*ロッキード事件(黒いピーナッツ・記憶にございません)
*村上龍 『限りなく透明に近いブルー 』
*タクシードライバー
*アップルコンピュータ 設立
*泳げたいやきくん・北の宿から・名残雪・木綿のハンカチーフ・山口さんちのツトム君
*1月8日 -周恩来 、中華人民共和国 首相(* 1898年 )(毛沢東もこの年)
*1月12日 -アガサ・クリスティ 、推理作家 (* 1890年 )
*5月26日 -マルティン・ハイデッガー 、思想家 (* 1889年 )
60年安保のころ、私は自衛官だった。都内の陸上自衛隊池ケ谷駐屯地の通信中隊にいた。言わば体制側の一因として、デモ側とは反対の立場にいた。
1960年6月15日、樺美智子さんが死亡して、デモにはさらに多くの市民が参加するようになった。自衛隊内部も一段と緊張が高まった。
安保条約が自然承認される直前の6月18日、市谷には出動待機命令が出た。普通科連隊などが治安出動に向けて待機し始めた。デモの様子はテレビで隊員全員が見守っていた。私の周辺では、「デモ隊を鎮圧すべきだ」と興奮する者もいたが、私の考えは逆だった。夜は刻々と更け、部隊の空気も張りつめていた。
こうした中で、中隊長は冷静だった。「この程度のデモに自衛隊の出動は必要ない」と明言した。
後で知るのだが、自衛隊出動を主張したのは岸首相だった。赤城防衛庁長官は首相を抑えたという。中隊長が冷静だったのは、長官の意向だったに違いない。
こうして自衛隊を出動させようとした首相の意図は回避されたが、翻って現在を考えるとき、私は一抹の不安を消しきれない。首相に対抗して市民の側に立てる長官はいるのだろうか(2005/12/28道新読者の声)
スペインで異端者として告発された者の裁判に用いられた方法では真相を確かめるための合理的な手段をすべて排斥した。被告は有罪と見做され、その無罪を証明する責任は被告に背負わされた。判事は実質的には検事であった。被告にとって不利な証人はどんな下等な人間でもすべて証人として承認された。
告発に有利な証人を承認する規則は寛大であったが、弁護のための証人を拒否する規則は厳格であった。ユダヤ人、モリスコ人、下僕等は被告に不利な証言をすることはできても、有利な証言は許されなかった。以上の規則は四親等まで適用された。異端審問所が準拠した原則は、百人が冤罪で苦しむとも、一人の有罪を逃してはならぬというものであった。・・こうした迫害において、教会が採用した法律的方法はヨーロッパ大陸の刑法に悪影響を及ぼした。
異端審問史家リーは『十八世紀の末年に至るまで、ヨーロッパの大部分にわたって、異端撲滅のために発展した異端審問法があらゆる種類の被告を取り扱う常套的方法となり了えたという事実である』と言う。(J・B・ビュアリ:思想の自由の歴史)
ポーランドの映画だと思うが1942年、ドイツの影響を受けた国が長閑な戦争風景が一遍にユダヤ人に過酷な光景に変わって行く様子をとった映画を見た。その時、ファシスト党は
「ユダヤ人の味方は、ユダヤ人より質が悪い」と密告を奨励した。今の日本人なら、何と言うのだろう。愛国的であるという証拠を見せないと発言できない空気ができてはいないか。
救国軍事会議布告
一、銀河帝国打倒という崇高な目的に向かっての、挙国一致体制の確立
二、国益に反する政治活動及び言論の、秩序ある統制
三、軍人への司法警察権付与
四、全国に無期限の戒厳令を布く。また、それにともなって、すべてのデモ・ストライキを禁止する。
五、恒星間輸送及び通信の全面国営化。またそれに伴って、すべての宇宙港を軍部の管理下に置く。
六、反戦・反軍思想をもつものの公職追放
七、議会の停止
八、良心的兵役拒否を刑罰の対象とする。
九、政治家及び公務員の汚職には厳罰を以てのぞむ。悪質なものは死刑を適用。
十、有害な娯楽を追放。風俗に質実剛健さを回復する
十一、必要を越えた弱者救済を廃し、社会の弱体化を防ぐ
宇宙歴788年10月15日、少佐に昇進したヤンは軍立捕虜収容所の参事官を拝命するため、惑星「エコニア」に到着。そこでパトリチェフにあう。脱走兵の捕虜となったヤンとパトリチェフは反乱将校プレスブルグにこう言う。
「私としては、皇帝の聖恩を讚えないとひどい目に遇うような社会よりは、役立たずの腐敗した政治家を公然と罵倒できるような社会の方が好きですね」
「公然とね」
「建前としてはね。それだけでもたいしたものですよ。建前があれば、それを拠り所にしてお偉方を批判することができます。私は建前を最初から馬鹿にしている人を、どうも信用できなくてですな」
東京裁判
サトン検察官:1937年12月日本軍が南京を占領致します前に、南京市内におけるアヘンおよび麻薬の状態は、どういう具合でありましたか?
ベーツ証人:支那事変(1937)以前の約十年間というものは、麻薬が公に売られていることもなく、公然と使用されることもありませんでした。アヘンが使用される場合は奥の部屋で使用され、たいがい老人で、また使用する階級は紳士あるいは商人階級の人達によって使用され、公然と吸われたこともまた若い人達の前で吸うこともありませんでした。
わたしは1920年から1937年まで南京に滞在している間アヘンを見たこともありませんし、その匂いがどういうものであるか見分けることができるようにはなりませんでした。
(関東庁事務官藤原鉄太郎のアヘン制度調査報告によると「南京は一種異なりたる状況にあり。アヘンの売買、煙館の経営等一切行なわれることなく阿片吸引社もほとんど存することなし。今だかつて阿片に関する違犯事項を耳にしたることなし。もし阿片を吸引すること一般の知るところならんか、社会はこれを擯斥し、これと伍するを潔しとせず、その人はために社会的地位を失うにいたるべしという。けだし南京は教育の盛んなる地にして、一般に知識階級多く、阿片の害あるを知る故に、これを吸引するものなきにいたれるなるべし。支那の都会としては稀有のことに属す。」)
サトン検察官:日本軍が占領しておりまする地域における阿片及び麻薬の取り扱いに関して、特別の研究をなさったことがありますか?
ベーツ証人:はい、1938年の夏及び秋に亘って救済事業をしている際に、アヘン及びヘロインについて特別の研究を致しました。多くの可哀想な避難民に対して、行商人がやって来てまずアヘンを、次いでヘロインを摂取すれば疲れが取れ、山を一飛びするような元気が得られるだろうと宣伝しておりました。やがてアヘンの売買は傀儡政権の公益企業のものとなり、アヘンは政府の店で売られるようになりました。また、アヘン窟の広告が南京唯一の新聞、すなわち政府の新聞に載るようになりましたとき、わたしはこれを研究せねばならぬと決心したのであります。1938年11月わたしが数人の友人と共に何ヶ所かの販売所またアヘン窟を訪問しましたときには既に、官設のアヘン窟が175ヶ所、販売所が30ヶ所ありました。
パリ沢村2005/08/23(Tue)朝日新聞
雪解けムードにあったアルジェリアと旧宗主国フランスの関係が再び緊張している。原因はフランスで成立した「植民支配の良い面も学校で教えるように」との法律だ。仏軍による虐殺や独立戦争の記憶が残るアルジェリアでは「抑圧の正当化』と反発が噴出、仏国内でも「歴史への政治介入」と歴史家や教師が反対署名を始めた。
問題になっているのは、アルジェリアなどからの帰還者や、旧植民地独立に反対して仏亡命を余儀なくされた地元住民の名誉回復を定めた法律。今年(05年)2月、成立した。教科書や授業に対する強制力はないが、「学校教育課程で、フランスが果たした有意義な役割を認めること」との条項が盛り込まれた。
フランスの旧軍人や旧植民者の一部にはアルジェリア支配を正当化する声がある。政界には「今の教科書は自国を否定的に書き過ぎている」という意見もある。
法成立後、アルジェリアでは「仏政府は植民支配を正当化しようとしている」という批判が拡大,
フランス国内で歴史家や教師による条項削除の署名がはじまる。「『植民支配をもっと否定的に教えろ』と要求されても、私たちは突っぱねる」という姿勢。
05/06月、ブーテリカ大統領が「植民地主義の犯罪性を否定するものだ、対仏関係を再考する可能性もありうる」と警告。7月、同国議会は非難宣言を採択した。
問題の条項を推進した与党・民主運動連合(UMP)のクリスティアン・バネスト議員は「歴史研究は自由であるべきだが、次世代にどんな教育を施すかは政治が決めること。(植民支配の)功罪の両面を教えるべきだと注意を喚起した」。
内外の批判にドストブラジ外相は「フランスに公式の歴史解釈というものは過去にも未来にも存在しない」と弁明。いまのところ、この条項を受けた教科書作りは進んでいないという。
フランスは1830年、アルジェリアを征服。第二次世界大戦中辛高まった民族自決運動を仏軍は虐殺や拷問で厳しく弾圧した。
1954年にアルジェリア解放戦線(FLN) が結成され、武装闘争を開始。ドゴール大統領は62年、アルジェリア独立を承認した。
90年代以降、アルジェリア独立運動弾圧の真相解明の動きが拡がり、03年3月、シラク大統領はアルジェリアを公式訪問するなど関係改善が進んでいた。
NIK2-J 性能諸元
エンジン 中島誉二一空冷18気筒 1,825馬力
全幅 11.97m 全長 9.35m 全高 3.96m 乗員 1人
全備重量 4000kg
最大速度 高度5,600mで596km/h
連続急降下で796km/hを記録
実用上昇限度 10,760m
航続距離 1,720km
武装、機銃 九九式二号 20mm x4
爆弾 250kg x2
「6月15日夜の国会内外における流血事件は、その事のよって来るゆえんを別として、議会主義を危機に陥れる痛恨事であった。」、で始まるこの宣言は、行為を具体的に考える事をせず、道徳的に考えるという姿勢において新聞報道の任務を放棄したものといえる。また、宣言は新聞社の名をもって発表されたが、新聞社に働く多くの人は事前にこのような宣言が出される事さえ承知してさえいなかったといわれる。このことは起草者である最高幹部の「公器」の私物化であるといえる。
日本が世界に日本人の言葉で話したことは何度もある。明治維新、日清戦争、日露戦争、など。31年の満州事変は、ムッソリーニのエチオピア侵入、ヒトラーのオーストリア、チェコ侵入などの侵略の原形を作った。しかし、民衆の声として世界に向かって発言したのはこの事件が嚆矢ではないか。それは、日本の負け方に因を持つ。一億玉砕を国民に要求してしかもそのその要求の正当性を疑われることのなかった日本国家、至上の価値と思われた日本国家が崩れてその指導の根拠のなさが戦後明らかにされたこと、国家の保護なく各自が各自の才覚において、餓死を要求する国法に抗して窮乏の中を生き抜いたこと、原爆による大量殺人の人類最初の犠牲になったこと、決して戦わないという独自の憲法を敗戦後持ったこと、の四つの事柄が戦後と戦前を区別しているのではないか。
(米財界、政界に三万部配付)
「5月19日の夜、彼ら共産主義者の手先は、政府を挑発して警官を議院内に導入するように最善をつくせ、と野党を唆した。」「新聞の先導がなかったら決してデモに参加することもなかったような無邪気な市民達は、警官と闘う暴徒と化した。・・・これが起ったままの事実である。アクティブな共産主義者の手先が、まず警官と小競り合いを起こす。ひとたび小競り合いが拡がるや、彼らは無邪気な市民や学生が警官と闘うのを祖のままにして逃げ去ってしまう。」(御手洗辰雄)
「安保強国採決の手続きには何の違法性もなかったのだ。」(木内信胤)
「それにも関わらず岸政府が打倒されない限り、議会政治が崩壊するという考え方が、マスコミ、知識人、若い大学教師達によってまき散らされた」「多数党が政権の座にある時になぜ国会の疑似がAのように混乱するのか、アメリカ人はまったく理解できなかった。」(鹿内信隆)
「われわれだって理解できない」(木内)
「大衆はモッブ心理によって動かされるのだから、全体の事件でマスコミが大きな役割を果たしたのだと思う。新聞は、印刷工場を働かせ、新聞記者に月給を払うために、巨額の資金を銀行から借り入れているし、われわれから広告料を取っているのだ」(永野重雄)
6月15日。この日も国会周辺には12万人の学生や労働者が集っていた。
学生デモ隊は通用門で警官隊と真正面から対峙していた。正面突破を図った。そして警官隊もまた、通常の制服にヘルメット、いわゆる「機動隊」の戦闘服ではない。そこは互いに暗黙の了解ができていた。人間がまだ人間らしい、そういう時代であったのだ。だが、異様な状況に置かれれば精神は高揚する、それが群集心理というものだろう。
午後5時10分、監視行動を行っていた賛成派の右翼350名のうち、120名の維新行動隊がトラックに分乗して国会へ到着、参院第2通用門で座り込みをしていたデモ隊へ角棒を振りかざしながら殴り込み、一般参加の劇団女優など数十名が負傷。これを皮切りに各所に陣取ったデモ隊が行動を起こした。
国民会議5万人はすでに解散していたが、残った全学連は主流派が9400人、反主流派9670人、主流派は国会を一周した後、午後5時30分、南通用門から構内突入を図り、輸送車をバリケードにしていた警官隊と衝突。全学連はこの輸送車をロープで構外に引きずり出し、いよいよ緊迫度は増していく。その後、南通用門には学生を中心としたデモ隊が続々と集結してきた。警官隊はこれを鉄棒と放水で防御、そして午後6時16分、この日最大の衝突が始まった。
午後6時30分、学生たちはついに構内へとなだれこんだ。午後7時頃、包囲していた警官隊が警棒で実力行使、大乱闘へと発展、そしてこの混乱の中、東大生、樺美智子が死亡した。「女子大生が死んだ」というニュースはあっという間に現場をかけめぐり、学生たちはいったん引いたあと、再び構内へ突入、警官隊が包囲するなか、抗議集会を開き、1分間の黙祷を捧げた。その後も各所でこぜり合いや放火を繰り返しながら夜明けを迎えた。
60年6月10日アイク訪日の予備調査に日本を訪れたハガティ新聞関係秘書が空港の通路上でデモ隊に取り囲まれて、一時間十分にわたって立ち往生した。最終的にヘリコプターで脱出に成功した。
ハガティ「デモが専門的な阻止記者達によって綿密に計画されたことは明らかでした。われわれが乗っていた大使館の自動車に石を投げ、窓を壊し、タイヤを切り、そして車を転覆させようとしながら、インターナショナルを歌っていたことから察すれば、この人達は日本に対する忠誠心さえも持たない人達であると思われます。」
ロンドンタイムズ・ウィークリイ「目撃者の証言によれば、そこには一人の警官も居合わせなかった。それで、デモ隊が望みさえすれば、乗客の身に酷い危害を加えることもできたのだ。しかし事実は、デモ隊はドアを開けようともせず、ただ自動車をひどく破壊したのだった。」
60年5月6日、フルシチョフ首相は、ソ連最高会議で自国の領土内深く進入したアメリカのスパイ機を撃墜したこと、およびアメリカ政府内に東西首脳会談(この二週間後に予定)を壊そうとする勢力が存在することを非難した。
「ソ連に対する空からの挑発が続くならば、ソ連はその飛行機を撃墜すると共に、その基地に対してロケットの矛先を向ける」と日本(海外基地に七機の内、日本に三機)に警告した。
アメリカはこの非難に対して、かえってその柔軟性を失い、自由主義陣営か共産主義陣営か、敵か味方かという論理の単純化で答えた。
「民主主義のルールを守れ」という声は、共産主義にとって有利であるとして「敵」に見立てられ、「国際共産主義者の陰謀」が背後にあると判断された。
米軍ヘリが数人の兵士を降ろしていった。一人が、南ベトナム解放戦線女性ゲリラ、バイ・モさんが仕掛けた地雷の真上に座った。彼女は同僚のゲリラと塹壕の中から様子を窺っていた。
66年4月頃、サイゴン北西約70キロのクチ。モさんは18歳。
米兵三人が、地雷の上の兵士を囲むように、座った。真ん中で兵士はポケットから手紙と写真を取り出すと読んで破り捨てた。そして泣き出した。周りの兵士も泣いた。
モさんは地雷の点火装置を押せなかった。同僚に急かされたが押せなかった。
米兵は立ち去った。千切られた写真には赤ん坊と母親らしい女性が写っていた。
上層部の前で叱責された。でも、「可哀想だった。米兵も戦争に駆り出された普通の人だ」--懸命に抗弁した。
1945.9:「ベトナム民主共和国」の独立を宣言。ホー・チ・ミン初代大統領に。
54.05:ディエンビンフーの戦いで、仏軍敗れる。
54.07:ジュネーブ協定で北緯17度線が軍事境界線に。
55.10:米国の後ろ盾で「ベトナム共和国」発足。
60.12:南ベトナム民族解放戦線(NFL)成立。
62.02:米国がサイゴンに援助軍司令部を設置。
65.02:米軍が北爆開始。
68.01:テト(旧正月)攻勢
69.06:解放戦線が南ベトナム共和国臨時政府を樹立。
73.01:パリ和平協定成立。米軍が撤退へ。
75.04:サイゴン陥落、ベトナム戦争終結。
76.07:南北統一選挙を経て、国名を「ベトナム社会主義共和国」に。
05年4月29日のBSで、イラクで息子が戦死した母親が、軍人会に出席したローラ・ブッシュ夫人に、なぜあなたの子供たちは戦争に行かないのと問い詰めようとするや、カメラの前で逮捕される。アメリカは志願制で、志願する人達は学歴がないか、仕事がない若者が多いという現実からすれば、無茶な意見のごり押しだ。アメリカは自由の国だからで、志願するのもしないのも自由であり、他の方法で国に忠誠をつくすこともあり得るからだ。母親のように叫び、逮捕される日も近い。
蟄居中のヤンの命令で、地球を探索にいく途上、コーネフの船上で。
コーネフ:規模の大小を問わず、一宗派が政治権力を掌握している政教一致体制をとれば、信教の自由など認められるはずがない。地球教徒でなくては生きていくの困難な社会体制ができ上がっていると見るべきだろう。「そもそも宗教というのは、権力者にとっては便利なものさ。人民の味わうすべての不幸が、政治制度や権力悪のせいではなく、彼ら自身の不信心のせいだと思い込ませれば、彼らは革命を起こそうなどと考えないだろうからな。」
ユリアン:宗教を否定しようとは思わないが、宗教組織が権力を欲するのは、絶対に否定されねばならない。それは人間の外面のみならず、内面をも支配する最悪の全体主義となるだろう。価値観の多様さとか、好みの個人差とかは排され、唯一絶対の存在を受け入れる事だけが、人間に許される知的活動になるだろう。そして事実は神の代理人と自称する人物が無制限の権力を振るって、「神を信じぬ者」達を殺しまわるだろう。
軍人を志望していたユリアンに、ヤンはかつてこう言ったことがある。
「ユリアン、お前が軍人になると言うのなら、忘れて欲しくないことがあるんだ。軍隊は暴力機関であり、暴力には二種類あるってことだ。」
「いい暴力と悪い暴力?」
「そうじゃない。支配し抑圧するための暴力と、解放のための暴力だ。国家の軍隊という奴は・・・・。」
「本質的に、前者の組織なんだ。残念な事だが歴史がそれを証明している。権力者と市民が対立した場合、軍隊が市民の味方をした例は少ない。それどころか、過去、いくつもの国で軍隊そのものが権力組織と化し、暴力的に民衆を支配さえしてきた。」
宇宙歴796年6月22日、軍事救国会議の布く戒厳令の元、スタジアムに集まった20万人を前に、ジェシカは「暴力による支配に反対し、平和と自由を回復させる市民集会」を開く。遅ればせながら、弾圧に向かったクリスチアン大佐とのやり取り。
「何故武装兵が平和集会に出動するのか」
「秩序を回復するためだ」
「秩序を乱しているのは誰か。」
「秩序の何たるかは、我々が決定する。衆愚政治のもとでたがの緩んだ同盟の社会を、正常化させねばならない。無責任な平和論を唱えるやつらが、命がけで者を云っているかどうか確かめてやる。誰でもいいから10人ばかりここに連れて来い。」
「高邁なる理想をいだく市民諸君、平和的な言論は暴力に勝るというのが諸君の主張だそうだが、間違いないかね。」
「そうだ」一人の青年が、震える声で応じた。その一瞬、大佐の手首がひらめき、ブラスター銃の銃床が青年の頬骨を砕いた。
「次の男!」
「あんたもまた同じことを主張するかね?」
「許してくれ、私には妻子がいるんだ。殺さないでくれ。」この男も殴って、襟首をつかまえて言う。「死ぬ覚悟もないくせに、でかい口を叩きやがって。さあ、言ってみろ。武器なき平和などあり得ない。とな」
「およしなさい。死ぬ覚悟があればどんな愚かなこと、どんなひどいことをやっても好いと言うの?」
「黙れ。」
「暴力によって自ら信じる正義を他人に強制する種類の人間がいるわ。大はルドルフ(ブッシュの別名?)から、小は大佐、あなたに至るまで。あなたはルドルフの不肖の息子よ。いる資格のないこの場所から出ておいき。」
ジェシカは殴られ、踏みつけられ殺される。その時、爆発するような叫びが起って、一人の市民が大佐に体をぶつける。大佐はよろめきながらも、男の背に銃を振り下ろす。だが、無数の怒号と共に暴れ出した群衆の渦に飲み込まれ、兵士達はビーム・ライフルを打ちだす。これを『スタジアムの虐殺』
という。二万人の市民と1500人の兵士に死者が出た。