当に「醜い」のなら、遠慮して「美しくない」とか言う筈なのに、「醜い」というからには本当はそうではないことを示しているという屁理屈。聞いて、「過去形は丁寧語」という「心で分かる英文法」を思い出した。時間を離せば、対象と距離をとったことになり、それが丁寧ということだという説明に仮定法を納得。ジョンの話に戻ると、"Give peace a chance"はジョンが作ったのか、戦争を否定して、平和を求めた方法はあまりに幼稚で、屁理屈に聞こえた当時は、嫌われていたが、今残っているのは解散後のジョンの歌だ。枝葉末節を切り落として、コアだけが評価されたように思える。ベッド・インとかは、今見てもへどが出る愚かしさだ。きょうふと、"We shall overcome"を思い出し、口ずさむと涙ぐみそうになる。

あるところでルネッサンスと宗教改革を並べた文章を目にした。

「人間の本質を知らず、何故にわれわれは生まれたのか、何処から来たり、何処へ行くのであるかという事になんの関心も持たず追及されるような学問は無意味である」。これは、ルネッサンスを貫く人間尊重の精神、すなわちヒューマニズムの先駆者の一人といわれるペトラルカの言葉である。ここには、人間を中世の封建的な束縛から解放し、その真の姿をあるがままに追及しようとする態度を見てとることができる。このような態度を下に新たな人間観・社会観・政治観が模索されたところに、ルネッサンスが近代の幕開けを告げた運動であるといわれるゆえんがある。たとえば、プラトンの研究家であったラファエロは演説草稿「人間の尊厳について」において、人間は自らの自由意思によってこの世界に生きる存在であって、他の何者にも従属しないと主張した。彼にとって人間とは、神によってそのようなものとして創造された存在なのである。
宗教改革もまた、近代の幕開けを告げた運動として知られる。しかしそこには、ルネッサンスとは異なって、人間の自由意思を強調する姿勢は見られない。むしろ、宗教改革の思想的な意義は、人間が神のまえではいかに無力な存在であるかを強調したことにある。たとえばルターは「神の言葉は神聖で、真実であり、義であり、平和で、自由であり、すべて善に満ちている」と述べ、人間の魂は神の言葉と一体化すべきであると説いた。かれは、人間を神の恩寵がなければ何事も成し得ない存在と考えたのである。また、カルヴァンはルターの考えをさらに発展させ、神の絶対性と神に対する人間の絶対的な服従を強調した。「われわれは自分のものではない。だから、われわれの理性も意思も、われわれの熟慮や行動を支配しないだろう。・・・われわれは神のものである。だから、神を正当な目的として、ここにわれわれの全生活を隅々まで向けよう」という彼の言葉は、その事を端的に物語っている。このような神の絶対性を唱える立場は一見、「近代」に逆行するように思える。しかし彼らの考えは、信仰を徹底的に人間の内面から捉え直そうとすることによって、逆説的に「個としての意識」を覚醒させたのである。その意味で、宗教改革もまた、近代を思想的に準備したといえる。
このように、ルネッサンスと宗教改革は、一方が人間の自由意思や人間のあるがままの姿を謳歌し、他方が人間の無力さを強調するという、相反するかに見える思想的な土壌に立っている。しかし、このことはその後、本格的に発展していく近代思想がもろい基盤を有していたという事を示すものではない。それはむしろ、近代思想の基盤の豊かさを示すものといえよう。

タイヤを取り換える

[2006年05月06日(sat)]

久しぶりの休日。コインランドリーはお気に入りの清潔な"シャボン"へ。スニーカーも洗ったが、なかなか匂いは消えない。毒を以て制すべきか。帰ってから、タイヤを取り換えるが、大変なことが起きた。前輪右を最初にはずしたところ、ぺりぺりと変な音がするとは思ったが、気にせず取り外すとジャッキが倒れて、車軸が地面に着いてしまった。慌てて、JAFを探したが、お隣さんからジャッキをもう一つ借りて、なんとか車体を持ち上げることに成功。JAFはキャンセル。今まで何十回となくタイヤ交換はしてきたが、これは初めての経験だった。ゴルフお粗末、なのか。ジャッキを当てる部分は、今までの国産車なら、少しくらいずれてても問題はなかった。この車に替えてから本当に良いことがない。しかし、一割給料減の辛い時代だ、新しい車はたとえ中古でも買う余裕はない。ディーラーに持っていったが、心配は無いとのことでホット一安心。
今年は4月の末まで吹雪くという異常気象で、以上もこれだけ続くと尋常になる。雪は涙雪かと納得が行く。
ところで、最近伊坂幸太郎に凝っている。「終末のフール」を手始めに、「重力ピエロ」「魔王」と三冊読んだ。若くて筆は未熟。思っていることが出過ぎて鼻に付く。それでも、感覚というか、価値観が私と同類に見えて、読みやすい。子供のころ、もし三日で人類は滅びるとしたら何したい?と考えたとき、好きなことをやりたいと思ったが、設定にあるように何年か後ということならば、穏やかに滅びることを選ぶのではないか、どうせしたいことをしたってたいした意味がああるわけではなし。パニックになるのは思慮の足りない証拠にしか見えないが、果たして本当にそうなったらどうか。若い人なら、したいことはたくさんあるのだろうが・・。「重力ピエロ」は、血の繋がっていない両親との関係を描く。中国残留孤児を思い出す。なぜ養父母の願いを無視して日本に帰るのか、不思議に思っていた。血は何よりも濃いのだろうか。血のつながりもない孤児を育ててくれ、守ってくれた養父母らにとってもまた、血は尊いものだったのだろうか。それなら彼らは孤児を庇いはしなかっただろう。日本に帰る孤児達は、自分の存在の根拠を否定しているのではないか。私が、彼らの立場なら中国に残るのではないか。日本に来ても生活保護を受けるだけで仕事にもありつけないという現実の所為ではない。自分が生き残ったのは日本のおかげではなく、養父母のおかげだから。もちろん簡単に考えすぎているのかも知れないが、いまのところそう思う。この前の、NHKドキュメントを起こそうかと思いついた。「魔王」は、さらに現実的。ちょっと護憲に走っているような気がするが、心ある日本人なら当然の心配であると思う。

通販生活岩城宏之昭和ヒトケタからの詫び状
・・・僕は昭和七年生まれの、典型的ヒトケタ人間です。戦争中ずっと東京に居たので、敵機の東京空襲のすべてを体験しました。昭和二十年三月十日、四月十三日の大空襲では、明け方まで逃げ回りましたし、こういう大空襲だけでなく、敵機の機銃掃射を避けて、いつも道の傍らで布施をしていたことを、すべて覚えています。
小石川の植物園の近くに住んでいました。四月十三日の大空襲の夜が明けて、焼け残った一角のわが家に戻ったとき、ふと、ひょっとして、このまま僕の家は焼け残るかも知れないと思ったものでした。そして、なぜこう思ったかという自分に気付いて、実にビックリしたのでした。日本はもうすぐ負けるのだと自覚した最初でした。
中学一年に成立てて、思想的にどうのこうのを考える筈も無かったわけですが、やはりあの連日連夜の空襲に怯えていたから、自然に厭戦少年になったのでしょう。
五月二十五日の夜、ついに焼け出されました。夕方、警戒警報が鳴り、家の向いの鉄筋の幼稚園の地下室へ逃げようと道に踏み出したとたん、ものすごい落下音がして、目と耳を塞いで伏せました。僕の体から1メートルのところに三個の焼夷弾が落ちました。幸運にも、火の油脂を一つも被りませんでした。両親と火の手の上がっていないほうへ走り続け、それもたちまち火に塞がれてUターンし、気がついたら真夜中、巣鴨の広大な焼け跡の真ん中にいました。それでも焼夷弾の雨が降ってきました。
しかしいまでも思いだします。命の危険さえ避ければ、無数の探照灯に照らされて、銀色の機体を大きく輝かせていたB29の姿ほど、美しいものは無かったということです。
植物園の中の焼け残った事務所の中で、近所の焼け出されたが共同生活をし、上野から北陸へ、日に二、三本汽車が出ているという情報を聞いて、母と叔父のいる金沢へ逃げました。
金沢の中学に転入しましたが、驚いたのは、一度の空襲も無く、一発の爆弾も落とされたことのない金沢の人達は、、中学校の生徒達も、先生達もすべて、ものすごく軍国主義的に思えたことでした。僕みたいに東京から逃げてきた厭戦の子供と違い、誰もが皇国の勝利を確信しているままなので、あきれ返りました。
すぐに夏休みになり、そして「終戦の勅語」でした。変な日本語はよく解らなかったけれど、これでもう、夜電気をつけて本が読めるようになったのだと思いました。
二学期が始まり、驚いたことに、先生達の言う事が、ガラリと変ってしまいました。「鬼畜米英」「自由主義は人類の敵」と叫んでいたのに「アメリカこそわれわれの模範、民主主義の先生」前学期までの「皇軍の勝利」も、「アメリカこそ手本」も、両方ともウソだなと感じました。「大人は嘘つきだ。彼らがこの国をこんなにひどい国にしたのだ。あんな大人にはなるまい」と心に誓って。あれから六十年、一生懸命大人にならないよう努力して自分に気がつきます。
嘘つきの先生が一つだけ良い事を言いました。
「日本はこれから軍隊を持たない。資源がないのだから、文化を通じて世界中と仲よくして生きていく他はない。 からころ木琴をひくのに夢中だった僕は「そうだ。文化の兵隊さんになろう。」と思っていたのでした。確かに「文化の兵隊さん」なり、世界中を駈け回りました。しかしあるときふと気がつきました。日本の軍備は、世界第4位だかになっていたのです。「やっぱりあの時、このことまでも、大人にウソをつかれていたのか。 すべて虚しく思います。

彼も絶望しているのだろうか。

復活

[2006年05月05日(fri)]

・・・・。 慌ただしい年度末だった。
1月末には室蘭。
4月頭には、東京。これは大変だった。流通経済大学のラグビー合宿所にお世話になったが、とんでもない量の食事に驚く。毎日バーベルをあげるためには必要なのだろうが。江戸川陸上競技場というところで全国のセブンズジャパン。羽田空港は怖くないことがわかった。北ウィングと南ウィングしかないのだ。しかし、流経大がある、茨城県の某市は遠く、どうやっていったのかさっぱり分からなかった。それにしても、この町は徳川時代に開かれたらしいが、じじむさい感じがした。利用した”シャボン”の状態が汚かったのがこの悪印象の原因だとは思うが。クモの巣の張った天井にはビックリした。

これがお世話になった流通経済大学この校舎。変な格好をした学生もいるが、思ったよりも真面目そうだった。のみ終えたジュースの紙パックを垣根に投げ込んだ後、振り返って私と目が合ったわけだが、振り返るという行為が嬉しい、若干の良心を感じた。

晴れていたが、風が強く寒い最終日だった。そう言えば、東京の宿舎は晴海の海員会館の予定が前日食中毒を出したとかで、より高級なホテルを斡旋してもらってラッキー。どこが原因で出てきた食中毒か知れないが、形だけの営業停止の観在り。こういう形で、行政が強くなる事は将来の天下りには有利に働く筈という官僚の読みに脱帽。
そして5月3,4,5日は上富良野と出張。ここは景色の素晴らしい町。想像以上に大きな感じがした。産業は観光と自衛隊の町だという。朝の号令が聞こえていた。三重県津市の安東村からの移住で始まった町らしい。それが明治三十年、その三十年後に十勝岳が噴火して、溶岩流のため千人が亡くなったという。宿泊した社会なんとかセンターも自衛隊のおかげで作られたらしい。

途中で、4月29日に札幌がはいった。スタートコーチの資格をでっち上げる。クラブ潰しか?札幌の駅前は久しぶりにいった所為かずいぶん雰囲気が違う。おもわず駅にはいっている大丸を写してきた。少ししか時間はなかったが、ついてからと立つ前の計二時間をintelMacを触るのに費やす。パワーブックのタッチは違う。速いという感じはあまりしなかった。光速といわれているが本当か?
弱気になっている。その前三十年ぶりくらいに昔の彼女(?)と連絡をとって泣き言を言うと、やはり昔と同じように元気づけられた。
上富良野へ行く途中、諦めていた戦艦ヤマトのばら売り景品の未完成部分が、手に入った。これで、完成した。しかし大和型がもう一隻計画されていたといって、51CM主砲の模型なのでややがっくり。そんなバカなものがあるわけがないし、あったとしたら海軍の気違い加減にいささかうんざり。なるほど日本は滅んだわけだ。日本のどこが否定されたのかをまだ自覚出来ない人達が、教育基本法を改定させようとし、共謀罪を復活させようとしている。「ブログで「愛国心なんて恐ろしいね」と話し合っただけで、誰かが警察に通告・即逮捕なんて世の中はごめんです 。」もう一点、その法律を廃止するという議論そのものが禁じられることになるから反対。戦前の司法の気違い沙汰を見れば、拡大解釈なんぞ平気でやる法曹界に期待するのが間違い。そもそも、戦前の司法体制を彼らは反省していない。反省していたら、平沼一派が再任されるわけがない。
再放送されていた「私は『憶病者』」を収録する。(小市民とは
1日のメーデーで逮捕者が出たという話を出張から帰ってきてきく。どこにも取り上げられていないから共産系のデモだったのかも知れないが、とんでもない話、嫌いな共産系であろうと、メーデーにデモすることを許さない東京都の知事は何者か、そしてその下っ端連中の破廉恥さ・・。世も末である。通行人の一人であったならば、マイクを渡してもらいたいところだ。そこで、『憶病者』であるかどうかを試されるのだが。無謀な警察を批判できない市民だらけだったのだろうか。

早めの退勤

[2006年03月01日(wed)]

Torinoの冬季オリンピックは2月26日くらいで終了。金メダルは荒川という人が女子フィギュアで取ったのみ。選手112名、役員126名を送り込んでの快挙。韓国は、選手40名、役員29名で金6、銀3、銅2という比較もある。ビッグマウスの功罪をいろいろ聴く。それでも、4位入賞の男子回転、女子500メートル、入賞はならなかったが女子のカーリングは夜中まで観戦した。カーリングは、解説者が妙に作戦面を強調していて、具体的にはどうすれば勝つのかが伝わらない、最悪のコメント連発。それでも、終わりころにはやっと得点の数え方が分かった。センターに近い者が勝ちで、得点は相手の一番近い石より、近いものを数える、だと思う。

28日、ジョブズのプレゼンがあって、楽しみにしていたが今回はインテルミニ、とステレオみたいなスピーカーシステムと、Ipodのレザーケースという事で、不発。三時まで起きていなくて良かった。ミニ以外はひたすら珍奇。ミニは、Core-duo1.67という事で、duoが当たり前になりそう。お許しがでた30万を持って買いに行きたいMacBook。しかし、一回は見逃すべきか。その間に、Ibookが死なないだろうか、とても心配。

土曜日から下痢がつづいて、少し心配。風邪ではないかと思うのだが、その症状は全くなし。

今日は久しぶりに雪が降る。10CM位積もったので、今掻いてきたばかり。腹筋が弱くなっている。背筋ではないと思う。

そろそろ人事の噂が飛んで、辛い毎日。4,5年前まではその中心にいたのに、今では声もかからない、冗談にもならないのはやはり寂しいものがある。何のそれなら本業で、とは思っても、それも自分の非力さを思い知る毎日。よく鬱にならないものだと自分に感心する。

イラクが内戦状況だと新聞では言っているがテレビはさっぱりそれらしくない。いったいどうなっているのか。風刺漫画のせいでキリスト教徒やイスラムが何十人という単位で殺されている。

荒川選手のイナバウアーが個人的に気に入っている。勝敗を抜きにして好みで押し出せば、それなりの評価を受けることをいう。使い方は、「○子はわが家のイナバウアー」。

昔ビデオに取った『ライアンの娘』を見終わる。1970年の作品だが、高校二年生の時なぜか見て、マラソンを走りながら(13KMの校内マラソン)、見たことある?と聞き回っていたことを思い出した。もちろん誰も知らなかった。初めて見た恋愛映画ととらえていた。妙な感動を受けたのだろう。今回見ると、英国に占領されたアイルランドの片田舎で、愚かで奔放(?)な女子が中年の教師と結婚するが、途中赴任してきた英国少佐と不倫に陥るという筋。ちんばのマイケルが助演男優賞を取ったらしいが、年季のはいった演技で納得。荒涼とした不毛な土地、アイルランドという場所が通俗低音となっていつも流れていて不思議な映画だ。

一日中コンプ三昧

[2006年02月12日(sun)]

"コンプ"とゆうのはマク用語でコンピューターのこと。言葉遣いも影響をうけてしまひそう、アヒーッ。
Power連合がアップル抜きで復活宣言を出したよう。Power6は、3〜4GHの光速を誇るらしい。それを聞いて、アップルのintel乗り換えに大して疑義を感じる。ジョブズのスピーチによれば、Power5の計画が進まずブックに載せられなかったことが、乗り換えの原因とされていたが、ここに来てできるんじゃないか、と思わせられる。原理的には、シンプルなPowerPCが優位にあることをジョブズ自身が何度も公言していた。それを御破算にしての乗り換えなのだから、十分将来性を見極めての決断だとは思うが、早過ぎたのではないか、との疑念がぬぐえない。そのせいか、昨日は新しいmacBookが、値段の面で下がらなかったこともあって、古いPowerbook12インチにしようかと中古情報を漁った。macBookは高価過ぎて(intelで量産されて値段は下がる心積もりだった!)、12インチは出ないことから、これでは一度もPowerBookのキイタッチを味わうことなしに、身の程に合ったiBook(11万円台か、しかしシングルプロセッサー)となるような予感がしている。しかし、G4は如何としてもフロントバスが細過ぎる。CPUの問題でなしに、In/Outで遅れるのは、これこそ原理的に早くなるわけがない、と思う。ならば、頑張って25万円のMacBookを買おうかという事になるが、再度しかし今のiBookの耐用年数が心配だ。買うまでの間に壊れるのではないかと心配なのだ。今五年目、帯広に来た年の4月ころ釧路のショップで予約購入したあの熱気が懐かしい。

きのう深夜、歯磨きに階段を降りてテレビをつけると、ドキュメント風のダウン症を扱っていた。わが家の息子もsoであるかも知れないと心配した昔を思い出して、見る。12人の子供のうち一人ダウン症、一人脳性まひというアイルランドの軍人の家庭の話だった。脳性麻痺の子は可愛い娘で、知能も変わりがない分、自分のことを自覚していて、涙を誘われる。「なぜ私を生んだの?」と両親を困らせたこともあったと言う。途中のインタビューでは「特別な存在ということは良い事だ」と健気に頑張っていたが、悪いことは、と続けて言葉につまる。無理して言わなくてもいいのに、とこの手のドキュメントに腹立ちを覚える。しかし番組の最後の方で結婚できたらしく、今は安定していると知って安心する。 ダウン症の娘は、そこまで自覚はできないが父親に質問する。「いつから私は特別(special)なの?」「私が生まれた時、どう思った?」「治らないの?」子供のことをおろそかにして、母親にだけ負担をかけていたという父親は立派だった。逃げることなく、自然に話していた。母親は、生んですぐ小児科医に「ダウン症」と告げられたとき、気を失ったという。初めて我が子を見るときに、何と言ったかは必ず聞かれるから『最初の一言はもっとも大切なセリフになる」のだと思った。不用意なことを言うとどうしてもその子に伝わってしまう。大江健三郎のつれあいのセリフ「なんて可愛い子なんでしょう」は、でき過ぎかも知れないが聞いて嬉しい言葉ではないか。
しかしこれは映画だった。『HOST Town  able2』という題名。障害者のオリンピックSpecialがこの町ニューブリッジに日本の選手団を招くことになって、彼らを巻き込んでのもてなしの話だ。彼らは、ただでも貧しい言葉を使って打ち溶けようとする。その誠意がこの町の障害者を堂々とさせてゆき、町の健常者もおおらかになってゆく。ダウン症の子メイヤーは秘書の仕事に憧れ、受付で電話の取り次ぎを練習するが、少しも進歩しない。「Aさんお願いします」といわれて保留ボタンを押して、探すことができない、いないときは「伝言致します」が言えない。何日練習してもちっとも進歩しない自分に涙ぐむ。付き添って指導している人も苦しい、大きな声は上げないようにしているが、厳しい叱責の声に聞こえてしまう。見ている私は、無理だから諦めては、と思うほどだ。
最後には、午前中だけだが受付の仕事をやっていると聞いて、この町のおおらかさに感謝する。いいじゃないか多少のことは、という気持ちが必要だ。
2月5日付けの東京新聞が社説で『敗れる前に目覚めよ』と打っていることがamlで少し話題になる。『男たちの大和』の臼淵中尉の発言を生かしていない日本を、叱咤激励している。
ところできのうからトリノ冬季オリンピックが始まっている。カラフルな欧州のユニフォームに対して、白一色の日本のそれに辛口な批評もある。郷土の誇り清水君はスケートの歯を調整中とか、心配だ。表彰台で帽子を脱がなかったことが、その後の国旗制定に影響を及ぼした誰かさんは今回は出ていないのか?

国旗・国歌といえば『歌わせたい男たち』が何かの賞を取ったという。それはどうでもいいのだが、この脚本はイギリスの舞台のために書き下ろされた物だと言うことで、粗筋をブッシュ・シアターに送ったところ

「あのう・・・これはいったい、何十年前の話ですか?」
「えっ、今の話ですけど・・・」
「今?本当に?」
「ええ、今、本当に日本で起きていることなんです」
マイクさんは困っているようでした。そして、慎重に言葉を選んでこう言いました。 「私は確かに、あなたの書きたいことなら何でもいいと言いました。ただ・・・もうちょっと普遍的なことが書けないでしょうか?」
「これ、普遍的じゃないですか?」
「はい、少なくともロンドンの観客にとっては・・・」
「でもマイクさん、どこの国の話であっても、人間に本当に起こりうることなら、それは普遍的な芝居になるって、そうおっしゃいましたよね?」
「ソーリー! この芝居をロンドン市民に理解させることは不可能です。彼らはきっとこう言うでしょう。この芝居は変だ。もし学校でこんなことがあったなら、全国の先生たちがストライキをして、国中が大騒ぎになるはずだ。なのに、この芝居じゃ全然そうなってない・・・と」
「でも、でも、日本では・・・」
「ナガイさん、もっと文化的に越境が可能なコラボレーションをしましょう」 ということで、この芝居はロンドン市民に振られてしまいました。まぁ、しょうがないことなのかもしれません。この芝居は、海外のメディアが”仰天ニュース”として伝えたという「日本では先生が国歌を歌わないと罰を受ける」話なんですから。

という対応になって、ロンドンでは上演されない事になったと言う。本当のことなのか。島国日本がローカルに過ぎるのか、島国英国が普遍的過ぎるのか、私がなんとか法を超えられないかと悩んでいるのは一体何なんだろうとまたしても思い悩む日々が続くことになりそうだ。日本では、公務員の職務の一環であると言うことで済んでいる、という事情は話したのだろうか。小林恭子の英国ウオッチングをのぞいて見ると、そこはまた、モハメットを風刺したデンマークの新聞の事が話題になっていた。フィンランド、デンマークの領事館(conslur)がイランを退去したそうだが、ムスリムは怒っている。漫画家に死を!と叫んでいるらしい。小林さんのサイトでは、デンマークがあまりに無分別であり、自分たち以外の事に無知で、自分たちの信条「表現の自由」をはき違えているのではないかと言う議論が優勢。これには反対。宗教戦争を越えていないムスリムが勉強不足と思える。それを言っても、状況は改善されはしないが、あまりにも宗教が大きな力を持ち過ぎている。基本的には、私だってイランに生まれれば当然イスラムを信奉するし、ドイツならキリストを、日本なら仏教をという極めて偶然的な出来事でしかないという認識だ。それを絶対視すること自体、愚かに思える。しかし、一部過激派のデモ、大使館焼き打ちは報道されるが、他のムスリムは沈黙を守っている。彼らはどう考えているのか、声無き声の責任はないのか。「私も、風刺は心無い事だと思う。でも、過激な行動をとることは認められない」という通行人の意見も見られたが、批判できない雰囲気はイスラムの中にあるのではないか。昔の天皇教と同じオゾマシイ立場にあるように見える。

横浜事件は免訴となる。無責任裁判。敗戦時のとさくさまぎれの証拠隠滅こそ、無罪の証し。拷問による自白を認めるという立場に立ったことを公認したことにならないか?

ラグビイ日本選手権初戦で早稲田がトヨタ自工に28-24で勝利。ロスタイム二分は攻撃されっぱなしで、はらはらしたが攻撃が途切れそのままノーサイド。あの連携を、始めから見せていたなら早稲田の勝ちはなかっただろう。曽我部のロングパスが圧巻。一本読まれてインターセプトされたが、短いパス、自分で行く可能性もあって、的を絞らせないままだった。久しぶりに興奮するラグビイだった。2チャンネルでは早稲田贔屓の審判ではないかとの文句もあったが。それから、スローインが安定しており、相手のラインでも何本も取っていた。最後には、トヨタは飛ぶことさえしなかったのは、無駄と知っての諦めか。モールも強く、5キロの体重差を感じさせなかった。五郎丸がヘッドキャップをして、いつものふてぶてしさが見えなかったのも好印象か。

中島みゆき

[2006年02月05日(sun)]

いよいよアップルのiTMに中島みゆきが登場した。おもわず、懐かしい1976、1977、1978年あたりの三曲を購入。80年代から以降はあまり聴いていないので30秒の試聴では判断が難しい。アルバム数が35というが、実際はもっと多いという噂がある。最初の三つのアルバムは、まとまりが良い。飽きずに聴くことができる印象。小椋佳はひどかった。全部同じように聞こえる。それが無いことと、曲想の自由さがすごい。才能を感じた。今回聴いた最初のアルバムは、語りが基本という気がする。壮大な、涙で終わるエンディングの似合う歌手ではないか。坊さんの説教が感極まって、絶叫まで昇華し、カタルシスが訪れる、
道新で、『思想検事』を書いた荻野さんが近くに判断がおりる横浜事件についてに記事を寄せていた。長くなるが引用する。

横浜事件2月9日に横浜地裁で再審判決
2006/02/05(Sun)
横浜事件今に問う
荻野富士夫さん
改正重ね凶暴な法に

治安維持法は、横浜事件で無差別的な言論弾圧に猛威を振るったが、1925年に成立した当時、政府は取り締りの対象を限定した形で、むやみに適用されないとさかんに説明していた。
それより前、17年のロシア革命を受けて22年政府は過激社会運動取り締り案を提出した。共産主義に通じる思想の宣伝・勧誘を取り締まるものだ。しかし、国会や世論から「取り締り対象が曖昧で拡張解釈の恐れがある」と一斉に反発が起き、廃案となった。
翌22年、政府は関東大震災で社会が動揺したのを機に、今度は流言飛語の取り締りを目的に緊急勅令「治安維持の為にする罰則に関する件」を発布する。ただ、これもドサクサにまぎれて作ったものなので社会的批判が多く、実際の適用は困難だった。
そこで政府は仕切り直しのため、新たな治安法案を練り上げる。それが治安維持法だった。 取り締り対象を「宣伝・勧誘」という人の内心に置いていた「過激法案」とは異なり、「結社」という形ある行動に絞ったことで、国会内の反対論の押さえ込みに成功。世論の反対運動も組織的な盛り上がりはなかった。
だが、治安維持法は成立の数年後には、凄まじく凶暴な法律へと姿を変えて行った。 大きな契機が全国で共産党員千数百人を一斉摘発した28年の「3・15」事件だ。各地の摘発についての警察発表を、新聞もそのまま報道し、世間に衝撃を与えた。この情報操作が功を奏し、28年6月には最初の法「改正」が行なわれた。「改正」のポイントは最高刑を死刑とする厳罰化と「目的遂行罪」の導入だった。共産党の目的遂行に手を貸した人達、つまり結社の周辺にまで網を広げたわけだ。これで法の威力は倍増した。
政府は30年代半ばに再び「改正」案を提出したが、この時は他の案件の審議の都合などで廃案になった。ところが、当局は「改正案は議会で大方の理解が得られた」と云う勝手な理屈により「改正」案に沿った拡張運用を展開し、共産主義の温床と見なされた自由主義、宗教団体にも適用範囲を広げた。
そして太平洋戦争開戦直前の41年3月に二度目の法「改正」が実現した。条文はそれまでの全七カ条から一気に六十五箇条へと膨張し、考えられるすべての反国家的な言動をあらゆるところからえぐり出す、自由自在な適用が可能になった。そうした中で横浜事件は起きた。
今度の再審判決では、裁判所が自らも含めた当時の司法・警察の責任にどこまで踏み込んで語るかが焦点となる。特に、特高警察と共に当時の治安体制の両輪をにないながら、戦後も人脈や理念を直接的に受け継いだ検察が、今回の判決を受けてどのようにコメントするのか、そこにも注目したい。そして、ビラ撒き程度の行為が司法処分の対象となってしまう現代の状況に、判決が少しでも警告・歯止めとなることを期待している。
「現代の治安維持法」とも呼ばれる共謀罪は、国会で再び審議されていく見通しだ。大正は限定的といくら事前に説明されようと、成立してしまえば瞬く間に弾圧立法へと「脱皮」する危険があることは、治安維持法の例を見ても明らかだ。戦前・戦中の治安体制が決して治安維持法だけでなく、周辺のいくつもの法令、制度、機関の総体として形成されていた構図を思えば、現代においても、共謀罪に限らず、言論やメディアの自由を封じかねない動きの全体像に目を光らせる必要がある。

後半の「裁判所が自らも含めた当時の司法・警察の責任にどこまで踏み込んで語るか」などは、秀逸である。時代の流れなのだから仕方がないこととして判断を保留するしかないのに、何と言う不遜な語り口であろう。絶望の一歩手前という、感じを持つ。他の国から比べたらずいぶん良い国だろうけど、性懲りもなく過去を繰り返そうとする国が良い国であるとはとても思えない。"私"がそういう国にしてしまったのだけれども。生徒に日の丸強制はありえないと明言したにもかかわらず、声の大きさを計ったり、大きな声で歌わないのは教師の責任だということで教師を糾弾したり、つまりは生徒は大声で歌わなければならない事になっている。ベリタの記事では、再発防止教育を受けている要注意教師の報告会に私服公安が十数人出たということだ。革命を叫んでいるわけでもないのに、大げさである。

溜めていたビデオを一本消費する。今日見たのは「サイダーハウスルール」。なかなか面白かった。孤児院で育った助手が、青い鳥を求めて世間で出るが、リンゴ酒醸造の手伝いをしながら、ルールを学び、やがて孤児院に偽医師として戻るというありえない話だ。none of your businessという言葉が何度も出てくる。お前の仕事は何だ、という問い掛けが何度もされる。雇い主が作ったルールに従う必要はない、俺達のルールは俺達が作ると言った親方が、実の娘を妊娠させていたことが分かり、彼なりの責任の取り方をする。何がサイダー・ハウス・ルールなのか、教えてもらいたい。ちょっと考えても分からないし、何か大事なことが言われているような感じもしないので、もう一度見るかどうか?
今週はブルース・ウィルス主演の映画と、スナイパー物の『スターリングラード』を見る。『スタ』は前にも見たことがあるのを、母親に「息子さんは国を裏切ってドイツに逃げた」と彼の死を誤魔化したところで思い出した。死よりは望みがあると考えての言動。ソ連はひどかった。退却する兵隊を撃ち殺す。フルシチョフがやってきて、逃げた兵隊の家族を処刑しては、という提案を「それはもうやった」と答えた。"コーカサスの羊飼い"が銃の名人であることを知っていた党員が「希望を下さい」。厳しいだけでは士気は上がらない、今必要なのは希望だ、英雄だというわけだ。そしてこの羊飼いが、英雄に祭り上げられる。祭り上げた当の党員は恋の鞘当てに破れて彼のために標的になって死ぬが、直前に「認められない人のいない世界になるのではないかと社会主義に身を投じたが、愛を得られない人間を救うことはできない」とかいうセリフを残す。スナイパー同士の戦いも見物である。

出張から帰る

[2006年01月30日(mon)]

昨日一時40分発の汽車で、室蘭に5時半ころつく。駅前は寂しく、食事はいまいちのお好み焼き。ホテルで食べれば良かった。テレビの映りがまたひどい。それでも『二人のさっちゃん』を見る。反戦ビラ撒きで逮捕されたさっちゃんと、治安維持法で逮捕されたさっちゃんのこと。昔のさっちゃんは,組合活動が和気あいあいとして楽しかった、気がついてみればみんな共産党員だったという。その関係のみで特高につかまったらしい。厭戦取り締りの特高だった人もでていたが、今は立場を変えて、『いつ皆さんがつかまるか分からない時代になった」と警鐘を鳴らす。もう一人のさっちゃんはいかにも反戦の闘士。小さい体で反戦歌?を歌っている。ちょっと感情移入はできない濃い目の味。でも彼らを突破口に逮捕の手は私にも向いていることを感じる。ビラの内容も非常に常識的。

ところで、三日前に『マイノリティ・レポート』を見た。スピルバーグがかかわっていたことにビックリ。この頃は、宇宙戦争みたいに頭でっかちになって面白くない印象だったが、これはやや良。最初に、妻の浮気現場に出くわし、殺そうとするところを予知されていて、犯行前に逮捕されるという導入からすでに、未来における犯罪を取り締まるという事自体に?が付く。ただ、マイノリティ・リポートという名の由来は弱い。考えたことは、犯罪をすべて取り締まる必要があるのか、ということ。導入の殺人にしても、忘れたけどもう一つの殺人にしても、起っても仕方のない必然的な殺人。ここでやらなきゃ、男じゃないということをなぜ防ぐ必要があるのか、起るには起るだけの理由がある。それを、防止することは自由の問題ではないかということを考えた。今話題の「安全か、自由か」とつながるように思った。
カラマーゾフでは、宗教が中心になってきた。神がいないところで罪はありうるのか、神がいなければ何でも自由になるのではないか。小論などで問題になりやすい『臓器移植』について考えた。科学技術が進歩して、以前の人間ならばできないようなことが可能になり、致命的な病症も移植などによって治療できる時代になった。しかし以前ならば、運命だと諦めていた領域が、いわば神の領域が人間の領域に降りてきた訳だが、これは果たして是か?不思議なのは、神がまだいる筈の米国で移植が盛んだということだ。」
防衛庁が省昇格を狙っているという話がいよいよ動き出した。そうなった暁には、施設庁と合体するという話があった。その足固めとして、施設庁の談合が発覚。如何にも施設庁は監督下におかれるべき存在,と見えるように情報操作している。防衛庁本体で同じようなことが行なわれていないと、言い切れるのか。防衛庁からの天下りがやったことに防衛庁は、責任はないのか。アメリカはアイゼンハワーが産軍複合体を監視するように世論を喚起していた(NHKBS2005 Why We Fight)が、日本では政府が目隠しをしている。何という違いか。

高校入試

[2006年01月29日(sun)]

息子の入試が近づく。こんなに心配になるとは思わなかった。現実は厳しいということか。
「カラマーゾフ」もあと下巻を残すのみ。今日の出張中に読み切る予定。昨日は、読む気になれなかった。しかし、世に言われる文豪像とは違って、読みやすい。二十年以上も前に、ドストエフスキイの『白夜』当たりから読み始めた時にも同じ感想を持った。五木寛之と同じ流行作家ではないかと思った。それが、『悪霊』あたりから詰まらなくなって途中挫折。今回はいきなり最晩年作を読んだ。ただし、アリョーシャの人物像が平板でつまらないという感じはある。ありきたりの傍観者、でき過ぎた人格者に過ぎるように見えるが、この後どう関与するのか。そう言えば、『白痴』のムシュイギン公爵(?)も、理想的に過ぎて、思想物臭く、途中廃棄した覚えがある。

麻生外相がまた暴言。 道新29日朝刊一面によると『天皇の靖国参拝を』とある。「英霊にしてみれば、天皇陛下のために『万歳』と言ったのであって、総理大臣万歳と言った人はゼロだ。天皇陛下の参拝が一番だ」A級戦犯が合祀された1978年以来親拝が途絶えているのは「公人・私人の問題」だという。小泉首相の参拝について「中国が(反対と)言えば言うだけ、行かざるを得なくなる。(タバコを吸うな、と言われれば吸いたくなるのと同じだ。)恐るべき頭の持ち主である。反動が行動を制御しているという認識、それを認めているところが問題だろう。愚かしい。首相本人も「反発しているのは中国と韓国だけ」とも発言しているが、一方で「同じ国民の中に反対があるのが分からない」とも言っている。

首相の所得格差は広がっていない、という発言の基になっているのは1999年までの古いデータに基づいた阪大大竹文雄教授の研究にものであることが分かった。内閣府は「004年の統計を使って独自に分析したところ、それ依然と同じ結果だった」と釈明」。ところが研究者間では「経済格差が拡大したとの合意が、ほぼ成立している」という。さらに、所得格差に否定的な見方をしてきた大竹教授も「若い世代で所得の格差が拡大したのは間違いない」と言っているそうだ。(すべて道新による)
政府見解というものがいかに怪しいものであるかが分かる。いろいろ議論があるところに、最終的な裁断を下す意味で政府見解は大きい。思えば、1968年に水俣病の原因がチッソの廃液であることを確定したのも、政府見解の発表だった。あれが出るまでに、実に十年以上も研究を重ねていたらしいが、今回の見解はいかにも拙速である。どちらを向いた見解か、によって速度が決まるのだと思えば納得もいくが・・・。

ドストエフスキイ

[2006年01月23日(月)]

最近、ドストエフスキイの「カラマーゾフの兄弟」を読んでいる。上巻の大審問官を読んだところだ。長兄イワン作った詩だという。審問官の前に、イエスが現われる。彼を、否定して明日は縛り首にする、その理由に説得力がある。イエスの言ったことについて行ける者は少ない。大多数の民衆はどうしたら救われるか、彼らを救うために審問官達は苦労してやっと此処まで心地よい堕落をこの世にもたらしたと言うのに、今ごろ出てきて何をするつもりなのか、というわけだ。 似たような話をする機会はあるだろう。
来週の日曜から月曜にかけて出張が入った。そのおかげで、もう一つの出張には行かない。そちらの方が本筋なのだが、戦力外通告されたというところか。仕方あるまい。ところで、出張に持って行く予定だったiPodnanoは買えないようだ。ガッカリだが、お金がない。
センター試験が昨日で終わる。今年はまったくやる気なし。此の頃、自らの愚かなことに気付くことが多くてイヤになる。
ホリエモンが今夜逮捕された。彼は自分たちは違法と合法を計っており、自信があるからここまでやって来た、と言う。早稲田の先生は、一つ一つは違法ではなくとも全体を見れば市場を操作したことが分かるという意味で違法だという。後からこじつけたとしか思えない、信じられない言明だ。最近の、マスコミの豹変も嘆かわしい。確かに以前にも、違法すれすれだとか、市場関係者が自粛していることを堂々とやっているとか言われていたが、彼らは持ち上げていたではないか。勝ち組の代表ではなかったか。それが今では、検察の言うがママに『検察はこう言っていますが・・』。情報に流されて、自分たちで調査はしないのか。尻馬に乗っていると言われても、抗弁しようがないだろう。東京の取引所が、ライブドアの売却株を処理しきれなくなって、18日取引を停止した。グローバルにも影響があったようだが、今は落ちついている。株を売り抜けようとする人達も見苦しい。ホリエモンの言うことを信じて株を持った者が何を言うか。それこそ、自己責任という奴だ。市場の信頼を取り戻すために、検察が出るというのはにわかには信じられないと言う気がするが、良心的な人達の方が「当然だ、いい気味だ」と思っているらしい。腑に落ちないが、ホリエモンが胡散臭いことは始めからだった。私はエスタブリッシュメントの反乱と見る。決して良い教訓にはなりえないと思う。拘置所に入る場面を見せられたが、わざとらしい演出過剰気味で、辻本逮捕・戸田逮捕と重なる。
自己責任であるべきものを検察が親切にも信頼回復のために手を打ってくれたことよりも、耐震偽装や危険部位が輸入された拙速な牛肉輸入再開の方が、権力がかかわっているだけに大問題だろう。なんとか委員会は、どういう顔をするつもりだろうか。首相はアメリカに厳しい姿勢で臨むらしいが片腹痛いワ。
拉致問題を扱ったドキュメントがアメリカで評判になっているようだ。良いことだ。事の異常さ・悪質さが広まれば、私達日本人も過去何をしてきたかを反省しなければならなくなるだろう、良いことだ。
六ケ所村の原発誘致のドキュメントをちらっと見て、鎌田慧のドキュメントを読む。その中で、水俣病のことが出てきたので、原田正純さんの『水俣病』を再読。すると昨日深夜NHKで水俣を扱うドキュメントが二つ放映された。チッソの会長は、工場の廃水が原因であることを知っていたにもかかわらず、無機水銀が有機水銀に変る理論がなければ自分たちの責任とは言えない、と逃げを打つ。どうするつもりだったのか。強弁しているうちに、忘却がやって来るという神頼みだったのだろうか。ヒューザーの偽構造計算と同じ心境か?自分に引き下ろしてみれば心理的には分かるというところが、情けない。

林檎人のお正月

[2006年01月15日(日)]

一月十一日は林檎人の大晦日で、翌十二日はお正月。なぜかと言うと、MacWorld2006があったから。夜の二時から、四時まで実況掲示板を見る。ipodにラジオがついたと聞いて、期待したがアクセサリイであったのにはガッカリ。需要はないのだろうか。one more thingでmacBookProが紹介されて、ガッツポーズ。PowerBookの4倍の速さと聞いてまたポーズ。デザインは、いつものようにビックリセンスを期待したが、今回はPowerBookを踏襲したようだ。さすがに、Cubeみたいな感動をいつも期待する方が無理。と、ここまでは満足していたが、お値段を聞いてビックリ。安い方で25万円。何と、PowerMacG5のQuadと同等ではないか。15万しか用意していないのだ。一挙に諦めた。思わせぶりの終わり方をしていたので、apple創立30周年の記念日である4月1日に再び期待する。6月のmacworldでもいいや。とは言っても、5年目のiBook、3年目のyanoディスク、どちらも心配だ。
冷静に考えてみれば、もともとPowerBook自体がコストパフォーマンスは低いのだから、貧乏人はiBookを買え!ということなのか。しかし何のためののインテルへの乗り換えだったのか。同じCPUなら、VaioTtypeだって良いではないか。ならば、dellはもっと安いぞ。ということで、息子が言うようにマックにこだわる理由だって、無くなりつつあることをappleは理解しているのか。それに、最近のipod重視はエンタ関係へ大きく志向を変えつつあるのではないかと、Appleの行く末が心配だ。しょうがないから作って売っているコンピューターになりつつある。少なくとも、同じインテルで、同じ土俵に乗ったのだからもう少し安くしてくれ。それでないと、生きているうちに、Powerbookのセンスの良い打鍵を味わうことがないかも知れぬ。
今週の朝日で、中国愛国者同盟のメンバーである馮錦華(ホォン・チンホワ)さんが紹介されていた。反日の中心となって活躍する彼は実は日本語が流ちょうだ。94年山西省から法律の勉強をするため、来日し印刷工場で働きながら、日本語学校、大学に通い、都内の国際電話関係の会社に入る。人間関係を壊さないため、旧日本軍による行為について話すことはなかったが、日本人がまったく知らないことにがく然としていた。01年、首相の靖国参拝で、中国から反発があって、日本のネット上に日本を正当化する意見が溢れた。抗議しなくてはならぬと、靖国のこま犬の台座に「死ね」とスプレー書きした行為が器物損壊罪とされ在留ビザが降りなくなって、翌02年帰国する。暴動となってはならない、あくまで誇りある抗議行動と、サッカー暴動の際は、制止に回った。しかし、反日行動=相互理解のための「手段」と信じているようだ。と、記者は結んでいる。強い行動に出れば、強い反発が出てくる社会になっている日本を、見間違えてはいないか。中にいる私でさえ恐い社相だ。自由にものが言えない社会になっていることを理解していない。
ここ帯広で正月に日の丸を揚げている家はない。少なくとも近所の20軒の中にはいない。しかし、どう考えてあげていないのかは、安心できぬ。ひよっているだけなのかも知れない。卒業式では日の丸に最敬礼するのだから。木下恵介の映画が連続放映されていた。1954年の、学園もの。旧弊な女子大の中で、昔ながらの教育をしようとする大学に対して、反乱を起こす。が、それには条件がある。裏に組織があってはいけないのだ。共産党の影響を排除した上で「自分たちの実感に根ざす」要求であることが大事なのだ。この時点でも、すでに今と同じことが云われていたのだと妙に感心する。さらに1960年の、道路工夫もの。泣けた。人にバカにされるような職業を持った親の期待に沿うように努力する息子の物語り。私の父親も日雇いの人夫だったが、何が悪いのか分からないが、映画ではくやしい職業の代名詞。それはさておき、息子が入学した甲府の高校の式の壇上には何もなかった。日の丸は張ってなかったぞ。すると、修礼は何のためかが分からなくなるのだが。今では、あるのが当たり前の旗が60年の映画には登場しないことを銘記すべき。

年賀状を書かなかった年

[2006年01月08日(日)]

昨年は印刷を頼むことにしたせいか、年賀状を書くのがおっくうになって来たら出せばいいと思っていたら、44枚しか元旦には来なかった。奥にも人望がないねえ、と呆れられる。

今日の新聞から
2006年01月07日13時32分

安倍官房長官は7日午前、読売テレビの報道番組に出演し、首相になった場合の靖国神社参拝の対応を問われたのに対し、「国のために戦い命を落とした方々の冥福を祈るのは当然だ。その気持ちを持ち続けたい。他方、(中国側の靖国参拝に対する)誤解を解くべく努力することが必要だ」と述べた。靖国参拝を続けながら理解を求めるべきだとの考えを示したものとみられる。
安倍氏はまた、「誠意をもって誤解を解きたい。問題があれば、お互い誤解がないのか、対話していくことが私は本来の外交のとるべき態度ではないかと思う」と述べた。

首相になるつもりらしい。馬鹿馬鹿しい話だ。
『当然だ』という事が、なぜ理解してもらえないのか。中国だって、戦没者は祀っているだろう、日本が同じことをしてなぜ悪いのか、となぜ説得できないのか。『同じ』じゃないからだろう。最初から云っているのは「A級戦犯」のことだ。しかし日本国民からも言おう。靖国は天皇のために死んだ者たちを祀る場所だ。国家のために死んだのだとは言わせない。「天皇陛下バンザイ」と言って死ぬことを美談に仕立てたのは誰か。新聞が勝手にやったとは言わせない。誰も否定しなかったではないか。神様だったではないか。少国民を国家=日本の国と教えたのは国家ではなかったか。靖国は天皇のために死んだ者たちを祀る場所だ。では次に、天皇のために死ぬという死に方をどう考えているのか。続けるのか。(もう一度やるか?)生きた人間を神様扱いする者は気違い扱いされる。狂気のままにしておくのか。何のための敗戦か。道を切り開くのか、開き直るのか。
さらに、あの戦争を正義の戦争という靖国は、もはや国民の慰めの場所ではありえない。遊就館は、醜い過去の日本を曝して恥じるところがない。聞きたいものだ。正しい戦争ならば味方が現われたか。独りよがりの正しさではなかったか。 靖国は、変質してしまったのだと考えるべきだ。
それでも、なお国民のために亡くなった人をどう祀ればいいのか、という問題は残る。 加藤典洋の「敗戦後論」を三読目。何回読んでも彼はよく分からない。けれど、いっとう最初の、日本のおかれた不思議な立場の話はよく分かる。「火事の中、地面に倒れた。と、誰かが自分の上に覆いかぶさり、気がついたらその人はもう灰となり、すでに火は消え、自分はその灰に守られ生きていた。その自分の真っ先にすべきことが、自分を守って死んだその人を否定することである」というのが、60年前の敗戦の本質だという。
難しい。
文芸評論家という輩は、文学から見たら寄生虫のように見えるだろうと思っていたが、作者が考えてもいなかったことを指摘する快感みたいなものがあるのだろうなと、今は思う。いろんな事をよく考えていると感心する。引用の多さにビックリする。
ひょんなことから、奈良女子大に勤めていた岡潔のアーカイブを見つけた。1914年くらいからのメモ、日記、計算などを所蔵している。よく考えている。ひとつの成果の背後に百の無駄があると言ったらしいが、天才にしてもそうなのだから、我ら凡人がちょっと考えて捻り出すものに正当な根拠がある、なんて考える方が馬鹿らしいという気にはなる。もっともっと無駄をするべし。

映画『ホテル・ルワンダ』についてのBSがあった。主人公のホテルの経営者が日本にきて講演をしているらしい。国連にさえ見捨てられたルワンダ。ダレール司令官を評価しているようだった。「司令官が国連本部に『虐殺の予兆がある』と報告したとき、官僚的な指示しかできなかった」として、以後改革が為されているという。『ルワンダを繰り返すな』ということだ。一方、カガメ大統領の評価はなかった。さらに今でも、一触即発の状況にあって現政権の責任だけにできないといっているところから察すると、悪い評価ではないかと思う。

大学入試の小論文問題をいくつか読んでみる。広島市立大学で佐伯啓史の文章「現代日本の『不幸』はデモクラシイが成立していないからなのではなく、むしろそのデモクラシイがあまりに規律を持たず、いわば無責任な言論の横溢をもたらしているところにある」がでた。確かにその通りと思った。私の頭にあるのは安倍、中川、小泉のことである。
それはどうでも良いが、なるほどと思ったのは、一ツ橋大学後期社会にでた内田樹の文章である。これを読んで「大衆社会の特徴」を600字以内で、あなたにとって「倫理的に生きる」とは、どういうことかを900字以内で述べよと、いう問題。150分あるから現役生には苦しくはないのか?
この前考えた社会契約説の倫理「他人の身になって考えよ」に対して、ニーチェの否定(奴隷道徳)、それを越えようとする村上龍の答え「倫理的に生きるということは長い目で見れば経済的合理性に合致している」を示し、これに応答する形で最後に内田自身の答え「社会の全員が『自分みたいな人間』になっても、生きていけるような人間になる」を示している。

元気なし

[2006年01月03日(火)]

大晦日から、『君たちと現代』(80年)という、宮田光雄という人のかいた子供向けのジュニア新書を読み始める。どこかで、見たことがある名だと思っていたが、『西ドイツの精神構造』という本を書いた人だった。これも早めに読んでみなくてはならない。うまく行っているといわれている西ドイツでさえ、ネオ・ナチの浸透がある、という話だ。日本で「新自由主義」や「修正史観」が流行るのは当然と思われる。
さて、宮田さんはフランクルの話をひいて、人間には三つの価値がある、いわく創造価値、体験価値、そして態度価値だという。

かけがえのない人生
人生は、一人ひとりの状況に応じて、異なった行動を取るように呼びかけています。したがって、人生の意味について一般的に答えることは誤解を招きやすいように思います。ここで言う人生は、常に具体的なものとして考えられねばなりません。それは一人ひとりにとって、ただ一回限りの、かけがえのない人生だということです。私の人生は他の誰の人生でもなく、私の人生です。それは、他の人生と比較することもまた取り換えることもできないものであります。それぞれが独自の意味と課題を持っています。だから、ある人の人生の活動半径が大きいか小さいかということそのことは、重要ではありません。人間が自己の使命、その生きる意味をどれ程満たしているかということが、大切なのです。
強制収容所の中では、人間は生きる意味をすべて失ったかに見えます。しかし、フランクルの体験によれば、誰であれ彼からその苦悩を取り去ることはできなかったのです。誰であれ彼に代わって、彼の苦悩を苦しみ抜くことはできなかったのです。この運命に直面して、この苦悩を彼は自分で自分に引き受けたのでした。そしてこの引き受けの中に自分にしか出来ない「業績」を成し遂げうる、ただ一つの可能性が存したというのです。この事実こそは、人生がかけがえのない独自性と一回性とを持つことを否定できない確実さで彼に教えてくれたのでした。そしてこの考え方こそは、生命が助かるなんのチャンスもないように見えるときに、なおフランクルを支え、彼を絶望させなかった唯一の思想であったというのです。

私が職業生活に入った白糠での経験を思い出すだに恥ずかしきことの数々、今はただ反省するばかりであり、さらにあれから自分は何の進歩もしていないのだと思わせられることばかりで『元気なし』状態なのだが、なんとかフランクルの忠告を受けて元気になりたいものだ。
さらに、宮田さんの本ではさらにヒットラーのことを取り上げたハフナーの『ヒットラーについての注釈』(79年訳)という本について、否定的に取り上げている。何と、この本も持っていた。読んだことがあるとは思うが、読み飛ばしていただけ。
ハフナーは「あれ程の支持を受けていた理由は何か?」ということについて、恐怖による支配・演説による鼓舞・断固たる破壊と、その魅力を語ることができる。しかし、彼は信頼を得るにたる実績を上げたことを認めねばなるまい、と言う。
それは彼が起点となった、三つの奇跡だ。600万の失業者を1936年には完全雇用の状態にした経済奇跡。近代兵器のない十万の兵をヨーロッパ最強の陸・空軍に変えた軍事奇跡。そして、オーストリア、チェコ、ポーランドを占領併合した外交奇跡。それも無血で・・。ヒットラーは言う。

さらに、私はかつて民族と人間に要求されたことのない賎しい無法行為をその448か条に含むかの条約を、一つまた一つと取り除こうと努めた。私は1919年に奪われた地方をドイツに再び取り返した。私はわれわれから引き離された何百万もの実に不幸なドイツ人を再び故郷に連れ戻した。私はドイツの生活空間の千年にわたる歴史的統一を再建した。そして私はこれらすべてを・・・血を流さず、下がってわが国民もまた他の国民にも戦争の苦しみを与えずに成し遂げようと努めた(1939/4/28演説)

最初はデマゴギイによって、次にはテロによってしかし最後には実績によって人々は納得させられた。

「昔からのヒットラーの反対者や教養のある上品な市民が、いや敬虔なキリスト教徒やマルクス主義者さえ、1930年代の中期と後期にヒットラーの否定できない業績と引きも切らない奇跡を前にして自問したことはーー自問せざるを得なかったことはーー
『自分自身の尺度が間違っているのではないか。自分が学び、信じていたことが、もしかするとすべておかしいのではないか?自分の眼前で起っていることは自分が間違っていると告げているのではないか。世界が、経済の世界、政治の世界、道徳の世界が、本当に自分が信じている通りのものだったら、こんな男はあっという間に世間の物笑いになって種になってお払い箱になっていたに違いない。実際彼はそもそもこんなに偉くなる筈はなかったのだ。』
『良きナチ時代』には身分制は打破され、女性は解放され、「健康な官能欲」が奨励された。青年や女性はスポーツ・ハイキング・キャンプ・歌と祭りつまり「喜びを通じての力・労働の美」を実践し、多少とも出世した者、出世しようという者はやがては国家社会主義党にはいる。これを幸福な市民生活と呼ばずして、何と言うのか?
ドイツ人は感謝の念に満ちた驚きでこの奇跡に応え、33年以後ドイツの労働者は大挙してSPDとKPDからヒットラーに鞍替えした。これでもなおヒットラーを拒否するものはあら探しをする不平家だと言われた。今日生き残っている年老いた人達は恥ずかしい思いをし、後から生まれた若い人達は理解し難く感ずるのである。年老いた人々は「なんでわれわれは・・」と口にし、若者は「なんであんたがたは・・・」と、容易に口にする。だが、あの当時に、ヒットラーの業績と成功の中に早くも将来の災禍の隠れた根を見つけるには、並外れた洞察力が、また彼の業績と成功の影響から免れるには、これも並外れた強い性格が必要だったのだ。今日になって再び聞いてみると、吐き気を催すか、吹き出したくなる吠えるような、口角泡を飛ばすヒットラーの演説は、その当時しばしば聴衆の反論を許さない何らかの背景が事実としてあったのである。作用したのは、この背景となっている事実であって、吠えたり、口角泡を飛ばしたりする話し方ではなかった。

現在の私の自信喪失を見るような気持ちになる。小泉首相の圧倒的な支持率を前にして考えることは「『私が』間違っているのではないか?」である。不平家に過ぎないのではないか、という自省も生まれるわけだ。

さらに、身近なところで79年当時話題になっていた『元号問題』に触れている。

政府与党は意図的に世論操作を行って元号法を制定しました。保守系議員が多数を占める地方議会で元号法推進決議を積み上げて、いかにもそれが国民の要望であるかのような形を取りました。また元号には賛成という世論調査のデータの中でも、「法制化』支持の声は圧倒的に少なかったという事実をワザと無視したのです。
確かに、元号法には一部野党も条件をつけて賛成しました。しかし先ごろ公表された総理府の要綱案を見れば、そのような条件は少しも考慮されていないことが分かります。例えば、「翌年改号」の規定もなければ、元号と天皇の「追号」とを分離するという考えも、一切取られていないのです。
こうして一旦「法制化」してしまえば、中身は何が何でも既成事実として押し付けようとする態度がそこに見られます。
元号は、歴史上の区分が特殊な血統を持つという一人の人間の生死によって偶然に規定されることを意味しています。それは歴史を作る主体としての国民に対する挑戦ではないでしょうか。

さらに、現在問題になっている『公と私』についても一言。
個人が個人らしく生きるためには何らかの制限がなければならない。基本的人権を制限する方便として『公共の福祉のため』という殺し文句が使われてきた。

「政治活動における自由とは何であろうか。法律上これだけのことはしても良いという自由である。言論の自由、集会の自由、居住の自由、信教の自由などである。これらは基本的人権を尊重する立場から許された自由だが、それは憲法十三条のその他によれば、公共の福祉に反しない限りにおいて、という条件付の自由である」(文部大臣天野貞佑)

言論、信仰、思想の自由まで制限されるという社会が自由社会の名に値するだろうか。民主主義が生き生きとするためには、国民による参加と批判が必要で、そのためには一人ひとりの主体性、責任感覚が育っていなければならない。そのエネルギイは自由の中からしか生まれない。

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