漁師の例

純粋の思考と偽の思考

ある島にいると仮定する。そこには、漁師や都会からきた人達がいる。天気がどうなるか知ろうと思って、一人の漁師と二人の都会人に尋ねてみる。彼らはみな、ラジオの天気予報をすでに聞いている。 漁師はわれわれが尋ねるまではまだその意見を決めていなかったとすれば、天気についての長年の経験を元にして、考え始めるであろう。彼は風向きや温度、湿度などが、天気予報のためにどんな意味を持っているかを知っている。そこでさまざまの要因をそれぞれの意味に従って計り、はっきりとした判断に到達するであろう。彼はおそらくラジオの天気予報を思い出し、それを引き合いに出すだろう。しかしそれにしても、まず自分自身の意見が先にあり、それにラジオの天気予報が一致するかどうかを言うであろう。もし違っておれば、彼は自分の意見の根拠を特に慎重に検討するであろう。しかし、ここが本質的な点であるが、彼がわれわれに語るのは、彼の意見であり彼の思考の結果である。

都会からきた二人の客の内の一人にその意見を聞いてみると、彼が知っている事は、天気については良く分からないし、また理解する必要もないと感じている事だけである。かれはただ、「私には解りませんね。ラジオはこう言っていましたよ。」と答える。
第二の人はそれとは違ったタイプで、実際には天気については何も知らないのに、非常に多くの事を知っていると思い込んでいる。彼はどんな質問にも答えなければならないと感じている。彼はちょっと考えてから、「彼の」意見を教えてくれる。その意見はラジオの予報と一致している。彼にその理由を聞くと、風向きや温度でそう考えたと答える。
この人間の言動は、外から見たところでは漁師のそれと同じである。けれどももっと立ち入って分析してみると、彼はラジオの予報を聞き、それを受け入れたということが明らかになる。しかし、彼は天気について自分の意見を持たなければならないと感じているので、他の権威ある意見をただ繰り返しているだけなのを忘れ、この意見は彼自身の考えで到達したものと思い込んでいる。彼はわれわれに示した理由が、彼の意見の前提となっていたと思っている。しかしこれ等の理由を吟味してみると、もし前もって彼が一つの意見を持っていなかったならば、彼はその意見に到達できなかった事は明らかである。それらは実は、偽の理由にすぎず他だ彼の意見を彼自身の思考の結果であるかのように見せかけているだけである。彼は自らの意見に到達したように思っているが、実際には気がつかないままに、ある権威の意見を受け入れているのにすぎない。天気について、彼が正しくて漁師が間違っていることも十分にあり得る事であろう。しかそのときにも、正しいのは「彼の」意見ではない。それに対して、漁師は実際「彼自身」の意見において、間違ったのである。(自由からの逃走エーリッヒ・フロム)

自由からの逃走2006夏

2006夏
自由からの逃走2006夏
06 年8月15日道新
ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムはその著書「自由からの逃走」で「自由」の重さから逃げ出し、ナチズム・ファシズムに自ら身を委ねていったドイツ国民の心理を分析して見せた。もちろん時代や背景は異なるとはいえ、ここに描かれたような円いやせん動作への依存・迎合、思想・思考の放棄と無力感、同調圧力と少数意見への圧迫・差別などの空気が、今の日本社会に広がってはいないか。様々な人たちの見方を伝える。

1土井隆義
近年、アダルト・チルドレンの増加に象徴されるようにトラウマを抱えた人間に魅力を感じる人々が増えている。トラウマの刻印を核とした自己物語を構築することによって、現在の自分の生き方を語ろうとする人々が増えている。このような現象は、トラウマを与えたと解釈される衝撃的な出来事の増加とは区別して考えられるべき事柄である。
仮に、ある人の現在の生きづらさが、過去の出来事のトラウマが原因だと専門家に診断されたとしよう。そしてその診断のおかげで自らのいきづらさの原因が分かり、その苦しみから幾らかでも解放されたとしよう。彼が楽になれたのは、果たして専門家の診断が正確に真理をついていたからだろうか。確かにそうかもしれない、しかしここで重要なポイントは、トラウマをもたらした出来事が真実であったあどうか、あるいトラウマという心的状態が真理であるかどうかということよりも、むしろトラウマと言う心の状態の説明が、現在の水かrの生きづらさを語る根拠として当事者に納得され、そして受容されたと言う点にある。
相談者の心の苦しみから救ったトラウマという専門家の診断は、心の状態の客観的な真理性を表すものというよりも、むしろその説明としての妥当性を有するものと言うべきである。近年、心の傷が人々にもてはやされるのは、自らの生きづらさを語る言葉として、精神医学的あるいは心理学手金説明に人々が強い親近感を示すようになっているからである。
我が国の首相も、靖国神社への参拝を「心の問題」として語るご時世である。日々の生きづらさの説明原理として、社会体制の矛盾や資本主義性の弊害などと言った語彙よりも、自らの心の内面のありかたを描写する語彙の方が、現代人の心性にはフィットしやすくなっている。平たくいえば、その語彙の方が「わかった」という気になりやすいのである。
今日の日本には自由が行き渡り、個人の能力差もストレートに露呈するようになっている。才能さえあれば、かつてのように汗水を垂らして働かなくとも、着想や閃きだけで巨額の富を獲得できる。しかし、その一方でいくら努力しても定職に就けない人々も増えている。ゲーム・クリエイターやキャラクター・デザイナーにどんなに憧れてみても、実際に成功するのはほんの一握りにすぎない。
このような状況下に、私たちの自助努力と自己責任は、構造改革のスローガンとなってきた。そのとき、この自由の重荷から逃げ出す道の一つは、自分が完全に無力な存在になることだろう、自らの主体性を一方的に放棄してしまえば自分の人生に責任を負う必要もない。もしうまくいかなければ、自分の庇護者を非難すれば良いのである。
しかし、人々の間に「大きな物語」が共有されていなければ、かつてのカリスマのように超越的で強力な他者は生まれない。いくら人々が自由の重荷からの逃走を願っていたとしても、その欲望のベクトルが具体的に一致しなければ、ただ一人の人間がそれらを一身に引き受けてくれることはできない。
では、このカリスマをトラウマに置き換えてみてはどうだろう。自分の生きづらさの原因は、すべてそこに押し込めてしまうことができる。このように考えればトラウマに対して依存的な態度を示す近年の傾向は、フロムの「自由からの逃走」の現代版と言えないだろうか。自由の重圧から逃れるために、カリスマに依存するのではなく、トラウマに依存しているのである。
カリスマへの希求も、超越的な存在への憧憬を等しく示している。異なっているのは、カリスマが自己に外在する超越性であるのに対して、トラウマは自己に内在する超越性だという点である。ここに、自己の不安に対してトラウマが有しているもう一つの機能を指摘することができる。
トラウマとは、自らの生きづらさの原因を帰属させるためのネガティブなレッテルである。健全であることが望ましいいことであるとすれば、トラウマの持ち主と診断されることは、いわば病人と言う烙印を押されたに等しく、本来ならば避けたい事柄のはずである。しかし、そのトラウマという烙印を、むしろ積極的に自己アピールとして利用しようとする奇妙な現象が、近年特に目立つようになっている。 ここから察するに、トラウマによる自己の不安の解消とは、たんに責任の回避を意味しているだけではない。トラウマは、自分のアイデンティティによって重要な核を構成する要素になっている。それは能力さえあれば自由に飛躍できる時代なのに、しかし現実には普通でしかあり得ない人々が、少しでも特別な存在であることを自認するためのレッテルの一つになっているのである。
トラウマの経験は、自分のキャラの特別さを語るのに絶好の素材である。個性的な自分の根源や、その本質を探したい人々にとって、これほど魅力的な道具立てはあるまい。その証拠は、社会の軋轢の中で探す必要はなく、ただひたすら自らの内面を過去へと遡っていけばよいからである。こうして普通であることに生きづらさを感じる人々は、トラウマを探して自らの過去を積極的にさまようことになる。

道新2006/8/18

鈴木邦男

こんなにも人々は愛を求め、愛に飢えているのだろうか。また、愛さえあれば全ては解決すると思っているのだろうか。愛は優しいだけではない。執着、独占欲にもなるし、凶暴にもなる。愛ゆえの争いや犯罪だって日々起っている。
国への愛もそうだ。愛ゆえに戦争さえ起きる。危険な側面がある。しかし、誰も愛国心に正面から向き合って考えない。「愛国心を持つのは当然だ」と言って済ませている。「そうだ、そうだ」と拍手する国民も多い。さらに、「もう暗い過去の話は聞きたくない。明るい話だけ聞きたい。この国に誇りを持ちたいのだ」と言う。あの戦争は正義の戦争であり、やむを得なかったという。朝鮮、台湾を植民地にしたことも正しかった。日本は何ら悪いことはしていない。そう言って、胸をはる。国を弁護し、美化することにより自分も美化されると思うのか。
三島由紀夫は小説「青の時代」の中で、こんなことを言う。「あらゆる愛国心には、ナルシスがひそんでいる」。愛国心に酔う人は、愛国心を持つ自分に酔っているのだ。「こんなにも純粋に国のことを考えている。こんな自分は何て素晴らしいのだろう」と。
愛国心は反省を忘れ、過去を美化しがちだ。大体、あの戦争はやむを得なかったと弁護することは、将来同じようなやむを得ない状況になった時はまた、戦争をやるということだ。それでは歴史から何も学んでいない。
日本は元々、言挙げしない国だ。そして謙譲の精神、寛容の精神の国だ。朝鮮、中国、欧米の文化を無制限に受け入れ咀嚼してきた。そんな日本に誇りを持つ。西欧列強の真似をして傲り高ぶり、植民地まで持った日本は、本来の日本ではない。
謙虚な日本には、愛国心という言葉すらなかった。これは明治になってから入ってきたPatriotismの翻訳だ。外来語だ。しかし一旦入ってくるとこの外来語は人々の心を突き上げ、あおり立てた。愛国心というからには心の問題の筈だ。しかし声高に叫ばれることにより強制力を持ち、巨大な力になる。また、この言葉を使うことで国家と一体になれると人々は思った。
今、韓国や中国が日本を批判すると自分が批判されように思い、「韓国・中国になめられるな」と叫ぶ。また、「北朝鮮なんか攻めてしまえ」と言う。そんな若者が急増した。
思考停止だ。マスコミも悪い。政治討論番組も悪い。声が大きくて、断定的に物をいう人間が勝つ。もてはやされる。「ちょっと待てよ」と言ったり、理想や夢を語る人は潰される。物事を単純化し、大声を上げられる人間が受け入れられる。その方が聞き手にとり気持ちがいいからだろう。どこまでも愛国心は保守的だ。このありのままの日本を愛そうとする。どんどん保守化し管理化する日本を愛している。これだけ管理化された日本なのに、安全さえあれば自由なんて捨てていい。そこまで思っている。いや、思わされている。
昔は愛国心についてもっと自由な、開かれた議論があった。学生時代、全共闘や左翼は「愛国心なんかがあるから戦争になる」と言っていた。「国旗・国歌を作り、愛国心を煽って国民を無理にまとめようとする。だから戦争が起る」と。そんな馬鹿なと思いながら、そんな面もあると思った。サミュエル・ジョンソンは「愛国心はならず者の最後の避難場所である」と言っている。いやな言葉だが、世の「愛国者」達を見ていると、確かにそんな面はあると思った。
今、そうした開かれた議論はない。あるいは1972年の連合赤軍事件のせいかもしれない。あれで左翼は終わった。また、理想や夢を語り、世界のこと、政治のことを語るのは危ないと思われた。そんなことを考えるからあんな犯罪になったのだ。そんなことを考えるな、という風潮になった。そして若者は自分のことだけ考えるようになった。せいぜい自分の友人くらいだ。奇妙なことに、それが安易に国家に結び付く。一体感を持ち、「国益を守れ」という。自分のエゴが国家のエゴに結び付く。それが愛国心だと思い込む。愛国心も落ちたものだ、いやな風潮だ。

(2)
吉田司
自由からの逃走
2006/夏8/16
「不安の時代」に台頭する国家主義

神奈川・平塚の「猟奇五遺体」事件や秋田の連続児童「殺人」事件が起きた時、メディアは日本はいまや〈殺人列島〉だと悲鳴を上げた。ホリエモンや村上ファンドらの六本木ヒルズ族の『稼ぐが勝ち』哲学や敵対買収が大手を振り。それに日銀総裁までが関与していたと分かった時、これはもう日本はまともな社会ではない、「額に汗して働く者が馬鹿を見る」世の中だと嘆いた。それに加えて、私たちはデフレ不況の「リストラ・自殺者三万人時代」や「地方商店街の無惨な「シャッター街現象」からなお脱出できていない。それどころか、フリーター・ニートの「下流社会」化ー>働けど浮上できない絶望的「ワーキング・プア」の派遣・請負の若者労働など、勝ち組・負け組の「格差社会」化は拡大する一方だ。
さらには団塊世代の大量リタイア・年金大崩壊といったブルーな『ニッポン老人大国』化の中で、これからの日本人はどういう目標や生き甲斐、思想や信条を持って生きて行けばいいのだろうか。それが見えない、分からない国民「大不安の時代」の到来なのである。国全体が怒りっぽく、物事に理性的に対応できない一種の精神的「躁鬱病(ラビット・サイコラー)」に陥っているのではないかと思う時がしばしばある。
こうした社会荒廃現象は、90年代バブル崩壊によって安定した会社共同体の中でのサラリーマン「総中流」文化が破綻したことから生じている個とは明らかだが、小泉政権はこの破綻と不安に応えるようなセーフティネットの構築はほとんどやっていない。逆に靖国参拝では「アジアの孤児」化し、ブッシュ米国では「プレスリー外交」でピタリ寄り添う《脱亜入米》に舵を切る。安倍官房長官は北朝鮮ミサイル連射に「敵基地攻撃論」で応え、金正日とガチンコ勝負戦ばかりの勢いで、かえって国民は戦争への不安をかき立てられる。戦争になったら頼りになるのは国家(軍隊)だけですよ・・と誘導しているわけでもないのだろうが、安倍官房長官の最新刊「集団的自衛権」(改憲)の必要性が繰り返し説かれている。 というわけで、現在メディアや市民の間でも「共謀罪」(治安維持・言論統制)の国会審議などと合わせて、日本が戦前の暗い〈軍国主義的な時代〉に回帰するのではないかと懸念する空気が急速に広まっている。確かに、これから始まるのは、経済主義(企業共同体)から国家主義(愛国、愛郷などの精神的共同体)への転換であり、その支柱としての〈軍隊解禁〉だ。しかし間違えてはならない。それには必ずしも単純な「戦前回帰」=東条英機軍国主義のような”過去の亡霊”が甦るという意味ではない。
私たちはもうあの戦前の稲作民族型〈大和民族〉の全体主義に戻ることはない。戦後六十年、日本はひたすら「総中流」サラリーマン都市国家への道を歩み続けてきた。アジア侵略戦争の最大要因とされた戦前暗黒の飢餓農村問題は、戦後平和憲法体制下の経済大国化でなんとか克服してきたのである。さらに考えてみれば、この経済大国化をリードしたいわゆる官僚統制型「護送船団方式」(終身雇用・年功序列)は、戦前「満州国」の計画経済や戦時統制経済(1940年体制)をそっくりそのまま継承したものである。とすれば、戦後日本の実態とは、上半身が戦力放棄の平和憲法で下半身は戦前と連続したファシズム経済という、奇怪なケンタウルス(半人半馬)体制を取っていたことになる。つまりついこの間「護送船団方式」が崩れた。その時まで私たちは或る意味「戦前を生きていた」とも言えるわけである。言葉を変えれば、今漸く戦前が終わった=戦前の財産を使い果たしたのである。いまさら「戦前回帰」(東條軍国主義の復活)をモデルにするメリットは何もない。
モデルがあるとすれば、それはむしろ「戦後回帰」=60年安保で岸信介が軍事解禁を夢見た〈大軍事産業国家〉ビジョンであろう。岸信介の血を引く安倍官房長官が小泉後継政権として呼び出されている歴史的意味とは、それだと私などは考える。岸信介は戦争末期「早期終戦」論に立ち東条内閣を倒壊させた男だーーその意味でも岸・安倍路線の国家主義は、東條軍国の復活を意味しない。なら、日本人は安心か・・と言ったら、そうはいかない。安倍氏はこう主張するからだ。「米国との同盟は不可欠であり、米国の経済力、そして最強の軍事力を考慮すれば日米同盟はベストの選択なのである」(美しい国へ)。そしてそのいまのブッシュUSAこそ《二十一世紀型デジタル軍国主義》のお手本みたいな国だからである。最新刊「ニューヨークタイムズ神話」にはこうある。「アメリカ対外政策の軍国主義化も進んだ。2005年会計年度のアメリカの軍事支出は4000億ドルを超える。これは全世界の軍事支出の40%にあたり、いわゆる『ならず者国家』の軍事費合計の二十八倍以上にあたる」
そう、つまり私たちは戦前の稲作民族型軍国主義には戻れない。しかし三兆円「米軍再編」を通して二十一世紀型デジタル軍国主義に汚染されることなら、今すぐにでも出来るのである。油断できない転換期のこれからだ。

(5)

セキュリティ追及の社会

国家の保障に幻像

自由について考える際、十九世紀の社会科学では、人々は常により多くの自由を求め、権力を嫌う筈だということが前提にされていた。自由と権力とは対立関係にあり、権力をできるだけ小さくし、自由を極大化することが望ましい、という考え方が広く共有されてきた。そうした発想が自由主義(リベラリズム)の根幹にあるが、少なくとも学問の内部では、自由主義が主流派であり続けてきた。
憲法の役割をどう捉えるかについても、立憲主義的な考え方が有力である。通俗的な立憲主義の憲法観によれば、国家権力という強大なものは暴走しがちであり、それによって個人の権利が侵される危険性があるので、そうならないように、国家権力をあらかじめ制限する規定として、憲法を作るのだ、という事になっている。この考え方が、自由主義と深い関係にあることは明らかだろう。
しかしながら、今日人々はそこまで自由を大切にしているようには見えない。監視カメラや道路でのNシステムなどの普及によって個人がどこへ行き、誰と会っているかを第三者や当局に知られる可能性が高まっているが、犯罪防止などセキュリティの利得がある限り問題にしないという人々が多い。戦争反対などのメッセージを落書きしたり、そうした内容のビラを配ったりした人々が狙い打ちで逮捕・立件 される事件が相次いでいるが、思想・表現の自由を脅かす動きへの危機感も薄い。
言論の自由や思想の自由といったものは、元来社会の大多数の人々が関心を持つようなものではないのかも知れない。弾圧は、通常は政府に批判的な少数意見に対して行なわれるものであり、従って知識人や社会運動家が主たる対象となる。社会が本当に全体主義的になってしまえば、より広い範囲の人々の自由が脅かされるようになるが、その時にはもう、自由について語ること自体が不可能になっているだろう。
近代政治思想を開拓した十七世紀イギリスの思想家ホッブズは、人々は何よりもまず自らの生存と生活に関心を持つものであり、それを守るためには進んで自由を国家に差し出すという考えを示した。しばしば誤解されているが、ホッブズは人間は生まれつき悪であるという性悪説を説いたわけではない。単に自分自身にとっての最善を図っているに過ぎず、特に邪悪な性格を帯びているわけではない。しかし、社会が進むべき方向に着いて意見が一致しない時、人々の行動は互いに衝突し、収拾のつかない混乱に陥るとしたのである。
多元性はコンランの元であり、一定かが安定につながるというホッブズの洞察は、いわば本音の政治思想として一貫して継承されてきたのではないだろうか。そして、十九世紀以降、講壇やエリートに共有された自由主義思想とは裏腹に、国民の連帯を求め、内部の同室かを無限に志向するナショナリズムが強まることにもなった。
このように、人々が個人の自由よりもセキュリティを求めるとしても、それを一概に責めることは出来ない。十九世紀的な自由主義は、自立した個人の存在を前提にしていた。精神的に何者にも依存しないというばかりでなく、そのような主体性を可能にする条件として、個人が経済的にも自立していることが想定されていた面がある。その意味で、自由主義は、中産階級以上のためのイデオロギイという色彩を持つのである。
これに対し、今日一般の人々が置かれているの状況は、経済的な自立とはほど遠いものである。そのことを何よりも如実に示しているのは、現行の憲法体制の元で社会権が占めている位置の大きさである。人が生存し、人間らしい生活をすることを、われわれは憲法上の権利と考えているが、これはすでに国家が極小化することを求め魚自由主義では説明できない事態である。
国家が単にわれわれを脅かすものであるという想定に立てば、国家にひたすら抵抗するわけにはいかないだろう。かつてフランスの自由主義思想家トクヴィルは、社会的な生活条件の平準化を求める人々は、自由への関心を失い、生活を保障してくれる行政への批判精神をなくし、「柔和な専制」の下に暮らすことになる、と予言した。
実際には、「柔和な専制」は巨大な財政を必要とするので、「小さな政府」を闇雲に求める現在の政治情勢においては実現できない。それにも係わらず、市場の圧力にさらされている人々は、自分たちをケアしてくれそうな国家の幻像を追い求めている。自由を捨て去ることだけが、セキュリティを得るための条件であるかのように。幻想と現実との乖離が白日の下にさらけ出されたときに、本当の嬉々が始まるのではないだろうか。

(9)
佐藤俊樹

騙されているのはだーれ?

世の中を不自由にする力は、いろんなところからやって来る。お金、権力、暴力、差別、不平等・・。そのなかで最近、私が気になるのは視線である。「お前は自由ではない」と決めつけることで、他人の自由はなかった事にする視線。
簡単に言えば、「権威主義」だが、現代の権威主義は意外な姿でやって来るらしい。最初にその匂いを感じたのは、昨年秋の総選挙の時だった。「小泉劇場」や「小泉マジック」が盛んに語られた。自民党の長期低落傾向を吹き飛ばし、衆議院の三分の二の議席を占めたのは確かにある種の離れ業だった。「魔軸」や「劇場」がその巧みさとあざとさの表現だけだったなら、素直に頷けた。
だがそこには別の意味も込められていた。小泉首相のパフォーマンスにまんまと騙された人達がいる、と言う意味である。本来ならば何が本当に自分のためになるかを自分の頭で判断しなければならないのに、それが出来ない人達。そういう意味での、不自由な人達を非難する言葉として、「劇場」や「マジック」が使われた。
しかし本当にそうなのだろうか。あの占拠では二十代、三十代が自民党、というか小泉支持に回り、四十代が民主党支持を手控えた。その結果、地滑り的勝利が起きたと考えられているが、この人達は首相のパフォーマンスに見事に騙された人達なのだろうか。
私は違うと思う。そこには、現在の日本に潜むもう一つの大きな不平等、年齢による不平等が深くかかわっている。
現在、十五〜二十四歳の失業率は10%前後。つける仕事も不安定雇用や低賃金が多い。彼女ら彼らからすれば、構造改革によって安定雇用や年功序列賃金が破壊されるのは、決して悪いことではない。その分、自分たちにまわる雇用も賃金も増えるだろうし、正社員になる機会だって広がるかも知れない。最悪でも、中高年が自分たちと同じ状態になるとすれば、今よりは少なくとも平等だ。
「そんな無茶な」と中高年の人達は思うかも知れない。けれども、少し冷静に考えて欲しい。1980年代後半まで、二十五〜二十九歳の失業率と五十五〜五十九歳の失業率はほぼ同じくらいだった。それが次第に開き始め、去年は二十五〜二十九歳の失業率は6.2%、五十五〜五十九歳は3.6%である。全体平均は4.4%だから、平均の上としたにきれいに分かれた格好だ。今の中高年が若いころは、若者が仕事につきやすい社会だった。それが90年代に切り替わって、今は若者を犠牲にして中高年の雇用や賃金を守っているのである。
これって、やっぱり良いとこ取りではないだろうか。私は60年代前半の生まれ出、切り替え前の世代に接することも多いが、彼ら彼女らが私たちやその上の「団塊の世代」に比べて、能力的に劣っているようには見えない。
だから、二十代や三十代が昨年秋の時点で小泉構造改革路線を支持したのは、冷静で合理的な判断だったと私は考えている。四月の衆議院千葉補選でも、若い世代は小泉自民党を支持したが、民主党の小澤一郎代表の持論は「年功序列、終身雇用は日本のセーフティネット」。そんな政党が若い世代から支持されないのは、当たり前だろう。
いや、もっとうがった見方も出来る。最近は不平等関連でも、若者は駄目だとか、馬鹿だとか、無気力だとかいった話が妙に目立つ。これって本当は、年齢による不平等を隠す仕掛け、目をそらす仕掛けになっていないだろうか。
だとしたら、誰が誰を騙しているのだろうか。若者が騙されているのか?それとも「若者が騙されている」と中高年が自分で自分を騙しているのか。本当に自由に考えられていないのはいったい誰だろう・・・。一度立ち止まって、そこを真剣に考え直したほうが良いように思うのだ。 世の中をこれ以上不自由にしないためにも。

(11) 西部邁

伝統からの逃避の帰結


集団的感情に動かされる「人民」

フリーダムといいリバティといい、「自由」はフレーワード(称賛語)にもブーワード(非難語)にもなる。たとえば「抑圧」から自由であると聞けばよい状態と思われ、「規範」から自由であると見なせば悪い事態と考えられる。そうした「・・・からの」いわゆる消極的自由だけでなく、「・・・への」積極的自由についても同じことが言える。「理想への」自由に対しては激励を与えたくなるが、「放縦への」自由には忠告を寄せざるをえない。このように自由であるということの意味は、それが社会正義として呼吸されてからすでに二世紀が経っているにもかかわらず、状況次第でいかようにも変りうる。 とは言え、自由という日本語(西周による訳語)それ自体は味わい深いのみならず、その意味を確定しやすい類いに属する。つまり「自由」とは「自分(の感情や認識や行為)に理由がある」ということを意味している筈である。だからその「自分の理由』は何に由来するのかと尋ねてみることによって自由の内容を把握することができる。そしてそれは、ライトという言葉をどう解釈するかに直接につながっていく。
ライトは今は「権利」の事とされているが、かつては「権理」(福沢諭吉の訳語)と訳されていた。「理(ことわり)を權る(はかる)」のが権理という事で、それには「理に叶う利」飲みが許されるという意味が含まれている。さらに言えば、物事の道理は「人民それぞれの欲望に宿る」とするのがヒューマン・ライト(人間の権利)の考え方で、他方それは「(歴史感覚を担う者たちとしての)国民一般の伝統精神によって指示される」とみるのがナショナル・ライトの捉え方だ。
前者の人民における「自由の権利」論は、近代二百年に主流の観念であるものの、間違っている。是非もなくそう言わざるをえない。なぜならそれは、「人間はパーフェクタブル(完成可能)である」とみなす進歩主義の思想を軽はずみにも信じ込んでいるからだ。もちろん、後者の「国民の権理」論における伝統精神とて、知性と特性の両面で、決して完全ではありえない。しかし伝統精神には、国民の成功と失敗の歴史的経験が蓄積されており、その歴史は個人の欲望と較べて、より多くの英知を運んでくるに相違ない。
物事の道理とは国民の歴史的英知のことなのだ、そう位置づけておけば、「自由の権利」とは「歴史的英知に収まる限り、利益を自由に追求することが許される」という意味だと判明する。それは歴史的英知こそが国民の自由を制限する秩序だということでもある。自由だけでなく民主についても然りであろう。「民主」とは『民衆の意見」に基づく政治のことに他ならないが、肝心なのは、その意見が目前の流行としての世論なのか、それとも「歴史的英知としての輿論」なのかという点である。それを前者であってよいとするようなリベラル・デモクラシイは、ライブドアの水準に落ちていく。
今の世相において「自由からの逃走」(エーリッヒ・フロム)と形容されて当然の社会現象が多発しているのは、『伝統からの逃走」の自然な帰結なのである。ただし伝統は慣習と同じではない。慣習という文化実態に内蔵されている(良習と悪習を区別するための)価値・規範、そしてそれによって指し示される(現下の状況に実践的に対応していくための)思想・行動の方法、それが伝統という名の「国民精神の形式」なのである。それは一言で言えば、歴史における「持続の効果」に基づいて現在に対して「処方箋」を提示してくれる「予めの規定」のことを意味する。そういうものとしての伝統から逃走すれば 、人間の社会関係が崩れ(失関症)、続いて人間の感情がせせこましいものになり(失感症)、そういう人間失格者達は当面の利益を求めて紛い者の理屈を繰り出す(失語症)仕儀となる。そんな所業は退屈・焦燥の集団感情にしか行き着かない。で、「自由の権利」に奔走する(国民ならぬ)人民は、平成改革とやらがまさにそうであるように、(F・ニーチェの言った)「三つのM」に舞い上がる。つまりモーメント(瞬間)だけのムード(気分)に駆られるムーブメント(集団運動)という地獄の沙汰に、明け暮れする他ないのである。

13野田正彰

反省的思考ない空虚な小泉政治


幼稚な単純化で生活疲弊

五年間にわたる空虚な小泉政治がもうすぐ終わり、再び次の空虚が始まろうとしている。戦前の天皇制、戦後の日米安保体制へと続く中核政治家の二世、三世が「改革」の進行を叫ぶ姿に、空虚がぽっかりと穴を開けている。かつてエーリッヒ・フロムが述べたように無力感と個人の無意味感は、この破壊的で画一的で権威的な空虚に向かって吸い込まれている。
小泉によるブッシュのアメリカへの追随、靖国神社の参拝の繰り返し、北朝鮮拉致問題への対応など、いずれを取ってみても、反省的思考を寄せ付けない単純化が進行した。その結果、国民も内と外、敵と味方という二分法に浸り、ナショナリズムが強くなり、北朝鮮や中国への嫌悪感を投影し、逆に相手が自分たちを襲いかかってくるかもしれないと思い込んだためである。だがそれを反省的に分析する構えは、小泉にも、国民にもない。
たとえば拉致問題を振り返ってみよう。2002年10月、五人の被害者が一時帰国をした時のこと、日本人の多くは五人に成り代わって北朝鮮を攻撃していた。五人がまだ北朝鮮バッジをつけているのに対し、マスコミは洗脳されているからだと解説していた。つまり彼らはマインドコントロールされた者、幼児のように一人前の人格を持たないものであり、親たる我々や政府が子供のためになることは最も分かっている、というわけだ。
しかし彼ら一人ひとりにとって、日本で育った約二十年(人格A)と、北朝鮮で不本意ながら適応して生きてきた約二十年(人格B)とは、連続している。人格Aと人格Bを統合して、これから再び生きていく人格Cを創らねばならない。拉致された事への怒り、絶望、恐怖を乗り越え、次第に北朝鮮社会に適応し、自分の役割をこなしてきた。理不尽な権力に従わねばならなかった屈辱感、罪の意識、そして長い歳月暮らしてきた北朝鮮社会への愛着が混ざり合っている。そんな精神的葛藤を統合するために、個人の充分な時間が必要である。彼らは「待って欲しい」と小さな声でサインを送っていたのに、日本の世論はそれを認めなかった。不当な北朝鮮の二十年は無意味空白であり、それ故に人格Bも無い筈である。ただ人格Aに人格Cを接ぎ木すればよいだけだ、そう決めつけていた。
一年後の2003年10月、地村夫妻は手記を発表している。そこでは「日本に止まることを最終的に決めたのは、結局日本政府が『一時帰国者を帰さない。北朝鮮と毅然とした態度で臨む』とした時点であった。それは家族、友人の思いより日本政府の決断、対応が今後の問題解決の決め手であると確信していたからだった」と述べている。自分たちには判断選択の余地は無いと気付かされたからであった。このような自律を許さない人間関係、あなたのことを思って行っているという善意の押し付け、それに応えること。従うことが人の道だと主張される通俗道徳に、戦後六十年経ってなお私たちは生きている。また地村夫妻は「拉致は戦争の延長、犠牲とも受け止められる」と書き込んでいたが、日本世論は無視した。この国では何を言ってもむだである。ただ単純な一つの見解に従わされるだけだ、北朝鮮も祖国日本もそれほど違っていない、ーーこれが地村夫妻の印象でなかったのか。
その後、横田夫妻の孫を返せという精力的な活動が、マスコミによって逐一報道されてきた。こうなると、どこまでが横田夫妻の意思なのか、マスコミや政府がどれだけ関与しているのか、判断できない。横田夫妻は我が子の拉致とともに、戦前日本の朝鮮人強制連行についても考えることがあるだろうが、そんなことは周囲が言わせないだろう。
こうして拉致で煽られた北朝鮮は何でもする国という憎悪と蔑視は、ミサイル実験でさらに煽られる。北朝鮮に接している韓国政府が、緊張よりも対話を選んでいることの意味すら、考えようとしてこなかった。
歴史の無視、論理矛盾への厚顔無恥、独りよがりが通じる人々を国民と呼び、他を非国民と呼ぶ排除の構え、つまり反知性が小泉政治によって急激に進んだ。ここで拉致問題がいかに誘導されていったか分析したように、幼稚な単純化によって私たちの生活がどれ程疲弊したか、検証しなければならない。外国という他者は自分を映すためにあり、不安を投映するためにあるのではないからだ。

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斎藤貴男


掌の静脈パターン人称技術の前面刻々が朝日新聞に載っていた。指紋や目の虹彩をはじめ生体の特徴によって個体を識別する技術(バイオメトリクス)は多々あれど、制度の高さではこれぞ最高水準を行くものだという。麦わら帽子の少女が背伸びして、玄関の読みと力に掌をかざしている大判の写真。<手パス>の大見出しの下には、こんなコピーがあった。
<家に帰った愛ちゃんは、自分であることを証明して中にはいります。可愛い花束でママを喜ばせようとして・・・、(中略)富士通は、この技術をさまざまな場所に適用することで、高度なセキュリティ社会作りを進め、人々の安心・安全な暮らしを支えます>
バイオメトリクスがインフラになりつつあるらしい。日本郵政公社と三井住友銀行、みずほ銀行の三者が指紋で本人確認するATMを相互開放する計画。山口県美祢市に今春開設される公設民営の刑務所ではミュウ美静脈のデータとICタグが発信する位置情報との組み合わせで受刑者を監視する構想なのだとか。新聞が次々に嬉々として報じた。
効率と安全を標榜するためなら何でも蟻の世界がここにある。監視システムの発達、進展をめぐる近頃の話題には、躊躇や屈託のかけらも帯びてはならないのがトレンドだ。 J
R東日本の電子マネー機能付き乗車券「スイカ」と、郵政省はの郵貯カードとの相乗りが決まった。「スイカ」はすでに流通や航空、ホテル、大手企業の社員証、JR西日本の「イコカ」などとの連携を進めており、来春には首都圏の私鉄やバスの共通ICカード「パスモ」とも結ばれることになっていて、要は誓い将来、カードや身分証明書の機能がすべて一枚に格納されていく予定調和。これらと運転免許証やパスポート、健康保険証などはもちろん、住民基本台帳ネットワークの可動に伴い交付されてきたIC内臓の重機カードとも一体化させたい意思を、すでに内閣府も経済産業省も隠していない。首相の諮問機関である政府税調調査会に至っては、国民一人ひとりに割り当てた十一桁の住基コードを、いずれ納税者番号に流用すべきとする報告書さえ発表した。
何のことはない。住基ネットが審議された1999年の国会で、筆者を含めた反対派が懸念していた事態が丸ごと現実にされつつある。すなわち国民総背番号制度。なんでもかんでも同じICカードで賄えるのは便利でも、逆に言えば人々の行動の逐一がコンピューター・ネットワークを通じて政府と大企業に把握されてしまう道理。街中に張り巡らされた監視カメラ網などと確実に連動していく。
監視社会の完成を批判する"抵抗勢力”は、しかし、もはや絶滅危惧種となった。セキュリティの堅固さを讚える前に、犯罪やテロをおそれる必要の少ない、差別や貧困や侵略を否定する社会を築こうとは誰も考えない。わずかばかりの利便性と引き換えに何もかも見張られここの人生が世の中をしはしているつもりの側の思惑通りに誘導されかねない危険をたとえば筆者はおそれるのだが、多くの人々はむしろ、管理のための番号を与えられた屈辱を、巨大なシステムに認知された歓びに”昇華”させてしまっているかに見える。
富士通の広告に描かれたテクノロジーに守護される「愛ちゃん」の姿はいっそ爽やかと言うべきか。しかして筆者は肉体の特徴を管理する(バイオメトリクス)などという発想自体が許せぬ。人間は家畜では断じてない。 共同通信社が自民党の都道府県連幹事長47人を対象に行った党総裁選に関する意識調査によると、論戦を望む政策課題に「地方と中央を含む格差社会の是正」を挙げる回答が66.0%を占めた一方で、安倍晋三氏の人気が独走していた。ほとんど狂っている。親の七光りだけで世に出ただけの二世、三世ばかりの政党にあって、とりわけ"毛並み"を誇示して今日の地位を得たのに過ぎない人物を支持しておきながら、いったい何を考えているのか。
現代の日本社会の、この調査結果は縮図であるに違いない。どんどん馬鹿になる世の中で、カラッポどもの蛮声だけが、ますますでかくなっていく。小泉純一郎、ホリエモン、亀田三兄弟、石原慎太郎、細木数子、安倍晋三・・・・・。

メタボリック症候群と健康至上主義
佐藤純一
朝日新聞
2006/11/23


診察室で胴回りを測られメタボリックシンドロームの話を聞かされるのに始まり、健康雑誌から一般雑誌・新聞まで、メタボリックシンドロームの話題は尽きる事がない。
メタボリックシンドロームが、これまでの病気と違って、これほど語られることの秘密を医療文化論的に考えると、そこには我が国の医療文化における「ヘルシズム(健康至上主義)」の成熟・普及と、この疾病概念のもつ巧妙さが見て取れる。
リスク型の疾病概念
メタボリックシンドローム(日本版)とは、05年に医学が新たに提起(創出)、国家が活用している疾病概念である。欧米でもメタボリックシンドローム疾病概念は、作られており、「日本版」は肥満・内臓脂肪のリスク評価や診断基準において、そう、〈腹囲基準〉も異なっている。
これは「新型インフルエンザ」のように、特定の症状・病態があり、それを説明しカテゴライズするために形成された「病態型の疾病概念」ではなく、「高脂血症」のように、既存の疾病を引き起こすリスクを、それ自体病気とみなす「リスク型の疾病概念」である。リスク型の疾病概念は、リスクの認定・計算、因果関係設定、病理過程論構成などにおいて、曖昧性と恣意性から逃れる事はできなものである。
この日本版メタボリックシンドロームも、創作発表の当初から、少数ではあるが国内の医師・医学研究者から、また海外の医学学会からも、曖昧性、不確実性、非実証性や臨床疾病概念としての非有効性を指摘・批判されてきた。
一方ヘルシズムとは、人々が健康状態達成しようとすることを、何らかの手段としてではなく、それ自身を目的として、強制されるのでなく、むしろ進んで実践するという社会現象であり、イデオロギーでもある。そこでは、健康それ自体が価値であり、「健康のためなら後すら惜しまない」健康追求と、反価値となる「病気・障害」への忌避・排除がめざされる。ヘルシズムは、我が国では健康雑誌や健康産業が出現した70年代に始まり、00年代になり、我が国の医療文化における支配的思想となりつつあると見ることができる。

お腹で診断、健康追求
このヘルシズムの流れに、メタボリックシンドロームシンドロームという新しい病(概念)が投げ込まれたのである。
「貴方は、自分では健康と思っているだろうが、もう病気なんだよ」。メタボリックシンドロームは奥の人に、こう囁きかける。なにぶん、このメタボリックシンドロームの診断基準を適用すると、40〜74歳の男性の二人に一人、女性の5人にひとりが、「有病者か予備軍者になる」というのだから。 他の「生活習慣病」と比較したときのメタボリックシンドロームの「巧妙さ」の一つに「疑似的可視性」が挙げられる。目に見えないリスクである内臓脂肪蓄積を腹囲に還元し、腹囲85cm(男性)/90cm(女性)以上が、この病気の診断基準の第一段階となるのである。つまり、疾病概念の中にリスクの「疑似的可視性」が入れ込まれているのである。
では腹囲85cm/90c三畳を診断基準にする疾病概念が、人々(非医学者)に提示されたとき、人々はどのようにその疾病の「解釈」を試みるであろうか。「腹囲85cm/90cm以上は〈病気〉なのだ」と理解してしまうことは起きうるであろう。つまり人々の多くは、リスクを日常感覚的に疑似的可視化し、「見えない病気」を太ったお腹に「見える病気」として、見いだすことになるであろう。
腹囲に可視性を求めるのは、医師や医学に頼らず、自分の感覚で自分や他人の病気を診断する行為ともなる。「自分で自分の病気を診断する(できる)」、これこそ、ヘルシズムの基本的性向である「強制でなく、積極的に自ら進んで実践する」ことに適い、ヘルシズムに影響を受けた人々が、自分gメタボリックシンドロームであることを自分で診断し、自分で健康追求行為を通して治療していくという行為が出現して来ることになるのである。
もちろんこの新たな行為の中にも、「病気・障害」を回避・排除する行為は含蓄されており、それは、排除の対象に自らをも含むことになったといえる。