ナガサキ、59回目の原爆忌
核実験のこと、「被爆者」のことは書いたので、少し別のことを書いておこう。
テニアンから飛び立ったB29、「エノラ・ゲイ」号はヒロシマの、「ボックス・カー」号はナガサキの地上で、自分たちが投下した原子爆弾の炸裂で、どんな地獄が出現したか、想像もできなかっただろうし、想像しないようにしていただろう。
命令された照準は、地図上の一点であって、そこに人間の姿も生活も、上空から見ることなどできない。
だが、落とされた側のわれわれは、多くの被爆体験を見聞きし、実際に体験していない者でも、その「地獄」をある程度は、身に迫るものとして考えることができる(はず)。
以前、『火垂るの墓』の高畑勲監督の講演を聴いたことがあった。その話の中で、B29による「絨毯爆撃」の話が強く印象に残っている。「絨毯爆撃」というのは、文字通り「絨毯を敷き詰めるように」市街地を焼き尽くす爆撃を指すのだが、高畑さんの話で初めて知ったのは、アメリカ軍はまず市街地の周りに焼夷弾を始めとした爆弾の雨を降らせるのだそうだ。当然、人々は火の海に囲まれて逃げ場を失う。そうしておいてから、住民の上に、「隙間なく敷き詰めるように」爆弾の雨を降らせていったという。すべての都市の爆撃がそうであったかどうかは聞き漏らしたが、アメリカ軍による本土空襲の目的は、都市や施設を焼き払うことだけが目的ではなくて、少しでも多くの住民を殺害するのが目的だったということがよく分かる。同じことは、アフガニスタンでも、イラクでも起きている、とわれわれは想像力を働かさなければなるまい。ベトナム戦争でも同じだったが、「核兵器でさえなければ」という制限が、逆に、それ以外ならどんな兵器も使用できる、とアメリカ軍は考え、ありとあらゆる残虐な「大量破壊兵器」を使っている。イラクでのアメリカ兵の戦死者数が1000人を超えたらしい。だが、アメリカ軍によって殺されたイラク住民の数は、どれくらいになるのだろう。アメリカは、決してその数字を明らかにしようとはしないが、何千人か、劣化ウラン弾などによる被害も含めれば何万人もの人々が犠牲になっているに違いない。しかも、その大部分は兵士以外の、子どもや女性を含めた一般住民であろうと容易に推測できる。ヒロシマやナガサキで、核兵器の人体実験として大量虐殺されたわれわれ日本人は、「大量破壊兵器」を使われる側の悲惨を、どの国民よりもよく知っていると言ってきた。それなら、アメリカ軍の爆撃や砲撃で殺されたアフガニスタンやイラクの市民に対して、もっと想像力を働かせることのできる国民でなければなるまい。だが、果たしてそうなっているのだろうか。記念式典では、「唯一の核超大国」アメリカ市民に対して、初めて「核廃絶」の呼びかけを市長が読み上げていた。それはそれで当然のことだろう。だが、アメリカだけの責任にしてコトが済むほど単純なハナシではあるまい。アホで間抜けなブッシュを大統領にしているのはアメリカ国民であるが、そのブッシュの飼い犬か番犬か手下か奴隷か51番目の州か知らないが、何の主体性もなく追従して、アメリカの爆弾で殺されつづけている人々への想像力を欠いているのは、他でもないわれわれ日本人であることを忘れないために、ヒロシマもナガサキも、忘れてはなるまい。
Posted: 月 - 8月 9, 2004 at 11:09 åflå„