12月26日(日)インドネシアのスマトラ島沖でM8.9の巨大地震が起きる。道新の27日付けによると死者9200人。翌28日付けでは2万4千人。29日では死者6万。30日で10万。そして今日の朝日によると12万4千人という。被害の確認でさえこのように情報は混乱している。事実がハッキリするにはまだ幾日かを必要とするようだ。地震だ、津波が来る、高いところへ避難せよと伝わったという話はない。それどころか、事実を流さなかった国もあるというデマさえ流れている。
よく分からないが北大が地震波を地球を8周したことを観測したとのこと。1960年のチリ地震(M9.5)でさえアメリカが三周を確認したのが最高だという。これは何を意味するか?
カナダでは国防相がthe DART(Disaster Assistance Response Team) を派遣しないことで非難されているという。日本ではどうか?誰かが政府の援助について質問をしたという話を聞いたことがない。しかも外務省の発表によると、3000万ドルを予定しており、現在で400万ドルをすでに支援した(28日)と誇らしげ。しかし先頭に立って援助をしようとしてはいない。「新たな支援要請がなされれば検討し、国際機関等のアピールが発出されれば、国際機関を通じた支援についてもわが国として相応の負担を行うことを検討していく。」こういうときこそ、お得意の『人道援助』ではないのか。
海上自衛隊の3隻がイラクからの帰途で、プーケット島の西で停泊中。「当初は道路の寸断で孤立した人たちの救出も想定していたが、その必要性がないことが分かり、プーケット島の西の洋上で捜索・救助にあたることにした。」という。スリランカでは《解放の虎》が停戦を申し出ているというが、こういうときに武器を持ってスリランカに出向くことは危険だろう。人道援助は武器いらず、というわけだ。GAM(自由アチェ運動)は、震災後停戦状態に入っているというが、インドネシア政府軍は相変わらず"We continue to launch raids into suspected GAM (Free Aceh Movement) areas and our vigilance remains high."また、外国援助期間がアチェに入域するためには2週間の手続きが必要と報道されているという。検問が敷かれ全物資は国軍を通じて配給されねばならないという姿勢だという。この場所へ自衛隊が武器を携えて協力に出かけることは出来ない。自衛隊がインドネシア政府に利用されるかも知れないからだ。自衛隊ではない大規模支援が必要だ。
判決で同裁判長は、ビラの投函自体は「集会、結社及び言論、出版その他の表現の自由は、これを保障する」とした憲法21条1項の保障する「政治的表現活動の一態様であり、民主主義社会の根幹を成す」とした。
その上で、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」とした憲法22条1項により保障される「営業活動の一類型である商業的宣伝ビラの投函に比して、いわゆる優越的地位が認められている」と判断した。
憲法を前面に出して、『権利』を擁護した姿勢は評価できる。この穏当な判決を出した裁判長が今後無事定年まで努めることが出来ることを念願する。
ココまでが裁判所の限界である。この後検察は、過剰な拘留を行った公安部を処分できるかが次の焦点であり、それは行政の責務である。上意下達の世界では、起訴せよという命令を出したものの責任が問われなければならない。そうならぬように各自が自分の判断を持ち、自分の責任で判断を下すことが要求されるということが東京裁判の苦い反省ではなかったか。実際には上に相談しなければ何も出来ぬ負け犬になっているのが世の常識。判断できるのは最上層部だけというのが警察という組織である。この最上層部を検察は起訴しなければならぬ。責任重大ですな。
さらにマスコミの姿勢も問題だ。道新は事前の記事は無く、きのうおとついと後追いの記事が二本出る。良心の守り手としては消極的過ぎる。ニュースを消費財と考えている証拠だろう。目を引くことが無ければ、報道する価値はないという判断と考えられる。
更に今日、道警が裏金問題に関して3000人を処分、幹部等98人は停職一人、減給98人、訓戒という内訳を発表した。しかし、道民の面前でウソをつき、調査の必要もなしと明言した芦刈本部長はどうしたのか。赴任以前の事件だということで軽い譴責、その彼からこの処分が発生した。公を蔑ろにし組織を防衛しようとした姿勢自体が今回の最大の問題点であることが忘れられている。彼の姿勢が問われている。更には処分なぞ、的外れである。処分はしなくてよいから真相を解明すべきである。その方が真実が現われやすい。個々には、生活優先であるから組織にしがみついていた方が安楽であるが、それでは私によって公を腐食させることになる。防ぐには処分をちらつかせてはいけない。
そういえば「小池百合子元環境相が秘書給与を詐取していた証拠となる「告白
テープ」が流出しているという。(週刊新潮10月14日号の記事)辻元清美が逮捕された時、「小池さんもやっているのに、なぜ、私だけ・・・」
と報道陣の前で愚痴っていたほど、永田町では周知の事実であったという。」この問題はどうなったのでしょう。警察の権限は大きい。何を捜査し、何に脅威を与えるかを決めることが出来るのだから。しかし起訴するかしないかを決める検察の問題は更に大きい。平沼一派が戦前日本国に対して何を為したのかを思い起こそう。
横田めぐみさんの遺骨とされていた骨が他人のものであることがDNA判定で分かった。これについて横田さんは怒っている。前から北朝鮮は信用ならないと言っていた通りなのに、今さらのように敵意を煽っている。完全に煽動者となっている。小泉さんは冷静だ。彼一流のマキャベリズムだろうが、今はことの真相を突き付けて、更なる譲歩を求めるべきだ。それにしても、北朝鮮はヨーロッパ各国とは好誼を結んでいるというのはどうしてだろう。各国と協調関係を築けないものか、連携を図ることは日本政府には不可能なのだろうか。日本との国交が北朝鮮にとって必要ないからこのような不実を為すのなら、
多くの国と協調を図ることで前進できないか。横田さんみたいな人が、旗を振って一国の政策を左右しようとしていることは、草の根のファシズムを生みださないか。日本人よ、冷静になれ。
勝毎に、敷地内禁煙についての報道が載る。T氏によると、勝毎本社には電話で「教師たるもの、ルールを破るとは何事か、名前を発表せよ」と言う強硬な意見を言う者もいるという。結局は教師聖職論につながっている。行政でさえ、「ルールというよりもこうしたいというアピールだ」と言っているのにも係わらず、この極端さは何だ。しかし教育庁の態度でさえ、圧力によってどう変わるか分からない。庶民の声を行政は見過ごすことは出来ないからだ。たかが喫煙ではあるが、人に迷惑をかけていない自由が認められないということは今後にとって重要だ。たかが煙草と笑う事なかれ。『教師たる者』という、現実を無視したヒステリックな声は、万民平準化のファシズムの一歩であろうと思う。そしてその先達となったのが共産党の道議であったことを忘れるまい。国家による、お上による統制が必要と考えている人達がいる
きのう帯広に高遠さんが来て、講演。残忍な場面を紹介して、一方的な情報ばかり伝わっているのはフェアではない。同じ量のイラク人から見た情報もあって初めて釣り合いが取れるという。しかし頭の吹き飛んだ子供の死体を見せられても、同情心が増えるわけではない。(写真が少しぼけていたのでハッキリ頭とは確認できず。)
またムジャヒディン(被害者達、と訳していた。)がテロに訴えるとき、彼女はそれを認めないという。それは更なる殺戮をもたらすだけだ。実際それはファルージャだけでなく、イスラエルでも起っていることだ。パレスチナ人にもPLOを支持しない人達もいる。復讐は新たなる復讐を呼び込むということは真実だろう。しかし、では抵抗せずにいれば虐殺は起らないのか。自分でも、想像してみる。普通の人が銃を手に取った途端、殺されても文句は言えないけれどそれでも銃を手にととる人達の心を。手にしないわけにはいかない人達が確かにいるのだと思う。私が今受けている攻撃と同じ性格ではないか。抵抗すればするほど、苦境に陥るのは私だが、では認めるのか。そうなると、文句はどこからも出ずに自由は殺されるだろう。馬鹿馬鹿しいことには不服従という道があるとは思うのだが。
きのうは、開戦の日。真珠湾攻撃で日本が無通告で戦争行為を開始したとされる日だ。単なる翻訳者の能力不足であると思うのだが。利用できる者は利用するというアメリカにかかっては、ミスも悪意の現われとされる。気になるのは、どの新聞もノーコメントであることだ。無謀な戦争に国民を引きずっていった、と言うか自らはまりこんでいったように見える現象が今また再現されるということはないのか。あまりのお気楽に、言葉もない。おとつい、NHKで「大地の子を育てて」というドキュメントがあった。中国残留孤児が育ての親を中国に残して日本に永住してみたが、仕事はなく生活保護が頼りの生活しかおくれない。中国に住む親は病気がちで世話を親戚に任せている。子として面倒をみたいが、その余裕はない。中国に戻るだけで生活に余裕があると見られて生活保護が打ち切られるという。それでも十日間の里帰りをする。病院に行くと一日一万円の診療費がかかるという。入院させたくともその余裕はない。出口なしの状態だ。関東軍が日本人を置き去りにして我先にと逃げ帰った責任を日本は取ろうとしない。敵国の子供であると言うのに、子供に罪は無いと育ててくれた中国人の懐に広さを思うとき、日本の狭量さに情けない思いがするのは私だけではないだろう。今も中国に残って親と一緒に住んでいるという人も出てきた。本当の子供ではないことを知らされたとき、彼女はなおのこと「育ての親」を尊敬したという。これが本当の気持ではないのか。これを一部の中国人の事と限定することなく、中国一般に対する好意に代えることも出来たはずなのに、今や中国脅威論一辺倒である。中国は大国である。日本が太刀打ちできる国ではない。しかし、日本の方が進んでいる。自然破壊や、公害という負の側面ではあるが。この経験を活かして中国を助けることは出来ないのか。広がる砂漠を緑化することに協力することは出来ないか。IBMのパソコン部門が中国企業に売却されたという。ただ脅威を言い募るだけでは、進歩はない。
先週の土曜日にタイヤを取り換える。三年目だが、経済上の制約のため買い替えはなし。すると次の日には、もう大雪だった。帯広では五十何センチかということで、観測史上もっとも多かったようだ。昨年の方が北見で1メートル六十センチと言うことが印象に残っている余り、今年が多いとは思えないのだが。月曜日まで小降りではあっても、続く。それでも、雪かきは一日で終わる。タイヤ交換のタイミングはばっちりだった。昨日は根室沖で地震発生。帯広は震度4、釧路では震度5を記録したという。大きなゆったりとした波だったが、それほどの震度とは思えなかった。自然は、大波乱の様相を呈している。
人間界でも、煙草規制で謂れのない強制が進められている。ルールを守れとは何事か。ルールが出てくる必然性はどこにあるのか。社会全体が規制の強化に乗りだしている。私はソクラテスにはなりたくない。ソクラテスは悪法をも守ることを通して、民主主義を支えた。私は、悪法に不服従する事によって民主主義を支えよう。自由を制限する強制に対しては断固戦う。
10時から、NHKでルワンダで行われている和解「ガチェ裁判?」の様子を放映していた。殺人犯が自分の村に帰ってくる。そこで夫を殺された女性を前にして、『あの時は仕方なかった。自分が殺さなければ、自分も殺された。拒否できなかった。苦しまずに死なせてやろうとした。』自分も被害者であったかのように言いたがる。それでも、殺された家族を持つ老婆は、何とか許しを与えようと、与えられるように持っていこうと努力していた。カガメ大統領の精神が田舎の老婆をして一人の哲学者たらしめる。それにしても、このいいわけが戦後の日本人のそれに瓜二つなのは何故か。私たちは被害者だったのか。80年代からの自省が私たちの加害性を明らかにし、それが今は自虐と蔑まれる。日本人であることを恥ずかしく思うエピソード。天皇が何となく有難いと思う心はぞれにも増して恥ずかしい。
忙しい一週間だった。その仕事も失敗に終わりそうだが、気を取り直そう。緻密な仕事は本当に苦手だ。
23日に道警の裏金問題の調査結果が発表されたが、結局は悪いのは現場であって、上層部は知らなかった、認めてもいなかったということらしい。それでは現場は独自の予算を持っていたことになるではないか。何時から警察はそんな下克上の社会になったのか。本当なら、これ以上はない不正である。上層部も関与していたとした方が、穏やかに聞こえる。汚職の摘発がその後あったが、これを独自の判断できる組織が、己から腐っていたとなっては冗談ではすまない。日本に地方分権が可能かという試金石である。馬鹿なことで大騒ぎすることもある道新だが、今回は応援する。
白川元国家公安委員長が不審尋問を受けた経緯を彼個人のHPで公開していた。元国家公安委員長で弁護士でもある彼でさえあの程度の行動が限界なのであれば、我々には不審尋問を受けた際、拒否することはかなわないであろうと思わせる模様。変なものを持っていなければ、「見せなさい」といわれた見せねばなるまい。これが自由ということなのか。警察国家という死語が甦る思いがする。留置を覚悟の行動はできるだろうが、戻ったときには仕事は無くなっているかも知れない。
しかしそれを恐れて国民総動員で作り出したのが、戦前の体制だったという反省が私にはある。このジレンマを何としよう。思えば当時の人々もこうやって、戦時体制に組み込まれていったのだろう。
自民党の憲法調査会が、17日改憲草案の大綱を決めたようだ。天皇は元首で、国旗は日の丸、国歌は君が代だそうな。
それが一番大切らしく第一章と第二章に出る。天皇を象徴とする自由で民主的な国をうたう。理念ではない。表象が大事なようだ。形から入る教育をモットーとする日本らしい入り方だ。元首が選ばれた者でないという国民主権とは一体何か。選ばれて付託されたから生じる責任がある。選ばれずに生まれつきの元首とは国家を代表できるのか。
呆れる。お得意の『公共の福祉に反しない』自由の項はないようだが、解釈で十分でしょうか。
漫画家の本宮ひろ志氏の漫画「国燃える」の続報であるが、出版社と作者が自主的に連載休止としたようだ。言論弾圧である。何を根拠に何を言おうと自由である。
批判が喧しいので右翼掲示板を覗く。木田某と言う人物が、百人切りを取り上げていた。私も昔、『南京大虐殺の幻』とかいう鈴木明氏の本を読んだ覚えがある。刀を取り換えたのでない限り百人どころか五人切っても刃こぼれがあるという。確かに、あり得ないと言われればそうかも。しかし問題なのは、そのことではない。それを取り上げた新聞記事を大衆が喜んで見ていた、評判になった、各地で『虚偽の』講演会を開いて、みなはそれを当然のこと、よくやった、武士道の鏡とおだてたということである。当時の日本人の心を疑う。兵隊ではない人間を百人切ったと聞いて、英雄扱いする浅はかさ。そこが問題なのであって、話の真偽とは別の事柄である。
拉致連絡会の横田さんが頑張っている。経済制裁を望むと。日本がかつて、ABCD包囲網に絡み取られて、戦争をせねばならぬ状態になったことを忘れたか。経済制裁は、立派に戦争の引き金になったではないか、彼は北朝鮮と戦争をしようというのか。真意を測りかねる。彼が孤軍奮闘新潟かどこかで、街頭に立ち、真相究明を呼びかけていた当時とえらい違いだ。いまや一国の進路を決めよう、北朝鮮にいる困窮の人達が死ぬのは構わない、こういうことを言う人には見えなかった。
道新に昨日無くなった岡本愛彦さんの記事。四国で小さな理髪店を営む清水豊松さんが招集され、上官の命令に逆らえずやむなく捕虜を刺殺するが、戦犯として死刑になるというドラマ「私は貝になりたい」の演出で有名な人だそうだ。
「ふさえ、賢一さようなら お父さんは二時間ほどしたら遠い遠いとこへ行ってしまいます
もう一度逢いたい、もういちど暮らしたい・・・・
お父さんは生まれ変わっても人間にはなりたくありません、人間なんていやだ。
もし生まれ変わっても牛か馬の方いい
いや牛や馬ならまた人間にひどい目に逢わされる。
どうしても生まれ変わらなければならないのなら、いっそ深い海の底の貝にでも・・
そうだ貝がいい
貝だったら深い海の底でへばりついていればいいからなんの心配もありません
深い海の底だったら戦争もない、兵隊に取られることも無い。
ふさえや賢一のこと事を心配することもない
どうしても生まれ変わらなければならないなら、私は貝になりたい・・・・・」
この独白はどこか変だ。人間がいやなのも、貝がいいのも頷ける。兵隊にとられる事も、いやだろう。しかしどうして『ふさえ』や『賢一』の事を心配するのがいやなのか。だれのことをも心配せずに生きることに憧れるのか。募る余りの被害者意識が、この無責任を生み出しているように思えてならない。 初めからデカダンに生きた人間が、最後までデカダンで考えたという証拠がここにある。戦後の小市民は変わったのだろうか。
もう一つ。朝日新聞に漫画家本宮ひろ志氏の『国が燃える』で取り上げた南京虐殺について「過剰に残虐なイメージが想起される」「(使用した写真資料の)信ぴょう性が疑わしい」と抗議したのが、東京都大田区議の犬伏秀一氏(47)ら地方議員のグループと、同行した「誇りある日本をつくる会」の田形竹尾会長(88)だ。南京陥落当時、戦闘機のパイロットだった田形氏は陥落三週間後南京の入ったという。
『死体は一体もなかった。中国人も私たちを見て、逃げ出すどころか花見に誘ってくれた。虐殺はなかったと言い切れる。』
これが愛国か?日清・日露戦争に勝った大国意識とチャンコロという蔑視意識が、無謀な中国侵略の原動力になったことは明らかではないのか。この意識下にあって、残虐性は人のならい。虐殺は起って当然の事だ。自然な事をなかった事にするというのはどういう神経か。
広島県の日中友好協会青年委員会委員長を務める由木栄司さん(49)の発言。(道新7日付け)
南京大虐殺の被害者を招いた96年、「気の毒とは思うが、その前に日本がした事をどう考えているのか?」原爆資料館を訪ずれた被害者女性が『南京陥落を祝う広島県民の提灯行列』の写真を見ての発言だった。軍都として、広島は加害者の立場にあった事に由木さんは思い至る。「自分の痛みを訴えるとき、他人の痛みを感じないでいいのか。酷でも言わなければならない。広島の人が戦争を押しとどめる事が出来なったがゆえに、最後は自らも被害者とならざるを得なかったのだ。」
これに対して被害者の声がある。「私たちは間違いなく被害者です。国から鉄が足りないと言われたら、鍋釜を出して銃後を守った。でも、謝ったら次に立てなくなる。体中癌だらけで『原爆を無くせ』と叫んできた老人にまず謝れ、と言ったらわたしたちの運動は成立ちません。」
731部隊の隊員が「ペストを培養するノミを飼育した。罪は免れない」と告白した。毒ガス被害者の前で「私が毒ガスを作りました。」と告白した元工員の足は震えていたという。「自分は徴兵された一般兵で被害者、悪いのは軍の指導者と言い訳してきたが、違う」と平和運動に参加している人もいる。
こういう『認め』がなくては、被害者と加害者は和解が出来ないのだと思う。悪かったのは指導者で、国民は被害者というだけでは、相手の心は動かない。自分の責任を認める事で、当時権力を握っていた責任者の姿も見えてくると思います。」
この姿勢は、かつての長崎本島市長が『広島よ、おごるなかれ』と発言し、顰蹙をかったそれと軌を一にしているのだと思う。
アメリカの価値観は変わってきているのだろうか。テレビ討論会で、明らかになったケリーとブッシュの考え方の違いが、朝日で紹介されていた。
「二人の違いは、ケリー上院議員の発言が引きがねとなった論争を通じて鮮明になった。『行動が合法的な理由に基づいているかどうかを世界に説明するそういう国際社会のテストに通らなければならない。』大統領は『意味がよくわからない。私の仕事はテストに受かることではない。米国民を守ることだ。』と反論した。チェイニー副大統領も、『国連の承認を後生大事にする旧思考』と切り捨てた。」
この対決は実はかなり根の深いものだったのだと今さらに思う。そしてアメリカ人はブッシュを選んだ。昨日の独立宣言にも「我々の経験の教える所によると、慣れ親しんできた政体を変えるより、不正を我慢する方がたやすい」とあった。日本にも、同じように大きな決断をすべきときがすぐにもやって来る。その時、私たちはやはり流されるのだろうか。
(6日に追加)『東海岸の気取った連中のおもいどおりにさせるものか』という、中西部のアメリカ人の反発がこの帰結をを生んだという観測もある。そんなことで、一国の将来を委ねるということもありうるのだ。
これに反発するフランスの新聞の中にも次のような妥協が見えている。
「21世紀初頭のアメリカは反動的だ。9月11日に生まれた恐怖の毒針の刺激で、アメリカは過激になり、攻撃的になった。爾後、共和党はあらゆる権力を掌握した。不景気ののちにルーズベルトの周りに団結した「リベラル」派の大多数は長期にわたってアメリカを支配し、アメリカ社会を造り上げてきた。今、反動的な新たな多数派が、戦時という錦の御旗の元にブッシュの周りに団結し、アメリカ民主主義の上における自らの影響力を磐石のものとした。残りの世界はこれを嘆くこともできるが、この現実に自らをすり合わせなければならない。
」
昨日11月3日はたしか、憲法に関連した記念日だったはずだが、何のお話もない。文化の日ということになっている。朝日新聞には、天声人語で独立宣言にまつわる話が出ていた。『半世紀ほど前の米国で、ある小さな新聞の編集長が一つの実験をしたという。請願書を持ち、100人以上の市民に署名を頼んだが、応じたのは1人だけだった。他の人たちは「反政府的すぎる」として署名を拒んだ。その請願書は、実は米国の独立宣言の有名な文章だったが、市民たちは気づかなかった。 これは『日本/権力構造の謎』などで知られるカレル・ヴァン・ウォルフレン氏が、今回の米大統領選の投票を前に出版した本の「アメリカ人の無知がアメリカを崩壊させる」というくだりに出てくる。本の題は『世界の明日が決する日』(角川書店)で、ブッシュ政権と、その再選への様々な懸念がつづられている。』
本日づけ道新の社説に「地方の声に何故応えぬ」。
『ほとんどがゼロ回答である。呆れるしかないが、地方分権とはまさに地方と中央の争いなのだということを実感する。』として、その根拠を、全国知事会など地方六公共団体が要求した補助金三兆円削減に対して各省庁の対案は一兆円でしかなかったことに求める。『内閣が決めたことに省庁がそっぽを向く。行政の内部に二重の権力が存在することを堂々と示し手、恥じることがない。これでは戦前の日本の官僚支配と何ら変わる所がない。』族議員達が省庁の側につく原因を分析して、地方に金を持ってくることで築いた経済的な基盤を失うことになるからだという。一方省庁も、割り付けする権利を失えば、人員削減ひいては天下り先も無くなる。『カネを持つということが権力という論理である。』しかし、官僚は政策失敗の責任を取ったことがない。『地方の実情を知らない国の”責任”は実は無責任と同じことではないのか』選挙を通じて洗礼を受ける自治体に、その責任を果たさせたいということだ。
前回の人質死体発見は誤報だったが、その収拾もつかないうちに今度は本当の香田さんの首なし死体が見つかったらしい。最初の誤報の時も、大騒ぎにはならなかった。今度は更に冷静である、というか無関心の体。自覚なしにイラクに入った軽率さがこれまでの使命感を持った人々とは違うため、同情を引くことがなかったようだ。
奈良県平群(へぐり)町議会は"高齢者向け配食サービス事業への公金支出について、競争入札が原則なのに、町は随意契約で特定の社会福祉法人に発注し、さらに調理室を無償で貸与し電気、水道代の免除までしていた。"という問題を読売新聞が報じて百条委が設置された。ところが、この百条委が通報者探しのために取材した記者に証言を要求しているというのだ。これが地方の実態である。公を意識できない地方人が恥ずかしげな真似をしても、当該者しか反論することがない。今回はマスコミが当事者なので何とかなるとは思うが、これが一個人であったなら孤立無援の戦いになる。議会人は大勢が愚かなのだ。そして小市民は無口なのだ。これが地方の実態である。
天皇の発言が波紋を呼んでいる。象徴制が揺れている。天皇の意思とは関係のない所で祭り上げる動きが出るのが、天皇制の問題。いかにも有難そうなものであれば何でもいいからだ。精神的権威として祭り上げ、あとは支配者側が都合のいいように輔弼する。ところが戦争に駆り立てられた軍人は命を懸けている。民衆の意見を代弁していると自称する軍が、弱気な支配者の正気の部分を引きずって、勝てそうもない戦争に突入した。
道新夕刊で最近彼の言説に焦りが見られる。
従来から「憲法とは国家を縛るもの」と語ってきた氏だが前回9月では「瀬戸際のリベラリズム・・自民の改憲「論点整理」個人の価値観を否定、と題してアメリカと欧州のリベラルの捉え方の違いに言及し、政治的リベラルとは「何が真のリベラルかを問題にするのではなく、多様な生の構想を出来るだけあるがままの姿で共存させようという知恵」なのではないかとした。
それに続いて今月は現在の護憲派は、9条にこだわっているが改憲派のもくろみはそれよりスケールが大きく「国家を縛る基本法」から「国民を縛る基本法」への書き換えを指向しているのではないかという。
ヨーロッパの憲法が血みどろの闘争の結果生まれてきたのに対し、日本ではそれは恩寵でしかなかったことの差異は大きい。
昨日から天皇の発言が問題になっている。園遊会で(これ自体廃止すべきもの)米長氏(東京都教育委員)が「日本中の学校に国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と述べたことに対し「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と述べたというものである。
更に笑止千万なのは米長氏:「もうもちろんそう、本当に素晴らしいお言葉をいただき、ありがとうございました」と答えた、という。 君側の奸此に極まれり。天皇の言葉をねじ曲げている。
ところが問題なのは、一般的な常識であるものが天皇から出たとなると、おおごとになるこの日本という国の仕組みだ。どうしても政治的になってしまうのだ。天皇を問題にしようとしない小市民も、彼の常識にほっとする。天皇を大切だという人達は、御心を大事にしない。
早く天皇が天皇ではなく、普通の人になれるよう憲法を改正すべきと思うのだが、今はその時期ではない。
天皇の存在のおかげでぐちゃぐちゃになっている。血筋しか取り柄のない人間に国家を背負わせるのは無茶だ。裕仁でさえ、アメリカとの戦争は止めることが出来なかった、流されたではないか。
爆破された友好碑について続報あり。現場近くに住む30代後半と20代後半の男性二人が容疑者として拘束されという。民兵組織のメンバーではないらしい。(10月12日)その後、イスラムが忌避する文様のせいで誤解が生まれ、爆破に至ったということが分かる。
23日新潟で最大級の地震が起る。6時からのガンダム録画中に切り替わっていた。最初の印象では、暗いせいもあり大したことはないと思った。やはり釧路の地震が一番だなという印象。しかし翌日になると、続報が入りとんでもない地震であることが判明した。現在死者数は31人。避難している人は10万人に及ぶ。また、夜は冷え込みが厳しく震災後の死者が増加中。
| 発生日時 | 震源地 | Magnitude | 最大震度 |
| 10月23日19時46分 | 新潟県中越 | M5.9 | 震度6弱 |
| 10月23日19時36分 | 新潟県中越 | M5.2 | 震度5弱 |
| 10月23日19時30分 | 新潟県中越 | M4.1 | 震度3 |
| 10月23日19時07分 | 新潟県中越 | M4.5 | 震度3 |
| 10月23日18時57分 | 新潟県中越 | M5.1 | 震度5強 |
| 10月23日18時36分 | 新潟県中越 | M5.0 | 震度5弱 |
| 10月23日18時34分 | 新潟県中越 | M6.3 | 震度6強 |
| 10月23日18時34分 | 新潟県中越 | M6.3 | 震度6弱 |
| 10月23日18時28分 | 新潟県中越 | M4.4 | 震度4 |
| 10月23日18時12分 | 新潟県中越 | M5.9 | 震度6強 |
| 10月23日18時03分 | 新潟県中越 | M6.2 | 震度5強 |
| 10月23日17時56分 | 新潟県中越 | M6.8 | 震度6強 |
| 10月23日17時56分 | 新潟県中越 | M6.8 | 震度6強 |
| 10月23日10時09分 | 根室支庁北部 | M3.1 | 震度1 |
| 10月23日06時07分 | 新潟県中越 | M3.1 | 震度1 |
立ち止まると駄目な夢の国
柴田元幸(54年生まれ)
1984年から85年にかけて、イエール大学に留学していたとき、大学の保全要員組合のストがあった。ストを指示する教師は、ピケラインを尊重して学外で授業をやっていた。古典アメリカ文学の大家が恥ずかしそうに背を丸めてピケの隅っこに立っている姿なども微笑ましかったが、一番印象深かったのが、ストを支持する大学院生の集まりである。
スト支援というから、「断固スト貫徹」とかいったスローガンを確認するのかと思ったら、院生達はむしろ、どうやったらストを早く、両者が納得できる形で終結できるのかを、(むろん組合側の利益を優先しつつ)熱心に話しあっていた。一年アメリカにいて、余り敬意を持てる国ではないなと思うことも多かったけど、この時は多いに感銘を受けた。
アメリカという国の魅力も、こうした姿勢にある。硬直したお題目としての理想ではなく、何が理想かをその都度実際的に見極めつつ、それに向かって進もうとする姿勢。極端に言うなら、アメリカにおいて、現実とはアメリカの半分でしかない。あとの半分は、未だ達成されていない理想である。半分は夢で出来た国なのだ。
「ここは自由の国だ」とアメリカの人々が言うとき、僕にはそれは事実の表明には聞こえない。むしろ「自由の国であるはずだ」という理想の表明に聞こえる。むろんこの言葉の理念が歪められ、独善的に使われたりすることもある。だが本来の理念が、アメリカという国を作り、変えていく上で大きな力となってきたことは確かだ。そこが他国とは違う。日本の国について人が「ここは・・・・の国だ」というとき、その「・・・」はあくまで慣習や前例のことである。未だ実現されざる理念のことではない。
問題は其のような、理想に向かっての永久運動の中に身を置くのではなく、アメリカが自分たちをすでに達成された理念もしくは「正義」として固定し、他国を其の正義の方向へ向かわせようとするときである。立ち止まるとこの国は駄目なのだ。どう駄目かは、9・11以降のブッシュ政権を考えていただくのが一番手っ取り早い。
理想へ向かって自ら運動を続ける姿勢と、自分を理想と規定して他者に運動を強いる姿勢。もしかしたら、その両者は同じ一つの心性の表裏であって、一方のみを残し一方を捨てるのは難しいのかも知れない。とはいえ、今日のように悪しき一方のみが目立ってしまっているというのは、かなり無念な事態というほかはない。
アメリカの学生運動については、この他の話もある。
9日付け道新と朝日にも『陸自設置の友好碑爆破』という記事あり。サマワ中心部を縦断する国道8号線の交差点に設置されていた記念碑が、8日未明爆破された模様。この7、8日は森勉陸上幕僚長などがサマワを訪問していた。
中央に石灯籠とイスラムのシンボルがおかれていたという。鯉のぼりといい、石灯籠といい何というセンスか。自衛隊がイラクでやっていることとは、評価されないことをしておいて、何かをやったという証拠を残すことだったのだろうか。感謝されて記念碑が建てられるならまだしも、自分で記念するというセンス。唖然とする。イラクに残ってイラク国民の声を届ける人達は国外退去している。残っているのは自衛隊の許可を得た人が許可を得て報道しているだけだ。本当はどう評価されているのか、それならどう戦後復興に参加すればいいのかという新たな話が出来る。しかし今のままでは、立派な仕事をしているとしか聞こえてこない。日本の軍隊なのに、その情報は日本経由では正しくないのかも知れない。
ルソン島カリラヤに日本政府が建てた碑も、50万日本人を慰霊する目的であった。日本がアメリカにこれをやられたら、心穏やかなのでしょうか。「百万人のアメリカ兵の命を守るため、ここ広島に原爆を落とした。」(カリラヤでは碑文は無いが。)と、やられたら変でしょう。これを日本は、大日本帝国占領地でやっている。
ミャンマーでアジア・欧州会議とかいうのをやっているらしい。小泉君はどうしても常任理事国になりたいようだが、中国がOKを出さないからと、町村が中国外相と会談。政治も経済も好い関係になりたいと述べるだけで、なぜこうなっているかと中国が指摘している点を問題にしようとしない。河野洋平さんも日中国会議員のサッカー親善試合を企画して、こじれた国民感情を改善したいようだが、は「アジアカップのような光景はもう見たくない。スポーツを通じて交流を深めたい(鈴木恒夫衆院議員(自民))」と話すだけ。何が原因にせよ、対処療法が必要だという認識では同じである。愚かな話である。
日本は常任理事国になって、国連を改革したいそうだが、何を・なぜ、そしてどう変えるのか、よく分からない。熱意だけが報道される。どういうことなのか。
21日アルジャジーラの人気討論番組「反対意見」の放映中、イラクで相次ぐ拉致事件への賛否を視聴者に尋ねた。質問は「イラク人は占領に抵抗するため、人質を拉致する権利を持つか」。電話による回答では「賛成」が94%に達した。インターネットでの調査を合わせれば、最終的に7割前後に落ち着く見通しのようだ。
二つの意見がある。一つはイラクの旧フセイン政権に対する反体制活動家だったカリーム・バドル氏「あらゆる拉致は認められない」という立場。
もう一つは、政治雑誌編集者でエジプト人のタラート・ルメイハイ氏「人間として人質の殺害や首の切断には賛成できない」としながらも、「米軍は一方的に多数の無実のイラク人を殺害している。拉致もひとつの抵抗方法としてやむをえない」「拉致グループは、米軍協力者とそうでない者とを区別しており、米軍に関係ない市民は解放している」とする立場。
「94%」を聞いたバドル氏は、戸惑った表情を見せたまま答えなかったという。その思いや推し量るべし。怒る人々をどう慰めればよいのか。9・11の時、アメリカ人はすぐにその対象を見つけた。それと同じことがイラク人に起っているのではないのか。怒りの連鎖が起っているのではないか。
テロにも理由がある。国民の支持をうけたテロはテロといっていいのか。「テロとは『世に受け入れられない主張を持つはみ出し者が暴力に訴える』」という構図には納まっていない。
なお、23日朝イラクの子供を支援する人道援助団体のイタリア人女性2人の殺害情報が流れたのを境に、反対が急に増えているという。イラクの人達も迷っているのだ。(アメリカにも、イスラエルにも、ソ連にもそういう人達はいる。)
息子の中学で、変なアンケートをとっている。この研究所は、各小中学校から何人かが集まり、研究(?)をしているらしい。”この調査はお子様の教育に対する皆さまの考え方等についてお伺いし、今後に役立てるために実施するものです。ご協力をお願いいたします”と低姿勢かと思いきや、具体的には日頃の生活の様子に対するあなたの考え方をお伺いします。として、
[4]あなたのお子様が、次のようなことをしているとしたら、どう思いますか。
[4]は言わずもがなの質問であり、[5]に至っては一番大切なことはこの五つであるかのような価値観押し付けを感じるのは、小市民だからなのだろうか。いかにも頭の悪い先生の考えそうな、見え見えの質問で唖然とする。もちろんそんな批判を書けば子供にどう返ってくるか分からないから、それなりの答えをしておいたが・・。(情けない)
先生方は何時から親に説教出来るほど人格を高めたのか。『親を尊敬すること』を、《教える》事が出来ると考えてでもいるかのように思うのは、偏見のせいか。国家を歌わせれば愛国心が育つと考えているのと同じレベルだ。馬鹿じゃないだろか。さすがに最近の教育統制の成果がここにも見られる。自分の頭で考えるのではなく、文部省の言うことに合わせる教員が増えてきたと実感した。そんな馬鹿な研究なぞせずともよいから、塾に行かなくともよい授業をして欲しい。免許外の先生ばかりじゃないか。教科だけでさえ教えるということは大変でしょう。もっとしっかり勉強してくださいよ。
この結果がどのような形で報告されるのか楽しみだ。こんなものを持たせる学校側の姿勢も気になる。この研究所と学校の関係は何なのか。答えたい人が、この研究所に郵送するだけで良いことだ。先生方の苦労がわかるような真剣なものなら答えたいと思う。問題をそらす質問には答えたくない。答えたくないという権利を保証する取り扱いをすべき。
ひょんな事から、基地内に入ってしまった。撮影すると、スパイとして逮捕されるのではないかと心配したが、大丈夫。
最初に戦車、装甲車の全速走行にびっくり。興奮しそうな予感がある。ふと後ろを見ると、林の上からヘリコプターが編隊飛行
でやって来る。アドレナリンが駆け巡る思いがする。地獄の黙示録のテーマが脳天内で響き渡る。"かかってこい、俺を撃ってみろ"強大な力を見せつけられたとき、最初の反応はこれだろう。いまのイラクの人々の気持ち。
グラウンドでは作戦風の演習実演。戦車プラス歩兵型、ヘリ対戦車、ヘリによる救助等々。音響が凄まじい。連携もよくとれているように思える。実戦ではあのようにうまくは行かない。恐ろしいことだ。
三千人はいただろう。子供連れが多く,模擬戦では歓声がわく。戦闘指揮車、74式戦車
.105mm榴弾砲車

。戦車だけでここに30台はある。(貸与中かも知れないが。)ものすごい浪費であるが、武力を持つのが当然と観念するならば、必要経費。しかしそれにしても、人は育っているのか。適確な指示を与えることが出来る人はいるのか。『上官の命令は朕の命令』であった戦前は、合理的精神を欠いてしかも猛々しければ指揮官になれた。上官の命令とは言え、責任を取らされるのは個人であることが東京裁判の教訓。ベネズエラのチャベス大統領が自国の憲法を誇って言った言葉『 It(constitution) also orders all public officials and military personnel to disobey any order from their superiors that would obligate them to torture or "disappear" someone. 』(interviewed by Mark Weisbrot; NACLA ; December 02, 2003 )は日本では生きているのか?
小市民たる者、決して自分を加害者の立場においてはならない。常に攻撃される側、虐げられる側に身を置くべきである。殺されるものとして人々は同格なのだから。今回も、戦車に追い回される悲惨さに想像力を使うべきであろう。あの戦力に抵抗するには、テロか自爆しかないのではないか。それとも抵抗しないか。戦後の日本人は後者を選んだが、現在のイラクは前者を選んでいるように見える。日本の選択は、意外と良いものであったと今さらにして思うが、イラクの人々も同じ選択をすべきだとは言えないだろう。
『武力行使は悲しみを拡散』と題して、19才の女の子の記事が道新に掲載されていた。アメリカチョート高校に留学していた2001年9月11日にテレビで目撃したという。
超大国を襲った不安感が憎しみへとかわり、軍事的措置が次々と実行に移されるなか、私は2003年6月の卒業まで東海岸に残った。その間、「我々の味わった悲しみが拡散するような武力行使を許してはならない。」と語っていたのは、身近なニューヨーカーたち。声は震えていても、彼らの決意は、国民の恐怖や怒りを煽るばかりの政府やメディアから発せられたメッセージより力強く響いた。チョート校ではバランスの取れた判断材料を提供し、正面からの議論を促したという。講演会に招かれた論者は全米を支配していた好戦的な気分とは一線を画す信念を貫き、『非国民扱い』に立ち向かったという。9・11の動揺につけ込まれた国民は、我が身を守るためには他人の命と自らの自由を犠牲にする必要があると覚悟している。彼女の周囲には一般的なアメリカ人が多くはいないのかも知れない。だからこそ、少数ながら世論をリードしようと自らの意思を明確にし、しかも訴える勇気を持つ人達がいるということに感銘を受ける。
侵略戦争はいつでも「自衛」の名目で始められる。次に、戦時体制が敷かれてしまえば、誰も反対は出来ない。 この国(日本のこと)にも忍び寄る不穏な潮流に対する違和感を捨ててはならないのだと、一人ひとりが肝に命じるときが間違いなく来ているのだから。
同感である。19才の女性と同じ考えだというのは、未熟な証拠か。それではなぜ、何の議論もなしにイラク攻撃を支持し、海外派兵、多国籍軍への参加を決めることが出来るのか?世界が、狂ったアメリカに引っかき回されているとき、一人日本だけが正気でいられるのか。
そもそもビン・ラディンが主犯であったとして、爆撃で死んだアフガニスタン人との関係は何か。フセインが大量破壊兵器を隠し持っていたとしても、爆撃で死んだイラク人との関係は何か。しかも持っていたという証拠は無い。リッター査察官は、まず無いと言っていた。では、持っていもしない大量破壊兵器のゆえに死んだイラク人は、どういう死を死んだのか。
先日のプーチン政権のこと。
一日、ゲリラは体育館の中の様子を写したビデオを、政府に送ったことが分かっている。二日にはアウシェフ元大統領の介入で26人 の人質解放が実現したこともわかっている。 一日目には様子を知らせたゲリラが、子供たちに二日間も水を飲ませなかった、交渉に乗らなかったということとどうつながるのか。電話を切ったのは、ゲリラではなく政府側。「テロとは交渉しない」として、全責任をゲリラに負わせるやり方は胡散臭い。それ以上に、原因も経過も結果も良くわからないうちに政権の断定を聞くことになること自体、危険なことである。このことは以前のアメリカでも起った。
見出し無しの写真で、辞めさせられるのなら何も言えない、何も出来ない、ただ政府の言う通りということか。恐るべしプーチン。
愚妻情報によると、高校三年生の名簿が国家から自衛隊に流されているらしい。勧誘の自衛官は、去年から出来るようになったということである。民間の悪質業者に漏れるより国家に利用されることが恐ろしいとはこのことだ。最近国家が悪ではない、と良く言われ自分もそう考え直そうとしているが、そう楽観的にはなれないというもう一つの例。
民放連は「報道の自由が制限される恐れが強い。緊急事態で被害の発生と拡大の防止のため自ら放送することは当然だ。」と義務化に反対してきたが政府側は「戦前と同じと考えるのは間違い。時代錯誤だ。(福田康夫前官房長官)」井上有事法制担当相は「言論の自由を制限することは一切考えていない。」さらに新聞社、ネットに広がり、個人の掲示板運営者にも関係して来るのではないかと心配される。治安維持法の成立の際も、「この法律は言論の自由及び学問研究の自由を阻むことを目的とするものではない。学者と学生が左翼思想を研究することは許されるであろうし、またその成果を発表する事も自由であろう。 」とは時の内務大臣若槻礼次郎の言。
24日ロシアで二機の旅客機が相次いで墜落した。捜査当局は飛行記録装置を回収した(道新26日付け)そうだが、今日現在で、その後の発表はないが、チェチェン人の関与が疑われている。
また、ロシア南部北オセチア共和国の学校で、児童生徒を人質にとる事件が1日発生。今日322人の死亡者を出して、鎮圧されたようだ。これもチェチェン独立派の仕業と報道されている。約130人が死亡した02年10月のモスクワ劇場占拠事件を上回ることになる。
今回も「喪服の女性」が体に爆弾を巻き付けたようだが、逃げようとする子供たちを背後から射殺したり、抵抗する教師達を射殺したりと、チェチェンに同情的な人には、辛い事件であるようだ。一般的には、このテロを正当化は出来ないだろう。たとえ、歴史的な背景に同情する余地があるにしても・・。
ところで、この事件に関してのプーチン首相の発言が問題である。彼は関係者との会議の席上、「テロリストの煽動に屈する者は『彼らの共犯者と見なす』と述べた。」(道新4日付け夕刊)という。テロの原因を語ることを共犯者視するという、ひどく乱暴な話である。世界を敵と味方に二分し、どちらの側かをハッキリさせようとする性急な姿勢は、間違いを正すことを不可能にする。最初から何が正しいかはわかりきっている、プーチンが正しいに決まっているとでも言うかのようだ。
アメリカの学生運動のドキュメントをNHKで見ることが出来た。
ハーバード大学で働く清掃職員、調理、整備員たちの賃金が低いこと及び労働時間が長いことを問題視して、生活賃金を挙げるよう大学当局に要求する運動である。当の職員達は運動を起こせば首になる可能性があるため、学生が代弁するという。大学は無視することによって長期化を狙い、そうこうするうちに運動が消滅することを目指していた。しかし一週間の間に、教員、卒業生、他の労働組合が、さらには当の職員達がこの運動に参加し始めた。やがて学長は学生と交渉の場に立つことになる。そして要求は受け入れられ、学長は辞任し、、校舎を占拠していた学生達は解散した。労働者は、学生の運動に感謝しそれは又、次の各大学で、生活賃金運動を引き起こしている。ハーバードでは時給10ドル83セント、医療サービス、休暇を取る自由が与えられた。
日本では学生運動など聞くこともないが、あってもエゴイスティックな要求だが、ここでもまたアメリカを見直すことになった。とはいえ睡眠時間が4時間しかというのは本当なのかと少し気になる。日本で働く中国人に対しても、同じレベルのひどいことをやっていたというから、あり得る話だとは思うが。
七月のことだが、フランスを騒然とさせた事件があった。二十三才の女性の嘘である。
パリ近郊の電車内で北アフリカ系と黒人の若者六人にユダヤ人と間違われて暴行を受け、服を裂かれ腹部に鉤十字をかかれた、だが乗客約二十人は見て見ぬふりをしていたなどというものだ。
現地の新聞のインターネット版で経緯を読むと、届け出を受けた地元警察は当初、平凡な事件と考えた、だが報告がパリに上がると、その反ユダヤ的要素が注目され、国を揺るがす事件に急成長した。
通信社が速報を流し、内相も之を受け、「卑劣な犯行」と厳しく非難。シラク大統領も「恐怖を感じる」と表明し、犯人逮捕を厳命した。続いてマスコミが雪崩を打つかのように報道を始めた。
ところが届け出から四日目には作り話と判明。捜査当局は、女性の被害妄想敵傾向や虚言癖があることなどを指摘した。興奮は一気にしぼんだ。
悪者とされたのは旧植民地出身者。人種差別に苦しみ、イスラム教徒ゆえの差別も受けている。一方、反ユダヤ感情も社会に根強く極右の台頭を支えている。
女性の嘘はこの国の敏感な部分に突き刺さり、深い傷を残したといえる。
ある新聞は「集団的ヒステリイだった」と反省、「人種差別や反ユダヤ主義との戦いそのものまでが揺るぎかねない」と憂いた。
だが日本から見れば、むしろ誇るべきだろう。他の民族への理由なき差別・迫害は許さないと言う思いが大きな声になり得る国、と言う点において。(越山明裕)
フランス人記者2人がイラクで拉致され、解放条件として国内法である宗教スカーフ禁止法の撤廃を求められる異常事態に、仏政府は中東での影響力を総動員して対応している。内政を標的にした武装勢力は、国内テロが撤兵につながったスペインの再現を狙ったとの見方もあるが、西欧最大、約500万人のイスラム社会を含めて国内はかつてなく結束している。
バルニエ仏外相が中東入りした30日以降、アラブ指導層からは人質解放の訴えが続き、「伝統的な友好国を困らせるな」(仏イスラム団体)とのメッセージは広がりつつある。一方、バグダッド入りした仏外務次官は、宗教指導者らを通じて犯行グループへの接触を試みている模様だ。
武装集団は3月のマドリード列車爆破テロを意識している、との見方がある。テロ直後の総選挙でイラク撤兵を掲げる左派政権が生まれたことから、「民主主義国の民意や政策は国外からも変えられると思い込んでいる」(ブルーノ・テルトレ仏戦略研究財団主任研究員)というわけだ。
ただ、スペインのイラク派兵が国内世論に逆らう決断だったのに対し、仏のスカーフ禁止法は長い国内論議の末、下院で494対36、上院も277対20の圧倒的支持で成立した。反対した勢力も「成立したからには私たちの法律だ」(仏イスラム組織連合)として、「控えめなスカーフ」などで新法と共存する道を懸命に模索している。
2日に施行される同法の趣旨は「宗教や民族を超えてフランスという国家に結集する」という共和国の大義そのもの。国外からの脅しで曲げることは許されない。その意味で、人質を通じて仏国民に反対デモを訴える犯行グループの要求は、時期も手法も内容も的外れといえる。
仏公共テレビは人質ビデオの放映を控え、国内結束への配慮を見せた。また、フィヨン教育相は同法の施行を前にした記者会見(31日予定)を「国際情勢を考慮して」延期した。
スカーフ禁止は公立学校だけだが、国外では、子供から大人まで街での着用も認めない「イスラム弾圧法」との誤解も少なくない。新法は大きな十字架やユダヤ教徒の帽子も禁じている。仏政府は人質救出に全力をあげるとともに、不十分だった国外への趣旨説明に力を入れる考えだ。
(09/01 18:25)
議論の上での成立であるという点が大切である。その中でフランスはどういう国として多文化と共存しようという理想が語られたに違いない。だからこそ、「成立したからにはわたしたちの法律だ」というのだろう。その理想を良しとし、フランスに寄り添う人達が生まれる。さらに私には、この理念の方向も良いものと見える。ここに言うフランスとは実はフランスよりも大きな物を措定している。それを普遍的というのだろう。日本の国旗国家法はどうやって通って、今やどう使われているかを見直すと、彼我の違いを感じる。土着的に見えて仕方がない。
杉並区が住基ネットについて国と都を訴えた。住基ネットに参加を希望する人だけのデータ通信を認めないのは、法の下の平等に反しているとしている。区は「住民のプライバシイを守るために基礎的自治体が取るべき責任と権限を明らかにしたい。」「国や都の恣意的な対応を許さない(同じ横浜方式は認めている)」「国や都との紛争解決の一つの方法として、提訴で公正な判断を求める道筋を明確にしたい」という。これに対して総務相麻布太郎は「横浜市も違法状態で、違法状態を認めるわけにはいかない」としている。
ナベ恒発言で火のついた一リーグ制についての話しあいが、選手会がストもあり得るとして以来、暗礁に乗り上げている。昨日、プロ野球機構はそのための議論の場としての『特別委員会』の設置に反対した。「球団の合併は選手の契約や他球団への移籍が問題となるために、選手が出席できる特別委員会の開催が必要なのは野球契約上明白だと思われる。特別委員会は議決機関であり、議決には出席者の四分の三以上の賛成が必要。10人の委員のうち、4人を選手で構成するため、議決を否決される可能性が大きいからだろう。否決されれば、実行委員会に議案を上程できなくなる。機構側は議決権のない委員会の開催を提案したが、これはガス抜き以外の意味を持たない。」(道新)また、労組日本プロ野球選手会に対して、労組としての適格性を疑う発言が相次いだ。「『個人的には選手会を労働組合とは認識していない。(ロッテ瀬戸山球団代表)』、『選手会は労組としての性格に疑問がある(豊蔵一実行委員会議長)。』労組選手会は都労委から労働法上の労組と認められている。
選手会は02年、経営者側の誠実な交渉義務違反に対し、不当労働行為の救済申し立てをし、2年かけて和解が成立した。その覚書、協定書でも経営者側に誠実な交渉義務があることが確認されている。さらに此の発言は更なる不当労働行為の可能性が高い。」(道新)
お上の決めたこと、オーナーが決めたことに対しては文句を言っても良いが、結局は従ってもらわねばならないという『お国柄』の”日本”に住んでいることを、熟考すべきである。一通りの説明さえ与える必要はないわけだ。真摯にとか、誠実に、とかいう言葉は死語である。もう日本にはそういう美徳はない。これも戦後の憲法が原因なんでしょうね。おそらくは真面目にそう思っている。生意気な杉並区、及びたかが野球選手とね。ただ杉並区は教育行政は石原の言う通りだから、おそらくは軍人集団の中の統制派という位置づけだと見ているが・・・。
野球の話でもう一つ。イチローは今期も好調で、シスラーのシーズン最多安打記録257本を越えそうな勢いだ。米国のスポーツ専門テレビ局「ESPN」は、彼の特集記事を組んだらしい。今期序盤に「単打は良く打つがパワー不足」と批判した記者が、今回は一転して5月以降のイチローを絶賛しているそうだ。やっぱりアメリカは凄いと思うのは単細胞か?
もう一つ、かなり前テレビで米国でアンパイヤ修業中の人をとりあげていた。選手と同じく、アンパイヤも1A、2A、3A、大リーグと序列があるそうだ。彼は日本ではアンパイヤにはなれない。身長規定175cm、視力1.2がないからだそうだ。日本に住んでばかりいると、当然の規定と思うが、言われてみると、身長と視力を理由にアンパイヤへの道をと閉ざすまではないように思えてきた。もちろん、国籍も言葉も人種も理由にはならないという。ただ、判定能力と判断力だけが必要ということだった。素晴らしき哉、アメリカ!
その他にも、中国4番目の実力者が韓国・欧州へ出かけたという記事がある。日本は入らない。何やってんだか。日中のパイプはもう詰まってしまったのか。パイプが国家間の一本しかないということの損な場面ではないか。そういえば北朝鮮とも今は一本しかない。
さらに中国の航空会社の千歳乗り入れについて、防衛庁が駄目を出しているという話もある。宇宙から精密な写真で、丸見えという時代にと、中国高官に笑われている。事大主義とはこのことか。タッチアンドゴー訓練の回数が増加したという情報は千歳に住む人なら誰でもわかることで、それが漏れるのは当然である。当然のことを、書くそうとするから秘密主義が生まれ、機密事項が増える、報道するとスパイ罪が成立する、自由にものが言えなくなると、来ればまるで戦前。頭を切り替えるべきだ。
道新19日付け社説に「歴史を眠らせるな」として国立公文書館の形骸化が進んでいるという話が出ていた。ことは、公文書館が独立行政法人になった01年度からだという。それ以前は、総理府の機関として、どの文書を公文書館に移管するかという問題を、各省庁と対等の立場で協議ができていた。年平均17000件であったという。ところが、法人化後、文書の移管は内閣府に伝えることはできるが、各省庁に直接要請することは出来ないという。そこで、もともと文書を外に出すことを嫌う官僚の意向がより通るようになったから、というのが原因らしい。02年度は7759件、03年度は5764件という。「戦後の日本についての記録が知りたければ、米国の国立公文書館を訪ねれたほうが良い」とは、公文書の保存や利用に関する細田官房長官の私的懇談会の意見だという。アメリカはいろいろあるが、ケネディ大統領の暗殺に関する公文書が50年後(?)とはいえ、出てくる国である。要するに日本では権力を監視しようにも、手段がないということ、これで民主主義といえるのでしょうかね?
同日の私の視点ではスポーツライターの永田洋光さんという人が「国歌とスポーツ」と題して、アジアカップの騒動について意見していた。君が代にブーイングという事態は、一昔前なら中国でだけ、というわけではないことは知っていたが・・。
アテネオリンピックが始まって、もう一週間くらい経つ。16日から始まったはず。何とか落ち着いて、8・15を過ごせて良かった。16日からは、メダルがいやに多い。愛ちゃんは4回戦で、中国のカットマンに一セットも取れず敗退。「楽しめましたか?」と聞かれて「楽しむためにアテネにきたのではありません」と答えたとか。体操団体がまさかの金。アレレという間に、ロシア、中国、アメリカが伸びなかったためか。個人戦は駄目。でもそれはあんまり印象に無い。放送される機会が少ないように思う。41才のアチェリーが銀。水泳も女子自由形800mで金。柔道の成績はいいのだが、気負いがあるのはお家芸だからか?メダルが当然、出来たら金という立場を過剰に意識しているように見える。井上こうせいが残念。今年は、女子が頑張り。塚田真希と上野薫のおデブさんコンビが頑張った。特に上野さんは可憐で健気に見えたのは気のせいか?日本の柔道は勝つことを義務づけられている所為かも知れないが、負けたときに良くない。武士道はどこに行ったのか。仰向けになって、天を仰いでしばらく立ち上がれない。他の国と同じように、健闘すれば良い訳ではないかも知れないが、力及ばなかったことは受け入れるしかないだろう。しかし、アナウンサーはひどい。日本人選手も頑張っているかも知れないが、相手だって同じように一生懸命だろうに。末次の100mの準決でフライングがあった。二回目の人は失格。それが気にならなかったかと言いたいらしい。しかしそれは他の人も同じだ。気になりましたと言ったら、ヤッパリネとでも言いたいのか。愛国心の発露が、日本人だけしか目に入らない。アジアカップでの中国だけの問題ではないことは明瞭。見苦しい、依怙ひいきでしかない。
靖国神社一問一答の問題を完成。結構大変だった。けれど大事なお盆休みがこれで消化されてしまった。この三日間でNHKの敗戦特集を三本見る。どれも力作。戦争の風化を止めようという人達もいるのだなと少しほっとする。
軍需工場で働いていたバリバリの軍国少女は、死ぬことは怖くはなかったと言い切る。担任の先生が黒板に「沖縄の女学生に負けるな」と書いたのが沖縄戦のはじまった45年の4月。ほんとにその通りだと思った、自分たちの作った20mm機関銃の弾がB29を撃ち落とすのだと思ったら誇りさえ感じたという。この弾が人を殺すことなんて考えてもいなかった、そんな仕事を自分たちはしていた、させられていたと考えたとき、彼女は言った。「どうしてこんなことになってしまったんでしょうね。」当然だと考えて参加していた現実が、はたして自分の意図した参加の仕方だったのかという反省がここにはある。そして今も必要だ。流されてはいけないと言う覚悟が。
特攻に行く若者の声が満州の新京放送局に残っていた。すがすがしい声で、微塵もためらいは感じられなかった。だが、その実は言うまい。そのためらいのない潔さは、今どこにもないように見える。なぜ生まれるのか。教育がすべてのようだ。大人は覚めているが、子供は教えられた価値観にとっぷりと漬かっている。子供の頃から兵隊さんごっこをしたり、日の丸の旗を作って振っているとそれに繋がる現実に不思議さは無くなる。自然と軍国少年になるだろう。
今度はパウエル国務長官が、アーミテージと同じ発言をした。パウエルは知らない。日本が今、大政翼賛型政治体制に移行しつつあることを。反対勢力と揶揄される組合は今は連合のみ。自民党に対抗する民主党は、その内情は自民党タカ派より反動的だ。リストラされても経営感覚上は何の不都合もない。みんな仕方ないと諦める。一億総経営者で、労働者はいないかのようだ。デモは人が集まらず、現状追認が日本人の習い性。権利の主張は胡散臭い目で見られ、裁判をしても勝てる見込みはない。拮抗する対立勢力がない状態が今の日本だ。
この状態で、9条を改定したなら、9条どころではなく、全てが国家主義に戻るかも知れぬ。「自己責任論」を思い出す。国に迷惑をかけたと声高に、捕らわれた三人を非難した人達は、少数ではない。今沈もうという船に乗っているという自覚がない人達は、山登りの自己責任と同じ捕らえ方をした。三人の活動がなければ、現在のように自衛隊が情報を独占する。して欲しくない報道は、間違っていると訂正を申し入れられる。
情報が一ヶ所から発信されることの不安に比べれば、多少の間違いは構わない。住基ネットはまだ不人気だが、打出の小槌のようにいくらでも便利になる。一枚のカードがあれば、何もいらないことも不可能ではない。しかし不便でも、一ヶ所から情報が出ることは危険だ。私たちは今束ねられている。
先日のサッカーはテレビ観戦。君が代から、表彰式まで拝見するが騒動はその後に起ったらしい。というか、工人体育館の外で起っていたようだ。フィールドでは、普通レベルのぶつかり合い。もちろん青いジャージが倒れた白いジャージに手を貸す場面など、中国人見ているか?今はサッカーをやっているんだぞと、ちょっと感動。残念だが、テレビではブーイングは良くわからず、シーンとしたかどうかは定かではない。
外では、集会をして日本人を罵倒する様子が昨日放映された。国旗も燃やしていた。大したことではない。あれにかっと来て、日中関係が悪くなることの方が大変なことだ。その中で「なぜ日本人を嫌うのか?」という問いに、「戦争中、日本人は中国人の肉を食べたんだ。」と涙ぐむ少年がいた。なぜだ、なぜ彼のように思う人がいるのだ。反日教育はあるだろう。でもなぜ訂正されない。日本と中国の間は断絶しているからだ。誤解を解く道がない。お隣に、彼のように信じている人が多くいるという事は、恐ろしいことだ。反日教育の根拠地、抗日記念館の様子も見た。虐殺の現場写真が壁一面に並べられていた。中国共産党からは周恩来の精神は失われたのか。
それでも、警備のために一万人以上の警官を並べた中国の姿勢は認めよう。敵を外に求める己の戦略が己の首を絞めることになったという観察があるが、それでも今できることはした。ただ不可解なのは、今日の道新によると、前日までは「スポーツで政治や愛国の感情をぶちまけるのは恐ろしいこと」と自制を促していたものを、大会後は「日本の政府やマスコミはスポーツと政治を結びつけるべきではないと口では言いながら、実際には政治問題化させた」と日本に責任を転嫁する方向に矛先を向けているということだ。道新の観察によると『中国国内の対日強硬派の巻き返し』をうかがわせるらしい。お互いに突っ張って良いことが生まれるのか、先見の明の無さに呆れるばかりである。
「サトウキビ畑」とかいう沖縄戦を扱ったドラマを見る。さんまが主役なのでちょっと抵抗があったが、最後には死んでしまう結末に納得。みんな受け身。歌によると、『戦い』は南からやって来る台風のようなものと感じている。自分の家族が召集され、戦死し始めたとき、やっと自分たちは戦争をしているのだと分かったかのようだ。あのような戦争をする国であったということが、それに抵抗する人達を自分たちは非国民と見捨てたことが、自分たちの責任ではなかったのか。日本人の自業自得ではなかったのか。国体観念に抵抗することは出来なかったかも知れない。ではなぜ、戦後日本は国体を捨てなかったのか。天皇を中心とする家族国家であるという夢を。ただ身から出た錆であるとはいえ、最後の戦いが彼らの沖縄で行われたことは悲劇的であり、同情の余地が無い。押し寄せてきた現実には、負けるしかなかったと、彼らの戦いに同情する。ああなっては遅い。『鬼畜米英』とののしる相手を信頼して降伏できるはずも無かった。
勝算もないのに戦争に突入した指導層に責任をとらせるのは、東京裁判ではなくて我等日本人であるべきではないのか。戦争に抵抗した人がいるという戦争館を作れない日本はやはりあの戦争を認めているのだと思う。
被爆者についても同じような感想を持つ。自然現象なのだ。災いが向こうからやって来るとしか捕らえられていない。『原子野のヨブ記(伊藤明彦)』という本は、被爆体験者の証言を集めたものだそうだが、多くの証言は『あの日は晴れて朝からとても暑い日でした。・・』と始まるという。『その人を被爆せしめるにいたった戦争の影が無いのです。先ず戦争があって、被爆にいたる』という因果関係が自覚されずに、自然現象として理解されているというのだ。
深夜の番組ではアメリカで被爆の実態を語る女性が紹介されていた。子供たちは、はじめて被害の実態を知って悲しみに打ちひしがれる反応も見られる。でも、当時の大人には共感は生まれない。被害者であることを訴えても、「じゃあ自分たちは何をしたんだ」と言われると、彼女にはその用意がない。加害の事実と被害を天秤にかけようとは思っていないのだろう。彼女は一方的な被害者で(心の中ではその通り、彼女は加害者ではない。平凡な毎日を送る少女だったのだ。誰が彼女の所為にできる?)、その悲劇をわかってくれないアメリカ人の心の狭さを「いつか分かってくれる」ものだとして、彼女は訴え続ける。アメリカの大人に分かってもらうためには、すれ違っている事実をみつめることが必要だと思う。ここが、平和運動の陥っている陥穽ではないか。
河村文部科学大臣は省内手続きを経て、来年にも通常国会に、改正案?を提出することになった。
六・三制が変更可能になるらしい。ナショナル・ミニマムを設定し、義務教育費国庫負担制度は維持するのは良いとして、教員免許の取得は、専門職大学院修了が義務づけられ、更新制を導入するという。
「専門職」とは何のことか分からないが、師範学校を思い出す。
文部省著師範修身公民は「師道の尊厳」について「皇国の道に則り、教育の任に在って人の師となり、国民錬成の職分を完うせんとする者は、師道の尊厳についてわきまえねばならぬ。皇国の教育は御稜威に基づく教化の奉行であって、決して私の事柄ではない。師道は天皇が民を教え導き給う御旨を、臣民たる者がかしこき思召を奉戴して担当するところに生ずる道であり、その権威は大命を奉じて戦場に兵を指揮する隊長の権威にも比すべく、師道立たずしては教育の任務は達成されない。」という。
さすがに軍国主義そのものであるが、天皇のところを『国家』に置き換えて読んでいただきたい。ラッセルは、「教員の自由を厳しく制限しようとしたニューヨーク州の立法が実現すれば、キリストもワシントンもあまりに道徳的に堕落していて教員にふさわしくないということになるだろう、教員は全て偽善者か馬鹿でなければならないことになるだろう」と言った。
啄木は代用教員をしているときに校長から説教を喰らうが、「完全なる『教育模型』として、既に十幾年の間身を教育勅語の御前に捧げ、口に忠信孝悌の語を繰り返す事正に千万辺、其の思想や穏健にして中正、其風采や質撲無難にして具に平凡の極致に達し、平和を愛し温順を尚ぶの美徳余って、細君の尻の下に布かるるをも敢えて恥辱とせざる程の忍耐力あり、現に今このS村に於いては、毎月十八円という村内最高額の俸給を受け給うーー田島校長閣下」と意に介する事もない。教育者としては立派な校長だろうが、人間としては実につまらない。これが国家の求める理想の教員像というところか。
「免許の更新」があるということは、人事を握る人々の権力がますという事である。市民としての行動が、どう見られるかという事は更新の時期に分かるという仕組みである。国民学校令(昭和16年)の第40条で「国民学校職員丿執行スル国丿国民学校二関スル教育事務ハ地方長官之ヲ監督ス」と行政の末端に位置づけられた教員を解放し、行政は『教育の目的』を遂行するたの諸条件の整備に限るとした教育基本法の趣旨はもう死んでいる。
さらに、7月17日付けの道新の読者の欄で次のような投書があった。現在の市民としての行動がどう見られるのかということが分かるだろう。こういうものに参加することも許されない。
7日のアジアカップ決勝戦が日本ー中国で戦われることになった。対バーレンーンかどこかのとき、大変なブーイングが起きたという。日本の国歌もヤジだらけだったらしい。
1939年海軍が重慶を爆撃し、1941年には夜間爆撃をしたという。218回の攻撃で、12,000人の犠牲者がでた。40年6月までは軍事基地を目標にしていたが、市街に対空砲があることから、市街に絨毯爆撃をすることになった。現地での反日感情は、自民党議員の言う通り、中国政府の反日教育によるかも知れないが、60年以上たったことを今更言われなければならないと、日本の無策が腹立たしい。日本政府は何をしていたのか。私たちは何をしていたのか。天皇は中国で犠牲者の前でコウベを垂れたか。援助ではなく、謝罪と補償をしていないからではないのか。
『中国青年報』では、「我々はスポーツと政治を一緒くたにすることを望まず、ファンがあのような方法で自らの民族感情を表現することを望まない」として、『反日的行為』を批判した。しかし、自民党の西川京子衆院議員の「これ(中国人ファンの反日的行為)は、中国が反日教育を進めた結果だ」という発言を引用して、今回の騒動の全ての原因が中国国内の『偏狭な反日愛国教育』にあるかのような錯覚に陥っていることを指摘する。
「アジア・サッカー連盟(AFC)のベラパン事務局長は「日本人サポーターの保護」を主催者側に求めた。政府の中国公使を通じて、中国政府の日本代表のジーコ監督も30日、「国歌演奏のときにブーイングするのは納得がいかない」とマナーの悪さを批判した。」何も知らないジーコ監督だからこの感想は許される。石原都知事が「民度が低いからしようがない」というのは許されない。故意に原因に目をつぶっているとしか思えない。こんなのが東京都のトップである。あの読売新聞は、4年後に北京で開かれる『五輪』を引き合いに出してこう言う。「平和の祭典オリンピックを主催することになる胡錦濤政権は、自ら育てた反日という「負の連鎖」を断ち切るよう努めるべきだ。負の連鎖が続くのは、日中双方にとって不幸なことだ。 」この日本に原因があるとは露とも考えないらしい。
1945年7月15日、本別は米軍機四十数機による空襲を受けた。50分の間に町の三分の二が焼失、死者40人、全焼279戸、被災者1915人という被害であったという。当時、役場に努めていた夏川当(まさに)さんは、「あちこちで家は潰れ、火の手が上がって燃え尽くされていました。焼け落ちた住宅の下でも人が亡くなっていました。町の様子がすっかり変わって、本別が元のように戻れるだろうかと思いました。45年は、食料増産が困難で、さらにその年は未曾有の冷害と凶作で、食糧事情はとても悪化していました。米は全滅に近く、豆類やイモ類はわずかしか収穫できませんでした。」と語る。が、困難な状態から本別は立ち上がる。夏川さんの話では、人々の協力があったと言う。「戦災をうけなかった農家の人達の奉仕がとても大きかった。馬や馬車を持ってきて、川から砂利を運んで爆撃で出来た穴を埋めたり、被災者の荷物を運んだりしてくれた。
板などの配給で掘っ立て小屋を建てました。農家の人達が助けてくれたように、温かな人のつながりがあったからこそ、復興できたのだと思います。空襲を受けただけとは言え、戦争は本当にこりごりです。」
さらに彼の目は現在の状況にも注がれる。「現在のイラク戦争でのイラクの状況は、米国などの軍隊が入り込んで爆撃し、見るに堪えません。派遣されている日本の自衛隊も歓迎されているとは思えず、戻すべきです。本別空襲も辛い記憶ですが、ベトナム戦争も含め、今の戦争の仕方はもっと悲惨です。テレビなどの映像では、戦争の恐ろしさはなかなか伝わりません。ひどい目に遭った人じゃないと分かりにくい。だからこそ若い世代に語り継いでいきたいと思います。」彼は現在84才、元本別町の助役さんだったという。
釜山から山にはいると、陜川(ハプチョン)という町がある。植民地時代の生活苦から広島に渡った人がたくさんいたが、45年8月の原爆に遭遇する。「町を歩けば、被爆者にぶつかる」と言われている。ここに、国の在外被爆者支援事業の一環で、長崎県と長崎市が医師団を派遣。診療は出来ないため、原爆専門医が診るだけではあるが、「気持が落ち着いた」と話す人もいる。韓国では社会的偏見が強く、子供二人が結婚し妻が亡くなってから被爆者登録をした、という人もいる。韓国全体では二千二百人の登録があるが、実際は一万人以上とみられている。
敗戦後、在外被爆者は見捨てられた形だったが、02年12月の大阪高裁が「被爆者はどこにいても被爆者」として、在外被爆者も被爆者援護法に基づく健康手当ての受給資格を認めたことを契機に、支援の流れは出来つつある。しかし、手当て受給の前提となる被爆者手帳取得のためには、来日が必須とされるなど課題は多い。支援連絡会の平野代表は「在外被爆者にも、被爆者援護法を全面適用して欲しい。細切れの適用では根本的な解決につながらない。」と言う。
すでに国家としての補償は終わっているという向きもあるが、まだ戦争責任は果たされていない、という感を強くする。
補償を国家と国家の取引にしてしてしまうことが、責任の曖昧さを残すことにつながるように思えるからである。日系人が、人種的に一括されて強制収容された後、1988年「市民自由法」制定によってアメリカがした補償との、違いが日米のスタンスの違いであり、アメリカに学ぶ事柄のうちの一つではないか?
道新今日付けで、精神科医の渡辺さんのエッセイが出る。
自殺死の場合は家族の苦しみが大きいと言う。「世間が寛容とは限らず、しばしば沈黙を強いられる」だが、なぜ日本は多いのかと問う。原因とされる「健康・経済・家庭」の問題は世界中、同じはず。「日本の現状が世界最悪といえず、史上最悪でもない」自殺を図る人のほとんどはうつ状態であるという。でも、「憂うつで死ぬわけではない。絶望という病で死ぬのだ。どんなに苦しくとも、誰かと繋がっているという感覚があればめったに絶望することはない。」と分析し、人間関係、特に最後のよりどころとなる”家族”が、作用しないことに問題があるという。
しかし、これでは家族の苦しみを倍加するだけではないか。自殺者を生んだ家庭と、そうではない家庭にいったいどれだけの違いがあるというのだろう。自分に非運が訪れたとき、支えてもらえるのだろうか。そんな立派な家庭は多くはないと思う。
問題はそこにはないと思う。失敗をする、健康を損なう、リストラにあうといった不運は当然あり得る。しかし、やり直しを許してくれるのか。才能がない、運がない、実力がない。その証拠でしかないのではないか。やり直しが利かない社会。だからこそ、人はあくせく学び、働く。敗者はそれが十分でなかった者たちで、それを見てなおさら嘲笑する。自分は実力があるから笑う立場に回っているとばかりに。
知り合いに、学校を出たばかりで良いところに就職した人がいる。ところが、そこでは駄目になる、キャリアを積んだことにならないと、退職してしまった。周りの者はどう言ったか。はじめは、「馬鹿なことをするな、せっかく良いところに言ったのだから、我慢して続けろ。せめて三年は続けてはどうか。」最後には呆れて「馬鹿な奴だ。世間を知らない。何様のつもりだ。」と言われ、さすがに自信を失いそうになったという。
挫折を乗り越えて進む勇気を求めるのではなく、挫折してもなお可能性に満ちた人生があり得る社会を求めたい。そちらの方が生きやすいのではないかと思う。
昔、小学生の時見た記憶のあるジリオラ・チンクェッティ主演の『愛は限りなく』がNHK BSで放送された。ビデオにとっておいた。感触は違うのだが、きっと昔見た映画だと思う。主題歌に覚えがあるから。三角関係であることも一致している。違うのは、カラーだったことと、飛行機がでるのは昼間だったということ。懐かしい思いがする。後は「マタンゴ」を見れば、見残しはない。最初不細工な顎張り女が、見ているうちにきれいに見えるのは、いつものパターン。
見終わったのが、3時頃か。そのあと、「何でもかんでも現代社会」とかいう、テレビ番組がある。子供向けの社会分析だったが、アメリカ追随の日本の取るべき方向は?というテーマ。
敗戦後、世界で戦争のなかった日はない、アメリカが目を光らせていたからだと、同志社の教授や、若者が言う。日本も、アメリカの基地があって日本を守ってくれたと。朝鮮戦争の時、韓国を助けてくれたのはアメリカだと。アメリカ軍はアメリカの国益のために動くけれども、それは日本の国益と一致している。民主主義社会を守るタメだ、という。世界を安定させているのは軍事力なのだという発想が、私には無い。冷徹に見ればそうなのか?敗戦後日本人が世界に目を向けた結果がこれなのか、と愕然とする。
一方の国連重視を説くどこかの先生も弱い。国連の予算の五分の一を出しているのが日本なのだから、それに見合った立場に立って、国連を利用できるはずだという。何時から国連を使うことができるようになったのか。日本の見方、アメリカの見方、弱小国の見方の中から、お互いの考えをオープンにし、妥協を目指す場所だと考えていた。日本の立場が絶対ということはない。世界の国々の考えに学ぶ場ではないのか。それが唯我独尊の日本を、その島国根性を、たたき直す場だと思うから、重視するつもりであった。国連重視という人でさえ、世界政府がないから、たった一つ話しあう場であり、話し合いをするからにはリーダーシップの取り合いをする場だと言うのか。最近、むやみに断言する連中が力を持ってきている。最近、マスコミが偏向してきている。大政翼賛はこうして作られるのだと実感する。
東京の学校では、管理職以外は公務員でなくなるという噂がアルらしい。教員は非常勤で一年契約、言いたいことを言えば首になるという一般の会社と同じようになるらしい。物言わぬ教員が多くなるはずだ。生活が掛かってくるとなれば、思想の自由を言うものはいなくなる。口をつぐみ、リストラにびくびくし、斯くして翼賛国家は生まれる。敗戦の反省は何だったか?物言わぬこと、真実を口にせぬことが、国家の横暴を許したというあの洞察はどこに行ったのか。さらに、責任を負うべき者自ら、責任をとろうとしないこの国のリーダー達が揃えば、国民も指導部も戦前のあの国に似てきた。
断言できない発言を認めることが、再生に繋がるのではないか。
暑さにかまけている内に、世の中はどんどん変化しているような気がする今日の新聞でした。
良い日本というニュースもある。これは日本に取っていいことか悪いことか、判断できず。何に向かっているのかが問題なのだが。取りあえず目前の体制整備でここまで大きくなった自衛隊をどう使おうというのか。
"良い""悪い"は、どこで分けたか?日本に団結をもたらすものを、”良い”、日本に分裂をもたらすものを”悪い”としてみた。もう少し方向性があるように見える。団結をもたらして目を世界に広げ、分裂をもたらして目を世間に縮めるものという差が良い・悪いということ、としてみたい。
気温は34.4度を記録したらしい。23日は、職場の自分の場所で41度。22日も30度を超えていたか。今年は日焼けが治まる余裕がない。
新聞各紙で自殺が増えたことが取り上げられていた。34,427人(昨年より2284人増)という自殺者数は過去最高の'98年の33,0482を越える数字である。朝日新聞によると、
年代別では50・60歳代、原因別では健康・経済が多いとのこと。すぐ頭に浮かぶのは
リストラで、再就職できず、家は手放す、家庭は離散という図式だが、どっこい日本人はそれではまいったわけではないか。
ところで、3万人という数字。
98年のデータだが、不慮の事故(含む交通事故)での死亡者数は4万人弱、10万人あたり31人。これに対して、自殺は10万人あたり25人と先進7カ国中もっとも高くなっている。話題の交通事故でなくなる数は、1万人強であり、(追い越し時における)スピード違反を取り締まる前に、なすべき事があるはずだ。その前に報償金問題で、芦刈本部長はじめ警察上層部は早く実態を認める必要があるが・・。自殺の理由は多岐に亘り、絞る事は難しいという話があるが、この方面の研究はどうなっているのか。アメリカやフランスよりも、自殺率が高い理由は何ナノだろうかと、不思議に思う。
NHKでペシャワールの会の話
2001年9月11日のテロ事件で、オサマ・ビン・ラディンをかくまっていると決めつけられたアフガニスタンは、アメリカの正義によって裁かれ、アメリカの正義によって復興の途中にある、という。確かにカブールでは、行政府がおかれホテルも建って立派な町並みが作られつつあるが、地方は米軍の後援により軍閥が復活し、治安は悪化している。タリバンの圧制から開放されて得られた自由は、農村のケシ畑が増えたことと、女性の売春が都会で増えたことで代表される。実際殺されたのは、テロリストではなく、オサマ・ビン・ラディンなどという名前さえ知らない山岳地帯の女性や子供である。現地にいるとそれが分かる。なぜ一方的な報道しか出て来ないのか、不思議に思った。
彼はタリバンを擁護していると、どこかの掲示板で攻撃されていたが、確かにタリバン時代の方がよかったと考えている印象を受けた。
しかし決して味方をしているわけではなく、土地土地の幸福にはいろいろな形があるのではないかというアンチテーゼを提出しているのではないかと思う。厳格なイスラム教が人々のつながりを作っており、信頼できる楔になり得る。カルザイ政権は今年(2004年)選挙を行う予定だが、
日本でいえば宮本武蔵の時代と同じなのだから、選挙ができるといっても何のことだか分からないだろうと言う。
また、今回の放送では触れられていなかったが、自衛隊がアフガンに行くという『人道支援』についても、強烈な反対を表明している。アナウンサーに、どうして続けてこれたのかと聞かれて、「日本男児(日本人?)としての誇り」と、「残された人達のこと」を理由に挙げていたのが妙に印象に残る。
| 名前 | 所属 | 得票数 | 得票率 | 帯広での得票 | 郡部での得票 |
|---|---|---|---|---|---|
| 中川義雄 | 自民 | 741,831 | 26.7% | 23,844 | 34,105 |
| 峰崎直樹 | 民主 | 618,277 | 22.3% | 16,380 | 21,866 |
| 西川将人 | 民主 | 552,993 | 19.9% | 9,075 | 8,763 |
| 鈴木宗男 | 無所属 | 485,382 | 17.5% | 19,201 | 27,710 |
| 岡 千陽 | 共産 | 254,338 | 9.2% | 6,076 | 6,914 |
| 山内恵子 | 社民 | 106,631 | 3.8% | 4,251 | 4,295 |
| 政党名 | 得票数 | 得票率 | 前回の得票率 |
|---|---|---|---|
| 民主 | 21,137,458 | 37.9% | 24.15% |
| 自民 | 16,797,687 | 30.3% | 40.90% |
| 公明 | 8,621,265 | 15.41% | 14.96% |
| 共産 | 4,362,574 | 17.5% | 7.80% |
| 社民 | 2,990,665 | 9.2% | 5.35% | >
| 緑の会議 | 903,775 | 1.62% | -- |
”最近の風潮”でも取り上げたように、「反戦」に関わるデモ、ビラまきは弾圧の対象になっているらしい。政府の政策に反対するというよりも、「反戦」といういわば無責任な行動が反国家的であるという印象によるものらしい。戦前ならば”民主主義的”であるということが弾圧の理由になったが、それも”国体の本義”に反するからであった。(天皇機関説の美濃部達吉1935)アナロジイで言うと、「反戦」ということが「反民主主義的」であると言うのなら納得が行くのだが、国益に沿わないから弾圧しても良いというのは敗戦をくぐり抜けた人間の取る態度とは言えない。
朝日のコラムで大沢真幸という人が”参院選の結果”を早くも論評していた。よく言われることだが、護憲ではやっていけなくなっていることが今回の反省なのか。社民・共産の惨敗はそれを示している。「武力による国際貢献が必要」と言われて対抗できなくては信頼は生まれないということなのか。奇麗事の陰で、軍隊が活躍し、国体が叫ばれ、軍需産業が発言権を増すとき、もはや戦後ではない。
今回の参院選はやや低調か。自民党の劣勢が伝えられた分、巻き返しをくらって民主党の伸長が不足しているのだと思う。今回は、民主党に。又、危険かもしれないと思うが西川候補に投票する。考えていることからすれば、社民か共産しかないのだが・・。
小泉の手法はポピュラリズムに過ぎる。北朝鮮の扱いはいいのだが、この日程。曽我さん一家がインドネシアで再会を、この時期にぶつけてくるというあまりに、人々を愚ろうした姿勢に問題がある。又、改憲や改教基法は戦後50年の歴史の無視、敗戦の意味の無視であるから、戦後世代の私には許せることではない。
渡辺恒雄の発言に目を見張るものがある。パ・リーグで起きている近鉄・オリックスの合併問題の他にもう一つ合併の話があるという西部・堤オーナーの話を承けて、一リーグ制が実現しそうな勢いである。これに対して、選手団は反発。ナベ恒に会いたいという古田選手会長に対して「無礼なことを言うな。分をわきまえなきゃいかんよ、たかが選手ェ。立派な選手もいるけどね。オーナーと対等に話をする協約上の根拠は一つもない」。ストライキを考えているというと、「どうぞどうぞ、やったらいい」。これにはロッテ・ヒルマン監督が「権力を持つ人がそれを振りかざすのは危険だ。特定の球団が恩恵を受ける」と批判。ナベ恒は報道陣に「君たちは、選手会とおれをけんかさせる扇動ばかり、一生懸命やっている。そういうものにひっかからん」と恫喝。宗男の恫喝政治を思い出そう。
しかしながら、12球団の維持が難しくなっていることは、周知の事実である。ナベ恒・堤・奥田の三人には先見の明と決断の長がある。彼らの思慮通りに事態は動くだろう。人気が落ちて、ストを打つ実力もない選手会に出来ることは、世論を味方につけて少しでもよい妥協点を探すこと位だろうと思う。
ナベ恒にとって巨人が傷つかず、念願通りに一リーグが達成されることは、球団経営からすれば最高の落とし所だと思う。これを長いこと念願していたはずだ。社会主義的なウェーバー方式が、球界の改革には必要なことだと思いつつ、現状維持に固執する小市民の姿が浮かび上がる。これに反対するには、よほどの大局的な解決法を提案しなければなるまい。それは巨人の「金で実力を買う」商売とは折り合わない。そして相も変わらず巨人が好きな連中は多い。ならば、彼らの言う通りの改革しかあり得ない。何を言っても無駄である。うまい。これが日本が長い間望んでいた、リーダーシップなのだと思う。
再びしかしである。本当に、これを人々は待ち望んでいたのだろうか。発揮されて、国民は少しリーダーシップの危うさに気がつくだろうか。リーダーシップを持つ権力は時期と場所と、おそらくは成否を独占しているのだ。私たちが選べるわけではない。「分をわきまえる」ことが肝要とされる世の中の到来である。ただ、そうして手に入れた一リーグが、立ち直れるかどうかはまだ判断できない。
札幌市は来年の雪まつりについて、陸上自衛隊北部方面総監部から大雪像製作など支援縮小の提案が正式にあったた め、真駒内会場の雪祭りを中止する予定らしい。一月に「度が過ぎたデモや街宣活動があって協力する環境にならない場合は撤収も含めて検討する」 と札幌市を脅迫した、竹田師団長指揮するところの第11師団が作業の中心になるが、イラク派遣に伴う訓練負担の増大と将来の旅団化による(隊員の減少)という理由を挙げている。やっと自衛隊も、本来業務が何であったのかを思い出したようだ。これからは市民のご機嫌取りをする必要はもう無い。どこかの高校教師が自衛隊のことを『公営暴力団』と生徒会誌に書いたそうだ。とんでもない話である。日本は自由にものを言っていい国ではない。暴力団と一緒にされたのでは気の毒だ。お墨付きがあるという違いは大きい。ところで『公的暴力装置』というのはどうだろうか。
ちなみに今日は自衛隊発足50周年ということで、朝日新聞でも少し特集をしていた。
1960年安保反対の年、防衛大を卒業したばかりの松村さんがある日上官に伝えられた。「東京が大変なことになっている。」それが6月15日の夜。中隊長から「治安出動にでられる態勢を取れ」と命じられる。安保反対のデモに出動すれば、国会や皇居を守り、戦車で壁を作ってデモ隊をブロックする計画だったそうだ。自衛隊が何を守るかは明白なことである。暴徒を排除する為の竹竿とバッテリイをつないだ「電気ムチ」も準備した。彼は、デモ隊が興奮したらということを考えて、戦車の出動には反対だったようだ。後、天安門事件を見てああいうことにならなくて良かったと思ったそうだが、一隊員の反対が、意味を持たないことを彼は良く知っているはずだ。集会の自由の表現であるはずの政治デモが、治安出動の対象となるこの国の将来は不穏である。
また、栗栖弘臣元幕僚長は「地方公共団体や警察・消防との連携や、三自衛隊の統合が如何に大事かわかった。その意味で大震災は有事法制を後押ししたとも言える」と言う。地震発生翌日の午前三時から自衛隊が出動するわけだが、自衛隊に対する感謝の声もあれば、出遅れたと非難する人もいたという。しかしやっていることは、『お年寄りがどんなことに不便を感じているか、炊き出しの飯はどんなのが良いのか』という、市役所でもできるようなことだ。何時から、軍隊の出動を期待する国民になったのか。消防は何をしたのか。消防では持っていない重機は現場に着くことは無かった。なぜ自衛隊なのか。確かに、自身は被害を受けていないボランティアは必要だろう。しかし、他地区からの救援は消防で十分出来る範囲であった。消防の連携の問題でしかなかった。地震と有事を搦めるすり替えについていってはならないと思う。サッポロの話でもわかるように、自衛隊はボランティアではない。命にかえて国を守る、つまり守るためには人を殺す軍隊である。
ネットで『JFSS研究会 「自衛隊誕生50年−変わり行く世界と自衛隊 」』を発見。カンボジアに派遣された時の統幕議長で現在退職して地雷の処理に当たっているという西元 徹也 さんが参加しているので気になる。永野節雄 という人が基調報告。『 戦前は国民の義務として兵役があり、国に尽くすことは当然のこととされていた。ところが戦後は、日教組が唱えた「教え子を戦場に送るな」という反戦教育を受けた結果、自衛隊に入るにも勇気がいった。』正しい。当然のことをやって、無謀な戦争を続け侵略国家呼ばわりされてしまった。この当然のことというくせ者から考え直す必要を感じたのが戦後の出発点であったはず。それを理解できない瀬島龍三老人がこの会の顧問となって、まだ生きていた。ところで、『反戦教育』は悪いイデオロギーか何かのように言われているのは心外である。日本で三百万人、アジアで二千万人の人が死んで、やっと日本は戦争をしてはいけない国であることを理解したのは、彼らではなかったということだ。いまや彼らの時代なのだろうが・・・。瀬島が言うには「北清事変での柴旅団の綱紀粛正振りが後の不平等条約解消に繋がったこと。インドネシア占領が早期主権返還・医療食料の人道支援、そして日本人を向こうに持っていっての工場、油田、道路の民生支援を行ったことが現在まで至るインドネシアとの友好関係に寄与していることなど、」であるから、これをイラク占領に活かすべきと言う。まるで、映画「プライド」の世界。民生支援は結局は軍が効率良くインドネシアの資源を利用するための手段であろう。現在のイラク支援と、どういう関係があるのか、何かを利用しようとしているのか。イラクをアメリカのとの絆を深めるための共同のエサにでもするのか。柴旅団の活躍は、清国では治安維持が不可能だから自国民を守るための出動ではなかったか。イラクとの関係は何か。ひょっとすると高遠さん達のような民間人を守るためか?まあ、派兵の目的は違うにせよ、方法論では役に立つのかもしれないが。逆に昔の美化につながらないかという心配がある。なんだ帝国陸海軍だって立派な統治をしていたではないか、というような。ところでなぜ、出張していた現地部隊が統治をするのか、参謀本部とは連絡を取っただろうが、政府の指示は受けていたのだろうなと思う。しかし統帥権は政府にはないから、政府ではなく天皇の知るところではあるだろう。でもまさか彼が直接指示を出したわけでもないだろう。すると誰が責任者だったのかとまた気になる。つまりは現地の責任において作戦行動があったのだろう。ノモンハンのように。なんだ構造は同じで、うまく行ったか失敗したかの違いしかないのではないか。
武器輸入が世界第4位、小型武器輸出も世界第9位であるという。(共同通信04/6/30)

石破長官は武器輸出三原則に懸念を覚えているという。これにしても67年佐藤栄作が紛争地域・共産圏とどこかへの武器輸出を禁じるといういわば当たり前の約束であるが、これを反故にする理由として、コスト高を挙げている。単独での武器開発はお金がかかりそれは国益にあわないと。兵器を輸出することは紛争を惹起することであるという洞察、また、輸出品となれば軍需産業の再生が起こり、軍事産業の意向があれば戦争も可という危険性の方が心配である。それほど文民統制は利いているのか。
また、文民が持つ監督権限を制服組に大幅委譲すべしという案が制服組より提案された。(7/2)細田官房長官も「民主主義の形態が大きく変化している。21世紀の日本型の議論が必要ではないか。制服を着た人が暴走するのではないかと短絡的に考えるのは当てはまらない」と語った(7/2)
「参事官制度」を規定した防衛庁設置法9条だ。官房長や防衛局長など10人の背広組幹部が防衛参事官に指定され、政治・軍事の両面に目配りしながら、長官の統制が確保されるよう補佐することになっている。
海幕長の提案では、同制度を「(自衛隊創設)50年を経た現在、統合運用に移行し、長官補佐を健全かつ円滑なものとするとの観点から適切ではない」と指摘し、削除を求めた。さらに、防衛庁・自衛隊全体への「監督権」を防衛次官に付与した内閣府設置法61条を改正して「部隊運用に関する監督機能を削除」、さらに「統合幕僚長が自衛隊の運用に関する事務を所掌するよう明記する」とした。
内局の背広組の統制権限を廃止し、政策をつかさどる「事務次官」と、軍事を統括する「統合幕僚長」を、長官の補佐として対等に位置づけようとの狙いがある
北朝鮮に関しては、着実な反応を見せる小泉君も、イラクへの自衛隊派遣については独断的である。どちらもアメリカの指図通に動いているという一貫性はあるのだが、国民から見るとブレがある。近くの動乱は避けねばならず、遠くの自衛隊はどうなっても良いと思っているわけではあるまい。近くで武力を発動する前に、遠くで慣らし運転をして、それを近くで使うつもりなのか?日米共に、戦力を朝鮮で使うことは出来ない、使えばまず犠牲になるのは韓国だからだ。百万人が死ぬのは日本ではない、韓国の人だからだ。使えないものを鍛えるのは、脅しに使うためである。しかしそれがいつまでも脅しですむという保証はない。経済封鎖でさえ、ABCD包囲網は戦争を始める言い訳になったではないか。してはならない戦争をやる国だってあったではないか。勝ち負けではない、国体の護持に関することだとなれば、北が南に侵入しゲリラ戦を始めることは想像出来ない訳ではない。
北はアメリカが日本の持ち込んでいる核に対抗するために、核開発を断念していないのだから、日本には確かに核を廃絶せよと言う権利は無い、という声が出ないのが不思議でならない。日本から核を撤退させるから、北も核を持つなということは言えるだろう。
また、核はすべて認めないというのも、喧嘩を売っているようにしか見えない。発電所はOKだろう。なぜ、完全な核廃棄を求めるのか理解に苦しむ。
とにかく、参院選はやって来た。将来を憂える声は多い。しかし声はやはり届かないのか。『「(憲法に)道徳的価値を書くことの危うさを訴えても、『良い事が書いてあるんだからいいんじゃない』という反応だ。一方的な価値観の押し付けではないかというと『そういうあなた方の方が、偉そうで嫌だ』と反発された」 』(04/4/29)が現状か。これほどナイーブで良いのだろうか。小林さんと、半藤さんの声は悲鳴のように聞こえる。「政治なんか誰がやったっておんなじだ」という退廃が、軍部を呼び込み2・26事件を起こし、大戦への道が開けたのではないか。戦争の反省が出来ていないのだと思う。
韓国では、金鮮一(キム・ソンイル)さん殺害によって、事態が動いている。韓国監査院は「政府対応に国民的疑惑がもたれているだけに、これを解消するため、今日から外交通商部(外交部)を対象に調査を始める」と発表した。必要な場合は国家情報院と国家安全保障会議(NSC)、国防部など関連機関も調査する可能性を示唆したという。ハンナラ党は国会聴聞のみならず、国勢調査ひいては大統領の責任論まで射程に入れているという。また、ウリ党も24日、柳宣浩(ユ・ソンホ)議員を団長とする党の真相調査団が外交部を訪問し、イラク僑民管理書類を渡してもらうなど、調査に取り掛かった。 (朝鮮日報による)
日本以上の大衆迎合なのか、日本以上の民主主義なのかはまだ分からないが、この行動力たるやまた、即決性たるや目を見張るものがある。日本では、政府の行動を検証しようという声さえ聞いたことがない。以前の『落選運動』といい、韓国には本物の民主主義が育ちつつあるように思えてならない。身銭を切って手に入れたものは違うということかと、思う。
(追加)本日夕刊道新。イラク邦人人質事件で、五人を救出するために要した経費は、救出に関係した職員の給与と、本人達に請求した費用は抜いて、1815万円。内訳は、職員の航空運賃・出張日当・宿泊費などの「出張関連経費」が1370万円。人質三人のチャーター機運航費が53万円。逢沢一郎副大臣等政府関係者のチャーター機運航費が203万円。川口順子外相のテレビメッセージ作成費が16万円、在ヨルダン大使館と在ドバイ領事館に設営した対策本部運営費が174万円。
これは国会議員の調査要求に対するものらしいが、国会議員の要求の方向が韓国と日本では正反対。唖然とする。
最近の事件で登場してきた『バトル・ロワイヤル』を、子供が友達から借りてきたというので、心配になって読んでみた。大変面白く読んだ。頑張れば一日で読めるのだが、わたしも年なので無理をしないで、二日かけて読む。舞台は、1997年東洋の全体主義国家、大東亜共和国である。息子に聞くと、第二次世界大戦に日本が勝ったという想定であるらしい。この国は、国防上必要な戦闘シミュレーションと称する「殺人ゲーム・プログラム」を行っていた。選ばれた中学三年のクラスは、最後の一人になるまで、殺しあわなくてはならない。首に付けた、脈動を関知する首輪によって生死を判定され、立ち入り禁止区域に入ると、その首輪が爆発し、生き残ることは出来ない。主人公の川田君は言う。
やるべきことがあるから、ハイ殺されますとはいかないと言った後、生き残る目的について話をする。
日本の権力構造と同じなのは気のせいか。空虚な中心が象徴となっている。本当にあの戦争に負けて良かった。勝たなくとも、アメリカが妥協していれば、今の私たちの歴史は平然と書き換えられていたことだろう。結果が、悲惨なことになったのにも関わらず、書き換えが進行しようという国なのだから。ところで、最後のシーンは納得が行かない。現在でさえも、都会の匿名性は失われようとしている。監視カメラがあちこちで目を光らせている状況認識がないのは不思議。そう言えば、犯罪抑止のためという掛け声で商店街などが、取り付けようとしているらしいが、先進国イギリスでは一年後には犯罪者が、もっと賢くなって戻ってくるという話だ。口当たりの良いことを並べて、誰かに都合の良いことを進めているのだから、小市民はもっと目を大きく開かなくては。
最近の動向を気にしてバトル・ロワイヤルの掲示板を覗く。少年少女が、死の間際のセリフ集を作ったり、くだらない見方しかないので唖然とする。いい大人と思える人でも、ピュアな娯楽映画を、左翼もどきの前半がつまらなくしているとか、青春小説だとか、現在と比較しようとさえ思わない空気に溢れている。息子にしても、サバイバルに参加すると思う、とまだ彼は自信があるからだろう、言い切る。わたしは40人の内の一人になれるなんてとても思えないから、いち抜ける。抜けて本当の敵にぶつかりたい。どうせ死ぬのだから。彼に聞いてみた。「クラスじゃなくて、家族でサバイバルをすることになったらどうする?」ちょっと躊躇していたが先にわたしが「君に生き残ってもらいたいから、お父さんとお母さんが死ぬか」彼は、やるつもりだったのかも。それを口にするのははばかられるから言い淀んでいただけだと見えたが・・・。軽率な判断を、悔いてもらいたかったのだが、なかなか気持は伝わらない。
そう言えば昔同じような話で、読んでみたらといわれて「蝿の王」を読んだことがあった。あれも、少年たちが仲間割れを起こすサバイバル小説ではなかったか。あちらは、児童文学の古典になっているはずだが、バトル・ロワイヤルはそうではないのか?でも、何の話で「蝿の王」を読むことになったのか、忘れてしまった。
さらにこの日、サラエボのドキュメントをNHKでやっていて、思わず引きずり込まれてしまった。もっとも今日は、.MACの調子が悪くて、iDISKにつながらないので、本を読むかテレビを見るしかなかったのだが。人々が戦争の構造を正確にとらえているのに、止めることが出来ないという難しさを言っていた。あの紛争はマスコミが煽って、政治家がそれに乗って、金持ちの息子達は前線にでることはなく、貧しいものと貧しいものが戦わされていることを自覚していた。煽られた者たちの責任は、感じていない。日本の戦争との違いはそこだ。日本の場合、決して指導者だけの責任ではなかった。国民全体が、突き進んで行った戦争だったと思う。もちろんそれは一億総懺悔とは違うし、天皇の戦争責任を免ずるものでもないが。現実的には、指導者が責任をとることは当然必要だが、それだけで日本人は済ますことは出来ない。
でも、その番組の中で、クロアチアの父とムスレムの母の間に出来た男と、クロアチアの父とセルビアの母の間に出来た娘が結婚して出来た子は、何人で何処に住めばいいのかと、現状を批判していた兵士に出会う。民族が、国を分割して暮らすことは、長い目で見れば解決にはならなくて、この民族混在のままに平和を保つしか選択肢はあり得ないという認識が必要だと感じた。それは、ルワンダのカガメ大統領の決意でもあるわけだが。
戦争を作る口実を冷静に見極め、起こったことは寛容を以て断念するしか選択肢はない。武力を用いる必然性、もしくは正統性についての議論がなさ過ぎる。テロ組織を援助しているからなのか、大量兵器を隠匿しているからなのか、イラクに民主主義をもたらすためなのか、コロコロ変わるということが正統性の欠如を示していないのか。ブッシュ君のように怒りを煽ることは解決にはならないし、小泉君のようにありもしない危機を利用するべきではないと思う。
小泉君が、アメリカに行って多国籍軍に参加することを表明してきた。なぜそんな大事なことを彼が決められるのだろうかと、不思議な気がする。いまのところは憲法の方が正統性はある。その憲法をないがしろにしかねない判断が、一人でできるものではない。主人公である国民に相談するのが筋だろう。さらに
「自衛隊は統合された司令部の下にあって、同司令部との間で連絡・調整を行うが、同司令部の指揮下に入るわけではない。自衛隊は引き続き、我が国の主体的な判断の下に、我が国の指揮に従う」とし、こうした点について米英両政府の了解を得ていると説明した。馬鹿な話である。軍隊が独自の判断で動けるわけがない。生命のやり取りをする軍隊で、指揮系統が二つと存在し得るのか。命令によって、命を投げ出さなくてはならないこともあり得る軍隊が、自国の都合で命令を拒否出来るのなら誰が命令を発するか、誰が命令を守ろうとするか。そんなものは軍隊ではない。 実は今日の朝日には
自衛隊がイラクで多国籍軍に参加する際に、日本独自の指揮下で活動することを米英両政府から了解を得ているとされる問題で、実際には大使に次ぐ職である公使による口頭了解にとどまっていることが明らかになった。8日に在英大使館の公使が英外務省高官と、9日に在米大使館の公使が米国務省高官と会い、「多国籍軍の指揮下では活動しない」など5点の了解を口頭で得たという。川口外相は18日の衆院イラク復興支援特別委員会の閉会中審査で「外交慣例にのっとり、政府間で公式に確認された」と述べたが、米側の説明には不明確な点が残っている。という記事がある。正式なものではないことが確認された。当然である。理屈のない扱いを政治的に解決出来ると思うのが、小泉君の愚かなところ、日本流のやり方(腹芸、親分の言う通りであれば何でも通る)に慣れすぎて恥をかいたか。こんな人間が、日本のトップなのだ。(他の人には出来ない長所も持っているが・・旧来の政治屋には構造改革は出来まい。)それにもまして、この独走を阻止出来ない連立内閣とは何者なのか。軍隊の指揮系統が複数あることはない、というのは自明の理という奴ではないか。現実を一歩動かしてしまえば後は、状況の変化に応じて態度を変えるという例のやり方もまた悲しくも小泉流。
さらに日本特有の問題もある。日本では、帝国陸海軍だった当時から天皇に忠誠を誓っていた。戦後、形は変わったが本質は引きずっている自衛隊の表敬順位は天皇が第1位である。自衛隊施行規則第二章礼式第13条には、『栄誉礼受礼資格者は、左の各号に掲げる者とする。
一 天皇
二 皇族
三 衆議院議長及び参議院議長
四 内閣総理大臣
五 最高裁判所長官
六 国務大臣
七 長官
八 防衛庁副長官
九 防衛庁長官政務官
十 防衛事務次官
十一 統合幕僚会議議長
十二 陸上幕僚長、海上幕僚長及び航空幕僚長
十三 国賓又はこれに準ずる賓客として待遇される者(以下「国賓等」という。)及び長官が公式に招待した外国の賓客
十四 前各号に掲げる者の外、長官の定める者 』
選挙で選ばれた何処のどいつか分からぬ者などより、生まれが高貴な方に忠誠を誓いたくなるのが人情というものでしょう。(元首だからではない、皇族が第二位なのだから。)
民主主義から遠ざけようという魂胆丸見えではないか。これで多国籍軍の最高司令官の命令で動くことはない、あっても仮の指揮官ということが分かる。ということは命を懸けることは出来ない。○○のためではないのだから。そういう意味で、多国籍軍の指揮下には入らないと言いたいところもあるでしょう。日米安保や自衛隊再軍備に反対した南原繁氏は、自衛隊を、国連が組織する「国際共同の武力」に組み込もうとしたらしいが、そいうなれば言うところはない。自衛隊が天皇を離れ、天皇の軍隊ではなくなりさらには日本の軍隊でも無くなり、世界の警察になるということだからだ。
民主党は、女帝を認めるとか、的外れなことばかり言っているが、改憲の要は天皇制の復活、日本に精神的な支柱を復活させたいということである。本当に民主党にはしっかりしてもらいたい。
君が代強制批判のPTA 会長、辞任に追い込まれる
この記事の最後の花岡校長の「本人の意思だ。辞めさせようとしたことはなく、本人と役員の間を仲介しただけ。ただ、会長が入学式で都教委の批判をすることなどは許されないことだ」という発言は何か?
PTA会長ともあろう人が、よりにもよって都教委の、つまりは公の批判をするとは何事か、という判断が透けて見える。
まるで会長という役職は、こちら側の人間で、反政府的な発言はあり得ないはずだという思惑が見え見えではないか。
花岡校長という人は、人間を「こちら側」か「あちら側」かという見方をしている。これを政治的という。公務の立場では許されない態度だ。会長は、人間の自由の話をしている。自由の制限の話は、政治の話ではない。民主主義の存在理由にかかわる理念の話をしており、これを弾劾することはその理念を否定していることになる。自分にかかわることは、自分で決めたい。自分の思う通りにならなくとも、少なくとも発言したい。それは認めなくてはならない。誰であってもだ。何処であってもだ。「場」の問題ではない。「入学式」では、不謹慎なのではない。入学式だから、子供たちが前にいるから、今の大人たちが何を考えどう行動しているか示すことが、よりいっそう大事なのだ。
そして子供たちは大きな教訓を得るだろう。ああいう発言をする人は辞めさせられるのだ、という教訓を。
janjan(http://www.janjan.jp/)では、中学の現職教員(埼玉県)による報告があった。学校の式典において、登壇する人達が「最敬礼」をするようになっているというのだ。昔は「御真影」に対しての最敬礼である。今は「国旗」に対してのものか。
彼は自分も含めて、この行為に対してなすべき抗議をしなかった、と反省する。口にすれば自分は異端視されることを恐れる風潮、即ち「教員の事なかれ主義」が、教育機関にはびこっていると報告している。
なるほど、卒業式ではやたらと国旗を正面に飾ることを強制したわけが分かる。礼をさせたかったのか。いつもながら、小市民の迂闊さ、官僚の優秀さを感じる。彼らに導いていただければこの世は安泰である。
いわゆる”民主主義”というのは多数を占めようとする戦いである。多数を取っている政党がお上を構成しているのだから、お上の言うことは国民の全体の意見であり、それは公の意見である。こう考えれば、都知事が
「国家や公を批判することが正義」とは言うまい。しかし「国家や公を批判することは必要」ではあろう。自由に批判出来ることは、民主主義の前提である。言うべき時に言わずに身をかわすのは大人ではない。言うべき場所で言わずに済ますのも同様。
先のPTA会長は、挨拶の前に十分に緊張したであろう。他の人々、学校関係者の非難を覚悟したはずだ。いわば身銭を切った人の発言は無視されるべきでも、他人事の非難をされるべきでもない。敬意を払うべきである。
13日付けの朝日で、「夕陽妄語Vol 7」(加藤周一)の書評がでた。久し振りに、以前のエッセイ、『ソムリエの妻』を再読。ソムリエの妻の主張は、反米感情が起こる背景を十分に認識したときに、初めて現実化可能となるのだとして「そして世界の人間が生き延びるためには、それ(話し合い)以外のどんな可能性も残されてはいないことが明確になる。」と書評氏は言う。今読んでいる、ルワンダのジェノサイドについての本でも、同じ表現があった。(ジェノサイドの丘)
今日付けの道新夕刊に日本ペンクラブの山田健太氏のコラムが掲載された。
三月の文春出版差し止め問題(司法)、先月の日テレ北朝鮮同行拒否(行政)、そして最近成立した裁判員法では、審理に影響が及ばぬような厳しい取材規制(立法)、を三つ並べることによって、司法・行政・立法が三位一体となって「表現の自由」を『事前抑制』しようとしているのではないか、と訴える。「これらは偶然の産物ではなく、一つの明白な流れだと言えるのではないか。」原因についてはさておき、「自由が原則、規制は例外」という憲法のルールが逆転しているという結論には同意する。 憲法がレイプされている現場に立ち合って、注意をすると「悪い悪い、本気じゃないから、冗談だよ。かっかするなって。」と引き下がった状態である。しかし何度も繰り返されると、こちらも肝が座っているわけではないから、これくらいは良いかということになる。何せ隣に怖い奴がいるからなと妙に納得する。怖いのは隣の正日さんではない。
悲惨な事件である。12才の子の人生が断ち切られ、11才の子は悔悟の人生が始まる。やはり子供のうちに、このような事件の当事者になることは悲しいことだ。どちらにとっても。殺人者となった女児は、バトルロワイヤルが好きだといい、二人ともパソコンでチャットを楽しむ仲だったという。現代的な事件の様相がある。これについては、今後様々な議論が出るだろう。子供がパソコンを使うこと、チャットで傷つけ合うこと、少女の家庭環境のこと、メディアの提供する娯楽が子供たちの精神を病ませていることが話題になるだろう。そしてそれは、社会が謳歌している自由が、実は子供たちの実存を奪ってしまっているのではないか、戦後教育が精神的な支柱になり得ていない証拠であり、道徳を重視する戦前の教育の良さを見直すべき、という論調が強くなると予測される。子供たちの精神の荒廃はどこから起こっているのか、議論を興味深く見守りたい。
ところで、第一報を知らせる朝日新聞の写真には、大久保小と、周囲に配置された警官が写っていたが、学校の前の垂れ幕
に注目。見づらいが、『あなたは見られてる!住民・郵便配達員・タクシー・警察すべての人が監視しています』とあるではないか。それとも後ろの建物は小学校ではなくて、警察か市役所なのか?怖い父親、先生を失った日本の子供に、『見られている』ということが超自我の代理になり得るのか。・・・見ていないのに。
親、周囲の人間や地域の人が反発を恐れて、見ていないから、見ても何も言わないからではないか。問題は子供ではなく、大人にある。見てもいないのに見ているぞということは、「脅し」である。見ているなら言うまでもないこと、見ていないから脅すのだ。もっとも最近は、監視カメラで実際に見るようになっているところも多いそうだが。
先日の感想では、「損得」を一歩もでていないことに気づく。自由といえば責任、平等といえば権利と判を押したような世間ではあるが、束縛を離れる権利・最低生活を保障する責任が「社会」にはあることを思い出す。改憲論議も、個人の責任を憲法に書くべきだと最近よく言われるが、そもそも社会はどうすべきか、国家はどういう社会を作るのかを書いてあるのが憲法であった。根本を忘れてはいけない。
楽観的にすぎないか?部下のやったことだから本人が責任をとるでしょうという小泉君や、道警幹部がいる日本では言質を取ったところで、自分の言葉に責任を持つことは夢のような話に思える。反論せずに論点を変える技術を磨いた官僚には「晒す」ことは恥ずかしいことではない。恥ずかしさを知らない者には、公にすることは役には立たないのだ。こう書いて愕然とする。何という国になったのであろうか。これが小泉君のやったことなのである。しかし、われわれは「部下の責任はいい、あなたの責任はどうなのだ。」となぜ問わないのであろうか。「私の責任だ」という言質を取ることが必要だということが、宮台氏の主張だとすれば納得は行く。
同行を拒否するのは良い。ブッシュだって嫌なヘレンさんは指名しない。しかし、取材源を漏らせとは何事か?ソースの秘匿は、メディアの命ではないか?これをバラスということは、メディアを殺すことになる。二度と、通報する阿呆はいなくなる。そして、特定された通報者は罪に問われる。さらに危険なことには、これを一度やったからには、どう責任をとろうとメディアの側にあるいは通報者の側に、隠せないあるいは隠してもらえないと疑心暗鬼が生まれ、メディアは死ぬ。一度ちらつかせるだけで、二度とやらなくとも効果は抜群なのだ。秘書官程度の首を飛ばすだけで、得られるものは永遠の沈黙である。こうやって、辞職すべきという見本である。福田君の首によってあがなわれたものと、どちらが貴重な教訓であろうか。言うまでもない、福田君は民主党の崩壊を引き起こしたが、飯島君はメディアの死を招くのだ。伝家の宝刀を抜くぞと脅かしておけば、彼らは勝手に萎縮するのだから。
小沢氏代表代行就任。菅代表辞任後、岡田某氏が小沢氏に「何としても(代表代行就任を)了承してほしい」と、頼んだから受けたという。菅さんがいなくてもやって行けるといった若手はどこへいったのか?他に人はいないから彼に任せることになったのではないか。民主党には人はいない、いま市民とは何かを訴えることが出来る人は、菅さんしかいないのということが、分かっていない。小沢君に「市民」がわかるとはとても思えない。人々の声を代表しているかのような世論を道具に、若手らは民主党を私物化していたのだ。
小泉首相も年金未払い。ただし彼は、国会議員にも義務化される以前の事だから、違法ではないという。そうかもしれない。しかし今浮かび上がっていることは、年金がかなりのレベルで忌避されているらしいということである。こんな物に頼らなくともよいという人が多くなっているのか、行き先怪しい物に投資は出来ないのか?自分で稼げる自信のある人ほど、払っていないのではないか。そこまできている年金制度をどうするかという問題であって、どうやって集めることができるのかという技術的な問題ではない。
小泉首相は朝鮮を訪問することになったらしい。先の訪問は評価する私ではあるが、今回はどうも合点が行かぬ。前回は何であれ、前進と見ることが出来た。しかし今回は宿題があるわけだ。それは、きちんとやってあるのか。ジェンキンズさんの恩赦は、好意的に得られるのか。北朝鮮に残されている人達は、日本人というよりは北朝鮮の人であろう。意思の確認はすでになされているのか。時期尚早の観が否めない。それに、自身のスキャンダルを抱え、宗主国の意に反する行動は、(先の5人の帰国が約束違反であることも含め)弱点が多い。北朝鮮に利用される可能性が大きい。一国の将来を、自分の都合で利用しているとしか思えない。これもまた政治の私物化といえる。
分からないことばかりだ。
心配なニュースが一つ。
福田官房長官の7日午前の記者会見で辞任発表。
やめる理由が違うというのが、第一印象。人質事件の際の対応を恥じて、というのなら理解可能だが。他人の後始末は、貶したり弁護したりと縦横無尽であるが、自分のことが週刊誌(文春)に取り上げられるとなると、馬鹿馬鹿しくてやってられないということではないか。彼はいつも第三者の立場で発言をしてきたように思う。だから軽妙なやり取りも可能だったわけだが、自分が当事者となって渦に巻き込まれるのは、結構きつい。
しかし問題は、『民主党、菅氏辞任論が噴出』である。個人情報だと隠そうとしたり、まだ未納期間があるのに明確にしなかったという福田氏とは違うのではないか。奥さんも会見で弁明に努めている。
厚生大臣の時の活躍を目にしてきた者からすれば、一種の英雄であるだけに、彼がいなくなった民主党は、魅力半減以下になる。政党の体をなさぬのではないかと心配である。(菅さんがいなくとも大丈夫といっている若手がいるらしいが、テレビにでてきた東大卒、官僚出身という”エリート”は、憲法は理想にすぎないと言った)もう投票する党が無くなる人達は、確実に増える。
先日の上杉さんに、著作の転用のお願いをしたところ、快く許可を頂いた。ご本人も、4年前の本とは思えないほど、現在を活写している(『自己責任』)のに、”最近驚いた”というメッセージがあった。
私も現在形で読んだという思いがある。もっとも『感心』したのは「二次大戦下の『アメリカ民主主義』」のP43の次の記載。
市民的自由の抑圧はまず、「国家」によって為されるものである。アメリカにおける国家権力は。連邦と地方に分散され、それぞれ行政府、議会、裁判所が相互に緊張関係を保ちつつ、相互補完的に機能している。これらの諸機関が行う市民的自由の侵害には次のような形のものがあった。
現在どの段階まで進んでいるのか、という目安になるので今後活用して行きたい。現段階では(4)文春差し止め(5)
イラク人質事件(6)自己責任論(「そこまでいうんですかね?」)また、「有力な特定集団」としては・・・・。
これは冗談だが、官憲が一斉にやるとなるとホンモノのファシズムがやって来るだろう。
イラク情勢だが、刑務所での虐待がアメリカで報じられて、騒ぎが大きくなっている。遂にブッシュが謝罪した。ラムズフェルド国防長官は補償も考慮しているという。さらに、昨日テレビで、ショッキングな場面が流れた。アパッチから赤外線でおそらくは民間人と思われる人達が、トラックから降りて話をしている状況で、狙い撃ちされた。バイオハザードそっくりの画面に向かって、命令が実行される。射撃手に考えることは許されていなかった。画面を見ている上官が、命令すれば射撃手は躊躇無く撃たねばならないことに非情さを感じる。でも、どう考えても戦闘シーンではなかった。無抵抗の赤ん坊の首をひねるようなものだ。一回目の射撃で車の陰に体を隠しているところを、もう一度狙って撃つ必要があったのか。
5月10日現在、菅代表の辞任はすでに決定された模様。民主党議員の選挙区では激しい辞任要求があるという。本当か?私は今辞任すべきではないと考える。というか、こんなことは政治ではないと考えるからだ。一時期未納があったことが問題であるという、それに気がついて、その後払っているということには意味はないのか?一度でも間違いがあっては政治家失格なのか?どこに間違いのない人間がいるのか。誰が責めるというのだろう。政治家としては、不適格なのか?たくさんいる人達はどうなるのか?全員不適格でなくてはなるまい。代表という立場にあるからか?代表になれるのは、一つもミスのない人間だけなのか。目下の問題だからか。だから、やめることとは結びつくまい。進行形であるから、公開する意味があるのであって、隠そうとする行為とは一線を隠すべきである。福田君とはレベルが違う。代表に高潔な人格を求めることはアメリカのような高いレベルの民主主義について言えばよかろう。(クリントンのセックス・スキャンダルでさえ、大統領の仕事とは何の関係もないと考える)
恣意的にすぎる。スキャンダルが政治を動かすという現在の流れは到底健全なものとは言えない。政敵の個人的な醜聞を押さえていれば、国政を動かすことができるという構図は、陰の権力を作り出す。責任のない地位について、背後から操縦する人間が、非難されることはないからだ。私たちの選択の幅を狭めることは私たちにとって得策ではない。このようなスキャンダル政治ごっこはやめるべきだ。公にでた発言で、優劣を決めなくてはならない。たとえば、「まだそんなこといってるんですか」という発言こそが、問題になるべきだ。
先日、日系人強制収容について書いたが、上杉忍氏の「二次大戦下の『アメリカ民主主義』」を再読。結局日系人を全員強制収容したわけだが、そこまでの経緯について少し分かってきた。氏の克明な調査は、ワシントンとサンフランシスコを舞台とする折衝であるため電話や無線を使用し、それが記録に残って分かったものらしい。
政策というものはこうして決まるものなのかと、誠実な営みに感銘を受けた。きっとここ日本でも同じような交渉があるものと信ずる。それにしても、japを隔離せよという世論を受けてはたらく陸軍省の高官と、それでは憲法に穴を開けたことになるという危機感を持った司法省が、丁々発止のつばぜり合いを演じるわけだが、どちらも憲法を守る意識が強いことにびっくりした。
巷の声を活かすのが民主主義であるから国家の三権の中で、議会が重要なことはいうまでもないが、それだけでは衆愚に陥ってしまうからというので司法と行政が憲法を共通の土俵として議論を交わす。結論は頂けないものであったが、またアメリカを見直した。
ただし彼らの一致しているところは、「人種」を理由として強制収容は出来ないが、一部であれば「危険分子」として強制収容は構わないということである。よく分からず何度も読む羽目になってしまった。要するに、「人種」以外の理由を見つけて全員を収容することが出来ればよい、それは憲法には違反しないということなのだろう。
なお、この章の最後に日本でも話題になる賠償責任についても触れている。後書き風に書かれているが、これも引き写しておく。支払いの方法やその規模も含め、日本の参考になるに違いない。
二日間yahooの掲示板に出入りしていたが、誰も相手をしてくれないので撤退。名前を付けないレスは、見落としがちなのに、テーマを先頭に持ってきている。自分にきたメールにちゃんと返事をしていない。礼儀知らずである。
国旗国歌の時には、いろいろと教えてもらったが、今回は掲示板の利用の方法がわからない人ばかり?それとも、私の内容が軽いせい?冷静さを装っていた分、よそ行きだったか、罵詈雑言で始めることも出来たが、hast_fiftyの名にかけても、スタンスは崩せなかった。少し、考えよう。
きのうはメーデーだったが、仕事で参加できず。帯広では1500人だったとか。道新に4人で組合を結成してメーデーに参加した人達の記事が載る。組合がないと、良いようにされるという冷酷な現実が見えない人もいる中、頑張っていますね。
おとついの朝日に上野千鶴子さんのエッセイがでる。『人質事件国家と区別市民を解放』という題で、よくぞ言ってくれたという内容。第二次世界大戦のおり、アメリカは日系であるという人種的な理由で、日系米国人を隔離した。しかし、今回は敵性外国人でありながら、やっていることはイラクのためになることだという理由で人質を解放した。何という進歩。この前も書いたが、あまりにも出来過ぎの観さえある。60年前に民主主義の巨人より、現在の中東の田舎の方がリベラルではないか。日本が今のイラクの状況になったとき、それが出来るだろうか。味噌もくそも一緒にして鬼畜米英と叫んだ国民性を思い出す。日本は進んでいないような心配がある。
同日、今井君・郡山さんの記者会見がある。PTSDとかで、今井君は発言の後、途中退席。その後、郡山さんは軽口を叩き続ける。今井君は落ち着いていて、安心した。二人とも、自己責任を問われて、仕事を続けることが、その責任を果たすことになると少しオチョクリ気味。ビデオコムの下の方に逢沢外務副大臣の外人記者クラブでの会見も載っていた。日本政府としては、彼らの情熱は認めるけれど、時と方法を考えて欲しいと説明した。中で、健康診断費用を請求した理由や、帰国時の飛行機代金の一部を払わせることについて説明を求められていた。(救助のために向かった副大臣一行が費用を求めるなら、一人で帰ってくるのと変わりはないのでは・・と掲示板で言ったが反応なし)バッシングをどう思うか、バッシングの原因を作ったのは政府ではないのかという厳しい質問にも何とか答えていたように思う。しかし苦しそうな会見だった。終わってほっとしたことだろう。
朝日(1日)に、改憲についてのアンケート結果が集計されていた。
戦後初めて改憲論が多数を占めるという時代がやって来た。自衛隊の扱いがその焦点になると思う。集団自衛権の行使のために軍隊を明記する必要があるらしい。今のままの中途半端では嫌だ、ということだ。しかし、軍事力だけで安全をcreate出来ないことは今回のイラク戦争で明らか。ここで、日本が先頭切って武器を持って行っても、アメリカ以上のことが出来るとは思えない。行き詰まりを見せている現在のようなとき、距離をとった国が必要なのではないかと思う。国連を動かすことが出来るのは、冷静をたもっていた国ではないのか。北朝鮮は問題ではない。強硬策をとれば、火の海になるのは日本ではなくて韓国だ。多勢を日本に送り込むことは出来ないが、陸地続きならば可能だからだ。あまり強硬にでることは不可能だということを、安倍君は分かっているのかしらん。
また、軍隊によって守るモノは何なのか。アメリカには「自由と民主主義」という旗がある。日本は何を守るのか。今は国益を守っているらしい。なんだそれは。そんなモノで普遍的な国民の一致を見られるのか。日本人を馬鹿にしないでもらいたい。平和といってはいけないよ。平和を守るために戦争ができるなら、豚は馬であり、白は黒なのだ。国民の命といってもいけないよ。ついさっき、個人の命より国策を優先したのだから。行き着く先は、コメ作りであり、お国柄であり、天皇しかありえない。いくら隠そうとしてもそれしかないのだから。ところで自衛隊は何を守ろうとしてきたのだろう?
朝日新聞は何を勘違いしたのか、憲法特集のようだ。一面で「公と私」というテーマ、特集は26ページ。
元東北大学学長の光ファイバーの研究で有名な某氏が「憲法には権利ばかりで義務がない」と、言うのを聞き憲法がどうやって生まれたかを知らないインテリ(?)がいるもンだと唖然としていたら、何やら現在では
衆院憲法調査会にいる自民党党員はみんなそう思っているらしい。
実は衆院調査会は憲法とは何かさえ、理解していない連中の巣窟であったとは。 お馬鹿なのが議員だけなら良いが、社会全体がそうなっているという記事も目に付く。ここ帯広では、シートベルト着用が徹底されている。こんな事を法で決めること自体、信じられないが、悪くない事ではある。良い事ならば、自分たちでやるはずだし、事故が起きた際の保険料で差をつけるなりいくらでも工夫があるのに、何でも法で縛ろうとする傾向が、警察ではない社会全体にはびこっている。というわけで私は反抗的になるのだが、今点数を引かれては困るので、パトカーを見たら締める。人なんてコンナものだ。これを法と道徳の分離とは言わないか?
なるほど権力の行き過ぎを監視するよりも、現実の問題を解決する方が優先されるのは当然か。シートベルトについての私の態度もそうだが、法によらない解決策は具体性に乏しく、時として単なる理想論になってしまう事を人々は知っているのだろう。草の根は正しい。民主主義では一人の権利は他の権利と衝突する。ここに葛藤が生まれる。この葛藤を克服する道として、公への依存が出てくるのは当然なのか。しかしその公とは行政であり国家であるのか。
大塚英志という人が 『新現実 VOL.3』 (2004年5月、角川書店)で“いかに「戦時下」に語るか”を特集して、「まえがき」でこう言っているらしい。
戦後の教育を受けたぼくはかつてこの国が戦時下に向かった時、抗い得なかったのは人々が銃の力によって戦時体制が強要されたのだと、何となく思っていた。しかし「現在」という時代を一つの手がかりにしてかつての「戦時下」を理解し直すなら、むしろ人々は自らの熱に動かされてそのような時代に突き勧んで〔ママ〕いったのではなかったかという実感こそを強く感じる。/後になって、いや我々は抵抗した、とか、あるいは、いや、自分たちは被害者で、あいつとあいつは戦時体制の先鋒をかついだ、とか、様々なアリバイ証明や告発がなされたが、問題なのは、アリバイを証明することではない。むしろ告発されるような言動をとらなかった方の人々の責任こそが問われてしかるべきではないか。人々が「なんとなく」戦時下へと進み、「なんとなく」戦後を迎えた結果として、「現在」は再び「戦時下」にあるのではないかともぼくも感じる。/とすれば、たった今、必要なことは、いかにして「戦時下」としての「現在」で、語りうるかという設問のように思う。〔……〕/重要なのはぼくのこの文章も『新現実』VOL.3も含めて、「現在」のすべての「ことば」が「時局下のことば」「戦時下のことば」として否応なくあることをまず強く意識することだ。その際、大切なのは、この「時局」に対して、それを相対化しうる安全圏はどこにもないし、仮に安全な立ち位置を探してしまったとすれば、それはまさに「時局下のことば」でしかない、ということだ。まさにこの通りに考える。そのために、大正デモクラシイ・ノモンハン・翼賛体制・靖国・日本遺族会がどのようにかかわっているかという事が、現在の興味の対象である。対米戦争が布告された日に、多くの文学者や民衆は快哉を叫んだという。なぜそのような事になったのか。意地で負け戦を選んだ過去の人々を追体験する事が出来れば、それはこれからの私の態度にも影響を与えるに違いない。さらに、「反日」という言葉を吐く議員がいる事が分かったからには、そしてイラク人質事件に対する悪口雑言を見たからには、今はすでに戦前である。三十年ほど前同僚と右傾化の話をしていたときには、そんなこと(戦争)は起きない、と一笑に付された事を思い出す。あの頃からずっとつながっているように思っていた。今なら彼はどういうのだろう。戦争の準備をしなくてはならない。戦争をやるとき、私はどう行動すれば、息子に許されるのか。子孫は認めるのか。逃れる事は出来ないと思う。
以上は良いお話。高橋知事は胃ガンの手術で休んで以来、落ち着きが出てきたかのように見える。今後とも良識ある判断をお願いしたいし、期待したい。ただ、「負担求めず」と「実費は頂く」の懸隔はないのか、気になるところではある。以下の、外務省の対応と実は同じだったりして・・・。それでも、中川経産相の「人質の家族が東京での拠点に使った北海道の東京事務所の費用負担をどうするか、知事は頭を痛めている」という発言とは雲泥の差がある。心に何があるやも知れぬが、熟慮の末の言葉遣いであると思う。
以上が情けないお話。気になるのは南米でゲリラに誘拐された人は、果たしてどれくらい請求されたのかである。同じくらいなら今回も正当と考えよう。差があるなら、その差の根拠を尋ねよう。返事は貰えないだろうが、そうなれば推測する正当性が出てくる。柏村某なる者「反日的分子」とはまた時代がかったお言葉。反論する必要を感じない。日本に分断をもたらそうという、陰謀の一環か?小市民は、互いに異なる価値観のそれでも共通な基盤を探ろうとい思うのに、私よりも政治的でない政治家が選出される地方があるとは、二度びっくり。中国の悪口も今はやり。流行の先端を行っているつもりなんだろうか。民衆と、政治家と軍部が先を競って、極端を目指した戦前が懐かしい。
三人は祖国に帰り、イラクでもあり得なかった辱めを受け、虜囚となる。大人の判断が大人として評価されず、家族が代わって謝罪する。このバッシングは、未成年者が殺人を起こしたときと同じ反応だ。34才の大人をつかまえて、「世界中を回って百回謝れ」と本当に言ったのか?「この馬鹿息子」と郡山さんは本当に言ったのか?命を懸けて行った取材先での受難を、こういった形で笑って言えるのだろうか。家族の謝罪を要求する日本という国の形は何なのか?何時からこのように醜い国になったのだろう。私たち小市民は、彼らの勇気(蛮勇かもしれないが)にただひたすら敬意を表わさずにはいられない。小市民のなしえる業ではない。私の住んでいる日本から彼らのような人が現れた事を誇りに思う。
日本以外では、国家が誘拐された被害者の自己責任を持ち出して、己の不作為を棚に上げる事はあり得ないという。知らなかった。
国内では常に起こる話で、レイプの際に被害者をいじめる論理としていつも流通していたのだから。レイプが現に行われているという情報がありながら、解決されてもいないうちに、本人が悪い、そんなところへ行くからだ、(だから一生懸命助ける気にならない・・と言いたいらしい)と言う論が起こっているに等しい。さらに、政府は誤解している。なぜ被害者が行ったかというと、そこで殴られている子供がいると分かっているのに、警官は安全な所で水を撒いているだけだからだ。親ならば助けに行くだろう。終わってから、犯人が引き上げ後にすればいいとは云わないだろう。では行けるのは、親だけなのか?誰が行っても良いだろう。高遠さんでも・・・。
イスラエルではシャロンが暗殺を公に行っている。ブッシュは「パレスチナは感謝すべきだ」と言う。イラクではアメリカがファルージャで虐殺をやっているらしい。そしてテロが増加してきた。バスクでは70人以上が死亡、サドルシティーなどで三件、13人死亡。イラク人がイラク人を殺すというようにテロが拡大しているようだ。イラクが憎悪の坩堝になる事は、彼らにとって良い事は何一つないのに、このような絶望的な状況を選び取る。なぜか?勢力拡大か?殉教か?それとも、アメリカ憎しなのか。解放された安田さんの話では、誘拐した連中は自警団のような感じがあったという。
しかしそれらは、私のような小市民の手に負える話ではない。やはり日本に関わる事で、観察が可能な事柄をフォロウするのが我ら小市民のなすべき事である。手を広げるのは大市民の仕事である。分を守るのも、和の精神というもの。
捕らわれていた三人が、ドバイに着いたようだ。もうすぐ日本に帰る事が出来るが、その日本はいま彼らをだんだんと厳しい目で見るようになっている。何よりもまず、家族の意見が変わってきた。感情的な発言に反発を受けることによって、家族は取り込まれたようだ。高遠さんは、子供扱いされ家族にさえも尊重されない。家族が味方ではない、支えてくれないという状況ができ上がった。誰の思う壷なのだろう。ここにも、悪意と善意の衝突があり、悪意が勝利をおさめる。
わたしも、20年ほど前同僚が自殺するんじゃないかと、捜索に駆り出されたことがあった。誰が文句を言ったか?皆、自殺でもしたら大変だと、必死で探した。誰も、日当を出せとはいわなかった。もうそういう時代じゃないのですか、小泉君(敬称さえ略)!
親戚も以前、四国巡礼で山中で迷子。地元の人に迷惑をかけた。ヘリコプターも出動した。見つかっても、本人はあっけらかんとしていたが、お礼に行った人は恐縮して四国へ。でも地元で言われたのは「見つかって良かったですね」誰にも迷惑云々の話はされなかった。(ヘリ代は請求されたらしい)
自分では汗をかかない人だけが言う、憮然として「迷惑だ」と。お前は無責任な観客でしかない。ーーーつい感情的になってしまった。個人情報保護条例に引っ掛かるかもしれないので、口に出して言うべきではない。心に思うことは自由なんだから、日本には自由はあるのだから、ここは我慢か?
少し落ち着いて考える。朝日新聞に小倉利丸さんという人が「『自己責任論』でいいのか」」という痛快なエッセーを書いていた。彼はNGO活動を支持して、反論を試みている。論点は、第一に外交は外務省とNGOが連携して進めるべきものであるのに、切り捨ててはいないかという事と、第二にNGOが無ければ、情報は一方的になりイラクの密室化につながるという事、第三に、外務省の気に入らない活動であっても、おかしくは無い、一体となって外交が成立しているという事であろうか。さらに配信して貰っているTUPによると彼が呼びかけ人になって、「(共同声明) 「自己責任」論による非政府組織(NGO)、市民団体、ジャーナリスト等の活動への批判に憂慮します」を出していた。さらに、17日付け仏ルモンドでは「「事件は、外国まで人助けに行こうという世代が日本に育っていることを世界に示した」として、「無謀で無責任」と批判されている元人質を弁護している。 「日本、人道主義の勢い」と題した長文記事は「軽率で無邪気すぎるかもしれないが、ネクタイ・スーツ姿と夜遊びギャルの間に、激変する社会に積極的にかかわろうとする者がいることだけは分かった。彼らは自分なりに世界を変えたいと考えている」と、元人質の行動に理解を示す。 また「親の世代のように企業社会に服従することを拒み、新たな感受性を見つけた若者たち」を束ねる「10万の非政府組織(NGO)」の活動にも注目。「阪神大震災以降、人道・奉仕活動に身を投じる子供たちが増えている。日本人の人質たちは一つの象徴だ」と結論づけている。 (04/17 11:09) 」と日本の成熟を祝ってくれる人が外国にいた。さらにパウエル国務長官はJNNの兼平さんの単独インタビューで「イラクの人々のために、危険を冒して、現地入りする市民がいることを日本は誇りに思うべきだ」と次のように語った。
MR. KANEHIRA: In the history of the modern nation, it is said every government has an obligation to protect their own citizens. Some people in Japan are saying that those who are kidnapped are willing to take risk and they were expected to assume the responsibility for their own act. What is your comment?
SECRETARY POWELL: Well, everybody should understand the risk they are taking by going into dangerous areas. But if nobody was willing to take a risk, then we would never move forward. We would never move our world forward.
And so I'm pleased that these Japanese citizens were willing to put themselves at risk for a greater good, for a better purpose. And the Japanese people should be very proud that they have citizens like this willing to do that, and very proud of the soldiers that you are sending to Iraq that they are willing to take that risk.
But even when, because of that risk, they get captured, it doesn't mean we can say, "Well, you took the risk. It's your fault." No, we still have an obligation to do everything we can to recover them safely and we have an obligation to be deeply concerned about them. They are our friends. They are our neighbors. They are our fellow citizens.
・・・・・・・
もっとも公務でイラクにいる自衛隊と、ボランティアでイラクに行った三人を同じレベルで誇りに思え、というのは少し違和感があるが。・・・日本では国家が、つまり権力が迷惑をかけられたと考えている。ところが、勇気のある仲間が、危険に陥ったのだから救うというのは”we”の義務だと言うのが、パウエル氏の発言ではないか?"we"とは国家なのか、国家の一員としての国民のことではないか。戦後民主主義は国家の呪縛から逃れることが一つめの目標だった。そのためには"we"を私たち日本人と考えるだけではなく、視野を広く、生きている人間全般にまで持っていこうとしたように思う。そしてそれは失敗しつつある。実際に起きている議論は、もっと偏狭に、日本人の中にさえ分裂をもたらそうとしている。それが自己責任だ。普通じゃない人を、なんだかんだといって打とうとする。黙って常識的に生きていけばいいのか。助かって帰るべき祖国は、彼らに冷たい。ドバイで開けなかった記者会見は、三人が家族の説得を受け入れていないからだろう。だから厳しい表情しか出来ないのだ。家族は暖かく受け止めていない。無責任な世間のなせる業。体調がすぐれないからではない。祖国日本に幻滅しているからだ。日本には彼らを受け入れる度量がない事がいま、明らかになっている。
もう一つ。外務省のやる事だけが外交ではないということ。小椋さんが劣化ウラン弾について述べたように、政府は自衛隊を派遣して彼らが被災している以上、人体に有害だとは認める事は出来ない。ではそれだけで良いのか。良くないから、現場へ行って影響を調べる人が必要なのだ。今井君のやっているような仕事が必要なのだ。政府は外面を取り繕う事に邁進すればいい、しかし実態を調べる大切な仕事をしなくて良いとは言えない。危ないけれど行ってくれてありがとうというのは政府の方なのだ。互いに補完しあって、外交を進めるべきなのだ。
さらにもう一つ。驚いたこと。誘拐犯人は、道義を知っていた。テロリストではない、のではないか。政府と話は出来ないが、彼らと話は出来るような気配がある。peopleは連帯できる、という希望を持てるのではないか。現在誘拐されている人は約50人、殺されたのは一人。全部が全部ではないだろうが、意外とテロリストは人道的。国家を越えたところに、共生の可能性があると考えた人達はいまでは時代遅れ。冷厳な現実をちっとも分かっていない夢想家、北朝鮮の脅威はどうするのかと言えば誰もが黙ると思っている人達に、笑われる。今回の誘拐騒動は国家間のパワーゲームだったのか?違うでしょう?三人はイラクのために仕事をしていた、と分かったから助かったのだとしたら、どこにも国家の出番はない。だから政府は何もしなかったのだけれど。
追加:「自己責任論」台頭米紙が一面で報道(道新04年4月24日)23日の米紙ニューヨークタイムズは、イラクでの日本人人質事件をきっかけに「自己責任」論が台頭している事を一面で報じ、解放された人質を「犯罪者」のように扱う動きを批判的に伝えた。同紙は、解放された人質三人の帰国を待っていたのは温かな抱擁ではなく、国家や市民からの冷たい視線だったと指摘。政府の勧告を無視してイラク入りし「縦社会のなかでお上にたてついた」ことが三人の”罪”となった、とした。
全文はすでに読めないが、現在もアメリカ兵が一人拘束されている。彼らはこれを「付随的犠牲」十人がでても強襲して助けるのだろうか。具体的にはアメリカであっても解決は難しい。しかし、”「自己責任」だからといって切り捨てる事はしないという決意は、間違いなく存在する”と受け止めるべきなのだろう。
8日(木)夜、ファルージャ付近で邦人三人がサラヤ・ムジャヒディーンと名乗る武装組織に誘拐され、「自衛隊の撤退」を要求された。
危険地域であることを承知していたにしても、支援目的の民間人まで政治の道具にするのかと、残念に思う。
イラク人が犯人だとすれば、彼らの行動には幾分かの理はある。シーア派の台頭を恐れる余り、選挙に踏み切れない為、占領は長引いている。長期化すると、ゲリラとの戦いという面があるため民間人をも巻き込んで死者を出している。アメリカに撤退して欲しい、イラク人に任せるべきだという主張は正当である。
三人の行動も正当である。自衛隊による支援ではなく、武器を持たない民間の支援こそイラクが必要としているものである。父によるゲンコツの愛ではなく、メオトの深情けでもなく、兄弟愛こそイラクの人々の求めるものであり、だからこそ小市民の連帯が可能である。三人には、かなりの理がある。
もちろん両者に非があることは言うまでもない。
理もあるが、非もある犯人と日本人、彼らの願いは同じものであるように見えるのに、一方は他の死を要求する。この理不尽さはなんだろう?言ってみれば善意と正がぶつかっているのだ。絵に描いたような「世の中は善意だけでは通用しない」という一例でしかないのか?かくして犯人の意図はねじ曲げられ、三人の善意は踏みにじられ、私たち小市民は声を失う。そして日本人は共通の言葉を失い、分裂の裂け目はより深く広くなる。
残念なことだ。
福岡地裁(亀川清長裁判長)が小泉首相の靖国参拝に関して起こされた訴訟で「内閣総理大臣の職務による公式参拝で、憲法20条で禁じた宗教的活動に当たり、違憲」と判断した。
政教分離規定で指導的判例とされる「津地鎮祭訴訟」最高裁判決(77年)が示した「目的効果基準」に照らし、憲法20条が規定する政教分離原則に違反する、と認定した。判決は明確に違憲と判断しており、靖国神社への玉ぐし料などを県費で支払うことを違憲と判断した「愛媛玉ぐし料訴訟」最高裁判決(97年)が示した厳格な要件も踏襲したと言える。
政教分離をめぐっては、市立体育館起工式で神官の儀式が行われたことの是非が争われた津地鎮祭訴訟で、最高裁が「目的に宗教的意義があり、効果が宗教に対する援助や干渉などになるようなものが違憲となる宗教行為」とする「目的効果基準」を示し、これが判例となっている。
今回は、首相が参拝をした夏の終戦記念日には参拝客が例年の2倍になったことが、用件に該当するとしている。また、中国など隣国からの批判を承知しつつ行ったことは、自己の利益を狙う政治的意図があったとしている。
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少し弱いです。靖国そのものを否定することでしか、私は納得できない。なぜ作られ、どう使われたのか、だからどう使われる危険があるのかを論ずべき。また、政教分離とは何を目的にしたのかを、考えていきたい。
今日の夕刊にトラストサルンを取り上げていたが、少し引っ掛かる。トラストは行政との協働の必要性を感じて参加したが、2500万円の事業受託の契約に至るまでに「結果として、相互信頼が育ったと言う」というのは本当か?一度は直線化された旧釧路川を蛇行させようという事業に、疑問を呈していたはず。理由は「すでに蛇行は始まり、新しい生態系も生まれている』ということ。さらには「膨大な投資をしなくとも、いまある堤防を低くするだけで効果は十分ある」ということである。この協議会自体、新たな公共工事に対するお墨付きを与えようという役割を持っているのではないかという疑念を 表明している。それはさておき、少なくとも「現存する湿地の維持および保全は、失われた湿地を回復するよりも、常に望ましくかつ経済的である」というラムサールの精神を確認する必要はあるだろう。私は単なる応援会員なので、突っ込んだ事情はわからないが、今回は『トラスト』を持ち上げようという、提灯記事のように思える。
4日(日)付け道新によると、角栄さんの孫のプライバシーをめぐる裁判で、お孫さんは抗告せず東京高裁の判断が確定した。「表現の自由を制約することが目的ではなく、誤解されることは本意ではない」(3日)という。英断である。こうなったら、くだらない記事を載せた文春を思いっきりやっつけて貰いたいものだ。今度はプライバシー を侵害された者の側に立つ。
この日の道新には、『川口外相訪中・・尖閣上陸再発防止を(中国に要求)』という記事。
日本「尖閣諸島は日本固有の領土であり、最近中護国の活動家が上陸したのは極めて遺憾」
中国「中国側は中国領土だと何度も声明を出している」。
1895年に無主地の先占であるから、そして当時中国側からは何の異議もはさまれずに日本領であることを宣言した。しかし1969年に海底油田の埋蔵が確認されてはじめて、日本が 標杭「石垣市建之 」をたててから、中国は石油欲しさから抗議を始めたものであると理解していた。が、地図を見ると中国に非常に近い。調べてみると
井上清氏の1972年の研究があった。なるほどどちらが先に見つけたかということと宣言したかということは違い、お互いの納得が行かない場合は今回のようなもめ事に発展するのだと了解。
道新は”なぜ両国が強硬か”という理由として、中国は「愛国運動を抑えれば批判の矛先が政権に向かう」からであり、日本は「『弱気』と映る外交は強い非難を浴びる」からだと言う。最近、『強気』の若手ばかり目立つ傾向があるが、ノモンハンを起こした辻政信を思い出す。そして積極策にでて失敗しても咎めない中央があればまるで旧陸軍ではないか?
危険です。いまの日本は・・・。
真紀子元外相の娘の離婚を報じた週刊文春の出版差し止め問題は、
16日に東京地裁(鬼沢友直裁判官)が長女側の申し立てを相当と認め、出版差し止めを命じた。
文春側が異議を申し立てたが、同地裁(大橋寛明裁判長)は19日に異議を退けた。
これを不服として文春側が東京高裁に保全抗告していたが、3月31日東京高裁は、
記事によるプライバシー侵害があったと認定しながらも、「暴露された私事の内容・程度を考慮すると、出版の事前差し止めを認めるほど重大で著しく回復困難な損害が出る恐れはない」と 仮処分を撤回した。
さらに、根本裁判長は「表現の自由は民主主義体制の存立と健全な発展のために必要な、憲法上最も尊重されなければならない権利だ」と述べた。受け取る側の権利、ということである。
これについては、日本ペンクラブも、23日「プライバシーの尊重が成り立つのは、民主主義社会においてのみであると考えれば、表現の自由こそが大切である」と抗議声明を出しているが、今回も『言論の自由』というにはあまりにお粗末な記事ではあるにしても、例外ではない。くだらない内容でさえ検閲があるのなら、もっと重要な内容であるならば、さらに厳しい判断が出るであろう。だから、今回はこれでいい。ただし、この根本裁判長というお方は2000年、19歳当時に殺傷事件を起こしたとされる男性の実名と顔写真が「新潮45」に掲載されたことの可否をめぐる訴訟で、「掲載は社会の正当な関心事」と、これを可とする判決を言い渡しているらしいので、なんだか心配だ。
言論の自由は、あの敗戦がなぜやって来たのかという疑問から発する。権力の秘密主義・官僚主義を監視するのが国民の義務であり、国民のかわりに目を光らせるのがメディアの重要な役割である。それは権力から遠いところにいるべきである。個人情報保護法案は、報道が適当なものかどうかは主管大臣が判断するとされる。それは危うい。原理的に無理がある。現在の道警報償費問題を道警自身で調査するというようなものだ。(みんなグルだと思っているのに・・。)
たしかに、マスメディアは商業主義に走り、他人を笑い、馬鹿にして売り上げを伸ばしている面もある。しかしそれが全てではあるまい。「政治の腐敗とは、政治家がわいろを取ることじゃない。それは個人の腐敗に過ぎない。政治家がわいろをとってもそれを批判することができないという状態を、政治の腐敗というんだ。・・」(銀河英雄伝説・ヤン提督の発言)。おのずから、言論の自由が最優先であることは明白ではなかろうか。私は、権力の監視役としてのメディアの重要性に鑑み、東京高裁の判断を支持する。
神社内の掲示による社史では、1947年に名称が平和神社になったものを、昭和39年(1964)に十勝護国神社と戦前の名称というか精神に戻っている。この年、オリンピックがあったなあ。『平和』より『護国』を選択したという事は、どういうことだったのか?
残念ながら、組合中心で800人程度らしい。それでも、最初に公園を囲んで人間の輪を作り、花火があがってシュプレヒコールなしのデモに入った。花火のあとに起こった拍手がやや自発的だった。みんな自分の気持を表わしたいのだなと、思った。つまりただの動員ではない証拠である。歩く市民に参加を呼びかけたが、難しい。自分だったら、賛成なら行列の最後に加われるのだろうか?
11月26日の道新報道から始まった一連の「報償費に関する不正流用疑惑」が政治の舞台にやっと上がってきた。
もしも、原田証言(2004/02/11)や、斉藤証言(2004/03/01)が正しいものならば、この疑惑は警察と言う組織全体で行われている可能性がある。さらにはここで作られた裏金は政治家に渡っていることも考えられる。すると不正を究明する権限が与えられるべき主体は、道警ではあり得ない。さらに道議会でさえもあり得ない。同じ穴のムジナなのかもしれないのだから。
以前にも”警視庁で十八年間会計職員を務め、自らも手を染めた裏金づくりの実態を暴露した大内顕氏(45)は「警察は(組織的)不祥事を絶対に認めない。調査もせず、告発の犯人捜しを優先する。周到な隠ぺい、あいまいな幕引きは警察の伝統」と言い切る。”また、
”一九九八年春、熊本県警の元警察官が自ら保管していた副署長時代の「裏帳簿」を基に、県警の裏金づくりを報道機関などに詳細に証言した。内容は、多数の道警現職幹部・OBらが北海道新聞に証言した内容とうり二つである。ところが裏帳簿の実物まで明らかにされたにもかかわらず、県警側は疑惑の否定を続け、熊本まで足を延ばした会計検査院の実地検査も、疑惑解明には至らなかった。 ”
米映画では、大統領のスキャンダルであっても公にすればその後はマスコミや政治が公平に処理してくれることになっているではないか。日本では公になっても知らぬ存ぜぬが通用するのだろうか。嘘をつかされた芦刈本部長のメンツはどうなるのか?
現場の責任は事実を明確にし、税金の私的流用に対して謝罪すべきである。しかし、責任をとって処分を受けるのは小野清子国家公安委員長一人でよい。彼女は最高責任の立場にありながら、原田氏が警察の面接に応じず、鉢呂議員の聞き取り調査に応じたことに対して「(裏金づくりの実態を証言するという)問題提起をしておいて、後は何も言いませんでは、あまりにも無責任」と原田氏を批判したことは、その公的な立場をわきまえていないことを明らかにした。
もう一度言おう。現場は、事実を述べることによって処分を免れる。処分をちらつかせることによって、事実が出にくいようでは解明は難しい。しかしTopは責任をとって処分を受けるべきである。特にもみ消しを図るような、あるいは証言を真摯に受け止めることができない者はその責に相応しくない。
封切りされてしばらく経つが、やっと行ってきた。今回はReturn of kingということで第三作。第一作「旅の仲間」の広告を見て、壮大なスケールを感じたので、原作を読んだのが三年前か?原作は第一巻が辛かった。なか
なか進展せず、訳が悪いのかとも思ったが、二巻からはすらすら読めたのでまあよしとした。指輪というのは、持つと使いたくなり、富と力をもたらすという設定から、これは『核』のことだと思ったのは私だけの感想ではないようだ。どうしたら良いのかと思いあぐねた揚げ句、放棄するのが一番良い解決だと思い、同行したのが「旅の仲間」。その最終篇がこの第三作というわけだ。
で、感想はちょっと”ガッカリ”というところ。途中から友情がテーマになったように感じて少し違和感をもっていたのだ。その描写がだらだらと続いたのがガッカリの一つ目。しかし考えてみれば、指輪の放棄は友情のみのなせる業。愛情ではない。何かを成し遂げることは愛情によっては不可能であり、論理による結びつきとしてメインになるのは友情であることに間違いはない。愛情というのはしばしば情緒的になりすぎ、しばしば近親憎悪を呼び起こし、事業を成就させるには相応しくないものだ。すべての自然的な結合をいったん脇において、ある種の盟約による友情こそが必要とされているという現在の状況を心すべき。人は愛の名において盲目になりがちなのだから。とすれば、溶岩流に落ち込みそうになった主人公フロドの回想はどのような意味を持つのか?楽しかった村の生活を思い起こし、生への執着を取り戻そうとさせる演出がよくわからない。
また、原作では長々しく扱われているその後の世界が、ほとんど触れられなかったことがガッカリの二つ目。指輪の放棄は決して悪の終焉ではなかったはず。悪が滅んでも悪の味を忘れられない俗物はなお跋扈し、いつかまた一旗揚げようと機会を狙っているのが後の世界の物語につながる。フロドたちが西の世界に旅立ち、これから人間の時代が来ると宣言したすぐその後から、不安定が生み出され新たな指輪物語を予想させる原作に忠実であって欲しかったと思う。
それにしてもアルウェンはきれいでした。
麻原彰晃に死刑判決は当然。しかし、彼を卑小化しようとはしていないか。不規則発言、部下への責任転嫁、そして沈黙と、確かに公判における姿勢は惨めなものがある。ではなぜそんな惨めな存在に”帰依”することができたのか?
事件後、信者達とのインタビューなどを通じて心理面からのアプローチがなされた。現実は嘘臭く、自分探しの旅に出ていた人がホンモノに出会ったという感覚が共通していた。命のやり取りのないのんびりとした日常が、倦怠感に、そして不全感につながったのだとすれば、その状況は今でも変わりない。それは、戦地に赴く自衛隊のことではない。自分では危険地帯に出向かずに、国際貢献と言いながら若者を送り込む者の事である。そして涙を流す者のことである。
| 年 | 発生日 | 事件 | 内容 |
|---|---|---|---|
| 1989年 | 2月上旬 | 田口修二リンチ殺害事件 | 脱会しようとした信者の首を絞めるなどして殺害した。 |
| 11/4 | 坂本堤弁護士一家殺害事件 | 教団と対立する弁護士の一家3人を殺害した。 | |
| 1993年 | 11/〜 | サリンプラント建設 | サリン生成プラントを建設した〜1994年(平成6年)12月。 |
| 1994年 | 1/30 | 元信者の落田耕太郎リンチ殺害事件 | 教団施設に侵入した元信者の首を絞めて殺害、遺体を焼却。 |
| 5/9 | 滝本太郎弁護士サリン殺人未遂事件 | 被害対策の弁護士の車にサリンを注入、殺害しようとした。 | |
| 6/~ | 自動小銃密造 | ロシア製自動小銃約1000丁の製造を計画、1丁を製造したのみ〜1995年(平成7年)3月。 | |
| 6/27 | 松本サリン事件 | 長野県松本市でサリンをまき、住民7人を殺害、4人に重傷を負わせた。 | |
| 7/10 | 冨田俊男リンチ殺害事件 | 元信者の首をロープで絞めて殺害、遺体を焼却した。 | |
| 12/2 | 水野昇VX襲撃事件 | 駐車場経営者に猛毒のVXをかけて重傷を負わせた。 | |
| 12/12 | 浜口忠仁VX殺害事件 | 会社員を警察のスパイとして、VXをかけて殺害した。 | |
| 1995年 | 1/4 | 永岡弘行会長VX襲撃事件 | 被害者の会の会長にVXをかけ、重傷を負わせた。 |
| 2/28 | 目黒公証役場の仮谷清志事務長監禁致死事件 | 女性信者の所在を聞き出すために、実兄を監禁、死亡させ、遺体を焼却した。 | |
| 3/20 | 地下鉄サリン事件 | 東京の地下鉄でサリンを散布、12人を殺害、14人に重傷を負わせた。 |
十九世紀、二十世紀にかけて自由主義体制も社会主義体制も自由の方向に若干の違いはあるが、どちらも伝統的な束縛からの自由と合理的な思惟の増大が、人類の福祉の増進に取って根本的な条件となるという点では基本的な合意が合ったといえる・・・・として自由の果ての破壊
オウム真理教は日本の伝統の中から生み出されたものであると共に、現代世界の宗教復興のの潮流にも合わせて歩調を合わせて発展してきたものである。
70年代以降に伸長している世界各地の宗教勢力、とりわけ第三世界の宗教勢力は、この近代的自由や合理主義をめぐる合意そのものを問題にしていると考えられる。宗教勢力が根本的な問題として問うているのは、先進国の大都市が代表するような近代的自由の惨憺たる帰結である。
そこにこそ存在するはずの最大限の「自由」から、なぜかくも大量の、悲惨な犯罪と貧困と混乱と退廃とがもたらされたのか。将来の人類の生存を脅かすような浪費と環境破壊が、なぜかくも堂々と進められているのだろうか。これらの混乱と破壊の背後には、無制限の自由の肯定と宗教を軽視する世俗主義があると見なされている。一言で言えば、過剰な自由こそ破壊の源泉なのではないかという疑いがある。
実はオウム真理教も内向的宗教性、或いは現生離脱的・禁欲的な修業生活という形でそのような方向性を指し示しているように見えた。そこには多分、止めどもない性の自由、消費の自由がもたらす混乱や、日本的な自立なき自由の退廃への対抗の道があるように見えた。また、マスコミの面白半分のものが多い報道に真っ向から対抗し、確かな真理の言葉を語ろうとする断固たる精神があるようにも見えたであろう。そこにこそ、この教団が若者にとって魅力的に見えた大きな理由があったのである。
オウム真理教の信徒らの主観のなかでは、この宗教は近代的な自由の限界を超えて未来を切り開く最前線に位置するものだったかもしれない。しかし実際には、この教団こそ近代的な自由の(日本的な形での)退廃をもっとも悲惨な形で体現することになってしまった。オウムの信徒らは現代の若者が自由を持て余している状況を問題にし、その打開を図ろうとする意図をいくぶんかはもっていた。だが、教祖と幹部は自由の重荷の帰結であるニヒリズム、すなわち価値の崩壊と全面的な倫理的混乱に陥ってしまっていた。日本社会において、オウム真理教事件の以前と以後では、「信教の自由」のみならず、そもそも「自由」という互換が大きく変わらざるを得ないであろう。
オウム事件のような衝撃的な経験を経た後の日本社会では、近代的・戦後的な自由主義辺の批判がますます強まっていくと予想される。すでに若者の間では、倫理的規範を失った自由が重荷であるという感情が、相当に強まっていると考えられる。近代が理念として掲げ、学校で最大の価値と教えられてきた「自立」を実現するには何かが必要であるが、マスコミを始めとする一般社会の価値観からはそれは得られないと感じられている。
(後略)
金曜日にあったことらしい。付近にミニパトが止まっていたので不審ではあった。
月曜日になって朝早く、子供の学校連絡網で「暴力団の抗争があったので、登下校には付近を通らないように」と電話あり。新聞の扱いは小さく、その後全国に波及しているなどとは気づかず。
・・・現場は、国道の陸橋脇でこんなところに暴力団事務所があったとは知らなかった。
・・あってもいいのだが、その後の事件で『拳銃』を持っている奴がこんなに多いとは知らなかった。
・何もできないけど何をするか分からない怖さが売り物。脅しきれなくて、実力行使をしては終わってます。自衛隊と同じ論理の筈?
組員刺殺:暴力団間のトラブルか
[2月20日(金)]亀谷容疑者は20日午後7時ごろ、同市東六条南3丁目の指定暴力団山口組系北海道花田会事務所を訪れ、応対に出た組員で北海道花田会の奈良義勝事務局長(61)=同市東十条南2丁目=の腹部を刃物のようなもので刺し、失血死させた疑い。 亀谷容疑者は「昨年9月ごろ、自分の組の者が北海道花田会の組員とトラブルになり、恨みを持っていた」と供述、容疑を認めているという。 亀谷容疑者は乗用車で逃走していたが、同日午前、同署に出頭した。 花田会事務所が入っている建物は、暴力団事務所と金融業の店舗が兼用して使用されているという。
[2月22日 22時13分] 北海道帯広市の暴力団事務所で山口組系組員が刺殺された事件で、帯広署は21日、殺人の疑いで同市東二条南8丁目、暴力団組員亀谷哲也容疑者(29)を逮捕した。
[22日午後4時]東京都豊島区東池袋2丁目の路上で、男性が拳銃で撃たれたと110番があった。男性は左肩や腹を撃たれ、約2時間半後に死亡した。 死亡したのは、指定暴力団極東会系の上田光組員(37)。極東会系組事務所が暴力団飯島会系組事務所と同じビルに入っており、警視庁組織犯罪対策4課は、飯島会への報復を狙った犯人が、間違えて上田組員に発砲したとみて調べている。 調べでは、上田組員は極東会系組幹部を車で現場付近のビルの組事務所に送り車内で待機。トイレに行くため降車したところを撃たれたという。
[2月21日 22時23分 ] 21日午後、東京都内で3件の発砲事件があった。江戸川区では弾が当たって破損したガラス片で、72歳の女性が軽傷を負った。警視庁組織犯罪対策4課は暴力団飯島会をめぐる抗争の疑いがあるとみて捜査している。
[午後3時40分]台東区寿3にある6階建て飯島会事務所の1階車庫のシャッターに拳銃の弾痕6カ所があるのを警戒中の捜査員が見つけた。午後2時半ごろに発砲音らしき音を聞いた人がいるという。
[午後4時半]江戸川区東葛西8の無職女性(72)方から「拳銃の発射音がした」と通報があった。4階建て住宅の2階に銃弾が撃ち込まれ、現場から薬きょう4個が見つかった。室内にいたこの女性は、飛び散った窓ガラス片があごに当たり軽傷を負った。この住宅の隣のビルに飯島会系組員が住んでいるという。
襲撃相次ぎ5人死傷−関東4都県 関東地方など各地で22日、暴力団抗争とみられる拳銃の発砲や襲撃事件が相次ぎ、さいたま市や東京都内では暴力団飯島会系幹部2人と男性の計3人が死亡した。埼玉、栃木の各県では拳銃で撃たれた露天商の男性ら2人が負傷した。 警視庁 などは、北海道 帯広市で20日に飯島会系組員が起こした指定暴力団山口組系組員刺殺事件に対する報復の可能性もあるとみている。
最近帯広の広小路に行って、用事を済ませて出てきたところで10分をわずかに越えたということで、切符を切られる。2点、1万5千円也。もう二度と広小路には行かないでおこうと思うくらいだ。なぜなら路上駐車をしなくては買い物は出来ないからだ。警官は駐車場を探せという。言われてみたので、後で探してみたがほとんどが月極め駐車場。店用の駐車場があるところもあると思うが、簡単には探せない。
前に住んでいた釧路にも
道新によると<【クウェート市8日共同】イラク派遣の陸上自衛隊本隊の第1陣約90人のうち約60人が8日午前8時20分(日本時間同日午後2時20分)すぎ、クウェートから車列で国境を越えイラクに入った。同日午後、日没前にサマワに到着し、オランダ軍宿営地で先遣隊と合流する。>
隊員約60人がイラクの護衛なしで、入国した模様。イラク派遣に要したお金を、現地のNPOに任せれば50(?)万人の雇用が可能とあった。道新によると韓国の徴兵兵士は月2万ウオン(約2千円)の給料が、危険地域への派遣の場合は200万ウオン近くに跳ね上がるというのだから、この話もまんざら嘘でもなさそう。
と言うことで、黄色いハンカチを掲げようかという話しもなし。
派遣兵士の無事を祈る気持は変わりないが、祈りとは何か?すべての手段を尽くした上で、最後に残るもの、それが祈りだと思う。まだ抵抗を尽くしていないことに気がついたから。
派遣兵士を父に持つ高校生の話がテレビに登場。ふと気がついた。巷間盛んな国際協力の話が、実際行われていることとはずいぶん違うのだ。石破長官によると「アメリカは血を流している、見て見ぬふりはできぬ」と派遣自衛隊員を前にして、やくざの話だ。なぜアメリカはイラクで血を流すことになったのか?また、父母の会は軍歌をうたって意気をあげる。何という歌かは、分からない。自衛隊員へのインタビューでは、「誇りに思う」「頑張ってくる」NPOの人達ならば「誇りに思う」というであろうか。日本の果たすべき責任を国民に代わって行うのだという傲りはないのか?
最近の自衛隊の動きに注目したい。
きのう自衛隊のイラク派遣に反対する「1・31十勝総決起集会」というものに行ってきた。30分位遅れて着くとすでに終わりに近く、斉藤弁護士の《箕輪登》の違憲訴訟に賛同する旨の挨拶があった。集会アピールにはほぼ賛成だが、その後のコールには参った。もう少し穏やかに主張できないものか。とにかく主催者発表で1500人。確かにびっくりするほど人は集まっていた。ホールに600人は座り、200人は立ち見。さらに会場外のホールにも200人はいたと思う。発表よりも多いのではと思うが、主催者が少なく言うわけはないので、こんなところか。
その後すぐ、デモ行進に移る。これにも参った。シュプレヒコールというのが辛い。辛いのは分かっていたけど、参加しなくては、話しにならないと思い、黙々と行進。短い距離で拍子抜け、もう少し何とかなりません、主催者さん。我々の良心も満足させるデモ行進というのはないんでしょうか?