火 - 5月 5, 2009
役割
虫の役割、僕の役割
今頃の季節、家の庭には毛虫がたくさんいる。花や草の葉にも、玄関先や階段にも。あちらこちらに万遍なく居る。これらは間違いなく蝶になる。蝶になれば今より随分ましな姿になり、目を楽しませてくれる。メタモルフォーゼだ。美しいものは醜悪なものからも生まれでてくる。毛虫がそんなに醜悪だとは思えないが、一般的には嫌われものだ。皆、種の保存の原理で生きている。なぜ種を保存しなければならないのか、今は考えないが、この大前提は崩せない。種は保存すべきものと決められている。だから虫たちは、毎年毎年キチッと同じことを繰り返す。そこに人間は、異なるパターンを持ち込んだ。そのせいで、地球は壊れ始めた。人間だけが同じことをしない生物だ。そのうち地球は滅んでしまう。これは地球を再生する手順なのかもしれない。人類はそういう役割を負わされている種なのかもしれない。などと先読みまでしたくなる。他の生物に比べ、格段の差を持つその生存力。調和を持って共存できる他の生物に比べ、その力を持ち過ぎた。その生存力が地球を壊している。動物や虫や植物達は考えなくても、自然の中で調和を保ちながら生きて行ける。人間は考えられるのに、調和を乱して生きている。これはきっと考える方向が間違っているんだと子供だって思えることだ。そう言っている自分も化石燃料燃やして毎日生きている。だから僕も地球を壊すために生まれてきた。地球を再生するためには誰かが一度ぶっ壊さないと再生できない。人類はそういう役割を負って進化してきた。ゴールも間もなくです。なんて、冗談っぽくも言えなくなってきているのが哀しい。
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日 - 5月 3, 2009
職人
職人の話
トイレの水洗コックが壊れたので、連休のさなかにも拘らず、昔から世話になっている水道屋さんに来てもらった。仕事をするのは2代目の息子だ。親爺さんも80歳になるが現役で仕事している。今日は2人で来てくれた。2代目が仕事している間、親爺さんと世間話。こう云う人と話をするのは楽しい。近所の他の職人の話で盛り上がった。『あいつは何事も過ぎたから早死にしやがった。だいいち、仕事のし過ぎだよ。それで儲けもし過ぎた。それに遊びもし過ぎた』と・・、他にも、息子の話や、入れ歯の話、警察所長の話と、話は飛ぶけれど、職人と話をするときほど楽しいことはない。皆面白い話を知っている。お上にたてつく反骨精神を持っているから話が面白い。職人は仕事しながら、権力にたてつく精神を鍛えられる。何よりも人間的だ。彼らは生粋のHuman
beingを持っている。こう云う人たちがいるお陰で世の中旨く行っているのかもしれないと、思いながら聞いていた。彼らは本当に優しい。とても人間的だ。 
Posted at 11:32 åflëO
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月 - 4月 13, 2009
水 - 2月 25, 2009
other side
負の時代
最近気がついたことがある。それはこんなこと。1990年代、僕は21世紀は精神の時代がくると予想していた。20世紀は産業革命に始まり物質文明が謳歌された時代だ。車が発明され洗濯機、クーラー、TVとまさにモノの時代だった。モノは世代を超えて伝播されていく。世界中の人々にこのコンヴィニエンスは瞬く間に波及した。そして20世紀後半にはインターネットが世界中を覆った。そして政治的には東西対立の崩壊と目まぐるしく変化して行った。モノという魅力的なものに目を奪われ、それを手に入れることが第一の目的になってしまった。モノの時代だった。違う言い方だと、経済主導の時代。もっとゲスな言い方、カネの時代。その流れで来れば、21Cはまさに精神の時代がくるに違いない。モノより精神。と単純にそう思ってしまった訳だ。そうあって欲しいとかすかな希望も在った。しかし明けて2001年9月11日。この日を境に世界は僕の思っていた方向とまるで違い方へ走り始めてしまった。戦争、テロ、飢饉、不況、地球温暖化、格差社会・・と挙げたらきりなく出てくる。負の時代に入った。「僕の予想は大きく外れたぁ」と2001年以来ずっと思っていた。しかしここへきて、世界経済の崩壊、不況、と負のプレッシャーが身近で現実の問題になってくると、もしかしたら、これは僕の予想した精神の時代への序章かも知れないと思うようになってきた。負という環境が在るからこそ人間は真剣に生き方を思考し、生き残ろうと行動する。こう言う負の時代を経ないと人の意識は変わらない。物質文明の安穏とした時代からいきなりの精神の時代には行かないだろ。追いつめられ、ギリギリになって初めて事の重大さに気づく。それが人間の哀しい所だ。そしてやっと動く。負の時代は必要条件だと思えてきた。最近モノの豊かさより気持ちの豊かさを口にする人が増え、知識人と言われる人たちも精神の豊かさを説くようになってきたのを気付いている人も居るだろう。精神の在りようは個人の意識の問題で、とても個人的なことだ。一人一人の意識の中で提議され、考えられ、自分の生き方に反映させる。とても個人的なのだ。負の時代を生きていくためには物事を一つ一つ考え、丁寧に生きていかないと生き残れない。そういう時代だからこそ、個人の精神のあり方が重要になってくる。21Cは精神の時代になる。僕の予想した通りにね。でも時間かかりそうだ。もっと早く気がつけよ!と思うけれど、僕は何事も遅い。 最近作ったスカルのリング、負の時代にふさわしいからか結構ウケる。そんなに怖くなく、開いた口が笑っているようにもみえるからかも
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日 - 2月 15, 2009
happy
幸せ
何が幸せかって、懸命に打ち込める事をしている時ほど幸せな時間はない。一心不乱に何かをやっている時、すべての事を忘れているよね。そういう時って幸せなんだろうな。「幸せだあ」ってその時思わないけれど、あとで幸せだぁって思える。美味しいもの食べている時とかHしている時とか、欲しいもの手に入れた時とかそういう時の幸せ感って、すぐ消えるよね。そういう消えてしまう幸せ感と言うのは本能を満足させているだけの一過性幸福感というもので、煩悩を満足させているだけなんだ。・・と思う。本当の幸せは自分が一生懸命やった事が反映して人の幸せになる事なんじゃないかと思う。人のために何かを遣る。これが自分の幸せを作る事かなぁなんて最近思っている。周りが幸せになったら、自分も幸せになれる。って教えてくれた人がいたけど、これも真理かもしれないけれど、自分の幸せのためにそれをするんではなくて、ただただ、周りの人のためにしないとだめなんでしょう。自分の幸せを追及している内は大したことできないな。まだまだちっちゃいなぁ つま先に石が乗ってしまったので、今は動けません。取り敢えず此処に居ます。思い掛けないモノに人生を邪魔されてしまいました。けれど今、此処にこうして動かずに立っていると色々なものが見えてきて面白いです。動いていた時には全く見えなかったのに、今は良く見えるんです。一ヶ所にいることも満更悪くないと思い始めました。あなたも立って見ますか。何でしたらつま先に石を乗せて差し上げましょう。という、長い題名の、つい最近作った作品[parallax]
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火 - 1月 27, 2009
水 - 1月 7, 2009
左手
美容師の左手
美容師は左手で仕事をする。髪のカットの出来具合は櫛を持つ左手、或いは髪を掴む左手の指で決まる。左手の傾きや指の反り具合、曲げ具合で出来上がりのイメージは大きく変わってくるらしい。同じ髪形にカットしても毎回微妙に違って仕上がるのはそのためだと美容室“はな”のcaecoさんは言う。私は『その微妙な違いに気がついてしまう敏感な客の一人』だから緊張するとの話に『人が手とハサミでカットしているのだから違って当然だよ』と言ったやり取りから美容師ならではのプロの領域の話が聞けた。 これは、モノ作りの熟練した職人からも同じような話を聞いたことがあるし、私自身、むかし鍛金をやっていた頃左手の重要性を痛感した記憶もある。鍛金も銅版を絞る時の左手の微妙な匙加減が絞りの度合いを決めて行く。右手は金槌を決められて場所に正確に打ち込むだけの言わば機械的な動きに対し、左手は板とその下のあて金との微妙な角度(隙間)を調整する重要な役割を持っている。右手に比べると動きは地味ではあるが数段高度な感覚を必要とする仕事をしている。また、劇作家で脚本家の倉本
聰が以前、TVのトーク番組(徹子の部屋)で左手の重要性についてこんなことを喋っていたのを思い出した。『富良野に移ってしばらくの頃、暖炉用の薪を作っている時に、誤って山刀で左手を深く傷つけてしまった。そのためしばらくは左手が使えない状況になり、左手は使えないがペンを持つのは右手。普通に書けるだろうと思って始めたがさにあらず、初めて左手が重要な役割を果たしていたことに気づいた。』『左手は右手がペンを走らせている時、しっかりと原稿用紙を押さえ、右手の動きをバランスよく補助していることに初めて気がついた。』『左手が機能していないと全く上手く書けない!』まさに、左手は黄金の価値を持っている。地味で目立たないけれど、無くてはならないもの、左手は重要だ。こう考えてくると、すべてが何かしらの役割を持っていると云う考え方が浮上する。それぞれにそれぞれの役割を持ち、バランスよく存在している。目立たないモノも存在感の薄いものもそれなりの役割を持っている。生まれてきたのはそれぞれ何か役割を持っているってよく聞くけれど、自分がどんな役割もっているかなんて、分からない。たぶん分からなくても良いことだと思うけれど、きっと何かの役割は持っているんだろう。そう思っていた方が生き易いかも。 シーサーは家を守る門番
Posted at 10:35 åflëO
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月 - 1月 5, 2009
葉山展
市川治之葉山展-2
来る1月24日(土)・25日(日)の二日間市川治之葉山展-2を開催します。 今回2回目となる制作現場でもある自宅での「市川治之葉山展-2」を開催します。今回も“Parallax”と“in
Motion”のシリーズの小品を中心に展示の予定です。又、ジュエリーブランド
HALYUKI ICHIKAWA
及び、普段プロダクトに関わっている2、3のジュエリーブランドも展示の予定です。私の関わる仕事のすべてがご覧になれる機会となりますので、是非足をお運びください。
Posted at 02:19 åflå„
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金 - 1月 2, 2009
2009
新年
あけましておめでとうございます2009年穏やかな暖かな正月です。今年はどのような年になるのでしょうか、不安感いっぱいの2009年迎えました。 ゆったりと自分のペースで飛んでいるこの鳶のようにゆっくり自分の行きたい方へ進路をとります。今年も宜しくお願いします。2009年1月元旦
Posted at 09:35 åflëO
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水 - 12月
17, 2008
火 - 12月
2, 2008
肩凝る
肩が凝る
この頃、物凄い肩凝り。左の肩だけ凝る。今、こうやって書いていてもさっき事務所に入ったばかりなのに、もうガチンガチンに凝っている。午前中だよまだ。一日仕事して、夕方になって肩凝った、と言うなら分かるけど、仕事始めようと思ったらもうガチンガチン。左の肩に何か憑いているんじゃないかと思ってしまうぐらいだ。最近周りの人に、「何か左肩についてない?」って冗談半分で聞いて見たりもしてる。それとも誰かが、何かを知らせようとしているのだろうか?なんて考えたりもしている。そう考えると、心当たり無きにしもあらずだ。誰が憑いているのか、思い当たる人はいる。線香あげてこよ。と思った瞬間、スーッと凝りが引く。「これってやっぱり。」と思うね。 精神のあり方って、どんなつまらないことからも分析出来る。こうやって、単なる肩凝りから己の精神の未熟さに気付いたり、なんの意味もないような遊びのなかにも、崇高な精神性を見つけ出したりも出来る。要するに、人間ってちょっと内側向けば、すぐにでも精神世界に入れる所にいる。外からの刺激は、内に入ってより大きな意味を見つけ出したり、持たせたりすることが出来る。フレキシブルな視点はその刺激を正確に捉える為の座標になる。どんな刺激にも鋭敏に動ける敏捷性が欲しい。いつの間にか肩凝り無くなっている。憑いていた人のお陰かなやっぱり!取りあえず感謝の言葉は贈っておいた。
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水 - 11月 5, 2008
観念
概念の棚
自分の作品が人の脳にガツンと響くかと言えば、「ウン響くだろうな」と思っている。僕の作品はシンプルだけれど、直接伝わる何かを持っている。合理的であり、数学的であり、時として機知であるといわしむる何かを持っている。「計算して作っているんですよね」とか「科学的ですね」とかよく言われる。が・・僕は計算もしなければ、科学者でもない。ただただ感覚的に作っているだけなのに、見た人はそう感じてしまうらしい。僕の中で作品は始めから終わりまで感覚であり、計算なんかしたことない。こんな話から“人は観念的にものを見ている”という真理が見えてくる。本当に人は自分の中の観念に支配されて生きている。自分の中に取り込んだモノを整理すると、『概念』と言う棚ができ上がる。そしてその棚からひとつ、あるいはふたつと降ろして使おうとすると、もうそれは『観念』と言う新しいものに生まれ変わっている。たぶん、モノに纏る概念を整理棚に収納した時にすでに観念と言うものに変容しているのだろう。僕はこの棚を“観念BOXに入った概念の棚”と命名した。人は観念の枠から永久に逃れられない。僕自身もそういう運命のもとで生きている。観念を溶解する薬でもあったら皆の頭に振りかけてあげたいよ。そうすれば、皆もっと世の中が楽しく見えて来るだろうに。皆子供の時のようにpureな精神と光り輝くつぶらな瞳をもって生きて行けるだろう。今気がついたけど、瞳と言う字は目に童子の童なんだね。瞳は子供のものだったんだ。大人になると瞳じゃなくなるのが悲しいね。ここにも真理が在った。大人と言うのは概念を観念に変えながらその観念の山を築き上げて行く作業を死ぬまで続ける運命にあるのだろう。しかしいくら僕がこうやって、人間は観念の枠から逃れられないと、語ってもそれは、僕が一つの真理を見つけた。というだけで、何の足しにも成らないのは分かっている。でも、見つけた真理を自分の中だけにしまっておいたらそれは見つけたことにも成らない。見つけたら、みんなに教えてあげるべきだ。教えて初めて見つけたことになる。だから先人たちは、形は違うけれど、世に出してきた。だから僕も出す。芸術家や哲学者や科学者だってそうだ。見つけた真理はみんなのものだ。そうやって人類は歴史を作ってきた。僕の作品はシンプルで余計なものは何も無い。点と線しかないと言ったら大袈裟な表現かもしれないけれど、それくらいシンプルに出来ている。だから数学的に見えたり科学的な匂いがする。見つけた真理を表現するにはこの位まで削ぎ落とした方がいい。余計なものが無い方がストレートに伝わる。そう思って作り続けている。終わりは無い。真理の発見のために終わらない方がいい。作品は真理の具現化とは思いたくは無いが、真理の表出という役割は少なからず担っている。こういう真理をこういう形でこんな風に表現した。と言うロジカルな作り方はしていない。・・・が、作り終えた時点でそういう意味もなくはない。という程度でいい。そういう作り方でないと、人の脳に直接ガツンと響く作品は作れない。何故って、ロジカルにモノを作ると、ロジック以上のものは出来ないからさ。感性の領域でモノを作れば、出来たものはロジックを越えたものになる。その越えている部分が脳にガツンと響くと言う訳さ。僕が作るものは、シンプルで余計なものが無いからとてもロジカルに見える。だから数学的ですねと言われてしまう。モノを作るって先へ行くことなんだけれど、こうやって自分もまた、破滅への道を進む運命に加担している。人間ってやっぱりいと哀しだね。人間が死ぬのは進化のエネルギーに耐えることが出来ないからだと誰かが言っていた。そのためには世代交代が必要なんだ。世代交代するたびに人間も少しずつ進化する。肉体だけではなく精神もね。
Posted at 02:47 åflå„
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金 - 10月 31, 2008
ちいせえやつら
本濃研太個展
昨日、本濃研太
さんの個展“ちいせえやつら”をみました。相変わらず、アニマルやおじさんぽい人物や正体不明の生き物やらが生き生きした表情で、画廊空間に所狭しと蠢くようにそれぞれの存在感を発揮しています。初めて本濃研太さんにもお会いしましたが、気さくな性格は作品そのもの、納得いきます。 つぶらな瞳のこのおじさんぽい人物を購入しました。今 事務所の棚の上でその存在感まき散らしています。このおじさん“落ち武者”だそうです。「負け」を知っている男の、何処か憂いに満ちたこの表情、愛せますね。
Posted at 01:23 åflå„
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Published On: 5 05, 2009 05:22 åflå„
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