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ハル•ヤマノウチの舞台活動 | |||||||||||||||
[要約] 東京外国語大学英米語科に在学中英語劇をやり始めたのがきっかけで演技、マイム、ダンスなどを経験。及川広信氏の主宰する<アルトー館>、阿部良氏の<アクターズスタジオ>、安藤哲子氏のモダンダンス・スタジオなどで演技、マイム、ダンスを始める。卒業後ロンドンで通訳、翻訳をやりながら演劇を見て廻ったりするうちにツトム山下の<レッドブッッダシアター>に加わってウェストエンドの舞台でロングランの舞台経験をする。<レッドブッッダシアター>とイギリス、ヨーロッパを巡演、イタリアのスポレトーの演劇祭でイタリアを発見した。'75年からローマを拠点とし、先ずは「芸は身を助ける。」と言う感じでマイムで独演などもしながら演劇の世界に入っていった。折しもヨーロッパにマイムのブームが 起こり、国際マイムフェスティヴァルがイタリアの各地で催されたり、マイムとしてテレビの子供番組やヴァラエティー番組にレギュラーで出演する機会を得た。 イタリア語を身につけるに従って舞台俳優、オペラの振り付けに仕事を広げ、アレーナ・ディ・ヴェローナの「トゥーランドット」の振り付けとマイムで東京でも公演。一方ヨガや太極拳、整体や活元運動を学んで俳優教育の分野での身体表現のトレイナーとしてローマ国立演劇アカデミーなど様々な演劇学校や大学、財団に招かれてワークショプを指導。彼の演劇教育メソッドについては大学の卒業論文が二つ書かれている。 [舞台での俳優として] 1979年Nel'79年、ニューヨークでのイタリア演劇祭でマリオ・モレッティ作フランコメローネ演出のミュージカル「マルコ・ポーロと仲間達」に 出演。 86年、フランス文化センター主催のデュラス・フェスティヴァルにダーチャ・マライーニ潤色の「ヒロシマ・モナムール」のヒロシマ役。 91年ナポリ市立ベッリーニ劇場製作のシェークスピア作「あらし」のエーリエル役。93年まで毎年イタリア各市を巡演。この演技で<コルポ・ディ・シェーナ>新人賞。 98 年ヴィテルボでの<マイムとシアターダンスのフェスティヴァル>で「あらし」のプロスペロー役。カセルタ<ボルゴの9月フェスティヴァル>で「真夏の夜の夢」のオベロン役。 '00年劇団<アブラクサ>の「ファウストの伝説」のメフィストフェレス役でフォリーニョでの<バロック演劇祭>に出演。聖年のための高校生のため演劇として劇団<フロンティエッラ>の「聖なる守護兵>でのサラセン人ハッサン役。 '06-'07年ナポリ市立ベッリーニ劇場製作のシェークスピア作「あらし」のエーリエル役でイタリア各市を巡演。 [マイム、ないしマイムダンスとして] 72年、国際的打楽器奏者ツトム山下の率いる<レッドブッッダシアター>に参加、山下の音楽、演出による"The Man from the East" とともにロンドンのラウンドハウスとウェストエンドのピカデリーシアターでロングラン。翌年 イギリス、ヨーロッパを巡演、イタリアのスポレトーの演劇祭でイタリアを発見した。74年イタリア巡演のためにローマに来た際に<フォークスタジオ>でソロのマイムダンスを演じ、<メッセジェロ>紙のジーノ・ターニなどから好評を得る。 75年、ローマのテアトロ・チェントラーレで自作自演のマイム劇「曼荼羅」を公演。東洋的イメージと輪廻転生をテーマにして好評を得、各地の催しに招待され、ノヴァラの音楽友の会から新人賞を与えられる。 76から79年、マイムとしてのテレビ番組へのレギュラー出演が続く。エンリコ・ヴィンチェンティ演出のサーカスをテーマの「チルコスチューディオ」、エンツォー・トラパニ演出の新しい音楽や演劇を紹介する「コンチェルタツィーネ」、ヴァラエティ・ショー「ストリークス」「チェラ・ドゥエ・ヴォレテ」。以後テレビへの出演は映画のめに限る。 76-77年モダンダンスのグループ<ダンツァトーリ・スカルツィ>に加わってイタリア各地の フェスティヴァルに参加、<グイド・モナコ賞>。 77年アウレリオ・ガッティらとマイムダンス劇団<ミモダンツァ・アルテルナティーヴォ>を結成、若い生徒達との自作自演の「もう一つの世界」はローマの日本文化会館にも招かれる。同じく「イリュージョン」は同年のカセルタでのフェスティヴァル<ボルゴの9月>に招かれる。 この頃のHalの活動を取材したフジテレビがシリーズ<ドキュメント・日本人>の一環として「マカロニマイム親子鷹」を制作。 劇団はローマ市立劇場の児童劇部門のためにマイムダンス劇を制作、公演。その後アウレリオ・ガッティが主宰する<MDAプロダクション>に発展、政府補助金を得てマイムダンス活動を続けている。Halは「水色の浴槽」などのガッティ演出作品に出演してカナリア諸島公演などに参加。 79年アルトゥーロ・アンネッキーノの即興ピアノとの競演でマイム劇「コンサートーミュージックーイメージ」。劇団<ガイア・シエンツァ>とイタリア巡演。 79年マウロ・ボロニーニ演出の「トゥーランドット」で アレーナ・ディ・ヴェローナにデビュー。これが振り付け家としてのデビューともなる。 それ以後アレーナ・ディ・ヴェローナでは83年のジュリアーノ・モンタルド演出の「トゥーランドット」でもマイムと振り付け。この作品は現代のイタリアのオペラ演出としても有数のヒットとなり、ウィーンスタットホールでも公演された後、91年に再びアレーナ・ディ・ヴェローナで取り上げられ、東京の代々木体育館での朝日スーパーオペラとして来日公演、 93年には再びジェノヴァのカルロフェリーチェ劇場、 95年には三たびアレーナ・ディ・ヴェローナで、 96年にはサルデーニャ島カイアリのテアトロ・リリコで、 97年と 99年にはローマのテアトロ・デル・オペラの制作でオリムピックスタジアムでとりあげられた。 80年サンタ・チェチリア音楽院での<女性のための音楽>フェスティヴァルにテレザ・プロカッチーニ作曲「マリオネット」のマイム。ここで共演した8重奏楽団<ソリスティ・ダウニ>と<プーリアでのマイムとクラウン国際フェスティヴァルに出演。 85年アレーナ・ディ・ヴェローナでのヴェルディのオペラ「アッティラ」にマイム出演。演出はジュリアーノ・モンタルド。 96年トレヴィーゾ私立劇場のグラウコ・マウリ演出ヴェルディの「マクベス」の振り付けとマイム出演。北イタリア巡演の後、 98年ナポリのサン・カルロ劇場でも公演。 2000年あたりからマイムとしての出演は特定観客を対象としたものに限る。2000年、<ローマの聖なる路の数々> (le vie sacre di Roma) への出演は自作自演ででは操り人形が糸に気づいて自由になるまで。 2001年RAI衛星放送のためのテオ・エシェトゥー作の「虎と蓮華」はチベットの絨毯の展覧会と組み合わせ、チベットの絨毯のメタフィジックな世界から出たり入ったり。 2002年アッサジョ=リ創設のサイコシンセシス=精神統合の研究所の催す<創造的メデヴィテーション>の集いではチャクラが開いて新しい人間が誕生する時を描く。 2001年<アジアへの旅フェスティヴァル>では劇団<オリエンティ・オッチデンティ>を率いて自作自演のマイム劇「刹那」。 2002年 <カステルジュリアーノのパフォーマンス・フェスティヴァル>で最優秀賞。この頃の作品は「驚きを用いて場所を再発見する」パフォーマンスの要素が強い。 2004年、ローマ市主催<ローマの白夜> で CIESのために異文化と移民の融合をテーマにした「片道切符」の自作自演。 振り付け、演出などの仕事については<ハル•ヤマノウチ 振り付けと演出 >へ。 |
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